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黒猫

伊東 義祐 (宮崎)

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1533年、日向伊東氏9代当主であった兄・伊東祐充(いとうすけみつ)が病死すると、反乱を起こした叔父・伊東祐武が、義祐の母方の祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城(宮崎県西都市)を占拠した。

 

後ろ盾であった福永祐炳を失った義祐と弟・伊東祐吉(いとうすけよし)が、日向国(宮崎県)を退去して京都へと向かおうとすると、叔父・伊東祐武を支持しない者達の制止を受けて伊東祐武と対峙する。

 

この家中を二つに分けた御家騒動「伊東武州の乱」は、義祐と伊東祐吉の兄弟を擁立する家臣・荒武三省(あらたけさんせい)の活躍により伊東祐武は自害に追い込まれ、義祐と伊東祐吉は都於郡城を奪回した。

 

都於郡城2

「伊東武州の乱」が収束すると、伊東氏の家督は家臣・長倉祐省(ながくらすけよし)の後押しで弟・伊東祐吉が継ぎ、義祐は出家を余儀なくされたが、伊東祐吉が家督相続後3年で病死し、義祐は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)へ入って日向伊東氏11代当主の座に就く。


佐土原城

 

1537年、義祐は従四位下(日本における位階の一つ)を授けられると、室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱(上位者が下位者に俗名を一字与える)を受け、これより伊東義祐と名乗るようになる。

 

足利義晴
  
足利義晴
 

義祐は飫肥(おび)を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返したが、1560年、豊州家が島津宗家を介して室町幕府にこの問題の調停を依頼すると将軍・足利義輝より和睦命令が出された。

 

しかし、義祐がこれに従わないと、幕府政所執事(国政を担う高官に設置を許された家政機関の長官)である伊勢貞孝が日向へ向かう。

 

その際、義祐は伊勢貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すため、日向伊東氏6代当主・伊東祐堯が室町幕府第8代将軍・足利義政より賜った「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の文書を提示した。

 

それを見た伊勢貞孝は、文書には当時の室町幕府が用いない言葉遣いが散見されることから、偽書の疑いが強いと断じるも確証には至らず、仕方なしに飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とする。

 
飫肥

ところが、義祐はこの裁定をものともせずに、
1561年、7度目の飫肥侵攻を開始して豊州家を圧迫すると、交渉により飫肥の一部を割譲させ、1562年には完全なる領有に成功した。

 

しかし、直後に豊州家に攻められると、わずか4ヶ月で撤退することとなる。

 

そこで1568年、義祐自らが総勢2万の大軍を率いて、豊州家の島津忠親を城主とする飫肥城(宮崎県日南市飫肥)を攻撃した「第九飫肥役」は、伊東軍が約5ヶ月間にわたり飫肥城を包囲し、島津忠親を救援しに来た北郷時久の軍を撃破すると、島津氏第15代当主・島津貴久は義祐との和睦を決め、80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる攻防戦に終止符が打たれた。


飫肥城

 

島津氏を政治的に圧倒した義祐は、佐土原城を中心に伊東四十八城と呼ばれる支城を日向国内に構え、伊東氏の最盛期を築き上げ、佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほどに発展する。

ところが京風文化に溺れるようになった義祐は次第に度を越した贅沢をするようになり、武将としての覇気を失っていく。

 

伊東四十八城
 

1558年、義祐の娘・麻生が嫁いでいた北原兼守が病死するが、男子のいなかった北原兼守は娘を叔父・北原兼孝の子に嫁がせるよう遺言していた。

 

しかし、その娘が34歳で夭折したため、義祐は未亡人となった娘・麻生を北原家の庶流(宗家や本家から別れた一族)である馬関田右衛門佐に再嫁させ、これを三ツ山城(宮崎県小林市細野)に置いて、事実上の乗っ取りを画策し、これに反対する北原家の者を都於郡城に呼んで粛清すると、さらに飯野城(宮崎県えびの市飯野)に居た北原兼孝を殺害。

