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黒田 官兵衛 (福岡)

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1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれる。

 

1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

 
姫路

小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合い、両大名の脅威にさらされた小寺家は存亡の危機を迎え、多くの家臣は古くから交流のある毛利に従うことを主張する。

 

しかし、織田信長の将来性を見抜いていた官兵衛の「信長、その勢い天下を覆うべし。」という意見によって小寺家の方針は織田側につくことで決まった。

 

官兵衛が織田信長のもとへと向かって、播磨の豪族の戦力の大小や毛利氏への忠誠心の強弱を説明すると、織田信長はすぐさま自分が大切にしていた圧切長谷部という刀を与えて協力を命じる。

 
圧切長谷部

官兵衛が織田信長に通じたという知らせを聞いた毛利輝元は激怒し、1577年、播磨の豪族達への見せしめのためにも5000の軍勢で小寺領・姫路城へと攻め寄せた。

 

迎え討つ小寺の兵はわずか500で、10倍の敵を前にした官兵衛は、領内の民衆にありったけの旗を持たせて後方に待機させ、500の兵で毛利軍に奇襲をかけると、毛利軍は圧倒的に数の少ない敵のまさかの奇襲に不意をつかれて慌てふためく。

 

官兵衛はその一瞬の形勢有利を見逃さず、後方に控えていた領民に一斉に旗を掲げさせると、毛利軍はこれを織田の援軍が到着したのだと勘違いして大混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。

 

この勝利を聞いた織田信長は「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である。」と官兵衛を評した。

 
織田信長

  織田信長 


1577
年、官兵衛は織田信長が毛利攻めに派遣した豊臣秀吉と運命的な出会いを果たす。

 

秀吉が官兵衛に協力を求めると、官兵衛は織田と毛利のどちらにつくか揺れている播磨の豪族達を巧みな説得で次々に織田側に引き入れていき、播磨の豪族の8割が織田につくことを約束したため、秀吉は大きな抵抗にあうことなく、わずか2カ月で播磨を平定する。

 

人たらしと言われるほど巧みな交渉力を武器にのし上がってきた秀吉は、官兵衛に自身と相通じるものを見出し、二人はたちまち意気投合した。

 

 

一方、味方だと思っていた播磨の豪族が次々に寝返った毛利輝元は58000の大軍を播磨へと送り込み、この毛利の大軍勢に播磨の豪族達は怖れおののき、官兵衛の主君・小寺政職も毛利側に寝返ったのである。

 

官兵衛は再び織田側につくように説得を試みるが、織田に反抗する勢力に捕えられ、摂津の有岡城に幽閉された。

 
毛利輝元
  
毛利輝元

織田信長はいつまでも戻らない官兵衛が敵に寝返ったと考え、裏切り者の官兵衛の息子を殺すように秀吉に命じるが、秀吉はここで官兵衛の息子を殺せば官兵衛は二度と自分に仕えてくれないだろうと考え、官兵衛の息子を匿った。

 

有岡城で官兵衛は毛利側につくように執拗に迫られたが、がんとして首を縦に振らず、幽閉は一年間続き、暗く湿気に満ちた牢獄で、官兵衛は絶え間なく襲う蚊やシラミによって全身が皮膚病に侵され、生死の境をさまよう。

 

1579年、織田軍が有岡城の攻略に成功し、これによって牢獄から救出された官兵衛は、頭髪は抜け落ち、片足が不自由になっていた。

 

歩くこともままならない変わり果てた官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと忠義の至り。我、この恩に如何にして報ずべき。」と言い、これを機に官兵衛は秀吉直属の家臣となる。

 

有岡城
 

1582年、播磨を平定した秀吉は官兵衛とともに備中国(岡山県西部)に進軍し、毛利軍の守りの要である高松城を意表を突く作戦で攻め落とそうと考えた。

 

高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要害であったが、秀吉はその地形を逆に利用しようとし、高松城を囲む全長3キロメートルに及ぶ堤をわずか半月足らずで作り、水を堰き止めようとする。

 

しかし、梅雨時で水かさを増した川は、大木を投げ込んでも大石を投げ込んでも水を堰き止めることができず、官兵衛はこの秀吉の誤算をフォローすべく、大きな石が山のように積まれた30槽の船を川下から引いて隙間なく並べると、船の底を一斉に破って船を沈めて川の水の勢いをゆるめたうえで、2000人の兵でそこに土嚢を積ませた。


高松城水攻め
 

こうして、秀吉の思惑通り高松城が水の中に孤立して、毛利軍があと一歩で陥落しかけた時、秀吉のもとに主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」の知らせが届く。

 

 

秀吉は動揺のあまり我を忘れて泣き崩れるが、しかし、官兵衛は冷静かつ大胆に秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と直言し、言葉の意味を悟った秀吉はハッと我に返った。

 
本能寺の変

 

織田信長の後継者になるためには、その仇を討つことが鍵になると瞬時に見通した官兵衛は、すぐさま毛利側と和睦の交渉に入る。

 

官兵衛は領土割譲の交渉で大幅に譲渡し、また切腹するのは高松城主だけとするなど、破格の条件を出し、織田信長の死が毛利に伝わる前に和睦を結ぶことに成功すると、官兵衛はすぐさま全軍を京都に向かわせるための準備に奔走した。

 

高松城から明智光秀のいる京都までは約200km、道々の領民に炊き出しや水を用意させ、昼夜走り続けた秀吉軍25000は、わずか7日間で京都に到着する(中国大返し)

 

こうして、秀吉は明智光秀に兵力を整える暇を与えず、織田信長の仇討ちに成功した(山崎の戦い)

官兵衛は瞬時の判断で、秀吉を織田信長の後継者争いの一番手に押し上げる。

 

明智光秀
  
明智光秀 


ところが、あまりに知略に長けた官兵衛の実力は、次第に秀吉へ不安を与えるようになっていき、この後、秀吉は四国平定に功のあった官兵衛に一切の恩賞を与えなかった。

 

1586年、秀吉は九州平定の先発隊として官兵衛を派遣し、官兵衛はこの戦いに一人息子・黒田長政を同行させ、19歳の若武者であった黒田長政は勇猛果敢に戦果をあげるが、官兵衛は「匹夫の勇にして大将たる道にあらず。」と、ただ血気にはやるだけで思慮分別がないと戒める。

 

一方、官兵衛は島津家のもとにまとまる九州各地の豪族達に「秀吉公に降伏するならば、本領の安堵は約束する。ただし、貴殿が降伏の意を示したことが、他の大名に知られると貴殿が攻められる恐れがある。秀吉公が九州に来られるまで、降伏の儀は互いに内密とするように。」という内容の書状を送って回った。

 

すると、誰が秀吉につき、誰が味方なのか、寝返りの噂が九州を飛び交い、疑心暗鬼に陥った九州の豪族達の結束は官兵衛の思惑通りに崩れていく。

 

こうして秀吉の本隊が到着すると、九州の武将達は一人また一人と秀吉に恭順の意を示し、秀吉は到着後わずか一月で九州全土を平定できたのである。

 
小早川隆景
  
小早川隆景

九州を平定した秀吉は恩賞を申し渡し、小早川隆景には筑前国52万石、佐々成政には肥後国50万石が与えられたが、秀吉のために最高の舞台を用意した最大の功労者である官兵衛に与えられたのは豊前国の一部わずか12万石であった。

 
佐々成政

  佐々成政
 

ほどなく官兵衛は、秀吉が自分の功績に報いなかった理由を知ることになる。

 

ある時、秀吉は重臣達に「わしの次に天下を取るのは誰だと思うか。」と問いかけ、徳川家康、前田利家、上杉景勝など大大名の名が次々にあがっても秀吉は首を横に振り続け「黒田官兵衛だ。わしは危機に陥った時、たびたび官兵衛に策を尋ねた。官兵衛の答えはいつも思いもつかない優れたものばかりだった。官兵衛の器が大きく思慮が深いことは天下に比類がない。もしあの男が望むなら、すぐにでも天下を取ることができるだろう。」と語った。

 
豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

人伝に秀吉のこの言葉を聞いた官兵衛は、自分が天下を奪うのではないかと秀吉が疑っていると考え、愕然とする。

 

1589年、官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ってアッサリと隠居し、この時「心清きこと水の如し」という意味を込めて、名前を黒田如水(くろだじょすい)と改めた。

