劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

ノルウェージャンフォレスト

尚寧王 (沖縄)

尚寧王700x1000


琉球王朝は、尚氏が15世紀頃に初めて琉球全土を統一して7代続いた第一尚氏と、クーデタで第一尚氏王統を倒した尚円王が1470年に樹立する第二尚氏とに分かれる。


尚円王
  
尚円王
 

その琉球王国第二尚氏王統の第6代国王・尚永王には跡を継ぐ男子がなかったため、尚永王の妹・首里大君加那志の子で小禄御殿4世の尚寧王が、尚永王の長女・阿応理屋恵按司を妃にして王統を継いだ。


首里城2
 

この頃の琉球国は、日本よりも明(1368年~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)寄りの立場であった。

 

それは、明に限らず歴代の中国皇帝は、周辺諸国に爵位や称号を与えて、その関係を維持する政策をとっており、周辺諸国も大国に認められる事によって、自らの王国の正統性を内外に認識させていたからである。

 

第二尚氏の歴代国王はいずれもこの流れの中にあったが、尚寧王が即位した1589年は、九州制覇の野望を進めていた島津氏が豊臣秀吉に屈した時で、そのことは琉球の歴史にとっても大きな転換点となっていく。


豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

そうして、豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮への出兵を決定すると、島津氏の薩摩藩を通じて琉球国からも兵士を出すようにと要求される。

 

 

しかし、琉球王朝の重臣である三司官の一人の謝名利山(じゃなりざん)などがこの要求に反対し、薩摩藩からの再三の要請は先延ばしにし、1591年、豊臣秀吉が琉球国を薩摩藩の指揮下として琉球国に兵糧米の供出を課したが、尚寧王はそれに従わず、さらに秀吉軍の動向を明に伝えるなど抵抗の姿勢を示した。

 
文禄の役

 

ちなみにこの頃は、明への進貢船の事務職長であった野國総管(のぐにそうかん)が、明からの帰途、サツマイモの苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、琉球に根付かせた頃でもある。

 

沖縄県中頭郡嘉手納町

1598年に豊臣秀吉が死去し、1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康が政権の座に着くと、薩摩の島津義久を通じて尚寧王に「家康に臣下の礼を尽くしに来るよう」との書状が届く。


島津義久

  島津義久
 

尚寧王がこの徳川家康の要求に積極的に応じる態度をみせず返事に即答しかねていると、1609年、この態度に怒った島津家久は一族の樺山久高(かばやまひさたか)を総大将に3000の兵を預け、100余りの軍船が薩摩の山川港を出帆し、琉球文化圏にあった奄美大島へ上陸して制圧。


奄美大島

 

島津軍はそのまま徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、沖縄本島北部の運天港に上陸して今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)を落とすと首里城(沖縄県那覇市首里)へ迫った。

 

徳之島
 
琉球は尚寧王まで7代に渡って平和な日々が続き、さらにこの頃は交易も下火になっていたため、最新式の武器などは持ち合わせていなかったのに対して、ちょっと前まで戦国時代でしのぎを削っていた島津軍は最先端の鉄砲を装備し、尚寧王は次々と死体の山が築き上げられていく様を目の当たりにすることになる。


首里城3
 

この薩摩藩の武力侵攻に為す術がないことを思い知った尚寧王は止む無く降伏を申し入れ、この戦いはわずか11日間の攻防戦となった。

 

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし、1610年、尚寧王と謝名利山らは薩摩に連行される。

尚寧王はこの時、生まれて初めて首里城を出ることになった。


首里城1

 

そして、薩摩に連行された尚寧王らは、今後の琉球が薩摩の属国として島津の方針に従うように要求され、尚寧王は苦悩の末に受け入れるものの、明に留学経験があって血統的には中国系であった謝名利山は頑なに拒否をしたため鹿児島にて処刑される。

 
謝名利山

 

さらに、尚寧王は島津家久に駿府から江戸へと連行され、駿府で将軍職を退いてなお幕府権力をコントロールしていた徳川家康に、江戸で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に引き合わされ、これにて琉球国の幕藩体制に対する従属が成立することになり、以後、琉球国は日本と明の二カ国に従属することになった。

 
徳川家康
  
徳川家康

1611年、薩摩藩の琉球に対する干渉は厳しくなり、琉球支配の枠組みを定めた「掟15条」が発布される。薩摩藩から強制されたこの「掟15条」の内容は、完全に琉球の自治や自立を奪い取るものであった。

 

そして、琉球は按司掟(琉球で各地を治めていた領主)を廃止し、それに代わって薩摩藩が派遣した代官である地頭代を配置することになる。

 

尚寧王1
 
一方、この頃、琉球の産業の基礎を築いた儀間真常(ぎましんじょう)が尚寧王と共に薩摩から帰国する際に、木綿の種を薩摩から持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めて琉球絣(りゅうきゅうかすり)の基礎を築いた。

 
琉球絣

 

薩摩藩は、参勤交代の時に異民族の衣装を身にまとう琉球人を従えている構図が優越感になるため、琉球を属国にしつつも形式的には「琉球王国」を存続させたため、この琉球人にとって屈辱的な薩摩藩の意図は、結果的にはいくらかの文化を守ることになる。

 

浦添ようどれ2
 

事実上、琉球最後の王として57歳で死去した尚寧王は、自らを「薩摩の侵攻を許した王」として恥じ入り、歴代王が眠る玉陵(沖縄県那覇市首里金城町)に入ることを拒み、浦添ようどれ(沖縄県浦添市)に葬るように遺言する。

 

 

 

尚寧王Tシャツ
尚寧王( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



坂本 龍馬 (高知)

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183613日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。

 

兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。

 

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩では上級武士と下級武士の間に歴然とした身分の差があり、龍馬はそうした古い体制に矛盾を感じながら育っていく。

 
高知県高知市
 

龍馬は1213歳頃まで寝小便癖があったとされ、気弱な少年でいじめに遭っていたので、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 

 

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門して小栗流という剣術を学び、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得た。


日根野道場

小栗流目録を得た龍馬は剣術修行のために、
1年間の江戸自費遊学に出て、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となる。

 

道場主・千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟で、その道場は小千葉道場と呼ばれ、身分制度が厳しかったために上級武士は千葉周作の「玄武館(大千葉道場)」に所属し、下級武士は小千葉道場の所属とはっきり区別され、共に稽古をすることも無かった。

 

小千葉道場には千葉定吉の他に長男・重太郎と3人の娘がおり、二女のさな子は龍馬の婚約者として知られている。

 

桶町千葉道場

1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。

 

日本に開国を迫る黒船来航に対して、幕府は適切な対応を取ることが出来ず、その後、日本の政治は大きく混乱し、やがて、幕府に代わる新しい政治体制が必要だという声が高まっていくことになる。

 

この動乱にその身を投じることになる龍馬は、剣術修行のかたわら当代の軍学家であり思想家である佐久間象山の私塾に入学するなどしながら、15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

 

黒船来航

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定には実子がおらず、また本人も病弱であったため、その後継者争いが起こっており、徳川家定の病気が悪化した1857年頃からはそれが激化する。

 

土佐藩では藩主・山内容堂が、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍の後継者に一橋慶喜を立て、幕政改革をも企図していた。

 
山内容堂
  
山内容堂

しかし、1858年、井伊直弼が幕府大老に就任すると一橋派は退けられ、大老・井伊直弼は第14代将軍に徳川家茂を就任させると天皇の許可なく開国を強行し、それらを反対する者達を弾圧する「安政の大獄」が起きる。

 

この「安政の大獄」によって、一橋派であった土佐藩主・山内容堂は家督を養子である山内豊範に譲って隠居することを余儀なくされた。

 

井伊直弼
  
井伊直弼
 

土佐藩の尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排斥する)運動の立ち遅れを痛感していた武市半平太は「安政の大獄」により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを謳い、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫るべく「土佐勤王党」を結成する。

 

龍馬はこの「土佐勤王党」の最初の加盟者であったが、薩摩藩・長州藩は尊王攘夷運動の中心である京都に進出しようとする一方で、土佐藩参政・吉田東洋は「土佐勤王党」の主張を却下し続け、土佐藩の尊王攘夷運動は遅れたままであり、これに焦れた吉村虎太郎や龍馬らは脱藩することになっていく。

 
坂本龍馬4

脱藩とは藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となるが、1862年、28歳の龍馬は土佐藩を脱藩し、浪人の身として政治活動に乗り出す。

 

龍馬は家族への手紙に「一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり。日本を今一度、洗濯いたし申し候。」と、例え自分一人でも天下を動かし、新しい日本を作る決意を記している。

 

坂本龍馬5
 

江戸に到着した龍馬は、土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流し、そして、前福井藩主・松平春嶽から紹介状を受けて、幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪問した。

 

尊王攘夷派の龍馬は開国に反対の立場であったが、開国派の勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれると、己の視野の狭さを恥じるとともに勝海舟に感服し、その場で弟子となる。

 

龍馬は姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と絶賛し、その心服はとても深かった。

 

勝海舟
   
勝海舟

勝海舟が山内容堂に取り成しをすることで龍馬は脱藩の罪が許されると、龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走する。

 
海軍操練所
 

勝海舟が幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために、彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させると、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」への乗艦後に「神戸海軍操練所」の設立および勝海舟の私塾の開設が許可された。