 

残された北原氏の北原兼親は球磨に逃れて相良氏を頼り、北原氏旧臣・白坂下総介は島津貴久に北原兼親が北原氏を継ぐことへの協力を求める。

島津貴久はそれに同意し、相良頼房と北郷時久にも協力を働きかけ、北原兼親は島津氏・相良氏・北郷氏の援助を受けた。

 
島津貴久
  
島津貴久


1562
年、伊東氏のものになっていた馬関田城(宮崎県えびの市西川北)まで相良氏が軍勢を向けると、北原兼親はその隙に飯野城に入り、真幸院を奪い返す。

 

しかし、これに対して義祐は密かに相良氏と同盟を結び、1563年に共に大明神城(宮崎県えびの市大明司)を攻め落とし、1564年に北原氏に従属する大河平氏の今城(宮崎県えびの市大河平)を攻め落とすと、北原氏から離反者が相次ぎ、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。

 

真幸院(えびの市)

真幸院は肥沃な穀倉地帯で、さらに義祐が日向国の完全な支配を達成するには、どうしても飯野地区攻略が不可欠であったため、1566年に飯野地区攻略の前線基地として小林城(宮崎県小林市真方)の築城を開始し、この動きを知った島津義久らは城が完成する前に攻撃を仕掛けるも、伊東氏家臣で小林城主・米良重方が苦戦しながらも島津義久らを撃退した。

 

小林城
 
1568年、伊東氏は飯野地区の攻略に乗り出すが、島津義弘の家臣・遠矢良賢(とおやよしかた)による「釣り野伏せ」という、野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせ、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法に掛かり、伊東軍は散々に打ち破られる。

 

 

1572年、肝付氏の侵攻を受けていた島津氏の加久藤城(宮崎県えびの市加久藤)は、島津氏の当主・島津貴久の死去も重なり動揺していた。

 

義祐はこの機会に相良義陽と連携して3000の軍勢で加久藤城を攻めた「木崎原の戦い」で、伊東軍は島津義弘の率いるわずか300の兵に「釣り野伏せ」の形を作られて大敗する。

 

伊東軍は伊東祐安や伊東祐信ら5人の大将を筆頭に落合兼置や米良重方など名だたる武将が多く討死してしまい、この大敗は伊東氏衰退の大きなキッカケとなった。

 

木崎原の戦い

「木崎原の戦い」から
4年後の1576年、長倉祐政(ながくらすけまさ)が治める伊東四十八城の一つである高原城(宮崎県西諸県郡高原町)が島津義久の3万の兵に攻められ、圧倒的な戦力差に一戦も交えず高原城は降伏する。

 

その翌日、小林城と須木城を治める米良矩重が島津氏に寝返ると、怖れをなした近隣の三ツ山城、野首城、岩牟礼城が島津氏についた。

 

三ツ山城

こうして伊東氏にとって島津氏領との最前線は野尻城(宮崎県小林市)となり、この時、島津氏家臣・上原尚近は野尻城主・福永祐友が島津に内通しているという偽りの文を佐土原城下にばら撒くと、それを信じた義祐は福永祐友を遠ざけるようになり、やむなく福永祐友も島津氏に寝返る。

 

 

そして、1577年に入ると伊東氏の情勢はますます悪化し、南の守りの要である櫛間城(宮崎県串間市西方)が島津忠長によって攻め落とされ、さらに飫肥城(宮崎県日南市飫肥)が包囲された。

 

同時期、日向北部の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)・土持氏が、伊東氏にとって土持氏に対する最前線である門川領への攻撃を開始し、伊東氏は北から土持氏、南と北西からは島津氏の侵攻を受ける。

 
日向国

 

義祐は悪化する事態の雰囲気を少しでも変えるべく、孫の伊東義賢(義祐の次男・伊東義益の嫡男)に家督を譲った。

 

