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張良 (千里の彼方より戦を勝利に導く知将)

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張良は、父も祖父も韓
(現在の河南省北部、山西省南部、陝西省東部)の宰相(その国のNO.2)を務めていた。

 

紀元前230年、史上初めて中国を統一する秦によって韓が滅ぼされる。

 

 

祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、全財産を売り払って復讐の資金とし、弟が死んでも費用を惜しんで葬式を出さなかった。

 

始皇帝
  
始皇帝

張良は同志を求めて旅をし、始皇帝暗殺のための準備を整えると、紀元前218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙(現在の河南省陽武の南)を通った所を襲う。

 

しかし、暗殺は失敗に終わり、張良は逃亡した。

 

始皇帝の命を狙った張良は全国指名手配となり、偽名を使って身を潜めることになる。

 

 

 

 

ある日、汚い服を着た老人が自分の靴を橋の下に放り投げると、張良に向かって「小僧、取って来い。」と言いつけた。

 

張良は殴ってやろうかと思うが、相手が老人なので我慢して靴を取って来てやった。


すると老人は足を突き出して「履かせろ。」と言う。


張良はこみ上げる怒りをあきらめて老人に靴を履かせた。


老人は「お前に教えることがある。
5日後の朝にここに来い。」と言った。

 
 

5日後、日が出てから、張良が約束の場所に行くと、すでに老人は来ており「目上の人間と約束して遅れてくるとは何事だ。」と言い「また5日後に来い」と言って去った。


 

5日後、張良は日の出の前に、家を出たが、またすでに老人は来ていた。

老人は再び「5日後に来い」と言い残して去った。

 
 

5日後、張良は夜中から、約束の場所で待っていると、しばらくして老人がやって来た。

老人は満足気に「わしより先に来たのう。こうでなくてはならん。その謙虚さこそが大切なのだ。」と言うと張良に「太公望の兵法書」を渡して「これを読めば王者の師となれる。」と言い残して消え去った。

 



陳勝・呉広の乱

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、張良も兵を集めて参加しようとしたが、100人ほどしか集められなかった。

 

 

ほどなく、張良は劉邦との運命的な出会いをする。

 

張良は、始皇帝暗殺に失敗し、兵を集めることも出来ない自分に対して、将の器がないことを痛感していた。

 
 

それでも秦打倒の夢を捨てられず、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説くも、誰からも相手にされないでいたが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、それらはほとんど無条件で採用されるようになる。

 

 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

劉邦がこの懐王の反秦軍に参加すると、張良は項梁に韓(張良の祖国)を秦から奪い、王を擁立する必要性を説き、劉邦と共に旧韓の城を十数城攻め取り、韓の公子であった成を韓王に擁立して韓を再興する。

 

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

咸陽1

 

咸陽を目指す劉邦軍において、張良は様々な戦略を提案し、劉邦軍は最小限の被害で転戦していき、関中への一番乗りを果たす。

 

 

関中に入った劉邦は、秦王の子嬰の降伏を受けて秦の首都・咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、張良は「秦が無道を行なったので、劉邦は咸陽に入城できた。それなのにここで楽しもうとするのは秦と同じになってしまう。」と劉邦を諫めた。

 
 

ここで劉邦に我慢をさせたことは、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、劉邦が多くの人々からの信用を集める一因にもなる。

 

 

 


 

一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。


 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会であったが、張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜ける。

 

 

領地分配

秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

 

 

張良は劉邦に、漢中に至る険しい山道を少しでも通り易くするための桟道を焼くように進言した。

 

項羽がどんな言い掛かりで劉邦の討伐を決めるか分からないので、道を焼いて通行困難にすることで反乱の意思がないことを示すことが理由である。

 

 

さらに張良は項羽に「劉邦は桟道を焼いており、項羽を攻めることは出来ない。それより斉(現在の山東省を中心した地域)で田栄らが背いています。」との手紙を出し、項羽は劉邦に対する疑いを後回しにして、直ちに田栄らの討伐に向かった。

