「劇団Camelot」は、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、紹介する猫のキャラクターです。


詳しくはカテゴリー「劇団Camelotとは? (総合案内)」をご覧ください。

ファッション

マリア・テレジア (ヨーロッパ最大勢力を指揮した若き母)

マリア・テレジア

 
 

1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。

 

神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

 

 

さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。

 

マリア・テレジア1
 

マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。


そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト
1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。

 

 

レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。

 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 

フランツ1世
  
フランツ1世

 

父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。

 

 

マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。

 

  

 

1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。

 

これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。

 

フリードリヒ2世
   
フリードリヒ2
 

この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。

一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。

 

 

 

オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。

 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。

 

若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。

 

 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。

 

 

 

1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。

 

 

その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。

 

マリア・テレジア3
 

マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。

 

ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 

皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。

 

 

1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。

 

また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。

 

 

 

 

プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。

 

オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。

 

しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。

 

プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。

 

喪服のマリア・テレジア
 
 

1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。

 

マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

 

 

マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。

 

そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。

 

 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。

 

 

1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。

 

 

 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。

 

 

死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。



ヒュッレム・ハセキ・スルタン (奴隷の立場から皇后へ)

703x999ロクセラーナ


1506
年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。

 

ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。

 
 

生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。

 

 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。

 

slaveヒュッレム・ハセキ・スルタン1

奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。

その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。

 
 

買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。

 

 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。

 
 

イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。

 
 

ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。

 

 

ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。

 

奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。

 
 

皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。

しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。

 
 

そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン1

ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ
(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。

 

そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。

 

ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。

 
 

そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。

 

そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。

 

 

ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。

 

 

ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

スレイマン1世
  スレイマン1

この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン
1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。

 

 

しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。

  

大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。

 

 

ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 

後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。

 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 

 

真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。

 

それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。

 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン8

ヒュッレムはスレイマン
1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。

 

しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。


オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。

 

 

スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。

 

 

 

ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。

 

 

ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。


 

ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。

 

このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。

 

 
 

スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。

 

ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。

 

以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。

 
 

この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。

 

 

さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。

 

 
 

奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558418日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン2

ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと
2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。

 

 


 

ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。

 
 

スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。

 
 

これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。




クレオパトラ(シルバーグレー)

ClubT  クレオパトラ7世「劇団Camelot」

(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)




クレオパトラ(Back)

ClubT  クレオパトラ7世「劇団Camelot」 (BackPrint ) 

(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,ジップパーカー など)




楊貴妃 (傾国の美女という汚名を着せられた天女の舞)

楊貴妃700x1000


楊貴妃が、絶世の美女として後世に名を残したのは、ただ美しかったからではない。

楊貴妃の美しさが中世の中国に多大な影響を与えたからである。


 

彼女はただ愛されただけである。

 
 

けれど、それで、歴史が変わった。

 

玄宗皇帝1
  玄宗皇帝

楊貴妃に多大な愛を注ぐことになる玄宗皇帝は、
8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝であった。

 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

 

科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。

 

極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。

 

 

当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったため、数日で痩せてしまう。

心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。

 

 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。


楊貴妃を愛した男は、そんな偉大なる皇帝である。

 

楊貴妃5


楊貴妃は本名を揚玉環
(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。

 

楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

 
 

その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。

 
 

後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

 

 

 

一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。

 

 

玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。

 

楊貴妃22才であった。


 

その美しさに魅了された玄宗皇帝は、なんと息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにするが、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。

 

そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

 

 

 

745年、楊貴妃は、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を玄宗皇帝に与えられ、公に後宮に入る。

 

 

そして、楊貴妃の一族も一同に大出世していき、これが後々、大きな弊害を生むことになる。


 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛、従兄の楊錡に高い地位が与えられ、3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられて毎月高額の化粧代が支給される。

 
 

極めつけが、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄 (はとこ)の揚国忠は、その後、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 

