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江戸城

徳川 家康 (東京)

徳川家康700x1000

 

1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。

 

父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。

 

 

松平氏は弱小な一地方豪族であった。

 

家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。


 

その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。

 

 

しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。

 

 

こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。

 

今川義元
   
今川義元
 

1560年、ついに転機が訪れた。

 

「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。

 

 

家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。

 

名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。

 

 

1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。

 

今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。


浜松城
 

そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。

 

 

武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。


 

信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。

 

信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。

 

すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。

 

織田信長
  
織田信長

やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。

 

 

一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。

 

信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。

 

 

1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。

 

浜松城に緊張が走った。

 

信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。


武田信玄
  
武田信玄
 

二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。

 

 

しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。

 

 

かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。

 

 

二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。

 

 

家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。

 

二俣城

もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。

 

 

 

決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。

 

 

信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。

 

 

 

武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。

 

 

台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。

 

 

そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。

 

 

信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
 

三方ヶ原の戦い
 

家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。

 

家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。

 

 

ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。

 

 

家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。

 

徳川家康1

10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。

 

あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。

 

 

 

1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。

  

長篠の戦い
 

1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)

 

 

結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。

 

 

 

家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。

 

小牧山
 

1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。

 

両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。

 

しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。

 

秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。

 

日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。

 

長久手の戦い
 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。

 

 

これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。

 

 

秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。

 

 

秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。

 

 

さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。

 

 

1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。

 

 

明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。

 

 

あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。

 

その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。

 

 

家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。

 

 

ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。

 

 

先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。

 

 

所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。

 

 

さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。

 

そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。

 

 

秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。

 

 

1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。

 

江戸城

家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。

 

 

政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。

 

徳川家康3
 

1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。

 

 

この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。

 

 

家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。

 

この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。

 

 

一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。

 

 

こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。

 

 

家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。


石田三成
  
石田三成
 

秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。

 

 

家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。

 

 

武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。

 

 

家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。

 

 

一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。

 

 

こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。

 

 

1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。

 

 

しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。

 

関ヶ原の戦い
 

1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。

 

 

1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。

 

 

この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。

 

 

こうして16141615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。

 

 

その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。

 

日光東照宮
 

1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。

 

 

その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。




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保科 正之 (福島)

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1611
年、正之は江戸の神田白銀町で生まれる。

 

母・お静は徳川第2代将軍・徳川秀忠の乳母・大姥局の侍女であった。

 

 

下級女中を妾にする場合はしかるべき家の養女として出自を整えるのが常識であったが、正之はそれがなされずに生まれたうえ、秀忠の正室・お江は嫉妬深く側室を認めない女性であったため、お江を恐れた秀忠は正之を認知しなかったので、正之は生涯、父親と対面することなく終わる。

 

徳川秀忠
  
徳川秀忠
 

こうした事情もあり、幼い正之はお江に見つかれば命の危険もあった。

 

 

そんな正之を保護したのは武田信玄の娘・見性院で、見性院は正之の存在を知ったお江から再三の引き渡し要求があっても毅然と断り続けて、養育にあたる。

 

 

7歳になった正之は、見性院の縁で旧武田氏家臣の高遠藩(現在の長野県伊那市)主・保科正光に託され、高遠城で正之は母と生活した。

 

 

高遠は石高わずか3万石の弱小藩であったが、ここで正之が後に名君となる人格が形成される。

 

この頃、正之が教育係の家臣と農家を回っていた時「馬を農家に入れてはいけない。馬が穀物や野菜を食べてしまったら、農民の心はつかめない。」と教えられた。

 

 

1631年、正之は養父・保科正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となる。

 

長野県伊那市

高遠藩主となった正之が、3代将軍・徳川家光と謁見するために江戸城に行った際、正之は大名衆の末席に座るが、正之が家光の弟であることは噂になっていたため、大名達は正之に上座を勧めるが、正之は「自分は小さな藩の藩主で若輩者ですから。」と末席から動かなかった。

 

家光は正之のこの態度に好感を抱く。

 

 

家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿(正之のこと)は今の将軍家の弟君である。」と聞かされたからと言われている。

 

 

家光に気に入られた正之は、家光が朝廷へ向かう際のお伴や秀忠の墓所造営などの仕事を任され、1636年には石高7倍増という異例の大出世となる山形藩20万石に転封された。

 

徳川家光
   
徳川家光


1637
年、原城(長崎県南島原市南有馬町乙)で迫害を受けたキリシタンや農民が武装蜂起した一揆軍3万を幕府が12万の軍勢で殲滅する。

 

この「島原の乱」の大きな原因は、領主の過酷な年貢の取り立てや圧政であったため、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶の処分となった。

 

原城
 

正之はこの出来事から、反乱が起きるのは政治の責任であると認識し、善政へ邁進するようになる。

 

 

 

 

1643年、会津藩23万石へさらなる出世を遂げた正之が初めてお国入りした頃、会津は、前藩主・加藤明成の過酷な年貢の取り立てと「寛永の大飢饉」によって国土は荒廃し切っていた。

 

 

正之が藩全体の正確な石高を調査すると、前藩主は実際の取れ高よりも多く年貢を徴収する不正をしていたことが分かったため、正之は年貢を低く修正して減税する。

 

 

前藩主・加藤明成は百姓一揆が起きたら全村なで斬りにすると豪語する決断力あるリーダーであったため、農民達には自分の身は自分で守らなければならないという意識が強かったため、隠していた水田が少なくなかった。

 

 

しかし、正之の減税に感動した農民達は隠していた水田を自主的に申告し、その結果、税収は逆にプラスとなる。

 

