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毛利元就

大友 宗麟 (大分)

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1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。

 

宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。

 
豊後国

 

父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負傷後に死去する「二階崩れの変」が起こる。

 

こうして宗麟が大友氏21代当主となり、同時に入田親誠ら反宗麟派は粛清された。


大友宗麟4
 

1551年、周防国(山口県東南半分)の大内義隆が家臣・陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害すると、宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込む。

 

これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符が打たれ、さらに北九州の大内氏に服属する国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)が大友氏にも服属することになり、宗麟は周防方面にも影響力を確保し、特に博多を確保したことは多大な利益となった。

 

 

宗麟の叔父・菊池義武は「二階崩れの変」をきっかけに豊後国内が内乱に陥ると予測し、肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後(熊本県)全土の制圧を目指して反乱したが、直ちに国内の混乱を収めた宗麟は菊池義武を一族から縁切りにすることを表明して大軍を派遣し、島原に落ち延びた菊池義武はその後に自害し、菊池氏を滅亡させた宗麟は肥後国も確保する。

 

府内城
 
しかし、宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き、1553年に一萬田鑑相(いちまだあきすけ)1556年には小原鑑元(おばらあきもと)が謀反を起こすなど、宗麟の治世は当初から苦難の多いものであった。

 

また、この頃に宗麟は本拠地を府内城(大分県大分市)から丹生島城(大分県臼杵市)に移している。

 

フランシスコ・ザビエル
   
フランシスコ・ザビエル

1557年、宗麟の弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失い、毛利元就が北九州に進出してくると、毛利氏との対立を決意した宗麟は、毛利元就と通じていた筑前国(福岡県西部)の秋月文種を滅ぼすなどして北九州における旧大内領を確保することに成功した。

 

 

室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化し、多大な献金運動をした宗麟は、1559年に豊前・筑前の守護(鎌倉幕府・室町幕府が置いた軍事指揮官・行政官)、さらに九州探題(室町幕府の軍事的出先機関)を任され、1560年には左衛門督(鎌倉時代以降、朝廷の機能としては有名無実化していったが武家に好まれた官職)に任官する。

 

 

宗麟は九州における最大版図を築き上げ、さらにそれを裏付ける権威を獲得し、名実共に大友氏の全盛期を創出した。

 

足利義輝
  
足利義輝
 

しかし、周防・長門(山口県西半分)を平定するために宗麟と和睦していた毛利元就は、平定に成功すると今度は貿易都市の博多を支配下におくべく、宗麟の支配する豊前・筑前への侵攻を図り、15541561年までに豊前門司城で起こった宗麟と毛利元就との数度の合戦「門司城の戦い」で敗れた宗麟は出家して休庵宗麟と号す。

 
門司城の戦い

 

出家してからも宗麟は足利将軍家には多大な援助を続け、1563年には足利義輝の相伴衆(将軍が宴席や他家訪問で外出する際に随従する)に任ぜられ、足利義輝の調停で宗麟は毛利氏と和睦し、北九州の権益を確保する。

 

ところが、毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、この和睦は破られ、九州へ侵攻した毛利氏は、宗麟側の国人らを味方に引き入れ、怒涛の攻撃を開始することになった。

 

1567年、豊前国や筑前国で毛利元就と内通した宗麟側の国人が蜂起すると、なんとこれに宗麟が大切に育てた重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させる。

 

 

宗麟は毛利氏との戦闘の中で宣教師に「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出し、鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請した。

 

毛利元就
   
毛利元就

1569年、宗麟は肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために自ら軍勢を率いるが、そこへ毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退し、立花山城(福岡県の立花山山頂)の帰属を巡る「多々良浜の戦い」で毛利軍に打撃を与える。

 

さらに宗麟の軍師と言われる吉岡長増の策で、毛利氏に滅ぼされた大内氏の遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込んで毛利氏の後方撹乱を狙う。

 

