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豊臣秀吉

加藤 清正 (熊本)

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1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。

 

1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。

 

 

1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。

 

加藤清正5
 
織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。

 

21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。

 
賤ヶ岳の戦い

1584
年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。

 

この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。

 

 

その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。

 

小牧山城
 

薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。

 

秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。

 
佐々成政

  佐々成政

秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国195,000石の大名となる。

 

清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。

 

さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。

 
加藤清正1

 

清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。

 

一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。

 

 小西行長

  小西行長

1590年、秀吉は5100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。

 

 

1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。

 

この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。


文禄の役

 

当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。

 

1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。


加藤清正2
 

 「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。

 

慶長の役
 
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。

 

 

父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。

 

日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。


豊臣秀吉

  豊臣秀吉

その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。

 

この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。

 

 

1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

 

九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。

 

そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。

 

石田三成
  
石田三成

歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。

 

 

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。


徳川家康

  徳川家康

しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。

 

徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。

 

この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。

 

加藤清正6
 

「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。

 

清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。

 

 

徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。

 

 

さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。

 
豊臣秀頼

  豊臣秀頼

一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。

 

 

こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。

 

 

清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。

 
熊本城

 

清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画((ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。

 
昭君の間

本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。

 

 

清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。

 

闇御門
 

1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。

 

 

清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。

 

清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。

 

淀殿
  
淀殿

会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。

 

秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。

 

 

会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。

 

そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。

 

加藤清正4
 

無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。

 

 

しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。

 

 

 

清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。

 

方広寺鐘銘事件
 

これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。

 

 

秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。



 

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黒田 官兵衛 (福岡)

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1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれる。

 

1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

 
姫路

小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合い、両大名の脅威にさらされた小寺家は存亡の危機を迎え、多くの家臣は古くから交流のある毛利に従うことを主張する。

 

しかし、織田信長の将来性を見抜いていた官兵衛の「信長、その勢い天下を覆うべし。」という意見によって小寺家の方針は織田側につくことで決まった。

 

官兵衛が織田信長のもとへと向かって、播磨の豪族の戦力の大小や毛利氏への忠誠心の強弱を説明すると、織田信長はすぐさま自分が大切にしていた圧切長谷部という刀を与えて協力を命じる。

 
圧切長谷部

官兵衛が織田信長に通じたという知らせを聞いた毛利輝元は激怒し、1577年、播磨の豪族達への見せしめのためにも5000の軍勢で小寺領・姫路城へと攻め寄せた。

 

迎え討つ小寺の兵はわずか500で、10倍の敵を前にした官兵衛は、領内の民衆にありったけの旗を持たせて後方に待機させ、500の兵で毛利軍に奇襲をかけると、毛利軍は圧倒的に数の少ない敵のまさかの奇襲に不意をつかれて慌てふためく。

 

官兵衛はその一瞬の形勢有利を見逃さず、後方に控えていた領民に一斉に旗を掲げさせると、毛利軍はこれを織田の援軍が到着したのだと勘違いして大混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。

 

この勝利を聞いた織田信長は「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である。」と官兵衛を評した。

 
織田信長

  織田信長 


1577
年、官兵衛は織田信長が毛利攻めに派遣した豊臣秀吉と運命的な出会いを果たす。

 

秀吉が官兵衛に協力を求めると、官兵衛は織田と毛利のどちらにつくか揺れている播磨の豪族達を巧みな説得で次々に織田側に引き入れていき、播磨の豪族の8割が織田につくことを約束したため、秀吉は大きな抵抗にあうことなく、わずか2カ月で播磨を平定する。

 

人たらしと言われるほど巧みな交渉力を武器にのし上がってきた秀吉は、官兵衛に自身と相通じるものを見出し、二人はたちまち意気投合した。

 

 

一方、味方だと思っていた播磨の豪族が次々に寝返った毛利輝元は58000の大軍を播磨へと送り込み、この毛利の大軍勢に播磨の豪族達は怖れおののき、官兵衛の主君・小寺政職も毛利側に寝返ったのである。

 

官兵衛は再び織田側につくように説得を試みるが、織田に反抗する勢力に捕えられ、摂津の有岡城に幽閉された。

 
毛利輝元
  
毛利輝元

織田信長はいつまでも戻らない官兵衛が敵に寝返ったと考え、裏切り者の官兵衛の息子を殺すように秀吉に命じるが、秀吉はここで官兵衛の息子を殺せば官兵衛は二度と自分に仕えてくれないだろうと考え、官兵衛の息子を匿った。

 

有岡城で官兵衛は毛利側につくように執拗に迫られたが、がんとして首を縦に振らず、幽閉は一年間続き、暗く湿気に満ちた牢獄で、官兵衛は絶え間なく襲う蚊やシラミによって全身が皮膚病に侵され、生死の境をさまよう。

