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坂本龍馬

西郷 隆盛 (鹿児島)

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1828123日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。

西郷家の家格は御小姓与で下から2番目の身分である下級藩士であった。

 

11歳の頃、喧嘩の仲裁に入った際に、刀で右腕内側の神経を斬られてしまい、3日間高熱に浮かされた末に一命は取り留めるものの、刀を握れなくなったので武術を諦めて学問で身を立てることを志す。

 

鹿児島城下加治屋町

1854年、隆盛が藩主・島津斉彬に意見書を出すと、その才覚が認められて共に江戸に赴くが、島津斉彬が亡くなると、隆盛は自らの命を危うくしながらも幕府の大老・井伊直弼と異なる政治的方針を持っていた島津斉彬の意思を継ぐべく国事に奔走する。

 
島津斉彬
  
島津斉彬

しかし、幕府の追及を恐れた薩摩藩は、隆盛と志を同じくする僧・月照を日向国へ追放とし、その道中での切り捨てを決めた。

 

隆盛は月照とともに竜ヶ水沖で身投げをし、月照は死亡し、隆盛は回復に一ヶ月近くかかりながらも自分だけ生き残ることとなる。

 

薩摩藩は隆盛を死んだものとして扱い、幕府の追求を逃れるために隆盛は奄美大島に3年間潜居させられた。


奄美大島
 

その後、隆盛は大久保利通らの助けで藩政に復帰するも、1859年、藩主・島津久光に誤解を受けて徳之島・沖永良部島に流罪となり、この2年間の牢人生活で足を悪くし、感染症にもかかる。

 

 

1862年、薩摩藩主・島津久光の前を横切ったイギリス人が斬り殺される「生麦事件」が起こり、1863年、その報復をしようとするイギリスと薩摩藩の戦争「薩英戦争」が起こると、その解決に大久保利通があたった。

 

この大久保利通の強い勧めもあって、隆盛は藩主・島津久光に赦されて鹿児島に帰り、大役をもって藩政に復帰していく。

 
島津久光

  島津久光 


1864年、長州藩勢力が会津藩主で京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で市街戦を繰り広げた「禁門の変」を起こした責任を問い、朝廷が徳川幕府に対して長州追討の勅命を発し、35藩総勢15万人が長州藩主・毛利敬親のいる山口へ向った「第一次長州征討」の戦後処理にあたった頃から、隆盛の考えは徳川幕府を倒すことに転じていった。

 

 

1866年、坂本龍馬の仲介もあって、隆盛は徳川幕府を倒すために薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」を長州藩の桂小五郎と成立させる。


桂小五郎
   
桂小五郎

1867年、徳川幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還」の結果、徳川幕府の廃絶と同時に摂政・関白等の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置による天皇中心の新政府を樹立する「王政復古」が宣言された。

 

 

1868年、新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った「戊辰戦争」で、隆盛は天皇を担いで官軍となった新政府軍を参謀として主導し、旧幕府軍の代表・勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を実現させる。

 

隆盛は明治維新の最大の功労者として高い尊敬を受けることとなった。


勝海舟

  勝海舟
 

1869年、藩が支配してきた土地と人民を天皇に返上する「版籍奉還」が行われ、1871年には藩を廃止して県を置き、明治政府が任命した県令が県の政治を行う「廃藩置県」により、日本は中央集権的統一国家を目指すようになる。

 

 

隆盛は薩摩・長州などの兵からなる新政府直属の軍隊を作ることに尽力すると、陸軍元帥に就任し、さらに新政府の中核をなす参議の地位にも就く。

 

西郷隆盛2

しかし、政府の高官達の中には、商人と結託して私腹を肥やすなど、隆盛の意に反する行動をする者が現れた。

 

一方で、徳川幕府を倒すために命をかけながらわずかな恩賞を与えられただけの下級武士達は、維新の後に士族(江戸時代の旧武士階級などから維新後に華族とされなかった者)となり、腐敗した政府に対する批判を強めていく。

 

 

