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織田信長

三好 長慶 (徳島)

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1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




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豊臣 秀吉 (大阪)

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1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。

 

頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。


松下之綱
  
松下之綱

1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。

織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。

 

秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。

 

織田信長
  
織田信長

1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。

 

この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。

 

「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。


稲葉山の月

1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。

 

 「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。

 

立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。

 

長浜城
 

1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。

 

柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。

 

秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。

 

しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。

 

秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。

 

柴田勝家2
  
柴田勝家

一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。

 

名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。

 

 

1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。

 

自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。

 

秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。


高松城水攻築堤

その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。

 

最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。

 

これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。

 

両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は21となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。

 

実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀

後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。

 

長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。

 

柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。

 

すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。

 

 

「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。

 

三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。


三法師
  
三法師
   

しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。

 

両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。


お市
  
お市
 

 「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。

 

実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。

 

「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。

 

なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。

 

柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。

 
 

足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。

 

 

一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。

 

秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。


賤ヶ岳の戦い
 

そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。

 

 

そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。

 

秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。

 

 

ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。

 

この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。


佐久間盛政
  
佐久間盛政
 

実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。

 

 

夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。

 

勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。

 

 

沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。

 

 

午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。

 

不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。

 

 

秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。

 

豊臣秀吉1
 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。

 

北条氏は5100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。

 

 

北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。


小田原城
 

1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。

 

秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。

 

秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。

 

しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。

 

 

そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。

 

秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。

 

池田恒興
  
池田恒興
 

その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。

 

すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。

 

関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。

 

徳川家康
   
徳川家康

さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。

 

秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。

 

こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。

 

 

一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。

 

徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。

 

北条氏直
  
北条氏直
 

この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。

 

秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。

 

さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。

 

それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。

 

 

秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。

 

刀狩り
 

1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。

 

 

真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。

 
名胡桃城
 

秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。

 

 

秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。

 

 

その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。

 

 

かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。

 

北条氏政
  
北条氏政

箱根を越えた秀吉軍は、北条軍57000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。

 

 

秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。

 

秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。

 

この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。

 

 

小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。

 

伊達政宗
  
伊達政宗
 
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。

 

 

1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。

 

すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。

 

一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。

 

 

秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。

 

石垣山城
 

1591年、秀吉は明(13681644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。

 
文禄の役
 

1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、64000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。

 

その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。

 

慶長の役
 

1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。

 

その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。

 

豊臣秀頼
  
豊臣秀頼
 

秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。



 

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織田 信長 (愛知)

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1534
年、現在の愛知県の一部である尾張国を治める小さな大名であった織田信秀の三男として誕生する。

 

信長は大名の後継ぎとは思えない奇抜な格好をし、人々の理解を越えた常識では考えられない振る舞いをするので「大うつけ(あほう、バカ息子)」と呼ばれていた。

 

1551年、信長は18歳で織田家の家督を継ぎ尾張国の領主となる。

 
清州城

この時、信長にとって最大の脅威は、隣国駿河を拠点とし、加えて遠江・三河の三国を持ち70万石を治める大大名・今川義元であった。

 

文武両道に優れる今川義元は東海一の弓取りと称えられ、弱体化した室町幕府を助け、天下に号令できる人材である。



その今川義元は尾張への侵攻を目論んでおり、織田軍の10倍ともいわれていた今川軍を怖れ、織田側の武将達は次々と今川側に寝返っていき、織田家の国境を守る二つの城は労せず今川家の手に落ちた。

 
今川義元
  
今川義元
 

こうしてそれまで味方だった武将が今川側についた結果、織田側の内情は敵に知られることとなるため、いざ戦争になった時に極めて不利となる。

 

 

そこで信長は寝返った武将達がこれまでに書いた手紙や書状を出来る限りかき集め、その筆跡を真似て、今川側の内情を信長に知らせるかのような内容の偽の手紙を作成すると、それが今川側の手に渡るようにした。

 

つまり、織田側を裏切った武将達が実は信長と通じていると、今川義元が勘違いすることを狙ったのである。

 

この信長の作戦は見事に当たり、今川義元は織田側から寝返ってきた武将達を疑って切腹させてしまう。

 

 

1560年、今川義元は一気に織田家を攻め滅ぼそうと25000の兵を率いて駿河を発つが、一方で迎え討つ織田軍の兵力は4000程度であった。

 

 

今川軍がこの戦いの前線基地となる沓掛城(くつかけじょう)に入ると、今川義元は主だった家臣を集めて、夜のうちに織田軍の砦に近い大高城に移動して翌朝すぐに織田軍の砦を襲うことを決める。

 

しかし、この予定は織田側の密偵によって全て信長に筒抜けとなっていた。

 
沓掛城
 

一方、同じように織田軍も作戦会議を開いていたが、なかなか意見はまとまらず、信長は「もう夜もふけた。みな帰れ。」と結論が出ないまま会議を終了させる。

 

正面衝突では勝ち目のないこの戦いで、信長は今川義元の首ただ一つに狙いを絞ることを、この時すでに決めていたが、今川側に作戦が漏れるのを警戒していた。

 

 

 

今川軍は予定通り大高城に移動して早朝に織田軍の砦への攻撃を開始、織田軍の砦に配備された兵は今川軍の大兵力にたちまち呑み込まれていく。

 

順調かつ優勢な戦局から今川軍の意識は攻撃に偏っていき、今川義元のいる本隊が徐々に手薄になりつつあった。

 
大高城
 

今川軍が砦への攻撃を開始した知らせを聞いた信長は「敦盛(…人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を受け滅せぬもののあるべきか…)」という舞を踊る。

 

 

踊り終えた信長がわずか5騎を従えて清州城をとび出すと、織田軍は自分達の動きを悟られないように、いくつかの集団に分かれて時間をおき次々に出発し、善照寺砦に集合した。

 

 

善照寺砦に着いた信長は、今川軍が総兵力25000のうち砦攻略に1万、後方守備に1万、今川義元のいる本隊は5000となっていることを知ると、さらに今川義元のいる本隊の兵数を減らさなければならないと考え、砦攻略中の今川軍に300の兵を囮として突入させ、今川軍がより攻撃へと意識が集中するように仕向ける。

 

 

一方で、今川軍本隊は桶狭間に到着すると、順調に砦を攻略しているという知らせに満足した今川義元が休憩を命じていた。

 

 

この今川軍の動きは、信長が街道中に張り巡らせた見張りによって逐一信長に伝わるようにされており、今川義元のいる本隊の桶狭間での休憩も、織田家の武将・簗田出羽守(やなだでわのかみ)によって確認され信長に報告される。

 

善照寺砦
 

桶狭間と呼ばれる地域には標高64.9メートルの山だったらしき場所があり、今川義元は守りやすく見はらしの利くこの小さな山の上で休憩をとった。

 

 

信長は密かに今川軍本隊に接近するために善照寺砦からより桶狭間に近い中島砦への移動を考えるが、川の近くである中島砦は低い立地であったため、移動の様子が桶狭間山から丸見えになる。

 

そこで信長は、織田軍3000人のうち2000人を中島砦まで率いることにし、残る1000人は善照寺砦に残し、その残した1000人に「のぼり」を立てさせる。

 

こうすることによって、桶狭間にいる今川軍本隊には織田軍が全て善照寺砦に待機しているように見えた。


桶狭間山
 

今川軍本隊に悟られることなく2000の兵を中島砦へと移動することに成功した信長は、この時、桶狭間の空が雨雲に覆われているのを確認すると、あたり一面が雨雲で暗くなったのを好機と見て突撃を開始、ほどなく激しい雨が桶狭間一帯を襲うと、今川軍本隊は散り散りになって雨宿りをし始める。

 

 

そこへ織田軍が一気に山を駆けあがって来ると、不意をつかれた今川軍本隊は大混乱に陥り、織田軍の武将・毛利良勝(もうりよしかつ)が今川義元を討ち取ると、総大将を失った今川軍は総崩れとなって今川領へと逃げ帰っていった。