会津

減税によって税収を増やした正之は、藩が米を備蓄して凶作や飢饉に備える「社倉制度」を実施し、7000俵からスタートした社倉は10年後には23000俵、幕末には10万俵と拡充し続け、会津藩では度重なる飢饉でも餓死者を一人も出さなかった。

 

 

さらに、年を取って働けなくなった老人は一家のお荷物とされたこの時代、会津では長生きは良いこととして、90歳以上の老人には「養老扶持」として掛け金なしの生涯年金が支給されるようになる。

 

 

1889年にドイツ帝国のビスマルクによる「年金保険」が年金制度のさきがけとされているが、正之はその226年前の1663年に「養老扶持」を開始していた。

 

 

こうして、「社倉制度」や「養老扶持」で、将来不安が減少した会津の領民の消費は活性化し、経済を発展させることになる。

 

 

また、領民に限らず旅人も対象にした医療の無料化によって、多くの行商人が集まり、これも会津の経済を発展させた。

 

会津若松城2
 

1651年、家光は死の間際に正之を枕頭に呼び寄せ「家綱を頼むぞ。」と言い残す。

 

父に認知されなかった正之にとって、時の将軍である兄からの信頼はなによりもの存在肯定であった。

 

これに感銘した正之は、11歳で4代将軍となった家綱と幕府のために尽くし、1668年には「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」で、以降、会津藩の藩主・藩士はこれを忠実に守る。

 

 

しかし、幕末には、この遺訓を守ることによって、会津藩は過酷な運命を辿ることになった。

 

明暦の大火

1657年、本郷丸山の本妙寺より出火した「明暦の大火」は、その火の手が江戸城にまで迫って来る。

 

 

幕閣達は将軍・家綱をどこに避難させるかで議論し、それぞれの別荘や屋敷に迎えようとするが、正之は「本丸に火が廻ったら西の丸に移れば良い。西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てれば良い。城外へ将軍を動かすなどもってのほかだ。」と進言した。

 

 

リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えた正之は、将軍を江戸城に留めることで災害本部を明確にし、徳川家はどんな時も江戸の町を統治するのだという事を人々に示す。

 

 

また、将軍が避難先を選べば、選ばれた家臣と選ばれなかった家臣とが、後々門閥闘争を起こす可能性もあり、将軍個人を逃がすという意味では決してベストとはいえないこの正之の判断は、本物の危機回避であり、一石二鳥の戦略であった。

 

浅草御蔵
 

火の手はさらに浅草御蔵(江戸最大の米蔵)に迫る。

 

火消し達がことごとく出払っている状況で、正之は「米蔵の米、取り放題」という奇策を打ち出す。

 

これは米経済のこの時代では、国家の金庫を解放して現金掴み取りの大判振る舞いをするようなものであった。

 

飲まず食わずの被災者達は、食料欲しさに道々で必死に火を消しながら米蔵を目指したため、被災者が消防隊として働き、焼失するはずだった米が救援物資になるという、まさに一石二鳥の結果となる。

 


 

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町を、正之は火事に強い町へ作り変えるべく復興に乗り出す。
 

上野広小路
 

まず、建物から建物へ火が移りにくい町にするため、幹線道路を拡大し、上野広小路はこの時に作られた。

 

次に、当時は敵の侵入を防ぐため隅田川に橋を架けることは制限されていたが、多くの人が墨田川に飛び込み溺死したため、正之は軍事より市民の安全を優先して両国橋を建設する。

これは江戸が隅田川を越えて発展するキッカケにもなった。

 

両国橋
 

焼失した江戸城天守閣の再建は中止し、そのための費用や資材は復興に回される。

 

 

復興には16万両という国庫が空になるほどの資金が投入されたため、多くの反対意見ももあったが、正之は「こういう時に使うために貯めてきたのだ。こういう時に使わないのであれば、最初から貯めなければ良い。」と、反対の声を一蹴した。

 

 

こうして、大災害を教訓に民の安全を第一にしたことで、交通・経済を活性化させ、江戸は世界に例を見ない100万都市へと発展した。

 

 

 

江戸幕府は、幕府権力の絶対優位を確立するために、3代将軍・家光までに131の大名家が厳罰化された「大名改易」で取り潰され、職にあぶれた大量の浪人が不満分子となり、それが社会不安となる。

 

 

力で抑える政治に限界を感じていた正之は、江戸時代という世界的にも珍しい300年間も戦争のない太平の世を印象付ける政策を打ち出していく。

 

保科正之2
 

「末期養子(まつごようし)の禁の緩和」

後継ぎのいない大名家を取り潰して徳川の権力を盤石にするために、それまで後継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎え、お家の存続をはかる末期養子を幕府は禁じていたが、正之は末期養子を認めることで、諸藩に幕府の共存共栄の意思を示す。

 

 

「大名証人制の廃止」

幕府は、大名の家族や家臣を人質として差し出させ、謀反を起こさせないようにしていたが、これを廃止して、信用による和平路線へと前進する。

 

 

「殉死の禁止」

殉死は、主君が死んだ後、家臣が後を追って切腹することで、主君への忠義を示すものである。

正之は、これからの時代は、忠義を示すのは藩や幕府などの政治体制であるべきだと考えていたため、殉死を禁止することによって、個人を崇拝する独裁的な気風に対して意識改革をもたらした。

 

保科正之1

1669年、正之は嫡男の正経に家督を譲って隠居し、1672年に江戸三田の藩邸で死去した。

 

 

正之は幕府より松平姓(徳川家と祖先を同じくする家臣の姓)を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通し、第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋(徳川一門の家紋)が使用されるようになる。



 

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