しかし、厳しい状況は増す一方で、内山城(宮崎県宮崎市高岡町内山)主の野村刑部少輔、紙屋城(宮崎県小林市野尻町)主・米良主税助も島津氏に寝返ったため、佐土原の西の防衛線が完全に島津氏の手中に収まる。

 

事態の深刻さを重く感じた義祐は、領内の諸将を動員して紙屋城を奪回すべく兵を出すも、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知し、即座に反転して佐土原に帰城した。

 

伊東義祐1
 
もはや義祐には残された選択肢はないに等しく、ついに義祐は日向を捨て、次男・伊東義益の正室・阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼ることを決める。

 

本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上には、義祐がひいきにしていた重臣・伊東帰雲斎の横暴で子息を殺され、それを深く恨んでいた新納院財部城(宮崎県児湯郡木城町)主・落合兼朝がいた。

 

そのため、義祐一行は西に迂回して米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることになった。

 

女子供を連れての逃避行は厳しいもので、また、猛吹雪の高く険しい山を進まねばならず、当初120150名程度だった義祐一行は、途中で崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決する者などが後を絶たず、豊後国に着いた時には義祐一行はわずか80名足らずになっていたといわれている。

 
高千穂

 

豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、義祐が日向攻めの助力を請うと、日向をキリスト教国にする野望を抱いていた大友宗麟はその願いを受け入れるも、1578年、大友宗麟は島津氏と激突した「耳川の戦い」で大敗を喫してしまう。

 

大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、大友領内で肩身が狭くなった義祐は、子の伊東祐兵ら20余人を連れて伊予国で河野氏を頼ると、河野通直の一族・大内栄運にかくまわれた後、1582年には伊予国から播磨国に渡った。

 
大友宗麟
  
大友宗麟

この頃、伊東祐兵は同族の伊東長実の縁から羽柴秀吉に仕官する。

 

伊東祐兵の仕官を見届けた義祐は、しばらく播磨に留まった後の1584年、伊東祐兵が付けた供・黒木宗右衛門尉と中国地方を気ままに流浪し、やがて周防国(山口県東南半分)で旧臣宅に滞在した。

 

 

その後、病に侵されながらも義祐は独り旅をし、便船の中で病衰すると、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれる。

 

ところが、偶然にも伊東祐兵の家臣に発見され、義祐は堺の屋敷で7日余り看病を受けた後に73歳で死去した。



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藤原 純友 (愛媛)

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古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。

 

そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。


瀬戸内海
 

純友は893年頃、太宰府の次官・藤原良範の三男として生まれた。

 

ただ、純友の血統的な面についてであるが、純友は大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国(愛媛県)の豪族越智氏の一族である高橋友久の子であり、藤原良範が伊予に赴任した時に養子になったという説もある。

 
大山積神

血統的な異説が存在するものの、純友は日本史上初の関白に就任した藤原基経が大叔父に持ち、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であったが、早くに父を失い都での出世は諦めざるを得なかった。

 
藤原基経
  
藤原基経
 

931年頃、純友は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って、伊予国で海賊を取り締まる地方官として赴任し、瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧する側であったが、任期を終えた後も京都に帰らず伊予に土着する。

 

任期中に海賊勢力とのつながりを持った純友は、その人脈を利用して朝廷の貯蔵米を奪うようになり、936年頃までには海賊の頭領となった。

 

純友は伊予の日振島(愛媛県と大分県との間の宇和海にある島)を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1000艘を超える船を操って周辺の海域を荒す大海賊団を組織し、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばして反乱を起こす。

 

日振島
 

この頃、ほぼ時を同じくして関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしており、小説等で描かれることのある平将門と藤原純友の共謀説は創作なのだが、同時期に陸と海で大規模な反乱を起こした二人はお互いにその噂に勇気づけられていたことは間違いない。

 

