永倉 新八700x1000



永倉は、松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として、松前藩上屋敷(現在の東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。

 

 

8歳頃に岡田利章の神道無念流剣術道場である撃剣館に入門し、18歳で本目録となった永倉は、剣術好きのあまり松前藩を脱藩し剣術修行の日々を送った。

 

 

その流れで近藤勇の天然理心流の道場である試衛館に現れると、近藤と意気投合し、試衛館に居着くようになる。

 

 


 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、永倉は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていった。

 

壬生村2
 
の後、芹沢は暗殺され、新撰組は近藤主導の隊となるが、永倉は芹沢暗殺の相談を土方などから受けていなかった可能性がある。

 

 

芹沢暗殺の実行者は4名で、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助という試衛館メンバーであったという説が有力であるが、残る永倉以外の試衛館メンバーは、行動を知らないわけがないリーダーの近藤勇、試衛館では近藤よりも兄弟子になる最年長の井上源三郎、行動の賛否に大きく意見を持っていなそうな藤堂平助であった。

 

 

仮に土方らが永倉には相談していなかったとして、考えられる理由は、義と徳を重んじ頑固者である永倉に反対されると話がややこしくなると思われたことや、永倉と芹沢が神道無念流の同門でそれなりに仲が良かったことが考えられる。

 

 


 

永倉の意はとにかく、芹沢がいなくなり近藤勇主導の組織となった新撰組は、その勢いを増していき、永倉は二番組組長や撃剣師範を務めるなど活躍することになっていく。

 

池田屋跡
 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入し、沖田が持病発生で倒れ、藤堂平助が負傷して離脱する中で、永倉は左手親指に深い傷を負いながらも防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。

 

 

 

新撰組が出世して、身分の高くなった近藤の振舞いに変化が出始めると、頑固者で義と徳を重んじる永倉は、度々、近藤や土方と衝突するようになっていく。

 

 

しかしながら、沖田の病状が悪化すると、沖田の分まで前線部隊として働くなど、意見は言うものの仕事はしっかりな男であった。

 

 

 

 

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 

この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、負傷していた近藤の代わりに、土方と共に新選組を指揮して戦った。


永倉新八1
 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。

 

 

この直後、近藤や土方と今後の展望や進路で意見が分かれ、原田左之助らと共に隊を離れた。

 

 

 


 

近藤らと分かれると、永倉は靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で新政府軍と抗戦するが戦局は不利で、米沢藩にかくまわれることになる。

 

 

米沢藩滞留中に、会津藩の降伏を知ると、永倉はもはや新政府軍に抗う術なしとみて江戸へ帰還した。

 

 

 

 

その後、永倉の大叔母である長倉勘子(永倉ももとは長倉姓)12代松前藩主・資廣の側室であった縁もあり、松前藩への帰参が認められるという寛大な処置を受ける。


 

永倉新八29歳、蝦夷地はまだ戦火のなかにあったが、永倉にとっての新選組に終止符が打たれた。

 

北海道
 

永倉は、藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して杉村家の養子に入ると、北海道に渡るが、その後42年間で北海道と東京で11回転居する。


そして、そのほとんどを剣術の師範として身を立てた。

 

 


 

晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通い「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた。」と生き延びた事を喜んだという。
 

 

永倉新八2

それでも、やはり、あの新撰組の幹部であった男の迫力はいつまでも健在だったようで、ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれるが、永倉は眼光の鋭さでヤクザを怯えさせて退散させた