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源義朝

平 清盛 (京都)

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1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。




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源 頼朝 (神奈川)

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清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部
)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。

 

 

遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。

 

 

保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。

 

 

兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
 

源義朝
  
源義朝
 

この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。

 

 

1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。

 

 

頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。

しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。

 

 

源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。

 

 

ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。

政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。

 

源頼朝6
 

一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。

 

 

1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。

 

それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。

 

 

自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。

 

蛭ヶ小島
 

頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。

 

石橋山


数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 

 

一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。

 

平維盛
  
平維盛
 

頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。

 

 

関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。

 

 

実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。

 

 

頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。

 

 

上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。

 

 

上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。

 

上総広常
   
上総広常
 

北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。

 

秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。

 

 

しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。

 

 

頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。

 

 

頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。

 

源頼朝2
 

その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。

 

 

 

頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。

また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。

 

そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。

 

 

たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。

 

 

平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。


富士川
 

戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。

 

 

遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。

 

 

頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。

 

 

 

「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。

 

義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。

 

兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。

 

源義経
  
源義経
 

その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。

 

ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。

 

1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。

 

 

頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。

 

義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。

 

 

川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。

 

 

時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。


宇治川の戦い
 

木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。

 

平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。

 

ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。

 

そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。

 

 

しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。

 

一ノ谷の戦い

さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。

 

 

朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。

 

 

ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。

 

 

この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。

 

義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。

 

 

屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。

 

 

嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。


屋島

平氏軍は屋島から壇ノ浦に逃亡する。

 

 

屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。

 

この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。

 

壇ノ浦の戦い
 

勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。

 

 

このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。

 

 

鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。

 

 

頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。

 

腰越
 

京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。

 

 

一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。

 

命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。

 

 

ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。


朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。

 

 

頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。

 

 

頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。

 

源頼朝

1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。

 

頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。

 

その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。

 

 

1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。

 

 

1199年、51歳で死去。

 

 

 

多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。

 
佐奈田与一1
  佐奈田与一

また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。




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千葉 常胤 (千葉)

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千葉氏は、桓武天皇の曾孫・高望王
(たかもちおう)の末子・平良文(たいらのよしふみ)を祖とし、平良文は「平将門の乱」前後に下総国相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心に活躍するようになる。

 

 

平良文から5代下がった平常兼(たいらのつねかね)の息子・千葉常重(ちばつねしげ)は平安時代後期の1126年に現在の千葉県千葉市中央区亥鼻付近に本拠を移して武士団を形成し、これが、千葉の都市としての始まりとなった。

 

大椎城
 

後の世に千葉氏中興の祖とされる千葉常胤(ちばつねたね)は、千葉常重の子として大椎城(現在の千葉県千葉市緑区大椎町)で生まれる。

 

 

1135年、18歳で家督を相続し、亥鼻の居城や相馬郷(現在の柏市、我孫子市周辺)の領土を受け継ぐ。

 

千葉常胤1
 
 

常胤が家督を継いだ翌年、下総国の国司(朝廷の役人)・藤原親通(ふじわらのちかみち)が税金の滞納を理由に父・千葉常重を逮捕・監禁し、相馬郷と立花郷(現在の千葉県香取市、千葉県香取郡東庄町)の権利を要求する。

 

1143年、源義朝(源頼朝の父)がこの問題に介入し、相馬郡の権利を奪った。

 

 

こうした事態に対して常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後に滞納分を返済すると相馬郡の郡司(国司の下)に任命され、相馬郷の権利を回復させていく。

 

 

また、源義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、土地の支配権を確保した。
 

相馬御厨
 

そのため常胤は、1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突した「保元の乱」に源義朝の指揮下で出陣する。

 

保元の乱
 

しかし、1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源義朝が平清盛に敗れると、常胤が約20年かけて回復させていった所領は没収され、常胤は相馬御厨と橘庄の権利を全て失う。

 
 

藤原親通(平氏側)とむすび、所領没収のキッカケを作った常陸国の佐竹義宗と、常胤に確執が生まれる。

 

平治の乱
 

この頃「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後50日余りの子・源頼隆が、常胤のもとに流されてくると、常胤は厳しい平氏の監視下にありながら、この子を密かに源氏の子として庇護し大切に育てた。

 

 

 

1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏に敗れ、安房国に逃れてくると、頼朝は直ちに常胤に使者を送って加勢を求めた。

 

 

常胤はすぐ源頼朝に従うことを決意し、一族300騎を率いて救援に向かう。

 

 

この時に源氏の子として育ててきた源頼隆を伴い、源頼朝から源氏の孤児を育ててきたことを深く感謝される。

 

