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徳川家康

加藤 清正 (熊本)

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1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。

 

1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。

 

 

1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。

 

加藤清正5
 
織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。

 

21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。

 
賤ヶ岳の戦い

1584
年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。

 

この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。

 

 

その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。

 

小牧山城
 

薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。

 

秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。

 
佐々成政

  佐々成政

秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国195,000石の大名となる。

 

清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。

 

さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。

 
加藤清正1

 

清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。

 

一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。

 

 小西行長

  小西行長

1590年、秀吉は5100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。

 

 

1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。

 

この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。


文禄の役

 

当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。

 

1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。


加藤清正2
 

 「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。

 

慶長の役
 
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。

 

 

父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。

 

日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。


豊臣秀吉

  豊臣秀吉

その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。

 

この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。

 

 

1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

 

九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。

 

そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。

 

石田三成
  
石田三成

歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。

 

 

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。


徳川家康

  徳川家康

しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。

 

徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。

 

この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。

 

加藤清正6
 

「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。

 

清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。

 

 

徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。

 

 

さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。

 
豊臣秀頼

  豊臣秀頼

一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。

 

 

こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。

 

 

清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。

 
熊本城

 

清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画((ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。

 
昭君の間

本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。

 

 

清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。

 

闇御門
 

1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。

 

 

清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。

 

清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。

 

淀殿
  
淀殿

会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。

 

秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。

 

 

会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。

 

そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。

 

加藤清正4
 

無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。

 

 

しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。

 

 

 

清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。

 

方広寺鐘銘事件
 

これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。

 

 

秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。



 

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石田 三成 (滋賀)

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1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。




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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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関東 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
その理由は鎌倉幕府が誕生する以前の日本というのは京都一極集中の支配体制だったからです。

そうした古代から中世において、京都の影響から脱して関東に独立性も求めた人達がいました。

鎌倉幕府以降の関東は、鎌倉北条氏や小田原北条氏(鎌倉北条氏の流れではない)、そして徳川家と京都からの独立性の高い気風を保ち、派手な英雄を必要としなくなっていきました。


徳川家康に関しては、出生地の愛知、浜松城を築いた静岡、という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!












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