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ブリティッシュショートヘア

水野 忠邦 (佐賀)

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1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。

 

兄・芳丸が早世したため、忠光が唐津藩の世嗣ぎとなり、1812年に父・水野忠光が隠居すると家督を相続した。


唐津
 

唐津藩の表向きの石高は6万石とされていたが、実際の収入は20万石ほどあり、この税金の対象となる6万石の3倍以上もの収入からなる隠し財産が、後に忠邦を出世へと導く。

 

 

忠邦は幕閣(江戸幕府の最高首脳部)として昇進する事を強く望んでいたが、唐津藩に課せられた長崎警備という特別な任務から長崎を長期間離れることができず、そのことが出世への障害となるため、忠邦は蓄財のしやすい唐津藩を捨て、警備の負担がなく出世のしやすい浜松藩に目をつける。


長崎
 

とはいえ、移りたいからといって簡単に国替えがなるものではないため、忠邦は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の側近である水野忠成が同族である縁と、唐津藩で貯めた金を賄賂に使い、1817年、見事に浜松藩への国替えを成功させた。

 

浜松

さらに忠邦は、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の最上位に位置し、最終的に老中まで昇りつめることも可能なエリートの証である寺社奉行となる。

 

 

唐津藩から浜松藩へ領地を替えることで、実収入が大幅に減ってしまうため、忠邦は家臣達の猛反発を受け、国替えを止めるために自殺する家老までいたが、その後に忠邦が幕府の重臣となっていき、逆に賄賂を受け取る立場となっていったことで家臣達の不満は緩和されていった。

 

 

賄賂に賄賂を重ねた忠邦は、1825年に大阪城代に、1826年には京都所司代へと絵に描いたような出世コースを歩み、1828年に江戸城・西丸老中になると、1834年には江戸城・本丸老中へと出世し、ついに1839年、老中首座(老中の最高位)の座を手に入れる。

 

江戸城・本丸
 

1833年の大雨による洪水や冷害による大凶作をキッカケに1839年まで続いた「天保の大飢饉」は、特に東北地方の被害が大きく、その中でも仙台藩は米作に偏った政策を行っていたため被害は甚大で、この江戸三大飢饉のひとつに数えられる危機は、作物の商業化を強めて農村に貧富の差が拡大した。

 

 

この「天保の大飢饉」の影響で、貧困の百姓が多く餓死し、打ちこわしや百姓一揆が度重なり、これらの対策によって幕府は毎年60万両もの赤字を出し続ける。

 

天保の大飢饉
 

老中に昇りつめた忠邦も当初は、将軍・徳川家斉が実権を握っていたため、思うように政治を動かすことは出来なかったが、1841年に徳川家斉がこの世を去ると、忠邦は江戸三大改革のひとつに数えられる「天保の改革」に乗り出す。

 
徳川家斉

  徳川家斉
     

忠邦は徳川家斉時代の贅沢な雰囲気を一掃するべく質素倹約をすすめ、衣食に関する贅沢品は厳しくチェックするのはもちろん、大人向けの挿絵の入った本なども禁止する「ぜいたく禁止令」を出し、庶民の楽しみの多くを奪う。

 

 

そして、江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返し、農村人口を増やすことで米の収穫を増やし、結果として幕府の年貢収入を増加させることを狙った「人返しの法」を出すが、そもそも農村で仕事が無い人々が江戸に出稼ぎに来ているため、彼らを田舎に返したところで米の収入が大幅に増えることはなかった。

 

 

当時、物価の高騰が庶民を苦しめており、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりである株仲間が物価高騰の原因であると考えた忠邦は、経済をもっと自由にすることで物価高騰が止まることを期待し「株仲間の解散令」を出すが、株仲間を中心として機能していた流通システムが混乱して逆に物価がさらに高騰する。

 

 

さらに、年貢収入の多い江戸や大坂周辺の大名達に他の領地を与え、江戸や大坂周辺の土地を幕府が直接おさめて財政収入を増やそうとした「上知令」は、土地を取り上げられることになる大名・旗本から猛烈な反発を受けて、結果的に取り下げることになった。

 

天保の改革
 

このように忠邦の「天保の改革」はどの政策も失敗に終わり、このことで幕府の脆弱さが垣間見えたことが、幕末の動乱へと繋がった面もある。

 

 

1843年、成功失敗以前に厳し過ぎる改革は多くの批判を呼び、忠邦は老中をやめさせられることになった。

 

しかし、1844年、江戸城本丸が火災により焼失すると、新たに老中首座となった土井利位はその再建費用を充分には集められなかったことから第12代将軍・徳川家慶に見限られ、その結果、徳川家慶は忠邦を老中首座に再任させる。

 
徳川家慶

  徳川家慶 


忠邦が老中首座に再任すると「天保の改革」時代に忠邦を裏切った土井利位は報復を恐れて自ら老中を辞任し、また「天保の改革」時代に厳しい市中の取締りを行った「水野の三羽烏
(鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤三右衛門)」でありながら「上知令」時に反忠邦派に寝返った鳥居耀蔵は全財産没収などに追い込まれる。

 

 

しかしながら、重要な任務を与えられるわけでもなかった忠邦は、ぼんやりとしている日々も多く、次第に頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤するようになり、さらに癪(近代以前、原因が分からない内臓疾患を一括してこう呼んだ)で長期欠勤した末に、老中を辞職した。

 
水野忠邦1

その後「天保の改革」時代の「水野の三羽烏」による明確な証拠がない厳しい取り締まりなどが追求され、忠邦は家督を長男・水野忠精に相続させたうえで出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられる。

 
水野忠精
  
水野忠精

さらに「水野の三羽烏」の渋川敬直は豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首となった。

 

 

どん底の陥っていた幕府財政を立て直すために改革に意気込みながらも、その全てが失敗に終わった忠邦は、1851年に56歳で病死する。

 


厳し過ぎた改革は、システム的な失敗以上に、多くの反感から協力を取り付けることを困難にした。


度重なる失敗を経験しながら最終的に「享保の改革」を成功させた徳川吉宗との差は、将軍でなかったことに加え、人間の感情を無視し過ぎたゆえかもしれない。




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毛利 元就 (広島)

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1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。

 

出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。

 

 

1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。

 
多治比猿掛城


1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元が酒毒が原因で死去。

 

元就はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出され、元就はその哀れな境遇から「乞食若殿」と言われる。

 

 

この厳しい時期の元就を支えたのは養母の杉大方で、後に半生を振り返った元就は「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と書き残しており、杉大方が元就に与えた影響は生活や基本的な教育のみならず感性にも及んでいた。

 

 

1511年、杉大方は京都にいた元就の兄・毛利興元から元就の元服の許可を貰い、元就は「多治比元就」を名乗って分家を立てる。


毛利元就1

1516年、毛利興元が父と同じく酒毒で急死した。

父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場では自分は下戸だと言って酒を飲まなくなったという。

 

毛利家の家督は毛利興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少だったため叔父である元就が後見することになった。

 