 

「神戸海軍操練所」には幕府から年3000(江戸時代の一両は現在の貨幣価値にすると約10万ほどであるが幕末は大きな下落の最中にあった。)の経費の支給が承諾されたが、それだけでは運営資金として不充分であったため、龍馬は松平春嶽から1000両を借入れする。

 
松平春嶽
   
松平春嶽

 

龍馬が生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会ったのはこの頃であった。

 

 

京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きると、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊王攘夷派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の塾生であった望月亀弥太もいた。

 

「池田屋事件」の後、京都の情勢は大きく動き、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩は、薩摩・会津の勢力によって一掃される。

 
池田屋事件

京都を追放された長州勢力は、会津藩主で京都守護職・松平容保らを排除し、京都政治の舞台に戻ることを目指して挙兵するも、たった一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)

 

「禁門の変」で長州兵が御所に発砲したことで、長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に乗じて長州征伐を発令し、抵抗する戦力のない長州藩は責任者の三家老が切腹して降伏恭順する。

 
禁門の変
 

一方で「池田屋事件」で死亡した望月亀弥太のみならず「禁門の変」で長州軍に参加していた安岡金馬も神戸海軍塾の塾生であったため、これらを問題視した幕府は勝海舟を江戸に召還し、神戸海軍操練所の廃止は避けられなくなった。

 

龍馬ら塾生を心配した勝海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬ら塾生を託して、薩摩藩の庇護を依頼する。

 

龍馬ら塾生の航海術の専門知識を重視した薩摩藩は、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」という近代的な株式会社に類似した商業組織が誕生した。

 

「亀山社中」は長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、商業活動の儲けによって利潤を上げること以外に、当時、犬猿の仲であった薩長両藩和解も目的とし、後の薩長同盟成立に大きな貢献をすることになる。

 

海援隊
 

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩では、その大きな戦力となった薩摩・会津両藩に対する根強い反感があり「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけるほどであったが、こうした雰囲気のもとでも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志である土方久元は薩摩、長州の結盟を促し、それをもっての武力討幕を望んでいた。

 

龍馬と土方久元は大村藩の志士・渡辺昇の力添えで長崎にて桂小五郎と会い、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させると、同時に中岡慎太郎が西郷隆盛にその会談に応じるように説得する。
 

桂小五郎2
  
桂小五郎 

 

しかし、西郷隆盛は下関へ向かう途中で、朝廷の方向性が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止する必要性が生じ、急遽、京都へと向かうことになり、下関で西郷隆盛の到来を待つ龍馬と桂小五郎の前に、茫然とした中岡慎太郎だけが現れることとなり、桂小五郎の怒りは激しく、和談の進展は不可能になったかに思える状態であったが、龍馬と中岡慎太郎は薩長和解を諦めなかった。

 
西郷隆盛
   
西郷隆盛

 

幕府は国外勢力に対して、倒幕急先鋒の立場にある長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止していたため、長州藩が近代的兵器の導入が困難であることに龍馬は目をつける。

 

龍馬は薩摩藩名義で新型の武器を調達し、それを密かに長州に転売し、さらに長州藩からは薩摩で不足していた米を回送する策を提案した。

 

この策は両藩にとって完全にWINWINな提案であったため、両藩は自然とそれを納得する。 


ミニエー銃

こうして薩摩藩名義で長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺・ゲベール銃3000挺が買いつけられ、それらは長州藩へと転売され、これが亀山社中の初仕事であり、薩長和解の大きなキッカケとなった。

 

ゲベール銃
 

186618日、小松帯刀の京都屋敷において、ついに桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれ、話し合いは難航したが、龍馬の仲介によって薩長同盟は無事に結ばれた。

 

 

この薩長同盟の成立により、軍事力で幕府に対抗することの出来る新しい政治勢力が誕生し、これによって討幕運動が加速することになる。

 

坂本龍馬2
 

盟約成立から程なく、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と伏見の寺田屋で祝杯を挙げていたが、薩摩と長州の不穏な動きを察知していた幕府は、その鍵を握っている龍馬の動きを追い、伏見奉行は龍馬捕縛の準備を進めていた。

 

明け方2時頃、伏見奉行所から100人以上の捕り方が寺田屋に迫り、一階で入浴していた龍馬の恋人お龍が迫り来る捕り方を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がって龍馬と三吉慎蔵に異変を伝える。

 
楢崎龍
  
楢崎龍
 

報告を聞いた龍馬は、すでに隣の間にひしめいていた捕り方が容易に近づけないように機先を制してピストルを発砲。

 

仲間が撃たれるのを見た捕り方は動揺し、逃げ出す者、むやみに障子を破る者、大混乱の中で龍馬と三吉慎蔵はなんとか屋外に脱出する。

 

負傷していた龍馬は材木場に潜み、三吉慎蔵は旅人を装って薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め、これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

 

後を追って来た捕り方は龍馬の引き渡しを要求してきたが、薩摩藩は「そのような者はいない」と回答し、西郷隆盛は一戦交える覚悟で藩邸の守りを固めさせる。

 

 

しかし、龍馬の放ったピストルの弾が捕り方の命を奪ったため、龍馬は幕府の重罪人として命を狙われるようになり、この寺田屋での乱闘が後々の龍馬の運命を左右することになった。

 

寺田屋
 

薩長同盟成立から5カ月後、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始する。

 

長州藩の求めにより参戦することになった龍馬は、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

 

 

圧倒的な兵力を投入した幕府軍であったが、西洋の新式兵器を装備していた長州軍に連戦連敗し、思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なって病に倒れ、21歳の短い人生を終える。

 

その結果、勝海舟が長州藩と談判を行い、幕府軍は撤兵することとなり、それまで無敗を誇っていた幕府軍は薩長同盟によって最新鋭の武器を手に入れた長州軍に敗北した。

 
徳川家茂
   
徳川家茂

 

幕府の失墜を目の当たりにした龍馬は、薩長と幕府がさらに大規模な戦争を始め、日本人同士が殺し合いを続けることを恐れ、武力を使わず幕府から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」という策を打ち出す。

 

 

1867年、龍馬はお龍を下関に残して旅立ち、これが二人の永久の分かれとなる。

 

 

京都に戻った龍馬は「大政奉還」を実現するため、土佐藩から幕府に「大政奉還」を勧める建白書を提出させた。

 

幕府が自ら政権を返上するかどうか、その最終的な判断を委ねられた将軍・徳川慶喜は、京都二条城にて新しい日本のために250年間保ち続けた徳川家の政権を返上し、自ら身をひくことを諸藩に通達する。

 

龍馬の提案をキッカケに平和のうちに政権が交代することになり、この知らせを聞いた龍馬は徳川慶喜の決断に深い感銘を受け「将軍家、よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公(徳川慶喜)のために一命を捨てん。」と言った。

 
徳川慶喜
   
徳川慶喜

 

「大政奉還」によって政権を手にした朝廷が、大名会議を開くべく全国の大名に集まるよう命令を下すと、龍馬は新しく出来る政府が目指すべき構想をこの大名会議で提出するためにまとめる。

 

龍馬がまとめた構想「新政府綱領八策」には「天下の有名な人材を招く。新たな法律を制定する。議会を開設する。外国との共通為替レートを設定する。」など日本を近代国家へと生まれ変わらせる画期的なものが記されていた。

 

しかし「新政府綱領八策」には「○○○自ら盟主となる。」という個所があり、当然この○○○とは誰を指すのか様々な憶測を生むことになる。

 

この「新政府綱領八策」を目にした越前藩の重役は「龍馬の秘策は 内府公(徳川慶喜)、関白職のことか。」と言い、龍馬が徳川慶喜を新政府の中枢に置こうとしているという憶測が広まった。

 

新政府綱領八策

徳川慶喜が新政権の盟主となることなど絶対に認めることの出来ない薩摩藩は、すぐに公家の一人である岩倉具視を動かし「賊臣・徳川慶喜を殄戮せよ。」という、徳川慶喜を殺害して武力で幕府を倒せという勅令を出させる。

 

幕府を徹底的に叩き潰し、古い勢力を完全に一掃しようとする薩摩藩にとって、龍馬が考えた「大政奉還」は中途半端な妥協策にすぎなかった。

 
岩倉具視
  
岩倉具視 

 

徳川家に仕える武士達の多くは「大政奉還」によってすぐに幕府が無くなるものと受け取っていたため、龍馬は彼らにとって幕府転覆を企てた中心人物として目の仇とされる。

 

ところが、龍馬はそういった情勢を意に介することなく、徳川慶喜の側近・永井尚志と面会し、新政府構想の打ち合わせをするために連日のように外出していた。

 

永井尚志は「大政奉還」の実現に尽力した龍馬と徳川慶喜をつなぐ人物で、龍馬は永井尚志を自分と同じ考えを持つ同志と感じていたが、永井尚志が住んでいた屋敷の周辺には、京都所司代屋敷、京都守護職屋敷、見廻組の屯所など幕府の警察機関の本拠地があり、龍馬にとって永井尚志に接近することは物理的なリスクがあまりに高かったのである。

 
永井尚志
   
永井尚志

 

