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京都

足利 尊氏 (京都)

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1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。




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平 清盛 (京都)

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1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。




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藤原 道長 (京都)

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10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。

 

貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。


京都

数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。

 

 

966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生まれる。

 

道長の父・兼家は実の兄である藤原兼通との出世争いで不遇な目にあいながらも、そこから這い上がり、朝廷での権力を築き上げ、右大臣にまで出世した人物であった。

 

道長はこうした一族の骨肉の争いを目の当たりにしながら、どうして肉親同士で争わないとならないのかと苦悩しながら育つ。

 
藤原兼家
  
藤原兼家


父・兼家の五男であった道長は病弱であったこともあり、兄達を差し置いて朝廷で昇進することをあまり意識していなかった。

 

 

しかし、987年、道長が22歳の時、左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)との結婚という大きな転機が訪れる。

 

この当時の結婚は、夫が妻の家に入る「婿入り婚」であったため、妻の家柄が夫の将来を大きく左右し、道長も結婚によって倫子の父・源雅信が所有する莫大な財産と名誉を手にすると、計らずとも出世の糸口を掴むことになった。

 

988年、道長は参議を飛び越して権中納言となって、公卿の一員に加わる。

 

藤原道長
 
それから7年後の995年、疫病が全国で蔓延し始め、朝廷でもわずか3カ月のうちに道長の兄を含む7人の公卿達が次々に亡くなった。

 

これによるポストの欠員から、権大納言の道長と内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の二人が次の政権トップを担うと目されるようになる。

 

藤原伊周は道長より上位だが、道長から見て甥(道長の兄・道隆の嫡男)であった。


 

間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長は右大臣に昇進、伊周は内大臣に留任となり、道長は伊周を抜く。


一条天皇の母・詮子
(せんし)は道長の姉で、甥の伊周よりも弟の道長の昇進を一条天皇に強く訴えかけていたことが、この逆転劇に大きく影響した。


一条天皇
  
一条天皇

最高職である左大臣が空席だったため、道長は30歳で事実上の政権トップへと登りつめる。


 

しかし、当時の藤原一族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書き綴った日記「小右記」では、道長に出世で追い越されて憤る伊周の行動が記されており、この人事は大きな波紋を広げた。

 
藤原実資
   
藤原実資


995
年、御所で伊周が道長と乱闘さながらの口論となり、さらにその3日後、道長と伊周の従者同士が衝突し、道長の従者が殺される。

 

 

しかし、これに対してもし、伊周に制裁を加えれば、父・兼家のように一族を骨肉の争いに巻き込んでしまうと考えた道長は、報復のための行動を取らなかった。

 

 

996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、伊周は自分の想い人である藤原為光の三女が目当てと誤解して矢を放つという乱心行為を起こし、大宰府への流罪となった。

 

 

伊周の失脚後、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格し、数々の幸運が続いた結果、名実ともに政権トップの座が転がり込んで来る。

 

 

穏やかな政治を目指し、一族同士が争うことのない政権をいかにして作るか考え続けた道長は、実はその生涯で陰謀を働いたことがなかった。

 

京都2
 

左大臣に就任してから20年に渡って道長が綴った日記である国宝「御堂関白記」は、そのほとんどが朝廷の日々の出来事に対する簡潔な内容であるが「(道長の娘・彰子)産気づく、午の刻、ヘソの緒を切る。」など、天皇家に嫁がせた娘達に関する事はイキイキと詳しく書き留めている。

 

 

自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば、道長の血を引く天皇が生まれることになり、道長は孫である天皇の権威を背景に長期安定政権を築くことを考えるようになった。

 

道長は天皇家との間に外戚(母方の親族)関係を築くことに執念を燃やし、朝廷での地位を確固たるものにしようとする。

 

藤原道長1
 
999年、道長の長女12歳の彰子(しょうし)20歳の一条天皇に嫁ぐ。

この時、一条天皇には正室の定子と側室が他に3人いたが、一条天皇の寵愛はとりわけ定子へ向けられていた。


 

一条天皇は彰子の寝所には寄りつかず、嫁いでから5年が過ぎても彰子が身ごもる気配はなく、道長は焦りを覚えるようになる。

 

源氏物語
 

そこで道長は、源氏物語の作者としてその教養の高さがすでに宮中で評判となっていた紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養うことで、向学心の高い一条天皇の気を引こうとした。

 

彰子のもとには、紫式部の意向に従って漢籍や古今東西の珍しい書物が揃えられ、一条天皇はその書物に興味を持ったことをキッカケに彰子のもとへ通うようになっていく。

 

1008年、彰子が一条天皇に嫁いでから9年、ついに彰子と一条天皇との間に皇子・敦成(あつひら)親王が産まれる。

 

 

天皇との血縁の濃さがそのまま発言力となったこの時代、道長は自らの政権を安定させるキッカケを掴み、その喜びは尋常ではなかった。

 

