レトロ
韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。
そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。
そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。
韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。
そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。
すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。
その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。
秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。
紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。
功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。
韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。
そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。
しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。
ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。
韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。
「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。
劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。
劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。
劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。
劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。
韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。
韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。
斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。
項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。
軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。
その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。
しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。
韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。
韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。
韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。
戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。
100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。
この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。
そして、紛れもなく韓信もその一人である。
紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。
故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。
しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。
韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。
紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。
警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。
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張良は、父も祖父も韓(現在の河南省北部、山西省南部、陝西省東部)の宰相(その国のNO.2格)を務めていた。
紀元前230年、史上初めて中国を統一する秦によって韓が滅ぼされる。
祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とし、弟が死んでも費用を惜しんで葬式を出さなかった。
張良は同志を求めて旅をし、始皇帝暗殺のための準備を整えると、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を襲う。
しかし、暗殺は失敗に終わり、張良は逃亡した。
始皇帝の命を狙った張良は全国指名手配となり、偽名を使って身を潜めることになる。
ある日、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げると、張良に向かって「小僧、取って来い。」と言いつけた。
張良は殴ってやろうかと思うが、相手が老人なので我慢して靴を取って来てやった。
すると老人は足を突き出して「履かせろ。」と言う。
張良はこみ上げる怒りをあきらめて老人に靴を履かせた。
老人は「お前に教えることがある。5日後の朝にここに来い。」と言った。
5日後、日が出てから、張良が約束の場所に行くと、すでに老人は来ており「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ。」と言い「また5日後に来い」と言って去った。
5日後、張良は日の出の前に、家を出たが、またすでに老人は来ていた。
老人は再び「5日後に来い」と言い残して去った。
