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仙台

伊達 政宗 (宮城)

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1567
年、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれる。

 

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

1579年、伊達政宗が13歳の時、三春城(現在の福島県田村郡三春町)主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎える。

 

 

1581年、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、1584年、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となった。

 

伊達政宗2

1585年、政宗は大内定綱の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城中の者を皆殺しにする。


 

定綱と姻戚関係にあり政宗の攻撃を受けていた二本松義継は降伏を申し出たが、政宗はそれを受け入れず二本松付近のわずかな土地を除いた所領を没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。


 

政宗を深く恨んだ義継は、宮森城に居た政宗の父・輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとするが、途中の粟の巣(二本松市平石高田)で政宗に追いつかれる。

 
 

政宗は鉄砲を放って、なんと輝宗もろとも一人も残さず射殺した。

 

粟の巣

政宗はこの時すでに、東北を統一し、より広く豊かな領土を求めて関東へと進出する野心をハッキリと抱いていたが、そこに天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉が立ちはだかる。

 

 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令した。

 

 

しかし、政宗は秀吉の命令を無視して、大崎氏、最上氏、などと戦争を繰り返し、1589年、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で撃破し、敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏が滅亡する。

 

 

政宗は領土を急速に拡大していき、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、114万石を支配する東北最大の大名となっていく。

 

摺上原

この頃、秀吉に従わない大名は東北の政宗と関東の北条氏直だけであった。

 

1590年、秀吉は全国の大名に北条討伐の号令をかけ、政宗にも参陣要求がされるが、当初、政宗はこれを無視。

 

 

しかし、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲すると、秀吉の強大さを知った政宗はその軍門に下ることを決め、遅れて小田原城を目指すが、秀吉は命令に従わない政宗を殺そうとしているという噂が入ってくる。

 

 

政宗は切腹の時に用いる白装束姿で秀吉の前に現れ、この死を覚悟したパフォーマンス色の濃い振る舞いが、派手好きの秀吉の気を変え、秀吉は政宗の遅参を許した。

 

 

 

小田原城が落城し、秀吉の天下統一がほぼ達成されると、政宗は秀吉を会津・黒川城に迎え、そこで衝撃的な処分を受ける。

 

 

その内容は会津・石背(いわせ)・安積(あさか)3郡を取り上げられるというもので、さらにその後、政宗は伊達家の故郷・伊達郡を含む6郡を取り上げられ、領地はほぼ現在の宮城県にあたる地に移され、伊達家は114万石から58万石に減る。

 

 

1591年、政宗は米沢城から新しい本拠である岩出山城へと移り、そこで一面に広がる荒れ地を目にすることとなった。

 

岩出山城
 
 

1593年、秀吉の最初の朝鮮出兵(文禄の役)に政宗は従軍する。

 

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する際に静かに見守っていた京都の住民が、伊達家の軍装の見事さに歓声を上げるほどで、これ以来、派手な装いを好み着こなす人を伊達者(だてもの)と表現するようになった。

 

 

政宗は、秀吉に仕える身となった以上、秀吉のもとでの出世を目指すが、1598年、秀吉が死去する。

 

 

 

 

秀吉の死後、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていった。

 

 

1600年、家康は3万の兵を会津に率いて、上杉景勝討伐に向かうと、その隙に三成は大阪で挙兵し、景勝と三成は家康を挟みうちにしようとする。

 

 

そこで、家康は政宗に景勝を攻撃して会津に釘付けにするように命じた。

 

この時、家康は、その恩賞として、伊達家の旧領649万石を与える約束する。

 

 

政宗は家康の要請に応じて景勝を攻めるが、一方で別の思惑も存在していた。

 

伊達政宗1
 

家康に味方する南部氏領内で発生した一揆を支援するために、政宗は南部領に4,000の兵を侵攻させ、あわよくばその領地を奪おうとする。

 

 

家康と三成の戦いは長引き、再び群雄が割拠する世が訪れると、政宗は予想していた。

 

 

ところが、両軍あわせて16万が激突した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった一日で決着し、家康が天下を制する。

 

 

政宗が景勝を攻めたことによって、家康は三成との戦いに集中できたため、政宗は約束の恩賞を与えられ100万石の領土を手にすることを期待していたが、南部氏領内での一揆に加勢したことを口実に家康は恩賞の約束を破った。

 

 

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府が成立し、以後、諸大名は幕府から領地を委ねられる時代が訪れる。

 

この江戸幕府における政宗の領地は仙台を中心に62万石に定められた。

 

 

戦国大名として天下の覇者となる夢が消滅した政宗は、絶望するどころか逆に、仙台を1000年に渡る豊かな国にし、平和的に100万石の領土を作ることを目指すようになる。

 

仙台城

1601年、仙台城、仙台城下町の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。

 

 