楊貴妃2

さて、楊貴妃をそばに置くようになった玄宗皇帝はすっかり楊貴妃が生活の全てになっていた。

 
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどで、その髪は艶やかで、肌はきめ細かく、体型はほどよく、あらゆる楽器を自在にこなした。

 
 

また、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その姿はまるで天女のごとく、歌声も天下一品であったと伝えられている。

 

 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、楊貴妃は趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


 

美人は三日であきるという俗言が示すように、歴史上、多くの権力者は当代一の美女をその生涯で何人も見初めてきたが、玄宗皇帝にとっての楊貴妃はその例には当てはまらない唯一無二の存在であった。

 

 

玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。

 

砂煙をあげて走り去る早馬を見た人々は、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていたほどであった。

 

 

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになり、国は大きく乱れていった。

 

 

 

 

752年、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。

 

 

そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。

 

 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、笵陽(北京)方面の軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよぶ大軍であった。                      

 

 


破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安(西安)になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

 
 

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

 

 

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

 

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。

 

楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

 

 

 

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

 

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

 

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

 

 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。


 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 

楊貴妃1
 

国が乱れたのは楊貴妃のせいではなかった。

ただ、賢明な楊貴妃は、国そのものといっても過言ではない皇帝の愛されながら、国のために自分がなにもしていない事、それを罪と理屈付けることの出来る女性だった。

 

 


やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。

また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

 

 

 

現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。

 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説
があり、土を持ち帰っていく者も多い。




楊貴妃LT

ClubT  楊貴妃 「劇団Camelot」 

(レディースTシャツ 税抜3100円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)





楊貴妃TBack

ClubT  楊貴妃 「劇団Camelot」 (BackPrint )

(Tシャツ 税抜3000円,長袖Tシャツ,ジップパーカー など)




クレオパトラ7世 (世界史を大きく左右した圧倒的美貌)

クレオパトラ700x1000ArtNouveauCap



後世の人類が絶世の美女クレオパトラと称するクレオパトラ
7世フィロパトルが、王女として生まれたプトレマイオス朝エジプトは、地中海世界屈指の大都市アレクサンドリアを首都におき、ヘレニズム文化の中心として栄えていた。

 

 

プトレマイオス朝は、血族結婚を繰り返し「プトレマイオス」という名の男子と「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」というの名の女子が、兄妹・姉弟の夫婦で王位を継ぎ、共同統治するのが慣例であったが、共同統治でさえあれば男女に限定はされず母娘での女王二人体制も存在した。

 

 

 

 

紀元前51年、クレオパトラ7世が18歳の時、父の遺言とプトレマイオス朝エジプトの慣例に従い、クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が結婚して王位に就く。
 

クレオパトラ7?

この頃のプトレマイオス朝エジプトには、相いれない二つの大きな主張が存在していた。

 

一つは、国民への重税につながる強国ローマへの貢納をすべきでないというものである。

例えローマの侵略によって国家が滅ぼされる可能性があっても、ローマには決して屈しないという反ローマ主義。

 

もう一つは、重税に対する国民の不満が出ようとも、ローマの属国に成り下がろうとも侵略されないように立ち回り、プトレマイオス朝エジプトを生き残らせるという親ローマ主義。

 


 

クレオパトラ7世は父の路線を踏襲するようにローマとの関係を重要視していた。

プトレマイオス13世は側近達の介入もあり、ローマへの非服従を強く主張していた。

 

 

 
 

一方で、ローマはローマで、ローマ内の権力闘争が熱を増していっていた。

ローマとの関係を重要視するクレオパトラ7世は、単純に親ローマではなく、ローマのどの勢力どの有力者を支持するかという難しい選択をしなければならなかった。

 

 

紀元前48年、人類史的な重要度特大級のローマ内戦「ファルサスの戦い」にユリウス・カエサルが勝利する。


敗れたグナエウス・ポンペイウスはエジプトへと逃れて来るが、プトレマイオス
13世によって殺害される。


続いてポンペイウスを追ってきたカエサルがエジプト入りする。

 