5日後、張良は夜中から、約束の場所で待っていると、しばらくして老人がやって来た。
老人は満足気に「わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ。」と言うと張良に「太公望の兵法書」を渡して「これを読めば王者の師となれる。」と言い残して消え去った。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集められなかった。
ほどなく、張良は劉邦との運命的な出会いをする。
張良は、始皇帝暗殺に失敗し、兵を集めることも出来ない自分に対して、将の器がないことを痛感していた。
それでも秦打倒の夢を捨てられず、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説くも、誰からも相手にされないでいたが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、それらはほとんど無条件で採用されるようになる。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
劉邦がこの懐王の反秦軍に参加すると、張良は項梁に韓(張良の祖国)を秦から奪い、王を擁立する必要性を説き、劉邦と共に旧韓の城を十数城攻め取り、韓の公子であった成を韓王に擁立して韓を再興する。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
咸陽を目指す劉邦軍において、張良は様々な戦略を提案し、劉邦軍は最小限の被害で転戦していき、関中への一番乗りを果たす。
関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都・咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、張良は「秦が無道を行なったので、劉邦は咸陽に入城できた。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じになってしまう。」と劉邦を諫めた。
ここで劉邦に我慢をさせたことは、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、劉邦が多くの人々からの信用を集める一因にもなる。
一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。
項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。
その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。
劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。
項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会であったが、張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜ける。
秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。
関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。
張良は劉邦に、漢中に至る険しい山道を少しでも通り易くするための桟道を焼くように進言した。
項羽がどんな言い掛かりで劉邦の討伐を決めるか分からないので、道を焼いて通行困難にすることで反乱の意思がないことを示すことが理由である。
さらに張良は項羽に「劉邦は桟道を焼いており、項羽を攻めることは出来ない。それより斉(現在の山東省を中心した地域)で田栄らが背いています。」との手紙を出し、項羽は劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。
項羽は多くの不満を買っていたため、反乱は各地で続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力はさらに薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転しながら、紀元前203年、広武山(河南省)で数カ月に及ぶ膠着状態の末、両軍共に疲労の色合いが濃いため、和睦してそれぞれの根拠地へと戻ることが決定した。
ここで張良は、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言する。
疲弊している項羽軍も、戻って回復すればその強さが戻ってしまい、油断している今を置いて勝機はないと、張良は判断した。
劉邦はそれを受け入れ、韓信と彭越に援軍を要請するが、韓信と彭越はやって来ない。
それに対して張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないから。彼らは劉邦と項羽が争っているからこそ、自分に価値があることを分かっていて、争いが終わってしまえば自分達がどうなるのか不安なのだ。」と説明した。
張良の説明に納得した劉邦は、戦後に韓信を斉王に、彭越を梁王にすることを約束すると、戦後の立場に安心した韓信と彭越は劉邦のもとに馳せ参じる。
韓信と彭越の率いた軍勢、さらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、劉邦軍は60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰め、項羽と劉邦の長年の戦いは劉邦の勝利に終わった。
遂に項羽を滅ぼした劉邦は、紀元前202年、皇帝に即位して、恩賞の分配をし始めた。
張良は野戦での功績は一度もなかったが、張良なくして劉邦の勝利がなかったことは明白であり、3万戸の領地が与えられるはずであったが、張良はそれを辞退した。
張良が恩賞を辞退した理由は、秦に滅ぼされた祖国・韓の無念を自らの謀略で晴らす事が目的であったという純粋な面と、恩賞によって力を持つと後々、劉邦の粛清の標的になる可能性があることを理解していたからである。
権力を勝ち取った者が、権力を長期に渡って安定させるために、例え功労者であっても戦力を保有する者は粛清していくのは当然で、日本人に馴染み深いところでは徳川幕府が良い例であろう。
世知辛い話ではあるが、これを情に流されて怠ると、ほぼ確実に権力の寿命は短くなる。
実際に、劉邦はこの後、天下統一の最大の功労者の一人で戦後に斉王の地位を与えた韓信を皮切りに、彭越、英布と、戦上手で領地の大きい者を粛清していく。
もしも「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した(会議室で考えた戦略ではるか遠方の戦に勝利する、という意味)。」と劉邦に言わしめた張良が、広い領地を得て力を保有していたならば、確実に劉邦の粛清の対象となっていたであろう。
