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アメリカンショートヘア

大村 純忠 (長崎)

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1533年、肥前日之江城主・有馬晴純の次男として生まれる。

 

大村純伊から家督を継いだ大村純前には男子がなく、純忠の母は大村純伊の娘であったため、1538年に純忠は大村純前の養子となった。

 

しかしその後、大村純前は側室との間に実子の又八郎(後の後藤貴明)が誕生するが、有馬氏と大村氏の両家の関係は有馬氏の方が大村氏よりも強かったため、大村氏は有馬氏をはばかって又八郎を後藤氏へ養子に出し、1550年に純忠が家督を継ぎ、大村氏第18代当主となる。

 
肥前日之江城

 

このため、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家に養子に出された後藤貴明(又八郎)は、純忠に強い恨みを持ち、終生、敵意を持った。

 

一方で実子を押しのけて家督を継いだ身である純忠も、アウェイ感の強い状況でプレッシャーを感じながら大村氏の当主を務めることになる。

 

 

1561年、松浦隆信が治める平戸港そばの露店で、ポルトガル商人と日本人の争論からポルトガル人殺傷に至った「宮ノ前事件」が起こると、純忠は新たな交易港を探していたポルトガル人に自身の治める横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出た。


長崎県西海市

イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、さらにイエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかり、仏教徒の居住禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったことで横瀬浦はポルトガル商人の寄港地として賑わい、大村氏の財政も大いに改善される。

 
横瀬公園

 

1563年、宣教師からキリスト教について学んだ純忠は、コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、洗礼名バルトロメオとして日本初のキリシタン大名となった。

 

純忠は領民にもキリスト教信仰を奨励し、その結果、大村領内では最盛期のキリスト教信者は6万人を越え、日本全国のキリスト教信者の約半数が大村領内にいた時期もあった。

 
イエズス会

 

純忠のキリスト教への入信は、弱小である自国が後藤貴明という明確な敵や急激に台頭してきた龍造寺隆信に対抗するため、ポルトガル船のもたらす利益や武器が目当てだったという面が強く、西洋の武器を手に入れる為の取引材料として、キリスト教への改宗を拒否した者達が奴隷として海外へ売り渡されたりもしている。

 

しかし、純忠は信仰心そのものも強く、洗礼を受けた後、正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、これを機に側室を退け、以後はおゑん以外の女性と関係を持たなかった。

 

さらに、その信仰心とポルトガル人からの利益があいまって、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊し、キリスト教への改宗を拒否した仏僧は追放するなど、仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行い、家臣や領民の反発を招くことになる。

 

大村純忠2
 
大村氏の家督相続の因縁で純忠に恨みを持つ後藤貴明は、キリスト教に傾倒する純忠に不満を持つ大村家の家臣団と結託して反乱を起こし、焼き払われた横瀬浦が壊滅した。

 

そのため、純忠は1565年に福田浦を開港し、1570年には当時まだ寒村にすぎなかった長崎をポルトガル人のために新たな寄港地として与え、この長崎は以降良港として大発展していくことになる。

 

福田浦
 

1572年、後藤貴明は平戸城主・松浦隆信、高城城主・西郷純堯の援軍を得て1500の軍勢で、女子供含めて約80名しかいなかった純忠の居城である三城城(現長崎県大村市三城町)を急襲した。

 

純忠はこのような不利な状況で譜代7名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)を中心に婦女子も石を投げる奮闘で防戦し、富永又助、長岡左近、朝長壱岐らの援軍が三城城に到着すると、後藤貴明らは撤退を余儀なくされ、絶体絶命の中で三城城を守りきり、このエピソードは後年「三城七騎籠」と称されることになる。

 

三城跡
 

1578年、長崎港が龍造寺氏らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退し、1580年に長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した。


天正遣欧少年使節
 

1582年、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーニと対面した純忠は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した天正遣欧少年使節の派遣を決める。

 

天正遣欧少年使節はキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の代理人として4名の少年が中心となり、使節団の中には純忠の甥にあたる千々石ミゲルもいた。

 

天正遣欧使節は1584年にスペインでフェリペ2世に謁見し、1585年には教皇グレゴリウス13世に謁見する。

 

これによってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。

 

グレゴリウス13世
 

純忠には洗礼名を持つ4人の息子、喜前(サンチョ)・純宣(リノ)・純直(セバスチャン)・純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫から喜前(サンチョ)を除く3人が人質に取られ、大村氏は龍造寺氏に対してほぼ従属状態となる。

 

 

それまで九州で成立していた九州三強(島津氏・龍造寺氏・大友氏)から大友氏が脱落すると、島津氏と龍造寺氏が争う二強時代となり、1584年、肥前島原半島で龍造寺隆信と島津家久・有馬晴信が決戦した「沖田畷の戦い」で、龍造寺氏は総大将の龍造寺隆信を筆頭に多くの重臣が討ち死にして総崩れとなり、佐賀城に向けて撤退した。

