徳川吉宗 (劇団Camelot) Tシャツ
徳川吉宗
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徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は5万5000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。
1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。
元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。
吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌山城下の繁華街で家臣達と、よく食べよく遊びながら実社会の成り立ちを感じ取っていく。
しかし、一方で、紀州藩は派手な結婚式や将軍家との交際に費用がかさみ、深刻な財政難に陥っていた。
さらに、江戸の藩邸が度重なる火事に見舞われ、再建に莫大な費用がかかり、日照りや干ばつなど災害も相次ぎ、紀州藩は幕府から10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を背負う。
1705年、吉宗の兄達が相次いでこの世を去ったため、22歳の吉宗が紀州藩第5代藩主を務めることになった。
吉宗はさっそく藩財政の建て直しに取り掛かかり、倹約第一を掲げて、自ら率先して食事を質素なものにし、酒の量も制限する。
さらに吉宗は荒れ地を切り開いて水田とするために大規模な治水工事を行い、この工事では木の樋(水を通すための溝または管を樋という)をもちいて水路を川の上に通す画期的な技術がもちいられた。
出来あがった小田井用水は全長30kmにおよび、新しい水田は豊かな実りをもたらし、年貢米の増加となって藩財政を潤し、吉宗は藩主となって12年で藩の借金を返済し、そのうえで14万両の金と11万6000石の米を蓄えるまでに至る。
吉宗は支出を減らし収入を増やすという極めてオーソドックスな方法で財政再建を成し遂げた。
幕府の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「吉宗はことに優れた名君だと噂され人々の信頼も厚い。」と、吉宗を高く評価した。
その頃、江戸城では、まだ8歳の第7代将軍・徳川家継が重い病気にかかり、明日をも知れぬ命と言われていたため、次の将軍を誰にするかが話し合われ、吉宗にその白羽の矢が立つ。
1716年、吉宗33歳、御三家からの将軍就任という前例のない大抜擢で、第8代将軍となった。
しかし、将軍に就任して間もなく、吉宗は蓄えが底をつき、商人達への借金が積み重なり、すでに幕府の財政が崩壊状態であることを知る。
財政再建に取り組む決意をした吉宗は、紀州藩の時と同じように、食事は自ら率先して一日二食、オカズは二品、それ以上は「腹のおごり」と戒める倹約第一を掲げた。
さらに大奥に命じて美女50人を選抜し、着飾って現れた絶世の美女達に対して吉宗は「美人なら暇を出しても、その後、引く手数多であろう。」とリストラを敢行し、経費削減をする。
一方で、好景気に沸いた元禄時代、金銀が町に溢れ、物価は異常な値上がりが続くインフレ状態となっていた。
1718年、物価を下げるには金銀貨幣の量を減らせば良いと考えた吉宗は、世の中に出回る古い貨幣を回収するように命じ、数年のうちに通貨の量を3分の2にするという極端な金縮政策を取り、物価はやがて落ち着きを取り戻す。
続いて吉宗は、幕府の収入増加のためにこれまた紀州藩の時と同じように、関東平野を始め各地で治水工事を行って新田開発をする。
吉宗が作らせた全長60kmにも及ぶ江戸時代最大規模の農業用水路である見沼代用水は、パナマ運河のように高さの違う二つの土地を水路で結ぶという画期的なもので、さらに通船堀と呼ばれる船を通すための堀も作られ、物資の運搬にも利用された。
こうして切り開かれた水田からの年貢米は年々増加し、1722年、長年積み重なっていた幕府の債務16万両が完済される。
吉宗の経済政策は紀州藩の時のように成功したかに思われたが、米の生産量が大きく上がると米の値段は下がり、4年間で40%もの暴落をした。
そして、この米の値崩れが武士の生活を困窮させることになる。
江戸時代、武士は毎年決まった量の米を俸禄(給料)として受け取り、その米を売ることで金銀貨幣を手に入れて生活必需品を買っていたため、武士にとって米の値段が下がることは実質収入の減少を意味した。
武士の収入が大幅に減少すると、消費は大きく冷え込み、瞬く間に深刻な不景気が全国を直撃する。
紀州藩では成功した吉宗の政策が裏目に出たのは、藩内だけの増産の場合は増産分が他藩への輸出分に出来たが、将軍となって全国的な増産をすると全国的に米余り状態となり、それが米の価格を下げるという結果になった。
