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大友宗麟

伊東 義祐 (宮崎)

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1533年、日向伊東氏9代当主であった兄・伊東祐充(いとうすけみつ)が病死すると、反乱を起こした叔父・伊東祐武が、義祐の母方の祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城(宮崎県西都市)を占拠した。

 

後ろ盾であった福永祐炳を失った義祐と弟・伊東祐吉(いとうすけよし)が、日向国(宮崎県)を退去して京都へと向かおうとすると、叔父・伊東祐武を支持しない者達の制止を受けて伊東祐武と対峙する。

 

この家中を二つに分けた御家騒動「伊東武州の乱」は、義祐と伊東祐吉の兄弟を擁立する家臣・荒武三省(あらたけさんせい)の活躍により伊東祐武は自害に追い込まれ、義祐と伊東祐吉は都於郡城を奪回した。

 

都於郡城2

「伊東武州の乱」が収束すると、伊東氏の家督は家臣・長倉祐省(ながくらすけよし)の後押しで弟・伊東祐吉が継ぎ、義祐は出家を余儀なくされたが、伊東祐吉が家督相続後3年で病死し、義祐は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)へ入って日向伊東氏11代当主の座に就く。


佐土原城

 

1537年、義祐は従四位下(日本における位階の一つ)を授けられると、室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱(上位者が下位者に俗名を一字与える)を受け、これより伊東義祐と名乗るようになる。

 

足利義晴
  
足利義晴
 

義祐は飫肥(おび)を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返したが、1560年、豊州家が島津宗家を介して室町幕府にこの問題の調停を依頼すると将軍・足利義輝より和睦命令が出された。

 

しかし、義祐がこれに従わないと、幕府政所執事(国政を担う高官に設置を許された家政機関の長官)である伊勢貞孝が日向へ向かう。

 

その際、義祐は伊勢貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すため、日向伊東氏6代当主・伊東祐堯が室町幕府第8代将軍・足利義政より賜った「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の文書を提示した。

 

それを見た伊勢貞孝は、文書には当時の室町幕府が用いない言葉遣いが散見されることから、偽書の疑いが強いと断じるも確証には至らず、仕方なしに飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とする。

 
飫肥

ところが、義祐はこの裁定をものともせずに、
1561年、7度目の飫肥侵攻を開始して豊州家を圧迫すると、交渉により飫肥の一部を割譲させ、1562年には完全なる領有に成功した。

 

しかし、直後に豊州家に攻められると、わずか4ヶ月で撤退することとなる。

 

そこで1568年、義祐自らが総勢2万の大軍を率いて、豊州家の島津忠親を城主とする飫肥城(宮崎県日南市飫肥)を攻撃した「第九飫肥役」は、伊東軍が約5ヶ月間にわたり飫肥城を包囲し、島津忠親を救援しに来た北郷時久の軍を撃破すると、島津氏第15代当主・島津貴久は義祐との和睦を決め、80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる攻防戦に終止符が打たれた。


飫肥城

 

島津氏を政治的に圧倒した義祐は、佐土原城を中心に伊東四十八城と呼ばれる支城を日向国内に構え、伊東氏の最盛期を築き上げ、佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほどに発展する。

ところが京風文化に溺れるようになった義祐は次第に度を越した贅沢をするようになり、武将としての覇気を失っていく。

 

伊東四十八城
 

1558年、義祐の娘・麻生が嫁いでいた北原兼守が病死するが、男子のいなかった北原兼守は娘を叔父・北原兼孝の子に嫁がせるよう遺言していた。

 

しかし、その娘が34歳で夭折したため、義祐は未亡人となった娘・麻生を北原家の庶流(宗家や本家から別れた一族)である馬関田右衛門佐に再嫁させ、これを三ツ山城(宮崎県小林市細野)に置いて、事実上の乗っ取りを画策し、これに反対する北原家の者を都於郡城に呼んで粛清すると、さらに飯野城(宮崎県えびの市飯野)に居た北原兼孝を殺害。

 

残された北原氏の北原兼親は球磨に逃れて相良氏を頼り、北原氏旧臣・白坂下総介は島津貴久に北原兼親が北原氏を継ぐことへの協力を求める。

島津貴久はそれに同意し、相良頼房と北郷時久にも協力を働きかけ、北原兼親は島津氏・相良氏・北郷氏の援助を受けた。

 
島津貴久
  
島津貴久


1562
年、伊東氏のものになっていた馬関田城(宮崎県えびの市西川北)まで相良氏が軍勢を向けると、北原兼親はその隙に飯野城に入り、真幸院を奪い返す。

 

しかし、これに対して義祐は密かに相良氏と同盟を結び、1563年に共に大明神城(宮崎県えびの市大明司)を攻め落とし、1564年に北原氏に従属する大河平氏の今城(宮崎県えびの市大河平)を攻め落とすと、北原氏から離反者が相次ぎ、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。