自分を追ってつけ狙う者の中を白昼堂々と歩いていた龍馬は、その心境について家族への手紙で「成すべき時は今にて御座候。やがて方向を定め、シュラか極楽かに、御供申すべく存じ奉り候。」と、命を失う覚悟を持っていることを記していた。

 

 

また、龍馬が下宿していた醤油屋(近江屋)から目と鼻の先に土佐藩邸があったが、下級武士出身で藩を抜けだした過去を持つ龍馬は藩への遠慮から、土佐藩邸に入ることを避けていたのである。

 

 

そして、龍馬と親しい寺田屋の女将お登勢は、龍馬の命が危ないという決定的な噂を聞きつけると「下宿にいては危険なので早く藩邸に隠れて下さい。」と注意を促したが、龍馬は「心配することはない。」と返答した。

 

坂本龍馬1
 
18671115日、この夜、風邪をひいていた龍馬は近江屋の二階で暖をとりながら親友の中岡慎太郎と、新撰組に捕えられた仲間の処遇を話し合う。

 

龍馬のいる近江屋には土佐藩の関係者が様々な問題を相談するために訪れるようになっており、午後7時、土佐藩の同志・岡本健三郎と中岡慎太郎の書生・峰吉が訪ねて来る。

 

龍馬達4人はしばらく談笑し、午後8時、龍馬の頼みで峰吉はシャモを買うために外出し、岡本健三郎も所用のため近江屋を離れ、近江屋にはその家族の他には、龍馬の護衛役の藤吉、中岡慎太郎、龍馬だけとなった。

 
近江屋

それからしばらく、龍馬の同志が多い土地である十津川の郷士を名乗る男達数人が龍馬を訪ねて来たので、藤吉が取り次ぐと、男達は藤吉の後をつけてそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋へと押し入る。

 

龍馬はまず額を深々と横に斬り裂かれ、全身に数カ所の傷を受けた。

 

男達が去ると、瀕死の龍馬は自らの顔を刀に映して傷の具合を見ると、中岡慎太郎に「脳をやられたから、もうダメだ。」と語りかける。

 

龍馬が31歳の生涯を閉じる一方で、中岡慎太郎はそこから二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について語った。


中岡慎太郎
  
中岡慎太郎

龍馬の死はその後の政局に大きな影響を与え、暗殺から20日後、薩摩藩を中心とする軍勢は京都御所を取り囲むと、その軍事的圧力のもとで公家と一部の有力大名による会議が開かれ、徳川慶喜を新政権から排除する決定が下される。

 
鳥羽・伏見の戦い1

1868年、この決定に反発する旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が京都郊外で激突した「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍に敗北した。

 
鳥羽・伏見の戦い2

平和のうちに新しい政権を作ろうとした龍馬の構想は戦火に消え、この年の9月に元号は明治と改まり、薩摩と長州を中心とした新しい政府が作られる。

 

鳥羽・伏見の戦い3
 

その翌年、幕府の治安警察であった見廻組の元隊士・今井信郎が、龍馬暗殺事件の犯人として逮捕され、今井信郎の自白によると、近江屋に踏み込んだのは見廻組の侍7人で、暗殺の口実は寺田屋で龍馬が幕府の捕り方を射殺した罪というものであった。

 

しかし、今井信郎はなんとわずか一年半で釈放され、幕府側だった今井信郎の助命運動に裏で動いたのは、今井信郎と面識のない西郷隆盛であり、その真意は謎に包まれている。


今井信郎
   
今井信郎


龍馬は死の
7か月前、長崎で貿易商社「海援隊」を結成し「この頃、おもしろき御咄しも、実に山々にて候。世界の咄しも、相成り申すべきか。」と、政治活動に奔走する日々の中でも、海を越えて世界中の国々を相手に貿易をする夢を抱き続けていた。

 

 

 

坂本龍馬Tシャツ

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吉田 松陰 (山口)

吉田松陰700x1000

1830年、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。

 

1834年に松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、1835年に吉田大助が死亡すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学者としての教育を受けた。


山口県萩市1

松陰は9歳にして長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時、長州藩主・毛利慶親の前で兵法の講義を行い、称賛は受ける。

 

13歳の時には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施した。


萩藩校明倫館
 

しかし、イギリスから輸出されるアヘンの中毒者が社会問題になりアヘン禁止論が高まった清(16441912年まで中国とモンゴルを支配した統一王朝)がアヘンに対する取り締まりを強化していく過程が武力衝突に発展した「アヘン戦争」で、清がイギリスに大敗したことを知ると、松陰は山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し、西洋兵学を学ぶために1850年から全国を巡る度に出る。

 

アヘン戦争

この旅の途中、松陰は江戸では佐久間象山などに師事し、そして1853年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれたのであった。

 
佐久間象山
  
佐久間象山
 

黒船は蒸気を動力にした最新鋭の船で、それまで目にしたことがないような巨大な船体に30門の大砲を搭載し、ペリーはこの黒船の武力を誇示して鎖国していた江戸幕府に開国を要求したため、幕府の役人は狼狽し、国内は大騒ぎとなる。

 
マシュー・ペリー
  
マシュー・ペリー
 

松陰は今後は西洋のことを知り、西洋の兵学を学ばなくてはならないと痛感し、この考えに賛同した当時23歳で長州藩出身の金子重之助は松陰を慕って行動をともにするようになった。

 

 

当時、幕府の許可なく外国に渡航することは固く禁じられおり、これを犯せば重い罪にとわれるが、松陰と金子重之助の二人は黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考え、黒船が停泊する下田へと赴く。

 
黒船

いよいよ決行の日、深夜、松陰と金子重之助は小船に乗って沖の黒船を目指すが、小舟は櫓(和船における漕具の一つ)を船に固定する金具がはずれていたため、二人はふんどしを外して櫓を船に結びつけて漕ぎ、どうにか黒船に辿り着く。

 

松陰は懸命に筆談を試みるが全く伝わらず、アメリカ人の船員は向こうの船に通訳がいると指差すので、二人は荒れ狂う海の中を再び小舟を進めて、ついに通訳にアメリカに連れて行って欲しいという意思を伝える。

 

しかし、その願いは聞き入れられず、二人は下田に連れ戻された。

 

下田

1854年、松陰と金子重之助は密航を企てた罪に問われ、長州藩内の牢獄に入れられることになる。

 

松陰は一人一室が与えられる武士階級の牢獄に入り、農民出身の金子重之助は衛生状態の良くない雑居房に入れられた。

 

もともと体が弱かった金子重之助は獄中で衰弱し、ついには獄中で命を落とす。

 

志も同じ、犯した罪も同じ、なのに身分が違うとなぜこれほど待遇が変わってしまうのかと、松陰は金子重之助の死から身分制社会の現実を実感し「吾れ独り生を偸み。涙下ること雨のごとし。」と悲しんだ。

 

吉田松陰4
 
松陰が入れられた獄には12の独房があり、75歳で獄中生活48年の大深虎之允(おおふかとらのじょう)、家族から見放されて牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣、入獄と出獄を3度繰り返している平川梅太郎、元寺子屋の教師で在獄6年になる吉村善作など他の独房にいる囚人達と松陰は知り合った。

 

そんな囚人達の中にただ一人、高須久子という女性がおり、彼女は三味線が好きで武家の女性でありながら、様々な人を身分の分け隔てなく自分の屋敷に呼び、時には武士の家に出入りすることが許されない人まで招待していたことが投獄の理由とされている。

 

江戸時代という管理社会において、社会の上層と底辺が付き合うというタブーを冒す者を世間の目に触れさせておくことは許されなかった。

 

松陰は人間を身分ではなく心で判断する高須久子とウマがあい、互いの素性について深く語り合うこともあるほど親しくなる。

 

吉田松陰3
 
そんな獄中生活で松陰は、それぞれの囚人が優秀な能力を持っていることを知っていき、互いに得意なことを教え合うということを始め、書の指導を頼んだ富永有隣は人に教えるうちに次第に自信に満ちた表情になり気難しい性格に変化があらわれた。

 

「人、賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし。」そんなことを体感した松陰に、1855年、獄を出て自宅で謹慎するようにという命令が届く。

 

高須久子は松陰との別れにいたって「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな。」という句を詠んだ。

 

吉田松陰2
 

松陰は獄を出て萩の自宅に戻ると、1857年に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、牢獄での経験を活かした教育を行うようになる。

 

10畳半と8畳のわずか二部屋の松下村塾に、松陰を慕う若者が多い時には一日30人集まり、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々が、松陰の教育に触れた。

 

 

塾は常に開け放たれ、出入りするのに時間や回数の制限もなく、1日に3回訪れる塾生もいれば、夜に来て朝に帰る塾生もおり、もちろん身分に分け隔てなく武士も町人も様々な身分の人が同じ部屋で学んだ。


伊藤博文
  
伊藤博文

松陰は、多くの情報に接してそれに基づいた行動をしなければならないという意味である「飛耳長目」という言葉を合言葉に掲げ、講義だけでなく共に話し合う討論会も重視する。

 

松陰は「沈黙、自ら護るは、余、甚だ之を醜む。」と言い、身分を越えての人と人のぶつかり合いが最も大切な教育だと考えていた。

 
 

松陰が「才能も気概も一流」と最も高く評価した久坂玄瑞は、松陰に代わって講義をすることもあり、そして、その久坂玄瑞に誘われて塾の門を叩いたのが19歳の高杉晋作である。