 

「沖田畷の戦い」の結果により、龍造寺氏の傘下にあった勢力は一気に島津氏に寝返り、島津氏の勢力は筑前・筑後まで拡大し、以後、九州は島津氏が最大勢力として君臨するようになる。

 

龍造寺氏に従属状態であった純忠だが、島津氏とともに龍造寺氏と戦った有馬氏は親族であるため、戦いには空鉄砲を撃つほどに消極的だったので「沖田畷の戦い」後に、大村氏は島津氏の追撃も受けずに開放された。

 

沖田畷の戦い
 

1587年、純忠は咽頭癌と肺結核に侵されて重病の床であったので、代わりに19歳の嫡子・喜前(サンチョ)を豊臣秀吉の九州平定に従わせることで、領地を保証される。


豊臣秀吉

   豊臣秀吉

病で衰えた純忠は神父を呼んではたびたび来世の事を話して欲しいと願い、それを聞きながら大いに満足して涙を流したという。

 

死を悟った純忠は、領内に拘束していた捕虜200名を釈放し、死去の前日には可愛がっていた小鳥を侍女に命じて籠から逃がしたが、この時、侍女が小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにするが、怒る事は神の意思に反すると思いなおし「小鳥はデウス様が作られたものであるから、今後とも愛情をもって扱ってほしい」と言って侍女に立派な帯を与える。

 

 

弱小国を歓迎されない形で継ぎ、様々なストレスに襲われ続けた純忠は、坂口館(長崎県大村市荒瀬町)55歳にして死去した。

 

坂口館
 

その後、豊臣秀吉によってキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する「バテレン追放令」が出される。

 

もともと織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した理由は諸説あるが「キリスト教が一向一揆のように反乱につながるのを防ぐため」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため」「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたため」「秀吉が連れてくるように命じた女性がキリシタンであることを理由に拒否したため」などとされている。

 
バテレン追放令

また、純忠の生前の暴走ともいえるキリスト教信仰および優遇も遠因ではあったかもしれない。




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三好 長慶 (徳島)

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1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




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尼子 経久 (島根)

尼子経久700x1000

1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。

 

それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。


応仁の乱
 

1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この間に元服する。

 

経久は京都での滞在生活を終え、出雲に戻った後、父から家督を譲られた。

 

 

経久は尼子家の当主になって以降、次第に国人衆(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)との結束を強くし、この過程で室町幕府の命令を無視して京極政経の寺社領を押領するなどして独自に権力基盤を築く。

 

尼子経久2

しかし、こうした権力基盤の拡大は室町幕府や主君・京極政経の反感を買い、1484年、経久は居城を包囲され、守護代の職を剥奪される。

 

守護代の職を失っても経久は出雲で一定の権力を保持しており、1488年、経久は三沢氏(出雲の国人)を攻撃して降伏させた。


尼子経久2a
 

1500年、経久は守護代の地位に返り咲くと、近江国(滋賀県)において起こった京極氏の家督相続を巡るお家騒動で敗れた京極政経との関係を修復させる。

 

1508年、京極政経が死去すると、経久は出雲大社の造営を行い、宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の支配者としての地位を固めていく。

 

 

京極政経は孫の吉童子丸に家督を譲り、関係を修復させた経久にその後見を託したが、程無くして吉童子丸は行方不明となり、経久は事実上の出雲の支配者となる。

 

出雲大社
 

尼子氏にとって、中国地方で一大勢力を築いていた大々名である大内氏との関係は大きな問題であった。

 

 

1511年、大内氏当主・大内義興が細川高国ととも室町幕府将軍・足利義稙を擁立し、それに対抗して前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元が戦った「船岡山合戦」に、経久は大内義興に従って参加する。

 
船岡山合戦
 

この頃、経久の次男・尼子国久は細川高国から、経久の三男・塩冶興久は大内義興から偏諱(将軍や大名が功績のあった者などに自分の名の一字を与える)を受けており、経久は両者(大内義興・細川高国)との関係を親密にしようとしていた。


大内義興
  
大内義興

しかし、一方で、経久は1512年に大場山城(広島県福山市本郷町)主・古志為信の大内氏への反乱を支援していたり、1517年に大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護であった山名氏と手を結んで大内氏領の城を攻めるなど、次第に大内氏の影響下にある石見や安芸への野心を見せるようになる。

 

なぜなら、備後国(広島県の東半分)の山内氏や安芸国(広島県西部)の宍戸氏など国境を接する領主達の出雲国内への影響力は無視できないもので、経久が出雲国支配を安定させるうえで備後・安芸への進出を視野に入れないわけにはいかなかった。

 

大場山城
 

1520年、経久は出雲国西部の支配を確立させると、ついに石見国(島根県西部)、安芸国に侵攻し、ここから、北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才といわれた経久が、領地を広げ、尼子氏の全盛時代を作っていくことになる。