紫式部
  
紫式部
 

1011年、一条天皇が病のために32歳の若さでこの世を去ると、次の皇位に就いたのは道長の姉・超子と冷泉天皇との間に生まれた三条天皇となる。

 

しかし、道長の意向が認められて皇太子は敦成親王になり、道長は次の皇位が自らの孫に約束されたことでひとまず安心した。

 

ところが、さらにその次の皇太子の座を巡り、道長と三条天皇の思惑がぶつかる。

 

三条天皇は次の皇太子には自分の皇子をと考えていたが、道長はもう一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることを望んだ。

 
三条天皇
  
三条天皇
 

自分が生きているうちに2代先の皇太子まで決めておきたいと考えた道長は、なんと三条天皇に譲位を迫るという強引な行動に出る。

 

三条天皇は憤慨して「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく、寝食もままならないほどで憂鬱極まりない。」と当然のごとく譲位には応じないが、道長は計5回も三条天皇に譲位の要求を突き付けた。

 

 

1015年、御所が2度に渡って焼け落ち、公卿達は口々に「天下滅亡の時が来た。」と怯え出す。

 

これを好機と見た道長は「火事は天皇の不徳が招いたものとせん。」と三条天皇に強く譲位を迫り、ついに三条天皇は道長に屈して譲位の要求を呑んだ。

 

 

1016年、道長の孫・敦成親王が後一条天皇として皇位を継ぎ、悲願であった天皇の外戚となった道長は、この日の日記に「天晴(てん はれ)。」と記している。

 
御堂関白記
 

さらに一年後、道長は思惑通り、もう一人の孫・敦良親王を皇太子とすることに成功し、これによって後一条天皇に続いて、その次の天皇も自分の孫となることが約束された。

 

 

一方で、この頃52歳となっていた道長は、老いと病から激しさを増す胸の痛みに死期を感じ始め、自らの死後も末永く政権を安定させたいと強く願うようになる。


 

そこで道長は、天皇の外戚が他に出現しないように、なんと孫である後一条天皇の妃に自分の娘・威子を立てようとした。


公家の間で近親婚はそれほど珍しいことではないが、さすがに甥と叔母の結婚は当時でも極めて異例である。

 

平安京

10181016日、政権安定にこだわる道長の執念が実り、威子が後一条天皇の妃となった。

 

道長の娘と孫が夫婦になったその日の夜、道長は宴の席で居合わせた公卿達を前に歌を読んだ。

 

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 

藤原道長3
 

1019年、道長は病からの救いを求めるかのように出家し、日記から最後の一月はひたすら念仏を唱え続ける日々であったことが分かる。

政権の最高権力を手に入れた道長も、その晩年は一人のか弱い病人であった。

 

1027年、道長は61歳でこの世を去る。

 
 

 

後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、この間に、それまで長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

 
京都3
 

道長の天皇家との婚姻戦略は、政治的にだけではなく、文学の面でも平安を生み出したのである。




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三番組組長 斎藤 一

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斎藤は、山口祐助とますの子として生まれ、父の山口祐助は播磨国明石藩の足軽であったとされているが、戊辰戦争後の斎藤の会津藩との関わりの深さから疑問視もされている。

 

 

 

斎藤は19歳の時に、江戸小石川関口で旗本と口論になり、相手を斬ってしまうと、父と兄に旅支度をさせられ、すぐに京都へと旅立った。

 

 

京都に着くと、父の友人が開いていた聖徳太子流剣術道場主に身をかくす。

 



 

一方、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護役として募集され浪士隊が江戸から京都にやって来ると、浪士隊は壬生浪士組に名を変え、同日、京都で新たに隊士を募集すると、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主である松平容保の預かりとなった。

 

 

斎藤と近藤や土方との接点には諸説あるが、この入隊時が出会いというのが有力視されている。



 

新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。

 

後の組織再編成の際には三番隊組長となり、沖田や永倉らとともに新選組の撃剣師範を務める。

 

 

 

永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったといわれ、剣の腕はあの沖田に匹敵する強さであった。

 

壬生村2
 

斎藤は、土方からの信頼が特に厚く、新撰組内部での粛清役や暗殺役といったダークな仕事を数多く務める。

 

また、その土方からの信頼の厚さゆえに、スパイとして組織外に派遣されることもあった。

 

 

斎藤が謎に包まれている部分が多い人物でもあるのは、記録に残せない影の仕事に関わる機会が多かったたである。

 

 

 

 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の後、藤堂平助の仲介で才能豊かな伊東甲子太郎が新撰組に加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒した。

 

 

近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成すると、斎藤は、土方の指示で、この伊東の御陵衛士に潜入スパイとして参加する。

 

 

新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤がスパイとしてもたらした情報に基づいて計画・決行がなされた。

 

 

 

 
 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

小枝橋の戦い(鳥羽・伏見)
 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 

 