 

 

清州城に戻った信長は、この「桶狭間の戦い」で槍働きのあった者よりも、今川義元が桶狭間で休憩中であるという決定的な情報をもたらした簗田出羽守に一番大きな恩賞を与える。

 

 

信長は今川義元から奪った「左文字の刀」を生涯大切にし、信長の死後は豊臣秀吉そして徳川家康へと渡った。

 

桶狭間の戦い
 

信長は美濃の斎藤道三の娘・濃姫を娶っていたため、斎藤氏とは縁戚関係にあったが、斎藤道三が嫡男・斎藤義龍に討たれると、信長と斎藤氏の関係は険悪になっていく。

 

 

1561年に斎藤義龍が急死し、その嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、ついに信長は美濃に出兵し「森部の戦い」に勝利すると、斎藤氏の家中は分裂が始まる。

 

 

その後、西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、1567年に「稲葉山城の戦い」に勝利して斎藤氏を滅ぼすと、尾張・美濃の2カ国を領する大名となり、岐阜に拠点を構えるようになった。

 

斎藤龍興
  
斎藤龍興
 

34歳となった信長は、古い秩序や権威に頼る貴族に変わって武士が天下を治める「天下布武」を発表し、この理念を実現するために京都にのぼることを目指す。

 

しかし、岐阜と京都の途上には、当時24歳の浅井長政が強固な基盤を築いていた。

 

 

信長は浅井長政を「先祖に越える剛の者」と評価し、戦うことは避けたい相手と判断して「近国無双の美人」といわれた22歳の妹・お市を嫁がせて同盟を結ぶことを考える。

 

 

絶世の美女を娶った浅井長政は大果報者と羨まれ、その始まりは政略結婚であっても二人は深く愛し合うようになった。


お市
  
お市
 

1568年、浅井長政を味方にし、側面から攻撃される心配のなくなった信長は6万ともいわれる大軍勢を引き連れ、敵対勢力を破竹の勢いで蹴散らしながら京都へと進撃、一気に畿内一円に勢力を伸ばし、室町幕府の復興を唱え足利義昭を第15代室町幕府将軍にする。

 

 

念願が叶い将軍の座についた足利義昭は、恩賞として信長に副将軍の地位を与えようとするが、信長はそれを拒否し、次第に足利義昭をないがしろにして権勢をふるい始めた。

 

 

1570年、信長は「天下の義は信長に任せたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで成敗する。」と足利義昭の態度を咎め、これまでに出した指令を取り消すように命じる「五カ条の条書」を承諾させると、諸国の大名達に天皇や将軍に挨拶しに京都へと馳せ参じるように命令を下す。

 

 

この命令は表向き天皇や将軍のためという名目を掲げているが、実質的には「信長に従え」という意味であり、信長の力を怖れた多くの大名達が京都に集まる。

 

織田信長3
 
ところが5100年に渡って越前国(現在の福井県)を治め、古い家柄と格式を誇る名門・朝倉家の家臣達は信長の命令に対して口々に異を唱え、当主・朝倉義景は信長の命令を無視した。

 

 

朝倉義景が天皇や将軍のためという名目を無視したことは、逆賊として討伐する口実が出来、信長にとって好都合というより狙い通りであったが、信長が朝倉攻撃の準備を始めると「朝倉家と浅井家は古くから同盟関係にあるため、朝倉攻めは浅井長政に伝えるべきでは。」という声が信長の家臣から出る。

 

 

浅井長政に伝えることで朝倉攻めの計画が漏れることを嫌った信長は「我々は縁者にて親しき仲なり、朝倉と浅井は元来他人なり、然れば一旦の断わりにも及ぶべからず。」と家臣達の懸念を一蹴した。

 

朝倉義景
  
朝倉義景
 

信長が3万の軍勢を率いて予定通り越前に侵攻し、一気に朝倉家の本拠地に迫ろうとした矢先、浅井長政が朝倉側について信長に反旗をひるがえしたという知らせが届く。

 

信長は「虚説たるべき(嘘であろう)」と、お市を嫁がせた浅井長政の裏切りに驚く。

 

 

浅井家にとって信長の朝倉攻めは青天の辟易であり、信長の大軍には勝てないと言う家臣達と、近江の領有で利害の分かれる信長に味方すべきではないという浅井長政の父・浅井久政とで意見が分かれ、最終的に朝倉家との同盟関係を優先する決断にいたった。

 

浅井家が朝倉家に味方すると、遠く本国を離れて遠征している信長の大軍は補給路を断たれて袋のネズミも同然となり、浅井・朝倉は今ならば信長を討てると確信する。

 

 

しかし、この危機に信長は同盟者として参戦していた徳川家康にすら知らせずに、3万の軍勢を戦場に置き去りにして忽然と戦場から姿を消した。

 

 

主を失った織田軍は激しい追撃にさらされるが、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀という信長の死後に天下を争う事になる三人がこの「金ヶ崎の戦い」では一致団結して奮戦し、なんとか撤退の道を切り開く。


金ヶ崎の戦い
 

戦場から姿を消した信長は、浅井領を避けて琵琶湖の西側を馬で駆け、3日後、突然に京都に姿を現すと、悠然とかねてより命じていた御所の修理の視察に訪れ、越前からの決死の逃避行などなかったように見せると、その1週間あまり後に本拠地である岐阜に舞い戻った。

 

 

京都で自分の健在ぶりを見せつけた信長は、一刻も早く自分を裏切った浅井長政を討伐すべく軍勢を招集し、復讐の念を燃やしながら2万余の軍勢を率いて近江に攻め込み、浅井長政の居城である小谷城へと迫る。

 

 

小谷城は曲輪と呼ばれる陣地を張り巡らせた難攻不落の要塞で、織田軍がこれを無理に攻めれば戦いは長期化し、相当の損害を覚悟しないとならないのは明らかであり、さらに城内には浅井長政に嫁いでいる信長の妹・お市がいた。

 

 

信長はなんとかして浅井軍を城から引きずり出して平地での決戦に持ち込もうと、豊臣秀吉や柴田勝家らに小谷城の城下町に火を放つように命じ、領民想いの浅井長政がいたたまれなくなって出陣してくることを狙う。

 

 

織田軍による放火の知らせを聞いた浅井長政は、案の定、出陣を口にするが、家臣達から朝倉義景の援軍が到着するまで辛抱するようにさとされる。

 
 小谷城

 

信長は町を火の海にしても浅井長政が動かないとみると、姉川を挟んで小谷城の向かい側にある浅井家の横山城を包囲した。

 

 

大軍の攻撃を受けて悲鳴を上げる横山城から助けを求められると、浅井長政の我慢も限界に達する。

 

 

浅井長政は、横山城を攻めている織田軍が小谷城に対して背を向けている今ならば、織田軍の本陣を突くこともできると考え、小谷城を出陣すると大依山へと移動し、一気に山を下りて突撃する態勢を整えた。

 

 

翌日、浅井長政が待ちに待った朝倉の援軍8000が到着するが、朝倉軍の総大将は当主・朝倉義景ではなく、その従兄・朝倉景健であったため、愕然とした浅井長政は「手ぬるき軍の次第なり」と憤る。

 

 

一方、横山城を囲んでいた織田軍にも徳川家の援軍5000が徳川家康本人に率いられて到着し、織田軍の総兵力はこれで25000となって浅井・朝倉同盟軍13000を大きく上回った。

 

 

この頃、徳川家の最大動員は8000ほどであったため、徳川家康は本国に3000しか残さずにはるばる三河から駆け付けたことになる。

 

 

姉川を挟んで織田・徳川連合軍と浅井・朝倉同盟軍が対峙すると、織田軍は全軍が横山城を攻めていたところで回れ右をした形だったため、本来は一番奥に構えているはずの本陣(信長がいる)が最前線に張り出した奇妙な陣形となった。


