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マリー・アントワネット (ブルボン家の罪を背負わされたハプスブルク家公女)

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マリー・アントワネットの容姿について、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。


 

また、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べた。

 

 

 

1755112日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。

 

ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。

 

マリー・アントワネット1A

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとし、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)との政略結婚を画策する。

 

 

1770516日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。

 

 

結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。

 
 

もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。

さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。

 

 

宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。


 

ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。


その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。

 

マリー・アントワネット4A
 

アントワネットは浪費家で知られ、ギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていたが、ほとんど効果は無かった。

 

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 

ルイ16世
  
ルイ16

王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

 

アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた習慣であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。

 

 

アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。


 

そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。

 

こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。

 

 

1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。この事件は事実に反し、アントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。

 

ヴェルサイユ行進
 

1789714日、耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。

 

パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。


 

しかし、アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。

 

1791620日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。


 

フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。


 

一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、625日にパリへ連れ戻された。

 

この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。

 

 

 

1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。

 
 

息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。
 

シャルル・ルイ
  ルイ・シャルル

 

アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、17931016日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。

 

 

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。

 

 

処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。

 

 

死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。

 

 

ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。

 


 

 

現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。

 

そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。

 

 

また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。




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マリア・テレジア (ヨーロッパ最大勢力を指揮した若き母)

マリア・テレジア

 
 

1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。

 

神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

 

 

さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。

 

マリア・テレジア1
 

マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。


そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト
1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。

 

 

レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。

 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 

フランツ1世
  
フランツ1世

 

父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。

 

 

マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。

 

  

 

1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。

 

これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。

 

フリードリヒ2世
   
フリードリヒ2
 

この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。

一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。

 

 

 

オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。

 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。

 

若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。

 

 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。

 

 

 

1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。

 

 

その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。

 

マリア・テレジア3
 

マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。

 

ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 

皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。

 

 

1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。

 

また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。

 

 

 

 

プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。

 

オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。

 

しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。

 

プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。

 

喪服のマリア・テレジア
 
 

1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。

 

マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

 

 

マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。

 

そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。

 

 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。

 

 

1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。

 

 

 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。

 

 

死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。



ベアトリーチェ・チェンチ (父から強姦されたのに死刑となった美少女)

ベアトリーチェ・チェンチ700x1000


1577
26日、ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。

 

家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼い弟ベルナルドがいる。

 

 

チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。

 

 

ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。

 


 

父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に暴力を振るい、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。

ベアトリーチェ・チェンチ1


ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。

 

その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。

 

 

フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。

 
 

フランチェスコは、美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに至高の喜びを感じていた。

 

 
 

ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えるも、なんの対応もされずに終わる。

 

 

フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の村にある「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という城に住まわせた。

 

 

フランチェスコの快楽を満たしてきた暴力は、告訴された逆恨みから憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。

 

ベアトリーチェ7

1598
年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。


 

怒りと恐怖が渦巻く現場で、ベアトリーチェ達は錯乱状態になり、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔った末の事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。

 


 

警察当局はバルコニーから転落して死亡した傷には不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。

遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。

 

 

フランチェスコの遺体は掘りおこして検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられるが、拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまうほどであった。

 

 

検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。

 


 

殺人の動機を知ったローマ市民が裁判所の決定に抗議したため、処刑はいったん延期されるが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため家族全員の死刑を取り消すことはなかった。

 

斬首2

1599
911日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送された。

 

最初に兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。

続いて義母ルクレツィアが斬首された。

 

そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。

 

まだ幼い弟ベルナルドは、財産の相続権を没収され、家族の処刑をしっかりと見せつけられた上で、死刑は免れ刑務所に戻された。

 

 

 

画家グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。

 

  

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

 

 

その後、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという噂がたった。

 

それはローマ市民のベアトリーチェを救えなかった事への懺悔という、ある種の人間の正義感がゆえに生まれたものかもしれない。



 

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ヒュッレム・ハセキ・スルタン (奴隷の立場から皇后へ)

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1506
年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。

 

ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。

 
 

生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。

 

 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。

 

slaveヒュッレム・ハセキ・スルタン1

奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。

その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。

 
 

買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。

 

 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。

 
 

イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。

 
 

ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。

 

 

ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。

 

奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。

 
 

皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。

しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。

 
 

そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン1

ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ
(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。

 

そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。

 

ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。

 
 

そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。

 

そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。

 

 

ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。

 

 

ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

スレイマン1世
  スレイマン1

この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン
1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。

 

 

しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。

  

