「劇団Camelot」は、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、紹介する猫のキャラクターです。


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アレクサンドロス大王の後継者

プトレマイオス1世 (絶世の美女クレオパトラ7世につながる系譜)

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プトレマイオスはマケドニア王国の貴族ラゴスの子で、早い段階から側近騎兵隊将校として、ラオメドン、ネアルコらと共にアレクサンドロス3世からの厚遇を受けていた。


東方遠征では将軍として重要なポジションを任され続ける。


紀元前330年以降は側近護衛官となっており、アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンや豪傑ペルディッカスと共に王からの信頼が特に厚い重臣であった。




紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、プトレマイオスは肥沃な土地エジプトの太守となる。


この時点での帝国のトップであるペルディッカスが、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄すると、ペルディッカス派とアンティパトロス派に分裂する。


プトレマイオスはアンティゴノスらと共にアンティパトロスに味方した。

アレクサンドリア

そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスは奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、さらにエジプトはかつてアレクサンドロス大王が王(ファラオ)として民衆に受け入れられた意義深い土地である。

プトレマイオスに後継者としての強い野心がハッキリとあることが伺われる行動であった。



しかし、紀元前321年、プトレマイオスを討伐しに来たはずのペルディッカスが、ナイル川の渡河に失敗すると部下のセレウコスらに暗殺された。

プトレマイオスにとって最大のピンチになりかけていた事態が幸運にも回避される。




ペルディッカスの死により、プトレマイオスが支持したアンティパトロスが帝国のトップになるが、紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


圧倒的な勢力となったアンティゴノスは、帝国の完全掌握を目指し、バビロンを治めるセレウコス討伐に力を注ぎ始めた。

サラミスの海戦

プトレマイオスは、アンティゴノスの意識がセレウコスのシリア方面に向いている隙に、エジプトから地中海を経てギリシア世界に勢力を伸ばそうとする。

しかし、紀元前306年「サラミス海戦」でアンティゴノスの息子デメトリオスが、プトレマイオスの艦隊を大敗させ、それを阻止する。




アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。


アレクサンドロス大王の遺体が埋葬されており、肥沃な大地が広がるエジプトを背景に、プトレマイオスも後継者としての野心を隠さなかった。

プトレマイオス1

さらに、プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。


紀元前301年に「イプソスの戦い」でセレウコス・リュシマコスの連合軍はアンティゴノスに勝利して戦死させる。


セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなる。


紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアを勢力下におさめようと遠征する。


しかし、この遠征にプトレマイオスの息子ケラウノスが同行していた。

息子ケラウノスは、プトレマイオスからエジプトを追放され、さらにプトレマイオスがエジプトの王位をケラウノスの弟に継がせる意思をハッキリさせていたため、ケラウノスは自力でマケドニア王になる野心を抱き、遠征道中にセレウコスを暗殺した。




紀元前288年、プトレマイオス朝エジプトは、プトレマイオスの後妻ベレニケ1世が産んだ息子プトレマイオス2世が後継者となると、その後300年近い繁栄を築く。
 
アレクサンドリア

そして、このプトレマイオス朝の最期の女王となるのが、絶世の美女として知られるあのクレオパトラ7世である。

セレウコス1世 (セレウコス朝シリア王)

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セレウコスはマケドニア王国の貴族アンティオコスの息子であるが、アレクサンドロス3世が東方遠征を開始した時点で20歳前であり、大軍を指揮する立場にはなかった。


伝承が残るような活躍はマケドニア軍がインドに侵攻して以降になる。


紀元前326年、アレクサンドロス3世にとって最後の戦いとなる「ヒュダスペス河畔の戦い」では、近衛歩兵部隊の指揮官を務めるようになっていた。



紀元前324年に、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになったアレクサンドロス3世の政治政策として、スーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)でマケドニア兵士と現地ペルシア人女性の合同結婚式がおこなわれた。


この時、セレウコスはソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)の有力者スピタメネスの娘アパメーと結婚する。