 

1579年、織田軍が有岡城の攻略に成功し、これによって牢獄から救出された官兵衛は、頭髪は抜け落ち、片足が不自由になっていた。

 

歩くこともままならない変わり果てた官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと忠義の至り。我、この恩に如何にして報ずべき。」と言い、これを機に官兵衛は秀吉直属の家臣となる。

 

有岡城
 

1582年、播磨を平定した秀吉は官兵衛とともに備中国(岡山県西部)に進軍し、毛利軍の守りの要である高松城を意表を突く作戦で攻め落とそうと考えた。

 

高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要害であったが、秀吉はその地形を逆に利用しようとし、高松城を囲む全長3キロメートルに及ぶ堤をわずか半月足らずで作り、水を堰き止めようとする。

 

しかし、梅雨時で水かさを増した川は、大木を投げ込んでも大石を投げ込んでも水を堰き止めることができず、官兵衛はこの秀吉の誤算をフォローすべく、大きな石が山のように積まれた30槽の船を川下から引いて隙間なく並べると、船の底を一斉に破って船を沈めて川の水の勢いをゆるめたうえで、2000人の兵でそこに土嚢を積ませた。


高松城水攻め
 

こうして、秀吉の思惑通り高松城が水の中に孤立して、毛利軍があと一歩で陥落しかけた時、秀吉のもとに主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」の知らせが届く。

 

 

秀吉は動揺のあまり我を忘れて泣き崩れるが、しかし、官兵衛は冷静かつ大胆に秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と直言し、言葉の意味を悟った秀吉はハッと我に返った。

 
本能寺の変

 

織田信長の後継者になるためには、その仇を討つことが鍵になると瞬時に見通した官兵衛は、すぐさま毛利側と和睦の交渉に入る。

 

官兵衛は領土割譲の交渉で大幅に譲渡し、また切腹するのは高松城主だけとするなど、破格の条件を出し、織田信長の死が毛利に伝わる前に和睦を結ぶことに成功すると、官兵衛はすぐさま全軍を京都に向かわせるための準備に奔走した。

 

高松城から明智光秀のいる京都までは約200km、道々の領民に炊き出しや水を用意させ、昼夜走り続けた秀吉軍25000は、わずか7日間で京都に到着する(中国大返し)

 

こうして、秀吉は明智光秀に兵力を整える暇を与えず、織田信長の仇討ちに成功した(山崎の戦い)

官兵衛は瞬時の判断で、秀吉を織田信長の後継者争いの一番手に押し上げる。

 

明智光秀
  
明智光秀 


ところが、あまりに知略に長けた官兵衛の実力は、次第に秀吉へ不安を与えるようになっていき、この後、秀吉は四国平定に功のあった官兵衛に一切の恩賞を与えなかった。

 

1586年、秀吉は九州平定の先発隊として官兵衛を派遣し、官兵衛はこの戦いに一人息子・黒田長政を同行させ、19歳の若武者であった黒田長政は勇猛果敢に戦果をあげるが、官兵衛は「匹夫の勇にして大将たる道にあらず。」と、ただ血気にはやるだけで思慮分別がないと戒める。

 

一方、官兵衛は島津家のもとにまとまる九州各地の豪族達に「秀吉公に降伏するならば、本領の安堵は約束する。ただし、貴殿が降伏の意を示したことが、他の大名に知られると貴殿が攻められる恐れがある。秀吉公が九州に来られるまで、降伏の儀は互いに内密とするように。」という内容の書状を送って回った。

 

すると、誰が秀吉につき、誰が味方なのか、寝返りの噂が九州を飛び交い、疑心暗鬼に陥った九州の豪族達の結束は官兵衛の思惑通りに崩れていく。

 

こうして秀吉の本隊が到着すると、九州の武将達は一人また一人と秀吉に恭順の意を示し、秀吉は到着後わずか一月で九州全土を平定できたのである。

 
小早川隆景
  
小早川隆景

九州を平定した秀吉は恩賞を申し渡し、小早川隆景には筑前国52万石、佐々成政には肥後国50万石が与えられたが、秀吉のために最高の舞台を用意した最大の功労者である官兵衛に与えられたのは豊前国の一部わずか12万石であった。

 
佐々成政

  佐々成政
 

ほどなく官兵衛は、秀吉が自分の功績に報いなかった理由を知ることになる。

 

ある時、秀吉は重臣達に「わしの次に天下を取るのは誰だと思うか。」と問いかけ、徳川家康、前田利家、上杉景勝など大大名の名が次々にあがっても秀吉は首を横に振り続け「黒田官兵衛だ。わしは危機に陥った時、たびたび官兵衛に策を尋ねた。官兵衛の答えはいつも思いもつかない優れたものばかりだった。官兵衛の器が大きく思慮が深いことは天下に比類がない。もしあの男が望むなら、すぐにでも天下を取ることができるだろう。」と語った。

