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大石内蔵助 (兵庫)

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大石家は平安時代中期に平将門追討の功により貴族に成り上がった藤原秀郷の末裔小山氏の一族で、代々、近江国守護佐々木氏のもと栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)で現地の田荘などで実務を取りし切る下司職をつとめていた。

 
藤原秀郷
  
藤原秀郷

その後、大石氏は一時期没落するが、大石良勝(内蔵助の曽祖父)は大坂夏の陣での戦功が著しかったため、豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政の三男・浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の永代家老(武家の家臣団のうち最高の地位)に取り立てられ、浅野長重の長男・長直が赤穂に転封されると大石家も赤穂に移る。

 

赤穂城

1659年、内蔵助は大石良昭の長男として誕生し、1673年に父が34歳の若さで亡くなると、内蔵助は祖父・良欽の養子となり、内蔵助が19歳の時に祖父・良欽が死去すると、その遺領1,500石を受け継ぎ、21歳の時に正式な筆頭家老となった。

 

 

平時における内蔵助は凡庸な家老だったようで、昼行燈(ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉)とアダ名され、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたといわれている。

 

1686
年、内蔵助は但馬豊岡藩京極家筆頭家老・石束毎公の18歳の娘りくと結婚し、1688年には長男・松之丞(後の良金)を、1690年に長女くう、1691年に次男吉之進、また1699年に次女るり、さらに1702年には三男・大三郎(後に広島藩に仕える)をもうけた。

 

 

1694年、備中松山藩水谷家が跡継ぎが無かったため改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること)となった際、内蔵助の主君・浅野長矩(あさのながのり)が城の受取りを任じられたため、内蔵助は改易への不満から徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城(岡山県高梁市内山下)に単身入り、水谷家の家老・鶴見内蔵助を説得して無事に城を明け渡させる。


大石内蔵助3
 

1700年に浅野長矩が参勤交代(各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令)により赤穂を発ち、浅野長矩は1701年に、東山天皇の使者達の接待役を幕府より命じられ、接待の指南役は高家肝煎(江戸幕府における儀式や典礼を司る)の吉良義央であった。

 

 

1701421(元禄14314)、幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた「勅答の儀」が執り行われるはずであったが、この儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において、接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、脇差で斬りかかる。

 

脇差は本来突くほうが効果的であるため、浅野長矩は吉良義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、側にいた梶川頼照が即座に浅野長矩を取り押さえた。


 

浅野長矩は取調べで刃傷に及んだ理由を「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので、この事件の原因は真相不明であるが、最も有力とされている説は、賄賂をむさぼるのが好きな吉良義央に対して浅野長矩が賄賂を拒否したために辱められたという「賄賂説」で、映画やドラマなどではこの説を採用するものが多い。

 

 

朝廷との儀式を台無しにされた第5代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は大名としては異例の即日切腹を命じられ、さらにの赤穂浅野家はお家断絶となる。

 

一方で、吉良義央には何の咎めもなかった。

 

浅野長矩
  
浅野長矩

事件から2週間ほどで、次々と江戸から赤穂へ「刃傷事件」「浅野長矩切腹」「赤穂藩改易」といった情報が送られ、一通りの情報が揃うと、幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれるが、赤穂藩士の多くは喧嘩両成敗の武家の定法に反する幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持つ。

 

 

こうした中、内蔵助は城をあけ渡した上で浅野長矩の弟・浅野長広を立てて「浅野家再興の嘆願」および「吉良義央の処分」を幕府に求めることで藩論を統一し、篭城殉死希望の藩士たちから「義盟」の血判書(誓いの強固さを示すため血液で捺印する)を受け取った。

 
浅野長直
  
浅野長広
 

さらに内蔵助は、赤穂藩改易のため紙くず同然になる藩札(江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣)を六分替え(額面の6割交換)という高い率で幕府の正規の貨幣(金・銀・銅貨)との交換に応じ、城下の混乱をおさえ、家中が分裂する危険の回避につとめる適切な処置を行う。

