流行
韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。
そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。
そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。
韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。
そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。
すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。
その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。
秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。
紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。
功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。
韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。
そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。
しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。
ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。
韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。
「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。
劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。
劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。
劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。
劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。
韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。
韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。
斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。
項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。
軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。
その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。
しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。
韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。
韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。
韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。
戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。
100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。
この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。
そして、紛れもなく韓信もその一人である。
紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。
故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。
しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。
韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。
紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。
警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。
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項氏は代々、楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄であった。
項羽は両親を早くに亡くしていたので、叔父の項梁に養われる。
後々の項羽からすると想像しがたいが、幼少期の項羽は勉強が苦手で剣術の覚えも悪く、項梁がそのことを叱ると、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にするものがやりたい。」と言ってのけた。
項羽は成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主となり、異常な迫力と威圧感に満ちていた。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起き、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていくと、項羽は項梁に従って会稽郡(現在の浙江省紹興市)の役所に乗り込み、たった一人で数十名の役人を皆殺しにし、叔父の項梁が会稽の長となり、反秦軍に参加する。
その後、反秦軍の有力者となった項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
項梁の死後すぐに楚軍の指揮をとったのは宋義という人物であったが、項羽は宋義を殺害し、以降、楚軍の総大将は項羽となる。
項羽は鉅鹿(現在のケイ台市平郷県)で、叔父・項梁を戦死させた章邯が率いる20万の大軍と戦う。
項羽は、章邯軍の食料運搬部隊を襲い、敵の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させ、味方に対しては川を渡った後に三日分の食料のみを与え、残りの物資は船もろとも沈め、三日で決着がつかねば全滅あるのみという状態に追い込んだ。圧倒的に数では劣る項羽軍は一人で十人の敵を倒して、この決戦に勝利する。
人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。
項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、20万以上の秦兵を捕虜として得ると、これらを全て生き埋めにした。
項羽が20万人もの捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由が大きかった。
戦争とは食料問題との戦いである。
軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、人間は食べなければ斬られずとも死ぬ。
項羽のこの問題への解答は、おそらく少数精鋭だったのではないかと考えられる。
一人で10人殺せれば、食料は10分の一で済むという、戦術的にも戦略的にも合理性・効率性を求めたのではないだろうか。
項羽軍は常軌を逸した戦闘能力で連戦連勝を重ねながら咸陽を目指すが、別働隊として咸陽を目指していた劉邦軍が先に関中に入っていた。項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとする。
劉邦は慌てて項羽の伯父・項伯を通じて和睦を請い、項羽は劉邦を殺す予定で酒宴に招き、軍師の范増は酒宴中に度々劉邦を殺すように項羽をうながす。
しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていく。
ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒した。
その後、項羽は、先に関中入りした劉邦に降伏していた子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。
項羽はそのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。
紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなう。
この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものとして関中に一番乗りした劉邦に約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えた。
この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。
また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。
項羽は秦を滅亡させても中国を安定させることは出来ず、斉(現在の山東省)の田栄が項羽に対して反乱を起こすと、これをキッカケに領地分配に不満を抱いていた諸侯達が続々と反乱を起こす。
僻地で漢王にさせられていた劉邦は、項羽の懐王殺害を知ると、項羽の非道さを有力諸将に訴え、相次ぐ項羽への反乱の火を煽り、項羽への不満をまとめあげていく。
項羽は討伐軍を率いて各地を転戦し、圧倒的な戦闘力ですぐに反乱は鎮圧されていくが、そこから間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその討伐に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するという状態が続いた。
そのため、項羽は劉邦の動きに対する意識が希薄になっていき、さらに、味方だと安心していた英布に何度も応援要請をしては仮病を使われ、最終的にはその英布は劉邦の側についてしまう。
劉邦は有力諸将と連合して、56万の大軍勢で、項羽が留守にしている彭城を占領する。
激怒した項羽は3万の精兵のみを率いて猛スピードで彭城に引き返し、なんと劉邦の56万の大軍を打ち破り、劉邦を敗走させ、劉邦の父や妻を捕虜にとった。
その後、項羽は劉邦を何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、さらに別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなり、加えて内部分裂工作も起きて疑心暗鬼になった項羽は有能な部下を疑い、父についで尊敬する人とまで呼んでいた軍師・范増との関係も悪化させる。
