1506年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。
ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。
生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。
1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。
奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。
その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。
買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。
ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。
イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。
ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。
ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。
奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。
皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。
しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。
そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。
そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。
ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。
そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。
そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(第1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。
ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。
ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
スレイマン1世
この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。
しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。
大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。
ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。
後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。
さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。
真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。
それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。
ヒュッレムはスレイマン1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。
しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。
オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。
スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。
ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。
ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。
ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。
このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。
スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。
ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。
以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。
この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。
さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。
奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558年4月18日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。
ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。
スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。
これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。
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