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ファッション

韓信 (楚漢戦争の勝敗を分けた歴史的軍事の天才)

703x999韓信


韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。

 

そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。

 

 

そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。

 

韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。

 

韓信5
 

そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。

 

すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。

 

その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。

 

 


 

秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。

 

 

 

 

紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。

 
 

功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

領地分配
 

韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。

 

 

そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。

 

 

しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。

 
 

ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。

 

韓信1
 
 

韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。

 

「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。

 

 

 

劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。

 

 

 

 

劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。

 

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 

2韓信
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。

 

 

韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。

 

 

韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。

 

 

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。

 

 

項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。

 

 
 

軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。

 

 

 


 

その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。

 
 

しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。

 

 

韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。

 

 

韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。

 

韓信3

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

そして、紛れもなく韓信もその一人である。

 

 

 

 

紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。

 

 

故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。


韓信4
 

 

しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。

 

 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。

 

 

警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。

 

 


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張良 (千里の彼方より戦を勝利に導く知将)

703x999張良


張良は、父も祖父も韓
(現在の河南省北部、山西省南部、陝西省東部)の宰相(その国のNO.2)を務めていた。

 

紀元前230年、史上初めて中国を統一する秦によって韓が滅ぼされる。

 

 

祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とし、弟が死んでも費用を惜しんで葬式を出さなかった。

 

始皇帝
  
始皇帝

張良は同志を求めて旅をし、始皇帝暗殺のための準備を整えると、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を襲う。

 

しかし、暗殺は失敗に終わり、張良は逃亡した。

 

始皇帝の命を狙った張良は全国指名手配となり、偽名を使って身を潜めることになる。

 

 

 

 

ある日、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げると、張良に向かって「小僧、取って来い。」と言いつけた。

 

張良は殴ってやろうかと思うが、相手が老人なので我慢して靴を取って来てやった。


すると老人は足を突き出して「履かせろ。」と言う。


張良はこみ上げる怒りをあきらめて老人に靴を履かせた。


老人は「お前に教えることがある。
5日後の朝にここに来い。」と言った。

 
 

5日後、日が出てから、張良が約束の場所に行くと、すでに老人は来ており「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ。」と言い「また5日後に来い」と言って去った。


 

5日後、張良は日の出の前に、家を出たが、またすでに老人は来ていた。

老人は再び「5日後に来い」と言い残して去った。

 
 

5日後、張良は夜中から、約束の場所で待っていると、しばらくして老人がやって来た。

老人は満足気に「わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ。」と言うと張良に「太公望の兵法書」を渡して「これを読めば王者の師となれる。」と言い残して消え去った。

 



陳勝・呉広の乱

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集められなかった。

 

 

ほどなく、張良は劉邦との運命的な出会いをする。

 

張良は、始皇帝暗殺に失敗し、兵を集めることも出来ない自分に対して、将の器がないことを痛感していた。

 
 

それでも秦打倒の夢を捨てられず、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説くも、誰からも相手にされないでいたが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、それらはほとんど無条件で採用されるようになる。

 

 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

劉邦がこの懐王の反秦軍に参加すると、張良は項梁に韓(張良の祖国)を秦から奪い、王を擁立する必要性を説き、劉邦と共に旧韓の城を十数城攻め取り、韓の公子であった成を韓王に擁立して韓を再興する。

 

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

咸陽1

 

咸陽を目指す劉邦軍において、張良は様々な戦略を提案し、劉邦軍は最小限の被害で転戦していき、関中への一番乗りを果たす。

 

 

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都・咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、張良は「秦が無道を行なったので、劉邦は咸陽に入城できた。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じになってしまう。」と劉邦を諫めた。

 
 

ここで劉邦に我慢をさせたことは、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、劉邦が多くの人々からの信用を集める一因にもなる。

 

 

 


 

一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。


 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会であったが、張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜ける。

 

 

領地分配

秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

 

 

張良は劉邦に、漢中に至る険しい山道を少しでも通り易くするための桟道を焼くように進言した。

 

項羽がどんな言い掛かりで劉邦の討伐を決めるか分からないので、道を焼いて通行困難にすることで反乱の意思がないことを示すことが理由である。

 

 

さらに張良は項羽に「劉邦は桟道を焼いており、項羽を攻めることは出来ない。それより斉(現在の山東省を中心した地域)で田栄らが背いています。」との手紙を出し、項羽は劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

 


 

項羽は多くの不満を買っていたため、反乱は各地で続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力はさらに薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
 

 

広武山

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転しながら、紀元前203年、広武山(河南省)で数カ月に及ぶ膠着状態の末、両軍共に疲労の色合いが濃いため、和睦してそれぞれの根拠地へと戻ることが決定した。

 

 

ここで張良は、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言する。

 

疲弊している項羽軍も、戻って回復すればその強さが戻ってしまい、油断している今を置いて勝機はないと、張良は判断した。

 


 

劉邦はそれを受け入れ、韓信と彭越に援軍を要請するが、韓信と彭越はやって来ない。

 

それに対して張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないから。彼らは劉邦と項羽が争っているからこそ、自分に価値があることを分かっていて、争いが終わってしまえば自分達がどうなるのか不安なのだ。」と説明した。

 

 

張良の説明に納得した劉邦は、戦後に韓信を斉王に、彭越を梁王にすることを約束すると、戦後の立場に安心した韓信と彭越は劉邦のもとに馳せ参じる。

 


 

