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石田三成

石田 三成 (滋賀)

石田三成700x1000

1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。




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徳川 家康 (東京)

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1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。

 

父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。

 

 

松平氏は弱小な一地方豪族であった。

 

家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。


 

その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。

 

 

しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。

 

 

こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。

 

今川義元
   
今川義元
 

1560年、ついに転機が訪れた。

 

「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。

 

 

家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。

 

名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。

 

 

1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。

 

今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。


浜松城
 

そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。

 

 

武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。


 

信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。

 

信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。

 

すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。

 

織田信長
  
織田信長

やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。

 

 

一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。

 

信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。

 

 

1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。

 

浜松城に緊張が走った。

 

信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。


武田信玄
  
武田信玄
 

二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。

 

 

しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。

 

 

かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。

 

 

二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。

 

 

家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。

 

二俣城

もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。

 

 

 

決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。

 

 

信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。

 

 

 

武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。

 

 

台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。

 

 

そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。

 

 

信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
 

三方ヶ原の戦い
 

家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。

 

家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。

 

 

ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。

 

 

家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。

 

徳川家康1

10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。

 

あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。

 

 

 

1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。

  

長篠の戦い
 

1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)

 

 

結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。

 

 

 

家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。

 

小牧山
 

1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。

 

両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。

 

しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。

 

秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。

 

日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。

 

長久手の戦い
 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。

 

 

これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。

 

 

秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。

 

 

秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。

 

 

さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。

 

 

1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。

 

 

明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。

 

 

あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。

 

その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。

 

 

家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。

 

 

ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。

 

 

先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。

 

 

所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。

 

 

さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。

 

そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。

 

 

秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。

 

 

1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。

 

江戸城

家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。

 

 

政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。

 

徳川家康3
 

1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。

 

 

この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。

 

 

家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。

 

この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。

 

 

一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。

 

 

こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。

 

 

家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。


石田三成
  
石田三成
 

秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。

 

 

家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。

 

 

武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。

 

 

家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。

 

 

一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。

 

 

こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。

 

 

1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。

 

 

しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。

 

関ヶ原の戦い
 

1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。

 

 

1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。

 

 

この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。

 

 

こうして16141615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。

 

 

その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。

 

日光東照宮
 

1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。

 

 

その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。




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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



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近畿 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。


この近畿地方で最も悩んだのは、もちろん京都です。

とにかく候補が多過ぎて多過ぎて、一方で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康くらいの突き抜けかたをしている人物もおらず、一人に絞るのは相当に無理がありました。

なので、京都に関しては特例として複数名を取り上げることにしました。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!






・三重県 「藤堂 高虎」       (案内人・パーシヴァル)








・京都府 「平清盛」        (案内人・ユーサー)

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