「藤原純友の乱」は「平将門の乱」と併せて「承平天慶の乱」と呼ばれる。

 
承平天慶の乱
 

純友はその活動範囲を瀬戸内海から畿内に伸ばすと、939年には部下の藤原文元に、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹(「介」は行政官として中央から派遣される国司の四等官(守・介・掾・目)の一つ)を摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)にて襲撃させた。

 

 

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は瀬戸内海の海賊を撲滅すべく様々な対策をし、その中には投降した者には一切罪を問わないだけでなく所領や金銭などの報酬まで用意する「恩赦」というものもあって、これにより2000人を超える海賊が投降した。

 

反乱を思いとどまらせるために朝廷は純友に対しては、従五位下という伊予国の最高地方役人と同じ位の官職を与えて懐柔をはかり、兵力を東国の平将門鎮圧に集中させる。

 

しかし、純友は940年に淡路国(淡路島)の兵器庫を襲撃して兵器を奪い、その海賊行為は活発になった。


淡路島
 

この頃、京都の各所で放火が頻発し、そこへ純友が京都に向かっているという報告もあったため、朝廷は純友が京都を襲撃するのではないかと恐れて、宮廷に兵を配備し、山城国(京都府南部)の入り口となる山崎の警備を強化するが、山崎は謎の放火によって焼き払われる。

 

この一連の出来事から、純友の勢力は瀬戸内海のみならず、平安京周辺から摂津国(大阪府北中部の大半および兵庫県南東部)の「盗賊」と呼ばれる武装した不満分子にも浸透しており、純友による京都への直接的脅威は極めて深刻な状況であった。

 

山城国
 
ところが、関東の「平将門の乱」が鎮圧され、大軍を西国に送りこめるようになった朝廷は、純友討伐に積極的になり、征西大将軍に任命した小野好古(おののよしふる)を追捕使長官に、源経基を次官とした追捕使軍を出陣させる。

 

小野好古
  
小野好古
 

「平将門の乱」が鎮圧されたことに動揺した純友は、根城である日振島に船を返すが、その後、伊予国や讃岐国(香川県)の国府を焼き討ちして財産を奪い、備前国(岡山県東南部など)・備後国(広島県東半分)の兵船100余艘を焼き、さらに長門国(山口県西半分)を襲撃して官物を略奪すると、貨幣鋳造をつかさどった周防国(山口県東南半分)の鋳銭司を焼き討ち、土佐国(高知県)幡多郡を襲撃するなど大胆に活動を展開した。

 

周防国の鋳銭司

941年、純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降ると、朝廷軍は純友の根城である日振島を攻めて制圧すると、純友軍は西に逃れて九州の太宰府を襲撃して占領する。

 

 

純友の弟・藤原純乗は筑後国(福岡県南部)柳川に侵攻するが、朝廷側の大宰権帥(大宰府の長官の定員外の官人)・橘公頼の軍に敗れた。

 
太宰府
 

小野好古率いる朝廷軍は九州に到着すると、小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から純友軍を攻撃し、純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実の軍を迎え撃った「博多湾の戦い」で激戦の末に大敗し、800余艘を奪われた純友は息子の藤原重太丸と小舟に乗って伊予国(愛媛県)へ逃れる。

 

藤原純友1
 
しかし、一カ月近くに渡って繰り広げられた激闘に敗れた純友は、伊予に潜伏しているところを伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕えられ、純友・藤原重太丸の親子は首を切られた。

 

二人の首は朝廷へ進上され、橘遠保は純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられる。

 

純友神社
 

藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社、愛媛県新居浜市の中野神社がある。

 

 


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足利 尊氏 (京都)

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1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。

 

 


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平 将門 (茨城)

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将門の生年は
903年頃とされているが正確な生年は不詳である。

 

将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。

 

 

 

将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、156歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。


平将門5

父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。

 

そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。

 

源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。

 

 

935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。


筑西市
 

平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。

 

平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。

 

八千代町
 

その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。

 