大内輝弘は大内氏の復活を狙って、大友水軍に護衛され豊後国から周防国へと向い、それを知った大内氏の遺臣はこぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増し、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。

九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、後方を脅かされていることを知ると、九州からの撤退を指示した。

 

多々良浜の戦い
 

1570年、宗麟が弟・大友親貞に3000の兵で総攻撃命令を下し、再度、龍造寺氏を討伐するために肥前国に侵攻した「今山の戦い」は、小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移する。

 

龍造寺側には援軍の見込みはなく落城は必至の状況であったが、総攻撃の前日の夜に大友親貞が勝利の前祝いとして酒宴を開いて軍の士気を緩め、それを知った龍造寺側が鉄砲を撃ちかけて奇襲し「寝返った者が出た」と虚報を流すと、大友軍は大混乱に陥って同士討ちを始め、2000人に及ぶ犠牲と共に大友親貞が討ち取られた。

 

この大敗北によって、宗麟は龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなり、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことが出来なくなる。

 

龍造寺隆信
   
龍造寺隆信

1576年、宗麟は家督を長男・大友義統に譲った。

その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となって洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗る。

 
大友義統

  大友義統 


この頃、織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭は、毛利氏が京都にのぼらないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏をはじめ龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行う。

 

 

1577年、宗麟と同様に九州制覇を狙う薩摩国の島津義久が日向国(宮崎県)に侵攻を開始し、1578年に「耳川の戦い」で大友軍と島津軍が激突すると、当初は大友軍が兵力の差で押していたが、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきり、そこを島津軍が突くと戦況は一転し、大友軍は敗走する。

 

大友軍はこの敗走で急流の耳川を渡りきれずに溺死したり、そこを島津軍に攻撃されるなどして3000人近い戦死者を出し多くの重臣を失った。

 

 

「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていき、さらに家督を譲った大友義統との対立も起こり、大友氏は衰退の一途をたどっていく。

 
耳川の戦い

 

この苦境に対して宗麟は、本州で大勢力となった織田信長に接近し、織田信長の毛利攻めに協力することなどを約束に島津氏との和睦を斡旋してもらうことになっていてが「本能寺の変」で織田信長が死去すると、島津氏との和睦は立ち消えとなった。

 

 

「今山の戦い」で宗麟を破った龍造寺氏は、宗麟が「耳川の戦い」で島津義久に大敗して大きく衰退すると、それに乗じて大友領を侵食し、九州は島津氏と龍造寺氏の二強が争う時代となる。

 

 

1584年、龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北した「沖田畷の戦い」で戦死すると、宗麟は立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回するも、1585年に立花道雪が病死すると、これを好機と見た島津義久は大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃した。

 

この「岩屋城の戦い」で高橋紹運・立花宗茂父子は奮戦し、島津軍の侵攻を遅らせるも岩屋城は落城する。

 

立花宗茂
  
立花宗茂
 

もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなった1586年、宗麟は織田信長亡き後の天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願した。

 

 

しかし、島津義久はその後も大友領へ侵攻し「戸次川の戦い」では大友氏救援に駆けつけた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。

 

この時、臼杵城(大分県臼杵市)に籠城していた宗麟はその大きな破壊力から「国崩し」と名付けられた大砲フランキ砲を使って臼杵城を守った。


臼杵城

 

1587年、大友氏が島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められるのと時を同じくして、豊臣秀長の率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに遅れて豊臣秀吉自身が率いる10万の兵も到着すると、九州平定を目指す豊臣軍は各地で島津軍を撃破していく。

 

 

宗麟はこの戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久が豊臣秀吉の九州征伐に対して降伏する直前に、57歳で病死(チフスが有力とされている)した。

 

 

豊臣秀吉は九州平定後、宗麟の長男・大友義統に豊後一国を安堵する。

 

大友宗麟2
 

宗麟の死の直後、葬儀はキリスト教式で行われ墓は自邸に設けられたが、後に大友義統が改めて仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

