アメリカ史
同年10月、ゴンザラス郡へ向かう途中、黒人警官隊3人に捕まるが、逆に3人を射殺する。
ホリディはペンシルベニア歯科大学で歯科医の資格を取得、アトランタで医院を開業するが、まもなく肺結核となり、病気を悪化させないため、より乾燥した西部への移住を決意する。
ワイアット・アープ
ワイアットの保安官ぶりは暴力的ではあったが、ほとんど拳銃を抜かずに、相手を威圧し去ったという。
ドク・ホリディ
ところが3ヶ月後、兄ヴァージルがトゥームストーンの保安官に就任したため、ワイアットも弟モーガンと共に保安官補佐となって兄ヴァージルを助けた。
4歳年上の兄フランクは、南北戦争が始まると、悪名高いウィリアム・クワントレルの南軍ゲリラに参加する。
南北戦争が終わると、クワントリル・ゲリラに属した者は、無法者として追われる身になったため、ジェシーは兄フランクや元戦友のヤンガー4兄弟(コール、ジム、ジョン、ボブ)らと共に「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」を結成し、北部系の銀行や鉄道を次々と襲い、強盗や殺人を繰り返した。
ウィリアム・クワントレル
「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」の主な犯罪歴を挙げると
コール・ヤンガー
一方で、ジェイムズ兄弟は逃走に成功し、ほとぼりが冷めた後にフォード兄弟(ボブ、チャーリー)を仲間に加えて、再び強盗をくりかえした。
1848年2月5日、ベル・スター、本名はマイラ・ベル・シャーリーはミズーリ州カーセッジ近くの農園主の娘として生まれた(父親は判事だったという説もある)。
ベルの家は裕福だったようで、上流階級が通う女学校で、正規のカリキュラムの他、音楽や古典語を学び優秀な成績を収めたという。
しかし、南北戦争が始まると、一家は戦乱を避けてテキサスへ移住し、そこでベルは兄バドから乗馬や射撃を習った。
兄バドは南北戦争に従軍し、ジェシー・ジェイムズやコール・ヤンガーと共にクワントリル・ゲリラの一員として活動し、1864年、バドは北軍に急襲されて死亡する。
ベルは愛する兄を失った。
南北戦争後、ベルの一家はテキサス州ダラス南東の小村に移住して農場を経営し、そこへ逃げ込んできた元南軍兵士の無法者達を匿うようになる。
1866年、18歳のベルは、そうした無法者達の中の一人で強盗をしてミズーリから逃げてきたコール・ヤンガーと愛し合うようになり、二人の間には娘パールが生まれた。
ベルとコール・ヤンガーはダラスで2年間過ごすが、やがてコール・ヤンガーはジェシー・ジェイムズの呼び出しに応じてミズーリへ戻ってしまう。
コール・ヤンガー
コール・ヤンガーに捨てられた格好となったベルは、すさんだ生活を送るようになり、馬泥棒のジム・リードと知り合い、一緒に暮らし始める。
悪の道へと足を踏み出したベルは、ジム・リードと強盗稼業の日々を送るようになり、1874年、指名手配を受けたジムはテキサス州パリスで保安官に射殺された。
1880年、32歳となったベルは、チェロキー・インディアンとの混血サム・スターと結婚し、以後、ベル・スターと名乗るようになる。
サム・スターもまた強盗稼業を生業としていた男で、サム・スターとベルはギャング団を率いてオクラホマ一帯を荒らしまわった。
1883年、フォートスミスで二人は捕まり、「首吊り判事」として有名なアルトン・パーカー判事に裁かれることになったが、意外なことに一年の刑で済み、出獄後、二人はまたもや当然のごとく悪事を重ね、サム・スターは居留地の保安官と撃ち合って殺される。
サム・スターを殺されたベルは、ギャング団の一員ジム・ジュライと結婚するが、その3年後、官憲の追及が厳しいので自首しようとしたところ、仲間のエドガー・ワトソンに背後から撃たれて殺された。
ベルは決してズボンをはかず、上質のドレスを身に着けた貴婦人スタイルで馬に乗り暴れ回っていたので、その特異な姿と雰囲気から当時の新聞は「クイーン・オブ・ザ・バンデッド」などとセンセーショナルに書き立てた。
その「クイーン・オブ・ザ・バンデッド」のイメージが、多くの伝説に尾ヒレをつけて脚色され「ダラスの酒場で博打や飲酒に溺れて街中で馬を乗り回しながら拳銃を撃ちまくっていた」「男装して店に放火したり銀行を襲ったり、銃で脅してポーカーの掛け金を巻き上げていた」「頭領として馬賊を率いていた」といった当時の新聞や裁判記録などの公的な記録からは見当たらない話が広がる。