韓信と彭越の率いた軍勢、さらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、劉邦軍は60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰め、項羽と劉邦の長年の戦いは劉邦の勝利に終わった。 

 

張良1

遂に項羽を滅ぼした劉邦は、紀元前202年、皇帝に即位して、恩賞の分配をし始めた。

 

張良は野戦での功績は一度もなかったが、張良なくして劉邦の勝利がなかったことは明白であり、3万戸の領地が与えられるはずであったが、張良はそれを辞退した。

 

 

張良が恩賞を辞退した理由は、秦に滅ぼされた祖国・韓の無念を自らの謀略で晴らす事が目的であったという純粋な面と、恩賞によって力を持つと後々、劉邦の粛清の標的になる可能性があることを理解していたからである。

 


 

権力を勝ち取った者が、権力を長期に渡って安定させるために、例え功労者であっても戦力を保有する者は粛清していくのは当然で、日本人に馴染み深いところでは徳川幕府が良い例であろう。

 

世知辛い話ではあるが、これを情に流されて怠ると、ほぼ確実に権力の寿命は短くなる。

 

 
 

実際に、劉邦はこの後、天下統一の最大の功労者の一人で戦後に斉王の地位を与えた韓信を皮切りに、彭越、英布と、戦上手で領地の大きい者を粛清していく。

 

 
 

もしも「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した(会議室で考えた戦略ではるか遠方の戦に勝利する、という意味)。」と劉邦に言わしめた張良が、広い領地を得て力を保有していたならば、確実に劉邦の粛清の対象となっていたであろう。

 

 張良2


張良は元々病弱な面があったが、劉邦の開いた漢王朝が確立されて以降は、病気と称して家に籠るようになった。

 

 

しかし、劉邦の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏が自分の子である劉如意を後継者にしようと画策し始め、劉邦もその気になる。

すでに後継者となることが決まりかけていた劉盈とその母・呂雉(劉邦の正室)は危機感を抱いて、張良に助言を求めた。

 

 

張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗していた高名な学者達を、劉盈の師として招かせる。

 

 

劉邦は自分がたびたび招聘しても応じなかった学者達が劉盈の呼びかけに応じたことに驚き、学者達に理由を聞くと「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでしたが、劉盈殿下は徳も礼も備えているので応じました。」と答えた。

 

 

これにより、劉邦が劉盈の後継者としての器を改めて理解したため、呂雉(劉盈の母)は張良に深い恩義を抱き続ける。

 

 

張良は、劉邦の死の9年後、紀元前186年に死去した。

 

 

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樊カイ (劉邦の命の恩人)

703x999樊カイ
樊カイの「カイ」の字は常用漢字でないためカタカナ表記しています。



樊カイ
(はんかい)は劉邦、蕭何、曹参と同じく沛(江蘇省徐州市)の出身で、劉邦とは幼馴染であった。

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。

 

 

蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなると、それまで犬の屠殺業をしていた樊カイもこの反乱軍に加わった。

 

沛
 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

咸陽を目指す劉邦軍において、勇猛果敢な樊カイは大いに存在感を示し、劉邦軍は関中への一番乗りを果たす。

 

 

 

一方で、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

鴻門の会
 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛のために付き従っていた樊カイは中に入ることは許されなかった。

 

 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。

 

 

しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。

 

 

劉邦をここで絶対に殺しておくべきだと考えていた范増は、煮え切らない項羽の態度に痺れを切らして、部下に宴会の余興として剣舞を踊らせ、劉邦の近くによった時に斬るように命じる。

 

 

宴会場の状況を知った樊カイは、制止する兵士を突き飛ばして宴会に乱入すると、樊カイの迫力に気を取られて剣舞が止まった。

 

 

項羽が樊カイを試すように、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊カイはそれを一気に飲み干し、次に項羽が豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊カイは盾をまな板にして剣でその肉を切り刻んで食べ尽くす。

 

 

ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊カイは「秦王は暴虐で人々を苦しめた。懐王は諸将に、先に咸陽に入った者を王にすると約束した。劉邦は先に咸陽に入ったが、宝物の略奪もせず、項羽の到着を待っていた。功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではないのか。」と項羽に訴えた。

 

 

これに対して項羽は、返す言葉がなく「それほど劉邦が心配なら、ここに座って守っていても良い。」と、完全に劉邦を殺す意思のないことを示す。

 

 

 

腕っぷしも度胸も豪傑そのものの樊カイがいなければ、間違いなく劉邦の命はここで終っていた。

 

その後、劉邦と樊カイは宴会を脱出し、張良が残って、劉邦が先に場を後にしたことを詫びる。

 

この後世に語り継がれる宴会での出来事を「鴻門の会」と呼ぶ。

 

 

領地分配
 

劉邦は命拾いするものの、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて出撃し、項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 

 

 

劉邦が天下統一を果たすと、樊カイは数々の戦場での武勲に加えて「鴻門の会」で劉邦の命を救ったことから、臨武(湖南省郴州市)侯を任された。

 

 

樊噲1
 

紀元前196年、樊カイは、謀反を検討した韓信に同調した鉅鹿(河北省邢台市)太守・陳キを討伐する。

 

 

豪傑としてのイメージが強い樊カイは、価値観や道徳観にも真っ直ぐなところがあり、もともと遊び人で怠け癖があり欲に流されやすい劉邦を度々いさめて支え、紀元前189年に死去した。

 

 

