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後醍醐天皇

名和 長年 (鳥取)

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鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。

 

 

長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。


源師房
  
源師房 

 

鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。

 

長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。

 

名和長年1
 
 

鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。


 

1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。

 
 

しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。

 

後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。

 

その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。

 
後鳥羽上皇
  
後鳥羽上皇 

 

後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。

 

  

佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)

 

これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。

 

船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。

 

 

膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。

 

佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。

 
船上山の戦い

その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。

 

さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


名和長年3
 

長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。

 

さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。

 

また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。

 

「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。


名和氏
 

幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。

 

長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。


名和長年4

1335
年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。


足利尊氏
   
足利尊氏

 

これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。

 
竹ノ下の戦い
 

1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。

 

 

しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。


楠木正成
  
楠木正成

 

日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 

 

再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。

 
新田義貞
  
新田義貞 

 

「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。




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足利 尊氏 (京都)

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1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。




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新田 義貞 (群馬)

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新田氏本宗家の
7代当主・新田朝氏(にったともうじ)の嫡男として生まれた。

 

義貞は戦死した際に3740歳であったといわれ、生年については1300年前後と考えられている。

 

義貞の育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土で、義貞はそのような風土の中で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていった。

 

 

1318年、父・朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、第8代当主となる。

 

 

新田氏は源義国(源義家の四男)の長男・新田義重に始まり、もともと広大な領地を有していたが、新田氏とは同祖の足利氏(源義国の次男・源義康から始まった)と比べると、鎌倉幕府を掌握していた北条家に冷遇され、義貞の代の新田氏はその領地も縮小していた。

 

源義国 

  源義国

1331
年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒する計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗し、幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は隠岐島に流される。

 

 

幕府に従って千早城(大阪府南河内郡)に立てこもっていた楠木正成(後醍醐天皇側)への攻撃に義貞は加わっていたが、病気を理由に無断で新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市・埼玉県深谷市の一部にあった荘園)に帰還した。

 

その後、楠木正成の討伐のために膨大な軍資金が必要であった幕府は、資金調達のために重税を集め出していたが、義貞はその徴税の使いを殺害した。

 

 

間もなく幕府が報復として新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入ると、義貞の弟・脇屋義助の主張によって幕府と積極的に対立する方針をかためる。

 

八幡荘
 

義貞はわずか150騎で挙兵すると、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所(現在の群馬県安中市)に攻め入って壊滅させ、八幡荘(現在の群馬県高崎市・安中市にあった荘園)で体勢を整えた。

 

 

そこに利根川を越えて越後国・信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流し、7,000の大軍に膨れ上がった義貞軍が鎌倉を目指すこととなる。

 

 

さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、足利尊氏の嫡男・千寿王(せんじゅおう)と久米川付近で合流した。

 

千寿王が率いていたのはわずか200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、その軍勢の規模は約20万といわれている。

 

小手指原
 

新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。

 

 

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく激戦となり、義貞軍は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退して軍勢を立て直すこととなる。

 

 

翌朝、義貞軍が久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けて戦闘が再開された後、幕府軍は分倍河原まで退却することになった。

 

 

分倍河原に布陣する幕府軍に北条泰家を大将とする10万騎が加わるが、それを知らずにいた義貞軍は突撃を敢行して返り討ちにあう。

 

 

堀兼まで敗走した義貞は、退却も検討していたが、そこへ北条氏と親しいはずの大多和義勝が6000騎を率いて義貞に加勢すると、義貞軍は分倍河原へと奇襲を仕掛け、多摩川を渡り、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に大勝利を収める。

 

新田義貞(分倍河原)
 

勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がり、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦により鎌倉の防備を固め、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置した。

 

 

鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、義貞は海岸ぞいから攻めることを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかったが、「太平記」では義貞が稲村ヶ崎の海岸で黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応してみるみる潮が引き、鎌倉へと続く砂浜が広がる奇蹟が起こり、義貞軍は鎌倉に突入できたといわれている。

 

新田義貞5

いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦の後、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させた。

 

 

1333年、北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡する。

 

 

義貞が鎌倉を陥落させるも、武士達の評価は、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくと鎌倉陥落に先んじて京都を制圧した足利尊氏の方が高く、武士達は新田よりも足利へと接近していき、義貞と足利尊氏の対立が深まっていった。

 

新田義貞6
 
1334年、後醍醐天皇が貴族や寺院の利益を考えた天皇中心の政治(建武の新政)を始め、これによって武士の不満が高まることになる。

後々、足利尊氏はその不満をまとめ上げていく。

 

 

1335年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領した(中先代の乱)

 

 

足利尊氏は後醍醐天皇の命令を受ける前に北条時行の討伐に向かい、鎌倉に本拠を置くと、武功のあった者への褒美として新田一族の所領を分け与える。

 

さらに、足利尊氏は朝廷の帰京命令に従わず「義貞と公家達が自分を陥れようとしている」と主張して鎌倉に留まった。

 

 

後醍醐天皇は、義貞に「錦の御旗」を贈って足利尊氏の討伐を命じる。

 

 

義貞は事実上の官軍(天皇および朝廷に属する軍)総大将となるものの、形式上の総大将である尊良親王(後醍醐天皇の子)の周辺には口うるさいだけの公家達がおり、加えて同時に進軍した北畠顕家は義貞よりも官位が上で指図できる立場でなかった。