多くのマケドニア兵士は、率直な感想としては意味不明に外人と結婚させられた感覚であったため、この時の彼らの結婚相手は性処理にしか使われなかった。


そんな中で、セレウコスは生涯アパメーと連れ添う。

セレウコスが妻を通してペルシアを理解したことが、後々、支配地域の住民に高い支持を受けることにつながる。

スーサ合同結婚式


紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


この時点で、セレウコスは、帝国の事実上のトップにいたペルディッカスの部下であった。


そのペルディッカスが、帝国のNO.2格アンティパトロスの娘との婚約を破棄すると、ペルディッカスとアンティパトロスは対立関係となる。



紀元前321年、セレウコスはペルディッカスに従い、アンティパトロス派のプトレマイオスを攻めるためにエジプトへ行く。

そこで、なんと、セレウコスは、ナイル川の渡河に苦労するペルディッカスの統率能力を不安に感じて暗殺する。


自身の勢力拠点を持っていなかったセレウコスに、いつ頃から政治的野心が芽生えていたのかは分からないが、この頃から政治的野心が行動に出始める。


ペルディッカスの死により、アンティパトロスが帝国の事実上のトップになり、セレウコスはバビロン太守の地位を獲得する。

大都市バビロンの太守となり、セレウコスは後継者候補の一人に躍り出た。

バビロン


紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


アンティゴノスとセレウコスは、アンティパトロスの死後、協力関係を続けたが、徐々にアンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。


紀元前315年、セレウコスはアンティゴノスにバビロンを奪われ、エジプト太守プトレマイオスに庇護を求めた。


そして、今度はセレウコスがプトレマイオスの協力を得て、「ガザの戦い」でアンティゴノスの息子デメトリオスからバビロンを奪還する。



バビロンを奪回したセレウコスは、この時、プトレマイオスから譲り受けた僅かな兵しか率いていなかった。

しかし、セレウコスが以前にバビロン太守として善政をしいていたので、バビロンの住民はセレウコスを歓迎し、セレウコスによるバビロンの再興に協力的であった。


セレウコスがバビロンの住民から高い支持を得ていた背景には、妻アパメーを通してペルシア人への理解が深かったことが大きく影響していた。

セレウコス1

アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。

バビロン太守に返り咲いたセレウコスも後継者としての野心を膨らませていた。

この時点ではやや不安定な立場ながらも、アレクサンドロス大王終焉の地であるバビロンを拠点に王位に就くことで後継者としての意味合いをだした。




アンティゴノスに対抗するうえで、背後の安定を考えたセレウコスは、かつてアレクサンドロス大王が侵攻したインドへ後継者として遠征すると、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の王チャンドラグプタが率いる大軍と遭遇する。


そこでセレウコスは、チャンドラグプタにインドに近いセレウコスの支配地域を譲り、さらに娘をチャンドラグプタの息子に嫁がせた。


その見返りにセレウコスはチャンドラグプタから500頭の象を譲り受ける。

チャンドラグプタ
  
チャンドラグプタ

その後、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。




紀元前301年、セレウコスはリュシマコスと共に、イプソス(現 トルコ中西部)でアンティゴノスとの決戦に挑む。

セレウコスがチャンドラグプタから譲り受けた象の大群は、凄まじい威力を発揮し、この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった戦いに圧勝する。


そして、この「イプソスの戦い」でアンティゴノスは戦死した。



セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなっていく。



セレウコスは勢力争いと同時に、内政にも積極的に取り組み、シリアのオロンテス河畔(現在のトルコ・アンタキア)にセレウコス朝の首都としてアンティオキアをはじめ、セレウキア、ラオディケイア、アパメイアなどの都市建設を進めた。

セレウコス2

紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征する。


しかし、この遠征に同行していたプトレマイオスの息子ケラウノスは、父プトレマイオスからエジプトを追放され、さらに弟が後継者として目されていたため、自力でマケドニア王になる野心を抱いていた。