 

 

また、内蔵助は「浅野家再興」と「吉良義央処分」を求めた嘆願を再三行うが、赤穂城受け取りの使者に任命された隣国の龍野藩藩主・脇坂安照と備中足守藩藩主・木下公定率いる軍勢に赤穂城を明け渡すこととなる。

 

 

赤穂城退去後の内蔵助は、遠林寺(兵庫県赤穂市加里屋)において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持(一人扶持=米5俵で、1日あたり5合の1年分)を支給された。

 
遠林寺跡
 

残務処理を終えた内蔵助は生まれ故郷である赤穂を後にし、家族とともに京都山科で隠棲する。

 
山科は、内蔵助の母方の大叔父にあたる進藤俊式(進藤家は公家である近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた)の親戚である進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地であった。

また、大津の錦織にいた母の叔父(阿波蜂須賀藩家老・池田玄寅)の子・三尾正長からの資金援助を受ける。


京都山科
 
そして、京都東山の来迎院(泉涌寺塔頭)の住職・卓巖和尚が大石家の外戚にあたり、内蔵助はこの人物を頼って来迎院の檀家(寺の会員のようなもの)となって寺請証文(寺院が檀家に対して発行した文書で身分証明書となった)を手に入れた。

 

こうして内蔵助は、山科の居宅と来迎院を行き来し、旧赤穂藩士たちと密議をおこない浅野家再興を目指す。


来迎院

この頃、浅野家遺臣達の意見は二つに分かれはじめる。

 

一つは奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之ら赤穂詰めの高禄取り家臣を中心とした「お家再興優先派」で、もう一つは堀部武庸・高田郡兵衛・奥田重盛ら江戸詰めの腕自慢な家臣を中心とした「吉良義央への仇討ち優先派」であった。

 

 

リーダーである内蔵助は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて「吉良義央への仇討ち優先派」にしかるべきタイミングを待つよう促すという立場をとる。


堀部武庸
  
堀部武庸

しかしながら、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸らからは再三にわたり江戸へ来るようにとの書状を送りつけられたため、内蔵助は「吉良義央への仇討ち優先派」をなだめるために原元辰・潮田高教・中村正辰・進藤俊式・大高忠雄らを江戸へ派遣するが、派遣した彼らは逆に堀部武庸に論破されて「吉良義央への仇討ち優先派」になってしまったため、内蔵助自身が江戸へ向かうことになる。

 

 

内蔵助は前川忠太夫宅(東京都港区三田)で堀部武庸と会談し、浅野長矩の一周忌での決行を約束した。

 

江戸での用事を済ませた内蔵助は京都へ戻り、盟約に加わることを望む長男・大石良金(おおいしよしかね)の参加を認める。

1702年、妻りくをはじめとする大石良金以外の家族を妻の実家である豊岡へ帰す。


大石良金
  
大石良金
 

そしてこの頃から内蔵助は、吉良家や上杉家(米沢藩の第4代藩主・上杉綱憲は上杉氏に養子入りした吉良義央の長男)の目を欺くため遊廓などでの遊びが激しくなった。

 

 

また、徐々に脱盟者も出始め、その一人は「吉良義央への仇討ち優先派」の中心人物であった高田郡兵衛だったため、面目を失った「吉良義央への仇討ち優先派」は発言力を弱らせ、内蔵助はこれをチャンスと「浅野長広(浅野長矩の弟)に浅野家を継がせるかどうかの幕府の判断が決まるまで仇討ちはしない。」ということを決定する。

 

 

しかし、吉田兼亮と近松行重を江戸に派遣して「吉良義央への仇討ち優先派」にその決定を伝えさせると「吉良義央への仇討ち優先派」は納得せずに堀部武庸が京都へ乗り込んで来た。

 

 

そして、ついに幕府は浅野長広が浅野家を継ぐことを認めず、浅野長広を広島藩お預かりとすることを決定し、これにて「お家再興」は絶望的となった。

 

 