大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。

 

 

ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 

後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。

 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 

 

真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。

 

それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。

 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン8

ヒュッレムはスレイマン
1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。

 

しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。


オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。

 

 

スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。

 

 

 

ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。

 

 

ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。


 

ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。

 

このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。

 

 
 

スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。

 

ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。

 

以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。

 
 

この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。

 

 

さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。

 

 
 

奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558418日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン2

ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと
2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。

 

 


 

ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。

 
 

スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。

 
 

これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。




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楊貴妃 (傾国の美女という汚名を着せられた天女の舞)

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楊貴妃が、絶世の美女として後世に名を残したのは、ただ美しかったからではない。

楊貴妃の美しさが中世の中国に多大な影響を与えたからである。


 

彼女はただ愛されただけである。

 
 

けれど、それで、歴史が変わった。

 

玄宗皇帝1
  玄宗皇帝

楊貴妃に多大な愛を注ぐことになる玄宗皇帝は、
8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝であった。

 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

 

科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。

 

極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。

 

 

当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったため、数日で痩せてしまう。

心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。

 

 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。


楊貴妃を愛した男は、そんな偉大なる皇帝である。

 

楊貴妃5


楊貴妃は本名を揚玉環
(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。

 

楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

 
 

その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。

 
 

後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

 

 

 

一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。

 

 

玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。

 

楊貴妃22才であった。


 

その美しさに魅了された玄宗皇帝は、なんと息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにするが、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。

 

そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

 

 

 

745年、楊貴妃は、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を玄宗皇帝に与えられ、公に後宮に入る。

 

 

そして、楊貴妃の一族も一同に大出世していき、これが後々、大きな弊害を生むことになる。


 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛、従兄の楊錡に高い地位が与えられ、3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられて毎月高額の化粧代が支給される。

 
 

極めつけが、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄 (はとこ)の揚国忠は、その後、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 

楊貴妃2

さて、楊貴妃をそばに置くようになった玄宗皇帝はすっかり楊貴妃が生活の全てになっていた。

 
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどで、その髪は艶やかで、肌はきめ細かく、体型はほどよく、あらゆる楽器を自在にこなした。

 
 

また、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その姿はまるで天女のごとく、歌声も天下一品であったと伝えられている。

 

 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、楊貴妃は趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


 

美人は三日であきるという俗言が示すように、歴史上、多くの権力者は当代一の美女をその生涯で何人も見初めてきたが、玄宗皇帝にとっての楊貴妃はその例には当てはまらない唯一無二の存在であった。

 

 

玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。

 

砂煙をあげて走り去る早馬を見た人々は、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていたほどであった。

 

 

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになり、国は大きく乱れていった。

 

 

 

 

752年、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。

 

 

そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。

 

 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、笵陽(北京)方面の軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよぶ大軍であった。                      

 

 


破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安(西安)になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

 
 

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

 

 

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

 

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。

 

楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

 

 

 

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

 

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

 

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

 

 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。


 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 

楊貴妃1
 

国が乱れたのは楊貴妃のせいではなかった。

ただ、賢明な楊貴妃は、国そのものといっても過言ではない皇帝の愛されながら、国のために自分がなにもしていない事、それを罪と理屈付けることの出来る女性だった。

 

 


やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。

また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

 

 

 

現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。

 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説
があり、土を持ち帰っていく者も多い。




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クレオパトラ7世 (世界史を大きく左右した圧倒的美貌)

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後世の人類が絶世の美女クレオパトラと称するクレオパトラ
7世フィロパトルが、王女として生まれたプトレマイオス朝エジプトは、地中海世界屈指の大都市アレクサンドリアを首都におき、ヘレニズム文化の中心として栄えていた。

 

 

プトレマイオス朝は、血族結婚を繰り返し「プトレマイオス」という名の男子と「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」というの名の女子が、兄妹・姉弟の夫婦で王位を継ぎ、共同統治するのが慣例であったが、共同統治でさえあれば男女に限定はされず母娘での女王二人体制も存在した。

 

 

 

 

紀元前51年、クレオパトラ7世が18歳の時、父の遺言とプトレマイオス朝エジプトの慣例に従い、クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が結婚して王位に就く。
 

クレオパトラ7?