セレウコスは、このケラウノスに暗殺され、故国を手中にすることは出来ずに終わった。



セレウコスの死後、セレウコス朝シリアはゆっくりと、しかし確実に衰退していく。



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アンティゴノス1世 (アンティゴノス朝マケドニア王)

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紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。



この「グラニコス川の戦い」の後、マケドニア軍はさらにペルシアの中枢へと進軍していくが、アンティゴノスはフリュギア太守としてアナトリア地方に残され、後方の守備および支配地域の安定を任される。

この時、40代後半であったアンティゴノスは若い王にとって、責任ある仕事を任せやすい存在であった。



フリュギア太守となったアンティゴノスは、アレクサンドロス3世の去ったアナトリア地方を取り戻そうとするペルシア勢力の攻撃を3度受けたが、全て退けた。


さらに、ペルシア帝国の支配下になかった好戦的な先住民のいるリュカオニア(現 トルコ・トロス山脈の北側)を征服し、後方活動ながらもアレクサンドロス帝国の版図を広げる。

アナトリア地方



紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、アンティゴノスはバビロン太守として大都市を統治することになる。


また、その会議でアンティゴノスの親友エウメネスは、この時点でまだアレクサンドロス帝国の支配下になかったカッパトギアを征服し、そのままカッパトギア太守になることが決められた。


アンティゴノスは、エウメネスからカッパトギア侵攻の援軍を求められるが、エウメネスが後々自分に近い拠点で勢力を伸ばすことを敬遠し、援軍の要請を断った。


結局、エウメネスに協力したのは、帝国の実質的トップのペルディッカスであった。


この時、友情にヒビの入ったアンティゴノスとエウメネスは、その後、敵同士として相対することになる。



間もなくして、ペルディッカスに娘との婚約を破棄されたNO.2格アンティパトロスが、ペルディッカスと対立することになる。

アンティゴノスはプトレマイオスらと共にアンティパトロスの側につく。

一方、かつての友カッパトギア太守エウメネスはペルディッカスの側についた。



しかし、ペルディッカスはアンティパトロス派プトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、アンティゴノスが全軍総司令官に任命された。

アンティゴノス1


アンティゴノスはペルディッカス派の追討を任され、かつての友人エウメネスが太守を務めるカッパトギアを攻め、エウメネスの弟アルタケスを自害に追い込み、エウメネスをカッパトギアから逃走させた。



時を同じくして、帝国トップであるアンティパトロスが死去し、その後継者に老将ポリュペルコンが指名されていた。

アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、ポリュペルコンと対立する。



アンティゴノスはカッサンドロスの側についたため、ポリュペルコンの支援を受けて勢力を回復させようとするエウメネスを再び攻撃することになる。


紀元前316年「ガビエネの戦い」に勝利し、かつての友エウメネスを捕えたアンティゴノスは、エウメネスを味方にしようと思ったが、部下の猛烈な反対により断念せざるを得なかった。

アンティゴノスがエウメネスをいつまでも処刑できずにいたため、アンティゴノスの部下は業を煮やしてエウメネスを殺害した。


アンティゴノスはエウメネスの死を心から悲しみ、盛大な葬儀を挙げる。

 


アンティゴノスはここまで、ペルディッカスやポリュペルコンの側についた諸将を次々に倒しては、その勢力を吸収し続けたため、その勢力は残った有力諸将の中でも頭一つ抜けたものになっていた。


勢力の拡大とともに、アンティゴノスは自らがアレクサンドロス帝国を掌握する野心を強めていく。 




アンティゴノスとバビロン太守セレウコスは、ポリュペルコンとカッサンドロスの対立では共にカッサンドロスの側について協力関係にあった。

しかし、エウメネスが死ぬと、アンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。

バビロン

紀元前315年、アンティゴノスがセレウコスの領土を奪い、セレウコスはエジプト太守プトレマイオスを頼ることになる。


アンティゴノスはさらにカッサンドロスの勢力下にあるギリシア世界に遠征する。



アンティゴノスはアナトリア半島全土およびシリアからイラン高原に至る広大な地域を手中にしており、その勢力は後継者争いをする有力諸将随一で、その力の大きさに野心を焚きつけられたアンティゴノスは、アレクサンドロス帝国全体の再統一を強引に目指していく。
 