1873年、井上馨、山県有朋ら政府の中心人物達の汚職が表面化し、隆盛は自ら作りだした政府の汚職まみれの姿に失望を感じ「新しい世をこれから作らねばという時に、政府の高官達は屋敷を飾り立て、贅沢な服装をし、蓄財に目がなく、明治維新の正義の戦いは、このような私利私欲の世を生みだすためのものだったのか。天下に対し、戦死者に対し、面目ないことだ。」と嘆いた。

 
山県有朋

  山県有朋
 

この頃、鎖国を続けていた李氏朝鮮(朝鮮民族の最後の王朝で朝鮮半島における最後の統一国家)は、西洋列強のマネをして海外進出を目論む隣国の日本を強く警戒し「日本は無法の国にて西洋をマネて恥じるところがない」と、釜山にあった日本の出先機関への生活物資の搬入を妨げる事件が起こる。

 

 

両国の外交関係は緊張し、日本では李氏朝鮮に兵を送り武力をもって屈服させようという征韓論が高まり、そこには外国に派兵することで士族の不満を外に向けようという目論見も存在した。

 

 

この外交的課題に対して、ヨーロッパを視察して西洋列強の強大さ目の当たりにしてきたばかりの大久保利通は、国内の改革を優先し、国力を養うことが先決と征韓論反対を主張する。

 
大久保利通
  
大久保利通

隆盛が朝鮮で殺されることを覚悟のうえで、自ら使節として朝鮮に赴き、話し合いをすることを提案すると、一旦は天皇の許可を得るが、隆盛の追い落としを謀る参議達によってその決定は覆された。

 

18731023日、隆盛は参議を辞職し、11月に故郷の鹿児島に帰る。

 

西郷隆盛5
 
この時45歳の隆盛は、鹿児島市から約40kmはなれた日当山温泉などの山里を転々としながら、愛犬を連れて兎狩りや猪狩りをしたり、温泉に入ったりして日々を送り「いにしえより名声多く累をなす(名声を得て高い地位に就いてもろくなことはない)」と、今後は故郷で静かに暮らしたいという思いを口にしていた。

 

 

しかし、時代の流れはそんな隆盛の願いを許さず、東京で軍隊や警察に属していた薩摩の士族およそ600人が隆盛を慕って続々と鹿児島に戻ってきたのである。

 

生き場を失った士族達をどうするか解決策を考えた隆盛は、彼らを集めて鹿児島独自の教育をする「私学校」を始め、その授業は山道を走って体を鍛えたり、中国の古典を読んだり、銃や大砲の扱いを習ったり、文武両道に渡り、隆盛が理想と考える教育が行われた。

 

「私学校綱領(学校の校訓のようなもの)」では「天皇を尊び、人民を憐れみいつくしむのが学問のねらいである。一たび国に難儀がおきた時は、一身を顧みず国のためにつくさねばならない。」と謳われている。

 

隆盛は生徒達に近代的な兵器の扱いを教えることで、日本が西洋列強による侵略の危機にさらされた時に、守りの要となる人材を育成しようと考えていた。


私学校
 

また、隆盛は職を失った生徒達が自活できるように、土地の痩せた火山大地を開墾し、40ヘクタールの農場を築くために生徒達と共に土地を耕し、じゃがいも、サツマイモ、大根、麦、などを育て、土地を耕しながら国を守るという隆盛の理想をこの地で具体化しようと考える。

 

 

農場ではしばしば生徒達と共に鍬を取る隆盛の姿が見られ、清潔な隆盛の人柄を慕って「私学校」には続々と士族が集まり、やがて「私学校」の幹部達は鹿児島県の行政に参加することになっていく。

 

鹿児島県政の責任者・大山綱良は、隆盛の思想に共鳴して「私学校」の幹部を各地の区長に任命し、税の徴収などの権限を与える。

 

こうして「私学校」の士族達が事実上、鹿児島の県政を担うようになると、東京の新聞は「鹿児島は中央の意向の届かない独立国家だ。」と報じた。


大山綱良
  
大山綱良
 

そのため、明治政府は隆盛はなにか大きな事をしでかすに違いないと、その動きを強く警戒するようになっていく。

 

 

 

この頃、政府の中心人物である大久保利通は日本の中央集権化を進めるために税制の課題に着手していった。

 