 

真幸院(えびの市)

真幸院は肥沃な穀倉地帯で、さらに義祐が日向国の完全な支配を達成するには、どうしても飯野地区攻略が不可欠であったため、1566年に飯野地区攻略の前線基地として小林城(宮崎県小林市真方)の築城を開始し、この動きを知った島津義久らは城が完成する前に攻撃を仕掛けるも、伊東氏家臣で小林城主・米良重方が苦戦しながらも島津義久らを撃退した。

 

小林城
 
1568年、伊東氏は飯野地区の攻略に乗り出すが、島津義弘の家臣・遠矢良賢(とおやよしかた)による「釣り野伏せ」という、野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせ、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法に掛かり、伊東軍は散々に打ち破られる。

 

 

1572年、肝付氏の侵攻を受けていた島津氏の加久藤城(宮崎県えびの市加久藤)は、島津氏の当主・島津貴久の死去も重なり動揺していた。

 

義祐はこの機会に相良義陽と連携して3000の軍勢で加久藤城を攻めた「木崎原の戦い」で、伊東軍は島津義弘の率いるわずか300の兵に「釣り野伏せ」の形を作られて大敗する。

 

伊東軍は伊東祐安や伊東祐信ら5人の大将を筆頭に落合兼置や米良重方など名だたる武将が多く討死してしまい、この大敗は伊東氏衰退の大きなキッカケとなった。

 

木崎原の戦い

「木崎原の戦い」から
4年後の1576年、長倉祐政(ながくらすけまさ)が治める伊東四十八城の一つである高原城(宮崎県西諸県郡高原町)が島津義久の3万の兵に攻められ、圧倒的な戦力差に一戦も交えず高原城は降伏する。

 

その翌日、小林城と須木城を治める米良矩重が島津氏に寝返ると、怖れをなした近隣の三ツ山城、野首城、岩牟礼城が島津氏についた。

 

三ツ山城

こうして伊東氏にとって島津氏領との最前線は野尻城(宮崎県小林市)となり、この時、島津氏家臣・上原尚近は野尻城主・福永祐友が島津に内通しているという偽りの文を佐土原城下にばら撒くと、それを信じた義祐は福永祐友を遠ざけるようになり、やむなく福永祐友も島津氏に寝返る。

 

 

そして、1577年に入ると伊東氏の情勢はますます悪化し、南の守りの要である櫛間城(宮崎県串間市西方)が島津忠長によって攻め落とされ、さらに飫肥城(宮崎県日南市飫肥)が包囲された。

 

同時期、日向北部の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)・土持氏が、伊東氏にとって土持氏に対する最前線である門川領への攻撃を開始し、伊東氏は北から土持氏、南と北西からは島津氏の侵攻を受ける。

 
日向国

 

義祐は悪化する事態の雰囲気を少しでも変えるべく、孫の伊東義賢(義祐の次男・伊東義益の嫡男)に家督を譲った。

 

しかし、厳しい状況は増す一方で、内山城(宮崎県宮崎市高岡町内山)主の野村刑部少輔、紙屋城(宮崎県小林市野尻町)主・米良主税助も島津氏に寝返ったため、佐土原の西の防衛線が完全に島津氏の手中に収まる。

 

事態の深刻さを重く感じた義祐は、領内の諸将を動員して紙屋城を奪回すべく兵を出すも、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知し、即座に反転して佐土原に帰城した。

 

伊東義祐1
 
もはや義祐には残された選択肢はないに等しく、ついに義祐は日向を捨て、次男・伊東義益の正室・阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼ることを決める。

 

本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上には、義祐がひいきにしていた重臣・伊東帰雲斎の横暴で子息を殺され、それを深く恨んでいた新納院財部城(宮崎県児湯郡木城町)主・落合兼朝がいた。

 

そのため、義祐一行は西に迂回して米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることになった。

 

女子供を連れての逃避行は厳しいもので、また、猛吹雪の高く険しい山を進まねばならず、当初120150名程度だった義祐一行は、途中で崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決する者などが後を絶たず、豊後国に着いた時には義祐一行はわずか80名足らずになっていたといわれている。

 
高千穂

 

豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、義祐が日向攻めの助力を請うと、日向をキリスト教国にする野望を抱いていた大友宗麟はその願いを受け入れるも、1578年、大友宗麟は島津氏と激突した「耳川の戦い」で大敗を喫してしまう。

 

大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、大友領内で肩身が狭くなった義祐は、子の伊東祐兵ら20余人を連れて伊予国で河野氏を頼ると、河野通直の一族・大内栄運にかくまわれた後、1582年には伊予国から播磨国に渡った。