 
 

その頃、クレオパトラ7世は、プトレマイオス13世によってアレクサンドリアから追放されていた。

 

 
 

クレオパトラ7世はカエサルとの接触を望むものの、プトレマイオス13世派で埋め尽くされている王宮でカエサルに会うのは不可能に思われた。
 

 クレオパトラ6


そこで、クレオパトラ
7世は自らを絨毯に包んで、カエサルのもとへ贈り物として届けさせる。

 

古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があった。「プレゼントはワタシ」そんな意味にも解釈できる行為である。

クレオパトラ7世は、なんともエロチックなメッセージと共にカエサルとの接触に成功する。

 

 

クレオパトラ7世の美貌、敵の中枢に単身侵入する豪胆さ、危険な目的にさえ遊び心を持たせるセンス、カエサルはそれら全てに驚愕し一瞬でクレオパトラ7世に魅了された。

 
 

カエサル52歳、クレオパトラ21歳であった。

 

 

 
 

クレオパトラ7世が強国ローマの支配者カエサルの後ろ盾を得たことに焦ったプトレマイオス13世は、もともと反ローマ主義でもあったため、カエサルの率いてきた軍を攻撃する。

 

この「ナイル川の戦い」でプトレマイオス13世は溺死した。

 

 

カエサルは、クレオパトラ7世との恋愛関係やプトレマイオス13世が反ローマ主義であることを抜きにしても、プトレマイオス13世を良くは思っていなかった。

 

政治的主張の違いから敵同士として命の取りあいをすることになっても、ローマ人としてローマを想うポンペイウスに敬意を持っていた。

敗走中を外国人に討ち取られたポンペイウスの無念を想うと同情せずにはいられなかった。

 

 

カエサルの後ろ盾を得たクレオパトラ7世は、もう一人の弟プトレマイオス14世を共同統治者にし、女王に返り咲いた。

 

 

 
 

紀元前47年、クレオパトラ7世は、カエサルの子カエサリオンをもうける。


翌、紀元前
46年、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れ、カエサルの庇護のもと目立たぬ形でローマに滞在していたが、紀元前44年にカエサルが暗殺された。

 

 

クレオパトラ7世は、カエサリオンが嫡子のいないカエサルの後継者となることを望んでいたが、カエサルは遺言書で養子であり大甥(妹の孫)でもあるオクタヴィアヌスを後継者と定めていた。

 

 

プトレマイオス朝エジプトを守ろうとし続けたクレオパトラ7世が、ローマ帝国を創造し続けたカエサルの思考を理解するのは難しかったのかもしれない。


守ろうとする者と、生み出そうとする者には、決定的な違いが存在する。

 
 

クレオパトラ7世は、カエサリオンを連れ急遽エジプトに帰る。

 

 

 

 

さて、ローマはカエサルの死により長い混迷に突入していく。

 

紀元前42年、カエサルを暗殺した一人ブルトゥスらと、カエサルに後継者指名されたオクタヴィアヌスらが「フィリッピの戦い」で決戦する。


クレオパトラ
7世はブルトゥスらを支援するが、勝利したのはオクタヴィアヌスらであった。
 

アントニウスとの出会い

オクタヴィアヌス側のアントニウスは、敵を支援したクレオパトラ7世に出頭を命じた。

 

 

クレオパトラ7世は女神アプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって、アントニウスのもとへ出頭した。


そうして、瞬く間にアントニウスを魅惑し、危機を乗り越える。

 

 

 

クレオパトラ7世と人生を添い遂げる事を望んだアントニウスは、妻であったオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、死後はエジプトでの埋葬を希望するなど、クレオパトラへの傾倒にともなってエジプト色が強くなっていく。

 


 

一方、ローマの覇権争いはアントニウスとオクタヴィアヌスによるものとなり、その争いも最終局面に達していた。

 

