義仲の父・源義賢は河内源氏一門で東宮帯刀先生を務め、武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶るが義仲の生母は遊女と伝えられており、また、出生地に関しては武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)といわれている。
源義賢が源氏一族の権力争いで源義平(義仲の従兄にあたり源頼朝の兄)に討たれると、当時2歳の義仲も源義平によって殺害の命が出ていたが、幼い子供に刃を向けることをためらった畠山重能が斎藤実盛に義仲の身柄を預け、密かに信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)へ逃がされた。
そこで義仲は後に側近となる樋口兼光・今井兼平・巴御前の三兄妹と共に育てられる。
義仲の子ども時代は、天皇・平氏・源氏が三つ巴の権力争いをくり広げ、平清盛を筆頭とする平氏が政治権力を手にして全盛期を築いていく。
1180年、平清盛のために皇位継承争いに敗れた後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を全国へ発すると、27歳になっていた義仲はこれに応じて小県郡依田城にて挙兵する。
1181年、平氏側の城助職(じょうすけもと)が6万の大軍で越後国から横田河原(長野市)に攻め込んで来ると、義仲は兵の一部に平氏の紅旗を掲げさせ敵背後に回り込ませて、挟み討ちにするという騙まし討ちにより、わずか2000の兵で勝利し、そのまま越後から北陸道へと進み、同じ源氏一門である源頼朝や武田信光(甲斐源氏)の勢力が浸透していない北陸へと勢力を広げた。
1183年、源頼朝と敵対して敗れた志田義広(源為義の三男で義仲の叔父にあたる)と、同じく源頼朝から追い払われた源行家(源為義の十男で義仲の叔父にあたる)が義仲を頼り、この2人の叔父を庇護した事で義仲と源頼朝との関係が悪化する。
両者は武力衝突寸前となるが、平氏追討を前に源氏同士で争うわけにはいかず、義仲の息子・源義高を人質として鎌倉に送る事で和議が成立した。
一方、平氏はエース平維盛(平清盛の孫)と平知度(平清盛の七男)が率いる10万の大軍が、難攻不落といわれた燧ヶ城を落とし、加賀国で井上範方を撃破し、越中へと向かって来る。
ここで平氏軍は、平知度が率いる3万が志雄山、平維盛が率いる7万が倶利伽羅山へと二手に分かれた。
義仲は地元で5万の兵を集めると、倶利伽羅山に陣を張り、平氏軍を谷から落とすことを考える。
加賀と越中の境にある倶利伽羅山は高く、道は細く、谷は深い。
義仲軍は500頭ほどの牛の角に松明をスタンバイして夜が更けるのを待ち、平氏軍が眠りに就いた深夜に奇襲をかけ、太鼓を打ち、法螺貝を吹き、鏑矢を放ち、叫びながら角に松明を燃やした牛を平氏軍の陣に追い入れ、それらは山びこで響き渡った。
真夜中の大騒音、地鳴りと共に押し寄せる炎の数々、平氏軍は大パニックに陥り、太刀一つに3人が群がり弓一つを4人が掴み、暗闇で方向も分からず、18000もの兵が谷から転落する。
一夜明け、倶利伽羅山の劣勢の知らせを聞き、志雄山から駆け付けた平知度は戦況を打開できず自害に追い込まれた。
「倶利伽羅峠の戦い」に勝利した義仲軍は破竹の勢いで京都を目指し、また、源行家が伊賀方面から進攻し、京都の防衛を断念した平氏は安徳天皇(後白河法皇の孫で、母は平清盛の娘)とその異母弟・守貞親王を連れて西国へ逃れる。
この時、平氏は後白河法皇も連れていくつもりであったが、後白河法皇は比叡山に身を隠してやりすごし、間もなく義仲が平氏に入れ替わって京都へと入った。
義仲軍は官軍として迎い入れられ、平氏追討の勲功から義仲は「伊予守」となる。
後白河法皇は平氏に安徳天皇と神器の返還を求めたが、交渉は失敗に終わったため、京都に残っている高倉上皇(安徳天皇の父)の二人の皇子(惟明親王・尊成親王)のいずれかを天皇にすることを決めた。
しかし、義仲はこの際に「平氏の悪政がなければ本来は以仁王が天皇になっていたはずなので、その子である北陸宮を即位させるべき。」と申し立てる。
皇族・貴族にあらざる武士が皇位継承問題に介入することは極めて不快感を買う行為であったが、山村で育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした源頼朝とは違い、宮中の政治・文化・歴史への知識が全くなかった。
これにより義仲は後白河法皇との関係が悪化し、京都において粗野な田舎者と疎まれるようになる。
さらに「養和の飢饉」で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、食糧事情はますます悪化し、都や周辺での略奪行為が横行したため、義仲は平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていたが、大きくその期待を裏切ることになった。
