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加藤 清正 (熊本)

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1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。

 

1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。

 

 

1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。

 

加藤清正5
 
織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。

 

21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。

 
賤ヶ岳の戦い

1584
年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。

 

この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。

 

 

その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。

 

小牧山城
 

薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。

 

秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。

 
佐々成政

  佐々成政

秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国195,000石の大名となる。

 

清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。

 

さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。

 
加藤清正1

 

清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。

 

一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。

 

 小西行長

  小西行長

1590年、秀吉は5100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。

 

 

1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。

 

この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。


文禄の役

 

当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。

 

1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。


加藤清正2
 

 「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。

 

慶長の役
 
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。

 

 

父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。

 

日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。


豊臣秀吉

  豊臣秀吉

その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。

 

この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。

 

 

1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

 

九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。

 

そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。

 

石田三成
  
石田三成

歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。

 

 

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。


徳川家康

  徳川家康

しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。

 

徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。

 

この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。

 

加藤清正6
 

「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。

 

清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。

 

 

徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。

 

 

さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。

 
豊臣秀頼

  豊臣秀頼

一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。

 

 

こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。

 

 

清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。

 
熊本城

 

清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画((ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。

 
昭君の間

本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。

 

 

清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。

 

闇御門
 

1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。

 

 

清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。

 

清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。

 

淀殿
  
淀殿

会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。

 

秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。

 

 

会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。

 

そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。

 

加藤清正4
 

無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。

 

 

しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。

 

 

 

清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。

 

方広寺鐘銘事件
 

これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。

 

 

秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。



 

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名和 長年 (鳥取)

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鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。

 

 

長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。


源師房
  
源師房 

 

鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。

 

長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。

 

名和長年1
 
 

鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。


 

1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。

 
 

しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。

 

後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。

 

その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。

 
後鳥羽上皇
  
後鳥羽上皇 

 

後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。

 

  

佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)

 

これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。

 

船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。

 

 

膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。

 

佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。

 
船上山の戦い

その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。

 

さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


名和長年3
 

長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。

 

さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。

 

また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。

 

「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。


名和氏
 

幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。

 

長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。


名和長年4

1335
年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。


足利尊氏
   
足利尊氏

 

これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。

 
竹ノ下の戦い
 

1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。

 

 

しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。


楠木正成
  
楠木正成

 

日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 

 

再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。

 
新田義貞
  
新田義貞 

 

「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。




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藤堂 高虎 (三重)

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1556
年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

 

藤堂氏は先祖代々、近江国(現在の滋賀県)19村を支配する小領主であったが、乱世の中で没落し、父の代には地侍に落ちぶれていた。

 

高虎の父は安定した収入が得られるように知行取り(土地の支配権を任される)を目指したが叶わなかったため、高虎は武功を挙げて父の果たせなかった知行取りになることを夢見た。

 

滋賀県犬上郡甲良町

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」で、15歳の高虎は浅井軍の足軽として初陣を迎える。

 

 

この初陣に強い想いをかけていた高虎は、当時の平均身長を30cmは上回る188cmの巨体の持ち主で、子どもの頃から一度も泣いたことがないという筋骨隆々の剛の者だったという。

 

 

高虎はこの初陣で見事に敵の武将の首を取る手柄を立て、さらに翌年、最初に敵の首を取る一番首の手柄をたてるなど、戦のたびに浅井軍の中で戦功を挙げる。

 

姉川の戦い
 

浅井長政は高虎の活躍を高く評価して褒美の刀を授けたが、1572年、高虎はその浅井家を離れ(浅井氏はその後すぐに織田信長に滅ぼされる)、浅井家から目と鼻の先であった阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとへ士官した。

 

 

新天地にのぞむ17歳の高虎は家中の裏切り者2人を始末するように命じられ、剣の腕が立つといわれていたその2人を難なく討ち取り、阿閉貞征は高虎の聞きしに勝る働きに目を見張るが、高虎はこの阿閉家もわずか1年で去ってしまう。

 

 

次に高虎が士官したのは、これまで仕えた主君の敵である織田信長の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)であった。

 

 

敵も味方もお構いなく渡り歩く高虎が、決して手放さずに次の士官先に持参したのが、日本全国どこの領主にも通用する「感状」という武士の履歴書のようなものである。

 

戦場には必ず一人一人の武将の活躍を記録する「目付」という記録係おり、この記録をもとに領主から合戦後に発行されるのが「感状」で、この「感状」があったから高虎は次々に主君を変えることが出来た。

 

磯野員昌
  
磯野員昌
 

磯野員昌からこれまでの武功を評価されて召し抱えられた高虎は、80石の知行を与えられ、18歳にして父が一生かかっても果たせなかった知行取りとなる。

 

その後、磯野員昌の所領を織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)が継ぎ、高虎は織田一門の家臣となった。

 

高虎は織田信澄のもとでも数々の武功を挙げるが、知行が80石から上がらなかったので、織田信澄に武功に見合う知行に上げて欲しいと求めるも聞き入れられなかったため、高虎は織田の家名もやっと手にした80石もアッサリと捨てて三度目の浪人となる。

 

 

 

次に高虎は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長に仕える。

 

羽柴秀長の所領は8500石しかなかったが、羽柴秀長は高虎を以前の3倍以上となる300石の知行で迎え入れた。

 

 

高虎は羽柴秀長軍の先鋒として多くの戦に出陣し、1582年、織田信長が「本能寺の変」で世を去ると、羽柴秀吉が一気に天下を掴み、高虎は羽柴家に仕えて7年で知行4600石、一軍を率いる武将へと出世する。

 
羽柴秀長
  
羽柴秀長

しかし一方で、高虎は戦場での武功だけに頼る出世に限界を感じるようになっていた。

 

羽柴家には賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれる戦上手の家臣がひしめいており、優秀な人材が揃う羽柴家でさらに出世するにはどうすれば良いのか考えた高虎は30歳の頃に「築城」に目を付ける。