毛利弘元、毛利興元と2代続く当主の急死、それを継いだ幸松丸はわずか2歳で、その後見役の元就が20歳、という不安定な毛利家の状況を好機と見た佐東銀山城主・武田元繁が吉川領(吉川氏は毛利氏と同様に大内氏を主家としていた)の有田城(広島県山県郡北広島町有田)へ侵攻する。

 

主家の大内氏が主力を京都に展開しており、援軍は望めない状況で元就は有田城救援のために出陣。

 
有田城
 

元就はこの自身にとって初陣である「有田中井手の戦い」で、まず武田軍先鋒で猛将として名高い熊谷元直の軍を撃破し、熊谷元直は討ち死にした。

 

有田城攻囲中の武田元繁は熊谷元直が敗れた知らせを聞くと怒りに打ち震え、有田城の包囲に一部の兵を残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍の迎撃に出る。

 

 

武田元繁は「日本の項羽(三国志の呂布を超える豪傑にして秦帝国を滅ぼした西楚の覇王。中国史を代表する人物の一人)」とも謳われた勇将で、小勢力の毛利氏や吉川氏には荷が重い相手と見られ、戦況も数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討ち死にすると武田軍は混乱して壊滅。

 

安芸武田氏は当主の武田元繁のみならず多くの有能な武将を失い退却することになる。

 

 

この「有田中井手の戦い」は西国の桶狭間と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大のターニングポイントとなり、毛利元就の名が世に知られるようになるキッカケであった。

 

有田中井手の戦い
 

1523年、鏡山城(広島県東広島市)で起きた尼子氏と大内氏による「鏡山城の戦い」で、大内氏側から尼子氏側へ鞍替えした元就は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始し、膠着状態となった戦況を巧みな智略で攻略し、その活躍から毛利家中での信望を高める。

 
鏡山城の戦い
 

この頃、元就は吉川国経の娘を妻に迎え、27歳で長男・隆元が生まれた。

 

また、毛利家当主である甥・幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子で重臣達の推挙もあったことから、27歳で毛利家の家督を継いで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に入城し、毛利元就と名乗ることになる。


吉田郡山城
 

ところが、元就が家督を継いだことに不満を持った坂氏・渡辺氏などの有力家臣団が、尼子氏の重臣・亀井秀綱の支援を受けて元就の異母弟・相合元綱を擁立して対抗したため、元就は相合元綱一派を粛清・自刃させることになった。

 

相合元綱は異母弟とはいえ元就との兄弟仲は良かったため、尼子氏の計略に乗ったことを恥じたという。相合元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられる。

 

家臣団の統率をはかるため粛清せざるを得なかったが、元就は相合元綱を亡くしたことを寂しがり、僧侶になっていた末弟・就勝(元就・相合元綱の異母弟)を還俗させると北氏の跡を継がせて側に置いた。

 

毛利元就2

家督相続問題をキッカケに元就は、尼子経久と敵対関係となっていき、1525年、尼子氏と手切れして大内義興の傘下となることを明確にした。

 

1529年、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐し、元就は高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。

 

 

一方、父・弘元が仲良くするようにと言い遺しながらも兄・興元の代で戦になった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、元就は宍戸元源に高橋氏の旧領の一部を譲り、1534年に元就の娘・五龍局を宍戸元源の孫・宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。

 

 

1533年、大内義隆が後奈良天皇に、元就の祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事にならって元就に官位を授けるように申し出た。

 

そして、これは元就が4,000(現在の貨幣価値で約500万円)を朝廷に献上する事で実現し、元就は推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果を得る。

 

1537年には、大内氏へ元就の長男・毛利隆元を人質として差し出し、さらに関係を強化した。


毛利元就3
 

1540年、大内氏と対立する尼子晴久(尼子経久の後継者)の尼子軍3万が吉田郡山城を攻めると、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000で迎え撃ったが、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この「吉田郡山城の戦い」に勝利し、安芸国の中心的存在となる。

 

そして、同年、尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏を滅亡させると、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

 

吉田郡山城の戦い
 

尼子氏が「吉田郡山城の戦い」で敗れたことにより、尼子氏側だった国人領主達からも大内氏側に付く者が続出し、大内氏のもとには尼子氏退治を求める声が強くなり、1542年、大内義隆は毛利氏などの諸勢力を引き連れて出雲国の月山富田城(島根県安来市)へ出兵する。

 

この「第一次月山富田城の戦い」は、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎて補給線と防衛線が寸断されたことにより、大内軍は敗走した。

 

この敗走中に元就は死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして奮戦して戦死したことにより、無事に安芸に帰還する。

 

 

この頃から元就は常に大大名の顔色をうかがう小領主の立場からの脱却を考えるようになった。

 
第1次月山富田城の戦い
 

1541年に「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけてくれた小早川興景が子もなく亡くなったため、竹原小早川氏の家臣団から元就の三男・徳寿丸を養子に欲しいとの要望があり、1544年、徳寿丸は強力な水軍を擁する竹原小早川氏へ養子に出される。

 

徳寿丸は元服後に小早川隆景を名乗るようになった。

 

 

1545年、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くし、特に妙玖が亡くなった悲しみは深く、後々まで手紙などに妻を追慕する内容を書き残している。

 

 

「第一次月山富田城の戦い」で裏切り行為をした吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、一族が分裂して家中の統制ができなくなり、吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。

 

さらに反興経派は元就の次男・元春を吉川氏の養子にしたいと再三の要求を出し、元就がこれに応じたことにより、家督を乗っ取る形で元春は吉川家の当主となる。

 

しかし、興経派を警戒していた元就は吉川元春をなかなか吉川家の本城へは送らなかった。

 

吉川元春は長男・元長が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていたが、1550年、元就の命で将来の禍根を断つため吉川興経とその一家が殺害されると、ようやく吉川元春は吉川氏の本城に入る。

 
吉川元春
   
吉川元春
 

また元就は「第1次月山富田城の戦い」で当主であった小早川正平を失った沼田小早川氏の新たな当主である小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させると、小早川繁平を出家に追い込み、元就の実子で竹原小早川氏の当主になっていた小早川隆景に沼田小早川氏も継がせた。

 
小早川隆景
  
小早川隆景
 

こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏には元就の次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏には元就の三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして両家の勢力を取り込み、毛利氏の勢力拡大を支える「毛利両川体制」が確立し、安芸一国の支配権をほぼ掌中にする。

 

毛利氏
 

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害させられ、養子の大内義長(豊後大友氏・大友義鑑の次男)が擁立され、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏の血統が絶え、西国の支配構造は大きく変化していく。

 

 

以前から陶晴賢と通じて安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた元就は、これを背景に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃した。

 

 

ところが、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は元就に支配権の返上を要求し、元就がこれを拒否すると、両者の対立が色濃くなっていく。

 
大内義隆
  
大内義隆
 

この当時、陶晴賢が動員できる大内軍3万以上に対して、毛利軍の最大動員兵力は40005000であったため、正面衝突すればとても勝算が無かった。

 

 

1553年、陶晴賢に自害に追い込まれた大内義隆に恩義のあった津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)主・吉見正頼が、陶晴賢に対して挙兵する。

 