江戸時代の税は、その年の作物の収穫に応じて現物で納められていたため、税収は収穫高に左右される不安定なものであったが、明治政府は税収を安定させるために改めて田畑を測量し、土地の評価額を定め、それに応じて毎年一定の税金を現金で納めさせることにする。

 

この制度によって土地の持ち主と見なされたのは実際に土地を耕す農民となった。

 

しかし、鹿児島は藩主が土地を支配していた他の藩とは異なり、武士一人一人が土地を持ち、自らが田畑を耕したり農民に耕させていたため、明治政府の新しい税制度のもとで土地の所有権が武士から農民に移ると、昔からの所有権を主張する士族と農民の間に紛争が起こるようになる。

 

 

隆盛は士族と農民のもとに足を運び、紛争の間に立って奔走しながら、明治政府の推し進める中央集権化を地方の実態にあわせて実施していく道を探った。

 

日当山温泉

一方で、明治政府は次々と改革を急ぎ、新たな制度を矢継ぎ早に実施し、1876年、武士の誇りである刀を持ち歩くことを禁じる「廃刀令」が出される。

 

さらに、明治政府は士族に与えてきた家禄の支払いを打ち切る「秩禄処分」を発表し、士族達は期限付きの債権を与えられたが、その収入はわずかな利息だけとなった。

 

 

この年の秋、明治政府への不満を持つ士族の「神風連の乱(熊本)」「秋月の乱(福岡)」「萩の乱(山口)」と反乱が相次ぐ。


神風連の乱
秋月の乱
萩の乱

こうした政府への不満は鹿児島でも渦巻き、隆盛が東京に鹿児島県令・大山綱良を派遣し、家禄の取り消しを遅らせるように嘆願させると、大久保利通はこの申し出を受け入れて、鹿児島だけに政府が支給する利息を高く定めるなどの優遇措置をとることを約束した。

 

 

各地で士族達の反乱が相次いでいると聞いた隆盛は、鹿児島城下へ帰る予定を変更し、日当山温泉にこもり続け、自分さえ姿を見せなければ鹿児島の士族達は反乱はするまいと考え「今、鹿児島に帰ると若者達を刺激し、蜂起の旗頭とされる恐れがある。しばらくは自分の挙動は人に見せず、身を潜めていよう。」と手紙に記している。

 

 

しかし、政府が鹿児島の士族の動向を探るために20人以上の密偵を鹿児島に潜入させ、その密偵が「私学校」の生徒達に捕えられると、潜入の目的が隆盛の暗殺であることが発覚した。

 

南大隅町

187710119日、ついに「私学校」の生徒達は行動を起こし、県内各地の施設を襲撃すると政府が差し押さえようとしていた大量の武器弾薬を奪う。

 

 

21日、日当山温泉よりもさらに鹿児島市から離れた現在の南大隅町に身を潜めていた隆盛のもとに生徒達が政府の武器弾薬を奪ったという知らせがもたらされる。

 

隆盛は「しまった」と口にすると「なぜ弾薬など盗んだのか。弾薬に何の用があるのか。」と、目の色を変えて怒った。

 

23日、隆盛が急ぎ鹿児島城下に戻ると「私学校」の幹部は隆盛に反政府運動の旗頭となるように求めるが、隆盛は自宅に引きこもったまま、なんとか生徒達をなだめて事態を収拾する策はないものかと考える。


西郷隆盛4

 

ここまで政府は各地の士族の反乱に対して徹底した弾圧を加えていたため、政府に対して反旗をひるがえしてしまった生徒達が厳罰に処されることは間違いなかったが、ここで生徒達と行動を共にすれば、政府が擁する天皇に歯向かうことになり、朝敵となってしまうことに隆盛は悩んだ。

 

 

26日、この後どういう行動を取るか「私学校」の講堂で隆盛を迎えた会議が開かれる。

 

隆盛の暗殺まで企てた政府に対して堂々と罪を問う兵を挙げるべきであると主張する強硬派と、「私学校」設立の目的は日本を外国の侵略から守ることで内乱を起こすことではなく少人数で上京して政府に詰問すればよいと主張する慎重派に、幹部達の意見は割れた。

 