 

10ヶ所を越す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目して「縄張」と呼ばれる城の設計を研究した。

 

羽柴秀吉の四国平定戦で難攻不落といわれた阿波国(徳島県徳島市一宮町)の一宮城を攻めた時、高虎は一か月経ってもおちないこの城の秘密を探るために、夜一人で一宮城の堀の深さを測りに行ったために鉄砲で撃たれるなど、時に危険を冒しながら攻めにくい城の設計術を研究する。

 

 

そんな高虎が造った城の一つである伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)20メートルを越える石垣が特徴で、高い石垣は鉄砲や弓に対する防御力を持ち、さらに攻め手に難攻不落だと精神的に威圧する効果もあった。


伊賀上野城

高虎は生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得する。

 

その後、羽柴家が姓を豊臣と改め、専門性を身につける事で他の武将との競争を勝ち抜いた高虎は2万石を与えられた。

 

藤堂高虎3
 

1591年、高虎が長年仕えてきた豊臣秀長がこの世を去ると、紀伊・和泉・大和の100万石は豊臣秀長の子・豊臣秀保に受け継がれる。

 

しかし、それを機に高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれていく。

 

それまで実子が育たなかった豊臣秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていたが、1593年、豊臣秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀保や秀次を疎んじるようになった。

 

1595年、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ秀次が切腹させられた後、高虎の主君である秀保も原因不明の死をとげる。

 

 

秀保の家が廃絶となり、多くの秀保の家臣が豊臣秀吉の配下へと移っていくなかで、高虎は今まで築き上げた2万石の知行を捨て、秀保・秀長を弔うためと、忽然と俗世間から姿を消して高野山へと入った。

 

一方、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられる。

 

高虎は秀保の家臣である自分にもいずれ豊臣秀吉の刃が向けられることを察知していたのであった。


高野山
 

さすがの豊臣秀吉も、全てを捨てて寺に入った高虎には手を出すことが出来ず、それどころか逆に高野山へと使者を送って、自分に仕えるようにと説得を繰り返すようになる。

 

高虎が考慮の末に説得に応じると、喜んだ豊臣秀吉は高虎に伊予・宇和島7万石という以前の3倍の知行を与えた。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、それをキッカケに次の天下を狙う徳川家康、それに抵抗する石田三成とが対立していく。

 

諸大名が状況を伺うなかで高虎は、いち早く徳川家康支持の態度を鮮明にする。

 

豊臣恩顧の大名達はそんな高虎を裏切り者とののしったが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者はナタの首が折れたようなものである。」と動じなかった。

 

 

1600年、天下を二分した「関ヶ原の戦い」は徳川家康の東軍が勝利し、この戦いにおいて高虎は脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱の寝返り工作を成功させる。

 

 

しかし「関ヶ原の戦い」で東軍に寝返って勝利に貢献した小早川秀秋が2年後にお家廃絶、さらに高虎が寝返らせた小川祐忠が所領没収と、徳川家康はいくら自分の味方につこうとも裏切りをするような外様大名を容易に信じようとはせず、その徳川家康の疑いの目は当然のごとく次々に主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられた。

 
徳川家康
  
徳川家康
 

1614年、さらに高虎の立場を危うくする事件が起こる。

 

徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻撃した「大阪冬の陣」において、大阪城の豊臣秀頼から高虎に宛てた書状が徳川家康のもとへ渡ってしい、その内容は「申し合わせたように徳川を裏切ってくれれば約束した領国を与え、その他の恩賞も望み通りとする。」というものであった。

 

 

この書状は徳川家康側の内部分裂を誘うために豊臣秀頼側がくりだした謀略であったが、高虎の経歴を知る諸将は疑いをぬぐうことが出来ず、高虎に不審の目が向けられる。

 

 

そんな折に、苦楽を共にしてきた高虎の重臣二人(藤堂良勝・藤堂高刑)は「この度、我々は是が非でも戦死する覚悟でございます。藤堂家をつぶさないで下さい。家康の信頼を勝ち取ることを第一に考えて下さい。」と高虎に告げる。

 

なによりも大切にしてきた家臣達を犠牲にしてでも戦うことで突破口を開くのか、それともいつ取り潰されるかもしれない恐怖に怯えて暮らすのか、長いこと考え続けていた高虎はこの二人の言葉で心を決めた。

 

藤堂高虎4
 

1615年「大阪夏の陣」で藤堂軍5000は徳川家康側の先鋒として大阪城に向けて進軍を開始すると、河内の八尾の付近で豊臣秀頼側の長宗我部盛親の軍を発見する。

 

この長宗我部軍は後方にある徳川家康本陣への奇襲を目論んでいた。

 

 

藤堂軍は長宗我部軍をここで食い止める必要があったが、両軍の間には湿地帯が横たわっており、藤堂軍が湿地帯を渡って攻撃した場合、陣形が崩れて壊滅的な被害を受けることが予想され、戦の常識としては回避すべき状況だったが、高虎は徳川家康に忠義を示すために突撃を命じる。

 

 

ぬかるみに足を取られる藤堂軍は勇猛果敢で知られる長宗我部軍に苦戦して多くの戦死者を出し、戦いの直前に高虎に道を示してくれた二人の重臣・藤堂良勝と藤堂高刑も相次いで討ち死にした。

 

 

高虎は深い悲しみの感情をあらわにしながらも前進を命じ続け、決死の覚悟で襲いかかる藤堂軍を前に長宗我部軍は敗走し、長宗我部軍による徳川家康本陣への奇襲は未遂に終わる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家康側が勝利したが、高虎はこの戦いで徳川家康側では類を見ない被害を出した。
 

大阪夏の陣
 

しかし、それによって疑り深い徳川家康が、主君を何度も変えてきた高虎を信頼して「国に大事が起こったときは一番手を藤堂高虎とせよ。」と評し、その後、藤堂家は加増されて伊勢・伊賀32万石となる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家による太平の世までの最後の戦いであったため、徳川家康に対して何かを示すにはラストチャンスでもあった。