しかし、ベルの40年の生涯を見ると、愛した男がいずれもならず者で、一途にその男に引っ張られるようにして悪事を重ね、ベル自身にはそこまでの凶悪性はなかった。
そんなベル・スターを取り上げた映画作品がある。
アーヴィング・カミングス監督「女傑ベル・スター」(1941年、出演ジーン・ティアニー)
コール・ヤンガーは、西部開拓史上に名高い「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」の主要メンバーであるヤンガー兄弟(コール、ジム、ジョン、ボブ)の長男で、1844年1月15日、ミズーリ州に生まれた。
18歳の時、後に女賊として有名になるベル・スターと結婚し一子をもうけるが、南北戦争の勃発で二人の結婚生活は短期間に終わる。
やがてコールは兄弟たちと共に、ウィリアム・クワントレルの南軍ゲリラに参加し、ミズーリ州やカンザス州を転戦して、殺人や盗みの腕を磨いていく。
そして、このゲリラ仲間にはジェイムズ兄弟(フランク、ジェシー)もいた。
ウィリアム・クワントレル
南北戦争が終わるとヤンガー4兄弟とジェイムズ兄弟は、元ゲリラ隊の上司だったアーチー・クレメントの指揮下で北軍施設などを襲ううちに武装強盗団化していく。
そして、アーチー・クレメントが民兵隊に殺されたあと、ヤンガー兄弟とジェイムズ兄弟がこの武装強盗団で存在感を増していき、1868年頃には「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」として活動するようになる。「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」のメンバーはジェイムズ兄弟、ヤンガー4兄弟、クレル・ミラー、チャーリー・ピッツ、ジョン・ジャレット、ビル・チャドウエルなど10数名だった。
アーチー・クレメント
1871年6月、コールたちはアイオワ州マリドンの銀行を襲う。
銀行はピンカートン探偵社に連絡し、以来ピンカートン探偵社が「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」を追跡するようになった。
そして、1874年3月、ミズーリ州モーンゴースプリングスに近い田舎道で、ピンカートン探偵社の3人とヤンガー兄弟のジョンとジムが遭遇し、ジョンが射殺される。
ピンカートン探偵社側は一人が逃亡、残る二人は殺された。
1876年7月、「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」はミズーリ州オッタービル近くのロッキーカットでパシフィック鉄道を襲い、その2ヶ月後の9月7日、ノースフィールド第一国定銀行を襲撃する。
襲撃メンバーはジェイムズ兄弟、ヤンガー3兄弟、チャーリー・ピッツなど8人だったが、事件に気づいた地元住民の反撃に遭い二人が殺され、他のメンバーも全員が負傷した。
結局、「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」はジェイムズ兄弟とヤンガー兄弟&チャーリー・ピッツの二手に分かれて逃走し、自警団は数百人で一味を追う。
9月21日、ミネソタ州マディラでコール達は自警団と激しい銃撃戦を繰り広げたが、チャーリー・ピッツが殺されたうえにヤンガー兄弟も負傷し、コール達はついに降伏した。
ヤンガー3兄弟は終身刑を宣告され、末弟のボブは刑務所で結核のため36歳で死亡する。
ボブ・ヤンガー
コールとジムは25年後の1901年に釈放されたが、ジムは翌年に拳銃自殺を遂げた。
ヤンガー4兄弟で唯一の生き残ったコール・ヤンガーは、1903年に自叙伝を出版、さらに西部開拓時代随一の興行主バッファロー・ビルの主催する「ワイルド・ウェスト・ショウ」に参加して各地を巡業する。
コールは晩年、過去の罪を悔いてキリスト教に帰依し、1916年3月21日、ミズーリ州の自宅にて72歳で永眠。
西部開拓史上に名高い「ジェイムズ=ヤンガー・ギャング団」の主力メンバーであったコール・ヤンガーは、その後、多くの映画作品で登場する。
ニコラス・レイ監督「無法の王者ジェシイ・ジェイムズ」(1957年、出演アラン・ヘイル・ジュニア)