吉見氏と陶氏の両方から加勢を求められていた毛利氏の家中は意見が割れるが、元就は大内氏からの離反・独立を決め、陶晴賢に対して反旗を翻した。

 

 

激怒した陶晴賢は即座に重臣の宮川房長に3000を率いらせて毛利氏攻撃を命じるが、元就はそれを撃破し、宮川房長は討ち死にする。

 

 

1555年、今度はついに陶晴賢が自ら2万~3万の大軍を率いて、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく出陣、しかし毛利軍の奇襲攻撃に苦しめられ、さらに厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利氏に味方し、退路を断たれた陶晴賢は自害することになった。

 
 

 

元就が大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破した勢いで周防(山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の両国攻略を計画すると、大内軍は蓮華山城・鞍掛山城・須々万沼城・富田若山城・右田ヶ岳城などに兵を配備して毛利軍を迎撃する準備を整える。

 

 

しかし、この頃、大内氏の家臣団の内部崩壊が進んでいたこともあり、大内軍は毛利軍の進軍を防ぎ切れず、大内氏当主・大内義長が自害に追い込まれたことで大内氏は完全に滅亡し、これにより毛利氏は九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

 

津和野城
 

1556年、元就は次男・吉川元春らを石見国へと進め、石見銀山防衛のため築城された山吹城(島根県大田市大森町)の刺賀長信を服属させて石見銀山を支配下に置くが、尼子晴久はすぐに山吹城と石見銀山を奪取すると、山吹城に本城常光を置いて石見銀山の守りを固める。

 

さらに、尼子氏と結んで毛利氏に抵抗する石見の有力豪族・小笠原長雄が石見攻略の大きな障害となっていた。

 

1559年、毛利氏が小笠原長雄の籠る温湯城(島根県川本町)を落城させ山吹城を攻撃した「降露坂の戦い」は、本城常光の奇襲とそれに合流した尼子晴久本隊の攻撃を受けて毛利氏は大敗する。

 

降露坂の戦い
 

1561年に尼子氏当主・尼子晴久が死去し、尼子晴久の嫡男・尼子義久が家督を継ぐと、1562年、元就は出雲侵攻を開始し、これに対して尼子義久が難攻不落の月山富田城に籠城して尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った「第二次月山富田城の戦い」において、元就は月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功した。

 

 

元就は大内氏に従って敗北を喫した「第一次月山富田城の戦い」を教訓に無理な攻城はせず、城内の食料を早々に消耗させ、それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘う策略を張り巡らし、1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久は降伏を余儀なくされる。

 

 

こうして石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼしたことにより、元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。

 
石見銀山
 

しかし、中国地方8ヶ国を支配した元就であったが、尼子氏残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入したり、元就によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。

 

それらは毛利氏にとって厳しい時期となったが、吉川元春、小早川隆景ら優秀な息子達の働きにより乗り切ることに成功した。

 

 

 

1560年代の前半より度々体調を崩していた元就に対して、室町幕府将軍・足利義輝が名医・曲直瀬道三を派遣して治療に当たらせる。

 

その効果もあったのか、元就の体調は持ち直し、1567年にはなんと最後の息子である才菊丸が誕生した。

 
足利義輝
  
足利義輝

しかし、1571年、吉田郡山城において、死因は老衰とも食道癌ともいわれるが74歳で死去する。

 

 

毛利家の家督はすでに嫡男・毛利隆元に継承済であったが、隆元が1563年に亡くなっていたため、元就の孫・毛利輝元(隆元の嫡男)が継いだ。




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大石内蔵助 (兵庫)

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大石家は平安時代中期に平将門追討の功により貴族に成り上がった藤原秀郷の末裔小山氏の一族で、代々、近江国守護佐々木氏のもと栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)で現地の田荘などで実務を取りし切る下司職をつとめていた。

 
藤原秀郷
  
藤原秀郷

その後、大石氏は一時期没落するが、大石良勝(内蔵助の曽祖父)は大坂夏の陣での戦功が著しかったため、豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政の三男・浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の永代家老(武家の家臣団のうち最高の地位)に取り立てられ、浅野長重の長男・長直が赤穂に転封されると大石家も赤穂に移る。

 

赤穂城

1659年、内蔵助は大石良昭の長男として誕生し、1673年に父が34歳の若さで亡くなると、内蔵助は祖父・良欽の養子となり、内蔵助が19歳の時に祖父・良欽が死去すると、その遺領1,500石を受け継ぎ、21歳の時に正式な筆頭家老となった。

 

 

平時における内蔵助は凡庸な家老だったようで、昼行燈(ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉)とアダ名され、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたといわれている。

 

1686
年、内蔵助は但馬豊岡藩京極家筆頭家老・石束毎公の18歳の娘りくと結婚し、1688年には長男・松之丞(後の良金)を、1690年に長女くう、1691年に次男吉之進、また1699年に次女るり、さらに1702年には三男・大三郎(後に広島藩に仕える)をもうけた。

 

 

1694年、備中松山藩水谷家が跡継ぎが無かったため改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること)となった際、内蔵助の主君・浅野長矩(あさのながのり)が城の受取りを任じられたため、内蔵助は改易への不満から徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城(岡山県高梁市内山下)に単身入り、水谷家の家老・鶴見内蔵助を説得して無事に城を明け渡させる。


大石内蔵助3
 

1700年に浅野長矩が参勤交代(各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令)により赤穂を発ち、浅野長矩は1701年に、東山天皇の使者達の接待役を幕府より命じられ、接待の指南役は高家肝煎(江戸幕府における儀式や典礼を司る)の吉良義央であった。

 

 

1701421(元禄14314)、幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた「勅答の儀」が執り行われるはずであったが、この儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において、接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、脇差で斬りかかる。

 

脇差は本来突くほうが効果的であるため、浅野長矩は吉良義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、側にいた梶川頼照が即座に浅野長矩を取り押さえた。


 

浅野長矩は取調べで刃傷に及んだ理由を「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので、この事件の原因は真相不明であるが、最も有力とされている説は、賄賂をむさぼるのが好きな吉良義央に対して浅野長矩が賄賂を拒否したために辱められたという「賄賂説」で、映画やドラマなどではこの説を採用するものが多い。

 

 

朝廷との儀式を台無しにされた第5代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は大名としては異例の即日切腹を命じられ、さらにの赤穂浅野家はお家断絶となる。

 

一方で、吉良義央には何の咎めもなかった。

 

浅野長矩
  
浅野長矩

事件から2週間ほどで、次々と江戸から赤穂へ「刃傷事件」「浅野長矩切腹」「赤穂藩改易」といった情報が送られ、一通りの情報が揃うと、幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれるが、赤穂藩士の多くは喧嘩両成敗の武家の定法に反する幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持つ。

 

 

こうした中、内蔵助は城をあけ渡した上で浅野長矩の弟・浅野長広を立てて「浅野家再興の嘆願」および「吉良義央の処分」を幕府に求めることで藩論を統一し、篭城殉死希望の藩士たちから「義盟」の血判書(誓いの強固さを示すため血液で捺印する)を受け取った。

