1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。
頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。
松下之綱
1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。
織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。
秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。
織田信長
1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。
この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。
「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。
1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。
「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。
立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。
1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。
柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。
秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。
しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。
秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。
柴田勝家
一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。
名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。
1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。
自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。
秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。
その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。
最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。
これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。
両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は2対1となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。
実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。
丹羽長秀
後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。
長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。
柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。
すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。
「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。
三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。
しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。
両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。
「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。
実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。
「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。
なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。
柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。
足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。
一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。
秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。
そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。
そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。
秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。
ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。
この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。
実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。
夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。
勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。
沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。
午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。
不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。
秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。
「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。
北条氏は5代100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。
北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。
1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。
秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。
秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。
しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。
そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。
秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。
その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。
すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。
関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。
徳川家康
さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。
秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。
こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。
一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5代100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。
徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。
この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。
秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。
さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。
それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。
秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。
1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)城(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。
真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。
秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。
秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。
その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。
かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。
北条氏政
箱根を越えた秀吉軍は、北条軍5万7000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。
秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。
秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。
この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。
小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。
伊達政宗
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。
1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。
すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。
一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。
秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。
1591年、秀吉は明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。
1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、6万4000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。
その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。
1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。
その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。
秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。
ClubT 豊臣 秀吉 「劇団Camelot」
(Tシャツ 税抜3000円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)