また、樊カイの妻・呂シュ(りょしゅ)は、劉邦の妻・呂雉の妹であることから、劉邦の死後も王室の樊カイへの信頼は厚かったが、樊カイの子・樊伉は呂雉の死を機とした政変により殺される。

 



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曹参 (漢王朝を約200年の安定に繋げた東洋のアウグストゥス)

703x999曹参



曹参
(そうしん)は劉邦と同じ沛(江蘇省徐州市)の出身で沛の役人として働いていた。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える蕭何(しょうか)は、この頃の上司である。

 


 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、曹参と蕭何らは沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。

 

しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

沛
 

以降、曹参は劉邦軍の最前線で戦場に出る。

 

 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 



 

咸陽を目指す劉邦軍において、曹参は各地を転戦してその攻略に大いに貢献し、劉邦軍は見事に関中への一番乗りを果たす。

 

 

しかしながら、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。


楚漢時地図
 
 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
 

徐州市(彭城)
 
 

大敗北を喫した劉邦はケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込んで籠城をし、曹参は韓信と共に、項羽に寝返った魏・代・趙・斉などの諸国を攻めて、次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。

 

 

斉への攻撃の際には、韓信が川の水を上流で堰止めするが、敵軍は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が敵兵を一気に呑み込んだ。

曹参はそこから逃亡をはかる敵の副将・周蘭を生け捕る手柄を立てる。

 

曹参2
 

 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において蕭何を戦功第一に選んだが、数十箇所の傷を負いながらも前線で戦い続けた曹参を推す声も大きかった。

 
 

さらに曹参は斉国の相国(臣下としての最高位)として、斉王を任された劉邦の子・劉肥を補佐することになる。

 

攻略に苦戦し安定の難しかった斉は七十余城を数える大国であり、曹参がその重要な土地を任されたのは劉邦からの信頼が厚く功績が多かったからであった。

 


 

曹参は劉邦が漢王朝を開いてからも、12万の軍勢を率いて反乱を起こした英布と戦うなど戦場で功をあげる。

 

 

 

また、曹参は戦場以外でも勉強熱心で、長老や学者に人民を安定させる方策を訊ね、葢公という思想家の意見を採用して斉の統治を行い、有能な人材の登用にも力を入れ、9年かけて斉を安定させ、賢相として称えられた。

 

 


 

紀元前193年、蕭何は死ぬ間際に自分の後継に曹参を推薦し、曹参は漢の相国となる。

 

 

曹参は、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更せず、役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を部下に選び、言葉や文章が苛烈で名声を得たがる役人は側に置かなかった。

 

イノベーションあふれる者は、どんなに優秀であっても安定期の帝国にとっては安定を揺るがす存在になる。

 
 

戦争に勝つための人材と、戦後の安定をはかるための人材に求められる素養が大きく違うことを曹参は理解していた。

 

曹参1

曹参は部下が小さな過失を犯したのを見ると、それを覆い隠し表沙汰にしないようにするなど、その仕事ぶりは緩いものになっていく。

 

 

恵帝(劉邦の子・劉盈で第2代皇帝)が、曹参の職務怠慢をいぶかって責めると、曹参は「陛下は私と蕭何はどちらが優れていると思われますか。」と言い、恵帝が「蕭何」と返答すると、曹参は「そのとおりです。劉邦と蕭何がすで天下を平定し、その基盤が出来ているので、我々はそれを遵守すれば良い。」と教えると、恵帝は納得した。

 

 

劉邦や蕭何が作り上げた漢王朝が、その後約200年の長きに渡って続いたのは、完璧なものをそのまま引き継いだからである。


その伝言ゲームの最も重要な引き継ぎ役になったのが曹参であった。

 

 
 

曹参は紀元前190年に死去した。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。

 

 

 

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蕭何 (劉邦による中国統一の最大功労者)

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蕭何(しょうか)は劉邦と同じ沛
(江蘇省徐州市)の出身で、若い頃から沛で役人をし、ポストは低かったが、その仕事ぶりは真面目で能率も良く、周囲の評価も高かった。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える曹参(そうしん)は、この頃の部下である。

 

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、蕭何は曹参らと沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。


しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

 沛

 

以降、蕭何は劉邦軍における内部事務の一切を切り盛りする。

 

 


 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 


 

蕭何は劉邦軍の食糧調達を担当し、これを絶やすことがなかったので、劉邦軍の兵士達は略奪に走ることがなく、劉邦軍は攻略した土地に対して蛮行を働かないという評判を生み、それが多くの無血開城を実現させていく。

 

蕭何2

 

劉邦が項羽よりも先に関中入りし、咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何ただ一人、秦の歴史書、法律書、人口記録などが保管されている文書殿に走り、それら全て持ち去る。

 

そのためこの後、遅れて関中入りした項羽が宮殿を焼き払うが、蕭何が持ち去った貴重な文書は燃えることなく、それらは後々、劉邦が漢王朝を開く際に大いに参考となった。

 

 

 

 

結局、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

楚漢時地図
 

劉邦が漢王になると、蕭何は丞相(NO.2)として内政の一切を担当することになった。

 

 

それからまもなく、韓信が劉邦軍に加わる。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えしてきたのだが、韓信は家柄もなく項羽軍では雑兵で実績もないため、劉邦軍でも活躍の場が与えるのは難しかった。


 

そのため、韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて去ろうとするが、蕭何は韓信に計り知れない才能を感じて「自分が韓信を劉邦に推挙して、駄目であれば、私も漢を捨てる。」とまで言って引き止める。