 
豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

人伝に秀吉のこの言葉を聞いた官兵衛は、自分が天下を奪うのではないかと秀吉が疑っていると考え、愕然とする。

 

1589年、官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ってアッサリと隠居し、この時「心清きこと水の如し」という意味を込めて、名前を黒田如水(くろだじょすい)と改めた。

 

黒田官兵衛1
 

1590年、秀吉は天下統一の最後の難関である北条氏と決戦すべく、徳川家康や前田利家といった名立たる名将を揃え、26万という未曽有の大軍勢で小田原城を包囲する。

 

しかし、北条氏は26万もの兵を抱える秀吉軍はすぐに兵糧がつきて引き返すに違いないと考えて全く動じなかった。

ところが、秀吉は兵糧が尽きるどころか海上輸送によって大量に物資を運び、陣中に町を作り上げてみせる。

 

さらに小田原城を見おろす丘の上に密かに城を築かせ、城が出来あがると周辺の木を切り倒し、一夜にして巨大な城が出現したように見せかけ、北条氏の戦意を奪おうとした。

 

しかし、北条氏は戦わずして敗れるのは武門の名折れと難攻不落の小田原城に籠って徹底抗戦の構えを崩さなかったため、このまま北条氏が降伏しなければ面目の失われる秀吉は「官兵衛の知恵、絞るべき時なり。」と官兵衛を頼る。


小田原城
 

官兵衛が和睦を促す書状とともに上等な酒と魚を北条氏に贈ると、北条氏は返礼として火薬と鉛を「城攻めに用いられんことを乞う。」と贈ってきたため、秀吉軍の誰もがそれを北条氏の挑発だといきり立った。

 

しかし官兵衛は、北条氏は力と権勢を見せつける秀吉に意地になっているが、心の底では戦いを望んではいないと考え、たった一人丸腰で小田原城に向かう。

 

官兵衛は北条氏に「大軍を前にして籠城すること百日、北条殿の武名は十分、天下に伝わった。」と、北条氏の気持ちに寄り添いながら説得を続ける。

 

戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲むことで和睦がなることを知っていた。

 
北条氏直
  
北条氏直

こうして北条氏は降伏し、難攻不落の小田原城が開城すると、秀吉は事実上の天下統一を成し遂げるが、この時も秀吉は官兵衛に恩賞を与えなかったが、一方で、敵であった北条氏は、自分達に敬意を払って和睦交渉を進めた官兵衛に、北条早雲から伝わる北条氏の家宝・日光一文字(国宝)を贈る。

 

日光一文字
 

1598年、官兵衛が生涯をかけて仕えた秀吉がこの世を去ると、秀吉亡き後の天下への野心を隠さず自らの勢力拡大を画策する徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成との衝突が避けられなくなっていく。

 

こうした情勢において突如、官兵衛は「こういう時こそ絶好の機会が来る。」と動き出し、密かに摂津、備後、周防の3カ所の港に足の速い船を泊め置き、上方の情報をわずか3日で豊前まで伝えさせる環境を整備する。

 

 

官兵衛は秀吉亡き後の天下を狙った壮大な構想を立て、その戦略は、九州の豪族達はそのほとんどが徳川家康と石田三成の対立に呼応して出兵し、もぬけの殻となった九州を平定するのが第一段階とし、次に九州平定で拡大させた戦力を率いて中国地方へと攻め上り、さらに兵を増やしていくのが第二段階、そして最後に徳川家康と石田三成の勝者と対決し、疲弊しているはずの最終決戦の相手を無傷の自分が打ち破り、最終勝利を手中に収めようというものであった。

 

徳川家康
   
徳川家康

この戦略を成就させるには、官兵衛が最終決戦の相手と予想している徳川家康が石田三成と出来るだけ長く戦うことが必要条件である。

 

1600年、石田三成の西軍が、徳川家康の東軍側の伏見城を攻撃すると、その知らせを豊前にいた官兵衛は整備した早舟によっていち早くキャッチした。

 
石田三成
  
石田三成

「花々しく一合戦つかまつる」

官兵衛55歳、今度は己の天下取りのために全知全能を注ぎこんだ戦いが始まる。

 

官兵衛は自分の策略を徳川家康に勘付かれないように、息子・黒田長政に5400の兵を率いらせて東軍に参加させたため、官兵衛が動員できる兵は半分に減ってしまった。

 

そこで官兵衛は、これまで倹約を重ねて貯めていた大金を全てはたいて、農民達を兵として雇いあげると総勢9000の黒田軍がにわかに誕生する。

 

 

豊前の中津を出陣した官兵衛は、隣国の豊後の大友義統(おおともよしむね)と対決し、立石城に追い込むことに成功すると、命の保証を条件に大友義統を降伏させ、その兵を自軍に吸収した。