このオクタヴィアヌスとアントニウスの対立構造は、次第にローマの両派閥による争いというより「ローマ対エジプト」という構図に、アントニウスの振る舞いから矮小視されていった。

 

アクティウムの海戦 


紀元前
31年、アントニウス派およびエジプトの連合軍と、オクタウィアヌス派が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する。

 
 

この「アクティウムの海戦」と呼ばれる天下分け目の決戦には、クレオパトラ7世も自ら主力艦に乗り込んだ。

 
 
 

アントニウス・クレオパトラ連合軍は戦力的には上回っていたものの、両軍が少し交戦したとたんに、クレオパトラの艦隊が突然に戦線を離脱する。

 

 

彼らがどんな人生を歩み、誰を愛し、誰に愛され、そんなことには1ミリの価値もないかのように、男達は獣のように猛り狂って命を奪いあっていた。

 
 

数多の政治的修羅場を乗り越え、数多の殺傷沙汰にも直面してきたクレオパトラ7世であったが、戦場の地獄絵図には怯んでしまった。

 

 
 

さらに、アントニウスも愛するクレオパトラ7世を追って撤退する。

 


指揮官を失った連合軍は、命令系統を失い、烏合の衆と化し、ただただ逃げ惑いながら殺戮されるだけとなった。

 

 

 
 

アレクサンドリアに逃げ着いたアントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報を聞いて自殺を図る。


アントニウス自殺未遂の知らせを聞いたクレオパトラ
7世は、瀕死のアントニウスを自分のもとに連れて来させる。

 

アントニウスはクレオパトラ7世の腕の中で息を引き取った。

 

 

 

そして、追ってきたオクタヴィアヌスがアレクサンドリアに到着すると、クレオパトラ7世はアントニウスの後を追うように、コブラに胸を噛ませて自殺した。
 

クレオパトラ最期
 

オクタヴィアヌスは、クレオパトラ7世の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。


クレオパトラ
7世は、祖国エジプトよりも守りたかった我が子カエサリオンの助命は、女王らしく求めなかった。

 

 

 

オクタヴィアヌスはエジプトを征服し、カエサルの子カエサリオンを無慈悲に殺害した。

 

圧倒的な人気を誇るカエサルの子を生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」として担ぎ上げ、再びローマに混乱をきたすか分からない。


それは当然すぎる処刑であった。

 

 

 

紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトは皇帝直轄地としてローマに編入された。




クレオパトラ(オリーブ)
ClubT  クレオパトラ7世「劇団Camelot」
(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)



クレオパトラ(Back)
ClubT  クレオパトラ7世「劇団Camelot」 (BackPrint ) 
(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,ジップパーカー など)




知っておきたいアレクサンドロス大王に入る前に


もしも、アレクサンドロス大王が存在しなかったなら、我々の住む世界は今とは大きく異なっていた可能性がある。


なぜなら、アレクサンドロス大王がギリシア世界からアジアに持ち込んだものには、文化的な価値観や感性そして美意識といったものも含まれていたからである。



それは今でも我々の心の中にハッキリと自覚できる形で残っている。


例えば、我々アジア人には、かつてアジア人の特徴を色濃く持った独自の美人の基準があった。

ところが、アジアにおいてその美人の基準は大きく変わり、白人の特徴に近い容姿が美人とされるようになっていった。

そして、その感覚は現在のアジア人に深く深く根付いている。

アレクサンドロス大王が存在していなかったら、この感覚がそこまで深いものにならなかった可能性は十分にある。


そして、我々が親や教師から受けた影響の中に、これ以上に揺るぎない感覚はあるだろうか?


