武蔵の出生地や生年は共に諸説あり、また「大阪の陣」以前の出来事は史実として確定するのが困難なものが多い人物である。
しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、本当の武蔵というのは、むしろ、伝説も込み込みのあの宮本武蔵なのではないだろうかと思う。
武蔵の著書である「五輪書」によれば、武蔵の生年は1584年となる。
物語としての宮本武蔵は美作国(岡山県東北部)を出生地とすることがメジャーとなっているが、やはり「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが史実の可能性として高い。
武蔵の父・新免無二は十手術を体得した武芸者であったとされ、幼少時代の武蔵は父と二人で武術の稽古に明け暮れる毎日を送った。
13歳の時に武蔵は、新当流の有馬喜兵衛という剣術家と生涯初めての決闘を行う。
武蔵は有馬喜兵衛を投げ飛ばし、手にした棒で滅多打ちにするという、13歳とは思えない並はずれた腕力と勇気で勝利する。
16歳の時には、但馬国の秋山という兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を経験し、すべてに勝利した。
それから、ほどなくして日本全国が激動に襲われる。
1600年、豊臣秀吉亡きあとの天下を狙う徳川家康の東軍と、その野望を阻止しようとする石田三成の西軍による「関ヶ原の戦い」が開戦した。
武術の腕に自信を持っていた武蔵にとって、戦争は願ってもないチャンスであり、合戦で手柄を立てて武将に取り立てられ、やがては一国一城の主となることを夢に見る。
武蔵は西軍の武将・宇喜多秀家の隊に参陣し、戦場で抜群の働きをしたが、戦いが進むにつれて西軍は相次ぐ裏切りに総崩れとなって「関ヶ原の戦い」は東軍の大勝利に終わった。
吉川英治の小説などでは「関ヶ原の戦い」以後の武蔵がお通や沢庵和尚と出会い、様々な遍歴をすることになっている。
合戦の手柄によって出世するという夢が実現しなかった武蔵は武芸者との決闘によって名を上げようと考えた。
1604年、武蔵は足利将軍家の剣術師範を務めた吉岡憲法の4代目・吉岡清十郎に決闘を申し込む。
京都蓮台寺野で行われたこの決闘は、一瞬のうちに武蔵の木刀が吉岡清十郎の体を打ち砕き、一撃で勝負が決した。
すると、今度は吉岡清十郎の弟・吉岡伝七郎が、兄の仇を討つために武蔵に挑むが、結果は同じように吉岡伝七郎も一撃で武蔵に倒される。
復讐に燃える吉岡一門は、10歳になるかならないかの吉岡清十郎の子・又七郎を推し立てて、武蔵に勝負を挑んできた。
吉岡一門は当主の子である又七郎を名目上の大将として、数十人とも百人を超すともいわれる門弟が数の力で武蔵を叩き伏せようと目論んだ。
この絶対絶命の危機に武蔵は、約束の時間よりも早い夜明け前に、決闘の場所である一乗寺下り松に到着し、木陰に身を潜めて吉岡一門の到着を待ち伏せる。
やがて現れた吉岡一門は又七郎を取り囲んで守っていたが、まさか武蔵が待ち伏せしているとは予想していなかった。
そして、又七郎が下り松に近づいたその時、武蔵はすかさず又七郎に襲いかかって斬殺すると、開戦早々に大将の又七郎を殺された吉岡一門は大混乱に陥り、その機に乗じて武蔵は門弟達を蹴散らしてその場を脱出する。
武蔵は10歳の大将という敵の最も弱い中心部に目を付けて、文字通り多勢に無勢といえる戦いを制した。それはまるで、あの織田信長が今川義元を討ち取ったかのごとくである。
武門の誉れ高い吉岡一門をたった一人で完膚なきまでに破った武蔵は、どこかの大名から召し抱えたいという声が掛かることを期待したが、天下は「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家の世に定まりつつあり、戦争がなくなって職を求める武士が溢れる社会で、武蔵に声を掛ける大名は現れなかった。
武蔵は各地を旅して、大和国では槍の達人と二度立ち合い、伊賀国では鎖鎌の名手と決闘し、武芸者との勝負を繰り返す日々を送る。
1606年に武蔵が紀州藩士・落合忠右衛門に円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の印可状を与えたことが確認されており、後年、武蔵の代名詞ともなる二刀流はこうした一連の決闘の最中に編み出されたと考えられる。
もはや武芸においては自分が天下一であると自負するに至った武蔵の耳に、佐々木小次郎という天下に並ぶ者のない剣の使い手が小倉の細川藩で剣術指南役として召し抱えられているという噂が飛び込む。
小次郎の刀は、三尺余り(90cm以上)という一般的な刀の二尺三寸(70cm)よりも20cm以上長いもので、これほどの長い刀を操ることから小次郎が超人的な腕力を持っていたことは疑いようがなく、小次郎はその腕力と刀の長さを活かして、相手の切っ先が届かない距離から刀を振り下ろし、次の瞬間に身をかがめて刀を下から振り上げて一刀両断に斬り捨てる「つばめ返し」という必殺技を身につけていた。
佐々木小次郎を剣術指南役として召し抱えていた細川家は「関ヶ原の戦い」の功績により、それまでの18万石から40万石に加増され、新たに大勢の武士を召し抱えていたのである。
小次郎を倒せば自分が剣術指南役の職にありつけると考えた武蔵は、1612年、細川藩の家老に「巌流・小次郎が小倉におり、その術は類まれであると聞きました。願わくば腕を比べさせていただきたく存じます。」と願い出た。
しばらくして、武蔵のもとに小次郎との立ち合いを許すとの知らせが届く。
その決闘の場所に指定されたのは小倉と下関の間に浮かぶ無人の小島、船島(現在の巌流島)であった。
武蔵と小次郎の決闘は藩主の許しを得た正式の立ち合いであったが、その場所が城下ではなく無人島で行われたことには「関ヶ原の戦い」の後の政治情勢が影響していた可能性がある。