房総
 

常胤がすぐに源氏軍へ参陣した背景には、源頼朝の父・源義朝との関係だけでなく、領地問題でもめた藤原親通・佐竹義宗が平氏側の立場であることも大きかった。

 

実際に、この後、佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。

 

 

また、平氏に討たれた息子・日胤の仇をとるのが目的の一つでもあった。

 

千葉常胤4
 

その後、常胤は一貫して頼朝を支え、相模国鎌倉を本拠とすることを進言するなど、筆頭御家人として鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たす。

 

 

 

安房国で再挙した源頼朝に東国武士が参集して大軍へと膨れ上がり、は鎌倉に入った後、駿河国富士川(現在の静岡県富士市)で平氏軍と衝突し(富士川の戦い)勝利すると、平氏打倒に焦る源頼朝はこのまま平氏を追撃して京都に進入することを望むが、常胤はそれに反対して東国を固めるように進言する。


 

実際に、源頼朝がここで一度地盤を固めたことが、確実に平氏を追い詰めることにつながった。

 

富士川の戦い
 

1184年、常胤は源範頼軍に属して、木曾義仲の追討、「一の谷の戦い」に参加、その後、豊後国(現在の大分県の大部分)に渡り軍功を上げる。

 

 

1185年に「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡すると、源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立した。

 

 

1190年、奥州藤原氏を滅亡させた「奥州合戦」で、常胤は東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得る。

 

 

源頼朝は常胤を父のように慕い、正月には必ず常胤の屋敷で新年を祝うほど厚い信頼を寄せていた。


千葉常胤
 

1201年、82歳で死去。

 

 

 

常胤は息子たちとともに源平合戦や奥州合戦に参加し、その功績によって失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方から九州地方まで全国20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は鎌倉幕府の中でも屈指の御家人に成長する。

 

 

獲得した所領は、千葉六党と呼ばれる常胤の6人の息子達が、それぞれ所領を分割して引き継ぎ、それぞれが本拠とした所領の地名を名乗り、分家を繰り返しながら、全国各地に広がっていった。




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熊谷 直実 (埼玉)

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熊谷直実
(くまがいなおざね)は、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、幼名を弓矢丸といい、その名のとおり弓の名手であった。

 

直実は2歳の時に父を失ったため、母方の伯父の久下直光(くげなおみつ)に育てられる。

 

 

 

1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突(保元の乱)した。

 

16歳の直実は、後白河天皇側の源義朝の指揮下でこの戦いに参加して活躍する。

 

保元の乱
 
1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した(平治の乱)ため、直実は源義朝の長男・源義平の指揮下で働くが、戦いは平氏が勝利し、平家はここから20年間の全盛期を迎えた。

 

平治の乱
 

その後、直実が29歳の時、伯父・久下直光の代理人として、京都で街の警備にあたる大番役を務める。

 

ある時、京都で相撲大会があり、直実は10人以上を投げ飛ばし、それを観ていた(たいらのとももり)に気に入られて仕えることになった。

 
平知盛
  


直実が独断で平知盛に仕えたため、怒った伯父・久下直光は直実の領地の一部を没収し、この遺恨が後々大きな分岐点のもとになる。

 


 

 

1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、平氏軍と石橋山(神奈川県小田原市)で戦うが、平氏軍の大庭景親に大敗を喫し、敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、わずかな部下と共に洞穴(しとどの窟)に身を隠す。

 

 

この時、大庭景親に従って「石橋山の戦い」に参加していた直実は、梶原景時と共に、源頼朝が隠れている洞穴を発見するが、洞穴から二羽の鳩が飛び立つと「人は見当たらず」と、源頼朝を見逃し、以後、直実が源頼朝の御家人となったため、熊谷氏の家紋は二羽の鳩が描かれるようになったといわれている。

 

熊谷氏
 

態勢を立て直した源頼朝は、源氏に従わない常陸国の佐竹秀義を討つべく金砂城(現在の茨城県常陸太田市)を攻めた。

 

 

直実はこの戦いに一族郎党を引き連れて出陣し、抜群の武功を挙げると、源頼朝は「直実は日本一の剛の者だ。」と褒め称え、直実に熊谷郷の支配権を与える。

 

 

源頼朝に木曾義仲が敗れた「宇治川の戦い」で、義仲軍は頼朝軍の京都進入を阻むため、宇治川にかかる橋の橋板を外したので、橋げたのみが残っている状態となるが、源頼朝の弟・源義経の指揮下でこの戦いに参戦していた44歳の直実は、16歳の息子・直家と共に橋げたを足場にして敵陣に向かっていき、敵からの攻撃に対してはお互いをかばいながら、勇猛果敢に先陣をきっていった。


