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前田利家

多キャラ箱(2017年2月13日~2017年2月19日)

(集計2017年2月13日~2017年2月19日)
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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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佐々 成政 (富山)

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成政は、尾張国春日井郡比良城
(現在の名古屋市西区)を拠点にしていた佐々成宗の子で兄達が相次いで戦死したため、1560年に家督を継ぎ、比良城主となる。

 

比良城

織田信長に仕え、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令をする「馬廻」から戦功を重ねて頭角を表していく。

 

 

1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、斎藤龍興の軍6000を織田軍1500が味方を三手に分け挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、成政は敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。


森部の戦い
 

1567年、武芸に秀でた馬廻からさらに選抜された豪のエリートが信長直属の使番を務める「黒母衣衆」に抜擢される。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利する「姉川の戦い」に先立つ「八相山の退口」で成政は、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)に参加し、鉄砲隊を用いて大活躍した。

 

 

1574年、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起し、織田信長と激しい合戦が起こった「長島一向一揆」との戦いで長男・松千代丸を失う。

 

長島一向一揆

1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐって、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000と戦った「長篠の戦い」では、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に、この戦いの語り草ともなっている鉄砲隊を率いた。

 

 

 

 

1575年、織田信長は越前国制圧後、成政・前田利家・不破光治の3(府中三人衆)に越前府中10石を与え、成政は小丸城(福井県越前市)を築いて居城とし、北陸方面の軍団長となった柴田勝家を支えた。

 

府中三人衆は柴田勝家を支えながらも、半ば独立した遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍する。

 

 

 

1578年、軍事の天才・上杉謙信が能登に侵入し、織田信長にとって最大の危機が迫った際には、成政は柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城(石川県七尾市古城町)が上杉謙信に落とされると撤退した。

 

 

1580年、親上杉氏政策を維持しようとした父と対立し、京都に上って織田信長に仕えた神保長住をサポートして、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国の平定に尽力し、この頃に成政は、立山の雪解け水により常願寺川が氾濫して大洪水を引き起こすことを防ぐため、馬瀬口に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築造して水害を減少させる。


佐々堤
 

1581年、神保長住が失脚したことにより、長政は富山城を居城とする一国守護となって、富山城の大規模な改修をおこなう。

 

 

成政は新規の家臣を召抱える際、最初に提示したよりも多くのサラリーを与える事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかった。

 

また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく実績や武勇を重視し、その話を聞くのが大好きであったといわれている。

 

富山城
 

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、成政が拠点としていた北陸方面は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略した(魚津城の戦い)ばかりであったため、成政は上杉軍の反撃への防戦で身動きが取れなかった。

 

 

 

豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)は対峙していた毛利氏と和睦し、いち早く畿内に戻り(中国大返し)、明智光秀を討ち果たす手柄をたてる。

 

そのため、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化し、成政は柴田勝家の側についた。

 

柴田勝家
  
柴田勝家
 

1583年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)で豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、成政は上杉氏への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すことが出来ずに終わる。

 

 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉は、織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づける。

 

成政は剃髪して秀吉に降伏し、娘を人質に出すことで、越中一国を安堵された。

 

 

こうした経緯から、富山県呉東地区では「賤ヶ岳の戦い」で上司である柴田勝家を裏切った前田利家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた成政の人気が高い。

 

 

 

豊臣秀吉が織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に戦った「小牧・長久手の戦い」では、成政は当初は豊臣秀吉の側につく姿勢をみせていたものの最終的には織田信雄・徳川家康の側につき、豊臣秀吉の側に立った前田利家の末森城を攻撃する(末森城の戦い)

 

末森城の戦い
 

この頃の成政は、越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ、その戦いは厳しいものであった。

 

 

ところがそんな成政の苦労とは裏腹に、豊臣秀吉と織田信雄の間で和議が成立し、徳川家康が停戦すると、このままでは立場が危うくなる成政は厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと向かい、徳川家康に再挙を促す。

 

この決死の行動と懇願は「さらさら越え」と呼ばれ、伝説化している。
 

佐々成政1
 

しかし、徳川家康の説得には失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったため、1585年、富山城は豊臣秀吉によって10万の大軍で包囲され、成政は降伏した(富山の役)

 

 

成政は一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、政治や軍事の相談役である「御伽衆」として豊臣秀吉に仕える。

 

 

 

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」で功をあげた成政は、1587年、肥後一国を与えられるという復活劇を成し遂げた。

 

佐々成政
 

しかしながら、早急に改革に乗り出した成政は肥後国人の反発を受け(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、その失政の責任から摂津国尼崎法園寺にて切腹。

 

 

成政は正確な生年が不詳であるが、没年は51歳くらいとされている。

 

 

 

成政には早百合という美しい側室がいたとされ、早百合が懐妊した際に「早百合の子どもは成政様の子ではない。」と言う噂が流れた。

 

成政は烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿い(富山県富山市磯部町)で殺し、さらに早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にする。

 

また、早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら佐々家は滅亡する。」と呪いの言葉を残したため、佐々瑞雄(成政の甥)は母から「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません。」と言われていたという。

 

早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといわれた。

 

富山県富山市磯部町

この話以外にも、勝者である豊臣秀吉や前田利家に悪評を創作され、評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残され、成政はとかく過小評価を受けがちであるが、その豊臣秀吉や前田利家ですら軍事指揮官としての力量ばかりは認めざるをえず、多くの賞賛の記録が残っている。




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中部 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中部地方は戦国大名の先駆けといわれる北条早雲が勢力基盤を築いた駿河・伊豆、戦国時代の代名詞といえる織田信長の尾張と、戦国武将が名を連ねやすい歴史背景があります。


中部地方で最も悩んだのが静岡です。
静岡県の人からすると徳川家康という思いもあるでしょうが、徳川家康は出生地は愛知で、なによりこの「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では権力基盤を確定させた土地、最も権力を発揮した土地を優先してます。


となると、足利家との縁深く長らく駿河を支配し、最も天下人に近いと言われていた今川義元であるべきですし、当時いかに今川家が強大な存在であったかをしっかり掘り下げるのも良かったのですが、どうしても織田信長に喰われた脇役感がいなめませんでした。


そこで、北条早雲は小田原北条氏の礎を築き戦国大名の幕を開け、歴史的意義が深いながらも、神奈川はどうしても源頼朝にせざるをえないので、駿河・伊豆が勢力基盤であったことから静岡を北条早雲にしました。




いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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