ヘラクレア遺跡

紀元前306年、アンティゴノス朝を開き、王位に就く。


紀元前302年、アンティゴノスはギリシア世界の盟主となり、故国マケドニアを掌握する後継者として立場を固める。



一方、拡大する一方であるアンティゴノスの勢力に、警戒心を高めたプトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスといった有力諸将は、反アンティゴノス同盟を結ぶ。



紀元前301年、アンティゴノスとセレウコス・リュシマコス連合軍がイプソス(現 トルコ中西部)で対決する。

この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった「イプソスの戦い」で、アンティゴノスはセレウコスの用意した象の大群に苦しみ完敗し、自身も戦死した。



最大勢力であったアンティゴノスが死んだことにより、アレクサンドロス帝国の勢力図は、細分化複雑化が増すことになる。



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アンティパトロス (抜群の政治感覚を備えた老臣)

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アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。


ピリッポス2世が戦闘でマケドニアを留守にする際は、アンティパトロスが代わりに国を仕切り、時には祭事ですらアンティパトロスがピリッポス2世の代理を務めた。



紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


この時、すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任される。



マケドニアに残ったアンティパトロスの日々は決して穏やかなものではなかった。


アレクサンドロス3世の留守を狙って、紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタの王アギス3世が反乱を起こした。


アンティパトロスは戦力を分散させて二つの勢力と戦い続けることを避けるため、トラキアのメムノンは許し、スパルタのアギス3世とは徹底的に戦って反乱を鎮圧する。


アンティパトロスは老獪にアレクサンドロス3世のいないマケドニアを守り続けた。

アンティパトロス

もともとは、アレクサンドロス3世はアンティパトロスの息子だという噂が流れるほどに、アンティパトロスとアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの関係は良好であった。

しかし、アレクサンドロス3世の東方遠征中に、アンティパトロスとオリュンピアスの関係は悪化し、二人はアレクサンドロス3世へお互いを中傷する手紙を書き送るようになる。




紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


アレクサンドロス3世の死後、帝国の実権を握ったペルディッカスによって、アンティパトロスはこれまでの実績もありマケドニア本国およびギリシア世界の管理運営を認められる。


紀元前322年にアレクサンドロス3世の死に乗じてアテナイ・アイトリア・テッサリアが反乱を起こすが、アンティパトロスは老獪にこれらを鎮圧し、その存在感を示した。



その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄する。

原因は、アンティパトロスと不仲になったアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、ペルディッカスに取り入るために自分の娘(アレクサンドロス3世の妹)とペルディッカスを結婚させたためである。


娘に恥をかかされたアンティパトロスは激怒し、ペルディッカスと対立することになる。

ヘラクレア遺跡


アンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけた。


しかし、ペルディッカスはプトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守になった。



アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせる。


しかし、すでに老齢であったアンティパトロスは病を患うと、老将ポリュペルコンを自身の後継者として地位を譲り、死去する。



アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。



見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。

ペルディッカス (猛獣も恐れた豪傑)

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アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の治世で、マケドニアはギリシア世界の盟主となっていた。

しかし、ピリッポス2世が暗殺され、弱冠20歳のアレクサンドロス3世が若き王になると、その機に乗じてテーバイが反乱を起こした。


テーバイの攻撃は激しいもので、マケドニアは一時撤退を余儀なくされる状況となる。

そこで活躍したのがペルディッカスであった。


ペルディッカスはアレクサンドロス3世の命令を待たずに、防御の弱かった敵の防柵に攻撃をかけ、テーバイ市内への突入に成功し、これをキッカケにテーバイは陥落することになった。