この頃のプトレマイオス朝エジプトには、相いれない二つの大きな主張が存在していた。

 

一つは、国民への重税につながる強国ローマへの貢納をすべきでないというものである。

例えローマの侵略によって国家が滅ぼされる可能性があっても、ローマには決して屈しないという反ローマ主義。

 

もう一つは、重税に対する国民の不満が出ようとも、ローマの属国に成り下がろうとも侵略されないように立ち回り、プトレマイオス朝エジプトを生き残らせるという親ローマ主義。

 


 

クレオパトラ7世は父の路線を踏襲するようにローマとの関係を重要視していた。

プトレマイオス13世は側近達の介入もあり、ローマへの非服従を強く主張していた。

 

 

 
 

一方で、ローマはローマで、ローマ内の権力闘争が熱を増していっていた。

ローマとの関係を重要視するクレオパトラ7世は、単純に親ローマではなく、ローマのどの勢力どの有力者を支持するかという難しい選択をしなければならなかった。

 

 

紀元前48年、人類史的な重要度特大級のローマ内戦「ファルサスの戦い」にユリウス・カエサルが勝利する。


敗れたグナエウス・ポンペイウスはエジプトへと逃れて来るが、プトレマイオス
13世によって殺害される。


続いてポンペイウスを追ってきたカエサルがエジプト入りする。

 

 
 

その頃、クレオパトラ7世は、プトレマイオス13世によってアレクサンドリアから追放されていた。

 

 
 

クレオパトラ7世はカエサルとの接触を望むものの、プトレマイオス13世派で埋め尽くされている王宮でカエサルに会うのは不可能に思われた。
 

 クレオパトラ6


そこで、クレオパトラ
7世は自らを絨毯に包んで、カエサルのもとへ贈り物として届けさせる。

 

古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があった。「プレゼントはワタシ」そんな意味にも解釈できる行為である。

クレオパトラ7世は、なんともエロチックなメッセージと共にカエサルとの接触に成功する。

 

 

クレオパトラ7世の美貌、敵の中枢に単身侵入する豪胆さ、危険な目的にさえ遊び心を持たせるセンス、カエサルはそれら全てに驚愕し一瞬でクレオパトラ7世に魅了された。

 
 

カエサル52歳、クレオパトラ21歳であった。

 

 

 
 

クレオパトラ7世が強国ローマの支配者カエサルの後ろ盾を得たことに焦ったプトレマイオス13世は、もともと反ローマ主義でもあったため、カエサルの率いてきた軍を攻撃する。

 

この「ナイル川の戦い」でプトレマイオス13世は溺死した。

 

 

カエサルは、クレオパトラ7世との恋愛関係やプトレマイオス13世が反ローマ主義であることを抜きにしても、プトレマイオス13世を良くは思っていなかった。

 

政治的主張の違いから敵同士として命の取りあいをすることになっても、ローマ人としてローマを想うポンペイウスに敬意を持っていた。

敗走中を外国人に討ち取られたポンペイウスの無念を想うと同情せずにはいられなかった。

 

 

カエサルの後ろ盾を得たクレオパトラ7世は、もう一人の弟プトレマイオス14世を共同統治者にし、女王に返り咲いた。

 

 

 
 

紀元前47年、クレオパトラ7世は、カエサルの子カエサリオンをもうける。


翌、紀元前
46年、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れ、カエサルの庇護のもと目立たぬ形でローマに滞在していたが、紀元前44年にカエサルが暗殺された。

 

 

クレオパトラ7世は、カエサリオンが嫡子のいないカエサルの後継者となることを望んでいたが、カエサルは遺言書で養子であり大甥(妹の孫)でもあるオクタヴィアヌスを後継者と定めていた。

 

 

プトレマイオス朝エジプトを守ろうとし続けたクレオパトラ7世が、ローマ帝国を創造し続けたカエサルの思考を理解するのは難しかったのかもしれない。


守ろうとする者と、生み出そうとする者には、決定的な違いが存在する。

 
 

クレオパトラ7世は、カエサリオンを連れ急遽エジプトに帰る。

 

 

 

 

さて、ローマはカエサルの死により長い混迷に突入していく。

 

紀元前42年、カエサルを暗殺した一人ブルトゥスらと、カエサルに後継者指名されたオクタヴィアヌスらが「フィリッピの戦い」で決戦する。


クレオパトラ
7世はブルトゥスらを支援するが、勝利したのはオクタヴィアヌスらであった。
 

アントニウスとの出会い

オクタヴィアヌス側のアントニウスは、敵を支援したクレオパトラ7世に出頭を命じた。

 

 

クレオパトラ7世は女神アプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって、アントニウスのもとへ出頭した。


そうして、瞬く間にアントニウスを魅惑し、危機を乗り越える。

 

 

 

クレオパトラ7世と人生を添い遂げる事を望んだアントニウスは、妻であったオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、死後はエジプトでの埋葬を希望するなど、クレオパトラへの傾倒にともなってエジプト色が強くなっていく。