 

黒田官兵衛1
 

1590年、秀吉は天下統一の最後の難関である北条氏と決戦すべく、徳川家康や前田利家といった名立たる名将を揃え、26万という未曽有の大軍勢で小田原城を包囲する。

 

しかし、北条氏は26万もの兵を抱える秀吉軍はすぐに兵糧がつきて引き返すに違いないと考えて全く動じなかった。

ところが、秀吉は兵糧が尽きるどころか海上輸送によって大量に物資を運び、陣中に町を作り上げてみせる。

 

さらに小田原城を見おろす丘の上に密かに城を築かせ、城が出来あがると周辺の木を切り倒し、一夜にして巨大な城が出現したように見せかけ、北条氏の戦意を奪おうとした。

 

しかし、北条氏は戦わずして敗れるのは武門の名折れと難攻不落の小田原城に籠って徹底抗戦の構えを崩さなかったため、このまま北条氏が降伏しなければ面目の失われる秀吉は「官兵衛の知恵、絞るべき時なり。」と官兵衛を頼る。


小田原城
 

官兵衛が和睦を促す書状とともに上等な酒と魚を北条氏に贈ると、北条氏は返礼として火薬と鉛を「城攻めに用いられんことを乞う。」と贈ってきたため、秀吉軍の誰もがそれを北条氏の挑発だといきり立った。

 

しかし官兵衛は、北条氏は力と権勢を見せつける秀吉に意地になっているが、心の底では戦いを望んではいないと考え、たった一人丸腰で小田原城に向かう。

 

官兵衛は北条氏に「大軍を前にして籠城すること百日、北条殿の武名は十分、天下に伝わった。」と、北条氏の気持ちに寄り添いながら説得を続ける。

 

戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲むことで和睦がなることを知っていた。

 
北条氏直
  
北条氏直

こうして北条氏は降伏し、難攻不落の小田原城が開城すると、秀吉は事実上の天下統一を成し遂げるが、この時も秀吉は官兵衛に恩賞を与えなかったが、一方で、敵であった北条氏は、自分達に敬意を払って和睦交渉を進めた官兵衛に、北条早雲から伝わる北条氏の家宝・日光一文字(国宝)を贈る。

 

日光一文字
 

1598年、官兵衛が生涯をかけて仕えた秀吉がこの世を去ると、秀吉亡き後の天下への野心を隠さず自らの勢力拡大を画策する徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成との衝突が避けられなくなっていく。

 

こうした情勢において突如、官兵衛は「こういう時こそ絶好の機会が来る。」と動き出し、密かに摂津、備後、周防の3カ所の港に足の速い船を泊め置き、上方の情報をわずか3日で豊前まで伝えさせる環境を整備する。

 

 

官兵衛は秀吉亡き後の天下を狙った壮大な構想を立て、その戦略は、九州の豪族達はそのほとんどが徳川家康と石田三成の対立に呼応して出兵し、もぬけの殻となった九州を平定するのが第一段階とし、次に九州平定で拡大させた戦力を率いて中国地方へと攻め上り、さらに兵を増やしていくのが第二段階、そして最後に徳川家康と石田三成の勝者と対決し、疲弊しているはずの最終決戦の相手を無傷の自分が打ち破り、最終勝利を手中に収めようというものであった。

 

徳川家康
   
徳川家康

この戦略を成就させるには、官兵衛が最終決戦の相手と予想している徳川家康が石田三成と出来るだけ長く戦うことが必要条件である。

 

1600年、石田三成の西軍が、徳川家康の東軍側の伏見城を攻撃すると、その知らせを豊前にいた官兵衛は整備した早舟によっていち早くキャッチした。

 
石田三成
  
石田三成

「花々しく一合戦つかまつる」

官兵衛55歳、今度は己の天下取りのために全知全能を注ぎこんだ戦いが始まる。

 

官兵衛は自分の策略を徳川家康に勘付かれないように、息子・黒田長政に5400の兵を率いらせて東軍に参加させたため、官兵衛が動員できる兵は半分に減ってしまった。

 

そこで官兵衛は、これまで倹約を重ねて貯めていた大金を全てはたいて、農民達を兵として雇いあげると総勢9000の黒田軍がにわかに誕生する。

 

 

豊前の中津を出陣した官兵衛は、隣国の豊後の大友義統(おおともよしむね)と対決し、立石城に追い込むことに成功すると、命の保証を条件に大友義統を降伏させ、その兵を自軍に吸収した。

 
大友義統
  
大友義統

ちょうど同じ頃、徳川家康率いる東軍は74000と、石田三成率いる西軍は82000とが、拮抗する兵力で美濃国の関ヶ原に布陣する。

 

一方、大友氏を降伏させた官兵衛は、わずか4日後、熊谷氏の安岐城を落とし、さらに北上して垣見氏の富来城を攻め立てた。

 
富来城

ところが、破竹の勢いで進軍する官兵衛のもとに「関ヶ原の戦い」の戦況報告が届くと、官兵衛は唖然とする。

 

開戦当初、一進一退で戦線が膠着した「関ヶ原の戦い」は、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を攻撃し始めると、西軍は混乱し、形成は一気に東軍へと傾き、長期戦が予想された天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍が勝利を収めてしまった。

 

さらに、この早期決着の功労者はなんと我が子・黒田長政であったのである。

 

徳川家康の命を受けた黒田長政は、この勝敗を決定付けた小早川秀秋と交渉し、寝返らせることを成功させていた。

 

小早川秀秋
  
小早川秀秋
 

血気盛んなだけと侮っていた息子・黒田長政が、皮肉なことにこの大一番で父の戒めを守り、父親譲りの才能を発揮したことに、官兵衛は「長政の大たわけめ。急いで家康に勝たせてなんになる。」と言って悔しがる。

 

 

想定を大幅に超える誤算から官兵衛は、小倉、久留米、柳川と矢継ぎ早に城を落とし水俣まで進むと、雪だるま式に膨らんだ3万の兵で九州平定を目指して島津氏に迫った。

 

しかし「如水(官兵衛)の働きは底心が知れぬ」と、官兵衛の進軍にただならぬものを察知した徳川家康から官兵衛あてに「今すぐ島津への進軍をやめよ」との書状が届く。

 

九州平定が今だならず、中国、四国を制圧するにはなお一層の時間がかかる現状に、ついに時間切れかと悟った官兵衛は兵を収めて帰国の途についた。

 

水俣
 

豊前に帰国した官兵衛に、息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、黒田長政「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言い放った。

 

なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父・官兵衛の本心を知った黒田長政は絶句したという。

 
黒田長政
  
黒田長政

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は官兵衛に「望みのままの領地を与えよう。」と言ってその本心を探ったが、官兵衛は本望を遂げられなかった悔しさなどおくびも見せず「年老いた私には功名富貴の望みはございません。」と答えた。

 

野心を感じさせるような返答によっては、黒田家の取り潰しの可能性もある場面であったが、官兵衛の答えに徳川家康はそれ以上の追求が出来ず、黒田家は「関ヶ原の戦い」の論功行賞として筑前52万石を与えられる。


福岡城
 

側室を持たなかった官兵衛は生涯を妻ただ一人と添い遂げ、福岡城の一画に屋敷を構えて、妻と水入らずの暮らしを楽しむ余生を送った。

 

1604年、秀吉の死の6年後、官兵衛は59年の生涯を閉じる。

 

 

晩年、官兵衛は病に倒れると家臣達を口汚く罵るようになり、困った黒田長政がなだめに行くと、官兵衛は「わしが嫌われて、早くそなたの世になればいいと思わせるためにしているのだ。」とささやいた。



 

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平賀 源内 (香川)

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1728年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石茂左衛門の三男として生まれる。

 

 

白石家はもともと信濃源氏大井氏流平賀氏であったが、戦国時代の1536年、平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受けて滅ぼされた。

 

その後、平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕えると白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ移ると、讃岐高松藩で足軽身分となる。


武田信虎
  
武田信虎
 

源内は12歳の時に「お神酒天神」という掛け軸を作成した。

「お神酒天神」は天神様の頬の部分を丸くくり抜き、その後に肌色と赤色を上下に塗った紙を糸で吊るし、徳利を乗せると徳利の重さで糸が引かれて裏に仕込んだ紙が引っ張られると、赤色の紙がスライドするため、御神酒を供えると天神様がお酒を飲んで赤くなったように見える仕掛けである。