 


 

項羽は多くの不満を買っていたため、反乱は各地で続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力はさらに薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
 

 

広武山

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転しながら、紀元前203年、広武山(河南省)で数カ月に及ぶ膠着状態の末、両軍共に疲労の色合いが濃いため、和睦してそれぞれの根拠地へと戻ることが決定した。

 

 

ここで張良は、退却する項羽軍の後方を襲うよう劉邦に進言する。

 

疲弊している項羽軍も、戻って回復すればその強さが戻ってしまい、油断している今を置いて勝機はないと、張良は判断した。

 


 

劉邦はそれを受け入れ、韓信と彭越に援軍を要請するが、韓信と彭越はやって来ない。

 

それに対して張良は劉邦に「韓信・彭越が来ないのは恩賞の約束をしていないから。彼らは劉邦と項羽が争っているからこそ、自分に価値があることを分かっていて、争いが終わってしまえば自分達がどうなるのか不安なのだ。」と説明した。

 

 

張良の説明に納得した劉邦は、戦後に韓信を斉王に、彭越を梁王にすることを約束すると、戦後の立場に安心した韓信と彭越は劉邦のもとに馳せ参じる。

 


 

韓信と彭越の率いた軍勢、さらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、劉邦軍は60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰め、項羽と劉邦の長年の戦いは劉邦の勝利に終わった。 

 

張良1

遂に項羽を滅ぼした劉邦は、紀元前202年、皇帝に即位して、恩賞の分配をし始めた。

 

張良は野戦での功績は一度もなかったが、張良なくして劉邦の勝利がなかったことは明白であり、3万戸の領地が与えられるはずであったが、張良はそれを辞退した。

 

 

張良が恩賞を辞退した理由は、秦に滅ぼされた祖国・韓の無念を自らの謀略で晴らす事が目的であったという純粋な面と、恩賞によって力を持つと後々、劉邦の粛清の標的になる可能性があることを理解していたからである。

 


 

権力を勝ち取った者が、権力を長期に渡って安定させるために、例え功労者であっても戦力を保有する者は粛清していくのは当然で、日本人に馴染み深いところでは徳川幕府が良い例であろう。

 

世知辛い話ではあるが、これを情に流されて怠ると、ほぼ確実に権力の寿命は短くなる。

 

 
 

実際に、劉邦はこの後、天下統一の最大の功労者の一人で戦後に斉王の地位を与えた韓信を皮切りに、彭越、英布と、戦上手で領地の大きい者を粛清していく。

 

 
 

もしも「謀を帷幄のなかにめぐらし、千里の外に勝利を決した(会議室で考えた戦略ではるか遠方の戦に勝利する、という意味)。」と劉邦に言わしめた張良が、広い領地を得て力を保有していたならば、確実に劉邦の粛清の対象となっていたであろう。

 

 張良2


張良は元々病弱な面があったが、劉邦の開いた漢王朝が確立されて以降は、病気と称して家に籠るようになった。

 

 

しかし、劉邦の死期が近づくと、劉邦の愛妾・戚氏が自分の子である劉如意を後継者にしようと画策し始め、劉邦もその気になる。

すでに後継者となることが決まりかけていた劉盈とその母・呂雉(劉邦の正室)は危機感を抱いて、張良に助言を求めた。

 

 

張良は、劉邦がたびたび招聘に失敗していた高名な学者達を、劉盈の師として招かせる。

 

 

劉邦は自分がたびたび招聘しても応じなかった学者達が劉盈の呼びかけに応じたことに驚き、学者達に理由を聞くと「陛下は礼を欠いており、我らは辱めを避けるため応じませんでしたが、劉盈殿下は徳も礼も備えているので応じました。」と答えた。

 

 

これにより、劉邦が劉盈の後継者としての器を改めて理解したため、呂雉(劉盈の母)は張良に深い恩義を抱き続ける。

 