 


 

一方、ローマの覇権争いはアントニウスとオクタヴィアヌスによるものとなり、その争いも最終局面に達していた。

 

このオクタヴィアヌスとアントニウスの対立構造は、次第にローマの両派閥による争いというより「ローマ対エジプト」という構図に、アントニウスの振る舞いから矮小視されていった。

 

アクティウムの海戦 


紀元前
31年、アントニウス派およびエジプトの連合軍と、オクタウィアヌス派が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する。

 
 

この「アクティウムの海戦」と呼ばれる天下分け目の決戦には、クレオパトラ7世も自ら主力艦に乗り込んだ。

 
 
 

アントニウス・クレオパトラ連合軍は戦力的には上回っていたものの、両軍が少し交戦したとたんに、クレオパトラの艦隊が突然に戦線を離脱する。

 

 

彼らがどんな人生を歩み、誰を愛し、誰に愛され、そんなことには1ミリの価値もないかのように、男達は獣のように猛り狂って命を奪いあっていた。

 
 

数多の政治的修羅場を乗り越え、数多の殺傷沙汰にも直面してきたクレオパトラ7世であったが、戦場の地獄絵図には怯んでしまった。

 

 
 

さらに、アントニウスも愛するクレオパトラ7世を追って撤退する。

 


指揮官を失った連合軍は、命令系統を失い、烏合の衆と化し、ただただ逃げ惑いながら殺戮されるだけとなった。

 

 

 
 

アレクサンドリアに逃げ着いたアントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報を聞いて自殺を図る。


アントニウス自殺未遂の知らせを聞いたクレオパトラ
7世は、瀕死のアントニウスを自分のもとに連れて来させる。

 

アントニウスはクレオパトラ7世の腕の中で息を引き取った。

 

 

 

そして、追ってきたオクタヴィアヌスがアレクサンドリアに到着すると、クレオパトラ7世はアントニウスの後を追うように、コブラに胸を噛ませて自殺した。
 

クレオパトラ最期
 

オクタヴィアヌスは、クレオパトラ7世の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。


クレオパトラ
7世は、祖国エジプトよりも守りたかった我が子カエサリオンの助命は、女王らしく求めなかった。

 

 

 

オクタヴィアヌスはエジプトを征服し、カエサルの子カエサリオンを無慈悲に殺害した。

 

圧倒的な人気を誇るカエサルの子を生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」として担ぎ上げ、再びローマに混乱をきたすか分からない。


それは当然すぎる処刑であった。

 

 

 

紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトは皇帝直轄地としてローマに編入された。




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アンティパトロス (抜群の政治感覚を備えた老臣)

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アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。


ピリッポス2世が戦闘でマケドニアを留守にする際は、アンティパトロスが代わりに国を仕切り、時には祭事ですらアンティパトロスがピリッポス2世の代理を務めた。



紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


この時、すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任される。



マケドニアに残ったアンティパトロスの日々は決して穏やかなものではなかった。


アレクサンドロス3世の留守を狙って、紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタの王アギス3世が反乱を起こした。


アンティパトロスは戦力を分散させて二つの勢力と戦い続けることを避けるため、トラキアのメムノンは許し、スパルタのアギス3世とは徹底的に戦って反乱を鎮圧する。


アンティパトロスは老獪にアレクサンドロス3世のいないマケドニアを守り続けた。

アンティパトロス

もともとは、アレクサンドロス3世はアンティパトロスの息子だという噂が流れるほどに、アンティパトロスとアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの関係は良好であった。

しかし、アレクサンドロス3世の東方遠征中に、アンティパトロスとオリュンピアスの関係は悪化し、二人はアレクサンドロス3世へお互いを中傷する手紙を書き送るようになる。




紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


アレクサンドロス3世の死後、帝国の実権を握ったペルディッカスによって、アンティパトロスはこれまでの実績もありマケドニア本国およびギリシア世界の管理運営を認められる。


紀元前322年にアレクサンドロス3世の死に乗じてアテナイ・アイトリア・テッサリアが反乱を起こすが、アンティパトロスは老獪にこれらを鎮圧し、その存在感を示した。



その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄する。

原因は、アンティパトロスと不仲になったアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、ペルディッカスに取り入るために自分の娘(アレクサンドロス3世の妹)とペルディッカスを結婚させたためである。