ペルディッカスは有能かつ豪胆で、アレクサンドロス3世の信頼が特に厚い人物であった。

ペルディッカスの豪胆さを表す逸話として、ペルディッカスがライオンの巣になってる洞窟に入っていくと、驚いたライオンが仔を連れて出ていったというものがある。

ペルディッカスには猛獣ですら危険を感じるオーラが漂っていた。




マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。

グラニコス川の戦い

ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍は、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定め、エジプト征服後の紀元前331年には「ガウガメラの戦い」で3倍以上の圧倒的な戦力差をものともせず、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡は決定的となる。



ペルディッカスはこうしたペルシア侵攻後の主要な戦闘で重装歩兵部隊を指揮し続けた。
特に「ガウガメラの戦い」では瀕死の重傷を負うほどに勇猛果敢に奮戦した。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍がインドを目指すことになると、ペルディッカスはヘファイスティオンと同様に、別働隊を率いてマケドニア軍本隊の進軍ルートにある拠点という拠点を武力制圧および降伏勧告をして支配下においていった。



アレクサンドロス3世にとって最後の主要な一戦となる「ヒュダスペス河畔の戦い」を経た紀元前325年、町に立て籠るマッロイ人への攻撃にマケドニア軍は苦戦する。

アレクサンドロス3世は軍勢を二手に分け、その片方の指揮をペルディッカスに任せた。
戦場におけるペルディッカスはNO.2として重用されていた。



しかし、ゲリラ戦に消耗したマケドニア軍は、インドを引き返すことになり、紀元前324年にスーサに帰還した。

アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンが病死すると、ペルディッカスはヘファイスティオンの遺体を託されバビロンで葬儀を上げた。





そして、病気で倒れたアレクサンドロス3世は臨終の際に、王の証でもある印綬の指輪をペルディッカスに渡した。

アレクサンドロス3世7
  
アレクサンドロス3世

これにより、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の後継者として主導権を握り、まだ生まれぬ王妃ロクサネの子(アレクサンドロス4世)の暫定的な後見人として、帝国の実質的なトップとなる。


アレクサンドロス大王の死後、当初はこのようにその一族を担ぐ動きがあったが、担がれた者や担がれる可能性のある者はことごとく殺され、徐々に後継者争いは純粋な勢力争いとなっていく。



その後、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟アリダイオスを推すメレアグロスを殺害し、エウメネスと共にカッパトギアの王アリアラテス1世を倒し、自らの発言力と存在感を高めていった。



一方、東方遠征の際にマケドニア本国の留守を任されていた老臣アンティパトロスは、アレクサンドロス3世の死に乗じて反乱を起こしたアテナイ・アイトリア・テッサリアを鎮圧し、ギリシア世界での存在感を増していた。


ペルディッカス

ペルディッカスは自らの立場を安定させるため、アンティパトロスの娘ニカイアと婚約をする。


しかし、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラ(念のために有名なクレオパトラではない)との縁談を、ペルディッカスに取り入ろうとするアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが持ちかける。


ペルディッカスは、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄して、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラと結婚しようとした。



激怒したアンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけ、ペルディッカスへの対立姿勢を明確にした。


ペルディッカスの側には、カッパトギア太守エウネメスなどが味方した。


そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスが奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、埋葬された場所は神聖化する。

後継者を主張するペルディッカスにとって、プトレマイオスの行為は看過できるものではなかった。



ペルディッカスは局地戦の指揮をエウメネスに一任し、自らはプトレマイオスを討つべくエジプトへと向う。


しかし、ナイル川渡河に失敗すると、ペルディッカスの統率能力に不安を感じたセレウコスらの部下によって暗殺された。


それは、猛獣すら恐れる豪傑が、女が原因で失墜した瞬間でもあった。




ペルディッカスの死により、老臣アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守となった。


アレクサンドロス帝国の後継者争いは続いていく。

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