 

張良は、劉邦の死の9年後、紀元前186年に死去した。




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蕭何 (劉邦による中国統一の最大功労者)

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蕭何(しょうか)は劉邦と同じ沛
(江蘇省徐州市)の出身で、若い頃から沛で役人をし、ポストは低かったが、その仕事ぶりは真面目で能率も良く、周囲の評価も高かった。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える曹参(そうしん)は、この頃の部下である。

 

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、蕭何は曹参らと沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。


しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

 沛

 

以降、蕭何は劉邦軍における内部事務の一切を切り盛りする。

 

 


 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 


 

蕭何は劉邦軍の食糧調達を担当し、これを絶やすことがなかったので、劉邦軍の兵士達は略奪に走ることがなく、劉邦軍は攻略した土地に対して蛮行を働かないという評判を生み、それが多くの無血開城を実現させていく。

 

蕭何2

 

劉邦が項羽よりも先に関中入りし、咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何ただ一人、秦の歴史書、法律書、人口記録などが保管されている文書殿に走り、それら全て持ち去る。

 

そのためこの後、遅れて関中入りした項羽が宮殿を焼き払うが、蕭何が持ち去った貴重な文書は燃えることなく、それらは後々、劉邦が漢王朝を開く際に大いに参考となった。

 

 

 

 

結局、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

楚漢時地図
 

劉邦が漢王になると、蕭何は丞相(NO.2)として内政の一切を担当することになった。

 

 

それからまもなく、韓信が劉邦軍に加わる。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えしてきたのだが、韓信は家柄もなく項羽軍では雑兵で実績もないため、劉邦軍でも活躍の場が与えるのは難しかった。


 

そのため、韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて去ろうとするが、蕭何は韓信に計り知れない才能を感じて「自分が韓信を劉邦に推挙して、駄目であれば、私も漢を捨てる。」とまで言って引き止める。


 

劉邦は蕭何の推薦を受け入れ、韓信を大将軍へと大抜擢した。

  

劉邦がなんの実績もない韓信の能力に期待するための唯一の材料は蕭何への信頼だけで、それはつまり、蕭何なくして軍事の天才・韓信は歴史の表舞台に立つことはなかったのである。

 

 

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
 

徐州市(彭城)
 

蕭何は関中に留まって、関中から戦地の劉邦軍に向けて食糧と兵士を送り続け、それを途絶えさせることはなく、劉邦軍を後方から支える。

 

しかも、関中での治世において、民衆の不満を買うことなく名丞相として称えられた。

 

 


 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

蕭何の送り続けた食料と兵士がなければ、そして、根拠地である関中が安定していなければ、劉邦が負け続けてもなお最終的には勝利することもなく、さらに戦場で大活躍した韓信を雑兵から大将軍へ押し上げたのは他ならぬ蕭何であった。


 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を戦功第一に選ぶ。

 

 


 

皇帝となった劉邦が漢王朝(前漢)を開くと、蕭何は長年続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事した。

 

 

紀元前196年、蕭何は韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出して誅殺する。

 

韓信は用心深い性格であったが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたゆえの油断であった。

 

軍事の天才・韓信が反乱を起こせば、劉邦には大きな困難が待ち受けていたはずであるが、それを水際で防げたのは蕭何という存在あってである。

 

蕭何1
 
 

しかし、やがて劉邦の猜疑心が蕭何にも向き始めた。

 

蕭何は長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できるため、危険視される。

 

そのため、蕭何は汚く金儲けをしたり、わざと自らの評判を落とすことにより、劉邦に反乱の可能性を感じさせないようにした。

 

 


 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなる。


跡取りに恵まれにくかった蕭何の家系は何度も断絶するが、歴代の皇帝は蕭何の王朝への功績が大き過ぎるため、血の繋がる者を見つけ出しては位を与えて家系を継続させた。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。




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