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項羽と劉邦

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虞美人 (項羽が深く愛した絶世の美女)

703x999虞美人



項羽の愛人。


項羽は代々、楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄で、秦(史上初の中国統一国家)への反乱軍の中心人物となり、秦を滅ぼすと「西楚の覇王」を名乗る。

身長が9尺(約207センチ)の大男で、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主で、秦を滅ぼした後は漢(現在の陝西省漢中市)と中国の覇権を争い、当初は圧倒的に優勢であったが、効率的かつ合理的な戦略が有力諸将の反感を買い、次第に劣勢となって敗死した。




項羽と虞美人の馴れ初めについては不明で「垓下の戦い」で初めて虞美人についての記述が登場する。


劉邦軍に追い詰められ、傷心の項羽の傍にはいつも虞美人がおり、項羽は片時も虞美人から離れようとしなかった。


部下の前で気丈に振る舞おうとする項羽を、虞美人は支え慰め続ける。




自らの破滅を悟った項羽は虞美人に歌を贈った。


力拔山兮氣蓋世 (かつての私は、力は山を抜き、気は世を覆った。)
時不利兮騅不逝 (しかし時は味方せず、愛馬も前に進もうとしない。)
騅不逝兮可奈何 (もう、どうしたら良いかわからない。)
虞兮虞兮奈若何 (虞や 虞や オマエをどうしたら良いのだろう。)




その後、虞美人は項羽の足手まといにならぬように自殺したといわれている。

ヒナゲシ


虞美人を葬った墓に翌夏、真っ赤なヒナゲシが咲いたことから、ヒナゲシに「虞美人草」という異名がつくようになった。



バーガンディ
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韓信 (楚漢戦争の勝敗を分けた歴史的軍事の天才)

韓信700x1000



韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。

 

そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。

 

 

そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。

 

韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。

 

韓信5
 

そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。

 

すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。

 

その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。

 

 


 

秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。

 

 

 

 

紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。

 
 

功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

領地分配
 

韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。

 

 

そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。

 

 

しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。

 
 

ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。

 

韓信1
 
 

韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。

 

「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。

 

 

 

劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。

 

 

 

 

劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。

 

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 

2韓信
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。

 

 

韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。

 

 

韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。

 

 

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。

 

 

項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。

 

 
 

軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。

 

 

 


 

その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。

 
 

しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。

 

 

韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。

 

 

韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。

 

韓信3

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

そして、紛れもなく韓信もその一人である。

 

 

 

 

紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。

 

 

故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。


韓信4
 

 

しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。

 

 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。

 

 

警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。




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張良 (千里の彼方より戦を勝利に導く知将)

張良700x1000



張良は、父も祖父も韓
(現在の河南省北部、山西省南部、陝西省東部)の宰相(その国のNO.2)を務めていた。

 

紀元前230年、史上初めて中国を統一する秦によって韓が滅ぼされる。

 

 

祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とし、弟が死んでも費用を惜しんで葬式を出さなかった。

 

始皇帝
  
始皇帝

張良は同志を求めて旅をし、始皇帝暗殺のための準備を整えると、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を襲う。

 

しかし、暗殺は失敗に終わり、張良は逃亡した。

 

始皇帝の命を狙った張良は全国指名手配となり、偽名を使って身を潜めることになる。

 

 

 

 

ある日、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げると、張良に向かって「小僧、取って来い。」と言いつけた。

 

張良は殴ってやろうかと思うが、相手が老人なので我慢して靴を取って来てやった。


すると老人は足を突き出して「履かせろ。」と言う。


張良はこみ上げる怒りをあきらめて老人に靴を履かせた。


老人は「お前に教えることがある。
5日後の朝にここに来い。」と言った。

 
 

5日後、日が出てから、張良が約束の場所に行くと、すでに老人は来ており「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ。」と言い「また5日後に来い」と言って去った。


 

5日後、張良は日の出の前に、家を出たが、またすでに老人は来ていた。

老人は再び「5日後に来い」と言い残して去った。

 
 

5日後、張良は夜中から、約束の場所で待っていると、しばらくして老人がやって来た。

老人は満足気に「わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ。」と言うと張良に「太公望の兵法書」を渡して「これを読めば王者の師となれる。」と言い残して消え去った。