張良は元々病弱な面があったが、劉邦の開いた漢王朝が確立されて以降は、病気と称して家に籠るようになった。
しかし、劉邦の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏が自分の子である劉如意を後継者にしようと画策し始め、劉邦もその気になる。
すでに後継者となることが決まりかけていた劉盈とその母・呂雉(劉邦の正室)は危機感を抱いて、張良に助言を求めた。
張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗していた高名な学者達を、劉盈の師として招かせる。
劉邦は自分がたびたび招聘しても応じなかった学者達が劉盈の呼びかけに応じたことに驚き、学者達に理由を聞くと「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでしたが、劉盈殿下は徳も礼も備えているので応じました。」と答えた。
これにより、劉邦が劉盈の後継者としての器を改めて理解したため、呂雉(劉盈の母)は張良に深い恩義を抱き続ける。
張良は、劉邦の死の9年後、紀元前186年に死去した。
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樊カイの「カイ」の字は常用漢字でないため「哙」の字で表記しています。
樊哙は劉邦、蕭何、曹参と同じく沛(江蘇省徐州市)の出身で、劉邦とは幼馴染であった。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。
蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなると、それまで犬の屠殺業をしていた樊哙もこの反乱軍に加わった。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
咸陽を目指す劉邦軍において、勇猛果敢な樊哙は大いに存在感を示し、劉邦軍は関中への一番乗りを果たす。
一方で、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。
項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。
その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。
劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛のために付き従っていた樊カイは中に入ることは許されなかった。
項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。
しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。
劉邦をここで絶対に殺しておくべきだと考えていた范増は、煮え切らない項羽の態度に痺れを切らして、部下に宴会の余興として剣舞を踊らせ、劉邦の近くによった時に斬るように命じる。
宴会場の状況を知った樊哙は、制止する兵士を突き飛ばして宴会に乱入すると、樊哙の迫力に気を取られて剣舞が止まった。
項羽が樊哙を試すように、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊哙はそれを一気に飲み干し、次に項羽が豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊哙は盾をまな板にして剣でその肉を切り刻んで食べ尽くす。
ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊哙は「秦王は暴虐で人々を苦しめた。懐王は諸将に、先に咸陽に入った者を王にすると約束した。劉邦は先に咸陽に入ったが、宝物の略奪もせず、項羽の到着を待っていた。功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではないのか。」と項羽に訴えた。
これに対して項羽は、返す言葉がなく「それほど劉邦が心配なら、ここに座って守っていても良い。」と、完全に劉邦を殺す意思のないことを示す。
腕っぷしも度胸も豪傑そのものの樊哙がいなければ、間違いなく劉邦の命はここで終っていた。
その後、劉邦と樊哙は宴会を脱出し、張良が残って、劉邦が先に場を後にしたことを詫びる。
この後世に語り継がれる宴会での出来事を「鴻門の会」と呼ぶ。
劉邦は命拾いするものの、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。
関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる
一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて出撃し、項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。
劉邦が天下統一を果たすと、樊哙は数々の戦場での武勲に加えて「鴻門の会」で劉邦の命を救ったことから、臨武(湖南省郴州市)侯を任された。
紀元前196年、樊哙は、謀反を検討した韓信に同調した鉅鹿(河北省邢台市)太守・陳キを討伐する。
豪傑としてのイメージが強い樊カイは、価値観や道徳観にも真っ直ぐなところがあり、もともと遊び人で怠け癖があり欲に流されやすい劉邦を度々いさめて支え、紀元前189年に死去した。
また、樊哙の妻・呂シュ(りょしゅ)は、劉邦の妻・呂雉の妹であることから、劉邦の死後も王室の樊哙への信頼は厚かったが、樊哙の子・樊伉は呂雉の死を機とした政変により殺される。
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曹参(そうしん)は劉邦と同じ沛(江蘇省徐州市)の出身で沛の役人として働いていた。
また、共に劉邦の天下統一を支える蕭何(しょうか)は、この頃の上司である。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、曹参と蕭何らは沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。
沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。
しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
以降、曹参は劉邦軍の最前線で戦場に出る。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
咸陽を目指す劉邦軍において、曹参は各地を転戦してその攻略に大いに貢献し、劉邦軍は見事に関中への一番乗りを果たす。