 

合戦は徳川軍5000と朝倉軍8000の援軍同士が激突し、それを横目に浅井軍と織田軍が衝突。

 

不十分な態勢で浅井軍の猛攻にさらされた織田軍は、13段に構えた陣のうち11段まで打ち破られ、あわや総崩れというところまで追いつめられる。

 

優勢に戦いを展開する浅井軍は織田軍に深く喰い込んで長く伸びきっていた。

 

 

そこへ横山城の近くに残されていた織田軍前衛部隊3000が、新手の軍勢が出現するかのごとく駆け付け、長く伸びきった浅井軍の側面へと突撃して大逆転が生じる。

 

 

それを目にした朝倉軍は戦意を喪失して退却を開始、浅井軍は左翼から織田軍に右翼から徳川軍に包囲殺到され、浅井長政がなんとか小谷城に逃げ込む惨敗となった。

 

姉川の戦い

この「姉川の戦い」以後、新しい時代を目指す信長と旧来の秩序を守ろうとする反対勢力との対立は鮮明なものとなる。


 

 

1571年、信長は中立勧告を出したにも関わらず浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を焼き討ちにし、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねた。

 

比叡山延暦寺焼き討ち
 

「姉川の戦い」から3年、信長は越前の朝倉義景を滅ぼした後、満を持して再び小谷城を攻める。

 

討ち死にを覚悟する浅井長政に「一緒に死にます」とすがるお市に対して「生きて私の菩提を弔ってくれ」と逃げるようにさとし、信長はあたかも浅井長政と言葉を交わしたかのごとく、城の前で攻撃を中止すると、お市が城を逃れ出るのを待ってから総攻撃を仕掛けた。


浅井長政
  
浅井長政
 

武田氏、朝倉氏、浅井氏などの有力大名や石山本願寺に反信長包囲網を呼びかけていた足利義昭を、1573年に信長は京都から追放して室町幕府を滅ぼす。

 

 

反信長包囲網に加わっていた石山本願寺の11世宗主・顕如は、京都に入ってから度々軍事費を要求する信長に不快感を抱き、全国の信者に信長と戦うように檄文を送る。

 

 

一向宗の本山・石山本願寺は現在の大阪城あたりにあり、寺を中心とした巨大な町は税が免除されるなどの特権があったため、各地から信者だけでなく商人が集まった。

 

 

こうした寺を中心とした町を「寺内町」といい、大阪をはじめ当時の重要な輸送路であった河川沿いの各地に作られ、本願寺はこうした流通の拠点を握って全国にネットワークを張り巡らせ、この強大な経済力を背景に鉄砲などの武器を集め、戦国大名に引けを取らない軍事力を備える。

 

 

全国から一向宗の信者が集まり、あたかも独立した都市国家のようであった聖地・大阪の賑わいをイエズス会の宣教師は「本願寺は日本で最も大きい宗派で、ここの僧侶が日本の富の大部分を所有している。」と記した。

 

石山本願寺

信長は1570年からこの本願寺の勢力に苦しめられ、伊勢長島(現在の三重県桑名市)で本願寺門徒らが蜂起した「長島一向一揆」では信長の弟・織田信興が自害に追い込まれる。

 

 

また、顕如は武田信玄を味方に引き込むことにも成功し、信長と同盟する徳川家康の軍が1572年の「三方原の戦い」で武田軍に蹴散らされ、信長は大いに苦しめられた。

 

 

しかし翌年、武田信玄が突然に死去し、これを機に信長は室町幕府を滅ぼすと、本格的な一向一揆の弾圧に乗り出す。

 

 

1574年、信長は長島一向一揆に対して大軍を派遣すると、降伏しようとする一揆の人々を許さずに根切り(完全殺戮)を命じ、男女2万人を焼き殺した。

 

長島一向一揆
 

1575年、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000に勝利した「長篠の戦い」の後、信長は中国地方に豊臣秀吉、北陸地方に柴田勝家、山陰地方に明智光秀、中部・関東地方に滝川一益など、有力な家臣を大将として各地に送り、全国統一に向かう。

 

長篠の戦い
 

朝倉氏滅亡後、信長は朝倉家から寝返った桂田長俊に越前の支配を任せていたが、越前は一向一揆の手に落ちる。

 

その越前に顕如は、自らの側近・下間頼照を派遣するが、下間頼照と地元の人々に間に対立が起こり、越前の一向一揆が一枚岩でなくなると、それを好機ととらえた信長が3万余の軍勢で攻め込む。

 

 

一向一揆側は完全崩壊して右往左往しながら山中へ逃げていったが、信長は殲滅の手をゆるめず「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ。」と命じ、一揆衆12250人以上が討ち取られ、さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万にのぼり、越前から一向衆は完全に駆逐された。

 

 

命を怖れずに向かってくる一向一揆に手を焼いた信長は、越前に重臣・柴田勝家を配置し、さらにその補佐として府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)を送る。

 

越前一向一揆
 

1576年、琵琶湖岸に築城を開始した安土城は1579年に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。

 

イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、安土城はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである。」と母国に驚嘆の手紙を送っている。

 

岐阜城を嫡男・織田信忠に譲った信長は、安土城に移り住んで、ここを天下統一事業の拠点にした。

 

安土城
 

越前一向一揆を壊滅させた信長は大阪攻めを命じ、荒木村重、明智光秀などが海と陸から石山本願寺への攻撃に向かうが、これを迎え討つ一揆勢は数千丁もの鉄砲で織田軍を苦しめ、信長自身も足を鉄砲で撃たれて負傷する。

 

 

本願寺は、上杉謙信、武田勝頼らとともに新たな反信長包囲網を形成し、それまで信長と友好関係にあった毛利輝元もこれに加わった。

 

 

強力な水軍を持つ毛利軍は、大阪で籠城を続ける顕如に兵糧を運ぶために大阪湾へと進み、それを阻止しようとした織田軍の船300艘は、毛利水軍の「焙烙」という手榴弾のような武器によって壊滅的な打撃を受ける。

 

 

焙烙の威力に衝撃を受けた信長は、焙烙による攻撃を防ぐために長さは30メートルにもおよぶ世界で初めての鉄張りの戦艦を造った。

 

織田信長1
 

一方、顕如の側も織田軍の切り崩し工作を進め、摂津守となっていた荒木村重が寝返って本願寺と結び、これに呼応した毛利水軍の600余艘が本願寺への兵糧米を積んで再び大阪湾に現れる。

 

 

1578年、2年前と同様に火力兵器を駆使して織田軍を打倒しようとする毛利水軍であったが、信長が作らせた巨大な鉄船は焙烙にビクともせず、鉄船に積まれた大砲が火を吹くと、大阪湾の制海権は信長の掌握するところとなった。

 

 

これにより石山本願寺で籠城する40000人への補給路は完全に断たれる。

 

石山合戦
 

1580年、戦局が大きく有利になった信長は、意外にもここで「顕如率いる本願寺が大阪の地を明け渡すならば、教団を赦し今後その地位を保証する。」という提案を勅命講和(天皇の命令によって)という形で提示した。

 

 

このまま抵抗を続けて完全に破壊し尽くされるよりも、講和を結び信仰だけは守り続ける方が得策と判断した顕如は大阪を出て和歌山へと移る。


顕如
  
顕如
 

しかし、信長と妥協した顕如に対して、顕如の息子・教如は本願寺に籠って徹底抗戦を全国各地の信者に呼びかけた。

 

 

こうした顕如と教如の意見の喰い違いは地方の信者達に大きな混乱を与え、一向一揆が大名を追い出した「百姓の持ちたる国」加賀国では、加賀一向一揆の拠点である金沢御坊が陥落してからも、信者達が白山の山々に籠って大日川と手取川に挟まれた鳥越山に城を築いて抵抗を続ける。

 

 