そこで強硬派の一人が「オマエは死ぬことが怖くて今のような議論をするのか。」と発言すると、薩摩武士にとって死を恐れることを最大の恥とされていたため、慎重派は沈黙し、出兵賛成の合唱が沸き起こり、幹部達は隆盛に出兵承諾を求める。

 

決断を迫られた隆盛は「天皇に反して賊軍となるか」「生徒達を罪人として政府に引き渡すか」「そもそも天皇の名を借りて思うまましようとする政府の役人達が悪いのだ」などと様々な思いを巡らせながら、死を覚悟して政府に抗議しようとする生徒達に対してついに口を開いた。

 

「おはんらがその気ならオイの身体はさしあげ申そう。」

 

西郷隆盛1
 

214日、「私学校」の生徒を中心とする薩摩軍13000は、政府の罪を問い質して維新のやり直しをするという名目で、東京を目指して進軍を開始する。

 

隆盛は、自分の命は生徒達に預けたのだという意思を示すかのように、戦いの指揮を全て部下に委ねて作戦に一切口を出さなかった。


西南戦争(フランスの新聞)

この薩摩軍に対して、政府軍は熊本城に立て篭もって進軍を阻み、さらに援軍を福岡に集結させて南下を始めると、薩摩軍はそれを迎え討つために主力を北へと向け、両軍は熊本市の北にある田原(たばる)坂で激突する。

 

この「田原坂の戦い」は一日で数十万発の弾丸が使われる激戦となり、弾と弾が空中でぶつかって出来る「かちあい弾」が戦場にいくつも残されるほどであった。

 
かちあい弾

 

政府軍が次々と援軍を送り込んで戦力を増強する一方で、薩摩軍は激しい消耗戦で弾薬が乏しくなるも後方からの支援をほとんど受けることが出来ず、白刃をきらめかせての斬り込みで政府軍を攻撃する。


田原坂の戦い

 

そして320日早朝、政府軍が総攻撃を敢行すると薩摩軍は敗走し、この時を境に薩摩軍は敗北を重ねて宮崎県の山中へと追い詰められた。

 

 

挙兵から7カ月の816日、隆盛は初めて自ら命令を下し「降伏するのも死ぬのも自由にするように。」と軍の解散を宣言したが、隆盛を慕ってついて行こうとする者が次々に名乗り出る。

 

義勇兵として薩摩軍に加わっていた九州中津藩の士族・増田宗太郎は、故郷に帰ろうと誘う仲間達に対して「自分は西郷先生に一日接したら一日の愛が生まれた。10日接したら10日の愛が生まれた。もう西郷先生と離れることは出来ない。」と答え、この後、鹿児島で戦死した。


増田宗太郎

  増田宗太郎
 

軍を解散した隆盛は、自分を慕う兵を率いて故郷の鹿児島に帰ると、鹿児島市の中心にある城山に立て篭もる。

 

隆盛達400人は城山の斜面に穴を掘り、鹿児島に集結した政府軍4万人以上からの降り注ぐ砲弾をしのぎながら最期の時を待った。

 

西郷隆盛洞窟

924日午前4時、政府軍がついに城山総攻撃を開始すると、隆盛達は弾丸が飛び交うなか100倍の政府軍に対して最後の突撃を開始すると、2発の銃弾が隆盛を貫く。

 

「もうここらでよか」

それが西郷隆盛49歳、最期の言葉である。

 
西郷隆盛6

西南戦争は政府軍が16000の死傷者を出し、薩摩軍は死傷者15000と大山綱良以下2764人が処刑されることとなった。

 

以後、士族の反乱は途絶え、明治政府は富国強兵のもと強力な中央集権体制を築き上げていく。




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坂本 龍馬 (高知)

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183613日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。

 

兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。

 

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩では上級武士と下級武士の間に歴然とした身分の差があり、龍馬はそうした古い体制に矛盾を感じながら育っていく。

 
高知県高知市
 

龍馬は1213歳頃まで寝小便癖があったとされ、気弱な少年でいじめに遭っていたので、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 

 

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門して小栗流という剣術を学び、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得た。