 

劉邦は蕭何の推薦を受け入れ、韓信を大将軍へと大抜擢した。

  

劉邦がなんの実績もない韓信の能力に期待するための唯一の材料は蕭何への信頼だけで、それはつまり、蕭何なくして軍事の天才・韓信は歴史の表舞台に立つことはなかったのである。

 

 

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
 

徐州市(彭城)
 

蕭何は関中に留まって、関中から戦地の劉邦軍に向けて食糧と兵士を送り続け、それを途絶えさせることはなく、劉邦軍を後方から支える。

 

しかも、関中での治世において、民衆の不満を買うことなく名丞相として称えられた。

 

 


 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

蕭何の送り続けた食料と兵士がなければ、そして、根拠地である関中が安定していなければ、劉邦が負け続けてもなお最終的には勝利することもなく、さらに戦場で大活躍した韓信を雑兵から大将軍へ押し上げたのは他ならぬ蕭何であった。


 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を戦功第一に選ぶ。

 

 


 

皇帝となった劉邦が漢王朝(前漢)を開くと、蕭何は長年続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事した。

 

 

紀元前196年、蕭何は韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出して誅殺する。

 

韓信は用心深い性格であったが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたゆえの油断であった。

 

軍事の天才・韓信が反乱を起こせば、劉邦には大きな困難が待ち受けていたはずであるが、それを水際で防げたのは蕭何という存在あってである。

 

蕭何1
 
 

しかし、やがて劉邦の猜疑心が蕭何にも向き始めた。

 

蕭何は長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できるため、危険視される。

 

そのため、蕭何は汚く金儲けをしたり、わざと自らの評判を落とすことにより、劉邦に反乱の可能性を感じさせないようにした。

 

 


 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなる。


跡取りに恵まれにくかった蕭何の家系は何度も断絶するが、歴代の皇帝は蕭何の王朝への功績が大き過ぎるため、血の繋がる者を見つけ出しては位を与えて家系を継続させた。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。

 


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項羽 (その気迫は世を覆い尽くした呂布を越える猛将)

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項氏は代々、楚
(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄であった。

項羽は両親を早くに亡くしていたので、叔父の項梁に養われる。

 

 

後々の項羽からすると想像しがたいが、幼少期の項羽は勉強が苦手で剣術の覚えも悪く、項梁がそのことを叱ると、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にするものがやりたい。」と言ってのけた。

 

 

項羽は成人すると、身長が9(207センチ)の大男となり、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主となり、異常な迫力と威圧感に満ちていた。

 

陳勝・呉広の乱
 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起き、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていくと、項羽は項梁に従って会稽郡(現在の浙江省紹興市)の役所に乗り込み、たった一人で数十名の役人を皆殺しにし、叔父の項梁が会稽の長となり、反秦軍に参加する。

 

 

その後、反秦軍の有力者となった項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。

 

 

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

項梁の死後すぐに楚軍の指揮をとったのは宋義という人物であったが、項羽は宋義を殺害し、以降、楚軍の総大将は項羽となる。

 

項羽5
 

項羽は鉅鹿(現在のケイ台市平郷県)で、叔父・項梁を戦死させた章邯が率いる20万の大軍と戦う。

 

項羽は、章邯軍の食料運搬部隊を襲い、敵の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させ、味方に対しては川を渡った後に三日分の食料のみを与え、残りの物資は船もろとも沈め、三日で決着がつかねば全滅あるのみという状態に追い込んだ。圧倒的に数では劣る項羽軍は一人で十人の敵を倒して、この決戦に勝利する。

 

 

人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。

 

 

項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、20万以上の秦兵を捕虜として得ると、これらを全て生き埋めにした。


 

項羽が20万人もの捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由が大きかった。

 

戦争とは食料問題との戦いである。

 

軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、人間は食べなければ斬られずとも死ぬ。

 

項羽のこの問題への解答は、おそらく少数精鋭だったのではないかと考えられる。

一人で10人殺せれば、食料は10分の一で済むという、戦術的にも戦略的にも合理性・効率性を求めたのではないだろうか。

 

 

 

項羽軍は常軌を逸した戦闘能力で連戦連勝を重ねながら咸陽を目指すが、別働隊として咸陽を目指していた劉邦軍が先に関中に入っていた。項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとする。
 

鴻門の会
 

劉邦は慌てて項羽の伯父・項伯を通じて和睦を請い、項羽は劉邦を殺す予定で酒宴に招き、軍師の范増は酒宴中に度々劉邦を殺すように項羽をうながす。

 

しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていく。

 

ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒した。

 

 


 

その後、項羽は、先に関中入りした劉邦に降伏していた子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。

 

 

項羽はそのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。

 

 

 

紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなう。

 

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものとして関中に一番乗りした劉邦に約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えた。

 

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

 

 

また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。

 

楚漢時地図
 
 

項羽は秦を滅亡させても中国を安定させることは出来ず、斉(現在の山東省)の田栄が項羽に対して反乱を起こすと、これをキッカケに領地分配に不満を抱いていた諸侯達が続々と反乱を起こす。

 

 

僻地で漢王にさせられていた劉邦は、項羽の懐王殺害を知ると、項羽の非道さを有力諸将に訴え、相次ぐ項羽への反乱の火を煽り、項羽への不満をまとめあげていく。

 

 