 


 

この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。

 

国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。

 

そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。

 

 

将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。


 

将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。

 

こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。

 

 

さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。

 

こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。

 

これが最初の日本刀といわれている。

 

茨城県岩井市
 
 

939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。

 
 

将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。

 

 

最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。

 

これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。

 

 

将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。


平将門2
 

常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。

 

 

 

ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。

東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。


八幡大菩薩
 
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。

 

その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。

 

 

将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。

 

菅原道真
 

将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。

 

国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。

 

朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。

 

 

それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。

 

 

朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。

 

 

その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。

 

 

これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。

 

平貞盛
  
平貞盛
 

この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。

 

藤原秀郷
  
藤原秀郷
 

一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。

しかし、この民への思いやりが裏目に出る。

 

 

将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。

 

将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。

 

 

長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。


平将門a
 

将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。

 

 

この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。

 

 

将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。

 

平将門6
 

940214日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。

 

吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。

 

しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。

 

 

この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。

 

 

 

その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。

 

 

討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
 

平将門3
 

さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。

 

 

将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。

 

 

 
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伊達 政宗 (宮城)

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1567
年、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれる。

 

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

1579年、伊達政宗が13歳の時、三春城(現在の福島県田村郡三春町)主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎える。

 

 

1581年、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、1584年、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となった。

 

伊達政宗2

1585年、政宗は大内定綱の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城中の者を皆殺しにする。


 

定綱と姻戚関係にあり政宗の攻撃を受けていた二本松義継は降伏を申し出たが、政宗はそれを受け入れず二本松付近のわずかな土地を除いた所領を没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。


 

政宗を深く恨んだ義継は、宮森城に居た政宗の父・輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとするが、途中の粟の巣(二本松市平石高田)で政宗に追いつかれる。

 
 

政宗は鉄砲を放って、なんと輝宗もろとも一人も残さず射殺した。

 

粟の巣

政宗はこの時すでに、東北を統一し、より広く豊かな領土を求めて関東へと進出する野心をハッキリと抱いていたが、そこに天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉が立ちはだかる。

 

 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令した。

 

 

しかし、政宗は秀吉の命令を無視して、大崎氏、最上氏、などと戦争を繰り返し、1589年、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で撃破し、敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏が滅亡する。

 

 

政宗は領土を急速に拡大していき、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、114万石を支配する東北最大の大名となっていく。

 

摺上原

この頃、秀吉に従わない大名は東北の政宗と関東の北条氏直だけであった。

 

1590年、秀吉は全国の大名に北条討伐の号令をかけ、政宗にも参陣要求がされるが、当初、政宗はこれを無視。

 

 

しかし、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲すると、秀吉の強大さを知った政宗はその軍門に下ることを決め、遅れて小田原城を目指すが、秀吉は命令に従わない政宗を殺そうとしているという噂が入ってくる。

 

 

政宗は切腹の時に用いる白装束姿で秀吉の前に現れ、この死を覚悟したパフォーマンス色の濃い振る舞いが、派手好きの秀吉の気を変え、秀吉は政宗の遅参を許した。

 

 

 

小田原城が落城し、秀吉の天下統一がほぼ達成されると、政宗は秀吉を会津・黒川城に迎え、そこで衝撃的な処分を受ける。

 

 

その内容は会津・石背(いわせ)・安積(あさか)3郡を取り上げられるというもので、さらにその後、政宗は伊達家の故郷・伊達郡を含む6郡を取り上げられ、領地はほぼ現在の宮城県にあたる地に移され、伊達家は114万石から58万石に減る。

 

 

1591年、政宗は米沢城から新しい本拠である岩出山城へと移り、そこで一面に広がる荒れ地を目にすることとなった。

 

岩出山城
 
 

1593年、秀吉の最初の朝鮮出兵(文禄の役)に政宗は従軍する。

 