劉邦が天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固めると、項羽軍は道の険しさから一気に攻め入ることが出来ず、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。
そうして、項羽軍の最大かつ致命的欠点である食料問題が表面化する。
項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫るが、劉邦に「殺したら煮汁をくれ」と返答された。
次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦にこれを笑い飛ばされる。
そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。
紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦して故郷に帰ることを決める。
しかし、劉邦は和平の約束を破り項羽の後背を襲ってきた。
疲弊の極みにあった項羽軍はさらに背後をつかれ、これまでのように数的な不利を跳ね返せずに敗走し、再び多くの有力諸侯を味方につけ60万にも膨れ上がった劉邦の連合軍に垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。
ある晩、城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聴こえてきたため、項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。
ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。
その夜、項羽は愛人である虞美人(ぐびじん)に歌を贈った。
歌の内容は「かつて私の力は山をも動かす程強大で、気迫はこの世を覆い尽くすほどであったが、時勢は私に不利であり、もはや愛馬が前に進もうとしない事すら、どうにもならない。そんなことよりも、虞よ、虞よ、オマエをどうすれば良いのか。」
その歌を受けた虞美人は、項羽の足手まといにならないように自殺をする。
その後、項羽は手勢800騎を率いて、連合軍の包囲網を超人的な戦闘力で突破するが、東城(現在の安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。
そこで数千の劉邦軍に追い付かれた項羽は、配下の28騎を七騎ずつ4隊に分けて、それぞれ敵軍の中に斬り込んでいく。
項羽は一人で100人近い敵兵を鬼神のごとき強さで殺し、項羽とその配下が再び集結すると、脱落したのはわずか二人だけであった。
そこから、項羽たちは、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮)に至った。
川の先には、かつて項羽たちが決起した江東の地がある。
烏江の役場長は項羽に「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません。」と告げた。
しかし、項羽は笑いながら「昔、江東の若者8000を率いて川を渡ったが、今ここに、その時の者は一人もいない。江東の者達が、再び私を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がどこにあろうか。」と断ると、馬を降り、配下の者達にも下馬させて、そのまま劉邦軍を迎え撃つと、項羽一人で敵兵数百人が殺す抵抗をみせる。
項羽は敵の中にかつて自分を慕っていた同郷の呂馬童がいるのを見つけると「劉邦は私の首に千金と万の邑を懸けていると聞く、お前にその恩賞をくれてやろう。」と言うと、自ら首をはねて死んだ。
その結果、項羽の死体は五つに分かれ、劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して与えた。
劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、礼を以て葬った。
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劉邦は沛(江蘇省徐州市)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生する。
若い頃の劉邦は酒色を好み、家業を嫌い、縁あって務めていた下級役人の仕事にも不真面目に取り組んでいた。
そのため、沛(はい)の役人の中には、後に劉邦の天下統一を助ける蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)もいたが、彼らもこの頃は劉邦を高くは評価していない。
劉邦はあまり褒めるべき点がないような人物であったが、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になるなど、不思議と人望があった。
ある時、沛へとやって来た単父(現在の山東省)の名士である呂公という者を歓迎する宴が開かれる。
沛の人々はそれぞれ贈り物や金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、この宴を取り仕切っていた蕭何は、贈り物が千銭以下の者は地面に座ってもらおうと提案した。
そこへ劉邦がやってきて贈り物は「銭一万銭」と呂公に伝えると、あまりの高額に驚いた呂公は丁重に劉邦を迎えて上席に着かせる。
蕭何が呂公に「劉邦は銭など持っていない。」と伝えると、呂公は逆に劉邦に対する興味を深め、劉邦の龍顔(顔が長くて鼻が高く髭が立派であること。縁起が良いとされていた。)に惚れ込み、自らの娘・呂雉を娶わせた。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。
蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなった。
この時に、劉邦が集めた兵力は2~3千で、配下には蕭何と曹参の他に、犬肉業者をやっていた樊カイ(はんかい)などがいた。
ほどなく、劉邦は張良との運命的な出会いをする。
後に軍師として劉邦の天下統一の立役者となる張良は、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説いていたが、誰からも相手にされないでいた。
ところが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、ほとんど無条件に採用された作戦の数々は大きな戦果を上げていくことになる。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
項羽は途中で宋義を殺すと自ら総指揮官となり、河を背に3日分の食料以外の物資は船も含めて全て破棄して兵士達に死に物狂いで戦わせるという戦術をとったり、撃破した秦軍の捕虜20万人を生き埋めするなど、敵も味方も震えあがらせる指揮をとり、大きな戦果を上げていく。
人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。
一方、西回りの劉邦が苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで辿り着くと、劉邦は儒者であるレキ食其(れきいき)の訪問を受ける。
劉邦は大の儒者嫌いであったため、投げ出した足を女達に洗わせながらレキ食其と面会するという態度をとった。レキ食其がその態度を一喝すると、劉邦は無礼を詫びてレキ食其の話に耳を傾けた。
レキ食其は「この先の陳留(現在の河南省開封市)は交通の要所で食料が豊富なためこれを得るべきである。また、降伏しても身分を保証すると約束すれば余分な犠牲を出さずに済む。」と進言する。
軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、戦争において食料の確保が最優先事項であることは、古今東西の最終的な勝利者となった指揮官全ての共通認識である。人間は食べなければ斬られずとも死ぬのである。
項羽が20万人の捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由も大きかった。
レキ食其の進言を採用した劉邦は、陳留の無血開城に成功し、大量の食糧と兵の増員に成功する。
劉邦はこれ以降も度々無血開城に成功しながら各地を攻略して行ったので、その進軍は激しい戦闘を繰り返す項羽よりも早かった。
そして、ついに劉邦軍は項羽軍よりも先に関中へと入り、秦の首都・咸陽を目の前にする。
反秦軍の勢いに観念した秦の王・子嬰は、劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏し、劉邦の部下の多くは子嬰を殺すべきだと主張したが、劉邦は子嬰を許した。
劉邦が咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、樊カイや張良に諫められると、それらに一切手を出さなかった。
ここでの我慢は、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、多くの人々からの信用を集める一因にもなる。
一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。
項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。
その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。
劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。
劉邦はまず項羽に「私達は共に秦を討つために協力し、私は思いもよらず先に関中に入ったが、項羽をさしおく気はない。」と伝える。
項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。
しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。
ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒する。
さらに張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜けた。
その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。
項羽は「西楚の覇王」を名乗り、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王は邪魔になったので暗殺する。
紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなった。
この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものは関中に一番乗りした劉邦が、約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられたことであった。
この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。
さて、こんな苦境の中で新たに劉邦軍に加わったのが韓信であった。
韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えし、その才能を見抜いた蕭何の推挙により、すぐに大将軍となる。
一方、項羽は多く不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
紀元前205年、反乱鎮圧に奔走する項羽が留守にしていた彭城を、劉邦は56万の連合軍でアッサリと制圧する。
連合軍は大勝利に浮かれて、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回していた。
彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭を選んで猛スピードで引き返してくると、項羽軍3万は油断しきっていた連合軍56万を木っ端微塵に打ち破り、連合軍は10万人にものぼる死者を出す。
この時、劉太公(劉邦の父)と呂雉(劉邦の妻)が項羽軍の捕虜となる。
この大敗北により、ここまで劉邦に味方していた諸侯達は慌てて項羽になびいていった。
大敗北から4カ月、劉邦は逃げ込んだケイ陽(河南省鄭州市)で籠城を続ける。
孤立した劉邦が再起をはかるためには軍勢を集めることが急務であった。
劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。
劉邦軍の未来を一任された韓信は、わずか12000の兵で20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、その後も次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。
同じ頃、項羽の軍勢に完全包囲をされて、苦悩する劉邦に韓信から手紙が届く。
劉邦は韓信の帰りの知らせであることを期待していたが、その内容は、斉を安定させるために王を名乗りたいというものであった。
劉邦は自信を持った韓信が野心を抱いて裏切ろうとしていると察し、激怒する。
しかし、張良が「ここは韓信の望み通りにするべきである。さもなくば、韓信は本当に裏切るだろう。」とさとし、劉邦は韓信の機嫌を損ねないように斉王となることを認めた。
劉邦は韓信が戻るまでの時間稼ぎをするため、天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固める。
道が険しく一気に攻め入ることの出来ない項羽軍は、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。
項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫ったが、劉邦は「殺したら煮汁をくれ」と返答する。
次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦はこれを笑い飛ばした。
そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。
紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦することを決める。
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良は「もしここで両軍が引き上げれば、あの強い項羽軍が再び勢いを取り戻すので、今こそが劉邦軍が勝つ千載一遇のチャンスである。」と言って、退却する項羽軍の後方を襲うことを劉邦に進言した。
項羽の背後を追う劉邦軍が、韓信の集めた30万の大軍とさらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰める。
劉邦は全軍の指揮を韓信にアッサリと譲り、韓信は60万の大軍勢をもって項羽軍10万を包囲し、食料不足にする作戦をとった。
やがて項羽軍が疲弊し切った晩、領邦軍60万は楚の歌の大合唱を始める。
故郷である楚の歌が敵側から聴こえてきた項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。
ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。
その後、項羽は残った少数の兵を伴い、超人的な武勇で包囲網を突破するが、最終的に自害を選んだ。
紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し、論功行賞では、戦場での功が多い曹参よりも、兵員と物資の調達をし続けた蕭何を第一とするなど、細やかな評価を下していく。
韓信は楚王に任命された。
また、張良には3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断る。
さらに、劉邦を裏切ったり、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと劉邦の陣営に加わった雍歯を真っ先に什方侯にした。これは張良の策で、劉邦が恨んでいるはずの雍歯でさえ功があれば恩賞が下るなら、この論功行賞は公平になされると、他の諸侯に説得力と安心感を与える効果があった。
劉邦は酒宴の席で自らが天下統一を成し得た理由を「わしは張良の様に策をめぐらし千里先から勝利する事は出来ない。わしは蕭何の様に兵をいたわって補給を途絶えさせず安心させる事は出来ない。わしは韓信の様に軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という三人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増一人すら使いこなす事が出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ。」と語った。
天下を統一した劉邦は、一転して、帝国の安定のために大粛清を始める。
韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。
紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、反乱を起こそうと目論むが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何の策略でおびきだされて、誅殺される。
彭越は梁王の地位を取り上げられ、蜀に流刑されるところであったが、劉邦の妻・呂雉の進言により流刑ではなく処刑に変更された。
次は自分の番だと警戒した英布は反乱を起こすが、激戦の末、敗れる。
劉邦も英布との戦いの際に受けた矢傷が元で、紀元前195年に死去した。
強大な諸侯は全て劉邦に粛清され、劉邦の起こした漢王朝に対抗できる者はなく、劉邦の息子・劉盈(りゅうえい)が2代目皇帝に即位すると、漢王朝はその後約200年の長きに渡って続く。
劉邦は「陳勝・呉広の乱」で秦の圧政に対する反乱の狼煙を上げた陳勝を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓を守らせていた。
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中国史上、最も壮大でドラマチックな戦いといっても過言ではない項羽と劉邦の覇権争いは、当時の中国を治めていた「秦」という国の圧政を打倒することから始まった。
「期日に間に合わない自分達は問答無用で斬首である。どうせ死ぬのならば名を残して死ぬべきだ。そもそも同じ人間である王侯将相に我々の命を奪う権利はないはずだ。」
これは、いき過ぎた厳罰は抑止力と成り得ない事を後世に伝えた出来事でもある。
・劉邦 (案内人・アーサー)
・項羽 (案内人・モルドレッド)
・蕭何 (案内人・ガウェイン)
・曹参 (案内人・トリスタン)
・樊哙 (案内人・パーシヴァル)
・張良 (案内人・ガラハッド)
・韓信 (案内人・ランスロット)
・虞美人 (案内人・モルゴース)
本名はマリ=ジャンヌ・ベキュ、1743年8月19日、フランスのシャンパーニュ地方でアンヌ・ベキュの私生児として生まれた。
母アンヌ・ベキュは弟を生んで間もなく駆け落ちし、デュ・バリー夫人は叔母に引き取られて育つ。
7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたデュ・バリー夫人は、金融家の継父からかわいがられて、教育の機会に恵まれ、15歳で修道院での教育を終える。
修道院を出て最初に侍女として働いた家では、素行上の問題から解雇された。
その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしながら、日々をどうにか食いつなぎ、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始める。
若くて美しいデュ・バリー夫人は、やがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。
もともと娼婦同然の生活で、それも貧しさを生き抜いたデュ・バリー夫人にとって、家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などを相手にして、それ相応の身なりをして洒落た遊びに触れることは、キャリアアップにも等しかった。
事実、その世界は大きく広がっていく。
1769年、フランス国王ルイ15世に紹介される。
ルイ15世は、その5年前に寵愛していた愛人ポンパドゥール夫人を亡くしていた。
デュ・バリー夫人はそのチャンスをものにし、ルイ15世はデュ・バリー夫人の虜になって愛人にすることを決める。
デュ・バリー夫人は、デュ・バリー子爵の弟と結婚して「マリ・ジャンヌ」から「デュ・バリー夫人」と名を変えると、もろもろ形式的な手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾となって社交界にデビューした。
フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)に嫁いできたマリー・アントワネットと犬猿の仲になる。
マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を強く受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続けた。
加えて、かねてからデュ・バリー夫人と対立関係にあったルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人マリー・アントワネットを味方につけようと画策したことで、その対立は深くなっていった。
1774年、宮廷内でのデュ・バリー夫人の後ろ盾である国王ルイ15世が天然痘で倒れる。
後ろ盾が病に侵され宮廷内で裸同然となったデュ・バリー夫人は、追放同然に宮廷を追われることになった。
そのため、一時的に不遇な時間を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、落ち着いた時間を取り戻していく。
その後、ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり、再び優雅な日々を送る。
1789年、フランス革命が勃発すると、愛人であるド・ブリサック元帥が虐殺されたため、デュ・バリー夫人はイギリスへと逃れると、フランスから亡命しようとする同胞を援助した。