高虎は大きな時代の変化を見事に見抜き、勝負をかけるポイントを的確に捉え、自分の家臣を犠牲にしてまでも徳川勝利のために尽くすという忠義を見せた。

 

 

高虎60歳、知行なしの地侍として槍一本で初陣してから45年、8番目の主君のもとで国持ち大名へと出世する。

 

藤堂高虎1

徳川家康の死後も高虎は藤堂家を盤石のものとするため、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えて、老いて目が見えなくなっても徳川将軍家のご意見番として出仕し続け、晩年までほとんどの時間を江戸で過ごした。

 

 

そんな高虎は自らの人生で学びとったものを200カ条に渡る藤堂家の家訓としてまとめる。

 

「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があれば、ものに動ずることがない。」

「冬でも薄着を好むべし。厚着を好めば癖になり、にわかに薄着となったとき、かじかむものである。」

「人をだましてはならない。真のとき承諾がえられない。深く慎むべし。」

 

 

1630年、74歳で死去した高虎の亡骸には隙間がないほど鉄砲や槍の傷があったという。

 

 

江戸時代260年間、お家断絶やお家取り潰しとなった大名家が数多くあるなかで、高虎の教えを守り続けた藤堂家は大きな処分を受けることなく存続した。




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木曾 義仲 (長野)

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義仲の父・源義賢は河内源氏一門で東宮帯刀先生を務め、武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶るが義仲の生母は遊女と伝えられており、また、出生地に関しては武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)といわれている。

 

 

源義賢が源氏一族の権力争いで源義平(義仲の従兄にあたり源頼朝の兄)に討たれると、当時2歳の義仲も源義平によって殺害の命が出ていたが、幼い子供に刃を向けることをためらった畠山重能が斎藤実盛に義仲の身柄を預け、密かに信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)へ逃がされた。

 

そこで義仲は後に側近となる樋口兼光・今井兼平・巴御前の三兄妹と共に育てられる。


樋口兼光
  
 樋口兼光

 今井兼平

   今井兼平

1巴御前
  
巴御前  

 

義仲の子ども時代は、天皇・平氏・源氏が三つ巴の権力争いをくり広げ、平清盛を筆頭とする平氏が政治権力を手にして全盛期を築いていく。

 

 

1180年、平清盛のために皇位継承争いに敗れた後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を全国へ発すると、27歳になっていた義仲はこれに応じて小県郡依田城にて挙兵する。

 

 

1181年、平氏側の城助職(じょうすけもと)6万の大軍で越後国から横田河原(長野市)に攻め込んで来ると、義仲は兵の一部に平氏の紅旗を掲げさせ敵背後に回り込ませて、挟み討ちにするという騙まし討ちにより、わずか2000の兵で勝利し、そのまま越後から北陸道へと進み、同じ源氏一門である源頼朝や武田信光(甲斐源氏)の勢力が浸透していない北陸へと勢力を広げた。

 

横田河原の戦い
 

1183年、源頼朝と敵対して敗れた志田義広(源為義の三男で義仲の叔父にあたる)と、同じく源頼朝から追い払われた源行家(源為義の十男で義仲の叔父にあたる)が義仲を頼り、この2人の叔父を庇護した事で義仲と源頼朝との関係が悪化する。

 

 

両者は武力衝突寸前となるが、平氏追討を前に源氏同士で争うわけにはいかず、義仲の息子・源義高を人質として鎌倉に送る事で和議が成立した。

 

 

 

一方、平氏はエース平維盛(平清盛の孫)と平知度(平清盛の七男)が率いる10万の大軍が、難攻不落といわれた燧ヶ城を落とし、加賀国で井上範方を撃破し、越中へと向かって来る。

 

 

ここで平氏軍は、平知度が率いる3万が志雄山、平維盛が率いる7万が倶利伽羅山へと二手に分かれた。


平維盛
  
平維盛
 

義仲は地元で5万の兵を集めると、倶利伽羅山に陣を張り、平氏軍を谷から落とすことを考える。

加賀と越中の境にある倶利伽羅山は高く、道は細く、谷は深い。

 

 

義仲軍は500頭ほどの牛の角に松明をスタンバイして夜が更けるのを待ち、平氏軍が眠りに就いた深夜に奇襲をかけ、太鼓を打ち、法螺貝を吹き、鏑矢を放ち、叫びながら角に松明を燃やした牛を平氏軍の陣に追い入れ、それらは山びこで響き渡った。

 

 

真夜中の大騒音、地鳴りと共に押し寄せる炎の数々、平氏軍は大パニックに陥り、太刀一つに3人が群がり弓一つを4人が掴み、暗闇で方向も分からず、18000もの兵が谷から転落する。

 

一夜明け、倶利伽羅山の劣勢の知らせを聞き、志雄山から駆け付けた平知度は戦況を打開できず自害に追い込まれた。

 

倶利伽羅峠の戦い
 

「倶利伽羅峠の戦い」に勝利した義仲軍は破竹の勢いで京都を目指し、また、源行家が伊賀方面から進攻し、京都の防衛を断念した平氏は安徳天皇(後白河法皇の孫で、母は平清盛の娘)とその異母弟・守貞親王を連れて西国へ逃れる。

 

 

この時、平氏は後白河法皇も連れていくつもりであったが、後白河法皇は比叡山に身を隠してやりすごし、間もなく義仲が平氏に入れ替わって京都へと入った。

 

 

義仲軍は官軍として迎い入れられ、平氏追討の勲功から義仲は「伊予守」となる。

 


 

後白河法皇は平氏に安徳天皇と神器の返還を求めたが、交渉は失敗に終わったため、京都に残っている高倉上皇(安徳天皇の父)の二人の皇子(惟明親王・尊成親王)のいずれかを天皇にすることを決めた。