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する際に静かに見守っていた京都の住民が、伊達家の軍装の見事さに歓声を上げるほどで、これ以来、派手な装いを好み着こなす人を伊達者(だてもの)と表現するようになった。

 

 

政宗は、秀吉に仕える身となった以上、秀吉のもとでの出世を目指すが、1598年、秀吉が死去する。

 

 

 

 

秀吉の死後、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていった。

 

 

1600年、家康は3万の兵を会津に率いて、上杉景勝討伐に向かうと、その隙に三成は大阪で挙兵し、景勝と三成は家康を挟みうちにしようとする。

 

 

そこで、家康は政宗に景勝を攻撃して会津に釘付けにするように命じた。

 

この時、家康は、その恩賞として、伊達家の旧領649万石を与える約束する。

 

 

政宗は家康の要請に応じて景勝を攻めるが、一方で別の思惑も存在していた。

 

伊達政宗1
 

家康に味方する南部氏領内で発生した一揆を支援するために、政宗は南部領に4,000の兵を侵攻させ、あわよくばその領地を奪おうとする。

 

 

家康と三成の戦いは長引き、再び群雄が割拠する世が訪れると、政宗は予想していた。

 

 

ところが、両軍あわせて16万が激突した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった一日で決着し、家康が天下を制する。

 

 

政宗が景勝を攻めたことによって、家康は三成との戦いに集中できたため、政宗は約束の恩賞を与えられ100万石の領土を手にすることを期待していたが、南部氏領内での一揆に加勢したことを口実に家康は恩賞の約束を破った。

 

 

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府が成立し、以後、諸大名は幕府から領地を委ねられる時代が訪れる。

 

この江戸幕府における政宗の領地は仙台を中心に62万石に定められた。

 

 

戦国大名として天下の覇者となる夢が消滅した政宗は、絶望するどころか逆に、仙台を1000年に渡る豊かな国にし、平和的に100万石の領土を作ることを目指すようになる。

 

仙台城

1601年、仙台城、仙台城下町の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。

 

 

仙台藩の北上川流域は湿地が多く耕作できない土地が広がっていたので、西に広がる湿地帯の水はけを良くして新田を開発するため、政宗は北上川の流れを変える壮大な大事業に乗り出す。

 

 

5年に渡る工事の末、北上川は約3㎞東を流れることになり、西側の広大な平地が耕作可能な土地に生まれ変わり、政宗は減税を約束に農民達にその土地で水田開発させていった。

 

北上川
 

1614年、政宗は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」には1万の兵で参加するが、すでに恩賞に対する期待を抱かなくなっていた。

 

 

 

世情が落ち着いてからは、政宗はさらに領国の開発に力を入れ、かつて毛利輝元に仕えていた土木工事の専門家・川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)を登用し、農地を安定させるため大雨時の洪水対策などを進める。

 

川村孫兵衛重吉 (2)
  
川村孫兵衛重吉 

 

こうして、有り余るほどに生産されるようになった米は、江戸に送って売りさばかれるようになり、やがて江戸に入ってくる米の3分の2は仙台藩の米といわれるようになっていく。

 

 

 

江戸に米を送り始めて16年の後、1636年、政宗は70歳で世を去った。

 

 

 

江戸時代の中頃には、仙台藩の実質的な石高は100万石を超えるようになる。

 

 

秀吉に領地を取り上げられ、家康に約束を破られ、ついえたはずの100万石の夢は、政宗の死後80年を経て平和的に達成された。

 

 


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虞美人 (項羽が深く愛した絶世の美女)

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項羽の愛人。


項羽は代々、楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄で、秦(史上初の中国統一国家)への反乱軍の中心人物となり、秦を滅ぼすと「西楚の覇王」を名乗る。

身長が9尺(約207センチ)の大男で、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主で、秦を滅ぼした後は漢(現在の陝西省漢中市)と中国の覇権を争い、当初は圧倒的に優勢であったが、効率的かつ合理的な戦略が有力諸将の反感を買い、次第に劣勢となって敗死した。