仙台藩の北上川流域は湿地が多く耕作できない土地が広がっていたので、西に広がる湿地帯の水はけを良くして新田を開発するため、政宗は北上川の流れを変える壮大な大事業に乗り出す。

 

 

5年に渡る工事の末、北上川は約3㎞東を流れることになり、西側の広大な平地が耕作可能な土地に生まれ変わり、政宗は減税を約束に農民達にその土地で水田開発させていった。

 

北上川
 

1614年、政宗は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」には1万の兵で参加するが、すでに恩賞に対する期待を抱かなくなっていた。

 

 

 

世情が落ち着いてからは、政宗はさらに領国の開発に力を入れ、かつて毛利輝元に仕えていた土木工事の専門家・川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)を登用し、農地を安定させるため大雨時の洪水対策などを進める。

 

川村孫兵衛重吉 (2)
  
川村孫兵衛重吉 

 

こうして、有り余るほどに生産されるようになった米は、江戸に送って売りさばかれるようになり、やがて江戸に入ってくる米の3分の2は仙台藩の米といわれるようになっていく。

 

 

 

江戸に米を送り始めて16年の後、1636年、政宗は70歳で世を去った。

 

 

 

江戸時代の中頃には、仙台藩の実質的な石高は100万石を超えるようになる。

 

 

秀吉に領地を取り上げられ、家康に約束を破られ、ついえたはずの100万石の夢は、政宗の死後80年を経て平和的に達成された。

 

 


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総長 山南 敬助

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山南の生い立ちについては断定できるものはないが、仙台藩を脱藩して江戸に出たという説が最も有力視されている。

 

 

江戸では小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流の千葉周作の門人となり、また柔術の腕前も高いまさに武人であった。

 


 

こうした武の腕を高めようとする山南は、近藤勇の天然理心流に他流試合を挑むが、相対した近藤に敗れ、この時、近藤の剣の腕前や人柄に惹かれた山南は、これ以後、試衛館の門人と行動を共にするようになる。

 

 

そして、試衛館には後の新選組中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。
 

試衛館
 

 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、山南は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組へと名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていた。

 


 

山南は、土方らと共に芹沢暗殺の実行者であったという説が有力視されている。


 

芹沢暗殺により新撰組が近藤勇主導の組織となると、山南の発言力と活躍も増していった。

 

 

 

インテリで剣の腕も確かな文武両道の山南であったが、剣豪揃いの新撰組においては、主に知性の方が重宝され、新撰組の頭脳として活躍する。

 

 

武骨な隊士達にとって山南の剣の腕はストレートな尊敬を集め、山南の豊富な知識は隊士達に大人としての知識欲を刺激し、山南は隊内での人気が非常に高かった。

 

 

また、山南は、心優しく温厚な性格から、壬生の女性や子供たちから慕われており、新撰組が過去のものとなった明治のはじめ頃まで、壬生界隈には「親切者は山南」という言葉が使われている。

 

 

この頃までの山南は新撰組で充実した日々を送っていたことであろう。

 

壬生村2

 

しかし、山南とは剣術の同門である北辰一刀流を学び、熱烈な尊王攘夷論者として高い学識を誇っていた伊東甲子太郎が新選組に入隊すると、新撰組は伊東に敬意を払う形で、山南より上位となる参謀という役職を新設した。

 

 

新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南にとって、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が現れたことにより、徐々に隊内での働き場所を失っていく。

 


 

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。

 

 

隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

 

 

 

近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。

 


 

しかし、山南の本心は、居場所のなくなった新撰組を出たいということよりも、居場所を失い生き甲斐を失ったという事に寄っていた。

 

山南の脱走は、半ば死を覚悟しての運だめしのような部分があったのかもしれない。

 

 


 

沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻る。

 

この時、山南と沖田がどんな言葉を交わし合ったのかは分からない。

 

しかし、沖田に追いつかれ、運だめしに敗れた時点で、山南は近藤と土方のメンツや、自分のような大幹部でも規則を破れば罰せられるという結果をもって、新撰組そのものの顔を立てる事を、決めたのであろう。

 


 

屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられる。

 

 

永倉は再度の脱走を勧め、手はずを整えようとするが、覚悟を決めていた山南は応じなかった。

 

 


 

死を覚悟していた山南は馴染みにしていた遊女の明里を身受け(当時の遊女は人身売買で店に在籍しているため、その遊女が一生の間に稼ぐであろう金を店に払うことで妾などとして買い取るシステムがあった。)し、自由の身となって故郷に帰れるように計る。

 

 

文武両道、武士としての美徳を備え、人間として一つの完成系に達していた山南は、恋に対しても誠実であった。

 

山南敬助1
 

死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。

 

 

介錯は山南たっての希望により、最も仲が良かった沖田が務めた
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