しかし、1793年3月、デュ・バリー夫人は危険を冒して、革命政府に差し押さえられた自分の財産を回収しにフランスに帰国すると、革命派に捕えられてギロチン台へ送られた。
デュ・バリー夫人が回収しに来た宝石の数々は、私生児として生まれ、娼婦として生き、貴族社会で侮蔑され、それでも多くの男達が自分に夢中になった確かな証である。異国に逃れ、若さを失い、それなだけに奪われたくなかった想い出の数々だった。
死刑執行人のサンソンと知り合いであったデュ・バリー夫人は、泣きわめいて命乞いをする。
同情心に耐えきれなくなったサンソンは、息子に刑の執行を委ね、最終的にはデュ・バリー夫人は処刑された。
女流画家のルブラン夫人のフランス革命に関する回顧録では、断頭台で多くの貴族女性が命を落とすたびに、歓喜に沸いた民衆が、泣き叫びながら慈悲を乞うデュ・バリー夫人の姿には直視できず、その死は盛り上がりに欠けるものであったという。
そのためルブラン夫人は「私が確信したのは、もしこの凄まじい犠牲者達が、あれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、処刑の嵐はもっとずっと早く過ぎていたであろう。」と述懐している。
潔く毅然とした名誉ある死は新たな死を招き続け、情けなく惨めでブザマな死が命の重さを教えた。
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マリー・アントワネットの容姿について、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。
また、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べた。
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。
ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとし、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策する。
1770年5月16日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。
結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。
もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。
さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。
宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。
ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。
その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。
アントワネットは浪費家で知られ、ギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていたが、ほとんど効果は無かった。
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
ルイ16世
王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。
アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた習慣であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。
アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。
そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。
こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。
1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。この事件は事実に反し、アントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。
1789年7月14日、耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。
パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。
しかし、アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。
フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。
一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻された。
この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。
1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。
息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。
アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、1793年10月16日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。
処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。
死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。
ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。
現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。
そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。
また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。
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1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。
神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。
さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。
マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。
そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公(現
フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。
レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。
結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
フランツ1世
父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。
マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。
1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。
これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。
フリードリヒ2世
この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。
一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。
こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。
オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。
ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。
若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。
1742年7月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。
1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。
その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン(現 ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。
マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。
ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。
皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。
1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。
また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)の政略結婚も内定した。
プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。
オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。
しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。
プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。
1765年8月18日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。
マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。
マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。
そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。
オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。
1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。