項羽と虞美人の馴れ初めについては不明で「垓下の戦い」で初めて虞美人についての記述が登場する。


劉邦軍に追い詰められ、傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、項羽は片時も虞美人から離れようとしなかった。


部下の前で気丈に振る舞おうとする項羽を、虞美人は支え慰め続ける。




自らの破滅を悟った項羽は虞美人に歌を贈った。


力拔山兮氣蓋世 (かつての私は、力は山を抜き、気は世を覆った。)
時不利兮騅不逝 (しかし時は味方せず、愛馬も前に進もうとしない。)
騅不逝兮可奈何 (もう、どうしたら良いかわからない。)
虞兮虞兮奈若何 (虞や 虞や オマエをどうしたら良いのだろう。)




その後、虞美人は項羽の足手まといにならぬように自殺したといわれている。

ヒナゲシ


虞美人を葬った墓に翌夏、真っ赤なヒナゲシが咲いたことから、ヒナゲシに「虞美人草」という異名がつくようになった。



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アンティパトロス (抜群の政治感覚を備えた老臣)

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アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。


ピリッポス2世が戦闘でマケドニアを留守にする際は、アンティパトロスが代わりに国を仕切り、時には祭事ですらアンティパトロスがピリッポス2世の代理を務めた。



紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


この時、すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任される。



マケドニアに残ったアンティパトロスの日々は決して穏やかなものではなかった。


アレクサンドロス3世の留守を狙って、紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタの王アギス3世が反乱を起こした。


アンティパトロスは戦力を分散させて二つの勢力と戦い続けることを避けるため、トラキアのメムノンは許し、スパルタのアギス3世とは徹底的に戦って反乱を鎮圧する。


アンティパトロスは老獪にアレクサンドロス3世のいないマケドニアを守り続けた。

アンティパトロス

もともとは、アレクサンドロス3世はアンティパトロスの息子だという噂が流れるほどに、アンティパトロスとアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの関係は良好であった。

しかし、アレクサンドロス3世の東方遠征中に、アンティパトロスとオリュンピアスの関係は悪化し、二人はアレクサンドロス3世へお互いを中傷する手紙を書き送るようになる。




紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


アレクサンドロス3世の死後、帝国の実権を握ったペルディッカスによって、アンティパトロスはこれまでの実績もありマケドニア本国およびギリシア世界の管理運営を認められる。


紀元前322年にアレクサンドロス3世の死に乗じてアテナイ・アイトリア・テッサリアが反乱を起こすが、アンティパトロスは老獪にこれらを鎮圧し、その存在感を示した。



その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄する。

原因は、アンティパトロスと不仲になったアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、ペルディッカスに取り入るために自分の娘(アレクサンドロス3世の妹)とペルディッカスを結婚させたためである。


娘に恥をかかされたアンティパトロスは激怒し、ペルディッカスと対立することになる。

ヘラクレア遺跡


アンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけた。


しかし、ペルディッカスはプトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守になった。



アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせる。


しかし、すでに老齢であったアンティパトロスは病を患うと、老将ポリュペルコンを自身の後継者として地位を譲り、死去する。



アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。



見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。

初代筆頭局長 芹沢 鴨

芹沢鴨



芹沢は、水戸藩出身の浪士であるが、出自においては、いくらかの説があり、断定できるものはない。


 

剣の腕は、戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めた。

 

 


 

メンバーの一部が桜田門外の変という歴史的な事件を起こす玉造勢という組織に芹沢は参加し、尊王攘夷のために、豪商を周り、資金集めに奔走していたが、乱暴な手段が悪評を呼ぶ。

 

その恐喝まがいの資金集めがもとで、芹沢は牢獄生活を送ることになる。

 

 

釈放された芹沢は、国家国事のために尽くした事が元罪人という結果になった不満、持って生まれた我の強さと上昇志向から、その身を持て余していた。

 