労働の価値よりも希少価値が力を持つ市場経済において、全国規模での過当競争がこういった結果を招くことは、現代なら常識であったが、吉宗の時代はまだ市場経済が産声を上げたばかりなのである。
天下の台所といわれ全国の物資の集散地として栄えていた大阪の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集まり、商人を通じて年貢米の販売が行われ、ここで取引される値段が全国の米の値段を左右した。
米の値段を引き上げたい吉宗は、江戸から御用商人(幕府や諸藩に様々な特権を認められた商人)を大阪に送り込んで、米市場をとり仕切らせて相場の操作を目論んだ。
しかし、実勢とかけ離れた高い値段で取引をしようとしても無理があり、さらに1730年、江戸町奉行・大岡忠相(通称・大岡越前)のもとを大阪の商人達が陳情に訪れ「諸国の米商人達は幕府が開く米市場を敬遠するので、大阪で取り引きをしなくなってしまった。扱う米が無いので、大阪の仲買商人は商売が成り立たず生活に困っている。」と訴えたため、吉宗は大阪の米商人に自由な商いを認めざるを得なくなる。
そうして、米の値段は下落を続け、一石30匁を割り、10年前の3分の1にまで価格を落とした。
そこで、吉宗は米を買い占めることで相場のつり上げることを考え、28万石ともいわれる米を買い上げる。
さらに、1731年には加賀藩から15万両を借りてまで米の買い占めを続けた。
しかし、思ったほどの効果はなく、米の値段に一喜一憂する吉宗は、いつしか「米将軍」と揶揄させるようになる。
もはや相場は幕府一藩がどんなに金をつぎ込んでも動かせるような規模ではなくなっていた。
1732年、梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及ぶ冷夏とイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしたことにより西日本一帯で、200万人が飢えに苦しみ、1万2000人が餓死する「享保の大飢饉」が発生する。
吉宗は直ちに東日本の米を西日本にまわすように指示し、さらに幕府の蔵を開け9万5000石の米を送り、また、20万両あまりを投じて被災地の救済も指示した。
米余りから一転して、深刻な米不足が生じたことで、皮肉にもこの年、米の値段は一気に急騰して一石100匁を越える。
「享保の大飢饉」救済のために幕府の財政は再び傾きはじめ、吉宗の改革は頓挫しようとしていた。
1734年、吉宗が将軍になって19年目の年、飢饉の年にいったんは高騰した米の値段は再び下がり始め、一石あたり40匁を割るまで値段を下げる。
そんな時、江戸町奉行・大岡忠相が吉宗に「米の値段を上げるには貨幣を増発して、世の中に出回る通貨の量を増やすしかない。」と進言するが、それはこれまでの幕府の政策を180°転換せよというものであり、物価の値上がりに苦しんだ経験のある幕府にとって容易に決断できるものでなく、吉宗は大岡忠相の進言を却下した。
しかし、その後も米の値段が上がるようなことはなく、不景気はさらに深刻なものとなると、1736年、大岡忠相は再び吉宗に「通貨の量を増やさなければ、米の値段は上がらない。」と強く迫る。
大岡忠相
通貨の量を増やせば世の中は乱れるかもしれない、しかし、このままでは米の値段は上がらず、人々は苦しみ、幕府財政も建て直せないと判断した吉宗は、ついに通貨の増発の決断をした。
貨幣鋳造の総責任者には大岡忠相が任命され、さっそく新しい貨幣「元文金銀」の鋳造が開始されると、吉宗の命令から1カ月後には続々と「元文金銀」が世の中に出回り始め、その発行量はそれまでの貨幣の2倍近くにまでなる。
すると、米の値段は次第に上昇し始め、やがて、一石60匁ほどに落ち着き、ようやく不景気は終わりを告げた。
貨幣改鋳の2年後、大岡忠相は日記に「ようやく最近になって米の値段がよろしくなった。武士達の暮らし向きも良くなり、町人達も仕事に励むことができるようになった。」と記している。
吉宗の言葉を伝える「紀州政事鏡」には「誤りを知るを真の人という。」という言葉が記されている。
政治家という民の運命を背負う責任ある者は、間違えたら切り替えるという困難な思考・判断が必要であり、吉宗は過去の成功体験が通用しないことや過去の不況の原因が今度は特効薬になることを受け入れることが出来た。
そんな誤りを知る者だったからこそ吉宗は、米経済から通貨経済への時代の移り変わりに見事に対応することが出来たのである。
1751年、吉宗は66歳でこの世を去り、その墓は寛永寺(東京・上野)の第5代将軍・徳川綱吉の廟の中に建てられた。
度重なる財政再建でまず倹約第一から始めた吉宗らしく、自分のための新しい廟を決して作らせないように言い残していたからである。
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近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。