将門の生年は903年頃とされているが正確な生年は不詳である。
将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。
将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、15~6歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。
父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。
そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。
源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。
935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。
平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。
平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。
その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。
この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。
国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。
そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。
将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。
将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。
こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。
さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。
こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。
これが最初の日本刀といわれている。
939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。
将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。
最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。
これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。
将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。
常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。
ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。
東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。
その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。
将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。
将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。
国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。
朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。
それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。
朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。
その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。
これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。
この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。
一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。
しかし、この民への思いやりが裏目に出る。
将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。
将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。
長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。
将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。
この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。
将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。
940年2月14日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。
吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。
しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。
この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。
その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。
討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。
将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。
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