ところが、補給路を断たれ追い詰められていった石山本願寺は、顕如が去った4カ月後、徹底抗戦を唱えていた教如もついに大阪の地を退き、火を放たれた大阪の町は三日三晩燃え続け、信長と一向宗の10年戦争「石山合戦」に事実上の終止符が打たれた。

 

教如
  
教如
 

一方、加賀国ではなかなか鳥越城を攻略できず、一揆の人々の抵抗に手を焼いた柴田勝家は、鳥越城主・鈴木出羽守とその一族に講和を持ちかけて誘い出し、騙まし討ちにして殺害する。

 

 

殺された一揆の指導者19人の首は安土城下に晒され、その後さらに徹底的な残党狩りによって捕らえられた300人の門徒全員が磔刑に処せられ、信長を苦しめた加賀一向一揆の抵抗が収束した。

 

加賀一向一揆
 

その後、信長は武田勝頼を自害に追い詰めて450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡させるが、1582年、明智光秀が謀反を起こして京都本能寺に宿泊していた信長を襲撃する「本能寺の変」が起こった。

 

寝込みを襲われた信長は、包囲されたのを悟ると寺に火を放ち自害、天下統一を目前にして49年の波乱の生涯を閉じる。

 

信長の嫡男・織田信忠も宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦うが自害に追い込まれ、織田政権が崩壊した。

 

本能寺の変
 

謀反を起こした明智光秀は中国大返しで畿内に戻った豊臣秀吉に敗れ、その豊臣秀吉がかつての本願寺跡に大阪城を築き、そこを拠点に天下統一を実現していく。




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斎藤 道三 (岐阜)

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「美濃のマムシ」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は「美濃国諸旧記」などにより形成されていったが、
1960年代に始まった「岐阜県史」の整理の過程で発見された「六角承禎書写」によって、その人物像は転換する。

 

 

これにより、それまで道三一代のものと見られていた「国盗り物語」は、松波庄五郎(まつなみしょうごろう 別名・長井新左衛門尉)と道三の二代にわたるもので、これまで道三の生涯とされていた前半部分は、道三の父・松波庄五郎の事績であった可能性が非常に高くなった。

 

 

松浪家は先祖代々北面武士を務めていたが、松波庄五郎は事情にあって山城国西岡(現在の京都府乙訓郡)に住んでおり、11歳の春に京都妙覚寺で出家の儀式を受けて法蓮房という名の僧侶となる。

 

京都妙覚寺

その後、学友の日護房が美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職となったのをキッカケに松波庄五郎は俗人に戻って、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を娶った。

 

 

松波庄五郎は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といったパフォーマンスが評判をよび、油売りの行商として成功する。

 

 

ところがある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ。」と言われたのをキッカケに商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。

 

 

その後、武士になりたいと思った松波庄五郎は学友だった日護房の縁故を頼って美濃守護土岐氏小守護代(守護の下に置かれた役職)の長井長弘の家臣となることに成功する。

 

 

松波庄五郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護・土岐政房の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。

 

そして、頼芸が兄・頼武との家督相続に敗れると、松波庄五郎は密かに策を講じて頼武を越前へ追いやり、頼芸が土岐守護に就くことに大きく貢献する。

 

 

頼芸の信頼をますます得た松波庄五郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘を除去するため殺害した。

 

斎藤道三2

ここまでは近年の研究では道三の父・松波庄五郎である可能性が高いとされ、公卿三条西実隆の日記では1533年頃に松波庄五郎が死去したとされているので、この頃に道三は父から家督を継ぎ、ここから先が道三の事績である可能性が高い。

 

 

 

1535年、道三は頼芸とともに頼武の嫡男・土岐頼純と激突し、これに朝倉氏と六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がる。

 

 

 

1538年、美濃守護代の斎藤利良が病死すると、道三はその家名を継いで斎藤姓を名乗り、1539年に居城である稲葉山城(後の岐阜城)の大改築を行なった。

 

稲葉山城
 

1541年、道三による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺を機に、頼芸と道三との対立抗争が始まり、1542年、道三は頼芸の大桑城(岐阜県山県市)を攻め、父の代から懇意であった頼芸とその子・頼次を尾張へ追放し、事実上の美濃国主に登りつめる。

 

 

こうした隙あらば寝首をかく道三のスタイルは好感度は低く「主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう。」という落首(主に世相を風刺した詩を記した立て札)が作成さるなどした。

 

 

尾張に追放された頼芸は織田信秀(織田信長の父)の後援を得ると、同じく道三に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携し、美濃での土岐氏復活を掲げ、朝倉氏・織田氏の援助を得ると美濃へ侵攻した。

 

 

頼芸・頼純の土岐氏による美濃侵攻によって、頼芸は揖斐北方城(岐阜県揖斐郡揖斐川町北方)に入り、頼純は革手城(岐阜県岐阜市正法寺町)に復帰する。

 

揖斐北方城
 

1547年、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた「加納口の戦い」では、頼純・朝倉孝景・織田信秀あわせて25千の軍勢が道三の戦術の前に5000人の戦死者を出す大損害を受け、織田軍は壊滅寸前となり、織田信秀合は67人を連れただけで逃げ帰った。

 
加納口の戦い
 

さらにこの年、土岐頼純が病死。

 

 

道三は織田信秀と和睦すると、1548年、娘の帰蝶(濃姫)を織田信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。

 

 

この和睦を好機に道三は、これまで織田家の後援を受けて道三に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、1552年、さらに揖斐北方城に留まっていた土岐頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定する。

 

 

道三は娘・帰蝶を織田信長に嫁がせた後、正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した。

 

その際、織田信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ、さらに正装で訪れたことに大変驚き、織田信長が尾張のバカ息子という評判とは裏腹の才覚に道三は気付き、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちは織田信長の家臣になるだろう。」と言う。

 

聖徳寺
 

1554年、道三は家督を嫡男の斎藤義龍へ譲り、常在寺で剃髪して出家すると「道三」と号し、鷺山城(岐阜県岐阜市)に隠居した。

 

斎藤道三1

しかし、道三は義龍よりもその弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍への家督相続の取り消しを考え始め、道三と義龍の不仲が深刻化すると、1555年、義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

 

 

1556年、道三と義龍の親子対決となった「長良川の戦い」は、義龍軍17500に対して、道三は美濃国盗りの経緯から旧土岐家家臣団などの反感を買っていたため2,500しか集まらなかった。

 
斎藤義龍
  
斎藤義龍
 

戦いは、義龍軍の長屋甚右衛門が一騎討ちを挑むと、道三軍から柴田角内がそれに応じ、両者の一騎討ちに柴田角内が勝利し、勝負が決すると両軍とも全軍突撃となる。

 

 

道三軍は序盤こそ戦いを優勢に進めるも、圧倒的な兵力差をくつがえすことは出来ず、ついに道三の目の前まで義龍軍が押し寄せ、道三は戦死した。

 

 

道三の娘婿にあたる織田信長は、道三への援軍を派遣していたが、この合戦に間に合わず、道三の救出はかなわずに終わる。

 

長良川の戦い
 

道三は戦死する直前に、織田信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を渡していた。

 

また、道三は「長良川の戦い」における義龍の采配の見事さを目にして、これまで義龍を「無能」と評したことを後悔したといわれている。

 

 

道三の首は、義龍側についた旧臣の手で手厚く葬られた。

 

 


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朝倉 義景 (福井)

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1533年、越前国の朝倉氏第10代当主・朝倉孝景の長男として生まれ、この時、父・朝倉孝景は40歳で唯一の実子であった。

 

生母は若狭武田氏一族の広徳院(光徳院)といわれいる。

 

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。

 

一乗谷城
 

1548年、父が死去したため家督を相続して朝倉氏第11代当主となるが、当初は若年のため1555年までは一族の名将・朝倉宗滴に政務・軍事を補佐されていた。

 

 

朝倉宗滴の死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため、越前国は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、この当時の越前国を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。

 

 

 