 
大友宗麟
  
大友宗麟

この頃、伊東祐兵は同族の伊東長実の縁から羽柴秀吉に仕官する。

 

伊東祐兵の仕官を見届けた義祐は、しばらく播磨に留まった後の1584年、伊東祐兵が付けた供・黒木宗右衛門尉と中国地方を気ままに流浪し、やがて周防国(山口県東南半分)で旧臣宅に滞在した。

 

 

その後、病に侵されながらも義祐は独り旅をし、便船の中で病衰すると、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれる。

 

ところが、偶然にも伊東祐兵の家臣に発見され、義祐は堺の屋敷で7日余り看病を受けた後に73歳で死去した。



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大友 宗麟 (大分)

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1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。

 

宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。

 
豊後国

 

父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負傷後に死去する「二階崩れの変」が起こる。

 

こうして宗麟が大友氏21代当主となり、同時に入田親誠ら反宗麟派は粛清された。


大友宗麟4
 

1551年、周防国(山口県東南半分)の大内義隆が家臣・陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害すると、宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込む。

 

これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符が打たれ、さらに北九州の大内氏に服属する国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)が大友氏にも服属することになり、宗麟は周防方面にも影響力を確保し、特に博多を確保したことは多大な利益となった。

 

 

宗麟の叔父・菊池義武は「二階崩れの変」をきっかけに豊後国内が内乱に陥ると予測し、肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後(熊本県)全土の制圧を目指して反乱したが、直ちに国内の混乱を収めた宗麟は菊池義武を一族から縁切りにすることを表明して大軍を派遣し、島原に落ち延びた菊池義武はその後に自害し、菊池氏を滅亡させた宗麟は肥後国も確保する。

 

府内城
 
しかし、宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き、1553年に一萬田鑑相(いちまだあきすけ)1556年には小原鑑元(おばらあきもと)が謀反を起こすなど、宗麟の治世は当初から苦難の多いものであった。

 

また、この頃に宗麟は本拠地を府内城(大分県大分市)から丹生島城(大分県臼杵市)に移している。

 

フランシスコ・ザビエル
   
フランシスコ・ザビエル

1557年、宗麟の弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失い、毛利元就が北九州に進出してくると、毛利氏との対立を決意した宗麟は、毛利元就と通じていた筑前国(福岡県西部)の秋月文種を滅ぼすなどして北九州における旧大内領を確保することに成功した。

 

 

室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化し、多大な献金運動をした宗麟は、1559年に豊前・筑前の守護(鎌倉幕府・室町幕府が置いた軍事指揮官・行政官)、さらに九州探題(室町幕府の軍事的出先機関)を任され、1560年には左衛門督(鎌倉時代以降、朝廷の機能としては有名無実化していったが武家に好まれた官職)に任官する。

 

 

宗麟は九州における最大版図を築き上げ、さらにそれを裏付ける権威を獲得し、名実共に大友氏の全盛期を創出した。

 

足利義輝
  
足利義輝
 

しかし、周防・長門(山口県西半分)を平定するために宗麟と和睦していた毛利元就は、平定に成功すると今度は貿易都市の博多を支配下におくべく、宗麟の支配する豊前・筑前への侵攻を図り、15541561年までに豊前門司城で起こった宗麟と毛利元就との数度の合戦「門司城の戦い」で敗れた宗麟は出家して休庵宗麟と号す。

 
門司城の戦い

 

出家してからも宗麟は足利将軍家には多大な援助を続け、1563年には足利義輝の相伴衆(将軍が宴席や他家訪問で外出する際に随従する)に任ぜられ、足利義輝の調停で宗麟は毛利氏と和睦し、北九州の権益を確保する。

 

ところが、毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、この和睦は破られ、九州へ侵攻した毛利氏は、宗麟側の国人らを味方に引き入れ、怒涛の攻撃を開始することになった。

 

1567年、豊前国や筑前国で毛利元就と内通した宗麟側の国人が蜂起すると、なんとこれに宗麟が大切に育てた重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させる。

 

 

宗麟は毛利氏との戦闘の中で宣教師に「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出し、鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請した。

 

毛利元就
   
毛利元就

1569年、宗麟は肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために自ら軍勢を率いるが、そこへ毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退し、立花山城(福岡県の立花山山頂)の帰属を巡る「多々良浜の戦い」で毛利軍に打撃を与える。

 

さらに宗麟の軍師と言われる吉岡長増の策で、毛利氏に滅ぼされた大内氏の遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込んで毛利氏の後方撹乱を狙う。

 

大内輝弘は大内氏の復活を狙って、大友水軍に護衛され豊後国から周防国へと向い、それを知った大内氏の遺臣はこぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増し、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。