しかしながら、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。
紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。
関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。
一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
大敗北を喫した劉邦はケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込んで籠城をし、曹参は韓信と共に、項羽に寝返った魏・代・趙・斉などの諸国を攻めて、次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。
斉への攻撃の際には、韓信が川の水を上流で堰止めするが、敵軍は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が敵兵を一気に呑み込んだ。
曹参はそこから逃亡をはかる敵の副将・周蘭を生け捕る手柄を立てる。
項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。
皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において蕭何を戦功第一に選んだが、数十箇所の傷を負いながらも前線で戦い続けた曹参を推す声も大きかった。
さらに曹参は斉国の相国(臣下としての最高位)として、斉王を任された劉邦の子・劉肥を補佐することになる。
攻略に苦戦し安定の難しかった斉は七十余城を数える大国であり、曹参がその重要な土地を任されたのは劉邦からの信頼が厚く功績が多かったからであった。
曹参は劉邦が漢王朝を開いてからも、12万の軍勢を率いて反乱を起こした英布と戦うなど戦場で功をあげる。
また、曹参は戦場以外でも勉強熱心で、長老や学者に人民を安定させる方策を訊ね、葢公という思想家の意見を採用して斉の統治を行い、有能な人材の登用にも力を入れ、9年かけて斉を安定させ、賢相として称えられた。
紀元前193年、蕭何は死ぬ間際に自分の後継に曹参を推薦し、曹参は漢の相国となる。
曹参は、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更せず、役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を部下に選び、言葉や文章が苛烈で名声を得たがる役人は側に置かなかった。
イノベーションあふれる者は、どんなに優秀であっても安定期の帝国にとっては安定を揺るがす存在になる。
戦争に勝つための人材と、戦後の安定をはかるための人材に求められる素養が大きく違うことを曹参は理解していた。
曹参は部下が小さな過失を犯したのを見ると、それを覆い隠し表沙汰にしないようにするなど、その仕事ぶりは緩いものになっていく。
恵帝(劉邦の子・劉盈で第2代皇帝)が、曹参の職務怠慢をいぶかって責めると、曹参は「陛下は私と蕭何はどちらが優れていると思われますか。」と言い、恵帝が「蕭何」と返答すると、曹参は「そのとおりです。劉邦と蕭何がすで天下を平定し、その基盤が出来ているので、我々はそれを遵守すれば良い。」と教えると、恵帝は納得した。
劉邦や蕭何が作り上げた漢王朝が、その後約200年の長きに渡って続いたのは、完璧なものをそのまま引き継いだからである。
その伝言ゲームの最も重要な引き継ぎ役になったのが曹参であった。
曹参は紀元前190年に死去した。
約200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。
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蕭何(しょうか)は劉邦と同じ沛(江蘇省徐州市)の出身で、若い頃から沛で役人をし、ポストは低かったが、その仕事ぶりは真面目で能率も良く、周囲の評価も高かった。
また、共に劉邦の天下統一を支える曹参(そうしん)は、この頃の部下である。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、蕭何は曹参らと沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。
沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。
しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
以降、蕭何は劉邦軍における内部事務の一切を切り盛りする。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
蕭何は劉邦軍の食糧調達を担当し、これを絶やすことがなかったので、劉邦軍の兵士達は略奪に走ることがなく、劉邦軍は攻略した土地に対して蛮行を働かないという評判を生み、それが多くの無血開城を実現させていく。
劉邦が項羽よりも先に関中入りし、咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何ただ一人、秦の歴史書、法律書、人口記録などが保管されている文書殿に走り、それら全て持ち去る。
そのためこの後、遅れて関中入りした項羽が宮殿を焼き払うが、蕭何が持ち去った貴重な文書は燃えることなく、それらは後々、劉邦が漢王朝を開く際に大いに参考となった。
結局、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。
紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。
関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。
劉邦が漢王になると、蕭何は丞相(NO.2格)として内政の一切を担当することになった。
それからまもなく、韓信が劉邦軍に加わる。
韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えしてきたのだが、韓信は家柄もなく項羽軍では雑兵で実績もないため、劉邦軍でも活躍の場が与えるのは難しかった。
そのため、韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて去ろうとするが、蕭何は韓信に計り知れない才能を感じて「自分が韓信を劉邦に推挙して、駄目であれば、私も漢を捨てる。」とまで言って引き止める。
劉邦は蕭何の推薦を受け入れ、韓信を大将軍へと大抜擢した。