 
大友義統
  
大友義統

ちょうど同じ頃、徳川家康率いる東軍は74000と、石田三成率いる西軍は82000とが、拮抗する兵力で美濃国の関ヶ原に布陣する。

 

一方、大友氏を降伏させた官兵衛は、わずか4日後、熊谷氏の安岐城を落とし、さらに北上して垣見氏の富来城を攻め立てた。

 
富来城

ところが、破竹の勢いで進軍する官兵衛のもとに「関ヶ原の戦い」の戦況報告が届くと、官兵衛は唖然とする。

 

開戦当初、一進一退で戦線が膠着した「関ヶ原の戦い」は、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を攻撃し始めると、西軍は混乱し、形成は一気に東軍へと傾き、長期戦が予想された天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍が勝利を収めてしまった。

 

さらに、この早期決着の功労者はなんと我が子・黒田長政であったのである。

 

徳川家康の命を受けた黒田長政は、この勝敗を決定付けた小早川秀秋と交渉し、寝返らせることを成功させていた。

 

小早川秀秋
  
小早川秀秋
 

血気盛んなだけと侮っていた息子・黒田長政が、皮肉なことにこの大一番で父の戒めを守り、父親譲りの才能を発揮したことに、官兵衛は「長政の大たわけめ。急いで家康に勝たせてなんになる。」と言って悔しがる。

 

 

想定を大幅に超える誤算から官兵衛は、小倉、久留米、柳川と矢継ぎ早に城を落とし水俣まで進むと、雪だるま式に膨らんだ3万の兵で九州平定を目指して島津氏に迫った。

 

しかし「如水(官兵衛)の働きは底心が知れぬ」と、官兵衛の進軍にただならぬものを察知した徳川家康から官兵衛あてに「今すぐ島津への進軍をやめよ」との書状が届く。

 

九州平定が今だならず、中国、四国を制圧するにはなお一層の時間がかかる現状に、ついに時間切れかと悟った官兵衛は兵を収めて帰国の途についた。

 

水俣
 

豊前に帰国した官兵衛に、息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、黒田長政「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言い放った。

 

なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父・官兵衛の本心を知った黒田長政は絶句したという。

 
黒田長政
  
黒田長政

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は官兵衛に「望みのままの領地を与えよう。」と言ってその本心を探ったが、官兵衛は本望を遂げられなかった悔しさなどおくびも見せず「年老いた私には功名富貴の望みはございません。」と答えた。

 

野心を感じさせるような返答によっては、黒田家の取り潰しの可能性もある場面であったが、官兵衛の答えに徳川家康はそれ以上の追求が出来ず、黒田家は「関ヶ原の戦い」の論功行賞として筑前52万石を与えられる。


福岡城
 

側室を持たなかった官兵衛は生涯を妻ただ一人と添い遂げ、福岡城の一画に屋敷を構えて、妻と水入らずの暮らしを楽しむ余生を送った。

 

1604年、秀吉の死の6年後、官兵衛は59年の生涯を閉じる。

 

 

晩年、官兵衛は病に倒れると家臣達を口汚く罵るようになり、困った黒田長政がなだめに行くと、官兵衛は「わしが嫌われて、早くそなたの世になればいいと思わせるためにしているのだ。」とささやいた。



 

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豊臣 秀吉 (大阪)

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1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。

 

頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。


松下之綱
  
松下之綱

1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。

織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。

 

秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。

 

織田信長
  
織田信長

1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。

 

この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。

 

「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。


稲葉山の月

1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。

 

 「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。

 

立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。

 

長浜城
 

1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。

 

柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。

 

秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。

 

しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。

 

秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。

 

柴田勝家2
  
柴田勝家

一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。

 

名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。

 

 

1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。

 

自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。

 

秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。


高松城水攻築堤

その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。

 

最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。

 

これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。

 

両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は21となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。

 

実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀

後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。

 

長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。

 

柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。

 

すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。

 

 

「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。

 

三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。


三法師
  
三法師
   

しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。

 

両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。


お市
  
お市
 

 「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。

 

実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。

 

「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。

 

なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。

 

柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。

 
 

足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。

 

 

一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。

 

秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。


賤ヶ岳の戦い
 

そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。

 

 

そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。

 

秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。

 

 

ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。

 

この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。


佐久間盛政
  
佐久間盛政
 

実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。

 

 

夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。

 

勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。

 

 

沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。

 

 

午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。

 

不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。

 

 

秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。

 

豊臣秀吉1
 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。

 

北条氏は5100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。

 

 

北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。


小田原城
 

1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。

 

秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。

 

秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。

 

しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。

 

 

そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。

 

秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。

 

池田恒興
  
池田恒興
 

その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。

 

すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。

 

関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。

 

徳川家康
   
徳川家康

さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。

 

秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。

 

こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。

 

 

一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。

 

徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。

 

北条氏直
  
北条氏直
 

この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。

 

秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。

 

さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。

 

それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。

 

 

秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。

 

刀狩り
 

1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。

 

 

真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。

 
名胡桃城
 

秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。

 

 

秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。

 

 

その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。

 

 

かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。

 

北条氏政
  
北条氏政

箱根を越えた秀吉軍は、北条軍57000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。

 

 

秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。

 

秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。

 

この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。

 

 

小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。

 

伊達政宗
  
伊達政宗
 
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。

 

 

1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。

 

すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。

 

一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。

 

 

秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。

 

石垣山城
 

1591年、秀吉は明(13681644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。

 
文禄の役
 

1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、64000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。

 

その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。

 

慶長の役
 

1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。

 

その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。

 

豊臣秀頼
  
豊臣秀頼
 

秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。



 

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石田 三成 (滋賀)

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1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。




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藤堂 高虎 (三重)

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1556
年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

 

藤堂氏は先祖代々、近江国(現在の滋賀県)19村を支配する小領主であったが、乱世の中で没落し、父の代には地侍に落ちぶれていた。

 

高虎の父は安定した収入が得られるように知行取り(土地の支配権を任される)を目指したが叶わなかったため、高虎は武功を挙げて父の果たせなかった知行取りになることを夢見た。

 

滋賀県犬上郡甲良町

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」で、15歳の高虎は浅井軍の足軽として初陣を迎える。

 

 

この初陣に強い想いをかけていた高虎は、当時の平均身長を30cmは上回る188cmの巨体の持ち主で、子どもの頃から一度も泣いたことがないという筋骨隆々の剛の者だったという。

 

 

高虎はこの初陣で見事に敵の武将の首を取る手柄を立て、さらに翌年、最初に敵の首を取る一番首の手柄をたてるなど、戦のたびに浅井軍の中で戦功を挙げる。

 

姉川の戦い
 

浅井長政は高虎の活躍を高く評価して褒美の刀を授けたが、1572年、高虎はその浅井家を離れ(浅井氏はその後すぐに織田信長に滅ぼされる)、浅井家から目と鼻の先であった阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとへ士官した。

 

 

新天地にのぞむ17歳の高虎は家中の裏切り者2人を始末するように命じられ、剣の腕が立つといわれていたその2人を難なく討ち取り、阿閉貞征は高虎の聞きしに勝る働きに目を見張るが、高虎はこの阿閉家もわずか1年で去ってしまう。

 

 

次に高虎が士官したのは、これまで仕えた主君の敵である織田信長の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)であった。

 

 

敵も味方もお構いなく渡り歩く高虎が、決して手放さずに次の士官先に持参したのが、日本全国どこの領主にも通用する「感状」という武士の履歴書のようなものである。

 

戦場には必ず一人一人の武将の活躍を記録する「目付」という記録係おり、この記録をもとに領主から合戦後に発行されるのが「感状」で、この「感状」があったから高虎は次々に主君を変えることが出来た。

 

磯野員昌
  
磯野員昌
 

磯野員昌からこれまでの武功を評価されて召し抱えられた高虎は、80石の知行を与えられ、18歳にして父が一生かかっても果たせなかった知行取りとなる。

 

その後、磯野員昌の所領を織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)が継ぎ、高虎は織田一門の家臣となった。

 

高虎は織田信澄のもとでも数々の武功を挙げるが、知行が80石から上がらなかったので、織田信澄に武功に見合う知行に上げて欲しいと求めるも聞き入れられなかったため、高虎は織田の家名もやっと手にした80石もアッサリと捨てて三度目の浪人となる。

 

 

 

次に高虎は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長に仕える。

 

羽柴秀長の所領は8500石しかなかったが、羽柴秀長は高虎を以前の3倍以上となる300石の知行で迎え入れた。

 

 

高虎は羽柴秀長軍の先鋒として多くの戦に出陣し、1582年、織田信長が「本能寺の変」で世を去ると、羽柴秀吉が一気に天下を掴み、高虎は羽柴家に仕えて7年で知行4600石、一軍を率いる武将へと出世する。

 
羽柴秀長
  
羽柴秀長

しかし一方で、高虎は戦場での武功だけに頼る出世に限界を感じるようになっていた。

 

羽柴家には賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれる戦上手の家臣がひしめいており、優秀な人材が揃う羽柴家でさらに出世するにはどうすれば良いのか考えた高虎は30歳の頃に「築城」に目を付ける。

 

10ヶ所を越す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目して「縄張」と呼ばれる城の設計を研究した。

 

羽柴秀吉の四国平定戦で難攻不落といわれた阿波国(徳島県徳島市一宮町)の一宮城を攻めた時、高虎は一か月経ってもおちないこの城の秘密を探るために、夜一人で一宮城の堀の深さを測りに行ったために鉄砲で撃たれるなど、時に危険を冒しながら攻めにくい城の設計術を研究する。