 

 

1523年、経久の重臣・亀井秀綱の命で、この時まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に、大内氏の拠点である鏡山城(広島県東広島市)を攻めさせた。

 

毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である毛利元就は、鏡山城内への寝返り工作を謀るなどして、見事に鏡山城を落城させる。


鏡山城
 

ところがこの後、毛利元就の異母弟・相合元綱らが毛利元就の暗殺を計画すると、相合元綱が尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾にしていたことから、毛利元就の暗殺計画に経久の意志が絡んでいることは明白であったため、暗殺計画に気付いた毛利元就は相合元綱を殺害すると、尼子氏との関係を解消して大内氏に鞍替えすることになった。

 

 

1524年、経久は伯耆(鳥取県中部・西部)に侵攻すると、伯耆羽衣石城主・南条宗勝を破り、さらに伯耆守護・山名澄之を敗走させる。

 
伯耆羽衣石城
 

1526年、伯耆・備後の守護職であった山名氏が反尼子であることを鮮明にし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲されるという窮地に立たされた。

 

 

1527年、経久は備後国へと兵を出兵するも大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)に敗れたため、尼子側であった備後国人の大半が大内氏へと寝返っていく。

 

1528年、再び経久は備後国へと出兵し、多賀山氏の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を陥落させるも、石見国における尼子側の高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされる。


蔀山城
 

そして1530年、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けた経久の三男・塩冶興久が、反尼子を鮮明にして大規模な反乱が勃発した。

 

 

経久はこの危機を大内氏の支援を仰ぐなど、巧みな処世術を駆使して切り抜け、1534年にこの反乱を鎮圧し、塩冶興久は自害に追い込まれる。

 

 

経久は長男・政久を早くに戦いで失っており、さらにこの反乱で三男・塩冶興久を失い、尼子氏は大きなダメージを負った。

 

塩冶興久の遺領は経久の次男・国久が継いだ。


尼子経久1
 

その後、経久の孫・尼子晴久(経久の長男・政久の次男)が美作国(岡山県東北部)へと侵攻して、ここを尼子氏の影響下に置くと、さらに備前へと侵攻するなど東へと勢力を拡大していった。

 

この後、尼子晴久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加する。

 


1537年、経久は家督を孫の尼子晴久に譲るが、第一線から身を引いたわけではなく、経済的に重要な拠点である大内氏が所有していた石見銀山を奪取した。

以後、この石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになる。


石見銀山

さらに、経久は東部への勢力を拡大すべく播磨守護・赤松政祐と戦い大勝する。



しかし、1539年、大内氏が尼子氏側の武田氏の佐東銀山城(広島市安佐南区)を落城させ、当主の武田信実は若狭国(敦賀市を除いた福井県南部)へと逃亡した。

 

 

1540年、武田信実の要請もあり尼子晴久は大内氏との早期決戦を目指して、大内氏側の毛利氏を討伐すべく出陣する。


佐東銀山城

尼子軍は諸外国からの援兵も加わり
3万騎へと膨れ上がり、大軍で毛利氏の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)を包囲する有利な形勢であったが、翌年、攻めあぐねるうちに陶隆房率いる大内軍2万騎の到着を許して大敗を喫し、尼子氏は安芸での基盤を失う。

 

この頃、経久から家督を継いだ尼子晴久や経久の次男・国久が尼子氏の軍事の中心を担っていたが、彼らには経久ほどの器量はなかった。

 

尼子晴久
  
尼子晴久

1541年、82歳の経久は、尼子氏の先行きを案じながら居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)で死去する。

 

月山富田城
 
経久の死後、大内義興の後を継いだ大内義隆が大軍で出雲に攻め込むが、大内側の吉川興経の裏切りにあったことにより大内義隆は撤退を余儀なくされた。

この裏切りは生前に経久が仕込んでおいた策略である。

 

大内義隆
  
大内義隆
 

「塵塚物語」によると、経久は持ち物を家臣に褒められると喜んで、高価なものでもそれを褒めた者に与えてしまうため、気を使った家臣達は経久の持ち物を褒めないようにしていたが、ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思って褒めると、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めるも、経久はとうとう松を切って薪にして渡したという。

 

 

また、冬には着ている物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。




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豊臣 秀吉 (大阪)

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1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。

 

頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。


松下之綱
  
松下之綱

1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。

織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。

 

秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。

 

織田信長
  
織田信長

1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。

 

この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。

 

「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。


稲葉山の月

1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。

 

 「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。

 

立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。

 

長浜城
 

1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。

 

柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。

 

秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。

 

しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。

 

秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。

 

柴田勝家2
  
柴田勝家

一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。

 

名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。

 

 

1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。

 

自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。

 

秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。


高松城水攻築堤

その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。

 

最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。

 

これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。

 

両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は21となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。

 

実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀

後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。

 

長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。

 

柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。

 

すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。

 

 

「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。

 

三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。


三法師
  
三法師
   

しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。

 

両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。


お市
  
お市
 

 「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。

 

実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。

 

「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。

 

なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。

 

柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。

 
 

足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。

 

 

一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。

 

秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。


賤ヶ岳の戦い
 

そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。

 

 

そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。

 

秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。

 

 

ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。

 

この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。


佐久間盛政
  
佐久間盛政
 

実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。

 

 

夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。

 

勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。

 

 

沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。

 

 

午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。

 

不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。

 

 

秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。

 

豊臣秀吉1
 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。

 

北条氏は5100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。

 

 

北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。


小田原城
 

1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。

 

秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。

 

秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。

 

しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。

 

 

そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。

 

秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。

 

池田恒興
  
池田恒興
 

その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。

 

すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。

 

関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。

 

徳川家康
   
徳川家康

さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。

 

秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。

 

こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。

 

 

一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。

 

徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。

 

北条氏直
  
北条氏直
 

この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。

 

秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。

 

さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。

 

それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。

 

 

秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。

 

刀狩り
 

1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。

 

 

真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。

 
名胡桃城
 

秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。

 

 

秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。

 

 

その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。

 

 

かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。

 

北条氏政
  
北条氏政

箱根を越えた秀吉軍は、北条軍57000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。

 

 

秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。

 

秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。

 

この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。

 

 

小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。

 

伊達政宗
  
伊達政宗
 
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。

 

 

1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。

 

すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。

 

一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。

 

 

秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。

 

石垣山城
 

1591年、秀吉は明(13681644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。

 
文禄の役
 

1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、64000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。

 

その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。

 

慶長の役
 

1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。

 

その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。

 

豊臣秀頼
  
豊臣秀頼
 

秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。



 

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佐々 成政 (富山)

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成政は、尾張国春日井郡比良城
(現在の名古屋市西区)を拠点にしていた佐々成宗の子で兄達が相次いで戦死したため、1560年に家督を継ぎ、比良城主となる。

 

比良城

織田信長に仕え、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令をする「馬廻」から戦功を重ねて頭角を表していく。

 

 

1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、斎藤龍興の軍6000を織田軍1500が味方を三手に分け挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、成政は敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。


森部の戦い
 

1567年、武芸に秀でた馬廻からさらに選抜された豪のエリートが信長直属の使番を務める「黒母衣衆」に抜擢される。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利する「姉川の戦い」に先立つ「八相山の退口」で成政は、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)に参加し、鉄砲隊を用いて大活躍した。

 

 

1574年、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起し、織田信長と激しい合戦が起こった「長島一向一揆」との戦いで長男・松千代丸を失う。

 

長島一向一揆

1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐって、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000と戦った「長篠の戦い」では、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に、この戦いの語り草ともなっている鉄砲隊を率いた。

 

 

 

 

1575年、織田信長は越前国制圧後、成政・前田利家・不破光治の3(府中三人衆)に越前府中10石を与え、成政は小丸城(福井県越前市)を築いて居城とし、北陸方面の軍団長となった柴田勝家を支えた。

 

府中三人衆は柴田勝家を支えながらも、半ば独立した遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍する。

 

 

 

1578年、軍事の天才・上杉謙信が能登に侵入し、織田信長にとって最大の危機が迫った際には、成政は柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城(石川県七尾市古城町)が上杉謙信に落とされると撤退した。

 

 

1580年、親上杉氏政策を維持しようとした父と対立し、京都に上って織田信長に仕えた神保長住をサポートして、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国の平定に尽力し、この頃に成政は、立山の雪解け水により常願寺川が氾濫して大洪水を引き起こすことを防ぐため、馬瀬口に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築造して水害を減少させる。


佐々堤
 

1581年、神保長住が失脚したことにより、長政は富山城を居城とする一国守護となって、富山城の大規模な改修をおこなう。

 

 

成政は新規の家臣を召抱える際、最初に提示したよりも多くのサラリーを与える事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかった。

 

また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく実績や武勇を重視し、その話を聞くのが大好きであったといわれている。

 

富山城
 

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、成政が拠点としていた北陸方面は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略した(魚津城の戦い)ばかりであったため、成政は上杉軍の反撃への防戦で身動きが取れなかった。

 

 

 

豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)は対峙していた毛利氏と和睦し、いち早く畿内に戻り(中国大返し)、明智光秀を討ち果たす手柄をたてる。

 

そのため、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化し、成政は柴田勝家の側についた。

 

柴田勝家
  
柴田勝家
 

1583年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)で豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、成政は上杉氏への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すことが出来ずに終わる。

 

 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉は、織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づける。

 

成政は剃髪して秀吉に降伏し、娘を人質に出すことで、越中一国を安堵された。

 