1611年、徳川家康が各地の大名に差しださせた誓詞(誓約状)に「叛逆者・殺人者を召し抱えていてはならない。」という一節があり、ここでいう叛逆者とは「関ヶ原の戦い」で西軍にいた武士をさしていた。
これにより大名達は、武士を召し抱える際にその経歴を厳しく問いただすようになり、細川藩は「関ヶ原の戦い」で西軍であった武蔵の経歴を調査して、大っぴらに武蔵に試合をさせて徳川家から咎めを受けることを危惧した可能性がある。
天下一の剣豪を決する「巌流島の決闘」を前に、小次郎が「真剣をもって雌雄を決しよう」と武蔵に申し入れると、それに対して武蔵は「貴公は白刃をふるってその妙技を尽くされよ。われは木戟をさげて秘術をあらわさん。」と答えたという。
常識的に考えれば木刀で真剣に挑むのは不利なはずであるが、これは武蔵による小次郎の「つばめ返し」に対抗する秘策であった。
武蔵は小次郎の長刀よりもさらに10cmほど長いおよそ4尺(約127cm)の木刀を自ら樫の木を削って作る。
体格も同じくらいで技量が伯仲している紙一重の勝負で、その10cmの差は大きなアドバンテージとなる可能性があり、なによりも、長刀で相手のリーチ外から攻撃することに磨きをかけた小次郎の技術を殺すことを武蔵は考えた。
1612年4月13日の午前7時、小次郎は細川藩の藩士達とともに約束の時間よりも早く船島に到着して武蔵を今や遅しと待ち構える。
ところが、約束の時間になっても武蔵は現れない。
同じ頃、前日から下関の商家にいた武蔵は、日が高く昇って宿の主人に起こされるまで布団にもぐっていた。
そうして、武蔵のもとに細川藩の使いの者が現れ、一刻も早く船島に来るようにと催促すると、武蔵は焦る使いの者を尻目に「ほどなく参ると伝えておけ。」と言って悠然と食事を始める。
もともと武蔵から申し込まれた決闘であるにも関わらず、約束から2時間以上が過ぎても現れないという尋常ではない遅れ方に、キチンと時間前にやって来た小次郎の我慢はもはや限界点を振り切れていた。
小次郎は小船に乗って悠然と島に近づいて来る武蔵の姿を目にすると、水際に進んで「武蔵よ、なぜ遅れたか。気おくれしたのか。」と叫んだが、武蔵は何も答えない。
あまりの無礼さに怒り心頭の小次郎は三尺の長刀を抜いて、鞘を放り投げた刹那、武蔵は「小次郎、敗れたり。勝者なんぞその鞘を捨てん。」と言い放った。
思いがけない武蔵の言葉に小次郎は虚を突かれ、心のバランスが取れないまま、やみくもに長刀を振り下ろす。武蔵の木刀がそれに応じて振り下ろされた次の瞬間、決闘は武蔵の勝利で決まった。
細川藩の藩士達が唖然とするのを尻目に、武蔵は再び小舟に飛び乗って島を後にする。
下関の宿に戻った武蔵は、小次郎を倒したことにより細川家から剣術指南役として召し抱えるという知らせが届くことを期待して、胸を高鳴らせてた。
しかし、いくら待っても細川藩から知らせが届くことはなく、やむなく武蔵は夢敗れた悔しさと悲しさを抱きしめて再び放浪の旅に出ることになる。
そして、これ以降の武蔵の足跡は史実性が高いものとなる。
1614~1615年に、徳川家(江戸幕府)と豊臣家との間で行われた合戦「大阪の陣」で、武蔵は徳川側の水野勝成の客将として活躍した。
その後、明石で神道夢想流開祖・夢想権之助と試合を行う。
1624年、尾張藩家老・寺尾直政が円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の指導を要請すると、武蔵は弟子の竹村与右衛門を推薦し、これがもとで尾張藩に円明流が伝えられ、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆することになる。
1626年、播磨の地侍である田原久光の次男・伊織を養子とした武蔵は、伊織を明石城主・小笠原忠真に使えさせた。
1638年、伊織は小倉城主となっていた小笠原忠真に従い、武蔵は小笠原忠真の甥で中津城主・小笠原長次の後見として、過酷な重税に耐えかねた島原の領民による日本史上最大規模の一揆「島原の乱」の鎮圧に出陣する。
また、小倉滞在中に小笠原忠真の命で、武蔵は宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合をした。
高田又兵衛
1640年、熊本城主・細川忠利に、武蔵は客分として招かれて熊本に移ると、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、7人扶持18石に合力米300石が支給されるようになる。
また、鷹狩りが許されたり、同じく客分の足利義輝の遺児・足利道鑑と共に細川忠利に従って山鹿温泉に招かれるなど、その扱いは重んじられたものであった。
翌年に細川忠利が急死し、2代藩主・細川光尚の代になっても、武蔵はこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給される。
細川光尚
この頃、武蔵は余暇に芸術性の高い画や工芸などの作品を製作し、それらは現在、重要文化財指定となっている。
1643年、熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で、剣術の奥義をまとめた「五輪書」の執筆を始め、1645年に千葉城の屋敷で亡くなった。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが「五輪書」では、二刀一流または二天一流の名称が用いられ、最終的には二天一流となる。
熊本時代の弟子である寺尾孫之允・求馬助の兄弟が、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させ、さらに、寺尾孫之允の弟子である柴任三左衛門が福岡藩黒田家に二天一流を伝えた。
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