劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

平将門

藤原 純友 (愛媛)

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古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。

 

そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。


瀬戸内海
 

純友は893年頃、太宰府の次官・藤原良範の三男として生まれた。

 

ただ、純友の血統的な面についてであるが、純友は大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国(愛媛県)の豪族越智氏の一族である高橋友久の子であり、藤原良範が伊予に赴任した時に養子になったという説もある。

 
大山積神

血統的な異説が存在するものの、純友は日本史上初の関白に就任した藤原基経が大叔父に持ち、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であったが、早くに父を失い都での出世は諦めざるを得なかった。

 
藤原基経
  
藤原基経
 

931年頃、純友は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って、伊予国で海賊を取り締まる地方官として赴任し、瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧する側であったが、任期を終えた後も京都に帰らず伊予に土着する。

 

任期中に海賊勢力とのつながりを持った純友は、その人脈を利用して朝廷の貯蔵米を奪うようになり、936年頃までには海賊の頭領となった。

 

純友は伊予の日振島(愛媛県と大分県との間の宇和海にある島)を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1000艘を超える船を操って周辺の海域を荒す大海賊団を組織し、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばして反乱を起こす。

 

日振島
 

この頃、ほぼ時を同じくして関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしており、小説等で描かれることのある平将門と藤原純友の共謀説は創作なのだが、同時期に陸と海で大規模な反乱を起こした二人はお互いにその噂に勇気づけられていたことは間違いない。

 

「藤原純友の乱」は「平将門の乱」と併せて「承平天慶の乱」と呼ばれる。

 
承平天慶の乱
 

純友はその活動範囲を瀬戸内海から畿内に伸ばすと、939年には部下の藤原文元に、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹(「介」は行政官として中央から派遣される国司の四等官(守・介・掾・目)の一つ)を摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)にて襲撃させた。

 

 

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は瀬戸内海の海賊を撲滅すべく様々な対策をし、その中には投降した者には一切罪を問わないだけでなく所領や金銭などの報酬まで用意する「恩赦」というものもあって、これにより2000人を超える海賊が投降した。

 

反乱を思いとどまらせるために朝廷は純友に対しては、従五位下という伊予国の最高地方役人と同じ位の官職を与えて懐柔をはかり、兵力を東国の平将門鎮圧に集中させる。

 

しかし、純友は940年に淡路国(淡路島)の兵器庫を襲撃して兵器を奪い、その海賊行為は活発になった。


淡路島
 

この頃、京都の各所で放火が頻発し、そこへ純友が京都に向かっているという報告もあったため、朝廷は純友が京都を襲撃するのではないかと恐れて、宮廷に兵を配備し、山城国(京都府南部)の入り口となる山崎の警備を強化するが、山崎は謎の放火によって焼き払われる。

 

この一連の出来事から、純友の勢力は瀬戸内海のみならず、平安京周辺から摂津国(大阪府北中部の大半および兵庫県南東部)の「盗賊」と呼ばれる武装した不満分子にも浸透しており、純友による京都への直接的脅威は極めて深刻な状況であった。

 

山城国
 
ところが、関東の「平将門の乱」が鎮圧され、大軍を西国に送りこめるようになった朝廷は、純友討伐に積極的になり、征西大将軍に任命した小野好古(おののよしふる)を追捕使長官に、源経基を次官とした追捕使軍を出陣させる。

 

小野好古
  
小野好古
 

「平将門の乱」が鎮圧されたことに動揺した純友は、根城である日振島に船を返すが、その後、伊予国や讃岐国(香川県)の国府を焼き討ちして財産を奪い、備前国(岡山県東南部など)・備後国(広島県東半分)の兵船100余艘を焼き、さらに長門国(山口県西半分)を襲撃して官物を略奪すると、貨幣鋳造をつかさどった周防国(山口県東南半分)の鋳銭司を焼き討ち、土佐国(高知県)幡多郡を襲撃するなど大胆に活動を展開した。

 

周防国の鋳銭司

941年、純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降ると、朝廷軍は純友の根城である日振島を攻めて制圧すると、純友軍は西に逃れて九州の太宰府を襲撃して占領する。

 

 

純友の弟・藤原純乗は筑後国(福岡県南部)柳川に侵攻するが、朝廷側の大宰権帥(大宰府の長官の定員外の官人)・橘公頼の軍に敗れた。

 
太宰府
 

小野好古率いる朝廷軍は九州に到着すると、小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から純友軍を攻撃し、純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実の軍を迎え撃った「博多湾の戦い」で激戦の末に大敗し、800余艘を奪われた純友は息子の藤原重太丸と小舟に乗って伊予国(愛媛県)へ逃れる。

 

藤原純友1
 
しかし、一カ月近くに渡って繰り広げられた激闘に敗れた純友は、伊予に潜伏しているところを伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕えられ、純友・藤原重太丸の親子は首を切られた。

 

二人の首は朝廷へ進上され、橘遠保は純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられる。

 

純友神社
 

藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社、愛媛県新居浜市の中野神社がある。

 

 


藤原純友Tシャツ
藤原純友 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



平 将門 (茨城)

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将門の生年は
903年頃とされているが正確な生年は不詳である。

 

将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。

 

 

 

将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、156歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。


平将門5

父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。

 

そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。

 

源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。

 

 

935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。


筑西市
 

平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。

 

平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。

 

八千代町
 

その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。

 

 


 

この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。

 

国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。

 

そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。

 

 

将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。


 

将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。

 

こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。

 

 

さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。

 

こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。

 

これが最初の日本刀といわれている。

 

茨城県岩井市
 
 

939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。

 
 

将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。

 

 

最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。

 

これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。

 

 

将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。


平将門2
 

常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。

 

 

 

ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。

東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。


八幡大菩薩
 
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。

 

その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。

 

 

将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。

 

菅原道真
 

将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。

 

国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。

 

朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。

 

 

それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。

 

 

朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。

 

 

その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。

 

 

これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。

 

平貞盛
  
平貞盛
 

この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。

 

藤原秀郷
  
藤原秀郷
 

一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。

しかし、この民への思いやりが裏目に出る。

 

 

将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。

 

将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。

 

 

長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。


平将門a
 

将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。

 

 

この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。

 

 

将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。

 

平将門6
 

940214日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。

 

吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。

 

しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。

 

 

この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。

 

 

 

その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。

 

 

討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
 

平将門3
 

さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。

 

 

将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。

 

 

 
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四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!









関東 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
その理由は鎌倉幕府が誕生する以前の日本というのは京都一極集中の支配体制だったからです。

そうした古代から中世において、京都の影響から脱して関東に独立性も求めた人達がいました。

鎌倉幕府以降の関東は、鎌倉北条氏や小田原北条氏(鎌倉北条氏の流れではない)、そして徳川家と京都からの独立性の高い気風を保ち、派手な英雄を必要としなくなっていきました。


徳川家康に関しては、出生地の愛知、浜松城を築いた静岡、という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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