 

久坂玄瑞
  
久坂玄瑞
 
松陰は高杉晋作が塾にやってきた頃の印象を「晋作の学問はさほど進んではいないにもかかわらず、意にまかせて勝手にふるまう癖がある。」と語っているが「晋作はいずれ大成する人物である。彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない。」と無理に型にはめようとはしなかった。

 

高杉晋作1
  
高杉晋作
 

1857年、外国人が日本で起こした事件を日本が裁けない不平等な内容が盛り込まれた「日米修好通商条約」を結ぶようにアメリカが幕府に対して強硬に迫ると、国内の世論はアメリカとの関係を巡って紛糾する。

 

 

こうした情勢は萩にも伝わり、松陰はこの事態に日本がどう対応すべきか塾生達に考えさせた。



高杉晋作は「今は外国の圧力に耐え、富国強兵につとめなければならない。西洋の知識と技術を導入して、人材の育成を図らなくてはならない。国力をつけた上で外国と対等な関係を築くべきだ。」という内容のレポートを書き、これを読んだ松陰はその内容に驚き、評価し、その影響を受けた「西洋歩兵論」という論文を書く。

 

「西洋歩兵論」は「西洋の歩兵制を採用して身分にとらわれず志があれば足軽や農民も募るべきだ。」という内容で、戦うのは武士であり農民や町民は武器をとってはならないと教えられていた当時では想像の及ばない画期的なものであった。

 

松下村塾2
 

1858年、江戸幕府の大老・井伊直弼らは、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印するなどし、それらの対応に異議を唱える思想家達が次々に幕府に逮捕され弾圧される「安政の大獄」が始まる。

 
井伊直弼
  
井伊直弼
 

こうした動きを知った松陰は、日に日にこのまま幕府に日本を任せてはおけないという思いを強め、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、幕府を倒すために過激な行動を取れと主張するようになった。

 

こうした松陰の過激な言動は、長州藩の知るところとなり、藩に危険視された松陰は再び投獄される。

 

 

松陰を慕っていた塾生達も倒幕という急進的過ぎる発想にはついていけず、再投獄後の松陰は塾生達との溝を深めて断絶状を書き送った。

 
松下村塾1
 

しかし、獄中で再会し、松陰の心の支えとなった高須久子を通じて、松陰は例え自分一人が立ち上がり倒れても、きっと志ある者が後を継いでくれるに違いないと考えを改めるようになる。

 

 

松陰は、志のある者が立場をこえて同じ目的を持っていっせいに立ち上がることを説いた「草莽崛起」として後世に知られる文書をしたためた。

 

 

さらに松陰はこの頃、高杉晋作に塾生達に怒ったことを悔いる手紙を送り、出獄したあかつきには塾生達とともに行動しようと考えるようになる。

 
 

しかし、1859年、尊皇攘夷を求める志士達の先鋒となって幕政を激しく批判し「安政の大獄」2人目の逮捕者となった梅田雲浜が萩に滞在した際に松陰と面会していたことなどから、松陰は幕府の命令で江戸の伝馬町牢屋敷に移されることになった。

 

伝馬町牢屋敷
 
高杉晋作ら塾生達は、松陰の身を案じて江戸の長州藩邸に集まり、松陰を獄から助け出そうと画策する。

 

松陰はそんな高杉晋作に死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」という内容の手紙をしたためた。

 

 

幕府が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白してしまい、結果、18591027日、松陰は斬首刑に処され、29歳でその生涯を閉じる。

 

 

松陰は遺書で「私は30(享年)、四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは、私の知るところではない。もし同誌の諸君の中に私のささやかな真心を哀れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。」と記した。

 

吉田松陰1
 

松陰の死後、高杉晋作は、志があれば身分にかかわらず誰でも入ることが出来る新しい軍隊「奇兵隊」を創設する。


奇兵隊
 
塾生の一人であった吉田稔麻呂は「維新団」「一新組」という長州軍の主力となる軍隊を作った。

 
吉田稔麿
  
吉田稔麻呂

1868年、明治時代になると、新政府の要人には山県有朋や伊藤博文といった松下村塾の塾生達が名を連ね、新しい日本を築いていく。

 

山縣有朋
  
山県有朋 


高須久子は元号が明治と改められたその年におよそ16年の獄中生活を終えたといわれ、出獄後も死ぬまで松陰の書を肌身離さず持っていたという。

 

 


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聖徳太子 (奈良)

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かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。

 

574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。

 

585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。


用明天皇
  
用明天皇
 

物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。

 

蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうまこ)6世紀の半ば朝鮮半島の百済から倭国にもたらされた仏教を信仰し、この外来思想をもとに新たな国造りを目指して権力の拡大を目論んでいた。

 

 

物部氏と蘇我氏はそれぞれ天皇家と深いつながりを持ち、皇位継承にも大きな影響力を持つ二大勢力として対立。

 

 

物部氏の実力者である物部守屋(もののべのもりや)は仏を異国の神として排斥して、当時に流行した疫病の原因も蘇我氏が仏教を信じたためとし「聖徳太子絵伝」には物部守屋が蘇我氏の建立した寺院を焼き払う場面が描かれている。

 

物部守屋
  
物部守屋

587年、用明天皇が即位後わずか2年で病に倒れて崩御すると、物部氏と蘇我氏が倭国の主導権を巡って全面対決する日がやってきた。

 

 

この古くからの神々を奉じる物部氏と新たな思想である仏教を奉じる蘇我氏の戦いで、仏教を厚く信仰する伯父・蘇我馬子を通じて仏教に出会った聖徳太子は蘇我軍の一員として参戦する。

 

 

激闘の末、戦いは蘇我軍の勝利に終わったが、長く激しい戦いに民は傷つき、血で血を洗う権力抗争のなかで死んでいく者達を目の当たりにした聖徳太子は、仏教の教えとは程遠い過酷な現実を知った。

 

聖徳太子伝
 
政治の実権を握った蘇我馬子は甥にあたる崇峻天皇を即位させるが、崇峻天皇が徐々に蘇我馬子が大和王権を牛耳っていることに不満を漏らすようになると、蘇我馬子は配下の者に崇峻天皇を亡き者にするよう命じ、592年、崇峻天皇が暗殺される。

 

 

続いて蘇我馬子は聖徳太子の叔母にあたる推古天皇を即位させ、大和政権が始まって以来、初の女性天皇が誕生した。


推古天皇
  
推古天皇
 

593年、20歳となった聖徳太子は推古天皇のもとで摂政に任じられ、蘇我馬子と共に政治を担う立場となる。

 

この時、聖徳太子は「太陽や月は、天上にあって大地をあまねく照らす。政をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」と決意の言葉を残した。

 

聖徳太子3
 

この頃、東アジアでは300年以上も分裂していた中国が「隋」によって統一されるという大きな変化を迎え、これは稀にみる巨大帝国の出現であり、朝鮮半島の国々や倭国にとって存亡に関わる出来事となる。

 

 

「隋」の都・長安(現在の西安)は碁盤の目のように整然と道路が敷かれ、壮麗な建造物が建ち並び、世界でも稀にみる大都市であった。

 

 

中国との関係が深い朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、この「隋」という脅威が誕生すると、すぐさま使者を送って君臣関係を結ぶ。

 

 

倭国は中国とは100年以上に渡って正式な国交を結んでいなかったため、巨大帝国「隋」出現にどのような対応をすべきか検討するための情報が不足していた。


長安
 

聖徳太子は高句麗からやって来た慧慈(えじ)という僧侶から、長安では広大な寺院がいくつも建立され、高度な建築や装飾工芸の技術が発達し、絵画や彫刻などの美術も盛んになり、多彩な仏教文化が花開き、「隋」の初代皇帝・文帝(楊堅)は仏教を保護する国造りを進めていることを聞く。

 
文帝
  
文帝


聖徳太子は寺院建立や仏像鋳造など様々な技術を倭国に伝えた仏教と同様に、中国や朝鮮半島では政治家や役人の道徳・倫理を説く思想として尊ばれていた儒教も学んだ。

 

 

「隋」は官僚制度が整えられ、強固な中央政権国家が成立し、その官僚の規律として儒教が導入され、仏教や儒教を重んじる先進的な国であった。

 

 
一方で、倭国の政治制度は重要な事柄は中央の有力豪族の思惑で決められ「隋」の進んだ制度とは程遠いもので、多くの民が貧しく苦しい生活を余議なくされ、その現実は聖徳太子が思い描いた慈悲の心で民をあまねく照らすものとはかけ離れていた。

 

「聖徳太子伝暦」では、聖徳太子は飢えた民と出会うと、自ら衣をぬいで、その民の身を覆い「かわいそうに、どんな境遇の人なのだろう。この道ばたで行き倒れた人は。」と嘆く場面が描かれている。

 

奈良県明日香村
 

598年、高句麗が「隋」の支配地域に侵入し、激怒した文帝は直ちに高句麗に大軍を差し向けると、強大な「隋」の軍隊を前に高句麗は屈服する。

 

 

朝鮮半島の国々と深い関係にあった倭国にとって、大国「隋」の朝鮮半島への影響力の増大は脅威であり、友好関係を結ぶ必要に迫られていた。


高句麗
 

600年、聖徳太子は120年ぶりに倭国の使者を中国に派遣(第一回遣隋使)する。

 