 

お神酒天神
 
この「お神酒天神」が評判となり、源内は13歳から中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である本草学や儒学(孔子の唱えた倫理政治規範を体系化して長く中国の学問の中心であった)を藩医のもとで学ぶ。

 

また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。

 

1748年、父・白石茂左衛門が死去し、源内は戦国時代の先祖にちなんで平賀に改姓した。

 

1752年頃に1年間、源内は長崎へ遊学し、本草学の研究の他に様々なオランダの文物に刺激され、オランダ語、医学、油絵などを学び、帰郷して間もなく藩の役目を辞し、さらに家督を妹婿に譲る。


長崎
 

源内はヨーロッパの歩数計を改良した量程器(万歩計の先祖)や磁針器(方位磁石)などを製作し、大坂や京都で学んだ後の1756年、江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りすると同門の小浜藩医・中川淳庵を介して生涯の盟友となる杉田玄白と知りあった。

 

杉田玄白
  
杉田玄白
 
1757年、源内は師である田村元雄を説いて湯島で第1回薬品会を開催し、これ以後、同志同好の者が珍種奇品を持ち寄る共同品評会を毎年のように開催し、江戸幕府老中・田沼意次にもその存在を知られるようになる。

 

田沼意次
  
田沼意次
 
1759年、源内は高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るため再び辞職したため「奉公構(家臣に対する刑罰で、旧主の赦しがない限り他家への仕官が禁止される)」となった。

 

 

1762年、源内主催で第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催し、全国的ネットワークによって内外1300種の動植鉱物を集めて陳列し、江戸における知名度を一層に上げる。

 

翌年、全5回の出品物の中から360種の主要品目を選んで、それらに実証的な解説をつけて挿図をそえた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。

「物類品隲」は日本博物学史上の画期的な業績と評されている。

 

物類品隲
 
オランダ博物学に関心を持っていた源内は西洋博物書を次々に入手し、杉田玄白らと江戸参府中のオランダ商館長一行やオランダ通詞(江戸幕府の公式通訳者)らと問答して西洋博物書を読解した。

 

蘭学
 
また、文芸活動も行い、江戸の風刺戯作の先駆けとなる談義本「根南志具佐」「風流志道軒伝」を刊行。

 

根南志具佐

1766年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発(現在のニッチツ秩父鉱山)を行い、石綿などを発見し、これによって火浣布(耐火織物)を作るという産業起業的な活動を行い、以後、秩父での鉱山経営の試みは晩年まで続く。

 

現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が長期滞在した建物が「源内居」として残っている。


源内居
 

1769年、歯磨き粉「漱石膏」のCMソングを作詞作曲し、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、それぞれ報酬を受けていることから日本におけるコピーライターのはしりと評されている。

 

 

1770年、自作浄瑠璃「神霊矢口渡」を初演した後、田沼意次の命で蘭(オランダ)書翻訳のために長崎へ遊学するが、蘭書翻訳ではなく洋風油絵「西洋婦人図」を描いたり、海外製の羊毛による羅紗(ラシャ)試織を手土産に江戸に戻ってきた。

 

西洋婦人図
 
1773年、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、その間に同藩の小田野直武や藩主・佐竹義敦に洋風画法を伝授する。

 

佐竹義敦
  
佐竹義敦
 

1776年、源内は破損していたエレキテルを修理して復元することに成功。

 

エレキテルとは、摩擦を利用した静電気の発生装置で、木箱の中のガラス円筒をハンドルで回転させると、金箔との摩擦によって静電気が発生し、このたまった静電気を銅線によって外部に導いて放電するという仕組みで、オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。

 

源内は1759年に長崎で壊れたエレキテルを持ち帰ったとされているが、源内は電気の発生する原理を陰陽論や仏教の火一元論などで捉え、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったため、すぐには修理が出来ない。

 
平賀源内2

しかし、それは無理もない話で、当時、電気の理解に関しては西洋もまだ手探り状態で、エレキテルの蓄電器にも使われていたライデン瓶が発明されたのが1746年、ベンジャミン・フランクリンが雷が電気であることを突き止めたのが1752年、日本にはこうした情報が断片的に入っていたに過ぎない。

 
ベンジャミン・フランクリン
  
ベンジャミン・フランクリン

源内は手に入れたエレキテルを数年間、仕方なく放置していたが、通詞の助けなども借りながら原理を勉強して、その仕組みを理解していった。

 

源内は復原したエレキテルを金持ちへの見世物に使って大人気となるが、一瞬バチッとやって人を驚かせるだけという用途であるため、これがもとで江戸の電気学が発展することはなく終わる。

 

エレキテル
 
エレキテルの復原には成功した源内であるが、一方で秩父鉱山は挫折し、1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた源内は修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷して投獄された。

 

そして、その後ほどなく、51歳で破傷風により小伝馬町の獄中で死去する。

 

平賀源内1
 

葬儀は杉田玄白らの手により行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

 

墓所は浅草橋場(現在の東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。

 
浅草橋場

また、源内の義弟として平賀家を継承した平賀権太夫が、源内を一族や故郷の人々の手で弔うために、さぬき市志度の自性院に墓を建てた。

 
自性院
 

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる源内は、数多くの号を使い分けており、画号の「鳩渓」、俳号の「李山」をはじめ、戯作者として「風来山人」、浄瑠璃作者として「福内鬼外」の筆名を用い、殖産事業家としては「天竺浪人」、生活に窮して細工物を作り売りした頃には「貧家銭内」などといった別名を使っている。




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徳川 吉宗 (和歌山)

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徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は
55000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。

 

1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。

 

元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。


和歌山市
 

吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌山城下の繁華街で家臣達と、よく食べよく遊びながら実社会の成り立ちを感じ取っていく。

 

 

しかし、一方で、紀州藩は派手な結婚式や将軍家との交際に費用がかさみ、深刻な財政難に陥っていた。

 

さらに、江戸の藩邸が度重なる火事に見舞われ、再建に莫大な費用がかかり、日照りや干ばつなど災害も相次ぎ、紀州藩は幕府から10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を背負う。

 

和歌山城
 
1705年、吉宗の兄達が相次いでこの世を去ったため、22歳の吉宗が紀州藩第5代藩主を務めることになった。

 

 

吉宗はさっそく藩財政の建て直しに取り掛かかり、倹約第一を掲げて、自ら率先して食事を質素なものにし、酒の量も制限する。

 

さらに吉宗は荒れ地を切り開いて水田とするために大規模な治水工事を行い、この工事では木の樋(水を通すための溝または管を樋という)をもちいて水路を川の上に通す画期的な技術がもちいられた。

 

出来あがった小田井用水は全長30kmにおよび、新しい水田は豊かな実りをもたらし、年貢米の増加となって藩財政を潤し、吉宗は藩主となって12年で藩の借金を返済し、そのうえで14万両の金と116000石の米を蓄えるまでに至る。

 

小田井用水1

吉宗は支出を減らし収入を増やすという極めてオーソドックスな方法で財政再建を成し遂げた。

 

幕府の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「吉宗はことに優れた名君だと噂され人々の信頼も厚い。」と、吉宗を高く評価した。

 

 

その頃、江戸城では、まだ8歳の第7代将軍・徳川家継が重い病気にかかり、明日をも知れぬ命と言われていたため、次の将軍を誰にするかが話し合われ、吉宗にその白羽の矢が立つ。

 

1716年、吉宗33歳、御三家からの将軍就任という前例のない大抜擢で、第8代将軍となった。

 

徳川吉宗2
 

しかし、将軍に就任して間もなく、吉宗は蓄えが底をつき、商人達への借金が積み重なり、すでに幕府の財政が崩壊状態であることを知る。

 

 

財政再建に取り組む決意をした吉宗は、紀州藩の時と同じように、食事は自ら率先して一日二食、オカズは二品、それ以上は「腹のおごり」と戒める倹約第一を掲げた。

 

さらに大奥に命じて美女50人を選抜し、着飾って現れた絶世の美女達に対して吉宗は「美人なら暇を出しても、その後、引く手数多であろう。」とリストラを敢行し、経費削減をする。

 
大奥
 

一方で、好景気に沸いた元禄時代、金銀が町に溢れ、物価は異常な値上がりが続くインフレ状態となっていた。

 