しかし京中守護軍は源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になく、義仲は批判に対して開き直った態度をとり、半ばヤケになっている様子が伺える。
たまりかねた後白河法皇は義仲を呼び出し、立場の悪化を懸念した義仲は、西国で再起の力を蓄えている平氏の討伐に向かって挽回を目指す。
播磨国へと出陣した義仲は「水島の戦い」で平氏軍に惨敗し、さらに有力武将の矢田義清を失い、苦戦を続けていた。
そんな義仲の耳に、源頼朝の弟(源義経・源範頼)が大将軍となり大軍を率いて京都に向かっているという情報が飛び込み、驚いた義仲は平氏軍との戦いを切り上げて少数の軍勢で京都へと引き返す。
源義経・源範頼の率いる鎌倉軍が京都へと向かっているのは、後白河法皇と源頼朝が通じていたからなので、義仲は後白河法皇に激烈な抗議をし、逆に源頼朝追討の命令を下すように要求する。
義仲の敵はすでに平氏ではなく源頼朝に変わっていた。
とはいえ、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態で旗色は極めて悪く、鎌倉軍の京都到着が間近との報に力を得た後白河法皇は義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。
後白河法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけ、さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れ、圧倒的優位に立ったと判断すると義仲に対して最後通牒を行う。
その内容は「直ちに平氏追討のため西へ向かえ。源頼朝と戦うなら朝廷の命を得ようとせず私闘としてやれ。京都に居座るなら謀反とする。」というこの上なく容赦ないものであった。
この非情さには、朝廷側に立場する九条兼実ですら義仲を擁護するが、後白河法皇は義仲への武力攻撃の決意を固める。
焦った義仲は後白河法皇の御所を襲撃し、後白河法皇を捕えると五条東洞院の摂政邸に幽閉し、復権を目論む前関白の松殿基房(まつどのもとふさ)の子・松殿師家(まつどのもろいえ)を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。
また、義仲と手を結んだ松殿基房は、娘である絶世の美女・藤原伊子を義仲に嫁がせている。
新たな摂政となった松殿師家によって義仲は、源頼朝追討に対して形式的に官軍(天皇の軍)の体裁を整えて、征東大将軍に任命させた。
鎌倉軍が目前に迫ると、義仲は京都の防備を固めるが、京都での人望を完全に失っていた義仲には兵が集まらず「宇治川の戦い」に惨敗して、鎌倉軍が京都に進入すると人質として捕えていた後白河法皇も奪われる。
「宇治川の戦い」に敗れて京都をあとにする義仲軍わずか7騎の中に一人の女性がいた。
女性は樋口兼光・今井兼平の妹で幼少より義仲と共に育った巴御前で「平家物語」では「色白く髪長く、容顔まことに優れた美人で、強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」と記されている。
この時、巴御前は左右から襲いかかってきた2人の武者を両脇に挟みこんで絞め、2人は頭がもげて死んだという。
義仲は一緒にいたがる巴御前に「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのは恥ずかしい。」と言って説得すると、巴御前は「最後の奉公でございます。」と言い残し、怪力と名高い敵将・御田八郎師重を馬から引き落として首を切った。
その後、巴御前は鎧・甲を脱ぎ捨てて泣く泣く落ち延びると、出家して尼となり91歳まで生きたとされている。
琵琶湖湖畔の粟津浜(滋賀県大津市)に追い詰められた義仲は今井兼平と二人だけとなり、義仲は雑兵に討ち取られては猛将の恥と自害できる場所を求め、今井兼平は義仲の名誉を守るために押し寄せる鎌倉軍に単騎立ちはだかった。
しかし、義仲の馬が田んぼに足をとられて身動きがとれなくなると、義仲に矢が命中する。
1184年、挙兵から4年、征東大将軍にまでなった木曾義仲が没した。
それを確認した今井兼平は、刀を口にくわえると馬から落ち、自害して義仲のあとを追う。
義仲のもう一人の幼馴染み樋口兼光は、これから間もなく京都で処刑された。
義仲が戦死したとき嫡子・源義高は、源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれたため義仲の血は絶えたとされるが、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。
義仲は、時代を制して最高権力者となった源頼朝と対立したため「逆賊」として評価され続けたが、平氏全盛の世に反旗をひるがえして新しい時代を拓いた一人であり、北陸方面を制圧して京都から平氏を追い出すなど「源氏の世」の功労者であることは間違いない。
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