日根野道場

小栗流目録を得た龍馬は剣術修行のために、
1年間の江戸自費遊学に出て、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となる。

 

道場主・千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟で、その道場は小千葉道場と呼ばれ、身分制度が厳しかったために上級武士は千葉周作の「玄武館(大千葉道場)」に所属し、下級武士は小千葉道場の所属とはっきり区別され、共に稽古をすることも無かった。

 

小千葉道場には千葉定吉の他に長男・重太郎と3人の娘がおり、二女のさな子は龍馬の婚約者として知られている。

 

桶町千葉道場

1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。

 

日本に開国を迫る黒船来航に対して、幕府は適切な対応を取ることが出来ず、その後、日本の政治は大きく混乱し、やがて、幕府に代わる新しい政治体制が必要だという声が高まっていくことになる。

 

この動乱にその身を投じることになる龍馬は、剣術修行のかたわら当代の軍学家であり思想家である佐久間象山の私塾に入学するなどしながら、15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

 

黒船来航

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定には実子がおらず、また本人も病弱であったため、その後継者争いが起こっており、徳川家定の病気が悪化した1857年頃からはそれが激化する。

 

土佐藩では藩主・山内容堂が、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍の後継者に一橋慶喜を立て、幕政改革をも企図していた。

 
山内容堂
  
山内容堂

しかし、1858年、井伊直弼が幕府大老に就任すると一橋派は退けられ、大老・井伊直弼は第14代将軍に徳川家茂を就任させると天皇の許可なく開国を強行し、それらを反対する者達を弾圧する「安政の大獄」が起きる。

 

この「安政の大獄」によって、一橋派であった土佐藩主・山内容堂は家督を養子である山内豊範に譲って隠居することを余儀なくされた。

 

井伊直弼
  
井伊直弼
 

土佐藩の尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排斥する)運動の立ち遅れを痛感していた武市半平太は「安政の大獄」により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを謳い、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫るべく「土佐勤王党」を結成する。

 

龍馬はこの「土佐勤王党」の最初の加盟者であったが、薩摩藩・長州藩は尊王攘夷運動の中心である京都に進出しようとする一方で、土佐藩参政・吉田東洋は「土佐勤王党」の主張を却下し続け、土佐藩の尊王攘夷運動は遅れたままであり、これに焦れた吉村虎太郎や龍馬らは脱藩することになっていく。

 
坂本龍馬4

脱藩とは藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となるが、1862年、28歳の龍馬は土佐藩を脱藩し、浪人の身として政治活動に乗り出す。

 

龍馬は家族への手紙に「一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり。日本を今一度、洗濯いたし申し候。」と、例え自分一人でも天下を動かし、新しい日本を作る決意を記している。

 

坂本龍馬5
 

江戸に到着した龍馬は、土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流し、そして、前福井藩主・松平春嶽から紹介状を受けて、幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪問した。

 

尊王攘夷派の龍馬は開国に反対の立場であったが、開国派の勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれると、己の視野の狭さを恥じるとともに勝海舟に感服し、その場で弟子となる。

 

龍馬は姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と絶賛し、その心服はとても深かった。

 

勝海舟
   
勝海舟

勝海舟が山内容堂に取り成しをすることで龍馬は脱藩の罪が許されると、龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走する。

 
海軍操練所
 

勝海舟が幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために、彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させると、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」への乗艦後に「神戸海軍操練所」の設立および勝海舟の私塾の開設が許可された。

 

「神戸海軍操練所」には幕府から年3000(江戸時代の一両は現在の貨幣価値にすると約10万ほどであるが幕末は大きな下落の最中にあった。)の経費の支給が承諾されたが、それだけでは運営資金として不充分であったため、龍馬は松平春嶽から1000両を借入れする。

 
松平春嶽
   
松平春嶽

 

龍馬が生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会ったのはこの頃であった。

 

 

京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きると、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊王攘夷派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の塾生であった望月亀弥太もいた。

 

「池田屋事件」の後、京都の情勢は大きく動き、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩は、薩摩・会津の勢力によって一掃される。

 
池田屋事件

京都を追放された長州勢力は、会津藩主で京都守護職・松平容保らを排除し、京都政治の舞台に戻ることを目指して挙兵するも、たった一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)