宇治川の戦い

1184年、平氏一門の多くが討たれ、源平の形勢が大きく源氏に傾いた「一ノ谷の戦い」で、直実は、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属する。

 

直実は息子・直家と共に一番乗りで平氏軍に突入するも、直家が矢に射抜かれ深手を負う。

 

息子の負傷により、一層に手柄を欲した直実が海岸を走っていくと、形勢不利とみて逃げ出す平氏軍の船と、それに乗ろうとする武者を見つけた。

 

直実はその武者を大声で呼び止めると、手にしていた扇を振りながら一騎打ちを挑む。


熊谷直実2

武者は振り向くと「おう!」と返事をすると勇敢にも直実に応じた。

 

 

直実が武者を馬から落として組み伏せると、武者は我が子・直家と歳の変わらぬ若者であったため、若武者を見逃してやりたくなって直実が名前をたずねると、若武者は「首を取って人に見せれば名は分かる。良かったな。私は良い手柄になるぞ。」そう威風堂々と答える。

 

平敦盛
  
平敦盛

直実は若武者の振る舞いに感動し、さらに今日の戦いで息子が負傷しただけで自分の心は痛んでいるのに、この若者が討ち取られれば、その父親はいかに悲しむだろうと考え、すでに今日の戦は源氏の勝ちが決しており、この少年一人を討ったところで戦の結果が変わるわけでもないと思い、ますます見逃すことを心に決めた。

 

しかし、その刹那、背後に味方の武者50騎ほどが迫っていることに気付く。

 

 

直実は、その若武者の首を涙ながらに斬り落とす。

 

 

これが「平家物語」の名場面「泣く泣く首をぞかいてんげる(掻き斬る。回転蹴るではない。)」である。

 

 

 

直実は首を落とした若武者が腰のあたりに、錦の袋におさめた笛をさしているのに気が付くと、朝に平氏軍から聴こえてきた音色を思い出し、何万人といる源氏軍には戦争の最中に音楽を奏するような教養と風雅を備えた者は一人もいないと思い、ますます胸がしめつけられるのであった。

 

 

その後、若武者は平家の頭領である平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)と判明し、そして、あの笛は、笛の名手として知られた平敦盛の祖父(忠盛)が鳥羽上皇から贈られたものであることがわかる。

 

 

平敦盛を討って以降、直実から勇ましい雰囲気は失せていき、直実の苦悩は日に日に深まっていった。

 

熊谷直実4

その後「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡し、勝った源氏の頭領である源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立する。

 

 

 

 

1192年、直実は過去の経緯から不仲だった伯父・久下直光との領地をめぐる争いが続いており、ついに源頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになる。

 

 

久下直光は孤児となった幼少期の直実を庇護し、そのため直実を自らの配下と捉え、それを前提として本来は久下氏の支配下にあった熊谷郷を直実に預けていた。

 

その後、直実は平氏との戦いを通じて自らの力で、源頼朝より熊谷郷の支配権を認められる。しかし、久下直光からするとそれは直実に熊谷郷を奪われたという感覚であった。

 

 

武勇には優れていても口下手な直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自らの正当性を理論立って展開できない憤りから「もはや自分の敗訴は決まっているも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと。」と怒鳴ると、刀を抜いて髻を切り、源頼朝はあっけにとられる。

 

 

そして、直実は源頼朝に止められるのも聴かず、出家することを決意した。

 

 

1193年頃、直実は、当時、京都に浄土宗を開いた法然という僧の弟子となり「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という名を与えられる。

 

法然
  
法然
 

直実は多くの寺院を建立した。

 

1193年、法然が生まれた美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立。

 

1195年、東海道藤枝宿(現在の静岡県藤枝市)に熊谷山蓮生寺を建立。

 

1197年、直実が関東に帰郷する際、法然の姿を拝したいと願うと、法然は自作の木像を与え、その木像を安置した法然寺(京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町)を建立。

 

1198年、法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である粟生(京都府長岡京市)に西山浄土宗総本山光明寺の基礎となる念仏三昧堂を建立。

 

 

 

1204年、64歳となった直実は、阿弥陀仏の前で、早く仏となって、再び生まれ変わり、多くの人を救う誓いを立てる(上品上生の往生)

 

そして、1206年、直実は武蔵村岡(現在の熊谷市)に往生の日を告げる高札を立て、1207年に実際に往生し、その場所が埼玉県熊谷市仲町にある熊谷寺(ゆうこくじ)となった。

 

熊谷寺
 

直実の遺骨は遺言により、西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置され、また、高野山には直実と敦盛の墓が並んである。

 

 

法然は直実を「坂東の阿弥陀仏」と称えた。




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