 

こうした経緯から、富山県呉東地区では「賤ヶ岳の戦い」で上司である柴田勝家を裏切った前田利家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた成政の人気が高い。

 

 

 

豊臣秀吉が織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に戦った「小牧・長久手の戦い」では、成政は当初は豊臣秀吉の側につく姿勢をみせていたものの最終的には織田信雄・徳川家康の側につき、豊臣秀吉の側に立った前田利家の末森城を攻撃する(末森城の戦い)

 

末森城の戦い
 

この頃の成政は、越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ、その戦いは厳しいものであった。

 

 

ところがそんな成政の苦労とは裏腹に、豊臣秀吉と織田信雄の間で和議が成立し、徳川家康が停戦すると、このままでは立場が危うくなる成政は厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと向かい、徳川家康に再挙を促す。

 

この決死の行動と懇願は「さらさら越え」と呼ばれ、伝説化している。
 

佐々成政1
 

しかし、徳川家康の説得には失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったため、1585年、富山城は豊臣秀吉によって10万の大軍で包囲され、成政は降伏した(富山の役)

 

 

成政は一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、政治や軍事の相談役である「御伽衆」として豊臣秀吉に仕える。

 

 

 

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」で功をあげた成政は、1587年、肥後一国を与えられるという復活劇を成し遂げた。

 

佐々成政
 

しかしながら、早急に改革に乗り出した成政は肥後国人の反発を受け(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、その失政の責任から摂津国尼崎法園寺にて切腹。

 

 

成政は正確な生年が不詳であるが、没年は51歳くらいとされている。

 

 

 

成政には早百合という美しい側室がいたとされ、早百合が懐妊した際に「早百合の子どもは成政様の子ではない。」と言う噂が流れた。

 

成政は烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿い(富山県富山市磯部町)で殺し、さらに早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にする。

 

また、早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら佐々家は滅亡する。」と呪いの言葉を残したため、佐々瑞雄(成政の甥)は母から「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません。」と言われていたという。

 

早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといわれた。

 

富山県富山市磯部町

この話以外にも、勝者である豊臣秀吉や前田利家に悪評を創作され、評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残され、成政はとかく過小評価を受けがちであるが、その豊臣秀吉や前田利家ですら軍事指揮官としての力量ばかりは認めざるをえず、多くの賞賛の記録が残っている。




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新田 義貞 (群馬)

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新田氏本宗家の
7代当主・新田朝氏(にったともうじ)の嫡男として生まれた。

 

義貞は戦死した際に3740歳であったといわれ、生年については1300年前後と考えられている。

 

義貞の育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土で、義貞はそのような風土の中で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていった。

 

 

1318年、父・朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、第8代当主となる。

 

 

新田氏は源義国(源義家の四男)の長男・新田義重に始まり、もともと広大な領地を有していたが、新田氏とは同祖の足利氏(源義国の次男・源義康から始まった)と比べると、鎌倉幕府を掌握していた北条家に冷遇され、義貞の代の新田氏はその領地も縮小していた。

 

源義国 

  源義国

1331
年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒する計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗し、幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は隠岐島に流される。

 

 

幕府に従って千早城(大阪府南河内郡)に立てこもっていた楠木正成(後醍醐天皇側)への攻撃に義貞は加わっていたが、病気を理由に無断で新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市・埼玉県深谷市の一部にあった荘園)に帰還した。

 

その後、楠木正成の討伐のために膨大な軍資金が必要であった幕府は、資金調達のために重税を集め出していたが、義貞はその徴税の使いを殺害した。

 

 

間もなく幕府が報復として新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入ると、義貞の弟・脇屋義助の主張によって幕府と積極的に対立する方針をかためる。

 

八幡荘
 

義貞はわずか150騎で挙兵すると、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所(現在の群馬県安中市)に攻め入って壊滅させ、八幡荘(現在の群馬県高崎市・安中市にあった荘園)で体勢を整えた。

 

 

そこに利根川を越えて越後国・信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流し、7,000の大軍に膨れ上がった義貞軍が鎌倉を目指すこととなる。

 

 

さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、足利尊氏の嫡男・千寿王(せんじゅおう)と久米川付近で合流した。

 

千寿王が率いていたのはわずか200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、その軍勢の規模は約20万といわれている。

 

小手指原
 

新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。

 

 

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく激戦となり、義貞軍は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退して軍勢を立て直すこととなる。

 

 

翌朝、義貞軍が久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けて戦闘が再開された後、幕府軍は分倍河原まで退却することになった。

 

 

分倍河原に布陣する幕府軍に北条泰家を大将とする10万騎が加わるが、それを知らずにいた義貞軍は突撃を敢行して返り討ちにあう。

 

 