 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。

 

 

 

斎藤はいずれの戦いでも最前線で戦うが、銃撃戦がメインの戦闘では大きな活躍を見せることが出来ずに終わる。

 

 

 

近藤が流山で新政府軍に投降して板橋刑場で斬首されたあと、斎藤は、土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向う。

 

母成峠の戦い
 

斎藤ら新選組は、会津藩の指揮下に入り、白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加するが、劣勢に次ぐ劣勢により若松城下に退却する。


 

この時、大鳥圭介らと共に宇都宮城の戦いに参加するも敗走してきた土方と再開した。

 

 

その後、土方は庄内から北へ北へと転戦し北海道まで行くが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続ける。

 

会津藩
 

会津藩が新政府軍に降伏したあとも、斎藤は頑なに戦い続けるが、新撰組の雇い主であった松平容保の説得に応じて投降した。

 

 

新撰組時代の斎藤が、土方から厚い信頼をおかれていたのは、こうした強情で信念が固いながらもリーダーには従順な一面があったことによると推測が出来る。

 

 

捕虜となった斎藤は、旧会津藩領の塩川や越後高田で謹慎生活を送った。

 

 

 

 

謹慎生活を終えた斎藤は五戸に移住し、元会津藩では超がつく名家の篠田家のやそと結婚するが、この結婚生活は3年ほどで終わってしまう。

 

その原因については、不明であり、単に離縁だったのか死別だったのかも分かっていない。

 

 

 

斎藤にとって二度目の結婚の相手も元会津藩の大目付であった高木小十郎の娘である時尾であった。

 

この結婚には、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務める。

 

斎藤と時尾は三人の男の子に恵まれた。

 

斎藤 一1
 

こうした斎藤に対する元会津藩の扱いから、冒頭の出自の定説に疑問視の声が多くなっており、斎藤は実は歴とした会津藩出身の武士だったのではないかとも言われている。

 

 

 

 

明治7(1874)7月、東京に移住し、警視庁に採用され、内務省警視局で警部補に昇任し、西南戦争に参加した。

 

大砲2門を奪取するなどの大活躍をし、その様子は東京日日新聞に報道され、斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与される。

 

 

その後、警視庁が再設置され、斎藤は麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治25(1892)に退職した。


 

警視庁退職時に、東京高等師範学校校長・高嶺秀夫(元会津藩士)らの推挙で、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の守衛長となる。

 

警視庁
 

明治32(1899)には東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務し、明治42(1909)に退職した。

 

 

 

そして、大正4(1915)928日、71歳で胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。永倉新八とほぼ同時期に死去したことになる。

 

 

 

 

新撰組ではスパイとして働く機会が多かったことから謎の多い人物であったが、長生きしたため、後年はいくらかの証言が残っており、刀での戦闘経験について「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです。」という証言を残した。

 

 

日本史上最強という解釈もできる沖田総司に匹敵する強さであった斎藤の証言だけに、これが剣術のシンプルにして極意なのかもしれない。

 

 

 

また、子ども達には「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる。」と説教するのを常としていた。

 

 

まるで、老いてなお、時代が変わってなお、ただ一人新撰組であり続けたようである

二番組組長 永倉 新八

永倉 新八700x1000



永倉は、松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として、松前藩上屋敷(現在の東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。

 

 

8歳頃に岡田利章の神道無念流剣術道場である撃剣館に入門し、18歳で本目録となった永倉は、剣術好きのあまり松前藩を脱藩し剣術修行の日々を送った。

 

 

その流れで近藤勇の天然理心流の道場である試衛館に現れると、近藤と意気投合し、試衛館に居着くようになる。

 

 


 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、永倉は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていった。

 

壬生村2
 
の後、芹沢は暗殺され、新撰組は近藤主導の隊となるが、永倉は芹沢暗殺の相談を土方などから受けていなかった可能性がある。

 

 

芹沢暗殺の実行者は4名で、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助という試衛館メンバーであったという説が有力であるが、残る永倉以外の試衛館メンバーは、行動を知らないわけがないリーダーの近藤勇、試衛館では近藤よりも兄弟子になる最年長の井上源三郎、行動の賛否に大きく意見を持っていなそうな藤堂平助であった。

 

 

仮に土方らが永倉には相談していなかったとして、考えられる理由は、義と徳を重んじ頑固者である永倉に反対されると話がややこしくなると思われたことや、永倉と芹沢が神道無念流の同門でそれなりに仲が良かったことが考えられる。

 

 


 

永倉の意はとにかく、芹沢がいなくなり近藤勇主導の組織となった新撰組は、その勢いを増していき、永倉は二番組組長や撃剣師範を務めるなど活躍することになっていく。

 

池田屋跡
 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入し、沖田が持病発生で倒れ、藤堂平助が負傷して離脱する中で、永倉は左手親指に深い傷を負いながらも防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。

