後世の人類が絶世の美女クレオパトラと称するクレオパトラ7世フィロパトルが、王女として生まれたプトレマイオス朝エジプトは、地中海世界屈指の大都市アレクサンドリアを首都におき、ヘレニズム文化の中心として栄えていた。
プトレマイオス朝は、血族結婚を繰り返し「プトレマイオス」という名の男子と「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」というの名の女子が、兄妹・姉弟の夫婦で王位を継ぎ、共同統治するのが慣例であったが、共同統治でさえあれば男女に限定はされず母娘での女王二人体制も存在した。
紀元前51年、クレオパトラ7世が18歳の時、父の遺言とプトレマイオス朝エジプトの慣例に従い、クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が結婚して王位に就く。
この頃のプトレマイオス朝エジプトには、相いれない二つの大きな主張が存在していた。
一つは、国民への重税につながる強国ローマへの貢納をすべきでないというものである。
例えローマの侵略によって国家が滅ぼされる可能性があっても、ローマには決して屈しないという反ローマ主義。
もう一つは、重税に対する国民の不満が出ようとも、ローマの属国に成り下がろうとも侵略されないように立ち回り、プトレマイオス朝エジプトを生き残らせるという親ローマ主義。
クレオパトラ7世は父の路線を踏襲するようにローマとの関係を重要視していた。
プトレマイオス13世は側近達の介入もあり、ローマへの非服従を強く主張していた。
一方で、ローマはローマで、ローマ内の権力闘争が熱を増していっていた。
ローマとの関係を重要視するクレオパトラ7世は、単純に親ローマではなく、ローマのどの勢力どの有力者を支持するかという難しい選択をしなければならなかった。
紀元前48年、人類史的な重要度特大級のローマ内戦「ファルサスの戦い」にユリウス・カエサルが勝利する。
敗れたグナエウス・ポンペイウスはエジプトへと逃れて来るが、プトレマイオス13世によって殺害される。
続いてポンペイウスを追ってきたカエサルがエジプト入りする。
その頃、クレオパトラ7世は、プトレマイオス13世によってアレクサンドリアから追放されていた。
クレオパトラ7世はカエサルとの接触を望むものの、プトレマイオス13世派で埋め尽くされている王宮でカエサルに会うのは不可能に思われた。
そこで、クレオパトラ7世は自らを絨毯に包んで、カエサルのもとへ贈り物として届けさせる。
古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があった。「プレゼントはワタシ」そんな意味にも解釈できる行為である。
クレオパトラ7世は、なんともエロチックなメッセージと共にカエサルとの接触に成功する。
クレオパトラ7世の美貌、敵の中枢に単身侵入する豪胆さ、危険な目的にさえ遊び心を持たせるセンス、カエサルはそれら全てに驚愕し一瞬でクレオパトラ7世に魅了された。
カエサル52歳、クレオパトラ21歳であった。
クレオパトラ7世が強国ローマの支配者カエサルの後ろ盾を得たことに焦ったプトレマイオス13世は、もともと反ローマ主義でもあったため、カエサルの率いてきた軍を攻撃する。
この「ナイル川の戦い」でプトレマイオス13世は溺死した。
カエサルは、クレオパトラ7世との恋愛関係やプトレマイオス13世が反ローマ主義であることを抜きにしても、プトレマイオス13世を良くは思っていなかった。
政治的主張の違いから敵同士として命の取りあいをすることになっても、ローマ人としてローマを想うポンペイウスに敬意を持っていた。
敗走中を外国人に討ち取られたポンペイウスの無念を想うと同情せずにはいられなかった。
カエサルの後ろ盾を得たクレオパトラ7世は、もう一人の弟プトレマイオス14世を共同統治者にし、女王に返り咲いた。
紀元前47年、クレオパトラ7世は、カエサルの子カエサリオンをもうける。
翌、紀元前46年、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れ、カエサルの庇護のもと目立たぬ形でローマに滞在していたが、紀元前44年にカエサルが暗殺された。
クレオパトラ7世は、カエサリオンが嫡子のいないカエサルの後継者となることを望んでいたが、カエサルは遺言書で養子であり大甥(妹の孫)でもあるオクタヴィアヌスを後継者と定めていた。
プトレマイオス朝エジプトを守ろうとし続けたクレオパトラ7世が、ローマ帝国を創造し続けたカエサルの思考を理解するのは難しかったのかもしれない。
守ろうとする者と、生み出そうとする者には、決定的な違いが存在する。
クレオパトラ7世は、カエサリオンを連れ急遽エジプトに帰る。
さて、ローマはカエサルの死により長い混迷に突入していく。
紀元前42年、カエサルを暗殺した一人ブルトゥスらと、カエサルに後継者指名されたオクタヴィアヌスらが「フィリッピの戦い」で決戦する。
クレオパトラ7世はブルトゥスらを支援するが、勝利したのはオクタヴィアヌスらであった。
オクタヴィアヌス側のアントニウスは、敵を支援したクレオパトラ7世に出頭を命じた。
クレオパトラ7世は女神アプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって、アントニウスのもとへ出頭した。
そうして、瞬く間にアントニウスを魅惑し、危機を乗り越える。
クレオパトラ7世と人生を添い遂げる事を望んだアントニウスは、妻であったオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、死後はエジプトでの埋葬を希望するなど、クレオパトラへの傾倒にともなってエジプト色が強くなっていく。
一方、ローマの覇権争いはアントニウスとオクタヴィアヌスによるものとなり、その争いも最終局面に達していた。
このオクタヴィアヌスとアントニウスの対立構造は、次第にローマの両派閥による争いというより「ローマ対エジプト」という構図に、アントニウスの振る舞いから矮小視されていった。
紀元前31年、アントニウス派およびエジプトの連合軍と、オクタウィアヌス派が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する。
この「アクティウムの海戦」と呼ばれる天下分け目の決戦には、クレオパトラ7世も自ら主力艦に乗り込んだ。
アントニウス・クレオパトラ連合軍は戦力的には上回っていたものの、両軍が少し交戦したとたんに、クレオパトラの艦隊が突然に戦線を離脱する。
彼らがどんな人生を歩み、誰を愛し、誰に愛され、そんなことには1ミリの価値もないかのように、男達は獣のように猛り狂って命を奪いあっていた。
数多の政治的修羅場を乗り越え、数多の殺傷沙汰にも直面してきたクレオパトラ7世であったが、戦場の地獄絵図には怯んでしまった。
さらに、アントニウスも愛するクレオパトラ7世を追って撤退する。
指揮官を失った連合軍は、命令系統を失い、烏合の衆と化し、ただただ逃げ惑いながら殺戮されるだけとなった。
アレクサンドリアに逃げ着いたアントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報を聞いて自殺を図る。
アントニウス自殺未遂の知らせを聞いたクレオパトラ7世は、瀕死のアントニウスを自分のもとに連れて来させる。
アントニウスはクレオパトラ7世の腕の中で息を引き取った。
そして、追ってきたオクタヴィアヌスがアレクサンドリアに到着すると、クレオパトラ7世はアントニウスの後を追うように、コブラに胸を噛ませて自殺した。
オクタヴィアヌスは、クレオパトラ7世の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。
クレオパトラ7世は、祖国エジプトよりも守りたかった我が子カエサリオンの助命は、女王らしく求めなかった。
オクタヴィアヌスはエジプトを征服し、カエサルの子カエサリオンを無慈悲に殺害した。
圧倒的な人気を誇るカエサルの子を生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」として担ぎ上げ、再びローマに混乱をきたすか分からない。
それは当然すぎる処刑であった。
紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトは皇帝直轄地としてローマに編入された。