お家再興が絶望的となり、幕府への遠慮が無用となった内蔵助は、堀部武庸なども呼んで会議を開催し、吉良義央を討つことを決定する。


大石内蔵助2
 

討ち入りを決定した内蔵助は、盟約の当初に提出させていた誓紙を一人一人に返し(神文返し)、死にたくない者は脱盟するようにと促すと、奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら「お家再興優先派」が続々と脱盟していき、最大で約120人いた参加者から約60人が脱落した。

 

 

内蔵助は軽部五兵衛宅(神奈川県川崎市幸区平間)に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発してから江戸に入り、息子・大石良金が滞在中であった日本橋近くの旅館・小山屋(東京都中央区日本橋本町)の裏店を拠点に定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手する。

 

 

また吉良義央の在邸確実の日を知る必要もあった。

内蔵助は1214日に吉良邸で茶会がある情報を入手し、この茶会の予定日が確かな情報と判断すると、討ち入りを同日夜に決定する。

 
吉良義央
  
吉良義央
 

122日に深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させ、討ち入り時の武器・装束・所持品・合言葉・吉良の首の処置などを事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない。」ことを確認し、これが最終会議となった。

 

 

 

1215日未明、47人の赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入る。

 

表門は内蔵助が大将となり、裏門は大石良金が大将を務めた。

2時間近くの激闘の末に、赤穂浪士達はついに吉良義央を探し出し、これを討ち果たして首を取る。


大石内蔵助4

見事に主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へと引き揚げると、吉良義央の首を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

 

 

その後、吉田兼亮・富森正因の2名が赤穂浪士一行と別れて大目付・仙石久尚の屋敷(東京都港区虎ノ門)へと向かい、自首手続きを行うと、幕府から石川弥一右衛門・市野新八郎・松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣され、内蔵助ら赤穂浪士一行は彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動する。

 


幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主・細川綱利の屋敷(東京都港区高輪)に預けられ、大石良金は伊予松山藩主・松平定直の屋敷(東京都港区三田)に預けられたため、この時が親子の今生の別れとなった。

 

細川綱利邸
 

仇討ちを義挙とする圧倒的な世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした将軍の御用学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの意見から切腹が決定し、赤穂浪士を預かっている4大名家に切腹の命令がもたらされる。

 
大石内蔵助の切腹

同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決定。

 

 

内蔵助は細川家家臣の安場一平の介錯で切腹し44歳で生涯を終える。

その亡骸は主君・浅野長矩と同じ泉岳寺(東京都港区高輪)に葬られた。




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豊臣 秀吉 (大阪)

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1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。

 

頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。


松下之綱
  
松下之綱

1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。

織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。

 

秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。

 

織田信長
  
織田信長

1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。

 

この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。

 

「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。


稲葉山の月

1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。

 

 「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。

 

立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。

 

長浜城
 

1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。

 

柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。

 

秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。

 

しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。

 

秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。

 

柴田勝家2
  
柴田勝家

一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。

 

名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。

 

 

1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。

 

自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。

 

秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。


高松城水攻築堤

その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。

 

最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。

 

これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。

 

両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は21となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。

 

実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀

後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。

 

長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。

 

柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。

 

すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。

 

 

「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。

 

三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。


三法師
  
三法師
   

しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。

 

両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。


お市
  
お市
 

 「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。

 

実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。

 

「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。

 

なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。

 

柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。

 
 

足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。

 

 

一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。

 

秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。


賤ヶ岳の戦い
 

そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。

 

 

そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。

 

秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。

 

 

ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。

 

この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。


佐久間盛政
  
佐久間盛政
 

実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。

 

 

夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。

 

勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。

 

 

沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。

 

 

午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。

 

不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。

 

 

秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。

 

豊臣秀吉1
 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。

 

北条氏は5100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。

 

 

北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。


小田原城
 

1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。

 

秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。

 

秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。

 

しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。

 

 

そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。

 

秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。

 

池田恒興
  
池田恒興
 

その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。

 

すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。

 

関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。

 

徳川家康
   
徳川家康

さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。

 

秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。

 

こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。

 

 

一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。

 

徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。

 

北条氏直
  
北条氏直
 

この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。

 

秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。

 

さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。

 

それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。

 

 

秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。

 

刀狩り
 

1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。

 

 

真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。

 
名胡桃城
 

秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。

 

 

秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。

 

 

その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。

 

 

かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。

 

北条氏政
  
北条氏政

箱根を越えた秀吉軍は、北条軍57000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。

 

 

秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。

 

秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。

 

この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。

 

 

小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。

 

伊達政宗
  
伊達政宗
 
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。

 

 

1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。

 

すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。

 

一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。

 

 

秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。

 

石垣山城
 

1591年、秀吉は明(13681644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。

 
文禄の役
 

1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、64000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。

 

その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。

 

慶長の役
 

1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。

 

その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。

 

豊臣秀頼
  
豊臣秀頼
 

秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。



 

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石田 三成 (滋賀)

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1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。




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藤堂 高虎 (三重)

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1556
年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

 

藤堂氏は先祖代々、近江国(現在の滋賀県)19村を支配する小領主であったが、乱世の中で没落し、父の代には地侍に落ちぶれていた。

 

高虎の父は安定した収入が得られるように知行取り(土地の支配権を任される)を目指したが叶わなかったため、高虎は武功を挙げて父の果たせなかった知行取りになることを夢見た。

 

滋賀県犬上郡甲良町

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」で、15歳の高虎は浅井軍の足軽として初陣を迎える。

 

 

この初陣に強い想いをかけていた高虎は、当時の平均身長を30cmは上回る188cmの巨体の持ち主で、子どもの頃から一度も泣いたことがないという筋骨隆々の剛の者だったという。

 

 

高虎はこの初陣で見事に敵の武将の首を取る手柄を立て、さらに翌年、最初に敵の首を取る一番首の手柄をたてるなど、戦のたびに浅井軍の中で戦功を挙げる。

 

姉川の戦い
 

浅井長政は高虎の活躍を高く評価して褒美の刀を授けたが、1572年、高虎はその浅井家を離れ(浅井氏はその後すぐに織田信長に滅ぼされる)、浅井家から目と鼻の先であった阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとへ士官した。

 

 

新天地にのぞむ17歳の高虎は家中の裏切り者2人を始末するように命じられ、剣の腕が立つといわれていたその2人を難なく討ち取り、阿閉貞征は高虎の聞きしに勝る働きに目を見張るが、高虎はこの阿閉家もわずか1年で去ってしまう。

 

 

次に高虎が士官したのは、これまで仕えた主君の敵である織田信長の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)であった。

 

 

敵も味方もお構いなく渡り歩く高虎が、決して手放さずに次の士官先に持参したのが、日本全国どこの領主にも通用する「感状」という武士の履歴書のようなものである。

 

戦場には必ず一人一人の武将の活躍を記録する「目付」という記録係おり、この記録をもとに領主から合戦後に発行されるのが「感状」で、この「感状」があったから高虎は次々に主君を変えることが出来た。

 

磯野員昌
  
磯野員昌
 

磯野員昌からこれまでの武功を評価されて召し抱えられた高虎は、80石の知行を与えられ、18歳にして父が一生かかっても果たせなかった知行取りとなる。

 

その後、磯野員昌の所領を織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)が継ぎ、高虎は織田一門の家臣となった。

 

高虎は織田信澄のもとでも数々の武功を挙げるが、知行が80石から上がらなかったので、織田信澄に武功に見合う知行に上げて欲しいと求めるも聞き入れられなかったため、高虎は織田の家名もやっと手にした80石もアッサリと捨てて三度目の浪人となる。

 

 

 

次に高虎は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長に仕える。

 

羽柴秀長の所領は8500石しかなかったが、羽柴秀長は高虎を以前の3倍以上となる300石の知行で迎え入れた。

 

 