娘に恥をかかされたアンティパトロスは激怒し、ペルディッカスと対立することになる。

ヘラクレア遺跡


アンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけた。


しかし、ペルディッカスはプトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守になった。



アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせる。


しかし、すでに老齢であったアンティパトロスは病を患うと、老将ポリュペルコンを自身の後継者として地位を譲り、死去する。



アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。



見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。

ペルディッカス (猛獣も恐れた豪傑)

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アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の治世で、マケドニアはギリシア世界の盟主となっていた。

しかし、ピリッポス2世が暗殺され、弱冠20歳のアレクサンドロス3世が若き王になると、その機に乗じてテーバイが反乱を起こした。


テーバイの攻撃は激しいもので、マケドニアは一時撤退を余儀なくされる状況となる。

そこで活躍したのがペルディッカスであった。


ペルディッカスはアレクサンドロス3世の命令を待たずに、防御の弱かった敵の防柵に攻撃をかけ、テーバイ市内への突入に成功し、これをキッカケにテーバイは陥落することになった。



ペルディッカスは有能かつ豪胆で、アレクサンドロス3世の信頼が特に厚い人物であった。

ペルディッカスの豪胆さを表す逸話として、ペルディッカスがライオンの巣になってる洞窟に入っていくと、驚いたライオンが仔を連れて出ていったというものがある。

ペルディッカスには猛獣ですら危険を感じるオーラが漂っていた。




マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。

グラニコス川の戦い

ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍は、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定め、エジプト征服後の紀元前331年には「ガウガメラの戦い」で3倍以上の圧倒的な戦力差をものともせず、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡は決定的となる。



ペルディッカスはこうしたペルシア侵攻後の主要な戦闘で重装歩兵部隊を指揮し続けた。
特に「ガウガメラの戦い」では瀕死の重傷を負うほどに勇猛果敢に奮戦した。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍がインドを目指すことになると、ペルディッカスはヘファイスティオンと同様に、別働隊を率いてマケドニア軍本隊の進軍ルートにある拠点という拠点を武力制圧および降伏勧告をして支配下においていった。



アレクサンドロス3世にとって最後の主要な一戦となる「ヒュダスペス河畔の戦い」を経た紀元前325年、町に立て籠るマッロイ人への攻撃にマケドニア軍は苦戦する。

アレクサンドロス3世は軍勢を二手に分け、その片方の指揮をペルディッカスに任せた。
戦場におけるペルディッカスはNO.2として重用されていた。



しかし、ゲリラ戦に消耗したマケドニア軍は、インドを引き返すことになり、紀元前324年にスーサに帰還した。

アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンが病死すると、ペルディッカスはヘファイスティオンの遺体を託されバビロンで葬儀を上げた。





そして、病気で倒れたアレクサンドロス3世は臨終の際に、王の証でもある印綬の指輪をペルディッカスに渡した。

アレクサンドロス3世7
  
アレクサンドロス3世

これにより、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の後継者として主導権を握り、まだ生まれぬ王妃ロクサネの子(アレクサンドロス4世)の暫定的な後見人として、帝国の実質的なトップとなる。


アレクサンドロス大王の死後、当初はこのようにその一族を担ぐ動きがあったが、担がれた者や担がれる可能性のある者はことごとく殺され、徐々に後継者争いは純粋な勢力争いとなっていく。



その後、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟アリダイオスを推すメレアグロスを殺害し、エウメネスと共にカッパトギアの王アリアラテス1世を倒し、自らの発言力と存在感を高めていった。



一方、東方遠征の際にマケドニア本国の留守を任されていた老臣アンティパトロスは、アレクサンドロス3世の死に乗じて反乱を起こしたアテナイ・アイトリア・テッサリアを鎮圧し、ギリシア世界での存在感を増していた。


ペルディッカス

ペルディッカスは自らの立場を安定させるため、アンティパトロスの娘ニカイアと婚約をする。


しかし、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラ(念のために有名なクレオパトラではない)との縁談を、ペルディッカスに取り入ろうとするアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが持ちかける。


ペルディッカスは、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄して、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラと結婚しようとした。



激怒したアンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけ、ペルディッカスへの対立姿勢を明確にした。


ペルディッカスの側には、カッパトギア太守エウネメスなどが味方した。


そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスが奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、埋葬された場所は神聖化する。

後継者を主張するペルディッカスにとって、プトレマイオスの行為は看過できるものではなかった。



ペルディッカスは局地戦の指揮をエウメネスに一任し、自らはプトレマイオスを討つべくエジプトへと向う。


しかし、ナイル川渡河に失敗すると、ペルディッカスの統率能力に不安を感じたセレウコスらの部下によって暗殺された。


それは、猛獣すら恐れる豪傑が、女が原因で失墜した瞬間でもあった。




ペルディッカスの死により、老臣アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守となった。


アレクサンドロス帝国の後継者争いは続いていく。

アレクサンドロス3世 (人類史上屈指の大物にして神々の子)