 
浅野長直
  
浅野長広
 

さらに内蔵助は、赤穂藩改易のため紙くず同然になる藩札(江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣)を六分替え(額面の6割交換)という高い率で幕府の正規の貨幣(金・銀・銅貨)との交換に応じ、城下の混乱をおさえ、家中が分裂する危険の回避につとめる適切な処置を行う。

 

 

また、内蔵助は「浅野家再興」と「吉良義央処分」を求めた嘆願を再三行うが、赤穂城受け取りの使者に任命された隣国の龍野藩藩主・脇坂安照と備中足守藩藩主・木下公定率いる軍勢に赤穂城を明け渡すこととなる。

 

 

赤穂城退去後の内蔵助は、遠林寺(兵庫県赤穂市加里屋)において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持(一人扶持=米5俵で、1日あたり5合の1年分)を支給された。

 
遠林寺跡
 

残務処理を終えた内蔵助は生まれ故郷である赤穂を後にし、家族とともに京都山科で隠棲する。

 
山科は、内蔵助の母方の大叔父にあたる進藤俊式(進藤家は公家である近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた)の親戚である進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地であった。

また、大津の錦織にいた母の叔父(阿波蜂須賀藩家老・池田玄寅)の子・三尾正長からの資金援助を受ける。


京都山科
 
そして、京都東山の来迎院(泉涌寺塔頭)の住職・卓巖和尚が大石家の外戚にあたり、内蔵助はこの人物を頼って来迎院の檀家(寺の会員のようなもの)となって寺請証文(寺院が檀家に対して発行した文書で身分証明書となった)を手に入れた。

 

こうして内蔵助は、山科の居宅と来迎院を行き来し、旧赤穂藩士たちと密議をおこない浅野家再興を目指す。


来迎院

この頃、浅野家遺臣達の意見は二つに分かれはじめる。

 

一つは奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之ら赤穂詰めの高禄取り家臣を中心とした「お家再興優先派」で、もう一つは堀部武庸・高田郡兵衛・奥田重盛ら江戸詰めの腕自慢な家臣を中心とした「吉良義央への仇討ち優先派」であった。

 

 

リーダーである内蔵助は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて「吉良義央への仇討ち優先派」にしかるべきタイミングを待つよう促すという立場をとる。


堀部武庸
  
堀部武庸

しかしながら、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸らからは再三にわたり江戸へ来るようにとの書状を送りつけられたため、内蔵助は「吉良義央への仇討ち優先派」をなだめるために原元辰・潮田高教・中村正辰・進藤俊式・大高忠雄らを江戸へ派遣するが、派遣した彼らは逆に堀部武庸に論破されて「吉良義央への仇討ち優先派」になってしまったため、内蔵助自身が江戸へ向かうことになる。

 

 

内蔵助は前川忠太夫宅(東京都港区三田)で堀部武庸と会談し、浅野長矩の一周忌での決行を約束した。

 

江戸での用事を済ませた内蔵助は京都へ戻り、盟約に加わることを望む長男・大石良金(おおいしよしかね)の参加を認める。

1702年、妻りくをはじめとする大石良金以外の家族を妻の実家である豊岡へ帰す。


大石良金
  
大石良金
 

そしてこの頃から内蔵助は、吉良家や上杉家(米沢藩の第4代藩主・上杉綱憲は上杉氏に養子入りした吉良義央の長男)の目を欺くため遊廓などでの遊びが激しくなった。

 

 

また、徐々に脱盟者も出始め、その一人は「吉良義央への仇討ち優先派」の中心人物であった高田郡兵衛だったため、面目を失った「吉良義央への仇討ち優先派」は発言力を弱らせ、内蔵助はこれをチャンスと「浅野長広(浅野長矩の弟)に浅野家を継がせるかどうかの幕府の判断が決まるまで仇討ちはしない。」ということを決定する。

 

 

しかし、吉田兼亮と近松行重を江戸に派遣して「吉良義央への仇討ち優先派」にその決定を伝えさせると「吉良義央への仇討ち優先派」は納得せずに堀部武庸が京都へ乗り込んで来た。

 

 

そして、ついに幕府は浅野長広が浅野家を継ぐことを認めず、浅野長広を広島藩お預かりとすることを決定し、これにて「お家再興」は絶望的となった。

 

 

お家再興が絶望的となり、幕府への遠慮が無用となった内蔵助は、堀部武庸なども呼んで会議を開催し、吉良義央を討つことを決定する。


大石内蔵助2
 

討ち入りを決定した内蔵助は、盟約の当初に提出させていた誓紙を一人一人に返し(神文返し)、死にたくない者は脱盟するようにと促すと、奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら「お家再興優先派」が続々と脱盟していき、最大で約120人いた参加者から約60人が脱落した。

 

 

内蔵助は軽部五兵衛宅(神奈川県川崎市幸区平間)に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発してから江戸に入り、息子・大石良金が滞在中であった日本橋近くの旅館・小山屋(東京都中央区日本橋本町)の裏店を拠点に定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手する。

 

 

また吉良義央の在邸確実の日を知る必要もあった。

内蔵助は1214日に吉良邸で茶会がある情報を入手し、この茶会の予定日が確かな情報と判断すると、討ち入りを同日夜に決定する。

 
吉良義央
  
吉良義央
 

122日に深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させ、討ち入り時の武器・装束・所持品・合言葉・吉良の首の処置などを事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない。」ことを確認し、これが最終会議となった。

 

 

 

1215日未明、47人の赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入る。

 

表門は内蔵助が大将となり、裏門は大石良金が大将を務めた。

2時間近くの激闘の末に、赤穂浪士達はついに吉良義央を探し出し、これを討ち果たして首を取る。


大石内蔵助4

見事に主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へと引き揚げると、吉良義央の首を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

 

 

その後、吉田兼亮・富森正因の2名が赤穂浪士一行と別れて大目付・仙石久尚の屋敷(東京都港区虎ノ門)へと向かい、自首手続きを行うと、幕府から石川弥一右衛門・市野新八郎・松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣され、内蔵助ら赤穂浪士一行は彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動する。

 


幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主・細川綱利の屋敷(東京都港区高輪)に預けられ、大石良金は伊予松山藩主・松平定直の屋敷(東京都港区三田)に預けられたため、この時が親子の今生の別れとなった。

 

細川綱利邸
 

仇討ちを義挙とする圧倒的な世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした将軍の御用学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの意見から切腹が決定し、赤穂浪士を預かっている4大名家に切腹の命令がもたらされる。

 
大石内蔵助の切腹

同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決定。

 

 

内蔵助は細川家家臣の安場一平の介錯で切腹し44歳で生涯を終える。

その亡骸は主君・浅野長矩と同じ泉岳寺(東京都港区高輪)に葬られた。




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朝倉 義景 (福井)

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1533年、越前国の朝倉氏第10代当主・朝倉孝景の長男として生まれ、この時、父・朝倉孝景は40歳で唯一の実子であった。

 

生母は若狭武田氏一族の広徳院(光徳院)といわれいる。

 

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。

 

一乗谷城
 

1548年、父が死去したため家督を相続して朝倉氏第11代当主となるが、当初は若年のため1555年までは一族の名将・朝倉宗滴に政務・軍事を補佐されていた。

 