 

 

 

新撰組が出世して、身分の高くなった近藤の振舞いに変化が出始めると、頑固者で義と徳を重んじる永倉は、度々、近藤や土方と衝突するようになっていく。

 

 

しかしながら、沖田の病状が悪化すると、沖田の分まで前線部隊として働くなど、意見は言うものの仕事はしっかりな男であった。

 

 

 

 

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 

この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、負傷していた近藤の代わりに、土方と共に新選組を指揮して戦った。


永倉新八1
 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。

 

 

この直後、近藤や土方と今後の展望や進路で意見が分かれ、原田左之助らと共に隊を離れた。

 

 

 


 

近藤らと分かれると、永倉は靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で新政府軍と抗戦するが戦局は不利で、米沢藩にかくまわれることになる。

 

 

米沢藩滞留中に、会津藩の降伏を知ると、永倉はもはや新政府軍に抗う術なしとみて江戸へ帰還した。

 

 

 

 

その後、永倉の大叔母である長倉勘子(永倉ももとは長倉姓)12代松前藩主・資廣の側室であった縁もあり、松前藩への帰参が認められるという寛大な処置を受ける。


 

永倉新八29歳、蝦夷地はまだ戦火のなかにあったが、永倉にとっての新選組に終止符が打たれた。

 

北海道
 

永倉は、藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して杉村家の養子に入ると、北海道に渡るが、その後42年間で北海道と東京で11回転居する。


そして、そのほとんどを剣術の師範として身を立てた。

 

 


 

晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通い「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた。」と生き延びた事を喜んだという。
 

 

永倉新八2

それでも、やはり、あの新撰組の幹部であった男の迫力はいつまでも健在だったようで、ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれるが、永倉は眼光の鋭さでヤクザを怯えさせて退散させた

一番組組長 沖田 総司

沖田総司700x1000


天使の心を持った殺人鬼、沖田総司は、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎とミキの長男として、江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)で生まれた。

 

2人の姉がおり、両親とは3歳前後で死別したといわれている。

 

 

 

9歳頃、近藤や土方のいる天然理心流の試衛館の弟子となり、若くというより幼くして試衛館塾頭を務めていた。

 

 

 

日本史上最も人を斬った新撰組という組織において、最も剣の腕がたったと言われる沖田は、日本史上最強の男であったという解釈も出来なくはない。

 

 

そんな沖田の強さのルーツは天然理心流にこそあった。

 

試衛館
 

 

幕末というのは、実戦と剣術の乖離が大きくなって久しいと言われていた時代である。

 

 

武士が刀で斬り合うという機会が大きく現象する一方で、武士のたしなみとして剣術の修練は逆に熱心にされていた。

 
 

であるが、しかし、修練に使われた竹刀は刀より圧倒的に軽く、この軽い竹刀を巧みにコントロールする技術が発達していく。

 
 

幕末の頃はすでに、軽い竹刀を操作しやすいように、現在の剣道と同じように、両手の間隔を開けて竹刀を握ることが一般化している。

 
 

日頃こういった練習をしていたので、この時代の武士はいざ実戦の場で刀を手にしても、そのように扱っていた。

 

 
 

ところが、実戦に通用する剣術を第一に考えていた天然理心流では、野球のバットを握るように両手の間隔を開けず、竹刀よりもはるかに重い刀を力強く扱えるような修練がなされていた可能性があり、その根拠として、現存する土方歳三が愛用した和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)が、バットのように握っていた痕跡が残っている。

 

  

実際に、江戸時代初期以前、竹刀が作られるようになる前は、刀をバットのように握るのが一般的であった。

 

刀の握り方
 

このように、沖田の強さの根拠は、新撰組隊士やその敵達の証言だけでなく、具体的な技術的背景からも検証することが出来る。

 

 

 

永倉新八は後年「練習では、土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた。」という証言を残す。

 

 

 

 

しかし、いくら強くても、親はなく男兄弟のいない、まだまだ幼さの残る沖田にとって、試衛館で共に汗を流す近藤や土方は本当の兄以上の存在であった。

 
 

 

 

 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、沖田は近藤や土方についていく形で、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

 

 

おそらく、この時、沖田に政治的な志はほとんどなく、近藤や土方と遠足に行くような気分であった。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していき、やがて新撰組は近藤勇主導の組織になるが、沖田は新撰組が近藤主導の隊に変わるための数々の内部抗争において暗殺実行者として働く。

 


その決定打となった芹沢鴨の暗殺にも実行者として加わった。

 

沖田総司2

 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入するが、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱する。

 

 

この頃から沖田は、兄貴分と慕う近藤や土方との時間がそう長くはないことを感じ始めていた。

 
 

 

 

 

総長の山南敬助が脱走した際には、たった一人で追っ手として向かうことを近藤と土方から命じられる。

 

沖田は山南が大好きであった。

 