1718年、物価を下げるには金銀貨幣の量を減らせば良いと考えた吉宗は、世の中に出回る古い貨幣を回収するように命じ、数年のうちに通貨の量を3分の2にするという極端な金縮政策を取り、物価はやがて落ち着きを取り戻す。

 

 

続いて吉宗は、幕府の収入増加のためにこれまた紀州藩の時と同じように、関東平野を始め各地で治水工事を行って新田開発をする。

 
見沼代用水1

吉宗が作らせた全長60kmにも及ぶ江戸時代最大規模の農業用水路である見沼代用水は、パナマ運河のように高さの違う二つの土地を水路で結ぶという画期的なもので、さらに通船堀と呼ばれる船を通すための堀も作られ、物資の運搬にも利用された。

 

こうして切り開かれた水田からの年貢米は年々増加し、1722年、長年積み重なっていた幕府の債務16万両が完済される。

 

見沼代用水船堀
 
吉宗の経済政策は紀州藩の時のように成功したかに思われたが、米の生産量が大きく上がると米の値段は下がり、4年間で40%もの暴落をした。

 

そして、この米の値崩れが武士の生活を困窮させることになる。

 

江戸時代、武士は毎年決まった量の米を俸禄(給料)として受け取り、その米を売ることで金銀貨幣を手に入れて生活必需品を買っていたため、武士にとって米の値段が下がることは実質収入の減少を意味した。

 

 

武士の収入が大幅に減少すると、消費は大きく冷え込み、瞬く間に深刻な不景気が全国を直撃する。

 

 

紀州藩では成功した吉宗の政策が裏目に出たのは、藩内だけの増産の場合は増産分が他藩への輸出分に出来たが、将軍となって全国的な増産をすると全国的に米余り状態となり、それが米の価格を下げるという結果になった。


 

労働の価値よりも希少価値が力を持つ市場経済において、全国規模での過当競争がこういった結果を招くことは、現代なら常識であったが、吉宗の時代はまだ市場経済が産声を上げたばかりなのである。

 

徳川吉宗
 

天下の台所といわれ全国の物資の集散地として栄えていた大阪の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集まり、商人を通じて年貢米の販売が行われ、ここで取引される値段が全国の米の値段を左右した。

 

米の値段を引き上げたい吉宗は、江戸から御用商人(幕府や諸藩に様々な特権を認められた商人)を大阪に送り込んで、米市場をとり仕切らせて相場の操作を目論んだ。

 
中之島
 

しかし、実勢とかけ離れた高い値段で取引をしようとしても無理があり、さらに1730年、江戸町奉行・大岡忠相(通称・大岡越前)のもとを大阪の商人達が陳情に訪れ「諸国の米商人達は幕府が開く米市場を敬遠するので、大阪で取り引きをしなくなってしまった。扱う米が無いので、大阪の仲買商人は商売が成り立たず生活に困っている。」と訴えたため、吉宗は大阪の米商人に自由な商いを認めざるを得なくなる。

 

 

そうして、米の値段は下落を続け、一石30匁を割り、10年前の3分の1にまで価格を落とした。

 

そこで、吉宗は米を買い占めることで相場のつり上げることを考え、28万石ともいわれる米を買い上げる。

 

さらに、1731年には加賀藩から15万両を借りてまで米の買い占めを続けた。

 

しかし、思ったほどの効果はなく、米の値段に一喜一憂する吉宗は、いつしか「米将軍」と揶揄させるようになる。

 

もはや相場は幕府一藩がどんなに金をつぎ込んでも動かせるような規模ではなくなっていた。

 

堂島
 

1732年、梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及ぶ冷夏とイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしたことにより西日本一帯で、200万人が飢えに苦しみ、12000人が餓死する「享保の大飢饉」が発生する。

 

吉宗は直ちに東日本の米を西日本にまわすように指示し、さらに幕府の蔵を開け95000石の米を送り、また、20万両あまりを投じて被災地の救済も指示した。

 

 

米余りから一転して、深刻な米不足が生じたことで、皮肉にもこの年、米の値段は一気に急騰して一石100匁を越える。

 

「享保の大飢饉」救済のために幕府の財政は再び傾きはじめ、吉宗の改革は頓挫しようとしていた。

 
享保の大飢饉
 

1734年、吉宗が将軍になって19年目の年、飢饉の年にいったんは高騰した米の値段は再び下がり始め、一石あたり40匁を割るまで値段を下げる。

 

 

そんな時、江戸町奉行・大岡忠相が吉宗に「米の値段を上げるには貨幣を増発して、世の中に出回る通貨の量を増やすしかない。」と進言するが、それはこれまでの幕府の政策を180°転換せよというものであり、物価の値上がりに苦しんだ経験のある幕府にとって容易に決断できるものでなく、吉宗は大岡忠相の進言を却下した。

 

 

しかし、その後も米の値段が上がるようなことはなく、不景気はさらに深刻なものとなると、1736年、大岡忠相は再び吉宗に「通貨の量を増やさなければ、米の値段は上がらない。」と強く迫る。

 

大岡忠相
   
大岡忠相

通貨の量を増やせば世の中は乱れるかもしれない、しかし、このままでは米の値段は上がらず、人々は苦しみ、幕府財政も建て直せないと判断した吉宗は、ついに通貨の増発の決断をした。

 

 

貨幣鋳造の総責任者には大岡忠相が任命され、さっそく新しい貨幣「元文金銀」の鋳造が開始されると、吉宗の命令から1カ月後には続々と「元文金銀」が世の中に出回り始め、その発行量はそれまでの貨幣の2倍近くにまでなる。

 

 

すると、米の値段は次第に上昇し始め、やがて、一石60匁ほどに落ち着き、ようやく不景気は終わりを告げた。

 
元文小判
 

貨幣改鋳の2年後、大岡忠相は日記に「ようやく最近になって米の値段がよろしくなった。武士達の暮らし向きも良くなり、町人達も仕事に励むことができるようになった。」と記している。

 

 

吉宗の言葉を伝える「紀州政事鏡」には「誤りを知るを真の人という。」という言葉が記されている。

 

政治家という民の運命を背負う責任ある者は、間違えたら切り替えるという困難な思考・判断が必要であり、吉宗は過去の成功体験が通用しないことや過去の不況の原因が今度は特効薬になることを受け入れることが出来た。

 

そんな誤りを知る者だったからこそ吉宗は、米経済から通貨経済への時代の移り変わりに見事に対応することが出来たのである。

 
米俵
 

1751年、吉宗は66歳でこの世を去り、その墓は寛永寺(東京・上野)の第5代将軍・徳川綱吉の廟の中に建てられた。

度重なる財政再建でまず倹約第一から始めた吉宗らしく、自分のための新しい廟を決して作らせないように言い残していたからである。




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上杉 謙信 (新潟)

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1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを敢行し、製品の販売に力を尽くす。

 

 

商業の発達によって人々の生活は格段に潤い、国内の争いはなくなっていき、戦争をせずに国を治めるという謙信の夢は実現するかに思われた。

 

青苧
 

しかし、その豊かな越後は甲斐の武田信玄に執拗に狙われることとなる。

 

1541年に武田氏の家督を継いだ信玄は信濃攻略に乗り出し、およそ12年で信玄の領土は越後との国境付近まで広がり、信濃で信玄の領土になっていなかったのは川中島の一帯だけとなった。
 

武田信玄
  
武田信玄
 

謙信は、信玄に攻められた信濃の豪族からの救援要請に応えて川中島に出陣する。

 

「第一次川中島合戦」1553年若くして自ら戦の先頭に立ち連戦連勝を重ねてきた軍事の天才である謙信は武田軍を圧倒し、さらに武田軍を追って次々に武田領内の城を落とし、信玄の川中島侵攻を防ぎ切った謙信は越後へと引き返していった。

 

 

 

1554年、信玄は利害の一致した今川・北条との三国同盟を成立させ自領の背後を固めると、再び川中島への侵攻を計画する。

 

 

この時、信玄は越後から川中島に至る街道のすぐ近くにある旭山城に目を付け、この地域に力を持つ善光寺の栗田鶴寿(くりたかくじゅ)を味方につけた。

 

 

「第二次川中島合戦」1555年、謙信が川中島に進軍するために犀川を渡ろうとすると、武田側についた旭山城が謙信を側面からけん制し、そのまま進軍すると上杉軍は武田軍本隊と旭山城に挟み討ちにあう状況となる。