 

「禁門の変」で長州兵が御所に発砲したことで、長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に乗じて長州征伐を発令し、抵抗する戦力のない長州藩は責任者の三家老が切腹して降伏恭順する。

 
禁門の変
 

一方で「池田屋事件」で死亡した望月亀弥太のみならず「禁門の変」で長州軍に参加していた安岡金馬も神戸海軍塾の塾生であったため、これらを問題視した幕府は勝海舟を江戸に召還し、神戸海軍操練所の廃止は避けられなくなった。

 

龍馬ら塾生を心配した勝海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬ら塾生を託して、薩摩藩の庇護を依頼する。

 

龍馬ら塾生の航海術の専門知識を重視した薩摩藩は、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」という近代的な株式会社に類似した商業組織が誕生した。

 

「亀山社中」は長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、商業活動の儲けによって利潤を上げること以外に、当時、犬猿の仲であった薩長両藩和解も目的とし、後の薩長同盟成立に大きな貢献をすることになる。

 

海援隊
 

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩では、その大きな戦力となった薩摩・会津両藩に対する根強い反感があり「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけるほどであったが、こうした雰囲気のもとでも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志である土方久元は薩摩、長州の結盟を促し、それをもっての武力討幕を望んでいた。

 

龍馬と土方久元は大村藩の志士・渡辺昇の力添えで長崎にて桂小五郎と会い、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させると、同時に中岡慎太郎が西郷隆盛にその会談に応じるように説得する。
 

桂小五郎2
  
桂小五郎 

 

しかし、西郷隆盛は下関へ向かう途中で、朝廷の方向性が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止する必要性が生じ、急遽、京都へと向かうことになり、下関で西郷隆盛の到来を待つ龍馬と桂小五郎の前に、茫然とした中岡慎太郎だけが現れることとなり、桂小五郎の怒りは激しく、和談の進展は不可能になったかに思える状態であったが、龍馬と中岡慎太郎は薩長和解を諦めなかった。

 
西郷隆盛
   
西郷隆盛

 

幕府は国外勢力に対して、倒幕急先鋒の立場にある長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止していたため、長州藩が近代的兵器の導入が困難であることに龍馬は目をつける。

 

龍馬は薩摩藩名義で新型の武器を調達し、それを密かに長州に転売し、さらに長州藩からは薩摩で不足していた米を回送する策を提案した。

 

この策は両藩にとって完全にWINWINな提案であったため、両藩は自然とそれを納得する。 


ミニエー銃

こうして薩摩藩名義で長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺・ゲベール銃3000挺が買いつけられ、それらは長州藩へと転売され、これが亀山社中の初仕事であり、薩長和解の大きなキッカケとなった。

 

ゲベール銃
 

186618日、小松帯刀の京都屋敷において、ついに桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれ、話し合いは難航したが、龍馬の仲介によって薩長同盟は無事に結ばれた。

 

 

この薩長同盟の成立により、軍事力で幕府に対抗することの出来る新しい政治勢力が誕生し、これによって討幕運動が加速することになる。

 

坂本龍馬2
 

盟約成立から程なく、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と伏見の寺田屋で祝杯を挙げていたが、薩摩と長州の不穏な動きを察知していた幕府は、その鍵を握っている龍馬の動きを追い、伏見奉行は龍馬捕縛の準備を進めていた。

 

明け方2時頃、伏見奉行所から100人以上の捕り方が寺田屋に迫り、一階で入浴していた龍馬の恋人お龍が迫り来る捕り方を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がって龍馬と三吉慎蔵に異変を伝える。

 
楢崎龍
  
楢崎龍
 

報告を聞いた龍馬は、すでに隣の間にひしめいていた捕り方が容易に近づけないように機先を制してピストルを発砲。

 

仲間が撃たれるのを見た捕り方は動揺し、逃げ出す者、むやみに障子を破る者、大混乱の中で龍馬と三吉慎蔵はなんとか屋外に脱出する。

 

負傷していた龍馬は材木場に潜み、三吉慎蔵は旅人を装って薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め、これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

 