隊規の局中法度で脱走は死罪である。

 

 

 

近藤や土方は、沖田の人生そのものような試衛館で、子どもの頃から一緒に過ごした兄貴分であるが、剣術の腕は沖田の方が上だった。

 

 

一方、山南には沖田にはない知性があり、数々の初めて訪れる土地で、その風土や歴史を解説してくれるなど、山南の知性は若い沖田の好奇心と向上心を存分に刺激した。

 

 

 

沖田は、土方と近藤が山南を見逃すために、自分一人に追いかけさせたのだと察する。

 

 

しかし、沖田が近江草津で山南を発見すると、山南は抵抗することなく、沖田の期待を裏切ってアッサリと新撰組の屯所に戻った。

 

近江草津

屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられ、その介錯は、山南たっての希望により沖田が果たすことになる。

 

 

 

 

 

沖田は、凄腕の新撰組一番隊組長としての顔とは裏腹に、いつも冗談を言っている陽気な人物で、暇な時は屯所界隈の子ども達と遊んでいる事が多かった。

 

 

山南に並び人当たりが良く、優しく無邪気な沖田は、まるで天使のようだと言われ、そんな沖田にとって、新撰組での人斬りの日々は、激しいストレスになっていたのかもしれない。

 

 

ただ、兄のように慕う近藤や土方が、自分の強さを頼りにしてくれることも素直に喜びを感じていた。

 

 

もしかしたら、こうした複雑な心理が、その行動を不安定にし、持病の悪化を早めていったのかもしれない。

 

 

沖田総司1
 

沖田は、体調の悪化とともに徐々に第一線で活躍することがなくなり、「鳥羽・伏見の戦い」には参加せず、江戸に戻ってからは幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれて療養生活を送る。

 

 

近藤が甲陽鎮撫隊として出陣する前に見舞いに来ると、沖田はただただ声を上げて泣き、あの無邪気な姿は見る影もなくなっていた。

 

 

近藤が板橋刑場で処刑されてからも、そのことを知らない沖田は「近藤さんはどうされたのでしょうね。お便りは来ませんか?」と寂しがっていたという。

 

 

 

 

そうして、近藤の死を知らぬまま、近藤の死から2カ月後、持病の労咳(結核)でその生涯を終えた。

 

 

没時年齢については生年が明確でないため2425歳という説が有力視されている

総長 山南 敬助

山南 敬助700x1000



山南の生い立ちについては断定できるものはないが、仙台藩を脱藩して江戸に出たという説が最も有力視されている。

 

 

江戸では小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流の千葉周作の門人となり、また柔術の腕前も高いまさに武人であった。

 


 

こうした武の腕を高めようとする山南は、近藤勇の天然理心流に他流試合を挑むが、相対した近藤に敗れ、この時、近藤の剣の腕前や人柄に惹かれた山南は、これ以後、試衛館の門人と行動を共にするようになる。

 

 

そして、試衛館には後の新選組中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。
 

試衛館
 

 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、山南は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組へと名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていた。

 


 

山南は、土方らと共に芹沢暗殺の実行者であったという説が有力視されている。


 

芹沢暗殺により新撰組が近藤勇主導の組織となると、山南の発言力と活躍も増していった。

 

 

 

インテリで剣の腕も確かな文武両道の山南であったが、剣豪揃いの新撰組においては、主に知性の方が重宝され、新撰組の頭脳として活躍する。

 

 

武骨な隊士達にとって山南の剣の腕はストレートな尊敬を集め、山南の豊富な知識は隊士達に大人としての知識欲を刺激し、山南は隊内での人気が非常に高かった。

 

 

また、山南は、心優しく温厚な性格から、壬生の女性や子供たちから慕われており、新撰組が過去のものとなった明治のはじめ頃まで、壬生界隈には「親切者は山南」という言葉が使われている。

 

 

この頃までの山南は新撰組で充実した日々を送っていたことであろう。

 

壬生村2

 

しかし、山南とは剣術の同門である北辰一刀流を学び、熱烈な尊王攘夷論者として高い学識を誇っていた伊東甲子太郎が新選組に入隊すると、新撰組は伊東に敬意を払う形で、山南より上位となる参謀という役職を新設した。

 

 

新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南にとって、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が現れたことにより、徐々に隊内での働き場所を失っていく。

 


 

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。

 

 

隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

 

 

 

近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。

 


 

しかし、山南の本心は、居場所のなくなった新撰組を出たいということよりも、居場所を失い生き甲斐を失ったという事に寄っていた。

 

山南の脱走は、半ば死を覚悟しての運だめしのような部分があったのかもしれない。

 

 


 

沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻る。

 

この時、山南と沖田がどんな言葉を交わし合ったのかは分からない。

 