1552年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ「義景」と改名し、左衛門督(鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していたが、源頼家なども歴任し、官職のなかでも武家に好まれた。)にも任官。

 

こうしたことは、父・朝倉孝景の時代に室町幕府での地位を高めたことに加え、衰退する室町幕府にとっては守旧的な朝倉家の力を必要として優遇された。

 

家紋朝倉義景
 

1565年、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合い、足利義輝の弟・足利義昭が幽閉先の奈良を脱出して近江国に移るように画策する。

 

 

その後、若狭武田家を頼っていた足利義昭が越前国に身を寄せると、義景はその来訪を歓迎した。

 

 

 

1567年、朝倉家の家臣・堀江景忠が、朝倉家と長年の対立が深刻化していた加賀一向一揆と通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、堀江家に攻撃をしかける。

 

堀江景忠は必死に抗戦をするが、結局、加賀国を経て能登国へと没落した。

 

一方で、加賀一向一揆とは足利義昭の仲介により和解が成立する。

 

加賀一向一揆
 

足利義昭は上杉謙信など諸大名に上洛(広義においては京都に入ることを意味するが、狭義では室町時代末期に足利幕府の将軍を保護することを意味した。)を促す書状を送ったが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。

 

 

足利義昭は義景にも上洛戦を求め、義景の館を訪問したり、さらに義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深める。

 

 

京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍の保護者となる事は、権威をもたらし、政治的影響力を高める事となるが、義景は嫡男・阿君丸が急死して悲しみにくれていたことなどもあり、足利義昭が望む上洛には冷淡であった。

 

 

義景がここでもし上洛していれば、天下を狙える可能性すらあったが、こうした決断力の鈍さが後々大きく運命を左右する。

 

結局、足利義昭は美濃国を支配下におき勢いに乗る織田信長を頼るため越前国から去った。

 

足利義昭
  
足利義昭
 

1568年、若狭守護・武田氏の内紛に対して、義景は当主である武田元明の保護という名目で介入し、若狭を支配下に置くが、武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗する。

 

 

 

この頃、足利義昭を将軍にした織田信長は、織田領である美濃と京都の間に突き出た位置関係となる越前国を治める義景を服属させる必要があったため、足利義昭の命令として2度にわたって義景に上洛を命じるが、義景は織田家に従うことを嫌い、さらに上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否した。

 

 

 

しかし義景の上洛拒否は、反意があるという言い掛かりから越前出兵への口実を織田信長に与え、1570年、織田信長・徳川家康の連合軍が侵攻を開始、天筒山城・金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)が織田軍の攻勢の前に落城する。

 

 

ところが織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、越前侵攻を不服として織田信長を裏切って急襲したため、前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥った織田信長は京都に撤退。

 

浅井長政
  
浅井長政
 

このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の最後尾部隊を率いた豊臣秀吉(この時は木下秀吉)の抵抗に阻まれ、織田信長をはじめとする有力武将を取り逃がし、再挙の機会を与えることになった。

 


 

1570年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川(滋賀県長浜市)で激突した「姉川の戦い」で、朝倉軍は徳川軍と衝突したが徳川四天王と名高い榊原康政に側面を突かれて敗北し、織田信長は浅井方の支城の多くを落とし、朝倉・浅井連合軍は非常に不利な立場に陥る。

 

姉川の戦い
 

織田信長が三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えた三好氏の一族・重臣だった三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3)および石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙に、義景は浅井軍と共同して織田領の近江坂本(現在の滋賀県大津市)に侵攻し、織田信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。

 

 

織田信長が軍を近江に引き返してくると、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺に立て籠もって織田軍と対峙し、小競り合いや合戦があるものの、足利義昭・二条晴良らの和睦の調停に応じて、両軍は講和することとなる。

 

この講和の際、織田信長は義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という書状を送っており、強敵として警戒していた。

 

織田信長
  
織田信長
 

織田信長が本願寺と交戦状態に入る(野田城・福島城の戦い)と、将軍・足利義昭は甲斐国の武田氏をはじめ近江国の浅井氏、そして越前国の義景らと織田信長包囲網を構築。

 

義景は、こうして織田信長包囲網の一角を担った本願寺の顕如の子・教如と娘の婚約を成立させる。

 

 

義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが敗退し、この後、織田信長は前年に朝倉氏に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

比叡山延暦寺
 

1572年、甲斐国の武田信玄が遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍が次々と城を奪われる。

 

それに対して織田信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で攻勢をかけるが、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)の豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)に阻まれた。

 

 

義景が部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退すると、武田信玄はそれに対して激しい非難を込めた文章を送りつける。

 

義景が再三の出兵要請に二の足を踏む間に、同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍が甲斐へと引き揚げたため、織田信長は主力軍を朝倉家に向けることが可能となった。

  

朝倉義景1
 

1573年、織田信長が3万の大軍を率いて近江に侵攻すると、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、決断力の弱さから数々の好機を逸してきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。

 

 

このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣するも、大嶽砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が織田信長の暴風雨を利用した電撃的な奇襲を受けて大敗する。

 

 

さらに丁野山砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が陥落すると、義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能となり、越前への撤兵を決断した。

 

しかし、撤退する朝倉軍は織田信長の追撃を受ける。

 

織田信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂(福井県敦賀市刀根)において壊滅的な被害を受けた。

 
刀根坂
 

義景自身は命からがら疋壇城(福井県敦賀市疋田)に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死。

 

 

義景はさらに疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、その間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。


疋壇城
 

さらに、朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半が逃走してしまい、義景の出陣命令に対して朝倉景鏡(あさくらかげあきら)以外は出陣して来なかった。

 

 

 

義景は一乗谷を放棄し、越前大野の東雲寺に逃れ、平泉寺(福井県勝山市)の僧兵に援軍を要請するが、すでに織田信長に懐柔されていた平泉寺は逆に東雲寺を襲ったため、義景は賢松寺(福井県大野市泉町)に逃れる。

賢松寺


一方、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ織田軍は、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火し、その猛火は三日三晩続き、朝倉家
100年の栄華は灰燼と帰した。

 

 

 

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃すると、ついに観念した義景は自害を遂げ、39歳で生涯を閉じる。

 

 

義景の首は織田信長の家臣・長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝され、血族の多くも織田信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、朝倉氏は滅亡した。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀
 

義景は朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げ、個人としても戦よりも文芸に凝り、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んだ。

 

 

1581年に越前国へ布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。




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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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佐々 成政 (富山)

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成政は、尾張国春日井郡比良城
(現在の名古屋市西区)を拠点にしていた佐々成宗の子で兄達が相次いで戦死したため、1560年に家督を継ぎ、比良城主となる。

 

比良城

織田信長に仕え、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令をする「馬廻」から戦功を重ねて頭角を表していく。

 

 

1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、斎藤龍興の軍6000を織田軍1500が味方を三手に分け挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、成政は敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。


森部の戦い
 

1567年、武芸に秀でた馬廻からさらに選抜された豪のエリートが信長直属の使番を務める「黒母衣衆」に抜擢される。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利する「姉川の戦い」に先立つ「八相山の退口」で成政は、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)に参加し、鉄砲隊を用いて大活躍した。

 

 

1574年、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起し、織田信長と激しい合戦が起こった「長島一向一揆」との戦いで長男・松千代丸を失う。

 

長島一向一揆

1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐって、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000と戦った「長篠の戦い」では、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に、この戦いの語り草ともなっている鉄砲隊を率いた。

 

 

 

 

1575年、織田信長は越前国制圧後、成政・前田利家・不破光治の3(府中三人衆)に越前府中10石を与え、成政は小丸城(福井県越前市)を築いて居城とし、北陸方面の軍団長となった柴田勝家を支えた。

 

府中三人衆は柴田勝家を支えながらも、半ば独立した遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍する。

 

 

 

1578年、軍事の天才・上杉謙信が能登に侵入し、織田信長にとって最大の危機が迫った際には、成政は柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城(石川県七尾市古城町)が上杉謙信に落とされると撤退した。