後を追って来た捕り方は龍馬の引き渡しを要求してきたが、薩摩藩は「そのような者はいない」と回答し、西郷隆盛は一戦交える覚悟で藩邸の守りを固めさせる。

 

 

しかし、龍馬の放ったピストルの弾が捕り方の命を奪ったため、龍馬は幕府の重罪人として命を狙われるようになり、この寺田屋での乱闘が後々の龍馬の運命を左右することになった。

 

寺田屋
 

薩長同盟成立から5カ月後、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始する。

 

長州藩の求めにより参戦することになった龍馬は、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

 

 

圧倒的な兵力を投入した幕府軍であったが、西洋の新式兵器を装備していた長州軍に連戦連敗し、思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なって病に倒れ、21歳の短い人生を終える。

 

その結果、勝海舟が長州藩と談判を行い、幕府軍は撤兵することとなり、それまで無敗を誇っていた幕府軍は薩長同盟によって最新鋭の武器を手に入れた長州軍に敗北した。

 
徳川家茂
   
徳川家茂

 

幕府の失墜を目の当たりにした龍馬は、薩長と幕府がさらに大規模な戦争を始め、日本人同士が殺し合いを続けることを恐れ、武力を使わず幕府から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」という策を打ち出す。

 

 

1867年、龍馬はお龍を下関に残して旅立ち、これが二人の永久の分かれとなる。

 

 

京都に戻った龍馬は「大政奉還」を実現するため、土佐藩から幕府に「大政奉還」を勧める建白書を提出させた。

 

幕府が自ら政権を返上するかどうか、その最終的な判断を委ねられた将軍・徳川慶喜は、京都二条城にて新しい日本のために250年間保ち続けた徳川家の政権を返上し、自ら身をひくことを諸藩に通達する。

 

龍馬の提案をキッカケに平和のうちに政権が交代することになり、この知らせを聞いた龍馬は徳川慶喜の決断に深い感銘を受け「将軍家、よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公(徳川慶喜)のために一命を捨てん。」と言った。

 
徳川慶喜
   
徳川慶喜

 

「大政奉還」によって政権を手にした朝廷が、大名会議を開くべく全国の大名に集まるよう命令を下すと、龍馬は新しく出来る政府が目指すべき構想をこの大名会議で提出するためにまとめる。

 

龍馬がまとめた構想「新政府綱領八策」には「天下の有名な人材を招く。新たな法律を制定する。議会を開設する。外国との共通為替レートを設定する。」など日本を近代国家へと生まれ変わらせる画期的なものが記されていた。

 

しかし「新政府綱領八策」には「○○○自ら盟主となる。」という個所があり、当然この○○○とは誰を指すのか様々な憶測を生むことになる。

 

この「新政府綱領八策」を目にした越前藩の重役は「龍馬の秘策は 内府公(徳川慶喜)、関白職のことか。」と言い、龍馬が徳川慶喜を新政府の中枢に置こうとしているという憶測が広まった。

 

新政府綱領八策

徳川慶喜が新政権の盟主となることなど絶対に認めることの出来ない薩摩藩は、すぐに公家の一人である岩倉具視を動かし「賊臣・徳川慶喜を殄戮せよ。」という、徳川慶喜を殺害して武力で幕府を倒せという勅令を出させる。

 

幕府を徹底的に叩き潰し、古い勢力を完全に一掃しようとする薩摩藩にとって、龍馬が考えた「大政奉還」は中途半端な妥協策にすぎなかった。

 
岩倉具視
  
岩倉具視 

 

徳川家に仕える武士達の多くは「大政奉還」によってすぐに幕府が無くなるものと受け取っていたため、龍馬は彼らにとって幕府転覆を企てた中心人物として目の仇とされる。

 

ところが、龍馬はそういった情勢を意に介することなく、徳川慶喜の側近・永井尚志と面会し、新政府構想の打ち合わせをするために連日のように外出していた。

 

永井尚志は「大政奉還」の実現に尽力した龍馬と徳川慶喜をつなぐ人物で、龍馬は永井尚志を自分と同じ考えを持つ同志と感じていたが、永井尚志が住んでいた屋敷の周辺には、京都所司代屋敷、京都守護職屋敷、見廻組の屯所など幕府の警察機関の本拠地があり、龍馬にとって永井尚志に接近することは物理的なリスクがあまりに高かったのである。