 

朝倉宗滴の死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため、越前国は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、この当時の越前国を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。

 

 

 

1552年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ「義景」と改名し、左衛門督(鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していたが、源頼家なども歴任し、官職のなかでも武家に好まれた。)にも任官。

 

こうしたことは、父・朝倉孝景の時代に室町幕府での地位を高めたことに加え、衰退する室町幕府にとっては守旧的な朝倉家の力を必要として優遇された。

 

家紋朝倉義景
 

1565年、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合い、足利義輝の弟・足利義昭が幽閉先の奈良を脱出して近江国に移るように画策する。

 

 

その後、若狭武田家を頼っていた足利義昭が越前国に身を寄せると、義景はその来訪を歓迎した。

 

 

 

1567年、朝倉家の家臣・堀江景忠が、朝倉家と長年の対立が深刻化していた加賀一向一揆と通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、堀江家に攻撃をしかける。

 

堀江景忠は必死に抗戦をするが、結局、加賀国を経て能登国へと没落した。

 

一方で、加賀一向一揆とは足利義昭の仲介により和解が成立する。

 

加賀一向一揆
 

足利義昭は上杉謙信など諸大名に上洛(広義においては京都に入ることを意味するが、狭義では室町時代末期に足利幕府の将軍を保護することを意味した。)を促す書状を送ったが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。

 

 

足利義昭は義景にも上洛戦を求め、義景の館を訪問したり、さらに義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深める。

 

 

京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍の保護者となる事は、権威をもたらし、政治的影響力を高める事となるが、義景は嫡男・阿君丸が急死して悲しみにくれていたことなどもあり、足利義昭が望む上洛には冷淡であった。

 

 

義景がここでもし上洛していれば、天下を狙える可能性すらあったが、こうした決断力の鈍さが後々大きく運命を左右する。

 

結局、足利義昭は美濃国を支配下におき勢いに乗る織田信長を頼るため越前国から去った。

 

足利義昭
  
足利義昭
 

1568年、若狭守護・武田氏の内紛に対して、義景は当主である武田元明の保護という名目で介入し、若狭を支配下に置くが、武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗する。

 

 

 

この頃、足利義昭を将軍にした織田信長は、織田領である美濃と京都の間に突き出た位置関係となる越前国を治める義景を服属させる必要があったため、足利義昭の命令として2度にわたって義景に上洛を命じるが、義景は織田家に従うことを嫌い、さらに上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否した。

 

 

 

しかし義景の上洛拒否は、反意があるという言い掛かりから越前出兵への口実を織田信長に与え、1570年、織田信長・徳川家康の連合軍が侵攻を開始、天筒山城・金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)が織田軍の攻勢の前に落城する。

 

 

ところが織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、越前侵攻を不服として織田信長を裏切って急襲したため、前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥った織田信長は京都に撤退。

 

浅井長政
  
浅井長政
 

このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の最後尾部隊を率いた豊臣秀吉(この時は木下秀吉)の抵抗に阻まれ、織田信長をはじめとする有力武将を取り逃がし、再挙の機会を与えることになった。

 


 

1570年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川(滋賀県長浜市)で激突した「姉川の戦い」で、朝倉軍は徳川軍と衝突したが徳川四天王と名高い榊原康政に側面を突かれて敗北し、織田信長は浅井方の支城の多くを落とし、朝倉・浅井連合軍は非常に不利な立場に陥る。

 

姉川の戦い
 

織田信長が三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えた三好氏の一族・重臣だった三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3)および石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙に、義景は浅井軍と共同して織田領の近江坂本(現在の滋賀県大津市)に侵攻し、織田信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。

 

 

織田信長が軍を近江に引き返してくると、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺に立て籠もって織田軍と対峙し、小競り合いや合戦があるものの、足利義昭・二条晴良らの和睦の調停に応じて、両軍は講和することとなる。

 

この講和の際、織田信長は義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という書状を送っており、強敵として警戒していた。

 

織田信長
  
織田信長
 

織田信長が本願寺と交戦状態に入る(野田城・福島城の戦い)と、将軍・足利義昭は甲斐国の武田氏をはじめ近江国の浅井氏、そして越前国の義景らと織田信長包囲網を構築。

 

義景は、こうして織田信長包囲網の一角を担った本願寺の顕如の子・教如と娘の婚約を成立させる。

 

 

義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが敗退し、この後、織田信長は前年に朝倉氏に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

比叡山延暦寺
 

1572年、甲斐国の武田信玄が遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍が次々と城を奪われる。

 

それに対して織田信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で攻勢をかけるが、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)の豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)に阻まれた。

 

 

義景が部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退すると、武田信玄はそれに対して激しい非難を込めた文章を送りつける。

 

義景が再三の出兵要請に二の足を踏む間に、同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍が甲斐へと引き揚げたため、織田信長は主力軍を朝倉家に向けることが可能となった。

  

朝倉義景1
 

1573年、織田信長が3万の大軍を率いて近江に侵攻すると、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、決断力の弱さから数々の好機を逸してきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。

 

 

このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣するも、大嶽砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が織田信長の暴風雨を利用した電撃的な奇襲を受けて大敗する。

 

 

さらに丁野山砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が陥落すると、義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能となり、越前への撤兵を決断した。

 

しかし、撤退する朝倉軍は織田信長の追撃を受ける。

 

織田信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂(福井県敦賀市刀根)において壊滅的な被害を受けた。

 
刀根坂
 

義景自身は命からがら疋壇城(福井県敦賀市疋田)に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死。

 

 

義景はさらに疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、その間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。


疋壇城
 

さらに、朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半が逃走してしまい、義景の出陣命令に対して朝倉景鏡(あさくらかげあきら)以外は出陣して来なかった。

 

 

 

義景は一乗谷を放棄し、越前大野の東雲寺に逃れ、平泉寺(福井県勝山市)の僧兵に援軍を要請するが、すでに織田信長に懐柔されていた平泉寺は逆に東雲寺を襲ったため、義景は賢松寺(福井県大野市泉町)に逃れる。

賢松寺


一方、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ織田軍は、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火し、その猛火は三日三晩続き、朝倉家
100年の栄華は灰燼と帰した。

 

 

 

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃すると、ついに観念した義景は自害を遂げ、39歳で生涯を閉じる。

 

 

義景の首は織田信長の家臣・長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝され、血族の多くも織田信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、朝倉氏は滅亡した。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀
 

義景は朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げ、個人としても戦よりも文芸に凝り、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んだ。

 

 

1581年に越前国へ布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。




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源 頼朝 (神奈川)

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清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部
)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。

 

 

遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。

 

 

保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。

 

 

兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
 

源義朝
  
源義朝
 

この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。

 

 

1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。

 

 

頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。

しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。

 

 

源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。

 

 

ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。

政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。

 

源頼朝6
 

一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。

 

 

1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。

 

それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。

 

 

自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。

 

蛭ヶ小島
 

頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。

 

石橋山


数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 

 

一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。

 

平維盛
  
平維盛
 

頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。

 

 

関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。

 

 

