長らく早雲の出自は不明で、講談などの影響で伊勢の素浪人として描かれることが多かったが、近年の研究で備中国荏原荘(現在の岡山県井原市)の領主・伊勢盛定の子というものが定説化している。
伊勢氏は武家の名門である平氏の流れを汲み、代々、武家の礼儀作法を司った由緒ある家柄で、京都の伊勢氏本家では歴代足利将軍の嫡男を預かって礼儀作法を教えるならわしがあり、伊勢氏は室町幕府に影響力のある家であった。
備中伊勢氏は分家とはいえ、早雲も伊勢一族として高い教養を身につけていたことが考えられる。
30代の頃の早雲は、室町幕府8代将軍・足利義政の弟・足利義視(あしかがよしみ)に仕えていた。
1467年、畠山家の家督争いなどに端を発した「応仁の乱」は、細川氏と山名氏の戦いに発展すると全国から守護(幕府が治安維持などのために設置した地方官)が兵を率いて東軍と西軍に分かれ、主要な戦場となった京都は市街戦が繰り広げられ灰燼と化し、民衆に多大な犠牲を強いるものとなる。
民衆に多くの犠牲を生んだ最大の要因は、銭で雇われ敵軍への放火や撹乱を主な任務とした「足軽」の存在が大きかった。
足軽は戦場下においてしばしばコントロール不能の暴徒と化し、戦には直接関係のない寺社や民家に押し入って略奪、放火、人さらいも珍しくなく、さらに天災や飢饉も民衆を苦しめ、都の辻々のいたるところに難民があふれる。
早雲の主君・足利義視は東軍の総大将を務め、餓死者があふれる京の都で民衆の苦しみを知りながらも兄である将軍・足利義政の機嫌を取るため戦に明け暮れた。
しかし、その足利義視は兄・足利義政に謀反の疑いをかけられると東軍から西軍に寝返って戦い続けることになる。
30代後半の頃、早雲は5年あまり仕えた足利義視のもとを去った。
「応仁の乱」を身近に体験したことは、後々の早雲の思想に大きな影響を与えることになる。
その後、早雲は一時的に妹の嫁ぎ先であった駿河に行くが、再び京都に戻ると40代で僧となって修行三昧の日々を送った。
しかし、50歳を過ぎた頃、早雲は修行を止めて「申次衆」という将軍へ諸国からの陳情を取り次ぐ役職で幕府の仕事に復帰する。
俗世に見切りをつけて仏門に入った早雲が、なにを思って再び幕府の仕事をし出したのかは憶測の域を出ないが、申次衆は各地の守護と接するため地方の情報が入ってくるため、この後の駿河国での出来事はここで得た情報が大きく影響したことは間違いない。
1487年、申次衆を辞した早雲は駿河(現在の静岡県北東部・中部)へと向う。
代々、駿河国を治める室町幕府の名門・今川家は、早雲がつかんだ情報では深刻なお家騒動にあり、その今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満(おしかのりみつ)には全く人望がなかった。
早雲はわずか半年で小鹿範満に不満を持つ駿河の領主達をまとめると、電光石火の奇襲で館を襲撃し、まったくの不意をつかれた小鹿範満は成す術なく殺害される。
事前に敵の情報を集めて周到に準備を整え、一瞬の勝機を活かした奇襲で相手を打ち破る戦い方は、この先も早雲の常套手段となっていく。
室町幕府の名門・今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満を殺害することは、幕府勢力に挑戦状を叩きつける行為であり、この出来事によって早雲は初めて歴史の表舞台に姿を現す。
人生50年といわれたこの時代であるが、この時の早雲はすでに56歳となっていた。
駿河国の東の端にある興国寺城(静岡県沼津市)を手に入れた早雲は、関東における将軍の代理人として駿河の隣国・伊豆に居を構える足利政知に睨みを利かせる。
この時代の城はその多くが館のような造りにとどまっていたが、興国寺城は100メートルを超える空堀や土塁を備え、さらに東海道から興国寺城までは馬が足をとられて進軍もままならない広大な沼地が広がる天然の要害であり、その東海道の様子は城からよく見えた。
1493年、2年前に足利政知が病死して一族に深刻な跡目争いが起きていることをつかんだ早雲は、わずかな手勢と共に興国寺城を出撃すると伊豆の足利館に夜襲をかけ、女・子どもを含めた1000人以上を皆殺しにし、その首を城の塀にぶら下げる。
庶民の暮らしに背を向けてお家騒動を繰り返し、幕府の権威を振りかざすばかりの足利一族に、早雲はこのような厳しい態度でのぞむ一方で、自らの軍を厳しく律して民衆への略奪行為は一切禁じていた。
さらにこの頃、伊豆では1000人以上の死者が出る疫病が大流行していたが、早雲は率いていた兵に村人達の看病をさせるなどしている。
60歳となっていた早雲は「生かすべき者を生かし、殺すべき者を殺す。それが政治というものである。」という自らの言葉そのままの戦いで伊豆国を手に入れた。
一国の主となった早雲は、伊豆を足がかりに箱根を越えて、東海道と相模湾の交通の要衝である小田原の獲得を目指す。
早雲は、自分が国中の盲人を捕えて海に沈めるという噂を流し、これを聞いて慌てて他国へと逃げる盲人達の中に多くのスパイを紛らせ、小田原城の情報を集め、その結果、小田原城は物理的な守りは堅いが城主・大森藤頼は若く隙がある人物であることに目をつける。