 

 

そんな高虎が造った城の一つである伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)20メートルを越える石垣が特徴で、高い石垣は鉄砲や弓に対する防御力を持ち、さらに攻め手に難攻不落だと精神的に威圧する効果もあった。


伊賀上野城

高虎は生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得する。

 

その後、羽柴家が姓を豊臣と改め、専門性を身につける事で他の武将との競争を勝ち抜いた高虎は2万石を与えられた。

 

藤堂高虎3
 

1591年、高虎が長年仕えてきた豊臣秀長がこの世を去ると、紀伊・和泉・大和の100万石は豊臣秀長の子・豊臣秀保に受け継がれる。

 

しかし、それを機に高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれていく。

 

それまで実子が育たなかった豊臣秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていたが、1593年、豊臣秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀保や秀次を疎んじるようになった。

 

1595年、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ秀次が切腹させられた後、高虎の主君である秀保も原因不明の死をとげる。

 

 

秀保の家が廃絶となり、多くの秀保の家臣が豊臣秀吉の配下へと移っていくなかで、高虎は今まで築き上げた2万石の知行を捨て、秀保・秀長を弔うためと、忽然と俗世間から姿を消して高野山へと入った。

 

一方、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられる。

 

高虎は秀保の家臣である自分にもいずれ豊臣秀吉の刃が向けられることを察知していたのであった。


高野山
 

さすがの豊臣秀吉も、全てを捨てて寺に入った高虎には手を出すことが出来ず、それどころか逆に高野山へと使者を送って、自分に仕えるようにと説得を繰り返すようになる。

 

高虎が考慮の末に説得に応じると、喜んだ豊臣秀吉は高虎に伊予・宇和島7万石という以前の3倍の知行を与えた。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、それをキッカケに次の天下を狙う徳川家康、それに抵抗する石田三成とが対立していく。

 

諸大名が状況を伺うなかで高虎は、いち早く徳川家康支持の態度を鮮明にする。

 

豊臣恩顧の大名達はそんな高虎を裏切り者とののしったが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者はナタの首が折れたようなものである。」と動じなかった。

 

 

1600年、天下を二分した「関ヶ原の戦い」は徳川家康の東軍が勝利し、この戦いにおいて高虎は脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱の寝返り工作を成功させる。

 

 

しかし「関ヶ原の戦い」で東軍に寝返って勝利に貢献した小早川秀秋が2年後にお家廃絶、さらに高虎が寝返らせた小川祐忠が所領没収と、徳川家康はいくら自分の味方につこうとも裏切りをするような外様大名を容易に信じようとはせず、その徳川家康の疑いの目は当然のごとく次々に主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられた。

 
徳川家康
  
徳川家康
 

1614年、さらに高虎の立場を危うくする事件が起こる。

 

徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻撃した「大阪冬の陣」において、大阪城の豊臣秀頼から高虎に宛てた書状が徳川家康のもとへ渡ってしい、その内容は「申し合わせたように徳川を裏切ってくれれば約束した領国を与え、その他の恩賞も望み通りとする。」というものであった。

 

 

この書状は徳川家康側の内部分裂を誘うために豊臣秀頼側がくりだした謀略であったが、高虎の経歴を知る諸将は疑いをぬぐうことが出来ず、高虎に不審の目が向けられる。

 

 

そんな折に、苦楽を共にしてきた高虎の重臣二人(藤堂良勝・藤堂高刑)は「この度、我々は是が非でも戦死する覚悟でございます。藤堂家をつぶさないで下さい。家康の信頼を勝ち取ることを第一に考えて下さい。」と高虎に告げる。

 

なによりも大切にしてきた家臣達を犠牲にしてでも戦うことで突破口を開くのか、それともいつ取り潰されるかもしれない恐怖に怯えて暮らすのか、長いこと考え続けていた高虎はこの二人の言葉で心を決めた。

 

藤堂高虎4
 

1615年「大阪夏の陣」で藤堂軍5000は徳川家康側の先鋒として大阪城に向けて進軍を開始すると、河内の八尾の付近で豊臣秀頼側の長宗我部盛親の軍を発見する。

 

この長宗我部軍は後方にある徳川家康本陣への奇襲を目論んでいた。

 

 

藤堂軍は長宗我部軍をここで食い止める必要があったが、両軍の間には湿地帯が横たわっており、藤堂軍が湿地帯を渡って攻撃した場合、陣形が崩れて壊滅的な被害を受けることが予想され、戦の常識としては回避すべき状況だったが、高虎は徳川家康に忠義を示すために突撃を命じる。

 

 