津久見市内にある現在の墓所は1977年に大分市長・上田保が新たにキリスト教式の墓として従来の場所から移したものである。

 



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毛利 元就 (広島)

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1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。

 

出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。

 

 

1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。

 
多治比猿掛城


1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元が酒毒が原因で死去。

 

元就はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出され、元就はその哀れな境遇から「乞食若殿」と言われる。

 

 

この厳しい時期の元就を支えたのは養母の杉大方で、後に半生を振り返った元就は「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と書き残しており、杉大方が元就に与えた影響は生活や基本的な教育のみならず感性にも及んでいた。

 

 

1511年、杉大方は京都にいた元就の兄・毛利興元から元就の元服の許可を貰い、元就は「多治比元就」を名乗って分家を立てる。


毛利元就1

1516年、毛利興元が父と同じく酒毒で急死した。

父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場では自分は下戸だと言って酒を飲まなくなったという。

 

毛利家の家督は毛利興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少だったため叔父である元就が後見することになった。

 


毛利弘元、毛利興元と2代続く当主の急死、それを継いだ幸松丸はわずか2歳で、その後見役の元就が20歳、という不安定な毛利家の状況を好機と見た佐東銀山城主・武田元繁が吉川領(吉川氏は毛利氏と同様に大内氏を主家としていた)の有田城(広島県山県郡北広島町有田)へ侵攻する。

 

主家の大内氏が主力を京都に展開しており、援軍は望めない状況で元就は有田城救援のために出陣。

 
有田城
 

元就はこの自身にとって初陣である「有田中井手の戦い」で、まず武田軍先鋒で猛将として名高い熊谷元直の軍を撃破し、熊谷元直は討ち死にした。

 

有田城攻囲中の武田元繁は熊谷元直が敗れた知らせを聞くと怒りに打ち震え、有田城の包囲に一部の兵を残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍の迎撃に出る。

 

 

武田元繁は「日本の項羽(三国志の呂布を超える豪傑にして秦帝国を滅ぼした西楚の覇王。中国史を代表する人物の一人)」とも謳われた勇将で、小勢力の毛利氏や吉川氏には荷が重い相手と見られ、戦況も数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討ち死にすると武田軍は混乱して壊滅。

 

安芸武田氏は当主の武田元繁のみならず多くの有能な武将を失い退却することになる。

 

 

この「有田中井手の戦い」は西国の桶狭間と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大のターニングポイントとなり、毛利元就の名が世に知られるようになるキッカケであった。

 

有田中井手の戦い
 

1523年、鏡山城(広島県東広島市)で起きた尼子氏と大内氏による「鏡山城の戦い」で、大内氏側から尼子氏側へ鞍替えした元就は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始し、膠着状態となった戦況を巧みな智略で攻略し、その活躍から毛利家中での信望を高める。

 
鏡山城の戦い
 

この頃、元就は吉川国経の娘を妻に迎え、27歳で長男・隆元が生まれた。

 

また、毛利家当主である甥・幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子で重臣達の推挙もあったことから、27歳で毛利家の家督を継いで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に入城し、毛利元就と名乗ることになる。


吉田郡山城
 

ところが、元就が家督を継いだことに不満を持った坂氏・渡辺氏などの有力家臣団が、尼子氏の重臣・亀井秀綱の支援を受けて元就の異母弟・相合元綱を擁立して対抗したため、元就は相合元綱一派を粛清・自刃させることになった。

 

相合元綱は異母弟とはいえ元就との兄弟仲は良かったため、尼子氏の計略に乗ったことを恥じたという。相合元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられる。

 

家臣団の統率をはかるため粛清せざるを得なかったが、元就は相合元綱を亡くしたことを寂しがり、僧侶になっていた末弟・就勝(元就・相合元綱の異母弟)を還俗させると北氏の跡を継がせて側に置いた。

 

毛利元就2

家督相続問題をキッカケに元就は、尼子経久と敵対関係となっていき、1525年、尼子氏と手切れして大内義興の傘下となることを明確にした。

 