堀兼まで敗走した義貞は、退却も検討していたが、そこへ北条氏と親しいはずの大多和義勝が6000騎を率いて義貞に加勢すると、義貞軍は分倍河原へと奇襲を仕掛け、多摩川を渡り、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に大勝利を収める。

 

新田義貞(分倍河原)
 

勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がり、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦により鎌倉の防備を固め、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置した。

 

 

鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、義貞は海岸ぞいから攻めることを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかったが、「太平記」では義貞が稲村ヶ崎の海岸で黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応してみるみる潮が引き、鎌倉へと続く砂浜が広がる奇蹟が起こり、義貞軍は鎌倉に突入できたといわれている。

 

新田義貞5

いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦の後、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させた。

 

 

1333年、北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡する。

 

 

義貞が鎌倉を陥落させるも、武士達の評価は、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくと鎌倉陥落に先んじて京都を制圧した足利尊氏の方が高く、武士達は新田よりも足利へと接近していき、義貞と足利尊氏の対立が深まっていった。

 

新田義貞6
 
1334年、後醍醐天皇が貴族や寺院の利益を考えた天皇中心の政治(建武の新政)を始め、これによって武士の不満が高まることになる。

後々、足利尊氏はその不満をまとめ上げていく。

 

 

1335年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領した(中先代の乱)

 

 

足利尊氏は後醍醐天皇の命令を受ける前に北条時行の討伐に向かい、鎌倉に本拠を置くと、武功のあった者への褒美として新田一族の所領を分け与える。

 

さらに、足利尊氏は朝廷の帰京命令に従わず「義貞と公家達が自分を陥れようとしている」と主張して鎌倉に留まった。

 

 

後醍醐天皇は、義貞に「錦の御旗」を贈って足利尊氏の討伐を命じる。

 

 

義貞は事実上の官軍(天皇および朝廷に属する軍)総大将となるものの、形式上の総大将である尊良親王(後醍醐天皇の子)の周辺には口うるさいだけの公家達がおり、加えて同時に進軍した北畠顕家は義貞よりも官位が上で指図できる立場でなかった。

 

 

そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、足利側に兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう。

 

 

新田軍は迎撃してくる足利軍に三河国矢作(愛知県岡崎市)、駿河国(静岡県静岡市駿河区)で勝利するが、箱根で大敗を喫し、伊豆から西へと逃れる。

 

 

その途中、義貞は天竜川に橋を駆けて渡った後、部下の「追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきである。」という提案に対して、「敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である。」と返答して、橋を切り落とさず、また、義貞は部下達に先に橋を渡らせ、自らは一番最後に橋を渡った。

 

天竜川
 

義貞は帰京するも、義貞を追撃する足利軍は破竹の勢いで京都まで攻め上がり、義貞らは敗北し、京都は足利軍に占領されることとなる。

 

 

しかし、奥州より上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ到着すると形勢は逆転していき、義貞が楠木正成、北畠顕家らと共に、京都へ総攻撃を仕掛けると、京都の奪還に成功した。

 

一方で、尊氏をはじめとする足利軍の主要な武将の首を挙げることはできず、敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、九州へと落ち延びる。

 

 

 

義貞は足利尊氏を追撃し、その途上で足利側の赤松則村(あかまつのりむら)の拠点である播磨を攻めた。

 

 

しかし、新田軍は赤松則村の白旗城をなかなか陥落させることが出来ず、50日近くも時間を浪費すると、着実に九州で戦力を増強した足利尊氏が30万人ともいわれる軍勢で海上・陸上の二手に分かれて再び京都を目指す。

 

 

新田軍は進撃してきた足利軍に福山城(岡山県総社市)で敗れ、義貞はさらに進撃を続ける足利軍を楠木正成と共に和田岬で迎撃する(湊川の合戦)が、海と陸からはさみ討ちにされて敗れる。

 

楠木正成は自害し、義貞は敗走することとなった。

 

福山城
 

京都を占領した足利尊氏が後醍醐帝との和平工作に着手すると、後醍醐帝もこれに応じるが、この和平交渉は義貞には知らされず、義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となる。

 

事情を知った義貞の部下である堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか。」と目に涙を浮ながら後醍醐帝の無節操を非難した。

 

 

それから間もなく、義貞が3000騎で駆けつけ、後醍醐帝を包囲すると、後醍醐帝は新田一族の功をねぎらい「和議を結んだのは計略であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐため。」と取り繕う。


後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

義貞は妥協案として、後醍醐帝の子である恒良親王と尊良親王の臣下として北陸に行かせて欲しいと提言する。

 

 

1336年、義貞は両親王らとともに北陸道を進み、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)へ到着した。

 

 

この年は通年に増して寒さが厳しい年であったことが分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、金ヶ崎城まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出す。

 

 

義貞が金ヶ崎城に入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。

 

金ヶ崎城
 

足利軍は6万の大軍で金ヶ崎を攻め、海上にも水軍を派遣して四方から包囲して総攻撃を仕掛けるが、戦いの序盤は義貞が優位に展開する。

 