 

 

しかし、義仲はこの際に「平氏の悪政がなければ本来は以仁王が天皇になっていたはずなので、その子である北陸宮を即位させるべき。」と申し立てる。

 

 

皇族・貴族にあらざる武士が皇位継承問題に介入することは極めて不快感を買う行為であったが、山村で育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした源頼朝とは違い、宮中の政治・文化・歴史への知識が全くなかった。

 

 

これにより義仲は後白河法皇との関係が悪化し、京都において粗野な田舎者と疎まれるようになる。

 

 

さらに「養和の飢饉」で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、食糧事情はますます悪化し、都や周辺での略奪行為が横行したため、義仲は平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていたが、大きくその期待を裏切ることになった。


養和の飢饉
 

しかし京中守護軍は源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になく、義仲は批判に対して開き直った態度をとり、半ばヤケになっている様子が伺える。

 

 

 

たまりかねた後白河法皇は義仲を呼び出し、立場の悪化を懸念した義仲は、西国で再起の力を蓄えている平氏の討伐に向かって挽回を目指す。

 

 

播磨国へと出陣した義仲は「水島の戦い」で平氏軍に惨敗し、さらに有力武将の矢田義清を失い、苦戦を続けていた。

 

 

そんな義仲の耳に、源頼朝の弟(源義経・源範頼)が大将軍となり大軍を率いて京都に向かっているという情報が飛び込み、驚いた義仲は平氏軍との戦いを切り上げて少数の軍勢で京都へと引き返す。

 

 

 

源義経・源範頼の率いる鎌倉軍が京都へと向かっているのは、後白河法皇と源頼朝が通じていたからなので、義仲は後白河法皇に激烈な抗議をし、逆に源頼朝追討の命令を下すように要求する。

 

義仲の敵はすでに平氏ではなく源頼朝に変わっていた。

 

 

とはいえ、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態で旗色は極めて悪く、鎌倉軍の京都到着が間近との報に力を得た後白河法皇は義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。

 

 

後白河法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけ、さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れ、圧倒的優位に立ったと判断すると義仲に対して最後通牒を行う。

 

 

その内容は「直ちに平氏追討のため西へ向かえ。源頼朝と戦うなら朝廷の命を得ようとせず私闘としてやれ。京都に居座るなら謀反とする。」というこの上なく容赦ないものであった。

 

この非情さには、朝廷側に立場する九条兼実ですら義仲を擁護するが、後白河法皇は義仲への武力攻撃の決意を固める。


後白河法皇
  
後白河法皇  

 

焦った義仲は後白河法皇の御所を襲撃し、後白河法皇を捕えると五条東洞院の摂政邸に幽閉し、復権を目論む前関白の松殿基房(まつどのもとふさ)の子・松殿師家(まつどのもろいえ)を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。

 

また、義仲と手を結んだ松殿基房は、娘である絶世の美女・藤原伊子を義仲に嫁がせている。

 

新たな摂政となった松殿師家によって義仲は、源頼朝追討に対して形式的に官軍(天皇の軍)の体裁を整えて、征東大将軍に任命させた。

 

木曾義仲3 (2)
 

鎌倉軍が目前に迫ると、義仲は京都の防備を固めるが、京都での人望を完全に失っていた義仲には兵が集まらず「宇治川の戦い」に惨敗して、鎌倉軍が京都に進入すると人質として捕えていた後白河法皇も奪われる。

 

木曾義仲1
 

 「宇治川の戦い」に敗れて京都をあとにする義仲軍わずか7騎の中に一人の女性がいた。

 

女性は樋口兼光・今井兼平の妹で幼少より義仲と共に育った巴御前で「平家物語」では「色白く髪長く、容顔まことに優れた美人で、強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」と記されている。

 

この時、巴御前は左右から襲いかかってきた2人の武者を両脇に挟みこんで絞め、2人は頭がもげて死んだという。

 

 

義仲は一緒にいたがる巴御前に「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのは恥ずかしい。」と言って説得すると、巴御前は「最後の奉公でございます。」と言い残し、怪力と名高い敵将・御田八郎師重を馬から引き落として首を切った。

 

 

その後、巴御前は鎧・甲を脱ぎ捨てて泣く泣く落ち延びると、出家して尼となり91歳まで生きたとされている。

 

3巴御前
  
巴御前
  

琵琶湖湖畔の粟津浜(滋賀県大津市)に追い詰められた義仲は今井兼平と二人だけとなり、義仲は雑兵に討ち取られては猛将の恥と自害できる場所を求め、今井兼平は義仲の名誉を守るために押し寄せる鎌倉軍に単騎立ちはだかった。

 

 

しかし、義仲の馬が田んぼに足をとられて身動きがとれなくなると、義仲に矢が命中する。

 

1184年、挙兵から4年、征東大将軍にまでなった木曾義仲が没した。

 

それを確認した今井兼平は、刀を口にくわえると馬から落ち、自害して義仲のあとを追う。

 

粟津の戦い
 

義仲のもう一人の幼馴染み樋口兼光は、これから間もなく京都で処刑された。

 

 

義仲が戦死したとき嫡子・源義高は、源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれたため義仲の血は絶えたとされるが、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。

 

 

 

義仲は、時代を制して最高権力者となった源頼朝と対立したため「逆賊」として評価され続けたが、平氏全盛の世に反旗をひるがえして新しい時代を拓いた一人であり、北陸方面を制圧して京都から平氏を追い出すなど「源氏の世」の功労者であることは間違いない。

 

 


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熊谷 直実 (埼玉)

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熊谷直実
(くまがいなおざね)は、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、幼名を弓矢丸といい、その名のとおり弓の名手であった。

 

直実は2歳の時に父を失ったため、母方の伯父の久下直光(くげなおみつ)に育てられる。

 

 

 

1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突(保元の乱)した。

 