1529年、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐し、元就は高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。

 

 

一方、父・弘元が仲良くするようにと言い遺しながらも兄・興元の代で戦になった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、元就は宍戸元源に高橋氏の旧領の一部を譲り、1534年に元就の娘・五龍局を宍戸元源の孫・宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。

 

 

1533年、大内義隆が後奈良天皇に、元就の祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事にならって元就に官位を授けるように申し出た。

 

そして、これは元就が4,000(現在の貨幣価値で約500万円)を朝廷に献上する事で実現し、元就は推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果を得る。

 

1537年には、大内氏へ元就の長男・毛利隆元を人質として差し出し、さらに関係を強化した。


毛利元就3
 

1540年、大内氏と対立する尼子晴久(尼子経久の後継者)の尼子軍3万が吉田郡山城を攻めると、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000で迎え撃ったが、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この「吉田郡山城の戦い」に勝利し、安芸国の中心的存在となる。

 

そして、同年、尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏を滅亡させると、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

 

吉田郡山城の戦い
 

尼子氏が「吉田郡山城の戦い」で敗れたことにより、尼子氏側だった国人領主達からも大内氏側に付く者が続出し、大内氏のもとには尼子氏退治を求める声が強くなり、1542年、大内義隆は毛利氏などの諸勢力を引き連れて出雲国の月山富田城(島根県安来市)へ出兵する。

 

この「第一次月山富田城の戦い」は、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎて補給線と防衛線が寸断されたことにより、大内軍は敗走した。

 

この敗走中に元就は死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして奮戦して戦死したことにより、無事に安芸に帰還する。

 

 

この頃から元就は常に大大名の顔色をうかがう小領主の立場からの脱却を考えるようになった。

 
第1次月山富田城の戦い
 

1541年に「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけてくれた小早川興景が子もなく亡くなったため、竹原小早川氏の家臣団から元就の三男・徳寿丸を養子に欲しいとの要望があり、1544年、徳寿丸は強力な水軍を擁する竹原小早川氏へ養子に出される。

 

徳寿丸は元服後に小早川隆景を名乗るようになった。

 

 

1545年、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くし、特に妙玖が亡くなった悲しみは深く、後々まで手紙などに妻を追慕する内容を書き残している。

 

 

「第一次月山富田城の戦い」で裏切り行為をした吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、一族が分裂して家中の統制ができなくなり、吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。

 

さらに反興経派は元就の次男・元春を吉川氏の養子にしたいと再三の要求を出し、元就がこれに応じたことにより、家督を乗っ取る形で元春は吉川家の当主となる。

 

しかし、興経派を警戒していた元就は吉川元春をなかなか吉川家の本城へは送らなかった。

 

吉川元春は長男・元長が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていたが、1550年、元就の命で将来の禍根を断つため吉川興経とその一家が殺害されると、ようやく吉川元春は吉川氏の本城に入る。

 
吉川元春
   
吉川元春
 

また元就は「第1次月山富田城の戦い」で当主であった小早川正平を失った沼田小早川氏の新たな当主である小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させると、小早川繁平を出家に追い込み、元就の実子で竹原小早川氏の当主になっていた小早川隆景に沼田小早川氏も継がせた。

 
小早川隆景
  
小早川隆景
 

こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏には元就の次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏には元就の三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして両家の勢力を取り込み、毛利氏の勢力拡大を支える「毛利両川体制」が確立し、安芸一国の支配権をほぼ掌中にする。

 

毛利氏
 

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害させられ、養子の大内義長(豊後大友氏・大友義鑑の次男)が擁立され、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏の血統が絶え、西国の支配構造は大きく変化していく。

 

 

以前から陶晴賢と通じて安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた元就は、これを背景に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃した。

 

 

ところが、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は元就に支配権の返上を要求し、元就がこれを拒否すると、両者の対立が色濃くなっていく。