 

しかし、金ヶ崎城の食料は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われ、馬を殺して食糧にしたり、死人の肉すら食べるという凄惨な状況へと追い詰められていった。

 

 

1337年になると斯波高経(しばたかつね)率いる足利軍の攻撃はより激しさを増し、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助(義貞の弟)らと連携して足利軍をはさみ討ちにしようとするが、風雪の激しさから同時に攻撃することができず、金ヶ崎城はついに陥落する。

 

 

落城に際して、新田義顕(義貞の長男)は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。

 

義貞は難を逃れて、ここを生き延びる。


新田義貞の最後

1338年、義貞の率いる50騎は、黒丸城(福井県福井市黒丸町)から出撃してきた斯波軍300と燈明寺畷(とうみょうじなわて)で遭遇し、乱戦の末、義貞は水田に誘導されて身動きが取れなくなってしまう。

 

そこに矢の乱射を受け、義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。

 

致命傷を負った義貞は観念し、自害した。

 

 


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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



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韓信 (楚漢戦争の勝敗を分けた歴史的軍事の天才)

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韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。

 

そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。

 

 

そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。

 

韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。

 

韓信5
 

そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。

 

すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。

 

その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。

 

 


 

秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。

 

 

 

 

紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。

 
 

功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

領地分配
 

韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。

 

 

そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。

 

 

しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。

 
 

ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。

 

韓信1
 
 

韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。

 

「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。

 

 

 

劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。

 

 

 

 

劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。

 

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 

2韓信
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。

 

 

韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。

 

 

韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。

 

 

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。

 

 

項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。

 

 
 

軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。

 

 

 


 

その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。

 
 

しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。

 

 

韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。

 

 

韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。

 

韓信3

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

そして、紛れもなく韓信もその一人である。

 

 

 

 

紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。

 

 

故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。


韓信4
 

 

しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。

 

 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。

 

 

警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。




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楊貴妃 (傾国の美女という汚名を着せられた天女の舞)

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楊貴妃が、絶世の美女として後世に名を残したのは、ただ美しかったからではない。

楊貴妃の美しさが中世の中国に多大な影響を与えたからである。


 

彼女はただ愛されただけである。

 
 

けれど、それで、歴史が変わった。

 

玄宗皇帝1
  玄宗皇帝

楊貴妃に多大な愛を注ぐことになる玄宗皇帝は、
8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝であった。

 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

 

科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。

 

極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。

 

 

当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったため、数日で痩せてしまう。

心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。

 

 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。


楊貴妃を愛した男は、そんな偉大なる皇帝である。

 

楊貴妃5


楊貴妃は本名を揚玉環
(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。

 

楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

 
 

その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。

 
 

後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

 

 

 

一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。

 

 

玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。

 

楊貴妃22才であった。


 

その美しさに魅了された玄宗皇帝は、なんと息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにするが、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。

 

そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

 

 

 

745年、楊貴妃は、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を玄宗皇帝に与えられ、公に後宮に入る。

 

 

そして、楊貴妃の一族も一同に大出世していき、これが後々、大きな弊害を生むことになる。


 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛、従兄の楊錡に高い地位が与えられ、3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられて毎月高額の化粧代が支給される。

 
 

極めつけが、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄 (はとこ)の揚国忠は、その後、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 

楊貴妃2

さて、楊貴妃をそばに置くようになった玄宗皇帝はすっかり楊貴妃が生活の全てになっていた。

 
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどで、その髪は艶やかで、肌はきめ細かく、体型はほどよく、あらゆる楽器を自在にこなした。

 
 

また、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その姿はまるで天女のごとく、歌声も天下一品であったと伝えられている。

 

 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、楊貴妃は趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


 

美人は三日であきるという俗言が示すように、歴史上、多くの権力者は当代一の美女をその生涯で何人も見初めてきたが、玄宗皇帝にとっての楊貴妃はその例には当てはまらない唯一無二の存在であった。

 

 

玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。

 

砂煙をあげて走り去る早馬を見た人々は、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていたほどであった。

 

 

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになり、国は大きく乱れていった。

 

 

 

 

752年、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。

 

 

そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。

 

 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、笵陽(北京)方面の軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよぶ大軍であった。                      

 

 


破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安(西安)になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

 
 

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

 

 

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

 

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。

 

楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

 

 

 

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

 

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

 

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

 

 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。


 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 

楊貴妃1
 

国が乱れたのは楊貴妃のせいではなかった。

ただ、賢明な楊貴妃は、国そのものといっても過言ではない皇帝の愛されながら、国のために自分がなにもしていない事、それを罪と理屈付けることの出来る女性だった。

 

 


やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。

また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

 

 

 

現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。

 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説
があり、土を持ち帰っていく者も多い。




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アンティゴノス1世 (アンティゴノス朝マケドニア王)