 

 

1580年、親上杉氏政策を維持しようとした父と対立し、京都に上って織田信長に仕えた神保長住をサポートして、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国の平定に尽力し、この頃に成政は、立山の雪解け水により常願寺川が氾濫して大洪水を引き起こすことを防ぐため、馬瀬口に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築造して水害を減少させる。


佐々堤
 

1581年、神保長住が失脚したことにより、長政は富山城を居城とする一国守護となって、富山城の大規模な改修をおこなう。

 

 

成政は新規の家臣を召抱える際、最初に提示したよりも多くのサラリーを与える事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかった。

 

また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく実績や武勇を重視し、その話を聞くのが大好きであったといわれている。

 

富山城
 

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、成政が拠点としていた北陸方面は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略した(魚津城の戦い)ばかりであったため、成政は上杉軍の反撃への防戦で身動きが取れなかった。

 

 

 

豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)は対峙していた毛利氏と和睦し、いち早く畿内に戻り(中国大返し)、明智光秀を討ち果たす手柄をたてる。

 

そのため、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化し、成政は柴田勝家の側についた。

 

柴田勝家
  
柴田勝家
 

1583年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)で豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、成政は上杉氏への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すことが出来ずに終わる。

 

 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉は、織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づける。

 

成政は剃髪して秀吉に降伏し、娘を人質に出すことで、越中一国を安堵された。

 

 

こうした経緯から、富山県呉東地区では「賤ヶ岳の戦い」で上司である柴田勝家を裏切った前田利家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた成政の人気が高い。

 

 

 

豊臣秀吉が織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に戦った「小牧・長久手の戦い」では、成政は当初は豊臣秀吉の側につく姿勢をみせていたものの最終的には織田信雄・徳川家康の側につき、豊臣秀吉の側に立った前田利家の末森城を攻撃する(末森城の戦い)

 

末森城の戦い
 

この頃の成政は、越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ、その戦いは厳しいものであった。

 

 

ところがそんな成政の苦労とは裏腹に、豊臣秀吉と織田信雄の間で和議が成立し、徳川家康が停戦すると、このままでは立場が危うくなる成政は厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと向かい、徳川家康に再挙を促す。

 

この決死の行動と懇願は「さらさら越え」と呼ばれ、伝説化している。
 

佐々成政1
 

しかし、徳川家康の説得には失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったため、1585年、富山城は豊臣秀吉によって10万の大軍で包囲され、成政は降伏した(富山の役)

 

 

成政は一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、政治や軍事の相談役である「御伽衆」として豊臣秀吉に仕える。

 

 

 

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」で功をあげた成政は、1587年、肥後一国を与えられるという復活劇を成し遂げた。

 

佐々成政
 

しかしながら、早急に改革に乗り出した成政は肥後国人の反発を受け(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、その失政の責任から摂津国尼崎法園寺にて切腹。

 

 

成政は正確な生年が不詳であるが、没年は51歳くらいとされている。

 

 

 

成政には早百合という美しい側室がいたとされ、早百合が懐妊した際に「早百合の子どもは成政様の子ではない。」と言う噂が流れた。

 

成政は烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿い(富山県富山市磯部町)で殺し、さらに早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にする。

 

また、早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら佐々家は滅亡する。」と呪いの言葉を残したため、佐々瑞雄(成政の甥)は母から「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません。」と言われていたという。

 

早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといわれた。

 

富山県富山市磯部町

この話以外にも、勝者である豊臣秀吉や前田利家に悪評を創作され、評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残され、成政はとかく過小評価を受けがちであるが、その豊臣秀吉や前田利家ですら軍事指揮官としての力量ばかりは認めざるをえず、多くの賞賛の記録が残っている。




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上杉 謙信 (新潟)

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1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを敢行し、製品の販売に力を尽くす。

 

 

商業の発達によって人々の生活は格段に潤い、国内の争いはなくなっていき、戦争をせずに国を治めるという謙信の夢は実現するかに思われた。

 

青苧
 

しかし、その豊かな越後は甲斐の武田信玄に執拗に狙われることとなる。

 

1541年に武田氏の家督を継いだ信玄は信濃攻略に乗り出し、およそ12年で信玄の領土は越後との国境付近まで広がり、信濃で信玄の領土になっていなかったのは川中島の一帯だけとなった。
 

武田信玄
  
武田信玄
 

謙信は、信玄に攻められた信濃の豪族からの救援要請に応えて川中島に出陣する。

 

「第一次川中島合戦」1553年若くして自ら戦の先頭に立ち連戦連勝を重ねてきた軍事の天才である謙信は武田軍を圧倒し、さらに武田軍を追って次々に武田領内の城を落とし、信玄の川中島侵攻を防ぎ切った謙信は越後へと引き返していった。

 

 

 

1554年、信玄は利害の一致した今川・北条との三国同盟を成立させ自領の背後を固めると、再び川中島への侵攻を計画する。

 

 

この時、信玄は越後から川中島に至る街道のすぐ近くにある旭山城に目を付け、この地域に力を持つ善光寺の栗田鶴寿(くりたかくじゅ)を味方につけた。

 

 

「第二次川中島合戦」1555年、謙信が川中島に進軍するために犀川を渡ろうとすると、武田側についた旭山城が謙信を側面からけん制し、そのまま進軍すると上杉軍は武田軍本隊と旭山城に挟み討ちにあう状況となる。

 

 

謙信は犀川の北の岸辺で足止めを余儀なくされ、両軍は犀川を挟んでにらみ合いを続け、対峙すること200日、両軍共に限界が近づくと、信玄は川中島を元の領主に返すことを条件に謙信へ停戦を呼び掛け、この停戦交渉を受け入れた謙信は越後へと引き返す。

 

 

しかし2年後、雪で謙信が出兵できないタイミングを見計らうと、信玄は協定を無視して川中島に侵攻し、信濃の豪族達は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声は絶えず、謙信は約束を破った信玄に激怒する。

 

 

「第三次川中島合戦」1557年、謙信は川中島へと出陣すると、川中島からさらに奥へ進撃するが、武田軍は決戦を避けて遠くから監視するということを繰り返した。

 

 

正面から戦おうとしない信玄に謙信は苛立ちを募らせながらも、これ以上敵中に深追いして信玄の術中にはまる危険性を察知し、越後へと帰っていく。

 

川中島
 

「第三次川中島合戦」から2年後の1559年に謙信は京都へ行き、権力を失いつつあった室町幕府の将軍・足利義輝と面会する。

 

 

室町幕府は、戦に勝っても領土を増やそうとせず義を重んじる謙信に大きな期待を寄せ、関東を統率する室町幕府の要職「関東管領」に任じ、関東の秩序回復という大義名分を得た謙信は、関東各地に遠征するが、そのいずれもが他の領主や幕府から出陣を求められたもので、それらの戦いによって謙信自身は領地をほとんど増やさなかった。

 

 

 

そんな折に、武田信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、武田・今川・北条の三国同盟に大きな混乱と動揺が生じる。

 

 

謙信はこの三国同盟の動揺を逃さず、北条氏が支配する関東平野への侵攻を始め、わずか7カ月で北条氏の拠点・小田原城まで進撃した。


上杉謙信1
 

北条氏の小田原城が落ちると、今川氏は義元の死によって混乱の中にあり、武田の領地は三方向から謙信に包囲されるという状況になるため、信玄は焦りをつのらせ、1561年、信玄は越後を目指して甲府を出陣し、川中島の南に築いた海津城に拠点を構える。

 

 

これを知った謙信は、すぐに関東平定を中止し、素早く川中島に到着すると、そのまま武田軍の目の前で千曲川を渡り、武田軍の拠点・海津城の間近にある妻女山に陣を張った。

 

 

両者が陣を張ってから15日、信玄は闇に乗じて上杉軍の立て篭もる妻女山の背後へと別働隊12000を出撃させる。

 