項羽は討伐軍を率いて各地を転戦し、圧倒的な戦闘力ですぐに反乱は鎮圧されていくが、そこから間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその討伐に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するという状態が続いた。

 

 

そのため、項羽は劉邦の動きに対する意識が希薄になっていき、さらに、味方だと安心していた英布に何度も応援要請をしては仮病を使われ、最終的にはその英布は劉邦の側についてしまう。

 

 

劉邦は有力諸将と連合して、56万の大軍勢で、項羽が留守にしている彭城を占領する。

 

 

 

激怒した項羽は3万の精兵のみを率いて猛スピードで彭城に引き返し、なんと劉邦の56万の大軍を打ち破り、劉邦を敗走させ、劉邦の父や妻を捕虜にとった。

 

項羽3


その後、項羽は劉邦を何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、さらに別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなり、加えて内部分裂工作も起きて疑心暗鬼になった項羽は有能な部下を疑い、父についで尊敬する人とまで呼んでいた軍師・范増との関係も悪化させる。

 


 

劉邦が天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固めると、項羽軍は道の険しさから一気に攻め入ることが出来ず、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。

 

 

そうして、項羽軍の最大かつ致命的欠点である食料問題が表面化する。

 

項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫るが、劉邦に「殺したら煮汁をくれ」と返答された。

 

 

次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦にこれを笑い飛ばされる。

 

 

そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。

 

 

 

紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦して故郷に帰ることを決める。

 

 

しかし、劉邦は和平の約束を破り項羽の後背を襲ってきた。

 

 

疲弊の極みにあった項羽軍はさらに背後をつかれ、これまでのように数的な不利を跳ね返せずに敗走し、再び多くの有力諸侯を味方につけ60万にも膨れ上がった劉邦の連合軍に垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

 

ある晩、城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聴こえてきたため、項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。

 

ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。

 

虞美人
  
虞美人
 

その夜、項羽は愛人である虞美人(ぐびじん)に歌を贈った。

 

歌の内容は「かつて私の力は山をも動かす程強大で、気迫はこの世を覆い尽くすほどであったが、時勢は私に不利であり、もはや愛馬が前に進もうとしない事すら、どうにもならない。そんなことよりも、虞よ、虞よ、オマエをどうすれば良いのか。」

 

その歌を受けた虞美人は、項羽の足手まといにならないように自殺をする。

 

 


その後、項羽は手勢800騎を率いて、連合軍の包囲網を超人的な戦闘力で突破するが、東城(現在の安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。

 

 

 

そこで数千の劉邦軍に追い付かれた項羽は、配下の28騎を七騎ずつ4隊に分けて、それぞれ敵軍の中に斬り込んでいく。

 

項羽は一人で100人近い敵兵を鬼神のごとき強さで殺し、項羽とその配下が再び集結すると、脱落したのはわずか二人だけであった。

 

 

 

そこから、項羽たちは、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮)に至った。

川の先には、かつて項羽たちが決起した江東の地がある。

 

烏江鎮
 

烏江の役場長は項羽に「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません。」と告げた。

 

 

しかし、項羽は笑いながら「昔、江東の若者8000を率いて川を渡ったが、今ここに、その時の者は一人もいない。江東の者達が、再び私を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がどこにあろうか。」と断ると、馬を降り、配下の者達にも下馬させて、そのまま劉邦軍を迎え撃つと、項羽一人で敵兵数百人が殺す抵抗をみせる。

 

 

 

項羽は敵の中にかつて自分を慕っていた同郷の呂馬童がいるのを見つけると「劉邦は私の首に千金と万の邑を懸けていると聞く、お前にその恩賞をくれてやろう。」と言うと、自ら首をはねて死んだ。



 

その結果、項羽の死体は五つに分かれ、劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して与えた。

 


 

劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、礼を以て葬った。

 

 


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劉邦 (連戦連敗および逃亡そして中国統一)

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劉邦は沛(江蘇省徐州市)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生する。

 

若い頃の劉邦は酒色を好み、家業を嫌い、縁あって務めていた下級役人の仕事にも不真面目に取り組んでいた。

そのため、沛(はい)の役人の中には、後に劉邦の天下統一を助ける蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)もいたが、彼らもこの頃は劉邦を高くは評価していない。

 

 

劉邦はあまり褒めるべき点がないような人物であったが、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になるなど、不思議と人望があった。

 

沛

ある時、沛へとやって来た単父(現在の山東省)の名士である呂公という者を歓迎する宴が開かれる。

沛の人々はそれぞれ贈り物や金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、この宴を取り仕切っていた蕭何は、贈り物が千銭以下の者は地面に座ってもらおうと提案した。

 

そこへ劉邦がやってきて贈り物は「銭一万銭」と呂公に伝えると、あまりの高額に驚いた呂公は丁重に劉邦を迎えて上席に着かせる。

 

蕭何が呂公に「劉邦は銭など持っていない。」と伝えると、呂公は逆に劉邦に対する興味を深め、劉邦の龍顔(顔が長くて鼻が高く髭が立派であること。縁起が良いとされていた。)に惚れ込み、自らの娘・呂雉を娶わせた。


 陳勝・呉広の乱


紀元前
209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。

 

蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなった。

この時に、劉邦が集めた兵力は23千で、配下には蕭何と曹参の他に、犬肉業者をやっていた樊カイ(はんかい)などがいた。

 

 