フイリップ・カウフマン監督「ミネソタ強盗団」(1971年、出演クリフ・ロバートソン)
ウォルター・ヒル監督「ロング・ライダーズ」(1980年、出演デヴィッド・キャラダイン)
ロバート・ボリス監督「ワイルド・ガンズ」(1994年、出演ランディ・トラヴィス)
レス・メイフィールド監督「アメリカン・アウトロー」(2001年、出演スコット・カーン)
ClubT ジェシー・ジェイムズ 「劇団Camelot」
(Tシャツ 税抜3200円,長袖Tシャツ,ジップパーカー など)
ワイルド・ビル・ヒコックは1837年5月27日、イリノイ州トロイ・グローブで生まれる。
本名はジェームズ・バトラー・ヒコックだが、高い鼻とややめくれあがった上唇から「ダック・ビル(鴨の嘴)」を縮めて「ビル」と呼ばれた。
18歳の時、運河の建設現場で殺人未遂を犯して逃亡する。
その頃、アメリカ合衆国の34番目の州として昇格するまで準州とされていたカンザスは、奴隷制度を擁護しようとする 南部を中心とした奴隷州と、奴隷制度の廃止を訴える北部を中心とした自由州の紛争の焦点であった。
ヒコックはこのカンサス準州で起こった北部派と南部派の抗争に参加し、1861年7月、南部派の10人に襲撃されるが、なんとヒコックは6人を射殺、一人を殴り殺し、残る3人をナイフで刺殺すると鬼神のような強さを見せ、この事件はその後「ロック・クリークの殺戮」として有名になる。
南北戦争が始まると、ヒコックは北軍に入り、偵察兵(スカウト)として活躍した。
除隊後、ヒコックはミズーリ州スプリングフィールドでディーブ・タットという男と決闘して殺し、これが作家ワード・ニコルスに知られると「ロック・クリークの殺戮」をクライマックスとする実録「ワイルド・ビル」が雑誌「ハーパーズ」に掲載され大評判となる。
翌年、ヒコックはリイ砦で連邦保安官補佐に任命され、ついで大胆不敵な戦い振りで有名なカスター大佐が率いる第七騎兵隊に偵察兵として参加すると、カスター大佐はヒコックのことを「男の中の男だ」と激賞する。
ジョージ・アームストロング・カスター
その後、ヒコックはカンザス州ヘイズ・シティの保安官となり、190cmを越える長身でカスタムメイドのブーツを履き、黒い帽子からは肩まで垂らした長髪、肩幅は広く腰は細い、ガンベルトには愛用のスミス&ウエッソン、威厳を示す口ひげ、灰色の鋭い目というイデタチで勇名を馳せた。
ヒコックはさらに各地の保安官を務め、猫のようにしなやかな身のこなしで拳銃を引っこ抜き、正確に相手の胸を射抜き、無法者に対して容赦なく銃弾を浴びせる。
本人によれば6年間に36人を殺したという。
この数字は大げさかもしれないが、事実関係がハッキリしているだけでも9人を殺しているのも確かである。
ヒコックによるあまりに暴力的なやり方は、当然のごとく治安維持の成果を大きく上げ、テキサス州アビリーンの保安官を勤めた時は、通常の3倍の給料を得た。
1872年、ヒコックは西部開拓時代随一の興行主バッファロー・ビルの主催する「西部ショウ」に参加すると、自分自身の役を演じるなどショービジネスの世界でも活躍する。
その後さらにガイドや賭博で生活するが、視力の衰えを来たし、次第に仕事での精彩を欠くようになっていった。
そして、1876年8月2日、サウス・ダコタのデッドウッドの酒場でカード・ゲームをしている最中、ジャック・マコールという男に背後から後頭部を撃たれて39歳で死亡する。
因みに、この時ヒコックが手にしていたカードは黒のAと8のツーペアで、この事件後、その手札は「デッドマンズ・ハンド」と言われるようになった。
とにかく強過ぎた保安官ワイルド・ビル・ヒコックの魅力的な生涯は、その後、多くの映画作品にも取り上げられる。
セシル・B・デミル監督「平原児」(1936年、出演ゲーリー・クーパー)
ジュリー・ホッパー監督「ミズーリ大平原」(1953年、出演フォーレスト・タッカー)
アーサー・ペン監督「小さな巨人」(1971年、出演ジェフ・コリー)
J・リー・トンプソン監督「ホワイト・バッファロー」(1977年、出演チャールズ・ブロンソン)
ウォルター・ヒル監督の「ワイルド・ビル」(1995年、出演ジェフ・ブリッジス)
新大陸アメリカに、法や秩序よりも先に無限のチャンスを求めた多くの人々が移動した西部開拓時代は、人間の欲と本能がムキだしとなる厳しい生存競争が繰り広げられました。