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紀元前356年7月20日、アルゲアス朝マケドニアの王ピリッポス2世と母オリュンピアスの子として、後に後世の人類が畏敬の念を込めたアレクサンドロス大王と呼ぶアレクサンドロス3世が生まれる。


ピリッポス2世はギリシア神話の英雄ヘーラクレースを祖とする家系とされていて、アレクサンドロス3世はそのことを強く意識しながら猛々しい生涯を送っていく。



アレクサンドロス3世が10代の頃に、高名な学者アリストテレスが教師として招かれ、アレクサンドロス3世は同世代の学友と共にギリシア人として高潔に生きることを学ぶ。


そして、この頃に共に学んだ仲間には親友ヘファイスティオンなど、王になってからのアレクサンドロス3世を支える者達がいた。



ピリッポス2世のもとで急速に影響力を強めたマケドニアを脅威に感じたアテナイとテーバイが同盟を組む、そして紀元前338年、カイロネイア(現 ギリシャ共和国中央ギリシャ地方リヴァディア市)でマケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍が戦う。


アレクサンドロス3世は一軍の将として父ピリッポス2世に従い、初陣でありながらもマケドニアの勝利に大きく貢献する。



しかし、父ピリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス3世は弱冠20歳でマケドニア王を継承することとなった。

アレクサンドロス3世3

ピリッポス2世の死の混乱に乗じてテーバイが反乱を起こすが、アレクサンドロス3世は、それを制圧して再びギリシア世界の覇権を握ると、次は世界の覇権を握るべくペルシアを目指す。



ギリシア世界こそが唯一絶対に素晴らしい。
ペルシアの圧倒的な繁栄と拡大は人類的な間違いである。
それがアレクサンドロス3世の動かぬ信念だった。


この世界を、野蛮なペルシアの支配から解き放ち、栄光あるギリシア文明を広めるのだと、アレクサンドロス3世は強い意志を持っていた。




紀元前334年、ペルシアに侵入したマケドニア軍38000が、ペルシア連合軍40000とアナトリア地方(現 トルコ領内)のグラニコス川(現 ビガ川)で対峙する。


「グラニコス川の戦い」と呼ばれるこの戦闘では、マケドニア軍の主力である長さ5.5m重さ6kgにもなる槍を抱えた長槍部隊が川に阻まれ機能しなかった。


アレクサンドロス3世は、意を決して自らが先頭になって突撃する。

人目をひかないわけにはいかない派手で煌びやかな装飾と一際輝く鎧を身にまとったアレクサンドロス3世は、敵将ミトリダテスを自身の投げ槍で仕留めるのであった。
 
グラニコス川の戦い

この時のアレクサンドロス3世の闘神のごとく鮮やかかつ勇猛な姿は、味方将兵からの尊敬と憧憬を集めた。そして、その噂は広がり、その後の数多の戦いにも大きな影響を及ぼした。


それは偶然の結果論ではなく、アレクサンドロス3世の意図したものであった。
一瞬の勇敢さにさえ人心を操作する企みが含まれている大王の資質をアレクサンドロス3世は備えていた。


アレクサンドロス3世は初めてのペルシアとの戦いで、自身が尊敬してやまないギリシア神話の英雄アキレウスの生まれかわりであることを確信する。




続いて紀元前333年、イッソス(現 トルコ・イスケンデルン)で、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍12万と衝突する。


マケドニア軍は4万足らずと数で劣りながらも、強いカリスマ性をおびたアレクサンドロス3世に率いられ、ペルシア軍は5万人ともいわれる戦死者を出す大敗を喫した。

イッソスの戦い

この「イッソスの戦い」でアレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の母・妻・娘などを捕虜にした。


ペルシア軍が戦場に女性などの非戦闘員を同行させていたのは、マケドニア軍をなめていたからであった。

戦争はスポーツと違ってどんな相手にも全力というわけにはいかない。
 

準備する戦力によって食費も移動コストも大きくなるのが戦争である。

大国がほどよい戦力で小さな敵を迎え撃つのも重要なことなのである。


地図の広さで戦うわけではないが、広大な領土を持つペルシア帝国が侵入してくる敵にいちいち王が出陣するわけにはいかない。
マケドニアとペルシアでは、その国力と文明の発展度があまりにも違った。