しかし、沖田に追いつかれ、運だめしに敗れた時点で、山南は近藤と土方のメンツや、自分のような大幹部でも規則を破れば罰せられるという結果をもって、新撰組そのものの顔を立てる事を、決めたのであろう。

 


 

屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられる。

 

 

永倉は再度の脱走を勧め、手はずを整えようとするが、覚悟を決めていた山南は応じなかった。

 

 


 

死を覚悟していた山南は馴染みにしていた遊女の明里を身受け(当時の遊女は人身売買で店に在籍しているため、その遊女が一生の間に稼ぐであろう金を店に払うことで妾などとして買い取るシステムがあった。)し、自由の身となって故郷に帰れるように計る。

 

 

文武両道、武士としての美徳を備え、人間として一つの完成系に達していた山南は、恋に対しても誠実であった。

 

山南敬助1
 

死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。

 

 

介錯は山南たっての希望により、最も仲が良かった沖田が務めた

初代筆頭局長 芹沢 鴨

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芹沢は、水戸藩出身の浪士であるが、出自においては、いくらかの説があり、断定できるものはない。


 

剣の腕は、戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めた。

 

 


 

メンバーの一部が桜田門外の変という歴史的な事件を起こす玉造勢という組織に芹沢は参加し、尊王攘夷のために、豪商を周り、資金集めに奔走していたが、乱暴な手段が悪評を呼ぶ。

 

その恐喝まがいの資金集めがもとで、芹沢は牢獄生活を送ることになる。

 

 

釈放された芹沢は、国家国事のために尽くした事が元罪人という結果になった不満、持って生まれた我の強さと上昇志向から、その身を持て余していた。

 

 芹沢鴨
 

そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。

 
 

尊王攘夷への思いから罪人にまでなった芹沢は、天皇のいる京都で仕事することに、ガラに似合わず胸が躍った。

 

 

芹沢は、玉造勢の頃からの仲間である新見錦をはじめ、平山五郎・平間重助・野口健司などを従えて浪士隊に参加。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。

 

 

数の上では近藤派の方が多かったが、芹沢の持つ存在感と圧倒的な威圧感、それに高圧的な態度が、隊内で芹沢派の意見を強くしていた。

 

 

その結果、近藤と芹沢による局長二人体制を望む近藤派の主張を退け、壬生浪士組は芹沢・近藤・新見による局長三人体制および筆頭局長が芹沢という形になる。

 

 

 

 

壬生浪士組は会津藩の預かりという形になっていたが、当初は給金の支給がほとんどなかった。

 
 

そのため芹沢は、大阪の商家などから恐喝まがいの資金集めを、隊のため自分のため率先する。

 
 

しかし、このような事は会津藩の評判に関わるので、これに困った会津藩は壬生浪士組に対して正式に手当を支給することになり、芹沢の乱暴狼藉はやり方はとにかく、壬生浪士組の運営を安定させるという結果を出したのは確かであった。

 

壬生村2

隊でのヒエラルキーはトップに位置し、形はどうあれ結果を出し、生来の我の強さが増長する一方であった芹沢は、18636月、道ですれ違った大坂相撲の力士が、道を譲らなかったことに激昂して暴行を加える。

 

そこに力士の仲間が駆けつけ乱闘になり、力士側に死傷者が出る騒ぎとなった。

 

 

当時の常識的な感覚として、侍に道を譲らないことが無礼なのは確かであり、力士側も江戸からやって来た侍をなめていた部分があったことが想像でき、また、奉行所は力士側に非があると判断し、力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れるという結果になっている。


 

ただ、そういったことが考慮できるものの、やはり、この騒ぎも芹沢の我の強さを表していた。

 

 

 


 

芹沢の豪胆さを強いリーダーとして頼もしく感じる隊士もいる一方で、壬生浪士組で天下の大仕事をして近藤の出世を願う土方は反感を強めていく。

 

 

 

そんな折に、芹沢は、気に入っていた吉田屋の芸妓である小寅が、芹沢に肌を許さなかったことに立腹し、店を破壊すると主人を脅して、小寅とその付き添いのお鹿を呼びつけると二人を断髪させるなどの恥辱を与える。

 

 

 

 

芹沢がいては、新撰組の評判は悪くなり大きな仕事ももらえず、近藤を出世させることが出来なくなると考えていた土方は、厳しい隊の規律である局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込んだ。

 

八木邸・芹沢暗殺痕
 
 

18639月、芹沢は、平山五郎、平間重助と、それぞれのお気に入りの女と共に泥酔するまで飲み、それぞれ女と一緒に眠りにつく。

 

 

大雨が降る深夜、芹沢の寝ている部屋に4人の男が押し入り、一緒に寝ていた女のお梅もろとも芹沢はメッタ斬りにされる。

 

 

近くで寝ていた芹沢派の平間は逃亡に成功するが、平山は殺害された。

 

 

ただ一人、隊に残っていた芹沢派の野口健司は12月に切腹となる。

 

 

