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楠木正成

名和 長年 (鳥取)

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鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。

 

 

長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。


源師房
  
源師房 

 

鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。

 

長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。

 

名和長年1
 
 

鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。


 

1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。

 
 

しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。

 

後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。

 

その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。

 
後鳥羽上皇
  
後鳥羽上皇 

 

後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。

 

  

佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)

 

これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。

 

船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。

 

 

膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。

 

佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。

 
船上山の戦い

その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。

 

さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


名和長年3
 

長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。

 

さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。

 

また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。

 

「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。


名和氏
 

幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。

 

長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。


名和長年4

1335
年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。


足利尊氏
   
足利尊氏

 

これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。

 
竹ノ下の戦い
 

1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。

 

 

しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。


楠木正成
  
楠木正成

 

日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 

 

再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。

 
新田義貞
  
新田義貞 

 

「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。




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宇都宮 公綱 (栃木)

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1302
年、宇都宮貞綱の子として生まれ、宇都宮氏第9代当主となる公綱を理解するためには、若干なり時代背景を知る必要がある。

 

 

 

鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。

 

 

1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。

 

御醍醐天皇
  
醍醐天皇
 

幕府は後醍醐天皇に代わって、大覚寺統の光厳天皇を即位させた。

 

 

後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。

 

 

 

楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。

 

1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。

 

北条高時
  
北条高時
 
 

鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。

 

宇都宮二荒山神社

弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)6万騎を率いる総大将となっている。

 

弘安の役
 

 


 

四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。

 

四天王寺1

公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが、当の楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。


楠木正成
  
楠木正成
 

そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。

 


楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。

 


 

しかし、楠木正成は45日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。

 

 

この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。

 

 

そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。

 

 

宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。

 

四天王寺2
 

結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。

 

 

 

さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。

 

 

実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。


千早城
 
それ以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。

 

 

鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

 

足利尊氏
  
足利尊氏
 

その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。

 

北畠顕家
  
北畠顕家
 

そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。

 

 

1356年、55歳で死去。
 

宇都宮公綱1
 

公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。

 

 


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