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「美濃のマムシ」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は「美濃国諸旧記」などにより形成されていったが、
1960年代に始まった「岐阜県史」の整理の過程で発見された「六角承禎書写」によって、その人物像は転換する。

 

 

これにより、それまで道三一代のものと見られていた「国盗り物語」は、松波庄五郎(まつなみしょうごろう 別名・長井新左衛門尉)と道三の二代にわたるもので、これまで道三の生涯とされていた前半部分は、道三の父・松波庄五郎の事績であった可能性が非常に高くなった。

 

 

松浪家は先祖代々北面武士を務めていたが、松波庄五郎は事情にあって山城国西岡(現在の京都府乙訓郡)に住んでおり、11歳の春に京都妙覚寺で出家の儀式を受けて法蓮房という名の僧侶となる。

 

京都妙覚寺

その後、学友の日護房が美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職となったのをキッカケに松波庄五郎は俗人に戻って、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を娶った。

 

 

松波庄五郎は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といったパフォーマンスが評判をよび、油売りの行商として成功する。

 

 

ところがある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ。」と言われたのをキッカケに商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。

 

 

その後、武士になりたいと思った松波庄五郎は学友だった日護房の縁故を頼って美濃守護土岐氏小守護代(守護の下に置かれた役職)の長井長弘の家臣となることに成功する。

 

 

松波庄五郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護・土岐政房の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。

 

そして、頼芸が兄・頼武との家督相続に敗れると、松波庄五郎は密かに策を講じて頼武を越前へ追いやり、頼芸が土岐守護に就くことに大きく貢献する。

 

 

頼芸の信頼をますます得た松波庄五郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘を除去するため殺害した。

 

斎藤道三2

ここまでは近年の研究では道三の父・松波庄五郎である可能性が高いとされ、公卿三条西実隆の日記では1533年頃に松波庄五郎が死去したとされているので、この頃に道三は父から家督を継ぎ、ここから先が道三の事績である可能性が高い。

 

 

 

1535年、道三は頼芸とともに頼武の嫡男・土岐頼純と激突し、これに朝倉氏と六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がる。

 

 

 

1538年、美濃守護代の斎藤利良が病死すると、道三はその家名を継いで斎藤姓を名乗り、1539年に居城である稲葉山城(後の岐阜城)の大改築を行なった。

 

稲葉山城
 

1541年、道三による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺を機に、頼芸と道三との対立抗争が始まり、1542年、道三は頼芸の大桑城(岐阜県山県市)を攻め、父の代から懇意であった頼芸とその子・頼次を尾張へ追放し、事実上の美濃国主に登りつめる。

 

 

こうした隙あらば寝首をかく道三のスタイルは好感度は低く「主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう。」という落首(主に世相を風刺した詩を記した立て札)が作成さるなどした。

 

 

尾張に追放された頼芸は織田信秀(織田信長の父)の後援を得ると、同じく道三に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携し、美濃での土岐氏復活を掲げ、朝倉氏・織田氏の援助を得ると美濃へ侵攻した。

 

 

頼芸・頼純の土岐氏による美濃侵攻によって、頼芸は揖斐北方城(岐阜県揖斐郡揖斐川町北方)に入り、頼純は革手城(岐阜県岐阜市正法寺町)に復帰する。

 

揖斐北方城
 

1547年、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた「加納口の戦い」では、頼純・朝倉孝景・織田信秀あわせて25千の軍勢が道三の戦術の前に5000人の戦死者を出す大損害を受け、織田軍は壊滅寸前となり、織田信秀合は67人を連れただけで逃げ帰った。

 
加納口の戦い
 

さらにこの年、土岐頼純が病死。

 

 

道三は織田信秀と和睦すると、1548年、娘の帰蝶(濃姫)を織田信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。

 

 

この和睦を好機に道三は、これまで織田家の後援を受けて道三に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、1552年、さらに揖斐北方城に留まっていた土岐頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定する。

 

 

道三は娘・帰蝶を織田信長に嫁がせた後、正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した。

 

その際、織田信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ、さらに正装で訪れたことに大変驚き、織田信長が尾張のバカ息子という評判とは裏腹の才覚に道三は気付き、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちは織田信長の家臣になるだろう。」と言う。

 

聖徳寺
 

1554年、道三は家督を嫡男の斎藤義龍へ譲り、常在寺で剃髪して出家すると「道三」と号し、鷺山城(岐阜県岐阜市)に隠居した。

 

斎藤道三1

しかし、道三は義龍よりもその弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍への家督相続の取り消しを考え始め、道三と義龍の不仲が深刻化すると、1555年、義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

 

 

1556年、道三と義龍の親子対決となった「長良川の戦い」は、義龍軍17500に対して、道三は美濃国盗りの経緯から旧土岐家家臣団などの反感を買っていたため2,500しか集まらなかった。

 
斎藤義龍
  
斎藤義龍
 

戦いは、義龍軍の長屋甚右衛門が一騎討ちを挑むと、道三軍から柴田角内がそれに応じ、両者の一騎討ちに柴田角内が勝利し、勝負が決すると両軍とも全軍突撃となる。

 

 

道三軍は序盤こそ戦いを優勢に進めるも、圧倒的な兵力差をくつがえすことは出来ず、ついに道三の目の前まで義龍軍が押し寄せ、道三は戦死した。

 

 

道三の娘婿にあたる織田信長は、道三への援軍を派遣していたが、この合戦に間に合わず、道三の救出はかなわずに終わる。

 

長良川の戦い
 

道三は戦死する直前に、織田信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を渡していた。

 

また、道三は「長良川の戦い」における義龍の采配の見事さを目にして、これまで義龍を「無能」と評したことを後悔したといわれている。

 

 

道三の首は、義龍側についた旧臣の手で手厚く葬られた。

 

 


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