ぬかるみに足を取られる藤堂軍は勇猛果敢で知られる長宗我部軍に苦戦して多くの戦死者を出し、戦いの直前に高虎に道を示してくれた二人の重臣・藤堂良勝と藤堂高刑も相次いで討ち死にした。

 

 

高虎は深い悲しみの感情をあらわにしながらも前進を命じ続け、決死の覚悟で襲いかかる藤堂軍を前に長宗我部軍は敗走し、長宗我部軍による徳川家康本陣への奇襲は未遂に終わる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家康側が勝利したが、高虎はこの戦いで徳川家康側では類を見ない被害を出した。
 

大阪夏の陣
 

しかし、それによって疑り深い徳川家康が、主君を何度も変えてきた高虎を信頼して「国に大事が起こったときは一番手を藤堂高虎とせよ。」と評し、その後、藤堂家は加増されて伊勢・伊賀32万石となる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家による太平の世までの最後の戦いであったため、徳川家康に対して何かを示すにはラストチャンスでもあった。

高虎は大きな時代の変化を見事に見抜き、勝負をかけるポイントを的確に捉え、自分の家臣を犠牲にしてまでも徳川勝利のために尽くすという忠義を見せた。

 

 

高虎60歳、知行なしの地侍として槍一本で初陣してから45年、8番目の主君のもとで国持ち大名へと出世する。

 

藤堂高虎1

徳川家康の死後も高虎は藤堂家を盤石のものとするため、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えて、老いて目が見えなくなっても徳川将軍家のご意見番として出仕し続け、晩年までほとんどの時間を江戸で過ごした。

 

 

そんな高虎は自らの人生で学びとったものを200カ条に渡る藤堂家の家訓としてまとめる。

 

「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があれば、ものに動ずることがない。」

「冬でも薄着を好むべし。厚着を好めば癖になり、にわかに薄着となったとき、かじかむものである。」

「人をだましてはならない。真のとき承諾がえられない。深く慎むべし。」

 

 

1630年、74歳で死去した高虎の亡骸には隙間がないほど鉄砲や槍の傷があったという。

 

 

江戸時代260年間、お家断絶やお家取り潰しとなった大名家が数多くあるなかで、高虎の教えを守り続けた藤堂家は大きな処分を受けることなく存続した。




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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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伊達 政宗 (宮城)

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1567
年、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれる。

 

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

1579年、伊達政宗が13歳の時、三春城(現在の福島県田村郡三春町)主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎える。

 

 

1581年、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、1584年、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となった。

 

伊達政宗2

1585年、政宗は大内定綱の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城中の者を皆殺しにする。


 

定綱と姻戚関係にあり政宗の攻撃を受けていた二本松義継は降伏を申し出たが、政宗はそれを受け入れず二本松付近のわずかな土地を除いた所領を没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。


 

政宗を深く恨んだ義継は、宮森城に居た政宗の父・輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとするが、途中の粟の巣(二本松市平石高田)で政宗に追いつかれる。

 
 

政宗は鉄砲を放って、なんと輝宗もろとも一人も残さず射殺した。

 

粟の巣

政宗はこの時すでに、東北を統一し、より広く豊かな領土を求めて関東へと進出する野心をハッキリと抱いていたが、そこに天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉が立ちはだかる。

 

 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令した。

 

 

しかし、政宗は秀吉の命令を無視して、大崎氏、最上氏、などと戦争を繰り返し、1589年、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で撃破し、敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏が滅亡する。

 

 

政宗は領土を急速に拡大していき、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、114万石を支配する東北最大の大名となっていく。

 

摺上原

この頃、秀吉に従わない大名は東北の政宗と関東の北条氏直だけであった。

 

1590年、秀吉は全国の大名に北条討伐の号令をかけ、政宗にも参陣要求がされるが、当初、政宗はこれを無視。

 

 

しかし、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲すると、秀吉の強大さを知った政宗はその軍門に下ることを決め、遅れて小田原城を目指すが、秀吉は命令に従わない政宗を殺そうとしているという噂が入ってくる。

 

 

政宗は切腹の時に用いる白装束姿で秀吉の前に現れ、この死を覚悟したパフォーマンス色の濃い振る舞いが、派手好きの秀吉の気を変え、秀吉は政宗の遅参を許した。

 

 

 

小田原城が落城し、秀吉の天下統一がほぼ達成されると、政宗は秀吉を会津・黒川城に迎え、そこで衝撃的な処分を受ける。

 

 

その内容は会津・石背(いわせ)・安積(あさか)3郡を取り上げられるというもので、さらにその後、政宗は伊達家の故郷・伊達郡を含む6郡を取り上げられ、領地はほぼ現在の宮城県にあたる地に移され、伊達家は114万石から58万石に減る。

 

 

1591年、政宗は米沢城から新しい本拠である岩出山城へと移り、そこで一面に広がる荒れ地を目にすることとなった。

 