我々人類にとってアレクサンドロス大王は、親以上に親であり、教師以上に教師なのである。


良し悪しは別にして、アレクサンドロス大王の東方遠征は、それだけの影響を2000年以上に渡って与えるような事だったのである。




さて、アレクサンドロス大王の時代にはギリシアという一つの国は存在していない。

ギリシア世界という概念の中に、アテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家がギリシア世界の中に存在していた。

マケドニアはそんなギリシア世界の中に存在する国家であった。



ギリシア世界に住む人々は、ギリシア人としての誇りを強く持っていたが、一方でこの時代の世界の最先端はペルシアであった。


アケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、東は現在のトルコやエジプト、西は現在のパキスタンのあたりに及ぶ、広大な地域を支配下においていた。


ギリシアはかつてのように世界の中心ではなくペルシアが文明や経済の中心となっていた。




そして、この時代のギリシア世界にとって、東はペルシア帝国の先にインドがあって、その先はギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスであると信じられていた。


コロンブスがアメリカ大陸に上陸する1800年ほど前のこの時代、世界の中心からインドまでが世界の全てであった。


そして、コペルニクスの地動説が唱えられ、人類に地球が丸い可能性が提示されたのは、コロンブスよりもさらに後の時代である。


アレクサンドロス大王の時代の人々は、世界の果てオケアノスは、天まで届く高い壁があったり、海水が永遠の奈落に落ちる滝があったり、そういうイメージを持っていた。



アレクサンドロス大王は、今から2000年以上前の紀元前336年に、ギリシア世界を代表して、その文化を世界の果てオケアノスまで広げようとしたのである。


イッソスの戦い


そんなアレクサンドロス大王とその部下6人の計7人を通して、アレクサンドロス大王の足跡とその後継者争いを表現します。



シルバーグレー
ClubT  アレクサンドロス大王 「劇団Camelot」
(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)



ジップパーカーBack
ClubT  アレクサンドロス大王 「劇団Camelot」 (BackPrint ) 
(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,ジップパーカー など)






・アレクサンドロス3世   (案内人・アーサー)

・ヘファイスティオン     (案内人・トリスタン)

・ペルディッカス       (案内人・ガウェイン)

・アンティパトロス      (案内人・モルドレッド) 

・アンティゴノス1世    (案内人・ランスロット)

・セレウコス1世      (案内人・パーシヴァル)

・プトレマイオス1世    (案内人・ガラハッド)

・王妃スタテイラ2世    (案内人・グィネヴィア)



世にも醜い貴婦人ラグネル

ラグネル 700x1000 akaFrivolity



アーサー王が世にも醜い貴婦人ラグネルに助けられた時に「どんなものでも与える。」と約束すると、ラグネルは「円卓の騎士」から夫が欲しいと答えた。


ラグネルは、片目が潰れ、歯は何本も欠けており、ヒゲが生え、縮れた白髪が不格好に伸び、さらに悪臭も放っていたため、その容姿に「円卓の騎士」は皆、尻込みをした。


ところがガウェインがラグネルの夫になることを名乗り出た。

ガウェインはラグネルの瞳に潜む哀愁と気高さを感じ、深い同情と計り知れない尊敬を抱くのであった。ガウェインはラグネルに対して王妃にひざまずくかのごとく礼儀正しく接した。

世にも醜い貴婦人

ガウェインとの結婚が決まり、ラグネルがキャメロット城に付くと、あのガウェインの妻となる女の醜さに城内は大きくザワつき、ガウェインに憧れる婦女子達からは悲鳴すらもれていた。
 


結婚式の前日の夜、ガウェインとラグネルが二人きりになると、ラグネルの姿は若く光り輝くほどに美しくなっていた。


ラグネルは
「これが私の本当の姿です。私はあの醜い姿で愛してくれる男性が現れると、昼と夜のどちらかだけ元の姿でいられるのです。選んで下さい。」と言った。


ガウェインは
「では、昼だ。愛する妻が城内で見下されるのは面白くない。私はオマエを愛しているから夜は醜くても構わない。」と返事した。

ラグネル

それに対してラグネルは「あなたは私に愛する夫の前で醜くいろと言うのですか?」と返した。


ガウェインは「では、オマエが好きな方が私の答えだ。」と言った。

  