 



陳勝・呉広の乱

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集められなかった。

 

 

ほどなく、張良は劉邦との運命的な出会いをする。

 

張良は、始皇帝暗殺に失敗し、兵を集めることも出来ない自分に対して、将の器がないことを痛感していた。

 
 

それでも秦打倒の夢を捨てられず、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説くも、誰からも相手にされないでいたが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、それらはほとんど無条件で採用されるようになる。

 

 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

劉邦がこの懐王の反秦軍に参加すると、張良は項梁に韓(張良の祖国)を秦から奪い、王を擁立する必要性を説き、劉邦と共に旧韓の城を十数城攻め取り、韓の公子であった成を韓王に擁立して韓を再興する。

 

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

咸陽1

 

咸陽を目指す劉邦軍において、張良は様々な戦略を提案し、劉邦軍は最小限の被害で転戦していき、関中への一番乗りを果たす。

 

 

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都・咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、張良は「秦が無道を行なったので、劉邦は咸陽に入城できた。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じになってしまう。」と劉邦を諫めた。

 
 

ここで劉邦に我慢をさせたことは、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、劉邦が多くの人々からの信用を集める一因にもなる。

 

 

 


 

一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。


 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会であったが、張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜ける。

 

 

領地分配

秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

 

 

張良は劉邦に、漢中に至る険しい山道を少しでも通り易くするための桟道を焼くように進言した。

 

項羽がどんな言い掛かりで劉邦の討伐を決めるか分からないので、道を焼いて通行困難にすることで反乱の意思がないことを示すことが理由である。

 

 

さらに張良は項羽に「劉邦は桟道を焼いており、項羽を攻めることは出来ない。それより斉(現在の山東省を中心した地域)で田栄らが背いています。」との手紙を出し、項羽は劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

 


 

項羽は多くの不満を買っていたため、反乱は各地で続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力はさらに薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
 

 

広武山

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転しながら、紀元前203年、広武山(河南省)で数カ月に及ぶ膠着状態の末、両軍共に疲労の色合いが濃いため、和睦してそれぞれの根拠地へと戻ることが決定した。

 

 

ここで張良は、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言する。

 

疲弊している項羽軍も、戻って回復すればその強さが戻ってしまい、油断している今を置いて勝機はないと、張良は判断した。

 


 

劉邦はそれを受け入れ、韓信と彭越に援軍を要請するが、韓信と彭越はやって来ない。

 

それに対して張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないから。彼らは劉邦と項羽が争っているからこそ、自分に価値があることを分かっていて、争いが終わってしまえば自分達がどうなるのか不安なのだ。」と説明した。

 

 

張良の説明に納得した劉邦は、戦後に韓信を斉王に、彭越を梁王にすることを約束すると、戦後の立場に安心した韓信と彭越は劉邦のもとに馳せ参じる。

 


 

韓信と彭越の率いた軍勢、さらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、劉邦軍は60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰め、項羽と劉邦の長年の戦いは劉邦の勝利に終わった。 

 

張良1

遂に項羽を滅ぼした劉邦は、紀元前202年、皇帝に即位して、恩賞の分配をし始めた。

 

張良は野戦での功績は一度もなかったが、張良なくして劉邦の勝利がなかったことは明白であり、3万戸の領地が与えられるはずであったが、張良はそれを辞退した。

 

 

張良が恩賞を辞退した理由は、秦に滅ぼされた祖国・韓の無念を自らの謀略で晴らす事が目的であったという純粋な面と、恩賞によって力を持つと後々、劉邦の粛清の標的になる可能性があることを理解していたからである。

 


 

権力を勝ち取った者が、権力を長期に渡って安定させるために、例え功労者であっても戦力を保有する者は粛清していくのは当然で、日本人に馴染み深いところでは徳川幕府が良い例であろう。

 

世知辛い話ではあるが、これを情に流されて怠ると、ほぼ確実に権力の寿命は短くなる。

 

 
 

実際に、劉邦はこの後、天下統一の最大の功労者の一人で戦後に斉王の地位を与えた韓信を皮切りに、彭越、英布と、戦上手で領地の大きい者を粛清していく。

 

 
 