「隋」の役人は倭国の使者に対して「倭国ではどのように政治がおこなわれているのか。」と問うと、倭国の使者は王の権威を強調しようと思うあまり「倭国の王は、天を兄とし、太陽を弟とする。王は、兄である天が明るくなるまで王宮で政をおこない、弟である太陽が昇ったあとは政をしない。」と、古くから伝わる神話をそのまま持ち出して答えた。

 

 

これを聞いた文帝は、倭国は神話を語る政府機構のない国だとあきれ、外交を結ぶような相手ではないとバカする。

 

 

聖徳太子はこの屈辱的な外交失敗から大きな改革に乗り出していく。

 

第一回遣隋使
 

603年、聖徳太子は「冠位十二階」を制定する。

 

聖徳太子は冠位を表す名称に儒教の徳目を表す6つの言葉をさらに大小に分けて「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」12の冠位を作り、これは豪族のなかから一族の地位や血縁に関係なく、実力のある者を登用し、位を授けるという革命的な制度であった。

 

聖徳太子は豪族が支配する倭国を官僚が政治を取り行う国へ変え、その結果、中央集権国家の基礎が形づくられていく。

 

 

さらに聖徳太子は明日香の地に新たな宮殿「小墾田宮(おはりだのみや)」建造し、この小墾田宮は朝庭と呼ばれる儀式を執り行う場と上級の官人達が毎朝出勤する庁(まつりごとどの)と呼ばれる建物が造られた。

 

小墾田宮1
 

そして604年、誕生したばかりの官僚がどのように行動するべきか、その規則や道徳を示す「憲法十七条」が完成する。

 

聖徳太子はこの「憲法十七条」に理想国家実現への願いを込め、仏教や儒教などの思想を学んだことを活かして官人がいかに正しく政治を行うか具体的に記した。
 

「官人は、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公の仕事には、暇はない。」


「官人たるもの、貪りを絶って、欲を棄て、民の訴えを公正に裁かなければならない。私利私欲や賄賂によって判断を誤るようなことは、官人にあらざる行いである。」


「すべての官人は、礼の精神を根本とせよ。上に立つ官人が礼をもてば、世が乱れることはない。官人に礼あれば、民も必ず礼を守り、国家は自ずと治まる。」

 
小墾田宮2

また仏教の教えに従い行いを正すことも説く。


「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、経典、そして僧である。人間は極悪の者はまれである。教えられれば、道理にしたがうものである。仏の教えを篤く敬えば、よこしまな心や行いを正すことができる。」

 
 

そして人と人との関わりについて持つべき心の有り様を示す。


「こころのいかりを絶ち、人の違うことを怒らざれ、人皆心あり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫。ここをもちて、かの人いかるといえども、かえりて我が失ちを恐れよ。」

 

 

幼い頃から、豪族達の凄惨な争いや骨肉の王位継承争いを間近に見てきた聖徳太子は、己の利や一つの考えに囚われれば必ず争いが起こることを知り、仏教、儒教、外来の思想や法律など優れたものを分け隔てなく「憲法十七条」に採り入れた。

 

聖徳太子4
 

第一回遣隋使の屈辱以来、聖徳太子は「冠位十二階」「憲法十七条」「小墾田宮の建設」など着々と改革を進め、今こそ再び大国「隋」に使者を送り、国交を取り結ぶべき時と決断する。

 

 

聖徳太子が使者に抜擢した小野妹子は、有力な豪族ではなく、能力によって「冠位十二階」の「大礼」の位を授かった人物であった。

 

小野妹子
  
小野妹子
 
607年、二度目の遣隋使が倭国を旅立ち「隋」へと向かう(第二回遣隋使)

 

この時、小野妹子は倭国の国書を携え、そこには「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す。つつがなきや。」と、まるで倭国と「隋」が対等以上かであるように記されていた。

 

倭国の国書を読んだ二代目の皇帝・煬帝は「世界に天子はこの煬帝ただ一人、倭国の無礼な使者は二度と取り次いではならない。」激怒する。

 

 

しかし、この時「隋」は高句麗との戦争が再び目前と迫っていたため余計な敵を増やしたくないという事情があり、さらに、小野妹子が公式の冠位を持つ使者であったため倭国が官僚制度を整えた国家に成長していることを知り、倭国を外交交渉が可能な相手と認めた。

 

煬帝
  
煬帝
 
608「隋」の使者が初めて倭国の地を訪れる。


「隋」の使者は倭国に敬意を払い、
4回深々とお辞儀をする倭国の作法をとって、小墾田宮で煬帝の国書を読み上げた。

 

 

それは屈辱の第一回遣隋使から8年、アジアの大帝国「隋」が聖徳太子の改革によって生まれ変わった倭国を公式に認めたといえるものである。

 

聖徳太子1
 

聖徳太子は若い頃から大切にした仏教の慈悲の心を形にし、薬を作る施薬院(せやくいん)、病んだ者を治療する療病院(りょうびょういん)、飢えた者を養う悲田院(ひでんいん)、悪を絶ち善を修める敬田院(けいでんいん)などの施設を建て、民の救済に力を尽した。

 

奈良県明日香村2

605年から現在の法隆寺のあたり斑鳩(いかるが)に居を構え、仏教の経典の研究に没頭していた聖徳太子は、622222日、48歳で病に倒れ、理想国家の建設に捧げた生涯を終えた。

 

「日本書記」ではこの時の様子を「日月、輝きを失い。天地、既に崩れぬ。」と記している。

 



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北条 早雲 (静岡)

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長らく早雲の出自は不明で、講談などの影響で伊勢の素浪人として描かれることが多かったが、近年の研究で備中国荏原荘
(現在の岡山県井原市)の領主・伊勢盛定の子というものが定説化している。

 

 

伊勢氏は武家の名門である平氏の流れを汲み、代々、武家の礼儀作法を司った由緒ある家柄で、京都の伊勢氏本家では歴代足利将軍の嫡男を預かって礼儀作法を教えるならわしがあり、伊勢氏は室町幕府に影響力のある家であった。

 

 

備中伊勢氏は分家とはいえ、早雲も伊勢一族として高い教養を身につけていたことが考えられる。

 

 

30代の頃の早雲は、室町幕府8代将軍・足利義政の弟・足利義視(あしかがよしみ)に仕えていた。

 

足利義視
   
足利義視
 

1467年、畠山家の家督争いなどに端を発した「応仁の乱」は、細川氏と山名氏の戦いに発展すると全国から守護(幕府が治安維持などのために設置した地方官)が兵を率いて東軍と西軍に分かれ、主要な戦場となった京都は市街戦が繰り広げられ灰燼と化し、民衆に多大な犠牲を強いるものとなる。

 

 

民衆に多くの犠牲を生んだ最大の要因は、銭で雇われ敵軍への放火や撹乱を主な任務とした「足軽」の存在が大きかった。

足軽は戦場下においてしばしばコントロール不能の暴徒と化し、戦には直接関係のない寺社や民家に押し入って略奪、放火、人さらいも珍しくなく、さらに天災や飢饉も民衆を苦しめ、都の辻々のいたるところに難民があふれる。

 

 

 

早雲の主君・足利義視は東軍の総大将を務め、餓死者があふれる京の都で民衆の苦しみを知りながらも兄である将軍・足利義政の機嫌を取るため戦に明け暮れた。

 

しかし、その足利義視は兄・足利義政に謀反の疑いをかけられると東軍から西軍に寝返って戦い続けることになる。

 

 

30代後半の頃、早雲は5年あまり仕えた足利義視のもとを去った。

 

「応仁の乱」を身近に体験したことは、後々の早雲の思想に大きな影響を与えることになる。

 

応仁の乱
 

その後、早雲は一時的に妹の嫁ぎ先であった駿河に行くが、再び京都に戻ると40代で僧となって修行三昧の日々を送った。

 

 

しかし、50歳を過ぎた頃、早雲は修行を止めて「申次衆」という将軍へ諸国からの陳情を取り次ぐ役職で幕府の仕事に復帰する。

 

 

俗世に見切りをつけて仏門に入った早雲が、なにを思って再び幕府の仕事をし出したのかは憶測の域を出ないが、申次衆は各地の守護と接するため地方の情報が入ってくるため、この後の駿河国での出来事はここで得た情報が大きく影響したことは間違いない。


駿河国
 

1487年、申次衆を辞した早雲は駿河(現在の静岡県北東部・中部)へと向う。

 

代々、駿河国を治める室町幕府の名門・今川家は、早雲がつかんだ情報では深刻なお家騒動にあり、その今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満(おしかのりみつ)には全く人望がなかった。

 

 

早雲はわずか半年で小鹿範満に不満を持つ駿河の領主達をまとめると、電光石火の奇襲で館を襲撃し、まったくの不意をつかれた小鹿範満は成す術なく殺害される。

 

 

事前に敵の情報を集めて周到に準備を整え、一瞬の勝機を活かした奇襲で相手を打ち破る戦い方は、この先も早雲の常套手段となっていく。

 

 

室町幕府の名門・今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満を殺害することは、幕府勢力に挑戦状を叩きつける行為であり、この出来事によって早雲は初めて歴史の表舞台に姿を現す。

 