 

 

謙信は犀川の北の岸辺で足止めを余儀なくされ、両軍は犀川を挟んでにらみ合いを続け、対峙すること200日、両軍共に限界が近づくと、信玄は川中島を元の領主に返すことを条件に謙信へ停戦を呼び掛け、この停戦交渉を受け入れた謙信は越後へと引き返す。

 

 

しかし2年後、雪で謙信が出兵できないタイミングを見計らうと、信玄は協定を無視して川中島に侵攻し、信濃の豪族達は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声は絶えず、謙信は約束を破った信玄に激怒する。

 

 

「第三次川中島合戦」1557年、謙信は川中島へと出陣すると、川中島からさらに奥へ進撃するが、武田軍は決戦を避けて遠くから監視するということを繰り返した。

 

 

正面から戦おうとしない信玄に謙信は苛立ちを募らせながらも、これ以上敵中に深追いして信玄の術中にはまる危険性を察知し、越後へと帰っていく。

 

川中島
 

「第三次川中島合戦」から2年後の1559年に謙信は京都へ行き、権力を失いつつあった室町幕府の将軍・足利義輝と面会する。

 

 

室町幕府は、戦に勝っても領土を増やそうとせず義を重んじる謙信に大きな期待を寄せ、関東を統率する室町幕府の要職「関東管領」に任じ、関東の秩序回復という大義名分を得た謙信は、関東各地に遠征するが、そのいずれもが他の領主や幕府から出陣を求められたもので、それらの戦いによって謙信自身は領地をほとんど増やさなかった。

 

 

 

そんな折に、武田信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、武田・今川・北条の三国同盟に大きな混乱と動揺が生じる。

 

 

謙信はこの三国同盟の動揺を逃さず、北条氏が支配する関東平野への侵攻を始め、わずか7カ月で北条氏の拠点・小田原城まで進撃した。


上杉謙信1
 

北条氏の小田原城が落ちると、今川氏は義元の死によって混乱の中にあり、武田の領地は三方向から謙信に包囲されるという状況になるため、信玄は焦りをつのらせ、1561年、信玄は越後を目指して甲府を出陣し、川中島の南に築いた海津城に拠点を構える。

 

 

これを知った謙信は、すぐに関東平定を中止し、素早く川中島に到着すると、そのまま武田軍の目の前で千曲川を渡り、武田軍の拠点・海津城の間近にある妻女山に陣を張った。

 

 

両者が陣を張ってから15日、信玄は闇に乗じて上杉軍の立て篭もる妻女山の背後へと別働隊12000を出撃させる。

 

 

信玄とった作戦は、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにするという「きつつき戦法」と呼ばれるものであった。

 

妻女山
 

しかし、謙信は前日の夕刻に武田軍の動きを察知して、この作戦を見抜く。

 

謙信はすぐさま下山の準備をするように指令を下し、上杉軍は武田別働隊に背後をつかれる前に下山の行軍を開始する。

 

上杉軍は、全ての馬に薪を噛ませて鳴かないようにし、兵は一切声を出さないように厳命され、上杉軍13000は一糸乱れね見事な沈黙の行軍で密かに千曲川を渡り、闇の中で千曲川の北・八幡原に布陣した。

 

 

一方で武田軍本隊は、濃い霧がたちこめていた早朝の川中島で、別動隊に妻女山から追い落とされ慌てて下山する上杉軍を待ち構える。

 

しかし、やがて夜が明け霧がはれていくと、信玄はすでに布陣して攻撃態勢万全で立ちはだかる上杉軍の姿を目にすることとなった。


第四次川中島の戦い
 

上杉軍が怒涛の攻撃を開始すると、予期せぬ事態に遭遇して動揺した武田軍は劣勢となり、武田軍の防御は次々に破られ、乱戦の最中、武田軍の本陣は手薄となる。

 

 

武田側の資料「甲陽軍鑑」では「白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、騎馬武者の馬が槍で刺されると、騎馬武者はその場を立ち去った。」と記され、上杉謙信が武田信玄に自ら斬りかかったという伝説が生まれた。

 

上杉謙信・武田信玄
 

武田軍が上杉軍の猛攻を耐え凌ぐこと4時間、武田軍別働隊がようやく千曲川を渡り八幡原へ到着し、武田軍の怒涛の反撃が始まると戦況は一転、武田軍優勢となって、上杉軍は撤退する。

両軍あわせて死傷者27000を出した激戦「第四次川中島の合戦」に終止符がうたれた。

 

 

 

1564年「第五次川中島の合戦」と呼ばれるこの時は、謙信と信玄は川中島で遭遇するも共に戦うことなく撤退。

 

 

その後、越後への侵攻を断念してその矛先を南へと向けた信玄が、今川氏との戦いで海路を断たれて塩(人間は塩分が不足すると死亡するうえ、この時代は入手が簡単ではなく貴重であった。)が手に入らなくなると、信玄のもとに謙信から大量の塩が届けられ、この故事から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。

 

 

 

 

宿敵・武田信玄との戦いが落ち着いた1569年、京都にいた織田信長の使者が謙信のもとを訪れ「謙信公の武威の誉れは挙げればきりがありません。この信長が手堅く申し付けて将軍家の御所を経営し、お守りいたします。」という書状が届く。

 

 

信長は国境を接する武田信玄を当面の敵としていたため、謙信とは友好関係を持ちたい思惑があった。

 

 

謙信は信長の室町幕府を守るという言葉を信じ、1572年、上杉謙信と織田信長は同盟を結ぶ。

 

 

しかし、1573年、武田信玄が死去した直後、信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、約240続いた室町幕府が滅亡し、さらに信長は勢いそのまま、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、その勢力を拡大した。


織田信長
  
織田信長
 

しかし、信長は軍事の天才である謙信とは敵対しないように根回しをする。

 

信長は南蛮渡来のビロードのマントなど珍しい品々の贈り物攻勢を仕掛けた。

1574年には、現在国宝となっている「洛中洛外図屏風」を贈る。

その「洛中洛外図屏風」は、将軍クラスしか乗ることが許されない黒い輿に乗る謙信が描かれており、一緒に京を治めましょうというメッセージと受け止められるものだった。

 

 

 

ところが1575年「長篠の戦い」にて新兵器である鉄砲を駆使して武田軍を撃破した信長は、戦争への自信を深め、越中にいた謙信の重臣である村上氏に離反を促し、さらに常陸の佐竹氏、下野の小山氏などと友好関係を結ぼうとする。

 

 

これらを知った謙信のもとに、京都を追われた足利義昭の使者が訪れ「幕府再興のために信長を討ち、急ぎ上洛して欲しい。」と懇願され、同盟をないがしろにされ信長への怒り爆発寸前の謙信は、それに応じて信長討伐を決意した。

 

 

 

一方、信長も謙信の上洛を阻止するため1576年、琵琶湖の東岸に安土城の築城を開始し、謙信と対決する準備を整える。

 

 

謙信は、堅固な要塞を構えて信長と敵対していた大阪石山本願寺と西国の実力者・毛利氏と同盟を結び、上杉・西山本願寺・足利義昭・毛利氏という反織田包囲網を成立させた。

 

 

謙信は「たとえ信長、億万の軍衆を列ね、山を抜く勢いあるといえども、予が獅奮の矛先に向かいては叶うべからず。」と西に向けて出陣する。


上杉謙信5
 

謙信は途中で越中を平定し、さらに能登に進出すると畠山氏の七尾城(現在の石川県七尾市古城町)を囲んだ。

 

七尾は日本海航路の中心であったため、ここを押さえると船を使って越後から大量の兵糧を運べるため、謙信としてはぜひともとりたい拠点であった。

 

 

謙信は、火あぶりや釜茹でなどで数万人が虐殺され信長から徹底的な弾圧を受けていた加賀一向一揆の勢力と手を結び、難攻不落といわれた七尾城を落として能登を勢力下におく。

 

七尾城
 

謙信の動きを知った信長は焦り、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉からなる4万の主力部隊を七尾城に差し向ける。

 

 

上杉軍は槍や騎馬が主体で大量に鉄砲を揃えた織田軍に装備が劣るため、謙信は鉄砲対策として、合戦を標的が見えない夜に持ち込むことを考え、上杉軍は合言葉の周知訓練を徹底し、暗闇でも統率がとれるようにした。