岩出山城
 
 

1593年、秀吉の最初の朝鮮出兵(文禄の役)に政宗は従軍する。

 

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する際に静かに見守っていた京都の住民が、伊達家の軍装の見事さに歓声を上げるほどで、これ以来、派手な装いを好み着こなす人を伊達者(だてもの)と表現するようになった。

 

 

政宗は、秀吉に仕える身となった以上、秀吉のもとでの出世を目指すが、1598年、秀吉が死去する。

 

 

 

 

秀吉の死後、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていった。

 

 

1600年、家康は3万の兵を会津に率いて、上杉景勝討伐に向かうと、その隙に三成は大阪で挙兵し、景勝と三成は家康を挟みうちにしようとする。

 

 

そこで、家康は政宗に景勝を攻撃して会津に釘付けにするように命じた。

 

この時、家康は、その恩賞として、伊達家の旧領649万石を与える約束する。

 

 

政宗は家康の要請に応じて景勝を攻めるが、一方で別の思惑も存在していた。

 

伊達政宗1
 

家康に味方する南部氏領内で発生した一揆を支援するために、政宗は南部領に4,000の兵を侵攻させ、あわよくばその領地を奪おうとする。

 

 

家康と三成の戦いは長引き、再び群雄が割拠する世が訪れると、政宗は予想していた。

 

 

ところが、両軍あわせて16万が激突した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった一日で決着し、家康が天下を制する。

 

 

政宗が景勝を攻めたことによって、家康は三成との戦いに集中できたため、政宗は約束の恩賞を与えられ100万石の領土を手にすることを期待していたが、南部氏領内での一揆に加勢したことを口実に家康は恩賞の約束を破った。

 

 

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府が成立し、以後、諸大名は幕府から領地を委ねられる時代が訪れる。

 

この江戸幕府における政宗の領地は仙台を中心に62万石に定められた。

 

 

戦国大名として天下の覇者となる夢が消滅した政宗は、絶望するどころか逆に、仙台を1000年に渡る豊かな国にし、平和的に100万石の領土を作ることを目指すようになる。

 

仙台城

1601年、仙台城、仙台城下町の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。

 

 

仙台藩の北上川流域は湿地が多く耕作できない土地が広がっていたので、西に広がる湿地帯の水はけを良くして新田を開発するため、政宗は北上川の流れを変える壮大な大事業に乗り出す。

 

 

5年に渡る工事の末、北上川は約3㎞東を流れることになり、西側の広大な平地が耕作可能な土地に生まれ変わり、政宗は減税を約束に農民達にその土地で水田開発させていった。

 

北上川
 

1614年、政宗は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」には1万の兵で参加するが、すでに恩賞に対する期待を抱かなくなっていた。

 

 

 

世情が落ち着いてからは、政宗はさらに領国の開発に力を入れ、かつて毛利輝元に仕えていた土木工事の専門家・川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)を登用し、農地を安定させるため大雨時の洪水対策などを進める。

 

川村孫兵衛重吉 (2)
  
川村孫兵衛重吉 

 

こうして、有り余るほどに生産されるようになった米は、江戸に送って売りさばかれるようになり、やがて江戸に入ってくる米の3分の2は仙台藩の米といわれるようになっていく。

 

 

 

江戸に米を送り始めて16年の後、1636年、政宗は70歳で世を去った。

 

 

 

江戸時代の中頃には、仙台藩の実質的な石高は100万石を超えるようになる。

 

 

秀吉に領地を取り上げられ、家康に約束を破られ、ついえたはずの100万石の夢は、政宗の死後80年を経て平和的に達成された。

 

 


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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



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中国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。


武蔵の出生地は諸説あり、史実としては「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが有力です。

しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、伝説も込み込みで、あの宮本武蔵といえるのではないか、むしろ伝説を度外視した武蔵を宮本武蔵といえるのであろうかと思います。

そこで、物語として美作国(岡山県東北部)を出生地とすることが多く、また街のアピールも強いことから岡山を宮本武蔵といたしました。


個人的に石田三成が好きなので「関ヶ原の戦い」でその三成に味方した宇喜多秀家を岡山で取り上げたかったのですが…。


中国地方というのは、日本の中心であった畿内から天下統一を目指して九州を目指すうえでも、九州の戦力を畿内に移動させるうえでも、通過することになる日本史を考えるうえで重要な拠点でした。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!










近畿 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。


この近畿地方で最も悩んだのは、もちろん京都です。

とにかく候補が多過ぎて多過ぎて、一方で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康くらいの突き抜けかたをしている人物もおらず、一人に絞るのは相当に無理がありました。

なので、京都に関しては特例として複数名を取り上げることにしました。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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・三重県 「藤堂 高虎」       (案内人・パーシヴァル)








・京都府 「平清盛」        (案内人・ユーサー)

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