人生50年といわれたこの時代であるが、この時の早雲はすでに56歳となっていた。

 

北条早雲3
 

駿河国の東の端にある興国寺城(静岡県沼津市)を手に入れた早雲は、関東における将軍の代理人として駿河の隣国・伊豆に居を構える足利政知に睨みを利かせる。

 

 

この時代の城はその多くが館のような造りにとどまっていたが、興国寺城は100メートルを超える空堀や土塁を備え、さらに東海道から興国寺城までは馬が足をとられて進軍もままならない広大な沼地が広がる天然の要害であり、その東海道の様子は城からよく見えた。

 

興国寺城
 

1493年、2年前に足利政知が病死して一族に深刻な跡目争いが起きていることをつかんだ早雲は、わずかな手勢と共に興国寺城を出撃すると伊豆の足利館に夜襲をかけ、女・子どもを含めた1000人以上を皆殺しにし、その首を城の塀にぶら下げる。

 

 

庶民の暮らしに背を向けてお家騒動を繰り返し、幕府の権威を振りかざすばかりの足利一族に、早雲はこのような厳しい態度でのぞむ一方で、自らの軍を厳しく律して民衆への略奪行為は一切禁じていた。

 

さらにこの頃、伊豆では1000人以上の死者が出る疫病が大流行していたが、早雲は率いていた兵に村人達の看病をさせるなどしている。

 

 

60歳となっていた早雲は「生かすべき者を生かし、殺すべき者を殺す。それが政治というものである。」という自らの言葉そのままの戦いで伊豆国を手に入れた。

 

北条早雲1

一国の主となった早雲は、伊豆を足がかりに箱根を越えて、東海道と相模湾の交通の要衝である小田原の獲得を目指す。

 

 

早雲は、自分が国中の盲人を捕えて海に沈めるという噂を流し、これを聞いて慌てて他国へと逃げる盲人達の中に多くのスパイを紛らせ、小田原城の情報を集め、その結果、小田原城は物理的な守りは堅いが城主・大森藤頼は若く隙がある人物であることに目をつける。

 

 

 

早雲は「敵がもし攻めてきたら、私は他ならぬあなたに後詰を頼もうと思っている。だから、もし、あなたが出陣する時は、後詰を私に務めさせてくれないだろうか。」という甘い言葉を連ねた書状を大森藤頼に送り、さらに珍品を繰り返し贈って油断を誘った。

 

 

秋の鹿狩りの季節、早雲は「鹿狩りをしていたら獲物が小田原の方に逃げてしまった。大変、申し訳ないが、伊豆側に鹿を追い返すために、小田原城の裏側に勢子(狩猟の際に野生動物を射手のいる方向に追い込んだりする役割の人)を入れさせて頂けないだろうか。」という書状を大森藤頼に送る。

 

 

早雲を信用し切っていた大森藤頼がなんの疑いもなく承諾すると、早雲はすぐさま勢子に扮した数百人の精鋭部隊を小田原城の裏手に差し向けた。

 

 

夜、別の一隊が小田原城下に火をかけると、それを合図に城の裏手に侵入していた精鋭部隊が城に乱入し、不意の襲撃を受けた小田原城内は「敵は何万騎あらんか」と大混乱に陥り、早雲は小田原城を難なく攻め落とす。

 

小田原城
 

小田原城は後に小田原北条氏の本城となるが、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城とした。

 

伊豆韮山城
 

小田原城を奪取して相模国の西半分を勢力下に治めた早雲を、山内上杉家と扇谷上杉家が手を結んで(もともとは敵対していた)攻撃すると、早雲は権現山城(横浜市神奈川区)を落とされ、さらに平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の当主・三浦義同(みうらよしあつ)に住吉要害(神奈川県平塚市山下)を攻略され、小田原城まで迫られる。

 

手痛い敗北を喫した早雲はこれを和睦で辛うじて切り抜けた。

 

 

 

 

1506年、早雲は相模で検地(田畑の収穫量を調査)を初めて実施し、上杉氏の圧迫に耐えながら自らの領国統治に力を注ぐ。

 

 

早雲は検地によって税収の安定化を図って財政の基礎を作ると、商工業の発展のために城下町を整備して商人達が自由に商いを出来るように便宜し、無理な負担を領民に強いることなく現金収入を整えると、民衆が最も望む年貢の引き下げに着手した。

 

 

従来、五公五民(収穫の5割が年貢で残り5割が農民の取り分)だった年貢を四公六民に引き下げ、さらに年貢を多く取り過ぎた場合は、農民が早雲に直接訴えることを認める。

 

 

こうした早雲の善政は「我らが国も新九郎殿(早雲のこと)の国にならばや」と他国から羨まれるほどとなった。

 

 

旧勢力打倒のためには残酷とも思える戦いをする早雲だが、領民からは父のように慕われる存在で、早雲が敗れて古い政治に逆戻りになることを危惧する民衆の中から進んで戦争への協力を申し出る者も少なくなく、早雲はこうした民衆あがりの兵を足軽に組み入れて大きな戦力としていく。

 

 

戦場ではわずかな食事を兵士と分け合い、一樽の酒があればそれを薄めて皆で飲んだという逸話のある早雲は、足軽や雑兵の心をつかむ人間的な魅力があった。


北条早雲2
 

地盤を固めた早雲は、1512年、扇谷上杉家に属していた三浦氏の岡崎城(神奈川県平塚市岡崎)を攻略し、三浦義同を敗走させ、さらに早雲が住吉城(神奈川県逗子市小坪)を落とすと、三浦義同は息子・三浦義意の守る三崎城(神奈川県三浦市)に逃げ込んだ。

 

 

早雲が鎌倉に入って相模国の支配権をほぼ掌握すると、上杉朝良(扇谷上杉家)の甥・上杉朝興(うえすぎともおき)が三浦氏の救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。

 

 

三浦義同は、鎌倉に玉縄城を築いた早雲をしばしば攻撃し、扇谷上杉家も救援の兵を送るが、早雲はそれらをことごとく撃退した。


玉縄城
 

1516年、早雲は玉縄城を攻撃する上杉朝興を打ち破ると、三浦父子(義同・義意)の籠る三崎城に大軍で攻め込み、激戦の末に三浦氏を滅ぼす。

 

 

三浦半島南西部の油壺湾の名前の由来は、この時の戦いで、三浦父子をはじめとする将兵が討死すると残った者達が油壺湾へ投身し、湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったためである。

 

油壺
 

85歳で相模国を完全支配した早雲は、その2年後、室町幕府に対する独立宣言を発した。

 

 

関東の地を室町幕府の支配から独立させた早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、この早雲の出現によって世は実力がものをいう戦国時代に突入したことが、早雲が戦国大名の先駆けといわれる由縁である。

 

 

 

早雲は伊豆・相模の二カ国の大名となっても幕府からの位を受けずに無位無官を通し、1518年に家督を嫡男・北条氏綱に譲ると、翌1519年に死去した。

 

 

 

早雲の後を継いだ北条氏綱の代から北条氏を称し(関東を支配するうえで馴染みある鎌倉北条氏にあやかった)、領国は武蔵国まで拡大し、以後、勢力を伸ばし、5(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)に渡って関東に覇を唱えた。

 

 


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徳川 家康 (東京)

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1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。

 

父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。

 

 

松平氏は弱小な一地方豪族であった。

 

家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。


 

その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。

 

 

しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。

 

 

こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。

 

今川義元
   
今川義元
 

1560年、ついに転機が訪れた。

 

「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。

 

 

家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。

 

名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。

 

 

1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。

 

今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。


浜松城
 

そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。

 

 

武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。


 

信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。

 

信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。

 

すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。

 

織田信長
  
織田信長

やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。

 

 

一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。

 

信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。

 

 

1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。

 

浜松城に緊張が走った。

 

信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。


武田信玄
  
武田信玄
 

二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。

 

 

しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。

 

 

かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。

 

 

二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。

 

 

家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。

 

二俣城

もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。

 

 

 

決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。

 

 

信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。

 

 

 

武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。

 

 

台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。

 

 

そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。

 

 

信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
 

三方ヶ原の戦い
 

家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。

 

家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。

 

 

ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。

 

 

家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。

 

徳川家康1

10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。

 

あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。

 

 

 

1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。

  

長篠の戦い
 

1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)

 

 

結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。

 

 

 

家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。

 

小牧山
 

1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。

 

両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。

 

しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。

 

秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。

 

日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。

 

長久手の戦い
 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。

 

 

これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。

 

 

秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。

 

 

秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。

 

 

さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。

 

 

1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。

 

 

明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。

 

 

あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。

 

その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。

 

 

家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。

 

 

ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。

 

 

先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。

 

 

所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。

 

 

さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。

 

そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。

 

 

秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。

 

 

1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。

 

江戸城

家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。

 

 

政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。

 

徳川家康3
 

1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。

 

 

この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。

 

 

家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。

 

この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。

 

 

一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。

 

 

こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。

 

 

家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。


石田三成
  
石田三成
 

秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。

 

 

家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。

 

 

武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。

 

 

家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。

 

 

一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。

 

 

こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。

 

 

1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。

 

 

しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。

 

関ヶ原の戦い
 

1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。

 

 

1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。

 

 

この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。

 

 

こうして16141615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。

 

 

