アンティパトロス
セレウコスはマケドニア王国の貴族アンティオコスの息子であるが、アレクサンドロス3世が東方遠征を開始した時点で20歳前であり、大軍を指揮する立場にはなかった。
伝承が残るような活躍はマケドニア軍がインドに侵攻して以降になる。
紀元前326年、アレクサンドロス3世にとって最後の戦いとなる「ヒュダスペス河畔の戦い」では、近衛歩兵部隊の指揮官を務めるようになっていた。
紀元前324年に、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになったアレクサンドロス3世の政治政策として、スーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)でマケドニア兵士と現地ペルシア人女性の合同結婚式がおこなわれた。
この時、セレウコスはソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)の有力者スピタメネスの娘アパメーと結婚する。
多くのマケドニア兵士は、率直な感想としては意味不明に外人と結婚させられた感覚であったため、この時の彼らの結婚相手は性処理にしか使われなかった。
そんな中で、セレウコスは生涯アパメーと連れ添う。
セレウコスが妻を通してペルシアを理解したことが、後々、支配地域の住民に高い支持を受けることにつながる。
紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。
この時点で、セレウコスは、帝国の事実上のトップにいたペルディッカスの部下であった。
そのペルディッカスが、帝国のNO.2格アンティパトロスの娘との婚約を破棄すると、ペルディッカスとアンティパトロスは対立関係となる。
紀元前321年、セレウコスはペルディッカスに従い、アンティパトロス派のプトレマイオスを攻めるためにエジプトへ行く。
そこで、なんと、セレウコスは、ナイル川の渡河に苦労するペルディッカスの統率能力を不安に感じて暗殺する。
自身の勢力拠点を持っていなかったセレウコスに、いつ頃から政治的野心が芽生えていたのかは分からないが、この頃から政治的野心が行動に出始める。
ペルディッカスの死により、アンティパトロスが帝国の事実上のトップになり、セレウコスはバビロン太守の地位を獲得する。
大都市バビロンの太守となり、セレウコスは後継者候補の一人に躍り出た。
紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。
アンティゴノスとセレウコスは、アンティパトロスの死後、協力関係を続けたが、徐々にアンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。
紀元前315年、セレウコスはアンティゴノスにバビロンを奪われ、エジプト太守プトレマイオスに庇護を求めた。
そして、今度はセレウコスがプトレマイオスの協力を得て、「ガザの戦い」でアンティゴノスの息子デメトリオスからバビロンを奪還する。
バビロンを奪回したセレウコスは、この時、プトレマイオスから譲り受けた僅かな兵しか率いていなかった。
しかし、セレウコスが以前にバビロン太守として善政をしいていたので、バビロンの住民はセレウコスを歓迎し、セレウコスによるバビロンの再興に協力的であった。
セレウコスがバビロンの住民から高い支持を得ていた背景には、妻アパメーを通してペルシア人への理解が深かったことが大きく影響していた。
アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。
バビロン太守に返り咲いたセレウコスも後継者としての野心を膨らませていた。
この時点ではやや不安定な立場ながらも、アレクサンドロス大王終焉の地であるバビロンを拠点に王位に就くことで後継者としての意味合いをだした。
アンティゴノスに対抗するうえで、背後の安定を考えたセレウコスは、かつてアレクサンドロス大王が侵攻したインドへ後継者として遠征すると、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の王チャンドラグプタが率いる大軍と遭遇する。
そこでセレウコスは、チャンドラグプタにインドに近いセレウコスの支配地域を譲り、さらに娘をチャンドラグプタの息子に嫁がせた。
その見返りにセレウコスはチャンドラグプタから500頭の象を譲り受ける。
その後、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。
紀元前301年、セレウコスはリュシマコスと共に、イプソス(現 トルコ中西部)でアンティゴノスとの決戦に挑む。
セレウコスがチャンドラグプタから譲り受けた象の大群は、凄まじい威力を発揮し、この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった戦いに圧勝する。
そして、この「イプソスの戦い」でアンティゴノスは戦死した。
セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなっていく。
セレウコスは勢力争いと同時に、内政にも積極的に取り組み、シリアのオロンテス河畔(現在のトルコ・アンタキア)にセレウコス朝の首都としてアンティオキアをはじめ、セレウキア、ラオディケイア、アパメイアなどの都市建設を進めた。
紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征する。
しかし、この遠征に同行していたプトレマイオスの息子ケラウノスは、父プトレマイオスからエジプトを追放され、さらに弟が後継者として目されていたため、自力でマケドニア王になる野心を抱いていた。
セレウコスは、このケラウノスに暗殺され、故国を手中にすることは出来ずに終わった。
セレウコスの死後、セレウコス朝シリアはゆっくりと、しかし確実に衰退していく。
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アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。
ピリッポス2世が戦闘でマケドニアを留守にする際は、アンティパトロスが代わりに国を仕切り、時には祭事ですらアンティパトロスがピリッポス2世の代理を務めた。
紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。
この時、すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任される。
マケドニアに残ったアンティパトロスの日々は決して穏やかなものではなかった。
アレクサンドロス3世の留守を狙って、紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタの王アギス3世が反乱を起こした。
アンティパトロスは戦力を分散させて二つの勢力と戦い続けることを避けるため、トラキアのメムノンは許し、スパルタのアギス3世とは徹底的に戦って反乱を鎮圧する。
アンティパトロスは老獪にアレクサンドロス3世のいないマケドニアを守り続けた。
もともとは、アレクサンドロス3世はアンティパトロスの息子だという噂が流れるほどに、アンティパトロスとアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの関係は良好であった。
しかし、アレクサンドロス3世の東方遠征中に、アンティパトロスとオリュンピアスの関係は悪化し、二人はアレクサンドロス3世へお互いを中傷する手紙を書き送るようになる。
紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。
アレクサンドロス3世の死後、帝国の実権を握ったペルディッカスによって、アンティパトロスはこれまでの実績もありマケドニア本国およびギリシア世界の管理運営を認められる。
紀元前322年にアレクサンドロス3世の死に乗じてアテナイ・アイトリア・テッサリアが反乱を起こすが、アンティパトロスは老獪にこれらを鎮圧し、その存在感を示した。
その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄する。
原因は、アンティパトロスと不仲になったアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、ペルディッカスに取り入るために自分の娘(アレクサンドロス3世の妹)とペルディッカスを結婚させたためである。
娘に恥をかかされたアンティパトロスは激怒し、ペルディッカスと対立することになる。
アンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけた。
しかし、ペルディッカスはプトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。
ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守になった。
アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせる。
しかし、すでに老齢であったアンティパトロスは病を患うと、老将ポリュペルコンを自身の後継者として地位を譲り、死去する。
アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。
見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。
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