「劇団Camelot」は、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、紹介する猫のキャラクターです。


詳しくはカテゴリー「劇団Camelotとは? (総合案内)」をご覧ください。

世界の美女

マリー・アントワネット (ブルボン家の罪を背負わされたハプスブルク家公女)

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マリー・アントワネットの容姿について、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。


 

また、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べた。

 

 

 

1755112日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。

 

ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。

 

マリー・アントワネット1A

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとし、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)との政略結婚を画策する。

 

 

1770516日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。

 

 

結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。

 
 

もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。

さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。

 

 

宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。


 

ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。


その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。

 

マリー・アントワネット4A
 

アントワネットは浪費家で知られ、ギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていたが、ほとんど効果は無かった。

 

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 

ルイ16世
  
ルイ16

王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

 

アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた習慣であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。

 

 

アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。


 

そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。

 

こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。

 

 

1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。この事件は事実に反し、アントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。

 

ヴェルサイユ行進
 

1789714日、耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。

 

パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。


 

しかし、アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。

 

1791620日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。


 

フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。


 

一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、625日にパリへ連れ戻された。

 

この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。

 

 

 

1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。

 
 

息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。
 

シャルル・ルイ
  ルイ・シャルル

 

アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、17931016日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。

 

 

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。

 

 

処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。

 

 

死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。

 

 

ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。

 


 

 

現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。

 

そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。

 

 

また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。




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マリア・テレジア (ヨーロッパ最大勢力を指揮した若き母)

マリア・テレジア

 
 

1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。

 

神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

 

 

さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。

 

マリア・テレジア1
 

マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。


そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト
1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。

 

 

レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。

 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 

フランツ1世
  
フランツ1世

 

父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。

 

 

マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。

 

  

 

1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。

 

これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。

 

フリードリヒ2世
   
フリードリヒ2
 

この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。

一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。

 

 

 

オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。

 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。

 

若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。

 

 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。

 

 

 

1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。

 

 

その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。

 

マリア・テレジア3
 

マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。

 

ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 

皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。

 

 

1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。

 

また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。

 

 

 

 

プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。

 

オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。

 

しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。

 

プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。

 

喪服のマリア・テレジア
 
 

1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。

 

マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

 

 

マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。

 

そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。

 

 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。

 

 

1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。

 

 

 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。

 

 

死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。



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ベアトリーチェ・チェンチ (父から強姦されたのに死刑となった美少女)

ベアトリーチェ・チェンチ700x1000


1577
26日、ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。

 

家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼い弟ベルナルドがいる。

 

 

チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。

 

 

ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。

 


 

父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に暴力を振るい、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。

ベアトリーチェ・チェンチ1


ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。

 

その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。

 

 

フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。

 
 

フランチェスコは、美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに至高の喜びを感じていた。

 

 
 

ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えるも、なんの対応もされずに終わる。

 

 

フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の村にある「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という城に住まわせた。

 

 

フランチェスコの快楽を満たしてきた暴力は、告訴された逆恨みから憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。

 

ベアトリーチェ7

1598
年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。


 

怒りと恐怖が渦巻く現場で、ベアトリーチェ達は錯乱状態になり、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔った末の事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。

 


 

警察当局はバルコニーから転落して死亡した傷には不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。

遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。

 

 

フランチェスコの遺体は掘りおこして検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられるが、拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまうほどであった。

 

 

検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。

 


 

殺人の動機を知ったローマ市民が裁判所の決定に抗議したため、処刑はいったん延期されるが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため家族全員の死刑を取り消すことはなかった。

 

斬首2

1599
911日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送された。

 

最初に兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。

続いて義母ルクレツィアが斬首された。

 

そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。

 

まだ幼い弟ベルナルドは、財産の相続権を没収され、家族の処刑をしっかりと見せつけられた上で、死刑は免れ刑務所に戻された。

 

 

 

画家グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。

 

  

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

 

 

その後、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという噂がたった。

 

それはローマ市民のベアトリーチェを救えなかった事への懺悔という、ある種の人間の正義感がゆえに生まれたものかもしれない。



 

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ヒュッレム・ハセキ・スルタン (奴隷の立場から皇后へ)

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1506
年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。

 

ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。

 
 

生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。

 

 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。

 

slaveヒュッレム・ハセキ・スルタン1

奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。

その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。

 
 

買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。

 

 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。

 
 

イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。

 
 

ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。

 

 

ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。

 

奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。

 
 

皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。

しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。

 
 

そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン1

ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ
(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。

 

そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。

 

ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。

 
 

そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。

 

そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。

 

 

ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。

 

 

ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

スレイマン1世
  スレイマン1

この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン
1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。

 

 

しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。

  

大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。

 

 

ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 

後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。

 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 

 

真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。

 

それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。

 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン8

ヒュッレムはスレイマン
1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。

 

しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。


オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。

 

 

スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。

 

 

 

ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。

 

 

ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。


 

ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。

 

このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。

 

 
 

スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。

 

ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。

 

以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。

 
 

この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。

 

 

さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。

 

 
 

奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558418日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン2

ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと
2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。

 

 


 

ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。

 
 

スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。

 
 

これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。




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