するとラグネルは
「それでは昼と夜の両方に致します。私の呪いは愛してくれる男性が現れると昼と夜のどちらか、そして、その男性が騎士らしく私の名誉を守ってくれたら昼も夜も両方、元の姿に戻れるというものでした。」と答えた。


こうして、ラグネルは完全に元の姿に戻れたのであった。




ディズニー映画にもなった「美女と野獣」は、この世にも醜い貴婦人のエピソードをモチーフにしたものである。



金髪のイゾルデ

イゾルデ 700x1000  akaFrivolity



アイルランドの地は狂暴なドラゴンの猛威に悩まされていたため、アイルランドのアグウィサンス王は、ドラゴンを退治した者には身分を問わず娘イゾルデを与えると布告していた。


ところが、そのドラゴンを倒したトリスタンは、自身が仕えるコーンウォールのマルク王の花嫁候補として金髪のイゾルデを探していた。


金髪のイゾルデの父アグウィサンス王は、ドラゴンを退治した者の主君に娘を嫁がせることは道理に反していないため、娘をマルク王に嫁がせることを決めた。

トリスタンとイゾルデ

トリスタンが金髪のイゾルデをコーンウォールに連れて帰る道中、二人はお互いに惹かれあっていることを確認し、夢のような時間を過ごした。

しかし、金髪のイゾルデがコーンウォールに着くと、マルク王は金髪のイゾルデを大いに気に入り、予定通り金髪のイゾルデはマルク王と結婚することになった。


金髪のイゾルデとマルク王が結婚しても、 愛し合うトリスタンと金髪のイゾルデは、やがて密かに逢瀬を重ねるようになるが、やがてその間柄は露見してしまう。

トリスタンとイゾルデ2

マルク王は、一度は二人に死刑を宣告するが、金髪のイゾルデを愛していたこと、トリスタンを寵愛していたことから、トリスタンの国外追放処分で事は治まった。



トリスタンがコーンウォールを去る時、金髪のイゾルデは

「二人がこの世界のどこにいようとも、私の夫は未来永劫あなたです。」

そう言って、金の指輪を渡すのであった。




それから、トリスタンは放浪の末、アーサー王の「円卓の騎士」に加わり、ブルターニュのホエル王の娘である白い手のイゾルデと結婚する。


寂しさと幸せを望む心の狭間でトリスタンは白い手のイゾルデと結婚し、普通の夫以上に白い手のイゾルデを愛し大切にしていた。
しかし、トリスタンの心の真ん中に住んでいたのは、いつでも金髪のイゾルデであった。


そうして、トリスタンが戦争で重傷を負い、死を待つことしか出来なくなった時、トリスタンは使者に金髪のイゾルデにもらった指輪を持たせてコーンウォールに行くように命じた。

そして、帰りの船に金髪のイゾルデが乗っているのであれば船に白い帆を、船に金髪のイゾルデが乗っていなければ黒い帆を掲げてくれと頼んだ。

イゾルデの船

使者から事の成り行きを聞き指輪を渡された金髪のイゾルデは、白い帆を掲げてトリスタンのもとへと急いだ。


ところが、白い手のイゾルデは、その船の帆の色は黒であるとトリスタンに告げてしまう。
それを聞いたトリスタンは、振り絞っていた気力を失い、息をひきとった。


数時間後、事切れたトリスタンのもとに到着した金髪のイゾルデは、トリスタンの亡骸に覆いかぶさると、悲しみのあまり離れようとせず、いつの間にか彼女も息をひきとっていた。

トリスタンの死

事の顛末を伝え聞いたマルク王は、悲しみの言葉も許しの言葉も一言も述べず、トリスタンと金髪のイゾルデの遺体をコーンウォールに運び、二人を同じ墓に埋葬した。

 

墓は、トリスタンの眠っている側からハシバミが生え、金髪のイゾルデの眠っている側からスイカズラが生え、共にお互いの方に枝を伸ばし、二度と離れまいと、枝は複雑に絡まりあっていた。