もしも「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した(会議室で考えた戦略ではるか遠方の戦に勝利する、という意味)。」と劉邦に言わしめた張良が、広い領地を得て力を保有していたならば、確実に劉邦の粛清の対象となっていたであろう。

 

 張良2


張良は元々病弱な面があったが、劉邦の開いた漢王朝が確立されて以降は、病気と称して家に籠るようになった。

 

 

しかし、劉邦の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏が自分の子である劉如意を後継者にしようと画策し始め、劉邦もその気になる。

すでに後継者となることが決まりかけていた劉盈とその母・呂雉(劉邦の正室)は危機感を抱いて、張良に助言を求めた。

 

 

張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗していた高名な学者達を、劉盈の師として招かせる。

 

 

劉邦は自分がたびたび招聘しても応じなかった学者達が劉盈の呼びかけに応じたことに驚き、学者達に理由を聞くと「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでしたが、劉盈殿下は徳も礼も備えているので応じました。」と答えた。

 

 

これにより、劉邦が劉盈の後継者としての器を改めて理解したため、呂雉(劉盈の母)は張良に深い恩義を抱き続ける。

 

 

張良は、劉邦の死の9年後、紀元前186年に死去した。




バーガンディ

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樊哙 (劉邦の命の恩人)

樊カイ700x1000
樊カイの「カイ」の字は常用漢字でないため「」の字で表記しています。




は劉邦、蕭何、曹参と同じく沛(江蘇省徐州市)の出身で、劉邦とは幼馴染であった。

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。

 

 

蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなると、それまで犬の屠殺業をしていた樊もこの反乱軍に加わった。

 

沛
 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

咸陽を目指す劉邦軍において、勇猛果敢な樊は大いに存在感を示し、劉邦軍は関中への一番乗りを果たす。

 

 

 

一方で、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

鴻門の会
 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛のために付き従っていた樊カイは中に入ることは許されなかった。

 

 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。

 

 

しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。

 

 

劉邦をここで絶対に殺しておくべきだと考えていた范増は、煮え切らない項羽の態度に痺れを切らして、部下に宴会の余興として剣舞を踊らせ、劉邦の近くによった時に斬るように命じる。

 

 

宴会場の状況を知った樊は、制止する兵士を突き飛ばして宴会に乱入すると、樊の迫力に気を取られて剣舞が止まった。

 

 

項羽が樊を試すように、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊はそれを一気に飲み干し、次に項羽が豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊は盾をまな板にして剣でその肉を切り刻んで食べ尽くす。

 

 

ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊は「秦王は暴虐で人々を苦しめた。懐王は諸将に、先に咸陽に入った者を王にすると約束した。劉邦は先に咸陽に入ったが、宝物の略奪もせず、項羽の到着を待っていた。功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではないのか。」と項羽に訴えた。

 

 

これに対して項羽は、返す言葉がなく「それほど劉邦が心配なら、ここに座って守っていても良い。」と、完全に劉邦を殺す意思のないことを示す。

 

 

 

腕っぷしも度胸も豪傑そのものの樊がいなければ、間違いなく劉邦の命はここで終っていた。

 

その後、劉邦と樊は宴会を脱出し、張良が残って、劉邦が先に場を後にしたことを詫びる。

 

この後世に語り継がれる宴会での出来事を「鴻門の会」と呼ぶ。

 

 

領地分配
 

劉邦は命拾いするものの、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて出撃し、項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 

 

 

劉邦が天下統一を果たすと、樊は数々の戦場での武勲に加えて「鴻門の会」で劉邦の命を救ったことから、臨武(湖南省郴州市)侯を任された。

 

 

樊噲1
 

紀元前196年、樊は、謀反を検討した韓信に同調した鉅鹿(河北省邢台市)太守・陳キを討伐する。

 

 

豪傑としてのイメージが強い樊カイは、価値観や道徳観にも真っ直ぐなところがあり、もともと遊び人で怠け癖があり欲に流されやすい劉邦を度々いさめて支え、紀元前189年に死去した。

 

 

また、樊の妻・呂シュ(りょしゅ)は、劉邦の妻・呂雉の妹であることから、劉邦の死後も王室の樊への信頼は厚かったが、樊の子・樊伉は呂雉の死を機とした政変により殺される。



 

バーガンディ

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