劉邦がなんの実績もない韓信の能力に期待するための唯一の材料は蕭何への信頼だけで、それはつまり、蕭何なくして軍事の天才・韓信は歴史の表舞台に立つことはなかったのである。
一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
蕭何は関中に留まって、関中から戦地の劉邦軍に向けて食糧と兵士を送り続け、それを途絶えさせることはなく、劉邦軍を後方から支える。
しかも、関中での治世において、民衆の不満を買うことなく名丞相として称えられた。
項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。
蕭何の送り続けた食料と兵士がなければ、そして、根拠地である関中が安定していなければ、劉邦が負け続けてもなお最終的には勝利することもなく、さらに戦場で大活躍した韓信を雑兵から大将軍へ押し上げたのは他ならぬ蕭何であった。
皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を戦功第一に選ぶ。
皇帝となった劉邦が漢王朝(前漢)を開くと、蕭何は長年続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事した。
紀元前196年、蕭何は韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出して誅殺する。
韓信は用心深い性格であったが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたゆえの油断であった。
軍事の天才・韓信が反乱を起こせば、劉邦には大きな困難が待ち受けていたはずであるが、それを水際で防げたのは蕭何という存在あってである。
しかし、やがて劉邦の猜疑心が蕭何にも向き始めた。
蕭何は長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できるため、危険視される。
そのため、蕭何は汚く金儲けをしたり、わざと自らの評判を落とすことにより、劉邦に反乱の可能性を感じさせないようにした。
劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなる。
跡取りに恵まれにくかった蕭何の家系は何度も断絶するが、歴代の皇帝は蕭何の王朝への功績が大き過ぎるため、血の繋がる者を見つけ出しては位を与えて家系を継続させた。
約200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。
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項氏は代々、楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄であった。
項羽は両親を早くに亡くしていたので、叔父の項梁に養われる。
後々の項羽からすると想像しがたいが、幼少期の項羽は勉強が苦手で剣術の覚えも悪く、項梁がそのことを叱ると、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にするものがやりたい。」と言ってのけた。
項羽は成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主となり、異常な迫力と威圧感に満ちていた。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起き、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていくと、項羽は項梁に従って会稽郡(現在の浙江省紹興市)の役所に乗り込み、たった一人で数十名の役人を皆殺しにし、叔父の項梁が会稽の長となり、反秦軍に参加する。
その後、反秦軍の有力者となった項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
項梁の死後すぐに楚軍の指揮をとったのは宋義という人物であったが、項羽は宋義を殺害し、以降、楚軍の総大将は項羽となる。
項羽は鉅鹿(現在のケイ台市平郷県)で、叔父・項梁を戦死させた章邯が率いる20万の大軍と戦う。
項羽は、章邯軍の食料運搬部隊を襲い、敵の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させ、味方に対しては川を渡った後に三日分の食料のみを与え、残りの物資は船もろとも沈め、三日で決着がつかねば全滅あるのみという状態に追い込んだ。圧倒的に数では劣る項羽軍は一人で十人の敵を倒して、この決戦に勝利する。
人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。
項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、20万以上の秦兵を捕虜として得ると、これらを全て生き埋めにした。
項羽が20万人もの捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由が大きかった。
戦争とは食料問題との戦いである。
軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、人間は食べなければ斬られずとも死ぬ。
項羽のこの問題への解答は、おそらく少数精鋭だったのではないかと考えられる。
一人で10人殺せれば、食料は10分の一で済むという、戦術的にも戦略的にも合理性・効率性を求めたのではないだろうか。
項羽軍は常軌を逸した戦闘能力で連戦連勝を重ねながら咸陽を目指すが、別働隊として咸陽を目指していた劉邦軍が先に関中に入っていた。項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとする。
劉邦は慌てて項羽の伯父・項伯を通じて和睦を請い、項羽は劉邦を殺す予定で酒宴に招き、軍師の范増は酒宴中に度々劉邦を殺すように項羽をうながす。
しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていく。
ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒した。
その後、項羽は、先に関中入りした劉邦に降伏していた子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。
項羽はそのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。
紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなう。
この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものとして関中に一番乗りした劉邦に約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えた。