16歳の直実は、後白河天皇側の源義朝の指揮下でこの戦いに参加して活躍する。

 

保元の乱
 
1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した(平治の乱)ため、直実は源義朝の長男・源義平の指揮下で働くが、戦いは平氏が勝利し、平家はここから20年間の全盛期を迎えた。

 

平治の乱
 

その後、直実が29歳の時、伯父・久下直光の代理人として、京都で街の警備にあたる大番役を務める。

 

ある時、京都で相撲大会があり、直実は10人以上を投げ飛ばし、それを観ていた(たいらのとももり)に気に入られて仕えることになった。

 
平知盛
  


直実が独断で平知盛に仕えたため、怒った伯父・久下直光は直実の領地の一部を没収し、この遺恨が後々大きな分岐点のもとになる。

 


 

 

1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、平氏軍と石橋山(神奈川県小田原市)で戦うが、平氏軍の大庭景親に大敗を喫し、敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、わずかな部下と共に洞穴(しとどの窟)に身を隠す。

 

 

この時、大庭景親に従って「石橋山の戦い」に参加していた直実は、梶原景時と共に、源頼朝が隠れている洞穴を発見するが、洞穴から二羽の鳩が飛び立つと「人は見当たらず」と、源頼朝を見逃し、以後、直実が源頼朝の御家人となったため、熊谷氏の家紋は二羽の鳩が描かれるようになったといわれている。

 

熊谷氏
 

態勢を立て直した源頼朝は、源氏に従わない常陸国の佐竹秀義を討つべく金砂城(現在の茨城県常陸太田市)を攻めた。

 

 

直実はこの戦いに一族郎党を引き連れて出陣し、抜群の武功を挙げると、源頼朝は「直実は日本一の剛の者だ。」と褒め称え、直実に熊谷郷の支配権を与える。

 

 

源頼朝に木曾義仲が敗れた「宇治川の戦い」で、義仲軍は頼朝軍の京都進入を阻むため、宇治川にかかる橋の橋板を外したので、橋げたのみが残っている状態となるが、源頼朝の弟・源義経の指揮下でこの戦いに参戦していた44歳の直実は、16歳の息子・直家と共に橋げたを足場にして敵陣に向かっていき、敵からの攻撃に対してはお互いをかばいながら、勇猛果敢に先陣をきっていった。


宇治川の戦い

1184年、平氏一門の多くが討たれ、源平の形勢が大きく源氏に傾いた「一ノ谷の戦い」で、直実は、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属する。

 

直実は息子・直家と共に一番乗りで平氏軍に突入するも、直家が矢に射抜かれ深手を負う。

 

息子の負傷により、一層に手柄を欲した直実が海岸を走っていくと、形勢不利とみて逃げ出す平氏軍の船と、それに乗ろうとする武者を見つけた。

 

直実はその武者を大声で呼び止めると、手にしていた扇を振りながら一騎打ちを挑む。


熊谷直実2

武者は振り向くと「おう!」と返事をすると勇敢にも直実に応じた。

 

 

直実が武者を馬から落として組み伏せると、武者は我が子・直家と歳の変わらぬ若者であったため、若武者を見逃してやりたくなって直実が名前をたずねると、若武者は「首を取って人に見せれば名は分かる。良かったな。私は良い手柄になるぞ。」そう威風堂々と答える。

 

平敦盛
  
平敦盛

直実は若武者の振る舞いに感動し、さらに今日の戦いで息子が負傷しただけで自分の心は痛んでいるのに、この若者が討ち取られれば、その父親はいかに悲しむだろうと考え、すでに今日の戦は源氏の勝ちが決しており、この少年一人を討ったところで戦の結果が変わるわけでもないと思い、ますます見逃すことを心に決めた。

 

しかし、その刹那、背後に味方の武者50騎ほどが迫っていることに気付く。

 

 

直実は、その若武者の首を涙ながらに斬り落とす。

 

 

これが「平家物語」の名場面「泣く泣く首をぞかいてんげる(掻き斬る。回転蹴るではない。)」である。

 

 

 

直実は首を落とした若武者が腰のあたりに、錦の袋におさめた笛をさしているのに気が付くと、朝に平氏軍から聴こえてきた音色を思い出し、何万人といる源氏軍には戦争の最中に音楽を奏するような教養と風雅を備えた者は一人もいないと思い、ますます胸がしめつけられるのであった。

 

 

その後、若武者は平家の頭領である平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)と判明し、そして、あの笛は、笛の名手として知られた平敦盛の祖父(忠盛)が鳥羽上皇から贈られたものであることがわかる。

 

 

平敦盛を討って以降、直実から勇ましい雰囲気は失せていき、直実の苦悩は日に日に深まっていった。

 

熊谷直実4

その後「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡し、勝った源氏の頭領である源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立する。

 

 

 

 

1192年、直実は過去の経緯から不仲だった伯父・久下直光との領地をめぐる争いが続いており、ついに源頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになる。

 

 

久下直光は孤児となった幼少期の直実を庇護し、そのため直実を自らの配下と捉え、それを前提として本来は久下氏の支配下にあった熊谷郷を直実に預けていた。

 

その後、直実は平氏との戦いを通じて自らの力で、源頼朝より熊谷郷の支配権を認められる。しかし、久下直光からするとそれは直実に熊谷郷を奪われたという感覚であった。

 

 

武勇には優れていても口下手な直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自らの正当性を理論立って展開できない憤りから「もはや自分の敗訴は決まっているも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと。」と怒鳴ると、刀を抜いて髻を切り、源頼朝はあっけにとられる。

 

 

そして、直実は源頼朝に止められるのも聴かず、出家することを決意した。

 

 

1193年頃、直実は、当時、京都に浄土宗を開いた法然という僧の弟子となり「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という名を与えられる。

 

法然
  
法然
 

直実は多くの寺院を建立した。

 

1193年、法然が生まれた美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立。

 

