1751年、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。
鷹山の父は能力主義の登用を進め、兄は日本初の子ども手当を実施するなど、秋月家には名君を生みだす気風が存在していた。
鷹山の教育係だった細井平洲は「民をみる時に、怪我人をみるように、飢えている人をみたら自分が飢えているように思えないなら殿様になってはいけない。」と鷹山に教え込む。
1760年、米沢藩主・上杉重定の養子となって米沢藩邸に移る。
しかし、これは弱小藩の次男坊が名門上杉家の当主となるサクセスストーリーとはいかなかった。
上杉家の祖先である上杉謙信は越後(現在の新潟県)を中心に120万石を支配した戦国時代屈指の英雄であったが、謙信の死後、上杉家の領地は豊臣秀吉によって東北に移される。
関ヶ原の戦いでは敗れた西軍に味方したため、江戸時代になると領地は30万石に大きく削減され、その後さらに3代藩主・綱勝が世継ぎを決めずに急死したため、お家断絶の危機(江戸時代の大名家は世継ぎを幕府に伝えなくてはならなかった)にさらされた。
幕府の温情でお家断絶は免れたものの、領地はついに15万石にまで減らされる。
しかし、領地が減っても、上杉家へ仕えることを誇りとする会津120万石時代の家臣5,000人は離れず、同じ規模の他藩の3倍の家臣を抱え (今でいうと公務員が多すぎる状態)、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与え、過剰な公務員を支えているようなものである農村は疲弊していた。
米沢藩は慢性的な赤字で、1771年の米沢藩は収入3万両に対して支出7万両(うち4万両が借金返済分)となっている。
そんな有様の中で、1767年、鷹山は17歳で上杉家の家督を継ぎ、米沢藩の第9代藩主の座に就く。
鷹山はまず藩主自ら倹約に努め、生活費はそれまでの7分の1に切り詰めた。
しかし、鷹山の義理の父である先代・重定は名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改めようとはせず、領民救済は幕府に委ね、お家返上を本気で考えるほど政治に投げやりであり、鷹山は倹約の難しさを悟る。
竹俣当綱
鷹山は、産業に明るい竹俣当綱(たけまたまさつな)と、財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家臣を抜擢し、先代任命の家老らと厳しく対立した。
倹約だけでは財政再建はとても出来ないため、鷹山は米の生産を上げるため、武士にも田畑を耕させ、鷹山自らも鍬を握るが、こうした改革は、名門上杉家の伝統を汚すとして旧臣達の反発を大きく買う。
藁科立沢は鷹山から仕事ぶりが不真面目であると減俸された不満から、同じように不満を持つ重臣7名を集め、1773年、鷹山に改革中止を訴えた(七家騒動)。
当時の常識から考えると、武士を田畑に入らせる鷹山に圧倒的な非があり、苦しい状況になった鷹山が場を立ち去ろうとする。
すると、一人が鷹山の裾を引っ張って引き止めようとする事態となり、これは主君に対する態度としては、武家社会では万死に値する極めて無礼な行為だったため、鷹山は厳しい処分を下す口実を得ることになった。
その結果、鷹山は、2人を切腹、5人を隠居、首謀者である藁科立沢は斬首という厳しい処分を下し、保守派の勢力を強硬に排除する。
保守派の抵抗を乗り切った鷹山は、竹俣当綱を中心に本格的な財政再建に乗り出す。
漆の木100万本を藩全体に植林し、そこからロウソクを作り始めるが、その頃、ハゼの実から作る低価格高品質なハゼロウが市場に出回り始め、米沢のロウソクは悪ロウとまで呼ばれ、市場から淘汰される。
1782年、上杉家では謙信の命日には酒を飲んではいけない決まりがあったが、竹俣当綱は命日の朝まで飲み明かすという失態を演じた。
改革の中心となった竹俣当綱は権力に奢るようになっており、公費の乱用、度を越した接待、派閥的な人事などのスキャンダルが明るみになり、鷹山のもとには竹俣当綱への批判が次々と舞い込む。それにともなって藩内は改革への不満が渦巻いた。
鷹山は竹俣当綱を隠居させ禁固刑にする。
その半年後、莅戸善政が隠居を願い出た。
こうして、鷹山は腹心二人を失う。
1783年、信州の浅間山が大噴火し、噴煙は関東から東北に広がり、日照が遮られて米の収穫は激減し、東北地方の農村を中心に推定約2万人の餓死者が出る「天明の大飢饉」となり、米沢藩は11万石の被害を出す。
その大損害の5ヶ月後、今度は贅を尽くした先代・重定の御殿が焼失し、重定は財政難にも関わらず新しい御殿の建設に着手する。
鷹山の改革は挫折し、鷹山は35歳で藩主の座を退くことになった。
新たな藩主の座には、先代・重定の実子(鷹山が養子となった後に生まれた)である治広が就き、鷹山は自身の養子でもある治広に「国家と人民のために君主を立てるのであって、君主のために国家や人民があるのではない。」と想いを託すが、その願いもむなしく、新しい藩主の儀式などの出費で財政はさらに悪化。
藩はこれに対して家臣の給料33%削減で対応する。
その結果、生活に困った家臣の中には年貢徴収の際に不正をする者が現れるようになり、農民達から余分に年貢を徴収して差額を懐に入れるといったことが横行した。
こうした重税に耐えかねた農民達は、田畑を捨てて米沢藩から逃げていき、13万人だった人口は9万人まで減り、需要が減った城下町では商品が売れなくなり、商人が藩に納める税金は激減する。
この惨状に胸を痛めていた鷹山は、再び改革の舵取りに乗り出す決意を固めていく。
1790年、鷹山はそれまで上層部しか把握していなかった財政状況を、初めて藩士に対して公開し、さらに武士だけでなく農民や町人からも財政再建のためのアイディアを募った。
それにより、政治への不信感は払拭されていき、身分に関係なく採用された優れた意見の中には、かつて鷹山が処分した改革反対派の息子によるアイディアもあり、これが大きな転機となる。
それは、蚕のエサとなる桑の苗木を無料配布し、藩全体に桑の木の栽培方法や蚕の飼育方法を周知し、藩をあげて士農工商みなで養蚕に取り組むというものであった。
こうして地元で生産された生糸を、さらに下級武士の妻や子ども達に機織りを学ばせて誕生したのが、米沢織である。
それは、もともと米沢藩が輸出していた麻糸の一種「からむし」が、大和に行くと「奈良さらし」へと付加価値を付けて高価なものに変わっている流れを、今度は原料を提供するだけではなくヒット商品に変えるところまで米沢藩でやるというものであった。
鷹山は最初の改革では、倹約(痛み)の後の希望を示していなかったが、二度目は経済を理解させることによって、生産品に対する希望と誇りを持たせることに成功する。
米沢織は藩士の生活を支える産業へと発展していき、こうした中で超ヒット商品「透綾」が開発され、開発した下級武士は3万両もの資産を誇る大金持ちとなった。
二度目の改革で鷹山は、倹約ではなく、攻めの経営で一人のリストラも出さずに、20万両(現在の価値で換算すると約100億円)におよぶ借金を抱えていた藩財政は立ち直り、72歳で鷹山が死去した翌年、米沢藩は借金をほとんど返済し終える。
二度目の改革から33年目であった。