 
 

芹沢暗殺の実行者は諸説あるが、4名によるもので、確実視されているのが土方歳三と沖田総司、ほぼ確実に原田左之助、おそらく山南敬助とされている。

 

 

 

 

芹沢は、豪胆で横柄な人柄を伺わせるエピソードが残り、特に創作では手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれるが、分宿していた八木家の娘が夭折した際には、誰よりも率先して葬儀を手伝ったり、子ども達には面白い絵を描いて喜ばせたりしていたので人気があったという



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副長 土方 歳三

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土方は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で豪農の土方隼人と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれた。

 
 

土方家は多摩の豪農であったが、土方は、生まれる前に父を6歳の時に母を失っていた。

そのため、土方は、次兄の喜六とその妻なかによって養育される。

 

 

土方は幼い頃に、武士になったらこの竹で矢を作ると言って竹を植えたりするなど、武士になりたいという思いを幼い頃から抱いていた。

 
 

人一倍プライドの高い土方は、武士にペコペコするのが面白くなかったのかもしれない。


豪農として裕福な生活を送るよりも、金はなくとも武士のように威風堂々と生きることの方が、魅力的に思えたのだろう。

 

ヤンチャな少年期の土方はバラガキ(不良少年)と呼ばれていた。


土方歳三4

土方は、17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして郷里に戻ったという説もある。

 

後に京都で数多の浮名を流す土方の性分はこの頃から発揮されていたのかもしれない。

 

 

 

土方の姉のぶは、日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は近藤勇との親交厚く、自宅に剣道場を持っていた。


土方は、その道場に指導に来ていた近藤と出会い、天然理心流に入門する。


年齢も1歳違いと、歳近い土方と近藤は、この頃から非常に仲が良かった。

 

 


 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、土方は近藤についていく形で、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

 

幼い頃から武士になりたいと思っていた土方は、京都で武士らしい仕事が出来ることに期待を膨らませていた。

 

 


 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。

 

土方にとって新撰組は近藤主導の隊でなくてはならなかった。


 

それは、近藤がトップになることによって新撰組はより発展していくという確信と共に、人一倍プライドの高い土方には自分が慕う近藤が隊内で芹沢鴨と同列以下であることが気にくわなかったのかもしれない。

 

 
 

土方は後々、新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりを絶対化することに尽力し、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、同じように局中法度を大義名分に芹沢鴨を自らの手で暗殺した。

 
 

こうして、新撰組は土方の望み通り近藤勇主導の隊になる。

 

 

このように、ここまでも、そしてここからも、近藤が隊外での交渉などで新撰組の権威を高める一方で、新撰組という組織そのものをプロデュースしたのは土方であった。

 

土方は、局長である近藤の右腕として、剣豪揃いの新撰組で鬼の副長と恐れられる。

 

副長
 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名が倒幕派の浪士20名以上を発見して突入、近藤隊突入の知らせを聞いた土方は、現場に急行した後、戦闘に参加させる者と池田屋の周辺を防御する者に分けた。

 
 

その理由は、この夜に倒幕派の捜索をしていたのは新撰組だけではなかったからである。

 

 

騒ぎを聞きつけ現場に駆けつけてきた会津藩や桑名藩は味方ではあるが、土方は彼らを池田屋の中には入れないようにした。

 
 

それは、まだ立場の弱かった新撰組の手柄を横取りされないためである。

 

 

命懸けの激しい戦闘の中でも、様々な状況の分析を瞬時にし、最大の利益をつかむ土方らしい機転であった。

 
 

土方が池田屋事件の手柄を守っていなければ、新撰組の名声があれほど一気に上がることもなく、破格の恩賞も間違いなくなかったであろう。

 

 

 
 

土方は最盛期を迎えた新撰組を守るために度を越した非情さを貫く。

 

試衛館以来の盟友である山南敬助をはじめ、河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎などの幹部も局中法度を破った者は例外なく粛清した。

 

 

 

 

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
 

高瀬川堤での戦闘(鳥羽・伏見)
 

この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、土方は負傷していた近藤の代わりに新選組の指揮をとった。

 

 

 

 

 

そこから、流山で新政府軍に投降した近藤が板橋刑場で斬首されると、土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地(現在の北海道)に渡る。

 

 

旧幕府軍が箱館の五稜郭を占領後、土方は、松前城を陥落させ、江差を占領するなどの活躍をした。

 

五稜郭
 

その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねる。

 

  
 

186949日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。

 

 

土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦し連戦連勝を重ねるが、土方軍が死守していた二股口とは別の松前口が突破され、敵に逃げ道を塞がれる危険性が出たので、土方軍はやむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。

 

 

 

1869511日、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。


これによって、京都時代から土方になついていた新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立してしまう。
 

 土方歳三2

 

土方はわずかな兵を率いて出陣、箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。

 

側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。

 
 

34歳没。

 