1195年、東海道藤枝宿(現在の静岡県藤枝市)に熊谷山蓮生寺を建立。

 

1197年、直実が関東に帰郷する際、法然の姿を拝したいと願うと、法然は自作の木像を与え、その木像を安置した法然寺(京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町)を建立。

 

1198年、法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である粟生(京都府長岡京市)に西山浄土宗総本山光明寺の基礎となる念仏三昧堂を建立。

 

 

 

1204年、64歳となった直実は、阿弥陀仏の前で、早く仏となって、再び生まれ変わり、多くの人を救う誓いを立てる(上品上生の往生)

 

そして、1206年、直実は武蔵村岡(現在の熊谷市)に往生の日を告げる高札を立て、1207年に実際に往生し、その場所が埼玉県熊谷市仲町にある熊谷寺(ゆうこくじ)となった。

 

熊谷寺
 

直実の遺骨は遺言により、西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置され、また、高野山には直実と敦盛の墓が並んである。

 

 

法然は直実を「坂東の阿弥陀仏」と称えた。




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佐竹 義宣 (秋田)

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1570
年、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が太田城(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた頃、父の義重は、那須氏を攻めていたが、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等を条件に和睦する。

 

義宣は3歳であった。

 

 

15861590年の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し、佐竹氏19代当主となる。

 

太田城
 

この頃の佐竹氏は、小田原・北条氏と和議を結んで常陸国(現在の茨城)から南方の安全をはかっていたが、北方では義宣の弟・蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城は、伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失っていた。

 

 

佐竹氏は伊達氏と対立しながら、豊臣秀吉、石田三成、上杉景勝と親交を結び、1589年、秀吉から北条征伐への出陣命令を受ける。

 

 

 

義宣は伊達政宗(義宣にとって母方の従兄にあたる)と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかったが、1590年、宇都宮国綱ら与力大名(より大きな大名に加勢として附属した武将)を含めた1万の軍勢を率いて北条氏の本拠地・小田原へ向かった。

 

 

義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉のもとを訪れると臣下の礼をとり、石田三成の指揮下で忍城(現在の埼玉県行田市)を攻めた。

 

忍城
 

北条征伐の後、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館、南郷)について、義宣は秀吉から所領支配権を認められる。

 

 

また、本領である常陸国(結城氏領を除く)および下野国の一部は「佐竹氏50.2:与力家来49.8」の割合での所領支配となるが、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力も佐竹氏の配下として編入されたため、家臣化が不十分で領主権力は貧弱であった。

 

 

 

以後、義宣は常陸国全域に支配を及ぼすため、1590年、北条征伐に参陣しなかった江戸重通(えどしげみち)の水戸城を攻め落とし、そのまま南下し、大掾清幹(だいじょうきよもと)の常陸府中城(石岡城)を攻めて大掾氏を滅亡させ、常陸国全域の領主権力の強化に成功し、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将といわれる。

 

水戸城
 

1595年、太閤検地(豊臣秀吉が日本全土で行なった田畑の収穫量調査)を経て、義宣は54万石の支配を認める朱印状を秀吉から受けた。

 

 

 

1598年に秀吉が死去すると、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていく。

 

 

 

1600年、徳川家康より義宣は、上杉景勝の討伐を命じられるが、この時期の佐竹氏は東軍につくとも西軍につくともいえない状態でいた。

 

佐竹義宣1
 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、家康が天下を手中にすると、義宣は伏見にいる家康のもとへ向かい、途中、神奈川で会った秀忠(家康の子で後の2代目将軍)に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に謝罪および家名存続の懇願をする。

 

 

 

1602年、義宣は、出羽国秋田郡に国替え(転封)の命令を家康から受けた。

 

これは54万石から20万石への減転封である。

 

 

その理由は家康への恭順をハッキリさせなかったことに加え、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざけるためであった。

 

土崎湊城
 

義宣は秋田の土崎湊城に入城すると、角館城、横手城、大館城などを拠点に内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定をはかる。

 

 

後に土崎湊城に代わって本城となる久保田城の築城は1603年から始まった。

 

 

久保田藩の初代藩主となった義宣は、家柄や旧例にとらわれず能力本位で仕事を任せ、浪人あがりから家老となった渋江政光などは農業生産と藩財政の安定に貢献する。

 

そうした成果から、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 

 

しかし、こうしたことは譜代(数代にわたって主家に仕えた家臣)の老臣の反感を買い、川井忠遠らが義宣の暗殺を企てることに繋がる。

 

久保田城
 

 

1614年、徳川方として参陣した「大坂冬の陣」で義宣は上杉景勝とともに、今福の戦いで、木村重成などの軍勢を撤退させ、これが戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まり「大阪冬の陣」で幕府から感状を受けたわずか12名のうち5名が佐竹家中の者であった。


大阪冬の陣


義宣の妻は、正室・正洞院
(那須資胤の娘)、後室・大寿院(多賀谷重経の娘)、側室・岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、跡取りとなる男子がいなかったため、紆余曲折ありながら亀田藩主であった岩城吉隆(義宣の甥)が久保田藩の第2代藩主となる。

 

 

 

1633年、義宣は江戸神田屋敷にて64歳で死去した。




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樊カイ (劉邦の命の恩人)

703x999樊カイ
樊カイの「カイ」の字は常用漢字でないためカタカナ表記しています。



樊カイ
(はんかい)は劉邦、蕭何、曹参と同じく沛(江蘇省徐州市)の出身で、劉邦とは幼馴染であった。

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。

 

 

蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなると、それまで犬の屠殺業をしていた樊カイもこの反乱軍に加わった。

 

沛
 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

咸陽を目指す劉邦軍において、勇猛果敢な樊カイは大いに存在感を示し、劉邦軍は関中への一番乗りを果たす。

 

 

 

一方で、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。

 

項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。

 

 

その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。

 

鴻門の会
 

劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛のために付き従っていた樊カイは中に入ることは許されなかった。

 