 

 

織田軍4万が手取川を越えたところに陣を張るのを確認した謙信は、数日来雨が続いた夜に、37000の軍勢を突撃させ、一糸乱れぬ攻撃を仕掛ける。

 

 

突然の奇襲に混乱した織田軍は、雨で火薬がしめり夜で相手が見えず鉄砲が威力を発揮しなかった。

さらにパニック状態となった織田軍は、手取川を渡って退却しようとするが、川は雨で濁流と化し、多くの溺死者を出す。

 

 

織田軍の惨敗は「上杉におうては織田も手取川。はねる謙信、逃ぐる信長。」と言われて瞬く間に評判となり、謙信も「戦ってみると信長は案外弱い。」という印象を持った。


手取川
 

評判以上の謙信の強さを知った信長は「謙信公ご上洛の際には、この信長が扇一本を腰に差し都へご案内いたしましょう。信長は西国、謙信公は東国を治めることにしてはいかがでしょう。」という究極に媚びへつらった書状を送るが、もはや謙信は信長を信じることはなく、1578年、謙信は6万の兵を動員して信長討伐の予定を立てる。

 

 

ところが、信長はこの絶体絶命の危機を思わぬ形で脱出した。

 

 

謙信は春日山城内の厠で倒れると、そのまま意識は戻らず、49歳で生涯を閉じ、死因は状況から脳卒中と考えられている。

 

 

上杉軍は謙信の死によって、信長討伐の上洛を中止し、さらに信長包囲網も謙信という求心力を失って崩壊した。

 

毘沙門天
 

こうして、毘沙門天の化身となって戦国乱世に終止符をうつという謙信の夢は叶わずに終わる。



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宇都宮 公綱 (栃木)

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1302
年、宇都宮貞綱の子として生まれ、宇都宮氏第9代当主となる公綱を理解するためには、若干なり時代背景を知る必要がある。

 

 

 

鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。

 

 

1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。

 

御醍醐天皇
  
醍醐天皇
 

幕府は後醍醐天皇に代わって、大覚寺統の光厳天皇を即位させた。

 

 

後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。

 

 

 

楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。

 

1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。

 

北条高時
  
北条高時
 
 

鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。

 

宇都宮二荒山神社

弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)6万騎を率いる総大将となっている。

 

弘安の役
 

 


 

四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。

 

四天王寺1

公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが、当の楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。


楠木正成
  
楠木正成
 

そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。

 


楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。

 


 

しかし、楠木正成は45日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。

 

 

この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。

 

 

そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。

 

 

宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。

 

四天王寺2
 

結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。

 

 

 

さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。

 

 

実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。


千早城
 
それ以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。

 

 

鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

 

足利尊氏
  
足利尊氏
 

その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。

 

北畠顕家
  
北畠顕家
 

そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。

 

 

1356年、55歳で死去。
 

宇都宮公綱1
 

公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。

 

 


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上杉 鷹山 (山形)

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1751
年、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

 

鷹山の父は能力主義の登用を進め、兄は日本初の子ども手当を実施するなど、秋月家には名君を生みだす気風が存在していた。

 

鷹山の教育係だった細井平洲は「民をみる時に、怪我人をみるように、飢えている人をみたら自分が飢えているように思えないなら殿様になってはいけない。」と鷹山に教え込む。
 

高鍋城
 

1760年、米沢藩主・上杉重定の養子となって米沢藩邸に移る。

 

しかし、これは弱小藩の次男坊が名門上杉家の当主となるサクセスストーリーとはいかなかった。

 

 

上杉家の祖先である上杉謙信は越後(現在の新潟県)を中心に120万石を支配した戦国時代屈指の英雄であったが、謙信の死後、上杉家の領地は豊臣秀吉によって東北に移される。

 

関ヶ原の戦いでは敗れた西軍に味方したため、江戸時代になると領地は30万石に大きく削減され、その後さらに3代藩主・綱勝が世継ぎを決めずに急死したため、お家断絶の危機(江戸時代の大名家は世継ぎを幕府に伝えなくてはならなかった)にさらされた。

 

幕府の温情でお家断絶は免れたものの、領地はついに15万石にまで減らされる。

 

米沢
 

しかし、領地が減っても、上杉家へ仕えることを誇りとする会津120万石時代の家臣5,000人は離れず、同じ規模の他藩の3倍の家臣を抱え (今でいうと公務員が多すぎる状態)、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与え、過剰な公務員を支えているようなものである農村は疲弊していた。

 

 

米沢藩は慢性的な赤字で、1771年の米沢藩は収入3万両に対して支出7万両(うち4万両が借金返済分)となっている。

 


 

そんな有様の中で、1767年、鷹山は17歳で上杉家の家督を継ぎ、米沢藩の第9代藩主の座に就く。

 

 

鷹山はまず藩主自ら倹約に努め、生活費はそれまでの7分の1に切り詰めた。

 

しかし、鷹山の義理の父である先代・重定は名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改めようとはせず、領民救済は幕府に委ね、お家返上を本気で考えるほど政治に投げやりであり、鷹山は倹約の難しさを悟る。

 
 

竹俣当綱
  竹俣当綱

鷹山は、産業に明るい竹俣当綱
(たけまたまさつな)と、財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家臣を抜擢し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

 
莅戸善政
  
莅戸善政 

 

倹約だけでは財政再建はとても出来ないため、鷹山は米の生産を上げるため、武士にも田畑を耕させ、鷹山自らも鍬を握るが、こうした改革は、名門上杉家の伝統を汚すとして旧臣達の反発を大きく買う。

 

 

藁科立沢は鷹山から仕事ぶりが不真面目であると減俸された不満から、同じように不満を持つ重臣7名を集め、1773年、鷹山に改革中止を訴えた(七家騒動)


 

当時の常識から考えると、武士を田畑に入らせる鷹山に圧倒的な非があり、苦しい状況になった鷹山が場を立ち去ろうとする。

 
 

すると、一人が鷹山の裾を引っ張って引き止めようとする事態となり、これは主君に対する態度としては、武家社会では万死に値する極めて無礼な行為だったため、鷹山は厳しい処分を下す口実を得ることになった。

 
 

その結果、鷹山は、2人を切腹、5人を隠居、首謀者である藁科立沢は斬首という厳しい処分を下し、保守派の勢力を強硬に排除する。

 

七家騒動
 

保守派の抵抗を乗り切った鷹山は、竹俣当綱を中心に本格的な財政再建に乗り出す。

 

漆の木100万本を藩全体に植林し、そこからロウソクを作り始めるが、その頃、ハゼの実から作る低価格高品質なハゼロウが市場に出回り始め、米沢のロウソクは悪ロウとまで呼ばれ、市場から淘汰される。

 


 

1782年、上杉家では謙信の命日には酒を飲んではいけない決まりがあったが、竹俣当綱は命日の朝まで飲み明かすという失態を演じた。

 

 

改革の中心となった竹俣当綱は権力に奢るようになっており、公費の乱用、度を越した接待、派閥的な人事などのスキャンダルが明るみになり、鷹山のもとには竹俣当綱への批判が次々と舞い込む。それにともなって藩内は改革への不満が渦巻いた。

 

鷹山は竹俣当綱を隠居させ禁固刑にする。

 

その半年後、莅戸善政が隠居を願い出た。

 

こうして、鷹山は腹心二人を失う。

 

 

 

 

1783年、信州の浅間山が大噴火し、噴煙は関東から東北に広がり、日照が遮られて米の収穫は激減し、東北地方の農村を中心に推定約2万人の餓死者が出る「天明の大飢饉」となり、米沢藩は11万石の被害を出す。


天明の大飢饉
 

その大損害の5ヶ月後、今度は贅を尽くした先代・重定の御殿が焼失し、重定は財政難にも関わらず新しい御殿の建設に着手する。

 

 

鷹山の改革は挫折し、鷹山は35歳で藩主の座を退くことになった。

 


 

 

新たな藩主の座には、先代・重定の実子(鷹山が養子となった後に生まれた)である治広が就き、鷹山は自身の養子でもある治広に「国家と人民のために君主を立てるのであって、君主のために国家や人民があるのではない。」と想いを託すが、その願いもむなしく、新しい藩主の儀式などの出費で財政はさらに悪化。