九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、後方を脅かされていることを知ると、九州からの撤退を指示した。

 

多々良浜の戦い
 

1570年、宗麟が弟・大友親貞に3000の兵で総攻撃命令を下し、再度、龍造寺氏を討伐するために肥前国に侵攻した「今山の戦い」は、小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移する。

 

龍造寺側には援軍の見込みはなく落城は必至の状況であったが、総攻撃の前日の夜に大友親貞が勝利の前祝いとして酒宴を開いて軍の士気を緩め、それを知った龍造寺側が鉄砲を撃ちかけて奇襲し「寝返った者が出た」と虚報を流すと、大友軍は大混乱に陥って同士討ちを始め、2000人に及ぶ犠牲と共に大友親貞が討ち取られた。

 

この大敗北によって、宗麟は龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなり、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことが出来なくなる。

 

龍造寺隆信
   
龍造寺隆信

1576年、宗麟は家督を長男・大友義統に譲った。

その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となって洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗る。

 
大友義統

  大友義統 


この頃、織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭は、毛利氏が京都にのぼらないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏をはじめ龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行う。

 

 

1577年、宗麟と同様に九州制覇を狙う薩摩国の島津義久が日向国(宮崎県)に侵攻を開始し、1578年に「耳川の戦い」で大友軍と島津軍が激突すると、当初は大友軍が兵力の差で押していたが、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきり、そこを島津軍が突くと戦況は一転し、大友軍は敗走する。

 

大友軍はこの敗走で急流の耳川を渡りきれずに溺死したり、そこを島津軍に攻撃されるなどして3000人近い戦死者を出し多くの重臣を失った。

 

 

「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていき、さらに家督を譲った大友義統との対立も起こり、大友氏は衰退の一途をたどっていく。

 
耳川の戦い

 

この苦境に対して宗麟は、本州で大勢力となった織田信長に接近し、織田信長の毛利攻めに協力することなどを約束に島津氏との和睦を斡旋してもらうことになっていてが「本能寺の変」で織田信長が死去すると、島津氏との和睦は立ち消えとなった。

 

 

「今山の戦い」で宗麟を破った龍造寺氏は、宗麟が「耳川の戦い」で島津義久に大敗して大きく衰退すると、それに乗じて大友領を侵食し、九州は島津氏と龍造寺氏の二強が争う時代となる。

 

 

1584年、龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北した「沖田畷の戦い」で戦死すると、宗麟は立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回するも、1585年に立花道雪が病死すると、これを好機と見た島津義久は大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃した。

 

この「岩屋城の戦い」で高橋紹運・立花宗茂父子は奮戦し、島津軍の侵攻を遅らせるも岩屋城は落城する。

 

立花宗茂
  
立花宗茂
 

もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなった1586年、宗麟は織田信長亡き後の天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願した。

 

 

しかし、島津義久はその後も大友領へ侵攻し「戸次川の戦い」では大友氏救援に駆けつけた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。

 

この時、臼杵城(大分県臼杵市)に籠城していた宗麟はその大きな破壊力から「国崩し」と名付けられた大砲フランキ砲を使って臼杵城を守った。


臼杵城

 

1587年、大友氏が島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められるのと時を同じくして、豊臣秀長の率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに遅れて豊臣秀吉自身が率いる10万の兵も到着すると、九州平定を目指す豊臣軍は各地で島津軍を撃破していく。

 

 

宗麟はこの戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久が豊臣秀吉の九州征伐に対して降伏する直前に、57歳で病死(チフスが有力とされている)した。

 

 

豊臣秀吉は九州平定後、宗麟の長男・大友義統に豊後一国を安堵する。

 

大友宗麟2
 

宗麟の死の直後、葬儀はキリスト教式で行われ墓は自邸に設けられたが、後に大友義統が改めて仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

津久見市内にある現在の墓所は1977年に大分市長・上田保が新たにキリスト教式の墓として従来の場所から移したものである。

 



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九州・沖縄 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



日本史をさかのぼればさかのぼるほど、その重要度の高くなる九州地方は多くの偉人を輩出しましたが、その中でも特に迷わされるのが鹿児島でした。


鹿児島といえば、どうしても西郷隆盛という結論になりますが、薩摩藩を治めていた島津氏は不思議なくらい有能な当主が登場し、そういう意味ではどんな名門武家にも勝るものでした。


また、九州地方は日本におけるキリスト教伝来の地ともいえ、大村純忠、大友宗麟といったキリシタン大名が登場したのも特徴の一つです。


そして、琉球王国の最後というのは、屈辱の歴史であると共に日本の歴史に完全に組み込まれたということでもあり、その狭間に翻弄された悲劇の王という陰陽を含んだ背景が、この地からの日本の偉人というテーマで重要な意味があると思いました。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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