高虎は羽柴秀長軍の先鋒として多くの戦に出陣し、1582年、織田信長が「本能寺の変」で世を去ると、羽柴秀吉が一気に天下を掴み、高虎は羽柴家に仕えて7年で知行4600石、一軍を率いる武将へと出世する。

 
羽柴秀長
  
羽柴秀長

しかし一方で、高虎は戦場での武功だけに頼る出世に限界を感じるようになっていた。

 

羽柴家には賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれる戦上手の家臣がひしめいており、優秀な人材が揃う羽柴家でさらに出世するにはどうすれば良いのか考えた高虎は30歳の頃に「築城」に目を付ける。

 

10ヶ所を越す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目して「縄張」と呼ばれる城の設計を研究した。

 

羽柴秀吉の四国平定戦で難攻不落といわれた阿波国(徳島県徳島市一宮町)の一宮城を攻めた時、高虎は一か月経ってもおちないこの城の秘密を探るために、夜一人で一宮城の堀の深さを測りに行ったために鉄砲で撃たれるなど、時に危険を冒しながら攻めにくい城の設計術を研究する。

 

 

そんな高虎が造った城の一つである伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)20メートルを越える石垣が特徴で、高い石垣は鉄砲や弓に対する防御力を持ち、さらに攻め手に難攻不落だと精神的に威圧する効果もあった。


伊賀上野城

高虎は生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得する。

 

その後、羽柴家が姓を豊臣と改め、専門性を身につける事で他の武将との競争を勝ち抜いた高虎は2万石を与えられた。

 

藤堂高虎3
 

1591年、高虎が長年仕えてきた豊臣秀長がこの世を去ると、紀伊・和泉・大和の100万石は豊臣秀長の子・豊臣秀保に受け継がれる。

 

しかし、それを機に高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれていく。

 

それまで実子が育たなかった豊臣秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていたが、1593年、豊臣秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀保や秀次を疎んじるようになった。

 

1595年、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ秀次が切腹させられた後、高虎の主君である秀保も原因不明の死をとげる。

 

 

秀保の家が廃絶となり、多くの秀保の家臣が豊臣秀吉の配下へと移っていくなかで、高虎は今まで築き上げた2万石の知行を捨て、秀保・秀長を弔うためと、忽然と俗世間から姿を消して高野山へと入った。

 

一方、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられる。

 

高虎は秀保の家臣である自分にもいずれ豊臣秀吉の刃が向けられることを察知していたのであった。


高野山
 

さすがの豊臣秀吉も、全てを捨てて寺に入った高虎には手を出すことが出来ず、それどころか逆に高野山へと使者を送って、自分に仕えるようにと説得を繰り返すようになる。

 

高虎が考慮の末に説得に応じると、喜んだ豊臣秀吉は高虎に伊予・宇和島7万石という以前の3倍の知行を与えた。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、それをキッカケに次の天下を狙う徳川家康、それに抵抗する石田三成とが対立していく。

 

諸大名が状況を伺うなかで高虎は、いち早く徳川家康支持の態度を鮮明にする。

 

豊臣恩顧の大名達はそんな高虎を裏切り者とののしったが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者はナタの首が折れたようなものである。」と動じなかった。

 

 

1600年、天下を二分した「関ヶ原の戦い」は徳川家康の東軍が勝利し、この戦いにおいて高虎は脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱の寝返り工作を成功させる。

 

 

しかし「関ヶ原の戦い」で東軍に寝返って勝利に貢献した小早川秀秋が2年後にお家廃絶、さらに高虎が寝返らせた小川祐忠が所領没収と、徳川家康はいくら自分の味方につこうとも裏切りをするような外様大名を容易に信じようとはせず、その徳川家康の疑いの目は当然のごとく次々に主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられた。

 
徳川家康
  
徳川家康
 

1614年、さらに高虎の立場を危うくする事件が起こる。

 

徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻撃した「大阪冬の陣」において、大阪城の豊臣秀頼から高虎に宛てた書状が徳川家康のもとへ渡ってしい、その内容は「申し合わせたように徳川を裏切ってくれれば約束した領国を与え、その他の恩賞も望み通りとする。」というものであった。

 

 

この書状は徳川家康側の内部分裂を誘うために豊臣秀頼側がくりだした謀略であったが、高虎の経歴を知る諸将は疑いをぬぐうことが出来ず、高虎に不審の目が向けられる。

 

 

そんな折に、苦楽を共にしてきた高虎の重臣二人(藤堂良勝・藤堂高刑)は「この度、我々は是が非でも戦死する覚悟でございます。藤堂家をつぶさないで下さい。家康の信頼を勝ち取ることを第一に考えて下さい。」と高虎に告げる。

 

なによりも大切にしてきた家臣達を犠牲にしてでも戦うことで突破口を開くのか、それともいつ取り潰されるかもしれない恐怖に怯えて暮らすのか、長いこと考え続けていた高虎はこの二人の言葉で心を決めた。

 

藤堂高虎4
 

1615年「大阪夏の陣」で藤堂軍5000は徳川家康側の先鋒として大阪城に向けて進軍を開始すると、河内の八尾の付近で豊臣秀頼側の長宗我部盛親の軍を発見する。

 

この長宗我部軍は後方にある徳川家康本陣への奇襲を目論んでいた。

 

 

藤堂軍は長宗我部軍をここで食い止める必要があったが、両軍の間には湿地帯が横たわっており、藤堂軍が湿地帯を渡って攻撃した場合、陣形が崩れて壊滅的な被害を受けることが予想され、戦の常識としては回避すべき状況だったが、高虎は徳川家康に忠義を示すために突撃を命じる。

 

 

ぬかるみに足を取られる藤堂軍は勇猛果敢で知られる長宗我部軍に苦戦して多くの戦死者を出し、戦いの直前に高虎に道を示してくれた二人の重臣・藤堂良勝と藤堂高刑も相次いで討ち死にした。

 

 

高虎は深い悲しみの感情をあらわにしながらも前進を命じ続け、決死の覚悟で襲いかかる藤堂軍を前に長宗我部軍は敗走し、長宗我部軍による徳川家康本陣への奇襲は未遂に終わる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家康側が勝利したが、高虎はこの戦いで徳川家康側では類を見ない被害を出した。
 

大阪夏の陣
 

しかし、それによって疑り深い徳川家康が、主君を何度も変えてきた高虎を信頼して「国に大事が起こったときは一番手を藤堂高虎とせよ。」と評し、その後、藤堂家は加増されて伊勢・伊賀32万石となる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家による太平の世までの最後の戦いであったため、徳川家康に対して何かを示すにはラストチャンスでもあった。

高虎は大きな時代の変化を見事に見抜き、勝負をかけるポイントを的確に捉え、自分の家臣を犠牲にしてまでも徳川勝利のために尽くすという忠義を見せた。

 

 

高虎60歳、知行なしの地侍として槍一本で初陣してから45年、8番目の主君のもとで国持ち大名へと出世する。

 

藤堂高虎1

徳川家康の死後も高虎は藤堂家を盤石のものとするため、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えて、老いて目が見えなくなっても徳川将軍家のご意見番として出仕し続け、晩年までほとんどの時間を江戸で過ごした。

 

 

そんな高虎は自らの人生で学びとったものを200カ条に渡る藤堂家の家訓としてまとめる。

 

「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があれば、ものに動ずることがない。」

「冬でも薄着を好むべし。厚着を好めば癖になり、にわかに薄着となったとき、かじかむものである。」

「人をだましてはならない。真のとき承諾がえられない。深く慎むべし。」

 

 

1630年、74歳で死去した高虎の亡骸には隙間がないほど鉄砲や槍の傷があったという。

 

 

江戸時代260年間、お家断絶やお家取り潰しとなった大名家が数多くあるなかで、高虎の教えを守り続けた藤堂家は大きな処分を受けることなく存続した。




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