 

信玄とった作戦は、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにするという「きつつき戦法」と呼ばれるものであった。

 

妻女山
 

しかし、謙信は前日の夕刻に武田軍の動きを察知して、この作戦を見抜く。

 

謙信はすぐさま下山の準備をするように指令を下し、上杉軍は武田別働隊に背後をつかれる前に下山の行軍を開始する。

 

上杉軍は、全ての馬に薪を噛ませて鳴かないようにし、兵は一切声を出さないように厳命され、上杉軍13000は一糸乱れね見事な沈黙の行軍で密かに千曲川を渡り、闇の中で千曲川の北・八幡原に布陣した。

 

 

一方で武田軍本隊は、濃い霧がたちこめていた早朝の川中島で、別動隊に妻女山から追い落とされ慌てて下山する上杉軍を待ち構える。

 

しかし、やがて夜が明け霧がはれていくと、信玄はすでに布陣して攻撃態勢万全で立ちはだかる上杉軍の姿を目にすることとなった。


第四次川中島の戦い
 

上杉軍が怒涛の攻撃を開始すると、予期せぬ事態に遭遇して動揺した武田軍は劣勢となり、武田軍の防御は次々に破られ、乱戦の最中、武田軍の本陣は手薄となる。

 

 

武田側の資料「甲陽軍鑑」では「白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、騎馬武者の馬が槍で刺されると、騎馬武者はその場を立ち去った。」と記され、上杉謙信が武田信玄に自ら斬りかかったという伝説が生まれた。

 

上杉謙信・武田信玄
 

武田軍が上杉軍の猛攻を耐え凌ぐこと4時間、武田軍別働隊がようやく千曲川を渡り八幡原へ到着し、武田軍の怒涛の反撃が始まると戦況は一転、武田軍優勢となって、上杉軍は撤退する。

両軍あわせて死傷者27000を出した激戦「第四次川中島の合戦」に終止符がうたれた。

 

 

 

1564年「第五次川中島の合戦」と呼ばれるこの時は、謙信と信玄は川中島で遭遇するも共に戦うことなく撤退。

 

 

その後、越後への侵攻を断念してその矛先を南へと向けた信玄が、今川氏との戦いで海路を断たれて塩(人間は塩分が不足すると死亡するうえ、この時代は入手が簡単ではなく貴重であった。)が手に入らなくなると、信玄のもとに謙信から大量の塩が届けられ、この故事から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。

 

 

 

 

宿敵・武田信玄との戦いが落ち着いた1569年、京都にいた織田信長の使者が謙信のもとを訪れ「謙信公の武威の誉れは挙げればきりがありません。この信長が手堅く申し付けて将軍家の御所を経営し、お守りいたします。」という書状が届く。

 

 

信長は国境を接する武田信玄を当面の敵としていたため、謙信とは友好関係を持ちたい思惑があった。

 

 

謙信は信長の室町幕府を守るという言葉を信じ、1572年、上杉謙信と織田信長は同盟を結ぶ。

 

 

しかし、1573年、武田信玄が死去した直後、信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、約240続いた室町幕府が滅亡し、さらに信長は勢いそのまま、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、その勢力を拡大した。


織田信長
  
織田信長
 

しかし、信長は軍事の天才である謙信とは敵対しないように根回しをする。

 

信長は南蛮渡来のビロードのマントなど珍しい品々の贈り物攻勢を仕掛けた。

1574年には、現在国宝となっている「洛中洛外図屏風」を贈る。

その「洛中洛外図屏風」は、将軍クラスしか乗ることが許されない黒い輿に乗る謙信が描かれており、一緒に京を治めましょうというメッセージと受け止められるものだった。

 

 

 

ところが1575年「長篠の戦い」にて新兵器である鉄砲を駆使して武田軍を撃破した信長は、戦争への自信を深め、越中にいた謙信の重臣である村上氏に離反を促し、さらに常陸の佐竹氏、下野の小山氏などと友好関係を結ぼうとする。

 

 

これらを知った謙信のもとに、京都を追われた足利義昭の使者が訪れ「幕府再興のために信長を討ち、急ぎ上洛して欲しい。」と懇願され、同盟をないがしろにされ信長への怒り爆発寸前の謙信は、それに応じて信長討伐を決意した。

 

 

 

一方、信長も謙信の上洛を阻止するため1576年、琵琶湖の東岸に安土城の築城を開始し、謙信と対決する準備を整える。

 

 

謙信は、堅固な要塞を構えて信長と敵対していた大阪石山本願寺と西国の実力者・毛利氏と同盟を結び、上杉・西山本願寺・足利義昭・毛利氏という反織田包囲網を成立させた。

 

 

謙信は「たとえ信長、億万の軍衆を列ね、山を抜く勢いあるといえども、予が獅奮の矛先に向かいては叶うべからず。」と西に向けて出陣する。


上杉謙信5
 

謙信は途中で越中を平定し、さらに能登に進出すると畠山氏の七尾城(現在の石川県七尾市古城町)を囲んだ。

 

七尾は日本海航路の中心であったため、ここを押さえると船を使って越後から大量の兵糧を運べるため、謙信としてはぜひともとりたい拠点であった。

 

 

謙信は、火あぶりや釜茹でなどで数万人が虐殺され信長から徹底的な弾圧を受けていた加賀一向一揆の勢力と手を結び、難攻不落といわれた七尾城を落として能登を勢力下におく。

 

七尾城
 

謙信の動きを知った信長は焦り、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉からなる4万の主力部隊を七尾城に差し向ける。

 

 

上杉軍は槍や騎馬が主体で大量に鉄砲を揃えた織田軍に装備が劣るため、謙信は鉄砲対策として、合戦を標的が見えない夜に持ち込むことを考え、上杉軍は合言葉の周知訓練を徹底し、暗闇でも統率がとれるようにした。

 

 

織田軍4万が手取川を越えたところに陣を張るのを確認した謙信は、数日来雨が続いた夜に、37000の軍勢を突撃させ、一糸乱れぬ攻撃を仕掛ける。

 

 

突然の奇襲に混乱した織田軍は、雨で火薬がしめり夜で相手が見えず鉄砲が威力を発揮しなかった。

さらにパニック状態となった織田軍は、手取川を渡って退却しようとするが、川は雨で濁流と化し、多くの溺死者を出す。

 

 

織田軍の惨敗は「上杉におうては織田も手取川。はねる謙信、逃ぐる信長。」と言われて瞬く間に評判となり、謙信も「戦ってみると信長は案外弱い。」という印象を持った。


手取川
 

評判以上の謙信の強さを知った信長は「謙信公ご上洛の際には、この信長が扇一本を腰に差し都へご案内いたしましょう。信長は西国、謙信公は東国を治めることにしてはいかがでしょう。」という究極に媚びへつらった書状を送るが、もはや謙信は信長を信じることはなく、1578年、謙信は6万の兵を動員して信長討伐の予定を立てる。

 

 

ところが、信長はこの絶体絶命の危機を思わぬ形で脱出した。

 

 

謙信は春日山城内の厠で倒れると、そのまま意識は戻らず、49歳で生涯を閉じ、死因は状況から脳卒中と考えられている。

 

 

上杉軍は謙信の死によって、信長討伐の上洛を中止し、さらに信長包囲網も謙信という求心力を失って崩壊した。

 

毘沙門天
 

こうして、毘沙門天の化身となって戦国乱世に終止符をうつという謙信の夢は叶わずに終わる。



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劇団Camelot

「劇団Camelot」とは、世界の歴史や伝説の案内人となる猫のキャラクター達です。



「劇団Camelot」の団員別、案内を務めた歴史・伝説の人物一覧。


   アーサー
主人公格の役を務めることが多い団長的な存在

正義感が強く真面目で勇敢で一見欠点がなさそうだが、決断力が鈍く人を信用し過ぎる面がある。
アーサー王280x400
「アレクサンドロス大王」      アレクサンドロス大王