実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。

 

 

頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。

 

 

上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。

 

 

上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。

 

上総広常
   
上総広常
 

北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。

 

秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。

 

 

しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。

 

 

頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。

 

 

頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。

 

源頼朝2
 

その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。

 

 

 

頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。

また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。

 

そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。

 

 

たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。

 

 

平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。


富士川
 

戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。

 

 

遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。

 

 

頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。

 

 

 

「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。

 

義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。

 

兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。

 

源義経
  
源義経
 

その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。

 

ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。

 

1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。

 

 

頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。

 

義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。

 

 

川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。

 

 

時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。


宇治川の戦い
 

木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。

 

平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。

 

ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。

 

そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。

 

 

しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。

 

一ノ谷の戦い

さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。

 

 

朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。

 

 

ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。

 

 

この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。

 

義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。

 

 

屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。

 

 

嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。


屋島

平氏軍は屋島から壇ノ浦に逃亡する。

 

 

屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。

 

この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。

 

壇ノ浦の戦い
 

勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。

 

 

このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。

 

 

鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。

 

 

頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。

 

腰越
 

京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。

 

 

一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。

 

命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。

 

 

ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。


朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。

 

 

頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。

 

 

頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。

 

源頼朝

1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。

 

頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。

 

その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。

 

 

1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。

 

 

1199年、51歳で死去。

 

 

 

多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。

 
佐奈田与一1
  佐奈田与一

また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。




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シャクシャイン (北海道)

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シャクシャインはシベチャリ川下流東岸(現在の新ひだか町静内地区)を拠点としていたアイヌ民族集団メナシクルの首長であった。
 
新ひだか町静内

メナシクルは、シベチャリ川上流西岸のハエ(現在の日高町門別地区)を拠点としていたアイヌ民族集団シュムクルとシブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いが続いており、メナシクルの先代首長・カモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの抗争で殺害され、メナシクルの副首長であったシャクシャインが首長となる。
 
日高町

1668年4月、今度はシャクシャインがオニビシを殺害。




もともとアイヌ民族は松前城下や津軽・南部方面まで交易舟を出して和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などと、獣皮・鮭・鷹羽・昆布などの交易を比較的自由にしていた。


しかし17世紀以降、幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占することとなり、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったため、アイヌ民族は対和人交易の相手が松前藩のみとなってしまう。


アイヌ民族は取引相手が限定され、松前藩以外の選択肢がないので、交換レートはアイヌ民族に不利なものへとなり、シャクシャインの戦い前夜の1665年には、従来の「米30kg=干鮭100本」から「米10.5kg=干鮭100本」と変化し、アイヌ民族にとって極めて不利益なものとなった。


レートが不利になったことにより、アイヌ民族はそれまで以上の干鮭、熊皮、鷹羽などの天然資源を確保する必要に迫られ、これがシャクシャインとオニビシの縄張り争いの要因の一つともなる。



現代に例えると、富裕層に富が集中するシステムに目が向かないように、庶民間に勤労者と社会保障受給者を分断させるのと同じように、大くくりな同胞・同族・同階級に対立構造を作る戦略は古い時代から支配層の常套手段であった。



一方で、アイヌが交易に応じなかった場合、子供を人質に取るなどと脅して、不利になった交換レートよりもさらに安値で強引に取引することが横行し、大名の鷹狩用の鷹や砂金を掘るために蝦夷地内陸部を切り開いたり、松前藩船による鮭の大量捕獲が、アイヌ民族の生活を脅かし、アイヌ民族の和人への不満も高まっていく。

松前城

シャクシャインにオニビシを殺されたシュムクルは松前藩に武器の提供を希望するが拒否され、その使者が帰路に疱瘡で死亡してしまい、この死亡が松前藩による毒殺であるという風説が広がると、アイヌ民族の松前藩および和人に対する敵対感情が沸点に達し、対立していたメナシクルとシュムクルが一つにまとまるキッカケとなった。

1シャクシャイン

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応し、1669年6月21日、イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現在の白糠町)から西は天塩のマシケ(現在の増毛町)周辺において一斉蜂起が発生。



アイヌ一斉蜂起の報を受けた松前藩は、クンヌイ(現在の長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えると同時に、幕府へ援軍や武器・兵糧の支援を求めた。


幕府は松前藩の求めに応じ、弘前・津軽氏、盛岡・南部氏、秋田・佐竹氏へ出兵準備を命じ、松前藩主・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣する。




シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍との戦闘が始まり、戦闘は8月上旬頃まで続くが、鉄砲主体の松前軍に対して弓矢主体のシャクシャイン軍は劣勢となり、クンヌイからの後退を余儀なくされた。

長万部町国縫

シブチャリに退いたシャクシャインが徹底抗戦の姿勢をみせたため、松前藩は戦いの長期化によって交易が途絶えることなどを危惧して、シャクシャインに和睦を申し出る。


11月16日、シャクシャインがこの和睦に応じてピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営に出向くと、和睦の酒宴で謀殺された。

翌17日、シャクシャインの本拠地であるシブチャリが陥落。


指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。


翌1670年、松前軍はヨイチ(現在の余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から松前藩への恭順の確認をし、戦後処理のための出兵は1672年まで続く。
 
2シャクシャイン

その後、松前藩は蜂起に参加しなかったアイヌ民族に対しても服従を誓わせ、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。


その結果、アイヌ有力首長によって強い自立性をもっていたアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていき、松前藩にとってアイヌ民族は交易相手から強制労働者へと変わっていく。



松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。



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蕭何 (劉邦による中国統一の最大功労者)

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蕭何(しょうか)は劉邦と同じ沛
(江蘇省徐州市)の出身で、若い頃から沛で役人をし、ポストは低かったが、その仕事ぶりは真面目で能率も良く、周囲の評価も高かった。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える曹参(そうしん)は、この頃の部下である。

 

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、蕭何は曹参らと沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。


しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

 沛

 

以降、蕭何は劉邦軍における内部事務の一切を切り盛りする。

 

 


 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 


 

蕭何は劉邦軍の食糧調達を担当し、これを絶やすことがなかったので、劉邦軍の兵士達は略奪に走ることがなく、劉邦軍は攻略した土地に対して蛮行を働かないという評判を生み、それが多くの無血開城を実現させていく。

 

蕭何2

 

劉邦が項羽よりも先に関中入りし、咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何ただ一人、秦の歴史書、法律書、人口記録などが保管されている文書殿に走り、それら全て持ち去る。

 

そのためこの後、遅れて関中入りした項羽が宮殿を焼き払うが、蕭何が持ち去った貴重な文書は燃えることなく、それらは後々、劉邦が漢王朝を開く際に大いに参考となった。

 

 

 

 

結局、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

楚漢時地図
 

劉邦が漢王になると、蕭何は丞相(NO.2)として内政の一切を担当することになった。

 

 

それからまもなく、韓信が劉邦軍に加わる。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えしてきたのだが、韓信は家柄もなく項羽軍では雑兵で実績もないため、劉邦軍でも活躍の場が与えるのは難しかった。


 