 

 

藩はこれに対して家臣の給料33%削減で対応する。

 

その結果、生活に困った家臣の中には年貢徴収の際に不正をする者が現れるようになり、農民達から余分に年貢を徴収して差額を懐に入れるといったことが横行した。

 

 

こうした重税に耐えかねた農民達は、田畑を捨てて米沢藩から逃げていき、13万人だった人口は9万人まで減り、需要が減った城下町では商品が売れなくなり、商人が藩に納める税金は激減する。

 

 

この惨状に胸を痛めていた鷹山は、再び改革の舵取りに乗り出す決意を固めていく。
 

上杉鷹山1

1790年、鷹山はそれまで上層部しか把握していなかった財政状況を、初めて藩士に対して公開し、さらに武士だけでなく農民や町人からも財政再建のためのアイディアを募った。

 

 

それにより、政治への不信感は払拭されていき、身分に関係なく採用された優れた意見の中には、かつて鷹山が処分した改革反対派の息子によるアイディアもあり、これが大きな転機となる。

 

 

それは、蚕のエサとなる桑の苗木を無料配布し、藩全体に桑の木の栽培方法や蚕の飼育方法を周知し、藩をあげて士農工商みなで養蚕に取り組むというものであった。

 

桑の木
 

こうして地元で生産された生糸を、さらに下級武士の妻や子ども達に機織りを学ばせて誕生したのが、米沢織である。

 

 

それは、もともと米沢藩が輸出していた麻糸の一種「からむし」が、大和に行くと「奈良さらし」へと付加価値を付けて高価なものに変わっている流れを、今度は原料を提供するだけではなくヒット商品に変えるところまで米沢藩でやるというものであった。

 

米沢織

鷹山は最初の改革では、倹約(痛み)の後の希望を示していなかったが、二度目は経済を理解させることによって、生産品に対する希望と誇りを持たせることに成功する。

 

 

米沢織は藩士の生活を支える産業へと発展していき、こうした中で超ヒット商品「透綾」が開発され、開発した下級武士は3万両もの資産を誇る大金持ちとなった。

 

 

 

二度目の改革で鷹山は、倹約ではなく、攻めの経営で一人のリストラも出さずに、20万両(現在の価値で換算すると約100億円)におよぶ借金を抱えていた藩財政は立ち直り、72歳で鷹山が死去した翌年、米沢藩は借金をほとんど返済し終える。

 

上杉鷹山2
 

二度目の改革から33年目であった。



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曹参 (漢王朝を約200年の安定に繋げた東洋のアウグストゥス)

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曹参
(そうしん)は劉邦と同じ沛(江蘇省徐州市)の出身で沛の役人として働いていた。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える蕭何(しょうか)は、この頃の上司である。

 


 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、曹参と蕭何らは沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。

 

しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

沛
 

以降、曹参は劉邦軍の最前線で戦場に出る。

 

 

 

 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 



 

咸陽を目指す劉邦軍において、曹参は各地を転戦してその攻略に大いに貢献し、劉邦軍は見事に関中への一番乗りを果たす。

 

 

しかしながら、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。


楚漢時地図
 
 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。
 

徐州市(彭城)
 
 

大敗北を喫した劉邦はケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込んで籠城をし、曹参は韓信と共に、項羽に寝返った魏・代・趙・斉などの諸国を攻めて、次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。

 

 

斉への攻撃の際には、韓信が川の水を上流で堰止めするが、敵軍は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が敵兵を一気に呑み込んだ。

曹参はそこから逃亡をはかる敵の副将・周蘭を生け捕る手柄を立てる。

 

曹参2
 

 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において蕭何を戦功第一に選んだが、数十箇所の傷を負いながらも前線で戦い続けた曹参を推す声も大きかった。

 
 

さらに曹参は斉国の相国(臣下としての最高位)として、斉王を任された劉邦の子・劉肥を補佐することになる。

 

攻略に苦戦し安定の難しかった斉は七十余城を数える大国であり、曹参がその重要な土地を任されたのは劉邦からの信頼が厚く功績が多かったからであった。

 


 

曹参は劉邦が漢王朝を開いてからも、12万の軍勢を率いて反乱を起こした英布と戦うなど戦場で功をあげる。

 

 

 

また、曹参は戦場以外でも勉強熱心で、長老や学者に人民を安定させる方策を訊ね、葢公という思想家の意見を採用して斉の統治を行い、有能な人材の登用にも力を入れ、9年かけて斉を安定させ、賢相として称えられた。

 

 


 

紀元前193年、蕭何は死ぬ間際に自分の後継に曹参を推薦し、曹参は漢の相国となる。

 

 

曹参は、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更せず、役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を部下に選び、言葉や文章が苛烈で名声を得たがる役人は側に置かなかった。

 

イノベーションあふれる者は、どんなに優秀であっても安定期の帝国にとっては安定を揺るがす存在になる。

 
 

戦争に勝つための人材と、戦後の安定をはかるための人材に求められる素養が大きく違うことを曹参は理解していた。

 

曹参1

曹参は部下が小さな過失を犯したのを見ると、それを覆い隠し表沙汰にしないようにするなど、その仕事ぶりは緩いものになっていく。

 

 

恵帝(劉邦の子・劉盈で第2代皇帝)が、曹参の職務怠慢をいぶかって責めると、曹参は「陛下は私と蕭何はどちらが優れていると思われますか。」と言い、恵帝が「蕭何」と返答すると、曹参は「そのとおりです。劉邦と蕭何がすで天下を平定し、その基盤が出来ているので、我々はそれを遵守すれば良い。」と教えると、恵帝は納得した。

 

 

劉邦や蕭何が作り上げた漢王朝が、その後約200年の長きに渡って続いたのは、完璧なものをそのまま引き継いだからである。


その伝言ゲームの最も重要な引き継ぎ役になったのが曹参であった。

 

 
 

曹参は紀元前190年に死去した。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。




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ベアトリーチェ・チェンチ (父から強姦されたのに死刑となった美少女)

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1577
26日、ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。

 

家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼い弟ベルナルドがいる。

 

 

チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。

 

 

ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。

 


 

父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に暴力を振るい、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。

ベアトリーチェ・チェンチ1


ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。

 

その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。

 

 

フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。

 
 

フランチェスコは、美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに至高の喜びを感じていた。

 

 
 

ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えるも、なんの対応もされずに終わる。

 

 

フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の村にある「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という城に住まわせた。

 

 

フランチェスコの快楽を満たしてきた暴力は、告訴された逆恨みから憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。

 

ベアトリーチェ7

1598
年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。


 

怒りと恐怖が渦巻く現場で、ベアトリーチェ達は錯乱状態になり、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔った末の事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。

 


 

警察当局はバルコニーから転落して死亡した傷には不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。

遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。

 

 

フランチェスコの遺体は掘りおこして検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられるが、拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまうほどであった。

 

 

検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。

 


 

殺人の動機を知ったローマ市民が裁判所の決定に抗議したため、処刑はいったん延期されるが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため家族全員の死刑を取り消すことはなかった。

 

斬首2

1599
911日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送された。

 

最初に兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。

続いて義母ルクレツィアが斬首された。

 

そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。

 

まだ幼い弟ベルナルドは、財産の相続権を没収され、家族の処刑をしっかりと見せつけられた上で、死刑は免れ刑務所に戻された。

 

 

 

画家グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。

 

  

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

 

 

その後、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという噂がたった。

 

それはローマ市民のベアトリーチェを救えなかった事への懺悔という、ある種の人間の正義感がゆえに生まれたものかもしれない。



 

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ヘファイスティオン (大王の唯一の友人)

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ヘファイスティオンは少年時代からアレクサンドロス3世の親友であった。
共にアリストテレスから学問を学び、格闘訓練においてはアレクサンドロス3世よりも優秀であった。


アレクサンドロス3世が弱冠20歳でマケドニアの王に即位するとヘファイスティオンは側近護衛官を任される。



ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。

自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。


東方遠征が開始され、記念に立ち寄ったトロイの遺跡では、アレクサンドロス3世がアキレウスの墓に花冠を捧げ、ヘファイスティオンはパトロクロスの墓に花冠を捧げた。

アキレウス


マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。


ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍が、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定めると、ヘファイスティオンは征服したフェニキア(現 レバノン)を平定し、マケドニア軍のエジプト侵攻が順調に進むようにと活躍した。



