一時的とは言え、教師を務めたこともある人間でありながら、生涯に40人以上をあの世に送ったという文字通り無法者のチャンピオンである。
そして、伝えられるところによれば、ほとんどの殺しは、さしたる理由もなく行われ、有名な例では、テキサス州アビリーンの町のホテルに泊まった時、隣室の男のいびきがうるさいというので、いきなり壁越しに2発の弾丸を撃ち込んで男を殺してしまった。
そんなジョン・ウェズリー・ハーディンは、1853年5月26日、メソジスト派宣教師の次男としてテキサス州南東部に生まれる。
幼児期から気性が激しく、14歳の時にナイフで喧嘩して相手を刺した。
南北戦争後のテキサスは北軍の管理下にあり、黒人殺しは死刑になるというので、宣教師の父親はジョンを逃がしたが、なんとジョンは探しに来た北軍兵士の一隊を川辺で待ち伏せし、ショットガンと拳銃で3人を殺した。
その後、北軍の追求が弱まると、ジョンは学校の教師になったが、もちろんこれは続かなかず、次いでカウボーイになり、仕事の腕とカードの腕を磨き、カードの腕前はかなりのものだったらしい。
1869年12月、テキサス州トワシという町で、ジェームズ・ブラッドリーという男とカードゲームを行い大勝するも、ブラッドリーがいちゃもんをつけてきたので争いになり、「銃の早抜き」で決着をつけることになった。
結果は、ジョンの二挺拳銃が火を噴き、弾丸はブラッドリーの頭と胸に撃ち込まれ、当然、ブラッドリーは即死する。
それからもジョンは実に多くの人間を殺した。
1871年1月、殺人事件で捕まり、ウエイコの裁判所に護送される途中、役人を殺して逃亡。
カンザス州アビリーンへ向かうキャトル・ドライブに加わるが、途中、メキシコ人のドライブに遭遇すると、ちょっとしたトラブルから銃撃戦になり、メキシコ人6人が死亡、そのうち5人はジョンに撃たれた。
同年10月、ゴンザラス郡へ向かう途中、黒人警官隊3人に捕まるが、逆に3人を射殺する。
1874年5月、ブラウン郡の保安官に後ろから撃たれそうになりながら、振り向きざまに相手の眉間を撃ち抜く。
1878年、テキサスの保安官殺人で有罪判決を受け、15年間、刑務所で刑に服す。
ところが、なんとジョンはこの刑務所生活で法律を勉強する。
そして、1892年、出所するとジョンはテキサス州エルパソで弁護士として働いた。
女を巡るトラブルの結果だったという。
西部開拓史屈指の無法者というより、サイコパスと呼んだ方がしっくりくるほどに殺人のハードルが低かったジョン・ウェズリー・ハーディンの登場する映画作品は、やはり、ないわけがない。
ラオール・ウォルシュ監督「決闘!1対3」(ロック・ハドソン出演、1952年)
バート・ケネディ監督「悪党」(ジャック・イーラム出演、1970年)