そのため、韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて去ろうとするが、蕭何は韓信に計り知れない才能を感じて「自分が韓信を劉邦に推挙して、駄目であれば、私も漢を捨てる。」とまで言って引き止める。


 

劉邦は蕭何の推薦を受け入れ、韓信を大将軍へと大抜擢した。

  

劉邦がなんの実績もない韓信の能力に期待するための唯一の材料は蕭何への信頼だけで、それはつまり、蕭何なくして軍事の天才・韓信は歴史の表舞台に立つことはなかったのである。

 

 

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
 

徐州市(彭城)
 

蕭何は関中に留まって、関中から戦地の劉邦軍に向けて食糧と兵士を送り続け、それを途絶えさせることはなく、劉邦軍を後方から支える。

 

しかも、関中での治世において、民衆の不満を買うことなく名丞相として称えられた。

 

 


 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

蕭何の送り続けた食料と兵士がなければ、そして、根拠地である関中が安定していなければ、劉邦が負け続けてもなお最終的には勝利することもなく、さらに戦場で大活躍した韓信を雑兵から大将軍へ押し上げたのは他ならぬ蕭何であった。


 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を戦功第一に選ぶ。

 

 


 

皇帝となった劉邦が漢王朝(前漢)を開くと、蕭何は長年続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事した。

 

 

紀元前196年、蕭何は韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出して誅殺する。

 

韓信は用心深い性格であったが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたゆえの油断であった。

 

軍事の天才・韓信が反乱を起こせば、劉邦には大きな困難が待ち受けていたはずであるが、それを水際で防げたのは蕭何という存在あってである。

 

蕭何1
 
 

しかし、やがて劉邦の猜疑心が蕭何にも向き始めた。

 

蕭何は長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できるため、危険視される。

 

そのため、蕭何は汚く金儲けをしたり、わざと自らの評判を落とすことにより、劉邦に反乱の可能性を感じさせないようにした。

 

 


 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなる。


跡取りに恵まれにくかった蕭何の家系は何度も断絶するが、歴代の皇帝は蕭何の王朝への功績が大き過ぎるため、血の繋がる者を見つけ出しては位を与えて家系を継続させた。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。

 


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デュ・バリー夫人 (娼婦から宮廷夫人となったプリティ・ウーマン)

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本名はマリ=ジャンヌ・ベキュ、1743819日、フランスのシャンパーニュ地方でアンヌ・ベキュの私生児として生まれた。

 

母アンヌ・ベキュは弟を生んで間もなく駆け落ちし、デュ・バリー夫人は叔母に引き取られて育つ。

 

 

7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたデュ・バリー夫人は、金融家の継父からかわいがられて、教育の機会に恵まれ、15歳で修道院での教育を終える。

 

修道院を出て最初に侍女として働いた家では、素行上の問題から解雇された。

 

 

その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしながら、日々をどうにか食いつなぎ、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始める。
 

デュ・バリー夫人1
 

若くて美しいデュ・バリー夫人は、やがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。

 

 

もともと娼婦同然の生活で、それも貧しさを生き抜いたデュ・バリー夫人にとって、家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などを相手にして、それ相応の身なりをして洒落た遊びに触れることは、キャリアアップにも等しかった。

 

事実、その世界は大きく広がっていく。

 

 

 

1769年、フランス国王ルイ15世に紹介される。 
 

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ルイ15

 

ルイ15世は、その5年前に寵愛していた愛人ポンパドゥール夫人を亡くしていた。

デュ・バリー夫人はそのチャンスをものにし、ルイ15世はデュ・バリー夫人の虜になって愛人にすることを決める。

 

 

デュ・バリー夫人は、デュ・バリー子爵の弟と結婚して「マリ・ジャンヌ」から「デュ・バリー夫人」と名を変えると、もろもろ形式的な手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾となって社交界にデビューした。

 

 

 

フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16)に嫁いできたマリー・アントワネットと犬猿の仲になる。

 

 

マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を強く受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続けた。

 

 

加えて、かねてからデュ・バリー夫人と対立関係にあったルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人マリー・アントワネットを味方につけようと画策したことで、その対立は深くなっていった。

 

 

 

1774年、宮廷内でのデュ・バリー夫人の後ろ盾である国王ルイ15世が天然痘で倒れる。


後ろ盾が病に侵され宮廷内で裸同然となったデュ・バリー夫人は、追放同然に宮廷を追われることになった。

 

 

そのため、一時的に不遇な時間を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、落ち着いた時間を取り戻していく。

 

 

その後、ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり、再び優雅な日々を送る。

 

デュ・バリー夫人5
 

1789年、フランス革命が勃発すると、愛人であるド・ブリサック元帥が虐殺されたため、デュ・バリー夫人はイギリスへと逃れると、フランスから亡命しようとする同胞を援助した。

 

 

 

しかし、17933月、デュ・バリー夫人は危険を冒して、革命政府に差し押さえられた自分の財産を回収しにフランスに帰国すると、革命派に捕えられてギロチン台へ送られた。

 

 

デュ・バリー夫人が回収しに来た宝石の数々は、私生児として生まれ、娼婦として生き、貴族社会で侮蔑され、それでも多くの男達が自分に夢中になった確かな証である。異国に逃れ、若さを失い、それなだけに奪われたくなかった想い出の数々だった。

 

 

 

死刑執行人のサンソンと知り合いであったデュ・バリー夫人は、泣きわめいて命乞いをする。

同情心に耐えきれなくなったサンソンは、息子に刑の執行を委ね、最終的にはデュ・バリー夫人は処刑された。

 

デュ・バリー連行
 

女流画家のルブラン夫人のフランス革命に関する回顧録では、断頭台で多くの貴族女性が命を落とすたびに、歓喜に沸いた民衆が、泣き叫びながら慈悲を乞うデュ・バリー夫人の姿には直視できず、その死は盛り上がりに欠けるものであったという。

 
 

そのためルブラン夫人は「私が確信したのは、もしこの凄まじい犠牲者達が、あれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、処刑の嵐はもっとずっと早く過ぎていたであろう。」と述懐している。

 


 

潔く毅然とした名誉ある死は新たな死を招き続け、情けなく惨めでブザマな死が命の重さを教えた。




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ペルディッカス (猛獣も恐れた豪傑)

ペルディッカス



アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の治世で、マケドニアはギリシア世界の盟主となっていた。

しかし、ピリッポス2世が暗殺され、弱冠20歳のアレクサンドロス3世が若き王になると、その機に乗じてテーバイが反乱を起こした。


テーバイの攻撃は激しいもので、マケドニアは一時撤退を余儀なくされる状況となる。

そこで活躍したのがペルディッカスであった。


ペルディッカスはアレクサンドロス3世の命令を待たずに、防御の弱かった敵の防柵に攻撃をかけ、テーバイ市内への突入に成功し、これをキッカケにテーバイは陥落することになった。