エジプト征服後の紀元前331年、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡が決定的となる「ガウガメラの戦い」では、ヘファイスティオンは騎兵将校の一員として奮戦し、激戦のなかで腕を槍で貫かれる重傷を負う。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン)を平定し、ついにインドを目指すことになる。



インドの先には世界の果てオケアノスがある。

この時代のギリシア人にとって、ギリシア神話は、神話ではなくアイデンティティ溢れる歴史そのものである。

ギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスに到達することは、ギリシア世界の盟主となったアキレウスの生まれかわりアレクサンドロス3世の悲願であった。

そして、アレクサンドロス3世の悲願は、パトロクロスの生まれかわりであるヘファイスティオンの悲願でもあった。



ヘファイスティオンはマケドニア軍本隊から先行して別働隊を率い、本隊のインダス川の渡河の準備を整えた。


この後もヘファイスティオンは別働隊を任されては、シンド南部のパタラ砦を制圧するなどの活躍を見せるが、長旅とゲリラ戦に消耗したマケドニア軍兵士達の疲労を訴える声が強くなったため、インドを引き返すことになる。



ゲドロシア砂漠(現 パキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年にスーサに帰還すると、アレクサンドロス3世によるギリシアとペルシアの融和政策のもとで、マケドニア兵と現地ペルシア女性との合同結婚式がおこなわれる。

ヘファイスティオンは、アレクサンドロス3世が妃に迎えたスタテイラ2世の妹であるドリュペティス(ダレイオス3世の娘)と結婚した。


同時にヘファイスティオンは、アレクサンドロス帝国宰相に相当する地位を与えられた。


アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の頃から使える重臣も多い中で、年若いヘファイスティオンに重い地位を与えるには、しかるべきタイミングを必要としていた。


また、アレクサンドロス3世死後の後継者争いで活躍する幕僚エウメネスや、アレクサンドロス3世の母オリュンピアスの信頼が厚かった将軍クラテロスと、ヘファイスティオンは不仲であった。

ヘファイスティオンは王の親友でありながら孤立した難しい立場だった。

ヘファイスティオン1

しかし、それから間もなくヘファイスティオンはエクバタナ(現 イラン・ハマダーン州)で突如病に倒れ病死する。


ヘファイスティオンの死により激しい悲しみに支配されたアレクサンドロス3世は、ヘファイスティオンを診た医師を処刑し、壁を叩き床を蹴り自殺を試みて暴れ、3日間ひきこもって食事も摂らず衣服も着替えなかった。



この時代、身分の高い男にとって、女性はただ美しく性欲を満たし子どもを産めばよい存在であった。

当時の女性は教育機会の少なさゆえに、身分の高い男との知能レベルは大きく違い、さらに征服地で迎えた妻ならば言葉が通じないことも珍しくはなかった。


そのため、王にとって女性は妻でさえ心の友にはなりえなかった。


そして、王にとって、出世を画策してすり寄る部下は、どれだけ任務上の信頼が厚くとも部下以上の存在にはなりえない。


アレクサンドロス3世にとって、心の通わせることの出来る人間はヘファイスティオンただ一人であった。


ヘファイスティオンの死は、人類史に多大な影響を与えるアレクサンドロス3世の偉業の、終わりの始まりとなった。

三番組組長 斎藤 一

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斎藤は、山口祐助とますの子として生まれ、父の山口祐助は播磨国明石藩の足軽であったとされているが、戊辰戦争後の斎藤の会津藩との関わりの深さから疑問視もされている。

 

 

 

斎藤は19歳の時に、江戸小石川関口で旗本と口論になり、相手を斬ってしまうと、父と兄に旅支度をさせられ、すぐに京都へと旅立った。

 

 

京都に着くと、父の友人が開いていた聖徳太子流剣術道場主に身をかくす。

 



 

一方、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護役として募集され浪士隊が江戸から京都にやって来ると、浪士隊は壬生浪士組に名を変え、同日、京都で新たに隊士を募集すると、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主である松平容保の預かりとなった。

 

 

斎藤と近藤や土方との接点には諸説あるが、この入隊時が出会いというのが有力視されている。



 

新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。

 

後の組織再編成の際には三番隊組長となり、沖田や永倉らとともに新選組の撃剣師範を務める。

 

 

 

永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったといわれ、剣の腕はあの沖田に匹敵する強さであった。

 

壬生村2
 

斎藤は、土方からの信頼が特に厚く、新撰組内部での粛清役や暗殺役といったダークな仕事を数多く務める。

 

また、その土方からの信頼の厚さゆえに、スパイとして組織外に派遣されることもあった。

 

 

斎藤が謎に包まれている部分が多い人物でもあるのは、記録に残せない影の仕事に関わる機会が多かったたである。

 

 

 

 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の後、藤堂平助の仲介で才能豊かな伊東甲子太郎が新撰組に加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒した。

 

 

近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成すると、斎藤は、土方の指示で、この伊東の御陵衛士に潜入スパイとして参加する。

 

 

新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤がスパイとしてもたらした情報に基づいて計画・決行がなされた。

 

 

 

 
 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

小枝橋の戦い(鳥羽・伏見)
 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。

 

 

 

 

江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。

 

 

 

斎藤はいずれの戦いでも最前線で戦うが、銃撃戦がメインの戦闘では大きな活躍を見せることが出来ずに終わる。

 

 

 

近藤が流山で新政府軍に投降して板橋刑場で斬首されたあと、斎藤は、土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向う。

 

母成峠の戦い
 

斎藤ら新選組は、会津藩の指揮下に入り、白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加するが、劣勢に次ぐ劣勢により若松城下に退却する。


 

この時、大鳥圭介らと共に宇都宮城の戦いに参加するも敗走してきた土方と再開した。

 

 

その後、土方は庄内から北へ北へと転戦し北海道まで行くが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続ける。

 

会津藩
 

会津藩が新政府軍に降伏したあとも、斎藤は頑なに戦い続けるが、新撰組の雇い主であった松平容保の説得に応じて投降した。

 

 

新撰組時代の斎藤が、土方から厚い信頼をおかれていたのは、こうした強情で信念が固いながらもリーダーには従順な一面があったことによると推測が出来る。

 

 

捕虜となった斎藤は、旧会津藩領の塩川や越後高田で謹慎生活を送った。

 

 

 

 

謹慎生活を終えた斎藤は五戸に移住し、元会津藩では超がつく名家の篠田家のやそと結婚するが、この結婚生活は3年ほどで終わってしまう。

 

その原因については、不明であり、単に離縁だったのか死別だったのかも分かっていない。

 

 

 

斎藤にとって二度目の結婚の相手も元会津藩の大目付であった高木小十郎の娘である時尾であった。

 

この結婚には、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務める。

 

斎藤と時尾は三人の男の子に恵まれた。

 

斎藤 一1
 

こうした斎藤に対する元会津藩の扱いから、冒頭の出自の定説に疑問視の声が多くなっており、斎藤は実は歴とした会津藩出身の武士だったのではないかとも言われている。

 

 

 

 

明治7(1874)7月、東京に移住し、警視庁に採用され、内務省警視局で警部補に昇任し、西南戦争に参加した。

 

大砲2門を奪取するなどの大活躍をし、その様子は東京日日新聞に報道され、斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与される。

 

 

その後、警視庁が再設置され、斎藤は麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治25(1892)に退職した。


 

警視庁退職時に、東京高等師範学校校長・高嶺秀夫(元会津藩士)らの推挙で、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の守衛長となる。

 

警視庁
 

明治32(1899)には東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務し、明治42(1909)に退職した。

 

 

 

そして、大正4(1915)928日、71歳で胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。永倉新八とほぼ同時期に死去したことになる。

 

 

 

 

新撰組ではスパイとして働く機会が多かったことから謎の多い人物であったが、長生きしたため、後年はいくらかの証言が残っており、刀での戦闘経験について「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです。」という証言を残した。

 

 

日本史上最強という解釈もできる沖田総司に匹敵する強さであった斎藤の証言だけに、これが剣術のシンプルにして極意なのかもしれない。

 

 

 

また、子ども達には「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる。」と説教するのを常としていた。

 

 

まるで、老いてなお、時代が変わってなお、ただ一人新撰組であり続けたようである
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