 
大内義隆
  
大内義隆
 

この当時、陶晴賢が動員できる大内軍3万以上に対して、毛利軍の最大動員兵力は40005000であったため、正面衝突すればとても勝算が無かった。

 

 

1553年、陶晴賢に自害に追い込まれた大内義隆に恩義のあった津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)主・吉見正頼が、陶晴賢に対して挙兵する。

 

吉見氏と陶氏の両方から加勢を求められていた毛利氏の家中は意見が割れるが、元就は大内氏からの離反・独立を決め、陶晴賢に対して反旗を翻した。

 

 

激怒した陶晴賢は即座に重臣の宮川房長に3000を率いらせて毛利氏攻撃を命じるが、元就はそれを撃破し、宮川房長は討ち死にする。

 

 

1555年、今度はついに陶晴賢が自ら2万~3万の大軍を率いて、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく出陣、しかし毛利軍の奇襲攻撃に苦しめられ、さらに厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利氏に味方し、退路を断たれた陶晴賢は自害することになった。

 
 

 

元就が大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破した勢いで周防(山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の両国攻略を計画すると、大内軍は蓮華山城・鞍掛山城・須々万沼城・富田若山城・右田ヶ岳城などに兵を配備して毛利軍を迎撃する準備を整える。

 

 

しかし、この頃、大内氏の家臣団の内部崩壊が進んでいたこともあり、大内軍は毛利軍の進軍を防ぎ切れず、大内氏当主・大内義長が自害に追い込まれたことで大内氏は完全に滅亡し、これにより毛利氏は九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

 

津和野城
 

1556年、元就は次男・吉川元春らを石見国へと進め、石見銀山防衛のため築城された山吹城(島根県大田市大森町)の刺賀長信を服属させて石見銀山を支配下に置くが、尼子晴久はすぐに山吹城と石見銀山を奪取すると、山吹城に本城常光を置いて石見銀山の守りを固める。

 

さらに、尼子氏と結んで毛利氏に抵抗する石見の有力豪族・小笠原長雄が石見攻略の大きな障害となっていた。

 

1559年、毛利氏が小笠原長雄の籠る温湯城(島根県川本町)を落城させ山吹城を攻撃した「降露坂の戦い」は、本城常光の奇襲とそれに合流した尼子晴久本隊の攻撃を受けて毛利氏は大敗する。

 

降露坂の戦い
 

1561年に尼子氏当主・尼子晴久が死去し、尼子晴久の嫡男・尼子義久が家督を継ぐと、1562年、元就は出雲侵攻を開始し、これに対して尼子義久が難攻不落の月山富田城に籠城して尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った「第二次月山富田城の戦い」において、元就は月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功した。

 

 

元就は大内氏に従って敗北を喫した「第一次月山富田城の戦い」を教訓に無理な攻城はせず、城内の食料を早々に消耗させ、それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘う策略を張り巡らし、1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久は降伏を余儀なくされる。

 

 

こうして石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼしたことにより、元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。

 
石見銀山
 

しかし、中国地方8ヶ国を支配した元就であったが、尼子氏残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入したり、元就によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。

 

それらは毛利氏にとって厳しい時期となったが、吉川元春、小早川隆景ら優秀な息子達の働きにより乗り切ることに成功した。

 

 

 

1560年代の前半より度々体調を崩していた元就に対して、室町幕府将軍・足利義輝が名医・曲直瀬道三を派遣して治療に当たらせる。

 

その効果もあったのか、元就の体調は持ち直し、1567年にはなんと最後の息子である才菊丸が誕生した。

 
足利義輝
  
足利義輝

しかし、1571年、吉田郡山城において、死因は老衰とも食道癌ともいわれるが74歳で死去する。

 

 

毛利家の家督はすでに嫡男・毛利隆元に継承済であったが、隆元が1563年に亡くなっていたため、元就の孫・毛利輝元(隆元の嫡男)が継いだ。




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尼子 経久 (島根)