早雲は「敵がもし攻めてきたら、私は他ならぬあなたに後詰を頼もうと思っている。だから、もし、あなたが出陣する時は、後詰を私に務めさせてくれないだろうか。」という甘い言葉を連ねた書状を大森藤頼に送り、さらに珍品を繰り返し贈って油断を誘った。
秋の鹿狩りの季節、早雲は「鹿狩りをしていたら獲物が小田原の方に逃げてしまった。大変、申し訳ないが、伊豆側に鹿を追い返すために、小田原城の裏側に勢子(狩猟の際に野生動物を射手のいる方向に追い込んだりする役割の人)を入れさせて頂けないだろうか。」という書状を大森藤頼に送る。
早雲を信用し切っていた大森藤頼がなんの疑いもなく承諾すると、早雲はすぐさま勢子に扮した数百人の精鋭部隊を小田原城の裏手に差し向けた。
夜、別の一隊が小田原城下に火をかけると、それを合図に城の裏手に侵入していた精鋭部隊が城に乱入し、不意の襲撃を受けた小田原城内は「敵は何万騎あらんか」と大混乱に陥り、早雲は小田原城を難なく攻め落とす。
小田原城は後に小田原北条氏の本城となるが、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城とした。
小田原城を奪取して相模国の西半分を勢力下に治めた早雲を、山内上杉家と扇谷上杉家が手を結んで(もともとは敵対していた)攻撃すると、早雲は権現山城(横浜市神奈川区)を落とされ、さらに平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の当主・三浦義同(みうらよしあつ)に住吉要害(神奈川県平塚市山下)を攻略され、小田原城まで迫られる。
手痛い敗北を喫した早雲はこれを和睦で辛うじて切り抜けた。
1506年、早雲は相模で検地(田畑の収穫量を調査)を初めて実施し、上杉氏の圧迫に耐えながら自らの領国統治に力を注ぐ。
早雲は検地によって税収の安定化を図って財政の基礎を作ると、商工業の発展のために城下町を整備して商人達が自由に商いを出来るように便宜し、無理な負担を領民に強いることなく現金収入を整えると、民衆が最も望む年貢の引き下げに着手した。
従来、五公五民(収穫の5割が年貢で残り5割が農民の取り分)だった年貢を四公六民に引き下げ、さらに年貢を多く取り過ぎた場合は、農民が早雲に直接訴えることを認める。
こうした早雲の善政は「我らが国も新九郎殿(早雲のこと)の国にならばや」と他国から羨まれるほどとなった。
旧勢力打倒のためには残酷とも思える戦いをする早雲だが、領民からは父のように慕われる存在で、早雲が敗れて古い政治に逆戻りになることを危惧する民衆の中から進んで戦争への協力を申し出る者も少なくなく、早雲はこうした民衆あがりの兵を足軽に組み入れて大きな戦力としていく。
戦場ではわずかな食事を兵士と分け合い、一樽の酒があればそれを薄めて皆で飲んだという逸話のある早雲は、足軽や雑兵の心をつかむ人間的な魅力があった。
地盤を固めた早雲は、1512年、扇谷上杉家に属していた三浦氏の岡崎城(神奈川県平塚市岡崎)を攻略し、三浦義同を敗走させ、さらに早雲が住吉城(神奈川県逗子市小坪)を落とすと、三浦義同は息子・三浦義意の守る三崎城(神奈川県三浦市)に逃げ込んだ。
早雲が鎌倉に入って相模国の支配権をほぼ掌握すると、上杉朝良(扇谷上杉家)の甥・上杉朝興(うえすぎともおき)が三浦氏の救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。
三浦義同は、鎌倉に玉縄城を築いた早雲をしばしば攻撃し、扇谷上杉家も救援の兵を送るが、早雲はそれらをことごとく撃退した。
1516年、早雲は玉縄城を攻撃する上杉朝興を打ち破ると、三浦父子(義同・義意)の籠る三崎城に大軍で攻め込み、激戦の末に三浦氏を滅ぼす。
三浦半島南西部の油壺湾の名前の由来は、この時の戦いで、三浦父子をはじめとする将兵が討死すると残った者達が油壺湾へ投身し、湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったためである。
85歳で相模国を完全支配した早雲は、その2年後、室町幕府に対する独立宣言を発した。
関東の地を室町幕府の支配から独立させた早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、この早雲の出現によって世は実力がものをいう戦国時代に突入したことが、早雲が戦国大名の先駆けといわれる由縁である。
早雲は伊豆・相模の二カ国の大名となっても幕府からの位を受けずに無位無官を通し、1518年に家督を嫡男・北条氏綱に譲ると、翌1519年に死去した。
早雲の後を継いだ北条氏綱の代から北条氏を称し(関東を支配するうえで馴染みある鎌倉北条氏にあやかった)、領国は武蔵国まで拡大し、以後、勢力を伸ばし、5代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)に渡って関東に覇を唱えた。
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