ほどなく、劉邦は張良との運命的な出会いをする。

後に軍師として劉邦の天下統一の立役者となる張良は、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説いていたが、誰からも相手にされないでいた。

 

ところが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、ほとんど無条件に採用された作戦の数々は大きな戦果を上げていくことになる。

 
 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

項羽は途中で宋義を殺すと自ら総指揮官となり、河を背に3日分の食料以外の物資は船も含めて全て破棄して兵士達に死に物狂いで戦わせるという戦術をとったり、撃破した秦軍の捕虜20万人を生き埋めするなど、敵も味方も震えあがらせる指揮をとり、大きな戦果を上げていく。

 

人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。

 


 

一方、西回りの劉邦が苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで辿り着くと、劉邦は儒者であるレキ食其(れきいき)の訪問を受ける。

 

劉邦は大の儒者嫌いであったため、投げ出した足を女達に洗わせながらレキ食其と面会するという態度をとった。レキ食其がその態度を一喝すると、劉邦は無礼を詫びてレキ食其の話に耳を傾けた。

 

レキ食其は「この先の陳留(現在の河南省開封市)は交通の要所で食料が豊富なためこれを得るべきである。また、降伏しても身分を保証すると約束すれば余分な犠牲を出さずに済む。」と進言する。

 

 

軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、戦争において食料の確保が最優先事項であることは、古今東西の最終的な勝利者となった指揮官全ての共通認識である。人間は食べなければ斬られずとも死ぬのである。


 

項羽が20万人の捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由も大きかった。

 

 

レキ食其の進言を採用した劉邦は、陳留の無血開城に成功し、大量の食糧と兵の増員に成功する。
 

劉邦3

劉邦はこれ以降も度々無血開城に成功しながら各地を攻略して行ったので、その進軍は激しい戦闘を繰り返す項羽よりも早かった。

 

そして、ついに劉邦軍は項羽軍よりも先に関中へと入り、秦の首都・咸陽を目の前にする。

 

 

反秦軍の勢いに観念した秦の王・子嬰は、劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏し、劉邦の部下の多くは子嬰を殺すべきだと主張したが、劉邦は子嬰を許した。

 

 

劉邦が咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、樊カイや張良に諫められると、それらに一切手を出さなかった。

ここでの我慢は、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、多くの人々からの信用を集める一因にもなる。

 



 

一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 
 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。


劉邦はまず項羽に「私達は共に秦を討つために協力し、私は思いもよらず先に関中に入ったが、項羽をさしおく気はない。」と伝える。


項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。


しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。
 

鴻門の会

ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒する。

 

さらに張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜けた。


 

 

 

その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。

 

項羽は「西楚の覇王」を名乗り、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王は邪魔になったので暗殺する。


 

紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなった。

 

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものは関中に一番乗りした劉邦が、約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられたことであった。

 

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

 

楚漢時地図
 

さて、こんな苦境の中で新たに劉邦軍に加わったのが韓信であった。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えし、その才能を見抜いた蕭何の推挙により、すぐに大将軍となる。

 

 
 

一方、項羽は多く不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 
 

紀元前205年、反乱鎮圧に奔走する項羽が留守にしていた彭城を、劉邦は56万の連合軍でアッサリと制圧する。

連合軍は大勝利に浮かれて、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回していた。

 

徐州市(彭城)
 

彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭を選んで猛スピードで引き返してくると、項羽軍3万は油断しきっていた連合軍56万を木っ端微塵に打ち破り、連合軍は10万人にものぼる死者を出す。

 

この時、劉太公(劉邦の父)と呂雉(劉邦の妻)が項羽軍の捕虜となる。

この大敗北により、ここまで劉邦に味方していた諸侯達は慌てて項羽になびいていった。

 


 

大敗北から4カ月、劉邦は逃げ込んだケイ陽(河南省鄭州市)で籠城を続ける。

孤立した劉邦が再起をはかるためには軍勢を集めることが急務であった。

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、わずか12000の兵で20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、その後も次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。

 

 

同じ頃、項羽の軍勢に完全包囲をされて、苦悩する劉邦に韓信から手紙が届く。

 

劉邦は韓信の帰りの知らせであることを期待していたが、その内容は、斉を安定させるために王を名乗りたいというものであった。

劉邦は自信を持った韓信が野心を抱いて裏切ろうとしていると察し、激怒する。

 

しかし、張良が「ここは韓信の望み通りにするべきである。さもなくば、韓信は本当に裏切るだろう。」とさとし、劉邦は韓信の機嫌を損ねないように斉王となることを認めた。

  


広武山

劉邦は韓信が戻るまでの時間稼ぎをするため、天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固める。



道が険しく一気に攻め入ることの出来ない項羽軍は、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。


 

項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫ったが、劉邦は「殺したら煮汁をくれ」と返答する。


次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦はこれを笑い飛ばした。

 

そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。

 
 

紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦することを決める。

 

 

 
 

項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良は「もしここで両軍が引き上げれば、あの強い項羽軍が再び勢いを取り戻すので、今こそが劉邦軍が勝つ千載一遇のチャンスである。」と言って、退却する項羽軍の後方を襲うことを劉邦に進言した。
 

劉邦4
 
 

項羽の背後を追う劉邦軍が、韓信の集めた30万の大軍とさらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰める。


 

劉邦は全軍の指揮を韓信にアッサリと譲り、韓信は60万の大軍勢をもって項羽軍10万を包囲し、食料不足にする作戦をとった。

 

 
 