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1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。

 

それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。


応仁の乱
 

1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この間に元服する。

 

経久は京都での滞在生活を終え、出雲に戻った後、父から家督を譲られた。

 

 

経久は尼子家の当主になって以降、次第に国人衆(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)との結束を強くし、この過程で室町幕府の命令を無視して京極政経の寺社領を押領するなどして独自に権力基盤を築く。

 

尼子経久2

しかし、こうした権力基盤の拡大は室町幕府や主君・京極政経の反感を買い、1484年、経久は居城を包囲され、守護代の職を剥奪される。

 

守護代の職を失っても経久は出雲で一定の権力を保持しており、1488年、経久は三沢氏(出雲の国人)を攻撃して降伏させた。


尼子経久2a
 

1500年、経久は守護代の地位に返り咲くと、近江国(滋賀県)において起こった京極氏の家督相続を巡るお家騒動で敗れた京極政経との関係を修復させる。

 

1508年、京極政経が死去すると、経久は出雲大社の造営を行い、宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の支配者としての地位を固めていく。

 

 

京極政経は孫の吉童子丸に家督を譲り、関係を修復させた経久にその後見を託したが、程無くして吉童子丸は行方不明となり、経久は事実上の出雲の支配者となる。

 

出雲大社
 

尼子氏にとって、中国地方で一大勢力を築いていた大々名である大内氏との関係は大きな問題であった。

 

 

1511年、大内氏当主・大内義興が細川高国ととも室町幕府将軍・足利義稙を擁立し、それに対抗して前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元が戦った「船岡山合戦」に、経久は大内義興に従って参加する。

 
船岡山合戦
 

この頃、経久の次男・尼子国久は細川高国から、経久の三男・塩冶興久は大内義興から偏諱(将軍や大名が功績のあった者などに自分の名の一字を与える)を受けており、経久は両者(大内義興・細川高国)との関係を親密にしようとしていた。


大内義興
  
大内義興

しかし、一方で、経久は1512年に大場山城(広島県福山市本郷町)主・古志為信の大内氏への反乱を支援していたり、1517年に大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護であった山名氏と手を結んで大内氏領の城を攻めるなど、次第に大内氏の影響下にある石見や安芸への野心を見せるようになる。

 

なぜなら、備後国(広島県の東半分)の山内氏や安芸国(広島県西部)の宍戸氏など国境を接する領主達の出雲国内への影響力は無視できないもので、経久が出雲国支配を安定させるうえで備後・安芸への進出を視野に入れないわけにはいかなかった。

 

大場山城
 

1520年、経久は出雲国西部の支配を確立させると、ついに石見国(島根県西部)、安芸国に侵攻し、ここから、北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才といわれた経久が、領地を広げ、尼子氏の全盛時代を作っていくことになる。

 

 

1523年、経久の重臣・亀井秀綱の命で、この時まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に、大内氏の拠点である鏡山城(広島県東広島市)を攻めさせた。

 

毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である毛利元就は、鏡山城内への寝返り工作を謀るなどして、見事に鏡山城を落城させる。


鏡山城
 

ところがこの後、毛利元就の異母弟・相合元綱らが毛利元就の暗殺を計画すると、相合元綱が尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾にしていたことから、毛利元就の暗殺計画に経久の意志が絡んでいることは明白であったため、暗殺計画に気付いた毛利元就は相合元綱を殺害すると、尼子氏との関係を解消して大内氏に鞍替えすることになった。

 

 

1524年、経久は伯耆(鳥取県中部・西部)に侵攻すると、伯耆羽衣石城主・南条宗勝を破り、さらに伯耆守護・山名澄之を敗走させる。

 
伯耆羽衣石城
 

1526年、伯耆・備後の守護職であった山名氏が反尼子であることを鮮明にし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲されるという窮地に立たされた。

 

 

1527年、経久は備後国へと兵を出兵するも大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)に敗れたため、尼子側であった備後国人の大半が大内氏へと寝返っていく。