ダレイオス3世が「所詮マケドニア」と思っていたことは不自然ではなく、むしろ良い政治的認識であるはずだった。


しかし、歴史が大きく動く時というのは、それまでの正解が不正解になるのかもしれない。


アレクサンドロス3世は、この時の捕虜の中にいた絶世の美女バルシネを愛人にし、そのバルシネは後にアレクサンドロス3世の子へーラクレースを産むことになる。




アレクサンドロス3世は、軍事の天才ぶりをいかんなく発揮しながら、さらにペルシアの支配下にあったエジプトを征服する。


エジプトで将兵達に充分な休養を与えると、アレクサンドロス3世はペルシアの奥深くを目指して遠征を再開する。




紀元前331年、「イッソスの戦い」でマケドニア軍の脅威を身を持って知ったダレイオス3世は、諸説あるが15万ともいわれる大軍を準備した(100万を超えるという伝承もあるが、それは現実的ではなく、むしろそれだけ総力を挙げたという解釈が妥当である)。


マケドニア軍47000は、チグリス川上流のガウガメラで、このダレイオス3世率いるペルシアの大軍と衝突する。


アレクサンドロス3世のカリスマ性に、ペルシア軍兵士は恐れおののき、マケドニア軍兵士の士気は高かった。しかし、勝敗を分けたのは、そういった精神的な勢いだけではなく、実際にマケドニア軍はとても強かった。

ガウガメラの戦い

マケドニア軍兵士は当時では珍しい職業軍人が主軸になっていた。


軍人というのは非生産な存在であるため、生産性が低い時代において生活を保障して日々訓練をさせるというのは困難であった。


そのため、職業軍人を主軸においたマケドニア軍は、命令系統が安定し、戦術遂行速度が格段に速かった。

「ガウガメラの戦い」といわれるこの戦いでは、アレクサンドロス3世の柔軟かつ斬新な指揮が注目を集めているが、それを可能にしたのは日々訓練された兵士達の連携能力の高さにあった。


結果、アレクサンドロス3世は圧倒的な戦力差をものともせずペルシア軍に圧勝した。



一方、総力を駆使した「ガウガメラの戦い」に大敗したペルシア帝国は風前の灯火となった。



ペルシア帝国の中枢に侵入したマケドニア軍は、バビロン(現 イラク・バグダッド)やスーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)やペルセポリス(現 イラン・ファールス)といった大都市で略奪の限りを尽くす。


こうした行為は、ペルシア戦争時(この時代の100年ほど前)に、ペルシアがギリシア世界の誇りであるアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの怨念であった。


栄光あるギリシア世界に傷をつけた野蛮なペルシアに神の鉄槌を振り落とす。

それは、ヘーラクレースの血を引き、アキレウスの生まれかわりであるアレクサンドロス3世にとって悲願であった。

アレクサンドロス3世7

しかしながら、アレクサンドロス3世は、ペルシアの文明の高さを目の当たりにして、徐々に心境に変化が出始める。

さらに、これだけの大帝国を治め、民衆からも慕われていたダレイオス3世という人物に尊敬の念を抱くようになっていった。


そんな折に、逃亡中のダレイオス3世が配下のベッソスに暗殺されたことを知る。

アレクサンドロス3世は、ベッソスを残酷に処刑し、ダレイオス3世を丁重に埋葬した。




その後、アレクサンドロス3世は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、紀元前329年から紀元前327年までに、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)を平定する。

しかし、過酷なゲリラ戦であったため、マケドニア兵士の士気はこの頃から低下していくようになる。


そして、最後に征服したペルシア帝国の地バクトリアで、後にアレクサンドロス3世の子アレクサンドロス4世を産むロクサネを妻に迎えた。



ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世は次にインドを目指す。

そして、その先には世界の果てオケアノスがある。

オケアノスに到着することはアレクサンドロス3世の夢であった。


ヒュダスペス河畔の戦い

紀元前326年、インダス川を渡ってインドに侵攻すると、マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突。

両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘をマケドニア軍は勝利する。


オケアノスを目指すアレクサンドロス3世は、さらなる進軍を目指ししていたが、その先に待ち構えるインド軍が20万を超える大軍と6千頭もの象を用意しているという情報が入る。

さらにこの「ヒュダスペス河畔の戦い」の損害が大きく、兵士達の望郷の念が強くなったため、アレクサンドロス3世は引き返すことを決断する。


夢半ばでインドを後にすると、ゲドロシア砂漠(現 パキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年、スーサに帰還した。