 

項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。

 

 

しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。

 

 

劉邦をここで絶対に殺しておくべきだと考えていた范増は、煮え切らない項羽の態度に痺れを切らして、部下に宴会の余興として剣舞を踊らせ、劉邦の近くによった時に斬るように命じる。

 

 

宴会場の状況を知った樊カイは、制止する兵士を突き飛ばして宴会に乱入すると、樊カイの迫力に気を取られて剣舞が止まった。

 

 

項羽が樊カイを試すように、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊カイはそれを一気に飲み干し、次に項羽が豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊カイは盾をまな板にして剣でその肉を切り刻んで食べ尽くす。

 

 

ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊カイは「秦王は暴虐で人々を苦しめた。懐王は諸将に、先に咸陽に入った者を王にすると約束した。劉邦は先に咸陽に入ったが、宝物の略奪もせず、項羽の到着を待っていた。功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではないのか。」と項羽に訴えた。

 

 

これに対して項羽は、返す言葉がなく「それほど劉邦が心配なら、ここに座って守っていても良い。」と、完全に劉邦を殺す意思のないことを示す。

 

 

 

腕っぷしも度胸も豪傑そのものの樊カイがいなければ、間違いなく劉邦の命はここで終っていた。

 

その後、劉邦と樊カイは宴会を脱出し、張良が残って、劉邦が先に場を後にしたことを詫びる。

 

この後世に語り継がれる宴会での出来事を「鴻門の会」と呼ぶ。

 

 

領地分配
 

劉邦は命拾いするものの、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

 

劉邦はその隙に乗じて出撃し、項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 

 

 

劉邦が天下統一を果たすと、樊カイは数々の戦場での武勲に加えて「鴻門の会」で劉邦の命を救ったことから、臨武(湖南省郴州市)侯を任された。

 

 

樊噲1
 

紀元前196年、樊カイは、謀反を検討した韓信に同調した鉅鹿(河北省邢台市)太守・陳キを討伐する。

 

 

豪傑としてのイメージが強い樊カイは、価値観や道徳観にも真っ直ぐなところがあり、もともと遊び人で怠け癖があり欲に流されやすい劉邦を度々いさめて支え、紀元前189年に死去した。

 

 

また、樊カイの妻・呂シュ(りょしゅ)は、劉邦の妻・呂雉の妹であることから、劉邦の死後も王室の樊カイへの信頼は厚かったが、樊カイの子・樊伉は呂雉の死を機とした政変により殺される。

 


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ヒュッレム・ハセキ・スルタン (奴隷の立場から皇后へ)

703x999ロクセラーナ


1506
年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。

 

ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。

 
 

生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。

 

 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。

 

slaveヒュッレム・ハセキ・スルタン1

奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。

その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。

 
 

買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。

 

 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。

 
 

イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。

 
 

ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。

 

 

ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。

 

奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。

 
 

皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。

しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。

 
 

そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン1

ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ
(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。

 

そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。

 

ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。

 
 

そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。

 

そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。

 

 

ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。

 

 

ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

スレイマン1世
  スレイマン1

この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン
1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。

 

 

しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。

  

大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。

 

 

ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 

後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。

 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 

 

真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。

 

それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。

 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン8

ヒュッレムはスレイマン
1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。

 

しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。


オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。

 

 

スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。

 

 

 

ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。

 

 

ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。


 

ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。

 

このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。

 

 
 

スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。

 

ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。

 

以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。

 
 

この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。

 

 

さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。

 

 
 

奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558418日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン2

ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと
2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。

 

 


 

ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。

 
 

スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。

 
 

これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。




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セレウコス1世 (セレウコス朝シリア王)

703x999セレウコス


セレウコスはマケドニア王国の貴族アンティオコスの息子であるが、アレクサンドロス3世が東方遠征を開始した時点で20歳前であり、大軍を指揮する立場にはなかった。


伝承が残るような活躍はマケドニア軍がインドに侵攻して以降になる。


紀元前326年、アレクサンドロス3世にとって最後の戦いとなる「ヒュダスペス河畔の戦い」では、近衛歩兵部隊の指揮官を務めるようになっていた。



紀元前324年に、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになったアレクサンドロス3世の政治政策として、スーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)でマケドニア兵士と現地ペルシア人女性の合同結婚式がおこなわれた。


この時、セレウコスはソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)の有力者スピタメネスの娘アパメーと結婚する。


多くのマケドニア兵士は、率直な感想としては意味不明に外人と結婚させられた感覚であったため、この時の彼らの結婚相手は性処理にしか使われなかった。


そんな中で、セレウコスは生涯アパメーと連れ添う。

セレウコスが妻を通してペルシアを理解したことが、後々、支配地域の住民に高い支持を受けることにつながる。

スーサ合同結婚式


紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


この時点で、セレウコスは、帝国の事実上のトップにいたペルディッカスの部下であった。


そのペルディッカスが、帝国のNO.2格アンティパトロスの娘との婚約を破棄すると、ペルディッカスとアンティパトロスは対立関係となる。



紀元前321年、セレウコスはペルディッカスに従い、アンティパトロス派のプトレマイオスを攻めるためにエジプトへ行く。

そこで、なんと、セレウコスは、ナイル川の渡河に苦労するペルディッカスの統率能力を不安に感じて暗殺する。


自身の勢力拠点を持っていなかったセレウコスに、いつ頃から政治的野心が芽生えていたのかは分からないが、この頃から政治的野心が行動に出始める。


ペルディッカスの死により、アンティパトロスが帝国の事実上のトップになり、セレウコスはバビロン太守の地位を獲得する。

大都市バビロンの太守となり、セレウコスは後継者候補の一人に躍り出た。

バビロン


紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


アンティゴノスとセレウコスは、アンティパトロスの死後、協力関係を続けたが、徐々にアンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。