やがて項羽軍が疲弊し切った晩、領邦軍60万は楚の歌の大合唱を始める。

 

故郷である楚の歌が敵側から聴こえてきた項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。


ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。

 

 

その後、項羽は残った少数の兵を伴い、超人的な武勇で包囲網を突破するが、最終的に自害を選んだ。

 

 
 

 

紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し、論功行賞では、戦場での功が多い曹参よりも、兵員と物資の調達をし続けた蕭何を第一とするなど、細やかな評価を下していく。

 

韓信は楚王に任命された。

 

また、張良には3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断る。

 

さらに、劉邦を裏切ったり、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと劉邦の陣営に加わった雍歯を真っ先に什方侯にした。これは張良の策で、劉邦が恨んでいるはずの雍歯でさえ功があれば恩賞が下るなら、この論功行賞は公平になされると、他の諸侯に説得力と安心感を与える効果があった。

 

 

 

劉邦は酒宴の席で自らが天下統一を成し得た理由を「わしは張良の様に策をめぐらし千里先から勝利する事は出来ない。わしは蕭何の様に兵をいたわって補給を途絶えさせず安心させる事は出来ない。わしは韓信の様に軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という三人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増一人すら使いこなす事が出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ。」と語った。

 
劉邦2
 

天下を統一した劉邦は、一転して、帝国の安定のために大粛清を始める。

 
 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、反乱を起こそうと目論むが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何の策略でおびきだされて、誅殺される。

 

彭越は梁王の地位を取り上げられ、蜀に流刑されるところであったが、劉邦の妻・呂雉の進言により流刑ではなく処刑に変更された。

 

次は自分の番だと警戒した英布は反乱を起こすが、激戦の末、敗れる。

 

 

劉邦も英布との戦いの際に受けた矢傷が元で、紀元前195年に死去した。

 


 

強大な諸侯は全て劉邦に粛清され、劉邦の起こした漢王朝に対抗できる者はなく、劉邦の息子・劉盈(りゅうえい)2代目皇帝に即位すると、漢王朝はその後約200年の長きに渡って続く。

 

 

劉邦は「陳勝・呉広の乱」で秦の圧政に対する反乱の狼煙を上げた陳勝を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓を守らせていた。




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陳勝・呉広の乱


中国史上、最も壮大でドラマチックな戦いといっても過言ではない項羽と劉邦の覇権争いは、当時の中国を治めていた「秦」という国の圧政を打倒することから始まった。

その狼煙となった「陳勝・呉広の乱」をザッと説明したいと思う。


戦国七雄
※ 始皇帝が統一する前の中国


紀元前210年に「秦(初の中国統一国家)」の始皇帝が死去すると、その末子である胡亥が兄の扶蘇を謀殺して始皇帝の後継者となる。


紀元前209年7月、陳勝と呉広は強制的に徴兵された農民900名と共に、辺境守備のために漁陽(現在の北京市密雲県)へと向う。

しかしその道中で大雨によって道が水没し、期日までに漁陽へとたどり着く事が不可能となる。


秦の法律ではいかなる理由があろうとも期日までに到着しなければ斬首であった。


期日までに着けないと判断した陳勝と呉広は、どうせ殺されるならと反乱を決意する。


陳勝と呉広は引率の役人を殺すと、陳勝が演説を行った。

「期日に間に合わない自分達は問答無用で斬首である。どうせ死ぬのならば名を残して死ぬべきだ。そもそも同じ人間である王侯将相に我々の命を奪う権利はないはずだ。」

これを聴いた一同は一斉に同意を示した。


こうして「陳勝・呉広の乱」は始まり、反乱は各地を攻略するたびに秦の圧政に苦しむ民衆を巻き込んで一気にその勢力を拡大させていく。

これは、いき過ぎた厳罰は抑止力と成り得ない事を後世に伝えた出来事でもある。


陳勝は「張楚」という王朝を打ち立て、王を名乗るようになる。


陳勝の快進撃の噂が広まると、それまで「秦」の圧政に耐えていた民衆は自分の土地の役人達を殺して陳勝に迎合していった。


しかし、破竹の勢いで打倒「秦」を目指す反乱も、強大な中国を統一した秦の底力の前に徐々に旗色が悪くなっていくと、内部分裂も目立つようになり、呉広も陳勝も部下の裏切りにあって殺される。



中国史上初の農民の反乱は、結果的にはわずか半年で鎮圧されたが秦に対する民衆の不満がハッキリと表現されたことの意義は大きかった。



その後、陳勝と連携するつもりであった楚の項梁が反秦の旗手を引き継ぎ、紆余曲折を得て、紀元前206年に秦は滅亡する。


しかし、その後も戦乱は終息せず、新たな中国の盟主を目指す「楚」の項羽と「漢」の劉邦が争い、「楚漢戦争」へと発展していく。

劉邦A


次回から、中国の覇権を握る劉邦を支えた人物達と最大のライバルとなった項羽を合わせた7人をそれぞれの生涯として案内します。



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・劉邦      (案内人・アーサー)

・項羽      (案内人・モルドレッド) 

蕭何      (案内人・ガウェイン)

曹参      (案内人・トリスタン)

樊カイ     (案内人・パーシヴァル)

・張良      (案内人・ガラハッド)

・韓信      (案内人・ランスロット)

・虞美人     (案内人・モルゴース)



デュ・バリー夫人 (娼婦から宮廷夫人となったプリティ・ウーマン)