ペルシアの文明の高さに尊敬の念が強くなっていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。


その一環として、マケドニアの兵士と現地のペルシア人女性との合同結婚式をおこなった。

この時、アレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妻に迎える。
 
スーサ合同結婚式

同時に、親友ヘファイスティオンを帝国宰相に任命するが、ヘファイスティオンはそれから間もなく病死してしまう。


ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。

自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。


ヘファイスティオンを失ったアレクサンドロス3世の悲しみは深く、これを機にその行動は精彩さと冷静さを欠いたものが増えていく。

アレクサンドロス3世11

バビロンに帰還したアレクサンドロス3世は、さらにギリシアとペルシアの融合を進めるため、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ、代官に現地有力者を任命した。


このアレクサンドロス3世の行動は、マケドニア人達の目には、ギリシアをないがしろにしたペルシア化と映り、多くの反感をかった。


アレクサンドロス3世は、ここからアラビア遠征を計画していたが、10日間高熱にうなされた末、紀元前323年6月10日に死去した。



昏睡状態のアレクサンドロス3世が印綬の指輪をペルディッカスに託したことから、ペルディッカスがアレクサンドロス3世死後の主導権を握ることになる。


アレクサンドロス大王は超がつくほど短期間のうちにアケメネス朝ペルシアを打倒し、広大な領土を自らの帝国の支配下に置くが、その死後、残された帝国の継承者を巡って有力諸将による勢力争い(ディアドコイ戦争)が起こった。

知っておきたいアレクサンドロス大王に入る前に


もしも、アレクサンドロス大王が存在しなかったなら、我々の住む世界は今とは大きく異なっていた可能性がある。


なぜなら、アレクサンドロス大王がギリシア世界からアジアに持ち込んだものには、文化的な価値観や感性そして美意識といったものも含まれていたからである。



それは今でも我々の心の中にハッキリと自覚できる形で残っている。


例えば、我々アジア人には、かつてアジア人の特徴を色濃く持った独自の美人の基準があった。

ところが、アジアにおいてその美人の基準は大きく変わり、白人の特徴に近い容姿が美人とされるようになっていった。

そして、その感覚は現在のアジア人に深く深く根付いている。

アレクサンドロス大王が存在していなかったら、この感覚がそこまで深いものにならなかった可能性は十分にある。


そして、我々が親や教師から受けた影響の中に、これ以上に揺るぎない感覚はあるだろうか?


我々人類にとってアレクサンドロス大王は、親以上に親であり、教師以上に教師なのである。


良し悪しは別にして、アレクサンドロス大王の東方遠征は、それだけの影響を2000年以上に渡って与えるような事だったのである。




さて、アレクサンドロス大王の時代にはギリシアという一つの国は存在していない。

ギリシア世界という概念の中に、アテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家がギリシア世界の中に存在していた。

マケドニアはそんなギリシア世界の中に存在する国家であった。



ギリシア世界に住む人々は、ギリシア人としての誇りを強く持っていたが、一方でこの時代の世界の最先端はペルシアであった。


アケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、東は現在のトルコやエジプト、西は現在のパキスタンのあたりに及ぶ、広大な地域を支配下においていた。


ギリシアはかつてのように世界の中心ではなくペルシアが文明や経済の中心となっていた。




そして、この時代のギリシア世界にとって、東はペルシア帝国の先にインドがあって、その先はギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスであると信じられていた。


コロンブスがアメリカ大陸に上陸する1800年ほど前のこの時代、世界の中心からインドまでが世界の全てであった。


そして、コペルニクスの地動説が唱えられ、人類に地球が丸い可能性が提示されたのは、コロンブスよりもさらに後の時代である。


アレクサンドロス大王の時代の人々は、世界の果てオケアノスは、天まで届く高い壁があったり、海水が永遠の奈落に落ちる滝があったり、そういうイメージを持っていた。



アレクサンドロス大王は、今から2000年以上前の紀元前336年に、ギリシア世界を代表して、その文化を世界の果てオケアノスまで広げようとしたのである。


イッソスの戦い


そんなアレクサンドロス大王とその部下6人の計7人を通して、アレクサンドロス大王の足跡とその後継者争いを表現します。



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・アレクサンドロス3世   (案内人・アーサー)

・ヘファイスティオン     (案内人・トリスタン)

・ペルディッカス       (案内人・ガウェイン)

・アンティパトロス      (案内人・モルドレッド) 

・アンティゴノス1世    (案内人・ランスロット)

・セレウコス1世      (案内人・パーシヴァル)

・プトレマイオス1世    (案内人・ガラハッド)

・王妃スタテイラ2世    (案内人・グィネヴィア)



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