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常陸国

平 将門 (茨城)

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将門の生年は
903年頃とされているが正確な生年は不詳である。

 

将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。

 

 

 

将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、156歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。


平将門5

父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。

 

そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。

 

源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。

 

 

935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。


筑西市
 

平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。

 

平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。

 

八千代町
 

その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。

 

 


 

この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。

 

国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。

 

そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。

 

 

将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。


 

将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。

 

こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。

 

 

さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。

 

こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。

 

これが最初の日本刀といわれている。

 

茨城県岩井市
 
 

939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。

 
 

将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。

 

 

最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。

 

これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。

 

 

将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。


平将門2
 

常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。

 

 

 

ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。

東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。


八幡大菩薩
 
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。

 

その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。

 

 

将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。

 

菅原道真
 

将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。

 

国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。

 

朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。

 

 

それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。

 

 

朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。

 

 

その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。

 

 

これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。

 

平貞盛
  
平貞盛
 

この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。

 

藤原秀郷
  
藤原秀郷
 

一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。

しかし、この民への思いやりが裏目に出る。

 

 

将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。

 

将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。

 

 

長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。


平将門a
 

将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。

 

 

この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。

 

 

将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。

 

平将門6
 

940214日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。

 

吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。

 

しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。

 

 

この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。

 

 

 

その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。

 

 

討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
 

平将門3
 

さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。

 

 

将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。




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佐竹 義宣 (秋田)

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1570
年、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が太田城(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた頃、父の義重は、那須氏を攻めていたが、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等を条件に和睦する。

 

義宣は3歳であった。

 

 

15861590年の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し、佐竹氏19代当主となる。

 

太田城
 

この頃の佐竹氏は、小田原・北条氏と和議を結んで常陸国(現在の茨城)から南方の安全をはかっていたが、北方では義宣の弟・蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城は、伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失っていた。

 

 

佐竹氏は伊達氏と対立しながら、豊臣秀吉、石田三成、上杉景勝と親交を結び、1589年、秀吉から北条征伐への出陣命令を受ける。

 

 

 

義宣は伊達政宗(義宣にとって母方の従兄にあたる)と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかったが、1590年、宇都宮国綱ら与力大名(より大きな大名に加勢として附属した武将)を含めた1万の軍勢を率いて北条氏の本拠地・小田原へ向かった。

 

 

義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉のもとを訪れると臣下の礼をとり、石田三成の指揮下で忍城(現在の埼玉県行田市)を攻めた。

 

忍城
 

北条征伐の後、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館、南郷)について、義宣は秀吉から所領支配権を認められる。

 

 

また、本領である常陸国(結城氏領を除く)および下野国の一部は「佐竹氏50.2:与力家来49.8」の割合での所領支配となるが、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力も佐竹氏の配下として編入されたため、家臣化が不十分で領主権力は貧弱であった。

 

 

 

以後、義宣は常陸国全域に支配を及ぼすため、1590年、北条征伐に参陣しなかった江戸重通(えどしげみち)の水戸城を攻め落とし、そのまま南下し、大掾清幹(だいじょうきよもと)の常陸府中城(石岡城)を攻めて大掾氏を滅亡させ、常陸国全域の領主権力の強化に成功し、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将といわれる。

 

水戸城
 

1595年、太閤検地(豊臣秀吉が日本全土で行なった田畑の収穫量調査)を経て、義宣は54万石の支配を認める朱印状を秀吉から受けた。

 

 

 

1598年に秀吉が死去すると、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていく。

 

 

 

1600年、徳川家康より義宣は、上杉景勝の討伐を命じられるが、この時期の佐竹氏は東軍につくとも西軍につくともいえない状態でいた。

 

佐竹義宣1
 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、家康が天下を手中にすると、義宣は伏見にいる家康のもとへ向かい、途中、神奈川で会った秀忠(家康の子で後の2代目将軍)に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に謝罪および家名存続の懇願をする。

 

 

 

1602年、義宣は、出羽国秋田郡に国替え(転封)の命令を家康から受けた。

 

これは54万石から20万石への減転封である。

 

 

その理由は家康への恭順をハッキリさせなかったことに加え、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざけるためであった。

 

土崎湊城
 

義宣は秋田の土崎湊城に入城すると、角館城、横手城、大館城などを拠点に内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定をはかる。

 

 

後に土崎湊城に代わって本城となる久保田城の築城は1603年から始まった。

 

 

久保田藩の初代藩主となった義宣は、家柄や旧例にとらわれず能力本位で仕事を任せ、浪人あがりから家老となった渋江政光などは農業生産と藩財政の安定に貢献する。

 

そうした成果から、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 

 

しかし、こうしたことは譜代(数代にわたって主家に仕えた家臣)の老臣の反感を買い、川井忠遠らが義宣の暗殺を企てることに繋がる。

 

久保田城
 

 

1614年、徳川方として参陣した「大坂冬の陣」で義宣は上杉景勝とともに、今福の戦いで、木村重成などの軍勢を撤退させ、これが戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まり「大阪冬の陣」で幕府から感状を受けたわずか12名のうち5名が佐竹家中の者であった。


大阪冬の陣


義宣の妻は、正室・正洞院
(那須資胤の娘)、後室・大寿院(多賀谷重経の娘)、側室・岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、跡取りとなる男子がいなかったため、紆余曲折ありながら亀田藩主であった岩城吉隆(義宣の甥)が久保田藩の第2代藩主となる。

 

 

 

1633年、義宣は江戸神田屋敷にて64歳で死去した。




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