ペルディッカスは有能かつ豪胆で、アレクサンドロス3世の信頼が特に厚い人物であった。

ペルディッカスの豪胆さを表す逸話として、ペルディッカスがライオンの巣になってる洞窟に入っていくと、驚いたライオンが仔を連れて出ていったというものがある。

ペルディッカスには猛獣ですら危険を感じるオーラが漂っていた。




マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。

グラニコス川の戦い

ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍は、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定め、エジプト征服後の紀元前331年には「ガウガメラの戦い」で3倍以上の圧倒的な戦力差をものともせず、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡は決定的となる。



ペルディッカスはこうしたペルシア侵攻後の主要な戦闘で重装歩兵部隊を指揮し続けた。
特に「ガウガメラの戦い」では瀕死の重傷を負うほどに勇猛果敢に奮戦した。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍がインドを目指すことになると、ペルディッカスはヘファイスティオンと同様に、別働隊を率いてマケドニア軍本隊の進軍ルートにある拠点という拠点を武力制圧および降伏勧告をして支配下においていった。



アレクサンドロス3世にとって最後の主要な一戦となる「ヒュダスペス河畔の戦い」を経た紀元前325年、町に立て籠るマッロイ人への攻撃にマケドニア軍は苦戦する。

アレクサンドロス3世は軍勢を二手に分け、その片方の指揮をペルディッカスに任せた。
戦場におけるペルディッカスはNO.2として重用されていた。



しかし、ゲリラ戦に消耗したマケドニア軍は、インドを引き返すことになり、紀元前324年にスーサに帰還した。

アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンが病死すると、ペルディッカスはヘファイスティオンの遺体を託されバビロンで葬儀を上げた。





そして、病気で倒れたアレクサンドロス3世は臨終の際に、王の証でもある印綬の指輪をペルディッカスに渡した。

アレクサンドロス3世7
  
アレクサンドロス3世

これにより、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の後継者として主導権を握り、まだ生まれぬ王妃ロクサネの子(アレクサンドロス4世)の暫定的な後見人として、帝国の実質的なトップとなる。


アレクサンドロス大王の死後、当初はこのようにその一族を担ぐ動きがあったが、担がれた者や担がれる可能性のある者はことごとく殺され、徐々に後継者争いは純粋な勢力争いとなっていく。



その後、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟アリダイオスを推すメレアグロスを殺害し、エウメネスと共にカッパトギアの王アリアラテス1世を倒し、自らの発言力と存在感を高めていった。



一方、東方遠征の際にマケドニア本国の留守を任されていた老臣アンティパトロスは、アレクサンドロス3世の死に乗じて反乱を起こしたアテナイ・アイトリア・テッサリアを鎮圧し、ギリシア世界での存在感を増していた。


ペルディッカス

ペルディッカスは自らの立場を安定させるため、アンティパトロスの娘ニカイアと婚約をする。


しかし、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラ(念のために有名なクレオパトラではない)との縁談を、ペルディッカスに取り入ろうとするアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが持ちかける。


ペルディッカスは、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄して、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラと結婚しようとした。



激怒したアンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけ、ペルディッカスへの対立姿勢を明確にした。


ペルディッカスの側には、カッパトギア太守エウネメスなどが味方した。


そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスが奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、埋葬された場所は神聖化する。

後継者を主張するペルディッカスにとって、プトレマイオスの行為は看過できるものではなかった。



ペルディッカスは局地戦の指揮をエウメネスに一任し、自らはプトレマイオスを討つべくエジプトへと向う。


しかし、ナイル川渡河に失敗すると、ペルディッカスの統率能力に不安を感じたセレウコスらの部下によって暗殺された。


それは、猛獣すら恐れる豪傑が、女が原因で失墜した瞬間でもあった。




ペルディッカスの死により、老臣アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守となった。


アレクサンドロス帝国の後継者争いは続いていく。

二番組組長 永倉 新八

永倉 新八 700x1000


永倉は、松前藩江戸定府取次役・長倉勘次の次男として、松前藩上屋敷(現在の東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。

 

 

8歳頃に岡田利章の神道無念流剣術道場である撃剣館に入門し、18歳で本目録となった永倉は、剣術好きのあまり松前藩を脱藩し剣術修行の日々を送った。

 

 

その流れで近藤勇の天然理心流の道場である試衛館に現れると、近藤と意気投合し、試衛館に居着くようになる。

 

 


 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、永倉は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていった。

 

壬生村2
 
の後、芹沢は暗殺され、新撰組は近藤主導の隊となるが、永倉は芹沢暗殺の相談を土方などから受けていなかった可能性がある。

 

 

芹沢暗殺の実行者は4名で、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助という試衛館メンバーであったという説が有力であるが、残る永倉以外の試衛館メンバーは、行動を知らないわけがないリーダーの近藤勇、試衛館では近藤よりも兄弟子になる最年長の井上源三郎、行動の賛否に大きく意見を持っていなそうな藤堂平助であった。

 

 

仮に土方らが永倉には相談していなかったとして、考えられる理由は、義と徳を重んじ頑固者である永倉に反対されると話がややこしくなると思われたことや、永倉と芹沢が神道無念流の同門でそれなりに仲が良かったことが考えられる。

 

 


 

永倉の意はとにかく、芹沢がいなくなり近藤勇主導の組織となった新撰組は、その勢いを増していき、永倉は二番組組長や撃剣師範を務めるなど活躍することになっていく。

 

池田屋跡
 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入し、沖田が持病発生で倒れ、藤堂平助が負傷して離脱する中で、永倉は左手親指に深い傷を負いながらも防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。

 

 

 

新撰組が出世して、身分の高くなった近藤の振舞いに変化が出始めると、頑固者で義と徳を重んじる永倉は、度々、近藤や土方と衝突するようになっていく。

 

 

しかしながら、沖田の病状が悪化すると、沖田の分まで前線部隊として働くなど、意見は言うものの仕事はしっかりな男であった。

 

 

 

 

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 

この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、負傷していた近藤の代わりに、土方と共に新選組を指揮して戦った。


永倉新八1
 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。

 

 

この直後、近藤や土方と今後の展望や進路で意見が分かれ、原田左之助らと共に隊を離れた。

 

 

 


 

近藤らと分かれると、永倉は靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で新政府軍と抗戦するが戦局は不利で、米沢藩にかくまわれることになる。

 

 

米沢藩滞留中に、会津藩の降伏を知ると、永倉はもはや新政府軍に抗う術なしとみて江戸へ帰還した。

 

 

 

 

その後、永倉の大叔母である長倉勘子(永倉ももとは長倉姓)12代松前藩主・資廣の側室であった縁もあり、松前藩への帰参が認められるという寛大な処置を受ける。


 

永倉新八29歳、蝦夷地はまだ戦火のなかにあったが、永倉にとっての新選組に終止符が打たれた。

 

北海道
 

永倉は、藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して杉村家の養子に入ると、北海道に渡るが、その後42年間で北海道と東京で11回転居する。


そして、そのほとんどを剣術の師範として身を立てた。

 

 


 

晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通い「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた。」と生き延びた事を喜んだという。
 

 

永倉新八2

それでも、やはり、あの新撰組の幹部であった男の迫力はいつまでも健在だったようで、ある時、映画館の出口で地元のヤクザにからまれるが、永倉は眼光の鋭さでヤクザを怯えさせて退散させた
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