703x999デュ・バリー夫人


 

本名はマリ=ジャンヌ・ベキュ、1743819日、フランスのシャンパーニュ地方でアンヌ・ベキュの私生児として生まれた。

 

母アンヌ・ベキュは弟を生んで間もなく駆け落ちし、デュ・バリー夫人は叔母に引き取られて育つ。

 

 

7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたデュ・バリー夫人は、金融家の継父からかわいがられて、教育の機会に恵まれ、15歳で修道院での教育を終える。

 

修道院を出て最初に侍女として働いた家では、素行上の問題から解雇された。

 

 

その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしながら、日々をどうにか食いつなぎ、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始める。
 

デュ・バリー夫人1
 

若くて美しいデュ・バリー夫人は、やがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。

 

 

もともと娼婦同然の生活で、それも貧しさを生き抜いたデュ・バリー夫人にとって、家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などを相手にして、それ相応の身なりをして洒落た遊びに触れることは、キャリアアップにも等しかった。

 

事実、その世界は大きく広がっていく。

 

 

 

1769年、フランス国王ルイ15世に紹介される。 
 

ルイ15世DB
  
ルイ15

 

ルイ15世は、その5年前に寵愛していた愛人ポンパドゥール夫人を亡くしていた。

デュ・バリー夫人はそのチャンスをものにし、ルイ15世はデュ・バリー夫人の虜になって愛人にすることを決める。

 

 

デュ・バリー夫人は、デュ・バリー子爵の弟と結婚して「マリ・ジャンヌ」から「デュ・バリー夫人」と名を変えると、もろもろ形式的な手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾となって社交界にデビューした。

 

 

 

フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16)に嫁いできたマリー・アントワネットと犬猿の仲になる。

 

 

マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を強く受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続けた。

 

 

加えて、かねてからデュ・バリー夫人と対立関係にあったルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人マリー・アントワネットを味方につけようと画策したことで、その対立は深くなっていった。

 

 

 

1774年、宮廷内でのデュ・バリー夫人の後ろ盾である国王ルイ15世が天然痘で倒れる。


後ろ盾が病に侵され宮廷内で裸同然となったデュ・バリー夫人は、追放同然に宮廷を追われることになった。

 

 

そのため、一時的に不遇な時間を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、落ち着いた時間を取り戻していく。

 

 

その後、ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり、再び優雅な日々を送る。

 

デュ・バリー夫人5
 

1789年、フランス革命が勃発すると、愛人であるド・ブリサック元帥が虐殺されたため、デュ・バリー夫人はイギリスへと逃れると、フランスから亡命しようとする同胞を援助した。

 

 

 

しかし、17933月、デュ・バリー夫人は危険を冒して、革命政府に差し押さえられた自分の財産を回収しにフランスに帰国すると、革命派に捕えられてギロチン台へ送られた。

 

 

デュ・バリー夫人が回収しに来た宝石の数々は、私生児として生まれ、娼婦として生き、貴族社会で侮蔑され、それでも多くの男達が自分に夢中になった確かな証である。異国に逃れ、若さを失い、それなだけに奪われたくなかった想い出の数々だった。

 

 

 

死刑執行人のサンソンと知り合いであったデュ・バリー夫人は、泣きわめいて命乞いをする。

同情心に耐えきれなくなったサンソンは、息子に刑の執行を委ね、最終的にはデュ・バリー夫人は処刑された。

 

デュ・バリー連行
 

女流画家のルブラン夫人のフランス革命に関する回顧録では、断頭台で多くの貴族女性が命を落とすたびに、歓喜に沸いた民衆が、泣き叫びながら慈悲を乞うデュ・バリー夫人の姿には直視できず、その死は盛り上がりに欠けるものであったという。

 
 

そのためルブラン夫人は「私が確信したのは、もしこの凄まじい犠牲者達が、あれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、処刑の嵐はもっとずっと早く過ぎていたであろう。」と述懐している。

 


 

潔く毅然とした名誉ある死は新たな死を招き続け、情けなく惨めでブザマな死が命の重さを教えた。

 



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マリー・アントワネット (ブルボン家の罪を背負わされたハプスブルク家公女)

703x999マリー・アントワネット


マリー・アントワネットの容姿について、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。


 

また、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べた。

 

 

 

1755112日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。

 

ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。

 

マリー・アントワネット1A

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとし、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)との政略結婚を画策する。

 

 

1770516日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。

 

 

結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。

 
 

もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。

さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。

 

 

宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。


 

ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。


その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。

 

マリー・アントワネット4A
 

アントワネットは浪費家で知られ、ギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていたが、ほとんど効果は無かった。

 

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 

ルイ16世
  
ルイ16

王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

 

アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた習慣であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。

 

 

アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。


 

そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。

 

こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。

 

 

1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。この事件は事実に反し、アントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。

 

ヴェルサイユ行進
 

1789714日、耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。

 

パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。


 

しかし、アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。

 

1791620日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。


 

フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。


 

一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、625日にパリへ連れ戻された。

 

この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。

 

 

 

1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。

 
 

息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。
 

シャルル・ルイ
  ルイ・シャルル

 

アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、17931016日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。

 

 

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。

 

 

処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。

 

 

死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。

 

 

ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。

 


 

 

現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。

 

そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。

 

 

また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。

 



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(Tシャツ 税抜3000円,長袖Tシャツ,ジップパーカー,スマホケース各種 など)




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