「K-1 歴代グランプリ王者」   ピーター・アーツ

「新撰組」             近藤 勇

「アーサー王伝説」         アーサー王       

「項羽と劉邦」           劉邦

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 アテルイ
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 徳川 家康
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 北条 早雲
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 聖徳太子
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 吉田 松陰
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 坂本 龍馬
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 尚寧王



   ランスロット
NO.2格の役や主人公のライバル役を務めることが多い

勇敢で礼儀正しいクール系だが内に秘めた情熱が顔を出すことも。
アンティゴノス280x400
「アレクサンドロス大王」      アンティゴノス

「K-1 歴代グランプリ王者」   アーネスト・ホースト

「新撰組」             土方 歳三

「アーサー王伝説」         ランスロット

「項羽と劉邦」           韓信

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 津軽 為信
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 新田 義貞
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 佐々 成政
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 豊臣 秀吉
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 尼子 経久
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 三好 長慶
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 大村 純忠



   ガウェイン
篤い信念がある役を務めることが多い

性格は、熱血系で感情的だが男気があり、約束は決して破らない。
毛利元就280x400
「アレクサンドロス大王」      ペルディッカス

「K-1 歴代グランプリ王者」   アンディ・フグ

「新撰組」             永倉 新八

「アーサー王伝説」         ガウェイン

「項羽と劉邦」           蕭何

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 シャクシャイン
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 源 頼朝
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 朝倉 義景
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 大石内蔵助
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 毛利 元就
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 水野 忠邦



   ガラハッド
ハッピーエンドにならない実力者といった役を務めることが多い

真面目で優しく神秘性がある悟り系で、なんでも器用にこなす。
沖田総司280x400
「アレクサンドロス大王」      プトレマイオス

「K-1 歴代グランプリ王者」     マーク・ハント

「新撰組」            沖田 総司

「アーサー王伝説」        ガラハッド

「項羽と劉邦」          張良

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 保科 正之
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 千葉 常胤
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 前田 利家
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 石田 三成
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 宮本 武蔵
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 大友 宗麟



   パーシヴァル
野性味のある役柄を務めることが多い

物事に積極的体育会系的な純真さと天真爛漫さを併せ持つ。
熊谷直実280x400
「アレクサンドロス大王」     セレウコス

「K-1 歴代グランプリ王者」    レミー・ボンヤスキー

「新撰組」            山南 敬助

「アーサー王伝説」        パーシヴァル

「項羽と劉邦」          樊カイ(はんかい)

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 佐竹 義宣
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 熊谷 直実
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 木曾 義仲
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 藤堂 高虎
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 名和 長年
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 加藤 清正



   トリスタン
一匹狼的な役を務めることが多い

自信過剰な面があり、放浪者のような冒険心が高いが、寂しがり屋な面もある。
トリスタン280x400
「アレクサンドロス大王」      ヘファイスティオン

「K-1 歴代グランプリ王者」   ミルコ・クロコップ

「新撰組」             斎藤 一

「アーサー王伝説」         トリスタン

「項羽と劉邦」           曹参

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 上杉 鷹山
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 宇都宮 公綱
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 上杉 謙信
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 徳川 吉宗
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 平賀 源内
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 黒田 官兵衛



   モルドレッド
ラスボス的な役を務めることが多い

疑い深く頭の回転が速く合理的だが、本当は承認願望が強い。
項羽280x400
「アレクサンドロス大王」      アンティパトロス

「K-1 歴代グランプリ王者」     アリスター・オーフレイム

「新撰組」            芹沢 鴨

「アーサー王伝説」        モルドレッド

「項羽と劉邦」          項羽

「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 伊達 正宗
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 平 将門
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 斎藤 道三
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 足利 尊氏
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 藤原 純友
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 伊東 義祐



     ユーサー
圧倒的な実力者といった役を務めることが多い

控えめながらも勇敢で、影の実力者といったタイプ。
平清盛280x400
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 武田 信玄
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 平 清盛

「K-1 歴代グランプリ王者」     ブランコ・シカティック



     ペリノア
強いカリスマ性を持った役を務めることが多い

豪胆でダイナミックな兄貴分タイプ。
織田信長280x400
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 織田 信長
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 藤原 道長
「47都道府県 歴史的偉人めぐり」 西郷 隆盛

「K-1 歴代グランプリ王者」    セーム・シュルト



   グィネヴィア
ヒロイン役を務めることが多い、女性団員のエース格

ワガママな言動が目立つが、母親に逆らっては枕で涙する少女のような根の優しさがある。
グィネヴィア700x1000
「アレクサンドロス大王」     王妃スタテイラ2世

「絶世の美女シリーズ」     クレオパトラ7世

「アーサー王伝説」       王妃グィネヴィア



   ラグネル
天国と地獄、栄光と挫折など浮き沈みのある役柄が得意

気が強く芯があり融通の利かないところがあるが、本当は傷つきやすい。
ラグネル


「絶世の美女シリーズ」     デュ・バリー夫人

「アーサー王伝説」       ラグネル



   ディンドラン
可憐で潔い最期を迎える役柄が得意

愛情深く人に親切で物知りだが、控えめで目立たないタイプ。
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 「絶世の美女シリーズ」     マリー・アントワネット

 「アーサー王伝説」       ディンドラン



   モルゴース
少し冷酷さのある悪女的な役柄が得意

二面性が強く、なにを考えているのか分かりにくいところがあるタイプ。
703x999虞美人

「絶世の美女シリーズ」     マリア・テレジア

「アーサー王伝説」       モルゴース

「項羽と劉邦」         虞美人



   エレイン
運命に翻弄される困難な役柄が得意

悲観的でマイナス思考だが、自分の気持ちに正直で行動力がある。
楊貴妃700x1000
「絶世の美女シリーズ」     楊貴妃

「アーサー王伝説」       エレイン


 
   クンネヴァール
助演気質でいかにも脇役といった役柄が得意

気が弱く物静かで従属的だが、人を見極める力に優れている。
703x999ロクセラーナ
 「絶世の美女シリーズ」     ヒュッレム・ハセキ・スルタン

「アーサー王伝説」       クンネヴァール



   イゾルデ
母性があり意思の強い役や悲劇的な最期を迎える役が得意

行動力があり自己主張も意思も強く、包容力がある姉御肌。
ベアトリーチェ・チェンチ700x1000
「絶世の美女シリーズ」     ベアトリーチェ・チェンチ

「アーサー王伝説」       イゾルデ




       猫様
「劇団Camelot」の創造神
猫様
昔々、貧乏な母子3人家族の家の近くで妊娠した野良猫が倒れていました。

母が野良猫を病院に連れていくと、緊急手術となり、手術代は20万円近くでした。

一家はとても貧乏で、度々、電気が止まったりする家庭だったので、経済的なダメージは大きいものでした。

しかし、母は「かわいそうじゃない。」と笑顔で言いました。
息子と娘は「母さんには、いつか猫の恩返しがあるね。」と笑顔で言いました。

しかし、どうやら猫は忘れっぽいようで、その後、母に分かりやすく良い出来事は起こりませんでした。
母は忘れっぽい猫が好きであり続けました。

忘れた頃に猫は神様となって、息子が好きな歴史や伝説の表現に手を貸すことになりました。



猫様Tシャツ
OhYeah!  猫様
MENS 5.0oz / WOMENS 5.6oz / KIDS 5.6oz Tシャツ [36色/15サイズ]
4,880円(税別)



猫様スマホケースA
ClubT  猫様
(Tシャツ 税抜3500円,長袖Tシャツ,ジップパーカー,スマホケース各種 など)



アーサー王TシャツP
アーサー王(モノクローム) 「劇団Camelot King's collection」
MENS 5.0oz / WOMENS 5.6oz / KIDS 5.6oz Tシャツ [36色/15サイズ]
8,800円(税別)



四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!









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