罪を知らない乙女ディンドラン

ディンドラン 700x1000 akaFrivolity



聖杯探究の途中で、ガラハッドは世に最高の騎士のみが使用できる剣を手に入れるが、その剣の剣帯はボロボロで、もはや使い物にならなくなっていた。

そして、その剣の剣帯は、罪なき乙女が自身の最も大事なもので作った剣帯でなくてはならなかった。


パーシヴァルの生き別れの妹ディンドランは罪を知らない乙女であった。

ディンドランは黄金よりも黄金に輝く滑らかな自分の髪をとても大事にしていた。


ディンドランは少年のように頭を剃りあげ、自身の髪の毛でガラハッドの剣帯を編むのであった。

ガラハッドはディンドランにひざまずくと「私はそなたの騎士です。永遠に。」と言った。

ディンドラン

そこからガラハッド、パーシヴァル、ボールスと行動を共にしたディンドランであったが、旅の途中で、呪われた老女を助ける為に自らの命を差し出す。

ディンドランは自分の墓は聖都サラスに作って欲しいと願いながら息をひきとった。


その後、ディンドランの墓の隣に、聖杯の力で昇天したガラハッドの墓が作られた。

世に最高の騎士ガラハッドは約束通り永遠にディンドランの騎士となった。

微笑まないクンネヴァール

クンネヴァール 700x1000 akaFrivolity



パーシヴァルが、アーサー王の盃を奪った無礼な騎士を追いかけることになった時、出陣するパーシヴァルに誠の騎士にしか微笑まないと評判の乙女クンネヴァールが微笑んだ。

 

 

 

「円卓の騎士」の古株ケイは、日頃から田舎育ちでみすぼらしい格好をしているパーシヴァルをバカにしていた。

 

それなだけに、クンネヴァールがパーシヴァルに微笑んだことが癇が障り、彼女の頬を打った。


パーシヴァル&ケイ
  
パーシヴァルとケイ

パーシヴァルはアーサー王の盃を取り返してくると、ケイを力ずくで懲らしめてクンネヴァールに謝罪するよう求めた。



ライトイエロー

ClubT  王妃グィネヴィア 「劇団Camelot」

(レディースTシャツ 税抜3300円,Tシャツ,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)




カーボネックのエレイン

エレイン 700x1000  akaFrivolity



エレインという名前は、アーサー王伝説に多く登場する名前である。

ギリシア神話に登場する世界一の美女「ヘレネー」のフランス語読みであるため、美しい女性であることを表現するため多用された。

アーサー王伝説が、ケルト人の伝説から始まり、フランスで多くのストーリーを追加され、イギリスに逆輸入された経緯から、アーサー王伝説にはフランス風の名前を持つものがかなり存在する。


エピソードとして最も有名な「エレイン」はアストラットのエレインであるが、ここでは、ガラハッドの母となるカーボネックのエレインを取り上げる。



カーボネックのエレインは、ペレス王の娘でアリマタヤのヨセフの末裔とされている。


エレインは「この国で最も美しい」という評判が嫉妬を買い、魔法で閉じ込められ、熱湯で茹でられるという苦しみを受けていた。

それをランスロットが助け出したため、エレインはランスロットに恋をする。

しかし、王妃グィネヴィアしか愛することの出来ないランスロットは、エレインの気持ちにこたえようとはしなかった。

Elaine of Carbonek

エレインは、せめて一夜でもとの想いから、魔法の薬の幻覚によってランスロットに自分を王妃グィネヴィアと誤認させて、ランスロットと一夜を共にし、ガラハッドをもうける。



そして、グィネヴィアではないと気付いたランスロットはアッサリとエレインのもとを立ち去る。

エレインは、女としての屈辱にまみれながらも、自らの命の恩人であり愛おしい息子を与えたランスロットを悪く言うことは生涯一度もなかった。



読者登録
QRコード
QRコード
メッセージ

名前
メール
本文
RSS
  • ライブドアブログ