 
 

 

その6日後、蝦夷共和国は新政府軍に降伏する。


榎本武揚や大鳥圭介は投獄の後に、新しい時代に必要な人材として政府要職に就く




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局長 近藤 勇

近藤勇の名前は、宮川勝五郎、嶋崎勝太、大久保大和などの時期も含め、ここでは「近藤」に統一して書きすすめます。


 近藤勇700x1000



近藤は、武蔵国多摩郡上石原村
(現在の東京都調布市)に比較的裕福な百姓の宮川久次郎と母みよの三男として生まれる。

 
 

父の久次郎は様々な英雄伝を近藤に読み聞かせていた。

 

そんな父の影響で、近藤は忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬し、後に新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束を真似たといわれている。

また、三国志の関羽に憧れ、それが強い男になりたいと思うキッカケにもなった。

 


 

 

近藤が15歳の頃、父が留守の時、家に強盗が押し入る。

 
 

やっつけてやろうと飛びだそうとした兄に近藤は「強盗は入ったばかりの時は気が立っているものです。立ち去る時の方が気が緩むので、そこでやっつけましょう。」と言う。

 

そして、強盗が立ち去ろうとした時に、近藤は兄と共に飛び出した。

 

ビックリして盗品を投げ捨てて逃げる強盗を、兄が追いかけようとすると、近藤は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったので良しとしましょう。」と言う。

 

 

このエピソードは、いざという場面での近藤の判断力と人間性の高さを表しており、近藤の剣の師匠である近藤周斎が養子に欲しがるキッカケにもなった。


試衛館
 

近藤は、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に所在する天然理心流の道場である試衛館に入門し、やがて、道場主である近藤周斎の養子となり、清水徳川家の家臣である松井八十五郎の娘つねと結婚したのち、天然理心流宗家四代目を襲名する。

 

 

上昇志向の強い近藤は、天然理心流に対する強い誇りを持ちながら、このまま田舎道場で人生を終えることを想像する度に晴れない気持ちになるのであった。

 

 


 

そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。


 

浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に参加を決めた。

 
 

浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。

 
 

 

京都に到着後、この浪士組のキッカケとなった清河八郎という人物が、勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。

 

協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。


 

これに対して近藤を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

 

 

近藤達は京都に残留し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木源之丞邸やその周辺に分宿する。



松平容保
  
松平容保
 

その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。

 

近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、結果「壬生浪士組」が結成される。

 

 

 

壬生浪士組はすぐに、近藤派と芹沢派の確執が色濃くなっていく。


この頃、隊の名前はついに「新撰組」となり、さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりも作られる。

 

 

近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、18639月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。

 

こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる。

 

局長
 

 

1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着した。

 

 

その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派の計画を知る。

 

その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐するというものであった。

 


 

尊攘派の計画会合が行われる日時を知った新撰組は、186465日、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。

 

 

近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、真夜中の戦闘が始まった。

 

新撰組で最も剣の腕が立つ沖田が、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱。

藤堂は、頭を守る鉢金をしめ直すところを斬りつけられ、出血で視界がままならず、戦線離脱。


 

新選組側は一時、近藤と永倉だけで戦うことになるが、土方隊が到着すると勝負は一気に決着に向かう。

 

 

尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助という才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。

 
 

そのため、専門家の間では、池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に倒幕派を刺激してしまい明治維新が早まったともいわれている。

 
 

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。

 

池田屋跡

この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。

 
 

この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。

 

 

 
 

池田屋事件の後、藤堂の仲介で新撰組に才能豊かな伊東甲子太郎が加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。


 

近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成した。

 

伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張。

 

 

近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。

さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。


 

この遺恨が後々、近藤の運命を左右する。

 

 
 

1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。

 

 


 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。


 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
 

とみのもりの遭遇戦(鳥羽・伏見)
 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 


 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。

 
 

近藤らは江戸に引き上げるが、会津において再起を図る計画を主張する永倉新八、原田左之助が隊を離脱。

 

 

 

 

近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。

 

 

しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思っていただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。

 

 

新政府軍は薩摩や長州といった新撰組が京都で取り締まった者達が占めているため、新撰組であることが発覚するかしないかで、隊士もろもろの処遇が大きく変わるため、近藤は意を決して、単身、新政府軍に出頭し、自らを「大久保大和」と名乗り、武装組織が新撰組とは無関係であることをアピールする。

 

近藤勇7

ところが、新政府軍の中に、かつて新撰組が暗殺した伊東甲子太郎の御陵衛士であった加納鷲雄、清原清がいた。

 

彼らによって、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚してしまう。

 

 

結果、近藤は、板橋刑場で斬首される。

33歳没。

 
 

首は京都の三条河原に晒された。

 

 
 

一方で、近藤が出頭して時間を稼いだことにより、残された隊士はそれぞれの運命に向かっていくことになる。




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