その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。

 

日光東照宮
 

1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。

 

 

その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。

 



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アテルイ (岩手)

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かつて、大和朝廷から続く中央政権から見て、現在の関東地方と東北地方といった日本列島の東方に住む人々を異端視・異族視して蝦夷
(えみし)と呼んだ。

 

 

古代の蝦夷は、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

 

 

そのため、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収され、中央政権の征服地域が広がるにつれ、蝦夷と呼ばれる人々や地理的範囲は北へ北へと変化する。

 

 

中世以後の蝦夷(えぞ)はアイヌ民族を指すのが主流であるが、近年の研究で、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の連動性は薄いことが分かっている。

 

桓武天皇
  
桓武天皇

今から約1200年以上前、桓武天皇の時代になると、朝廷は東方にさらなる支配地域を求め、本格的な蝦夷(えみし)征討が開始される。

 

軍事遠征の準備が整った788年、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)に、蝦夷の本拠地である胆沢遠征の命令が下された。

 

 

朝廷軍は多賀城を出発し、789年、紀古佐美は胆沢の入り口にあたる北上川支流の衣川を渡ると、軍を二手に分けて北上川の両岸から、アテルイの拠点である巣伏村(現在の奥州市水沢区)を目指して進軍する。

 

衣川

北上川左岸を進む朝廷軍4000はアテルイ軍300と遭遇、朝廷軍が逃げるアテルイ軍を深追いして巣伏村に至ると、そこにアテルイ軍800が加わって反撃に転じ、さらに朝廷軍の背後からアテルイ軍400が現れた。

 

右岸を進んでいた朝廷軍が迅速に合流できなかったため、左岸を進んでいた朝廷軍は完全に挟みうちにあう。


北上川
 
 

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり韓信しかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

巣伏の戦いの跡碑
 

アテルイ軍の挟みうちにあった朝廷軍は崩壊し、丈部善理(はせつかべのぜんり)ら将校を含む戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人という大敗北を喫する。

 

この敗戦で、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とした朝廷の胆沢遠征は失敗に終わった。

 

 

 

 

朝廷は直ちに次の胆沢遠征の準備をはじめ、征夷大将軍に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、副将軍に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命される。

 

794年、この第2回の胆沢遠征では朝廷軍10万がアテルイ軍に圧倒し、蝦夷勢力は胆沢の地から一掃された。

 

 

 

ここまでの戦いでアテルイ側は多くの兵士を失い、加えて西岸一帯の荒廃から食糧難となり、もはや蝦夷勢力には抵抗する力は無くなる。

 

坂上田村麻呂
  坂上田村麻呂

しかし、
796年、朝廷は弱った蝦夷勢力にトドメを刺すべく、前回の余韻も冷めやまぬうちに坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、801年、前回の半分以下に縮小された約4万の軍勢で第3回の胆沢遠征を開始。

 

この遠征は胆沢に止まらず、遠く閉伊地方(岩手県閉伊郡)にまで侵攻し、いったん帰京した田村麻呂は朝廷から蝦夷をほぼ完全に制したという評価を与えられた。

 

 

 

802年、田村麻呂は確保した地域に浪人4,000人を移して胆沢城の建設を開始。

 

 

アテルイ側は立て続けに大軍に侵攻され、戦力が風前の灯となったところで、巨大な胆沢城を目にし、もはや万策尽きたことを受け止める。
 

胆沢城
 

アテルイ、モレ(アテルイに次ぐ蝦夷の代表)が蝦夷の戦士500余人を率いて、胆沢城造営中の田村麻呂に投降し、アテルイらは平安京へと連行された。

 

 

 

田村麻呂は、この先の蝦夷を安定させるにはアテルイらの協力が必要であると主張し、2人の命を救うよう提言するが、京都の貴族達は「野性獣心、反復して定まりなし」と国家に抵抗した蛮族に甘い顔をする方が蝦夷の支配が安定しないと主張する。

 

 

旧暦813日、河内国椙山(現在の現在の大阪府枚方市)にてアテルイとモレは処刑された。

 

京都清水寺(アテルイ・モレ)
 

アテルイについての史料は、蝦夷に文字資料がないため、敵である朝廷側の資料『続日本紀』での「巣伏の戦い」についての紀古佐美の詳細報告と『日本紀略』でのアテルイの降伏に関する記述の二つのみであるため、人物像などは全く分かっていない。

 

 

黄金が見つかったがゆえに朝廷への恭順を求められた蝦夷であるが、もともとは朝廷から辺境と蔑まされていたがゆえに平和に暮らせていた。

 

 

アテルイ達は、蝦夷が異境に生息する人に似た獣ではなく、家族と仲間と故郷を愛する人間であるがゆえに勝ち目のない抵抗を続けたことを、失われた平和と引き換えに、少なくとも田村麻呂には伝えたのではないだろうか。

 

 


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劉邦 (連戦連敗および逃亡そして中国統一)

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劉邦は沛(江蘇省徐州市)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生する。

 

若い頃の劉邦は酒色を好み、家業を嫌い、縁あって務めていた下級役人の仕事にも不真面目に取り組んでいた。

そのため、沛(はい)の役人の中には、後に劉邦の天下統一を助ける蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)もいたが、彼らもこの頃は劉邦を高くは評価していない。

 

 

劉邦はあまり褒めるべき点がないような人物であったが、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になるなど、不思議と人望があった。

 

沛

ある時、沛へとやって来た単父(現在の山東省)の名士である呂公という者を歓迎する宴が開かれる。

沛の人々はそれぞれ贈り物や金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、この宴を取り仕切っていた蕭何は、贈り物が千銭以下の者は地面に座ってもらおうと提案した。

 

そこへ劉邦がやってきて贈り物は「銭一万銭」と呂公に伝えると、あまりの高額に驚いた呂公は丁重に劉邦を迎えて上席に着かせる。

 

蕭何が呂公に「劉邦は銭など持っていない。」と伝えると、呂公は逆に劉邦に対する興味を深め、劉邦の龍顔(顔が長くて鼻が高く髭が立派であること。縁起が良いとされていた。)に惚れ込み、自らの娘・呂雉を娶わせた。


 陳勝・呉広の乱


紀元前
209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。

 

蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなった。

この時に、劉邦が集めた兵力は23千で、配下には蕭何と曹参の他に、犬肉業者をやっていた樊カイ(はんかい)などがいた。

 

 

ほどなく、劉邦は張良との運命的な出会いをする。

後に軍師として劉邦の天下統一の立役者となる張良は、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説いていたが、誰からも相手にされないでいた。

 

ところが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、ほとんど無条件に採用された作戦の数々は大きな戦果を上げていくことになる。

 
 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

項羽は途中で宋義を殺すと自ら総指揮官となり、河を背に3日分の食料以外の物資は船も含めて全て破棄して兵士達に死に物狂いで戦わせるという戦術をとったり、撃破した秦軍の捕虜20万人を生き埋めするなど、敵も味方も震えあがらせる指揮をとり、大きな戦果を上げていく。

 

人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。

 


 

一方、西回りの劉邦が苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで辿り着くと、劉邦は儒者であるレキ食其(れきいき)の訪問を受ける。

 

劉邦は大の儒者嫌いであったため、投げ出した足を女達に洗わせながらレキ食其と面会するという態度をとった。レキ食其がその態度を一喝すると、劉邦は無礼を詫びてレキ食其の話に耳を傾けた。

 

レキ食其は「この先の陳留(現在の河南省開封市)は交通の要所で食料が豊富なためこれを得るべきである。また、降伏しても身分を保証すると約束すれば余分な犠牲を出さずに済む。」と進言する。

 

 

軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、戦争において食料の確保が最優先事項であることは、古今東西の最終的な勝利者となった指揮官全ての共通認識である。人間は食べなければ斬られずとも死ぬのである。


 

項羽が20万人の捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由も大きかった。

 

 

レキ食其の進言を採用した劉邦は、陳留の無血開城に成功し、大量の食糧と兵の増員に成功する。
 

劉邦3

劉邦はこれ以降も度々無血開城に成功しながら各地を攻略して行ったので、その進軍は激しい戦闘を繰り返す項羽よりも早かった。

 

そして、ついに劉邦軍は項羽軍よりも先に関中へと入り、秦の首都・咸陽を目の前にする。

 

 

反秦軍の勢いに観念した秦の王・子嬰は、劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏し、劉邦の部下の多くは子嬰を殺すべきだと主張したが、劉邦は子嬰を許した。

 

 

劉邦が咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、樊カイや張良に諫められると、それらに一切手を出さなかった。

ここでの我慢は、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、多くの人々からの信用を集める一因にもなる。

 



 

一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 
 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。


劉邦はまず項羽に「私達は共に秦を討つために協力し、私は思いもよらず先に関中に入ったが、項羽をさしおく気はない。」と伝える。


項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。


しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。
 

鴻門の会

ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒する。

 

さらに張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜けた。


 

 

 

その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。

 

項羽は「西楚の覇王」を名乗り、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王は邪魔になったので暗殺する。


 

紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなった。

 

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものは関中に一番乗りした劉邦が、約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられたことであった。

 

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

 

楚漢時地図
 

さて、こんな苦境の中で新たに劉邦軍に加わったのが韓信であった。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えし、その才能を見抜いた蕭何の推挙により、すぐに大将軍となる。