この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。
また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。
項羽は秦を滅亡させても中国を安定させることは出来ず、斉(現在の山東省)の田栄が項羽に対して反乱を起こすと、これをキッカケに領地分配に不満を抱いていた諸侯達が続々と反乱を起こす。
僻地で漢王にさせられていた劉邦は、項羽の懐王殺害を知ると、項羽の非道さを有力諸将に訴え、相次ぐ項羽への反乱の火を煽り、項羽への不満をまとめあげていく。
項羽は討伐軍を率いて各地を転戦し、圧倒的な戦闘力ですぐに反乱は鎮圧されていくが、そこから間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその討伐に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するという状態が続いた。
そのため、項羽は劉邦の動きに対する意識が希薄になっていき、さらに、味方だと安心していた英布に何度も応援要請をしては仮病を使われ、最終的にはその英布は劉邦の側についてしまう。
劉邦は有力諸将と連合して、56万の大軍勢で、項羽が留守にしている彭城を占領する。
激怒した項羽は3万の精兵のみを率いて猛スピードで彭城に引き返し、なんと劉邦の56万の大軍を打ち破り、劉邦を敗走させ、劉邦の父や妻を捕虜にとった。
その後、項羽は劉邦を何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、さらに別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなり、加えて内部分裂工作も起きて疑心暗鬼になった項羽は有能な部下を疑い、父についで尊敬する人とまで呼んでいた軍師・范増との関係も悪化させる。
劉邦が天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固めると、項羽軍は道の険しさから一気に攻め入ることが出来ず、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。
そうして、項羽軍の最大かつ致命的欠点である食料問題が表面化する。
項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫るが、劉邦に「殺したら煮汁をくれ」と返答された。
次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦にこれを笑い飛ばされる。
そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。
紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦して故郷に帰ることを決める。
しかし、劉邦は和平の約束を破り項羽の後背を襲ってきた。
疲弊の極みにあった項羽軍はさらに背後をつかれ、これまでのように数的な不利を跳ね返せずに敗走し、再び多くの有力諸侯を味方につけ60万にも膨れ上がった劉邦の連合軍に垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。
ある晩、城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聴こえてきたため、項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。
ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。
その夜、項羽は愛人である虞美人(ぐびじん)に歌を贈った。
歌の内容は「かつて私の力は山をも動かす程強大で、気迫はこの世を覆い尽くすほどであったが、時勢は私に不利であり、もはや愛馬が前に進もうとしない事すら、どうにもならない。そんなことよりも、虞よ、虞よ、オマエをどうすれば良いのか。」
その歌を受けた虞美人は、項羽の足手まといにならないように自殺をする。
その後、項羽は手勢800騎を率いて、連合軍の包囲網を超人的な戦闘力で突破するが、東城(現在の安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。
そこで数千の劉邦軍に追い付かれた項羽は、配下の28騎を七騎ずつ4隊に分けて、それぞれ敵軍の中に斬り込んでいく。
項羽は一人で100人近い敵兵を鬼神のごとき強さで殺し、項羽とその配下が再び集結すると、脱落したのはわずか二人だけであった。
そこから、項羽たちは、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮)に至った。
川の先には、かつて項羽たちが決起した江東の地がある。
烏江の役場長は項羽に「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません。」と告げた。
しかし、項羽は笑いながら「昔、江東の若者8000を率いて川を渡ったが、今ここに、その時の者は一人もいない。江東の者達が、再び私を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がどこにあろうか。」と断ると、馬を降り、配下の者達にも下馬させて、そのまま劉邦軍を迎え撃つと、項羽一人で敵兵数百人が殺す抵抗をみせる。
項羽は敵の中にかつて自分を慕っていた同郷の呂馬童がいるのを見つけると「劉邦は私の首に千金と万の邑を懸けていると聞く、お前にその恩賞をくれてやろう。」と言うと、自ら首をはねて死んだ。
その結果、項羽の死体は五つに分かれ、劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して与えた。
劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、礼を以て葬った。
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中国史上、最も壮大でドラマチックな戦いといっても過言ではない項羽と劉邦の覇権争いは、当時の中国を治めていた「秦」という国の圧政を打倒することから始まった。
「期日に間に合わない自分達は問答無用で斬首である。どうせ死ぬのならば名を残して死ぬべきだ。そもそも同じ人間である王侯将相に我々の命を奪う権利はないはずだ。」
これは、いき過ぎた厳罰は抑止力と成り得ない事を後世に伝えた出来事でもある。
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