 芹沢鴨
 

そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。

 
 

尊王攘夷への思いから罪人にまでなった芹沢は、天皇のいる京都で仕事することに、ガラに似合わず胸が躍った。

 

 

芹沢は、玉造勢の頃からの仲間である新見錦をはじめ、平山五郎・平間重助・野口健司などを従えて浪士隊に参加。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。

 

 

数の上では近藤派の方が多かったが、芹沢の持つ存在感と圧倒的な威圧感、それに高圧的な態度が、隊内で芹沢派の意見を強くしていた。

 

 

その結果、近藤と芹沢による局長二人体制を望む近藤派の主張を退け、壬生浪士組は芹沢・近藤・新見による局長三人体制および筆頭局長が芹沢という形になる。

 

 

 

 

壬生浪士組は会津藩の預かりという形になっていたが、当初は給金の支給がほとんどなかった。

 
 

そのため芹沢は、大阪の商家などから恐喝まがいの資金集めを、隊のため自分のため率先する。

 
 

しかし、このような事は会津藩の評判に関わるので、これに困った会津藩は壬生浪士組に対して正式に手当を支給することになり、芹沢の乱暴狼藉はやり方はとにかく、壬生浪士組の運営を安定させるという結果を出したのは確かであった。

 

壬生村2

隊でのヒエラルキーはトップに位置し、形はどうあれ結果を出し、生来の我の強さが増長する一方であった芹沢は、18636月、道ですれ違った大坂相撲の力士が、道を譲らなかったことに激昂して暴行を加える。

 

そこに力士の仲間が駆けつけ乱闘になり、力士側に死傷者が出る騒ぎとなった。

 

 

当時の常識的な感覚として、侍に道を譲らないことが無礼なのは確かであり、力士側も江戸からやって来た侍をなめていた部分があったことが想像でき、また、奉行所は力士側に非があると判断し、力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れるという結果になっている。


 

ただ、そういったことが考慮できるものの、やはり、この騒ぎも芹沢の我の強さを表していた。

 

 

 


 

芹沢の豪胆さを強いリーダーとして頼もしく感じる隊士もいる一方で、壬生浪士組で天下の大仕事をして近藤の出世を願う土方は反感を強めていく。

 

 

 

そんな折に、芹沢は、気に入っていた吉田屋の芸妓である小寅が、芹沢に肌を許さなかったことに立腹し、店を破壊すると主人を脅して、小寅とその付き添いのお鹿を呼びつけると二人を断髪させるなどの恥辱を与える。

 

 

 

 

芹沢がいては、新撰組の評判は悪くなり大きな仕事ももらえず、近藤を出世させることが出来なくなると考えていた土方は、厳しい隊の規律である局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込んだ。

 

八木邸・芹沢暗殺痕
 
 

18639月、芹沢は、平山五郎、平間重助と、それぞれのお気に入りの女と共に泥酔するまで飲み、それぞれ女と一緒に眠りにつく。

 

 

大雨が降る深夜、芹沢の寝ている部屋に4人の男が押し入り、一緒に寝ていた女のお梅もろとも芹沢はメッタ斬りにされる。

 

 

近くで寝ていた芹沢派の平間は逃亡に成功するが、平山は殺害された。

 

 

ただ一人、隊に残っていた芹沢派の野口健司は12月に切腹となる。

 

 

 
 

芹沢暗殺の実行者は諸説あるが、4名によるもので、確実視されているのが土方歳三と沖田総司、ほぼ確実に原田左之助、おそらく山南敬助とされている。

 

 

 

 

芹沢は、豪胆で横柄な人柄を伺わせるエピソードが残り、特に創作では手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれるが、分宿していた八木家の娘が夭折した際には、誰よりも率先して葬儀を手伝ったり、子ども達には面白い絵を描いて喜ばせたりしていたので人気があったという



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