紀元前315年、セレウコスはアンティゴノスにバビロンを奪われ、エジプト太守プトレマイオスに庇護を求めた。


そして、今度はセレウコスがプトレマイオスの協力を得て、「ガザの戦い」でアンティゴノスの息子デメトリオスからバビロンを奪還する。



バビロンを奪回したセレウコスは、この時、プトレマイオスから譲り受けた僅かな兵しか率いていなかった。

しかし、セレウコスが以前にバビロン太守として善政をしいていたので、バビロンの住民はセレウコスを歓迎し、セレウコスによるバビロンの再興に協力的であった。


セレウコスがバビロンの住民から高い支持を得ていた背景には、妻アパメーを通してペルシア人への理解が深かったことが大きく影響していた。

セレウコス1

アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。

バビロン太守に返り咲いたセレウコスも後継者としての野心を膨らませていた。

この時点ではやや不安定な立場ながらも、アレクサンドロス大王終焉の地であるバビロンを拠点に王位に就くことで後継者としての意味合いをだした。




アンティゴノスに対抗するうえで、背後の安定を考えたセレウコスは、かつてアレクサンドロス大王が侵攻したインドへ後継者として遠征すると、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の王チャンドラグプタが率いる大軍と遭遇する。


そこでセレウコスは、チャンドラグプタにインドに近いセレウコスの支配地域を譲り、さらに娘をチャンドラグプタの息子に嫁がせた。


その見返りにセレウコスはチャンドラグプタから500頭の象を譲り受ける。

チャンドラグプタ
  
チャンドラグプタ

その後、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。




紀元前301年、セレウコスはリュシマコスと共に、イプソス(現 トルコ中西部)でアンティゴノスとの決戦に挑む。

セレウコスがチャンドラグプタから譲り受けた象の大群は、凄まじい威力を発揮し、この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった戦いに圧勝する。


そして、この「イプソスの戦い」でアンティゴノスは戦死した。



セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなっていく。



セレウコスは勢力争いと同時に、内政にも積極的に取り組み、シリアのオロンテス河畔(現在のトルコ・アンタキア)にセレウコス朝の首都としてアンティオキアをはじめ、セレウキア、ラオディケイア、アパメイアなどの都市建設を進めた。

セレウコス2

紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征する。


しかし、この遠征に同行していたプトレマイオスの息子ケラウノスは、父プトレマイオスからエジプトを追放され、さらに弟が後継者として目されていたため、自力でマケドニア王になる野心を抱いていた。

セレウコスは、このケラウノスに暗殺され、故国を手中にすることは出来ずに終わった。



セレウコスの死後、セレウコス朝シリアはゆっくりと、しかし確実に衰退していく。



総長 山南 敬助

山南敬助



山南の生い立ちについては断定できるものはないが、仙台藩を脱藩して江戸に出たという説が最も有力視されている。

 

 

江戸では小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流の千葉周作の門人となり、また柔術の腕前も高いまさに武人であった。

 


 

こうした武の腕を高めようとする山南は、近藤勇の天然理心流に他流試合を挑むが、相対した近藤に敗れ、この時、近藤の剣の腕前や人柄に惹かれた山南は、これ以後、試衛館の門人と行動を共にするようになる。

 

 

そして、試衛館には後の新選組中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。
 

試衛館
 

 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、山南は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組へと名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていた。

 


 

山南は、土方らと共に芹沢暗殺の実行者であったという説が有力視されている。


 

芹沢暗殺により新撰組が近藤勇主導の組織となると、山南の発言力と活躍も増していった。

 

 

 

インテリで剣の腕も確かな文武両道の山南であったが、剣豪揃いの新撰組においては、主に知性の方が重宝され、新撰組の頭脳として活躍する。

 

 

武骨な隊士達にとって山南の剣の腕はストレートな尊敬を集め、山南の豊富な知識は隊士達に大人としての知識欲を刺激し、山南は隊内での人気が非常に高かった。

 

 

また、山南は、心優しく温厚な性格から、壬生の女性や子供たちから慕われており、新撰組が過去のものとなった明治のはじめ頃まで、壬生界隈には「親切者は山南」という言葉が使われている。

 

 

この頃までの山南は新撰組で充実した日々を送っていたことであろう。

 

壬生村2

 

しかし、山南とは剣術の同門である北辰一刀流を学び、熱烈な尊王攘夷論者として高い学識を誇っていた伊東甲子太郎が新選組に入隊すると、新撰組は伊東に敬意を払う形で、山南より上位となる参謀という役職を新設した。

 

 

新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南にとって、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が現れたことにより、徐々に隊内での働き場所を失っていく。

 


 

日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。

 

 

隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。

 

 

 

近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。

 


 

しかし、山南の本心は、居場所のなくなった新撰組を出たいということよりも、居場所を失い生き甲斐を失ったという事に寄っていた。

 

山南の脱走は、半ば死を覚悟しての運だめしのような部分があったのかもしれない。

 

 


 

沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻る。

 

この時、山南と沖田がどんな言葉を交わし合ったのかは分からない。

 

しかし、沖田に追いつかれ、運だめしに敗れた時点で、山南は近藤と土方のメンツや、自分のような大幹部でも規則を破れば罰せられるという結果をもって、新撰組そのものの顔を立てる事を、決めたのであろう。

 


 

屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられる。

 

 

永倉は再度の脱走を勧め、手はずを整えようとするが、覚悟を決めていた山南は応じなかった。

 

 


 

死を覚悟していた山南は馴染みにしていた遊女の明里を身受け(当時の遊女は人身売買で店に在籍しているため、その遊女が一生の間に稼ぐであろう金を店に払うことで妾などとして買い取るシステムがあった。)し、自由の身となって故郷に帰れるように計る。

 

 

文武両道、武士としての美徳を備え、人間として一つの完成系に達していた山南は、恋に対しても誠実であった。

 

山南敬助1
 

死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。

 

 

介錯は山南たっての希望により、最も仲が良かった沖田が務めた
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