 
永井尚志
   
永井尚志

 

自分を追ってつけ狙う者の中を白昼堂々と歩いていた龍馬は、その心境について家族への手紙で「成すべき時は今にて御座候。やがて方向を定め、シュラか極楽かに、御供申すべく存じ奉り候。」と、命を失う覚悟を持っていることを記していた。

 

 

また、龍馬が下宿していた醤油屋(近江屋)から目と鼻の先に土佐藩邸があったが、下級武士出身で藩を抜けだした過去を持つ龍馬は藩への遠慮から、土佐藩邸に入ることを避けていたのである。

 

 

そして、龍馬と親しい寺田屋の女将お登勢は、龍馬の命が危ないという決定的な噂を聞きつけると「下宿にいては危険なので早く藩邸に隠れて下さい。」と注意を促したが、龍馬は「心配することはない。」と返答した。

 

坂本龍馬1
 
18671115日、この夜、風邪をひいていた龍馬は近江屋の二階で暖をとりながら親友の中岡慎太郎と、新撰組に捕えられた仲間の処遇を話し合う。

 

龍馬のいる近江屋には土佐藩の関係者が様々な問題を相談するために訪れるようになっており、午後7時、土佐藩の同志・岡本健三郎と中岡慎太郎の書生・峰吉が訪ねて来る。

 

龍馬達4人はしばらく談笑し、午後8時、龍馬の頼みで峰吉はシャモを買うために外出し、岡本健三郎も所用のため近江屋を離れ、近江屋にはその家族の他には、龍馬の護衛役の藤吉、中岡慎太郎、龍馬だけとなった。

 
近江屋

それからしばらく、龍馬の同志が多い土地である十津川の郷士を名乗る男達数人が龍馬を訪ねて来たので、藤吉が取り次ぐと、男達は藤吉の後をつけてそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋へと押し入る。

 

龍馬はまず額を深々と横に斬り裂かれ、全身に数カ所の傷を受けた。

 

男達が去ると、瀕死の龍馬は自らの顔を刀に映して傷の具合を見ると、中岡慎太郎に「脳をやられたから、もうダメだ。」と語りかける。

 

龍馬が31歳の生涯を閉じる一方で、中岡慎太郎はそこから二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について語った。


中岡慎太郎
  
中岡慎太郎

龍馬の死はその後の政局に大きな影響を与え、暗殺から20日後、薩摩藩を中心とする軍勢は京都御所を取り囲むと、その軍事的圧力のもとで公家と一部の有力大名による会議が開かれ、徳川慶喜を新政権から排除する決定が下される。

 
鳥羽・伏見の戦い1

1868年、この決定に反発する旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が京都郊外で激突した「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍に敗北した。

 
鳥羽・伏見の戦い2

平和のうちに新しい政権を作ろうとした龍馬の構想は戦火に消え、この年の9月に元号は明治と改まり、薩摩と長州を中心とした新しい政府が作られる。

 

鳥羽・伏見の戦い3
 

その翌年、幕府の治安警察であった見廻組の元隊士・今井信郎が、龍馬暗殺事件の犯人として逮捕され、今井信郎の自白によると、近江屋に踏み込んだのは見廻組の侍7人で、暗殺の口実は寺田屋で龍馬が幕府の捕り方を射殺した罪というものであった。

 

しかし、今井信郎はなんとわずか一年半で釈放され、幕府側だった今井信郎の助命運動に裏で動いたのは、今井信郎と面識のない西郷隆盛であり、その真意は謎に包まれている。


今井信郎
   
今井信郎


龍馬は死の
7か月前、長崎で貿易商社「海援隊」を結成し「この頃、おもしろき御咄しも、実に山々にて候。世界の咄しも、相成り申すべきか。」と、政治活動に奔走する日々の中でも、海を越えて世界中の国々を相手に貿易をする夢を抱き続けていた。




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ClubT  坂本 龍馬 「劇団Camelot」 

(Tシャツ 税込3240円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)

 


 

四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!









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