 

1528年、再び経久は備後国へと出兵し、多賀山氏の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を陥落させるも、石見国における尼子側の高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされる。


蔀山城
 

そして1530年、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けた経久の三男・塩冶興久が、反尼子を鮮明にして大規模な反乱が勃発した。

 

 

経久はこの危機を大内氏の支援を仰ぐなど、巧みな処世術を駆使して切り抜け、1534年にこの反乱を鎮圧し、塩冶興久は自害に追い込まれる。

 

 

経久は長男・政久を早くに戦いで失っており、さらにこの反乱で三男・塩冶興久を失い、尼子氏は大きなダメージを負った。

 

塩冶興久の遺領は経久の次男・国久が継いだ。


尼子経久1
 

その後、経久の孫・尼子晴久(経久の長男・政久の次男)が美作国(岡山県東北部)へと侵攻して、ここを尼子氏の影響下に置くと、さらに備前へと侵攻するなど東へと勢力を拡大していった。

 

この後、尼子晴久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加する。

 


1537年、経久は家督を孫の尼子晴久に譲るが、第一線から身を引いたわけではなく、経済的に重要な拠点である大内氏が所有していた石見銀山を奪取した。

以後、この石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになる。


石見銀山

さらに、経久は東部への勢力を拡大すべく播磨守護・赤松政祐と戦い大勝する。



しかし、1539年、大内氏が尼子氏側の武田氏の佐東銀山城(広島市安佐南区)を落城させ、当主の武田信実は若狭国(敦賀市を除いた福井県南部)へと逃亡した。

 

 

1540年、武田信実の要請もあり尼子晴久は大内氏との早期決戦を目指して、大内氏側の毛利氏を討伐すべく出陣する。


佐東銀山城

尼子軍は諸外国からの援兵も加わり
3万騎へと膨れ上がり、大軍で毛利氏の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)を包囲する有利な形勢であったが、翌年、攻めあぐねるうちに陶隆房率いる大内軍2万騎の到着を許して大敗を喫し、尼子氏は安芸での基盤を失う。

 

この頃、経久から家督を継いだ尼子晴久や経久の次男・国久が尼子氏の軍事の中心を担っていたが、彼らには経久ほどの器量はなかった。

 

尼子晴久
  
尼子晴久

1541年、82歳の経久は、尼子氏の先行きを案じながら居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)で死去する。

 

月山富田城
 
経久の死後、大内義興の後を継いだ大内義隆が大軍で出雲に攻め込むが、大内側の吉川興経の裏切りにあったことにより大内義隆は撤退を余儀なくされた。

この裏切りは生前に経久が仕込んでおいた策略である。

 

大内義隆
  
大内義隆
 

「塵塚物語」によると、経久は持ち物を家臣に褒められると喜んで、高価なものでもそれを褒めた者に与えてしまうため、気を使った家臣達は経久の持ち物を褒めないようにしていたが、ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思って褒めると、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めるも、経久はとうとう松を切って薪にして渡したという。

 

 

また、冬には着ている物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。




尼子経久TシャツT

ClubT  尼子 経久 「劇団Camelot」 

(Tシャツ 税抜3000円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など) 

 



中国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。


武蔵の出生地は諸説あり、史実としては「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが有力です。

しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、伝説も込み込みで、あの宮本武蔵といえるのではないか、むしろ伝説を度外視した武蔵を宮本武蔵といえるのであろうかと思います。

そこで、物語として美作国(岡山県東北部)を出生地とすることが多く、また街のアピールも強いことから岡山を宮本武蔵といたしました。


個人的に石田三成が好きなので「関ヶ原の戦い」でその三成に味方した宇喜多秀家を岡山で取り上げたかったのですが…。


中国地方というのは、日本の中心であった畿内から天下統一を目指して九州を目指すうえでも、九州の戦力を畿内に移動させるうえでも、通過することになる日本史を考えるうえで重要な拠点でした。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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