1780年11月29日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。
死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。
1577年2月6日、ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。
家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼い弟ベルナルドがいる。
チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。
ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。
父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に暴力を振るい、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。
ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。
その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。
フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。
フランチェスコは、美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに至高の喜びを感じていた。
ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えるも、なんの対応もされずに終わる。
フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の村にある「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という城に住まわせた。
フランチェスコの快楽を満たしてきた暴力は、告訴された逆恨みから憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。
1598年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。
怒りと恐怖が渦巻く現場で、ベアトリーチェ達は錯乱状態になり、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔った末の事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。
警察当局はバルコニーから転落して死亡した傷には不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。
遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。
フランチェスコの遺体は掘りおこして検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられるが、拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまうほどであった。
検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。
殺人の動機を知ったローマ市民が裁判所の決定に抗議したため、処刑はいったん延期されるが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため家族全員の死刑を取り消すことはなかった。
1599年9月11日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送された。
最初に兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。
続いて義母ルクレツィアが斬首された。
そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。
まだ幼い弟ベルナルドは、財産の相続権を没収され、家族の処刑をしっかりと見せつけられた上で、死刑は免れ刑務所に戻された。
画家グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。
ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。
その後、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという噂がたった。
それはローマ市民のベアトリーチェを救えなかった事への懺悔という、ある種の人間の正義感がゆえに生まれたものかもしれない。
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1506年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。
ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。
生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。
1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。
奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。
その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。
買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。
ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。
イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。
ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。
ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。
奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。
皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。
しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。
そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。
そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。
ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。
そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。
そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(第1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。
ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。
ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
スレイマン1世
この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。
しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。
大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。
ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。
後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。
さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。
真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。
それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。
ヒュッレムはスレイマン1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。
しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。
オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。
スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。
ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。
ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。
ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。
このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。
スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。
ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。
以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。
この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。
さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。
奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558年4月18日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。
ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。
スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。
これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。
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