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紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。



この「グラニコス川の戦い」の後、マケドニア軍はさらにペルシアの中枢へと進軍していくが、アンティゴノスはフリュギア太守としてアナトリア地方に残され、後方の守備および支配地域の安定を任される。

この時、40代後半であったアンティゴノスは若い王にとって、責任ある仕事を任せやすい存在であった。



フリュギア太守となったアンティゴノスは、アレクサンドロス3世の去ったアナトリア地方を取り戻そうとするペルシア勢力の攻撃を3度受けたが、全て退けた。


さらに、ペルシア帝国の支配下になかった好戦的な先住民のいるリュカオニア(現 トルコ・トロス山脈の北側)を征服し、後方活動ながらもアレクサンドロス帝国の版図を広げる。

アナトリア地方



紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、アンティゴノスはバビロン太守として大都市を統治することになる。


また、その会議でアンティゴノスの親友エウメネスは、この時点でまだアレクサンドロス帝国の支配下になかったカッパトギアを征服し、そのままカッパトギア太守になることが決められた。


アンティゴノスは、エウメネスからカッパトギア侵攻の援軍を求められるが、エウメネスが後々自分に近い拠点で勢力を伸ばすことを敬遠し、援軍の要請を断った。


結局、エウメネスに協力したのは、帝国の実質的トップのペルディッカスであった。


この時、友情にヒビの入ったアンティゴノスとエウメネスは、その後、敵同士として相対することになる。



間もなくして、ペルディッカスに娘との婚約を破棄されたNO.2格アンティパトロスが、ペルディッカスと対立することになる。

アンティゴノスはプトレマイオスらと共にアンティパトロスの側につく。

一方、かつての友カッパトギア太守エウメネスはペルディッカスの側についた。



しかし、ペルディッカスはアンティパトロス派プトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、アンティゴノスが全軍総司令官に任命された。

アンティゴノス1


アンティゴノスはペルディッカス派の追討を任され、かつての友人エウメネスが太守を務めるカッパトギアを攻め、エウメネスの弟アルタケスを自害に追い込み、エウメネスをカッパトギアから逃走させた。



時を同じくして、帝国トップであるアンティパトロスが死去し、その後継者に老将ポリュペルコンが指名されていた。

アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、ポリュペルコンと対立する。



アンティゴノスはカッサンドロスの側についたため、ポリュペルコンの支援を受けて勢力を回復させようとするエウメネスを再び攻撃することになる。


紀元前316年「ガビエネの戦い」に勝利し、かつての友エウメネスを捕えたアンティゴノスは、エウメネスを味方にしようと思ったが、部下の猛烈な反対により断念せざるを得なかった。

アンティゴノスがエウメネスをいつまでも処刑できずにいたため、アンティゴノスの部下は業を煮やしてエウメネスを殺害した。


アンティゴノスはエウメネスの死を心から悲しみ、盛大な葬儀を挙げる。

 


アンティゴノスはここまで、ペルディッカスやポリュペルコンの側についた諸将を次々に倒しては、その勢力を吸収し続けたため、その勢力は残った有力諸将の中でも頭一つ抜けたものになっていた。


勢力の拡大とともに、アンティゴノスは自らがアレクサンドロス帝国を掌握する野心を強めていく。 




アンティゴノスとバビロン太守セレウコスは、ポリュペルコンとカッサンドロスの対立では共にカッサンドロスの側について協力関係にあった。

しかし、エウメネスが死ぬと、アンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。

バビロン

紀元前315年、アンティゴノスがセレウコスの領土を奪い、セレウコスはエジプト太守プトレマイオスを頼ることになる。


アンティゴノスはさらにカッサンドロスの勢力下にあるギリシア世界に遠征する。



アンティゴノスはアナトリア半島全土およびシリアからイラン高原に至る広大な地域を手中にしており、その勢力は後継者争いをする有力諸将随一で、その力の大きさに野心を焚きつけられたアンティゴノスは、アレクサンドロス帝国全体の再統一を強引に目指していく。
 
ヘラクレア遺跡

紀元前306年、アンティゴノス朝を開き、王位に就く。


紀元前302年、アンティゴノスはギリシア世界の盟主となり、故国マケドニアを掌握する後継者として立場を固める。



一方、拡大する一方であるアンティゴノスの勢力に、警戒心を高めたプトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスといった有力諸将は、反アンティゴノス同盟を結ぶ。



紀元前301年、アンティゴノスとセレウコス・リュシマコス連合軍がイプソス(現 トルコ中西部)で対決する。

この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった「イプソスの戦い」で、アンティゴノスはセレウコスの用意した象の大群に苦しみ完敗し、自身も戦死した。



最大勢力であったアンティゴノスが死んだことにより、アレクサンドロス帝国の勢力図は、細分化複雑化が増すことになる。

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