 

 

そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、足利側に兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう。

 

 

新田軍は迎撃してくる足利軍に三河国矢作(愛知県岡崎市)、駿河国(静岡県静岡市駿河区)で勝利するが、箱根で大敗を喫し、伊豆から西へと逃れる。

 

 

その途中、義貞は天竜川に橋を駆けて渡った後、部下の「追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきである。」という提案に対して、「敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である。」と返答して、橋を切り落とさず、また、義貞は部下達に先に橋を渡らせ、自らは一番最後に橋を渡った。

 

天竜川
 

義貞は帰京するも、義貞を追撃する足利軍は破竹の勢いで京都まで攻め上がり、義貞らは敗北し、京都は足利軍に占領されることとなる。

 

 

しかし、奥州より上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ到着すると形勢は逆転していき、義貞が楠木正成、北畠顕家らと共に、京都へ総攻撃を仕掛けると、京都の奪還に成功した。

 

一方で、尊氏をはじめとする足利軍の主要な武将の首を挙げることはできず、敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、九州へと落ち延びる。

 

 

 

義貞は足利尊氏を追撃し、その途上で足利側の赤松則村(あかまつのりむら)の拠点である播磨を攻めた。

 

 

しかし、新田軍は赤松則村の白旗城をなかなか陥落させることが出来ず、50日近くも時間を浪費すると、着実に九州で戦力を増強した足利尊氏が30万人ともいわれる軍勢で海上・陸上の二手に分かれて再び京都を目指す。

 

 

新田軍は進撃してきた足利軍に福山城(岡山県総社市)で敗れ、義貞はさらに進撃を続ける足利軍を楠木正成と共に和田岬で迎撃する(湊川の合戦)が、海と陸からはさみ討ちにされて敗れる。

 

楠木正成は自害し、義貞は敗走することとなった。

 

福山城
 

京都を占領した足利尊氏が後醍醐帝との和平工作に着手すると、後醍醐帝もこれに応じるが、この和平交渉は義貞には知らされず、義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となる。

 

事情を知った義貞の部下である堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか。」と目に涙を浮ながら後醍醐帝の無節操を非難した。

 

 

それから間もなく、義貞が3000騎で駆けつけ、後醍醐帝を包囲すると、後醍醐帝は新田一族の功をねぎらい「和議を結んだのは計略であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐため。」と取り繕う。


後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

義貞は妥協案として、後醍醐帝の子である恒良親王と尊良親王の臣下として北陸に行かせて欲しいと提言する。

 

 

1336年、義貞は両親王らとともに北陸道を進み、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)へ到着した。

 

 

この年は通年に増して寒さが厳しい年であったことが分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、金ヶ崎城まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出す。

 

 

義貞が金ヶ崎城に入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。

 

金ヶ崎城
 

足利軍は6万の大軍で金ヶ崎を攻め、海上にも水軍を派遣して四方から包囲して総攻撃を仕掛けるが、戦いの序盤は義貞が優位に展開する。

 

 

しかし、金ヶ崎城の食料は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われ、馬を殺して食糧にしたり、死人の肉すら食べるという凄惨な状況へと追い詰められていった。

 

 

1337年になると斯波高経(しばたかつね)率いる足利軍の攻撃はより激しさを増し、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助(義貞の弟)らと連携して足利軍をはさみ討ちにしようとするが、風雪の激しさから同時に攻撃することができず、金ヶ崎城はついに陥落する。

 

 

落城に際して、新田義顕(義貞の長男)は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。

 

義貞は難を逃れて、ここを生き延びる。


新田義貞の最後

1338年、義貞の率いる50騎は、黒丸城(福井県福井市黒丸町)から出撃してきた斯波軍300と燈明寺畷(とうみょうじなわて)で遭遇し、乱戦の末、義貞は水田に誘導されて身動きが取れなくなってしまう。

 

そこに矢の乱射を受け、義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。

 

致命傷を負った義貞は観念し、自害した。

 

 


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宇都宮 公綱 (栃木)

宇都宮公綱700x1000


1302
年、宇都宮貞綱の子として生まれ、宇都宮氏第9代当主となる公綱を理解するためには、若干なり時代背景を知る必要がある。

 

 

 

鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。

 

 

1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。

 

御醍醐天皇
  
醍醐天皇
 

幕府は後醍醐天皇に代わって、大覚寺統の光厳天皇を即位させた。

 

 

後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。

 

 

 

楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。

 

1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。

 

北条高時
  
北条高時
 
 

鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。

 

宇都宮二荒山神社

弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)6万騎を率いる総大将となっている。

 

弘安の役
 

 


 

四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。

 

四天王寺1

公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが、当の楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。


楠木正成
  
楠木正成
 

そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。

 


楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。

 


 

しかし、楠木正成は45日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。

 

 

この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。

 

 

そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。

 

 

宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。

 

四天王寺2
 

結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。

 

 

 

さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。

 

 

実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。


千早城
 
それ以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。

 

 

鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

 

足利尊氏
  
足利尊氏
 

その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。

 

北畠顕家
  
北畠顕家
 

そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。

 

 

1356年、55歳で死去。
 

宇都宮公綱1
 

公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。

 

 


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