 

 
 

一方、項羽は多く不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 
 

紀元前205年、反乱鎮圧に奔走する項羽が留守にしていた彭城を、劉邦は56万の連合軍でアッサリと制圧する。

連合軍は大勝利に浮かれて、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回していた。

 

徐州市(彭城)
 

彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭を選んで猛スピードで引き返してくると、項羽軍3万は油断しきっていた連合軍56万を木っ端微塵に打ち破り、連合軍は10万人にものぼる死者を出す。

 

この時、劉太公(劉邦の父)と呂雉(劉邦の妻)が項羽軍の捕虜となる。

この大敗北により、ここまで劉邦に味方していた諸侯達は慌てて項羽になびいていった。

 


 

大敗北から4カ月、劉邦は逃げ込んだケイ陽(河南省鄭州市)で籠城を続ける。

孤立した劉邦が再起をはかるためには軍勢を集めることが急務であった。

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、わずか12000の兵で20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、その後も次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。

 

 

同じ頃、項羽の軍勢に完全包囲をされて、苦悩する劉邦に韓信から手紙が届く。

 

劉邦は韓信の帰りの知らせであることを期待していたが、その内容は、斉を安定させるために王を名乗りたいというものであった。

劉邦は自信を持った韓信が野心を抱いて裏切ろうとしていると察し、激怒する。

 

しかし、張良が「ここは韓信の望み通りにするべきである。さもなくば、韓信は本当に裏切るだろう。」とさとし、劉邦は韓信の機嫌を損ねないように斉王となることを認めた。

  


広武山

劉邦は韓信が戻るまでの時間稼ぎをするため、天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固める。



道が険しく一気に攻め入ることの出来ない項羽軍は、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。


 

項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫ったが、劉邦は「殺したら煮汁をくれ」と返答する。


次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦はこれを笑い飛ばした。

 

そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。

 
 

紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦することを決める。

 

 

 
 

項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良は「もしここで両軍が引き上げれば、あの強い項羽軍が再び勢いを取り戻すので、今こそが劉邦軍が勝つ千載一遇のチャンスである。」と言って、退却する項羽軍の後方を襲うことを劉邦に進言した。
 

劉邦4
 
 

項羽の背後を追う劉邦軍が、韓信の集めた30万の大軍とさらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰める。


 

劉邦は全軍の指揮を韓信にアッサリと譲り、韓信は60万の大軍勢をもって項羽軍10万を包囲し、食料不足にする作戦をとった。

 

 
 

やがて項羽軍が疲弊し切った晩、領邦軍60万は楚の歌の大合唱を始める。

 

故郷である楚の歌が敵側から聴こえてきた項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。


ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。

 

 

その後、項羽は残った少数の兵を伴い、超人的な武勇で包囲網を突破するが、最終的に自害を選んだ。

 

 
 

 

紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し、論功行賞では、戦場での功が多い曹参よりも、兵員と物資の調達をし続けた蕭何を第一とするなど、細やかな評価を下していく。

 

韓信は楚王に任命された。

 

また、張良には3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断る。

 

さらに、劉邦を裏切ったり、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと劉邦の陣営に加わった雍歯を真っ先に什方侯にした。これは張良の策で、劉邦が恨んでいるはずの雍歯でさえ功があれば恩賞が下るなら、この論功行賞は公平になされると、他の諸侯に説得力と安心感を与える効果があった。

 

 

 

劉邦は酒宴の席で自らが天下統一を成し得た理由を「わしは張良の様に策をめぐらし千里先から勝利する事は出来ない。わしは蕭何の様に兵をいたわって補給を途絶えさせず安心させる事は出来ない。わしは韓信の様に軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という三人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増一人すら使いこなす事が出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ。」と語った。

 
劉邦2
 

天下を統一した劉邦は、一転して、帝国の安定のために大粛清を始める。

 
 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、反乱を起こそうと目論むが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何の策略でおびきだされて、誅殺される。

 

彭越は梁王の地位を取り上げられ、蜀に流刑されるところであったが、劉邦の妻・呂雉の進言により流刑ではなく処刑に変更された。

 

次は自分の番だと警戒した英布は反乱を起こすが、激戦の末、敗れる。

 

 

劉邦も英布との戦いの際に受けた矢傷が元で、紀元前195年に死去した。

 


 

強大な諸侯は全て劉邦に粛清され、劉邦の起こした漢王朝に対抗できる者はなく、劉邦の息子・劉盈(りゅうえい)2代目皇帝に即位すると、漢王朝はその後約200年の長きに渡って続く。

 

 

劉邦は「陳勝・呉広の乱」で秦の圧政に対する反乱の狼煙を上げた陳勝を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓を守らせていた。

 

 

 
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局長 近藤 勇

近藤勇の名前は、宮川勝五郎、嶋崎勝太、大久保大和などの時期も含め、ここでは「近藤」に統一して書きすすめます。


 近藤勇700x1000



近藤は、武蔵国多摩郡上石原村
(現在の東京都調布市)に比較的裕福な百姓の宮川久次郎と母みよの三男として生まれる。

 
 

父の久次郎は様々な英雄伝を近藤に読み聞かせていた。

 

そんな父の影響で、近藤は忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬し、後に新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束を真似たといわれている。

また、三国志の関羽に憧れ、それが強い男になりたいと思うキッカケにもなった。

 


 

 

近藤が15歳の頃、父が留守の時、家に強盗が押し入る。

 
 

やっつけてやろうと飛びだそうとした兄に近藤は「強盗は入ったばかりの時は気が立っているものです。立ち去る時の方が気が緩むので、そこでやっつけましょう。」と言う。

 

そして、強盗が立ち去ろうとした時に、近藤は兄と共に飛び出した。

 

ビックリして盗品を投げ捨てて逃げる強盗を、兄が追いかけようとすると、近藤は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったので良しとしましょう。」と言う。

 

 

このエピソードは、いざという場面での近藤の判断力と人間性の高さを表しており、近藤の剣の師匠である近藤周斎が養子に欲しがるキッカケにもなった。


試衛館
 

近藤は、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に所在する天然理心流の道場である試衛館に入門し、やがて、道場主である近藤周斎の養子となり、清水徳川家の家臣である松井八十五郎の娘つねと結婚したのち、天然理心流宗家四代目を襲名する。

 

 

上昇志向の強い近藤は、天然理心流に対する強い誇りを持ちながら、このまま田舎道場で人生を終えることを想像する度に晴れない気持ちになるのであった。

 

 


 

そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。


 

浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に参加を決めた。

 
 

浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。

 
 

 

京都に到着後、この浪士組のキッカケとなった清河八郎という人物が、勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。

 

協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。


 

これに対して近藤を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。

 

 

近藤達は京都に残留し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木源之丞邸やその周辺に分宿する。



松平容保
  
松平容保
 

その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。

 

近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、結果「壬生浪士組」が結成される。

 

 

 

壬生浪士組はすぐに、近藤派と芹沢派の確執が色濃くなっていく。


この頃、隊の名前はついに「新撰組」となり、さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりも作られる。

 

 

近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、18639月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。

 

こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる。

 

局長
 

 

1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着した。

 

 

その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派の計画を知る。

 

その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐するというものであった。

 


 

尊攘派の計画会合が行われる日時を知った新撰組は、186465日、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。

 

 

近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、真夜中の戦闘が始まった。

 

新撰組で最も剣の腕が立つ沖田が、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱。

藤堂は、頭を守る鉢金をしめ直すところを斬りつけられ、出血で視界がままならず、戦線離脱。


 

新選組側は一時、近藤と永倉だけで戦うことになるが、土方隊が到着すると勝負は一気に決着に向かう。

 

 

尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助という才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。

 
 

そのため、専門家の間では、池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に倒幕派を刺激してしまい明治維新が早まったともいわれている。

 
 

桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。

 

池田屋跡

この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。

 
 

この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。

 

 

 
 

池田屋事件の後、藤堂の仲介で新撰組に才能豊かな伊東甲子太郎が加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。


 

近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成した。

 

伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張。

 

 

近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。

さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。


 

この遺恨が後々、近藤の運命を左右する。

 

 
 

1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。

 

 


 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。


 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
 

とみのもりの遭遇戦(鳥羽・伏見)
 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 


 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。

 
 

近藤らは江戸に引き上げるが、会津において再起を図る計画を主張する永倉新八、原田左之助が隊を離脱。

 

 

 

 

近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。

 

 

しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思っていただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。

 

 

新政府軍は薩摩や長州といった新撰組が京都で取り締まった者達が占めているため、新撰組であることが発覚するかしないかで、隊士もろもろの処遇が大きく変わるため、近藤は意を決して、単身、新政府軍に出頭し、自らを「大久保大和」と名乗り、武装組織が新撰組とは無関係であることをアピールする。

 

近藤勇7

ところが、新政府軍の中に、かつて新撰組が暗殺した伊東甲子太郎の御陵衛士であった加納鷲雄、清原清がいた。

 

彼らによって、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚してしまう。

 

 

結果、近藤は、板橋刑場で斬首される。

33歳没。

 
 

首は京都の三条河原に晒された。

 

 
 

一方で、近藤が出頭して時間を稼いだことにより、残された隊士はそれぞれの運命に向かっていくことになる。




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