劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

ご当地キャラ

尚寧王 (沖縄)

尚寧王700x1000


琉球王朝は、尚氏が15世紀頃に初めて琉球全土を統一して7代続いた第一尚氏と、クーデタで第一尚氏王統を倒した尚円王が1470年に樹立する第二尚氏とに分かれる。


尚円王
  
尚円王
 

その琉球王国第二尚氏王統の第6代国王・尚永王には跡を継ぐ男子がなかったため、尚永王の妹・首里大君加那志の子で小禄御殿4世の尚寧王が、尚永王の長女・阿応理屋恵按司を妃にして王統を継いだ。


首里城2
 

この頃の琉球国は、日本よりも明(1368年~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)寄りの立場であった。

 

それは、明に限らず歴代の中国皇帝は、周辺諸国に爵位や称号を与えて、その関係を維持する政策をとっており、周辺諸国も大国に認められる事によって、自らの王国の正統性を内外に認識させていたからである。

 

第二尚氏の歴代国王はいずれもこの流れの中にあったが、尚寧王が即位した1589年は、九州制覇の野望を進めていた島津氏が豊臣秀吉に屈した時で、そのことは琉球の歴史にとっても大きな転換点となっていく。


豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

そうして、豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮への出兵を決定すると、島津氏の薩摩藩を通じて琉球国からも兵士を出すようにと要求される。

 

 

しかし、琉球王朝の重臣である三司官の一人の謝名利山(じゃなりざん)などがこの要求に反対し、薩摩藩からの再三の要請は先延ばしにし、1591年、豊臣秀吉が琉球国を薩摩藩の指揮下として琉球国に兵糧米の供出を課したが、尚寧王はそれに従わず、さらに秀吉軍の動向を明に伝えるなど抵抗の姿勢を示した。

 
文禄の役

 

ちなみにこの頃は、明への進貢船の事務職長であった野國総管(のぐにそうかん)が、明からの帰途、サツマイモの苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、琉球に根付かせた頃でもある。

 

沖縄県中頭郡嘉手納町

1598年に豊臣秀吉が死去し、1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康が政権の座に着くと、薩摩の島津義久を通じて尚寧王に「家康に臣下の礼を尽くしに来るよう」との書状が届く。


島津義久

  島津義久
 

尚寧王がこの徳川家康の要求に積極的に応じる態度をみせず返事に即答しかねていると、1609年、この態度に怒った島津家久は一族の樺山久高(かばやまひさたか)を総大将に3000の兵を預け、100余りの軍船が薩摩の山川港を出帆し、琉球文化圏にあった奄美大島へ上陸して制圧。


奄美大島

 

島津軍はそのまま徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、沖縄本島北部の運天港に上陸して今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)を落とすと首里城(沖縄県那覇市首里)へ迫った。

 

徳之島
 
琉球は尚寧王まで7代に渡って平和な日々が続き、さらにこの頃は交易も下火になっていたため、最新式の武器などは持ち合わせていなかったのに対して、ちょっと前まで戦国時代でしのぎを削っていた島津軍は最先端の鉄砲を装備し、尚寧王は次々と死体の山が築き上げられていく様を目の当たりにすることになる。


首里城3
 

この薩摩藩の武力侵攻に為す術がないことを思い知った尚寧王は止む無く降伏を申し入れ、この戦いはわずか11日間の攻防戦となった。

 

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし、1610年、尚寧王と謝名利山らは薩摩に連行される。

尚寧王はこの時、生まれて初めて首里城を出ることになった。


首里城1

 

そして、薩摩に連行された尚寧王らは、今後の琉球が薩摩の属国として島津の方針に従うように要求され、尚寧王は苦悩の末に受け入れるものの、明に留学経験があって血統的には中国系であった謝名利山は頑なに拒否をしたため鹿児島にて処刑される。

 
謝名利山

 

さらに、尚寧王は島津家久に駿府から江戸へと連行され、駿府で将軍職を退いてなお幕府権力をコントロールしていた徳川家康に、江戸で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に引き合わされ、これにて琉球国の幕藩体制に対する従属が成立することになり、以後、琉球国は日本と明の二カ国に従属することになった。

 
徳川家康
  
徳川家康

1611年、薩摩藩の琉球に対する干渉は厳しくなり、琉球支配の枠組みを定めた「掟15条」が発布される。薩摩藩から強制されたこの「掟15条」の内容は、完全に琉球の自治や自立を奪い取るものであった。

 

そして、琉球は按司掟(琉球で各地を治めていた領主)を廃止し、それに代わって薩摩藩が派遣した代官である地頭代を配置することになる。

 

尚寧王1
 
一方、この頃、琉球の産業の基礎を築いた儀間真常(ぎましんじょう)が尚寧王と共に薩摩から帰国する際に、木綿の種を薩摩から持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めて琉球絣(りゅうきゅうかすり)の基礎を築いた。

 
琉球絣

 

薩摩藩は、参勤交代の時に異民族の衣装を身にまとう琉球人を従えている構図が優越感になるため、琉球を属国にしつつも形式的には「琉球王国」を存続させたため、この琉球人にとって屈辱的な薩摩藩の意図は、結果的にはいくらかの文化を守ることになる。

 

浦添ようどれ2
 

事実上、琉球最後の王として57歳で死去した尚寧王は、自らを「薩摩の侵攻を許した王」として恥じ入り、歴代王が眠る玉陵(沖縄県那覇市首里金城町)に入ることを拒み、浦添ようどれ(沖縄県浦添市)に葬るように遺言する。

 

 

 

尚寧王Tシャツ
尚寧王( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



西郷 隆盛 (鹿児島)

西郷隆盛700x1000


1828123日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。

西郷家の家格は御小姓与で下から2番目の身分である下級藩士であった。

 

11歳の頃、喧嘩の仲裁に入った際に、刀で右腕内側の神経を斬られてしまい、3日間高熱に浮かされた末に一命は取り留めるものの、刀を握れなくなったので武術を諦めて学問で身を立てることを志す。

 

鹿児島城下加治屋町

1854年、隆盛が藩主・島津斉彬に意見書を出すと、その才覚が認められて共に江戸に赴くが、島津斉彬が亡くなると、隆盛は自らの命を危うくしながらも幕府の大老・井伊直弼と異なる政治的方針を持っていた島津斉彬の意思を継ぐべく国事に奔走する。

 
島津斉彬
  
島津斉彬

しかし、幕府の追及を恐れた薩摩藩は、隆盛と志を同じくする僧・月照を日向国へ追放とし、その道中での切り捨てを決めた。

 

隆盛は月照とともに竜ヶ水沖で身投げをし、月照は死亡し、隆盛は回復に一ヶ月近くかかりながらも自分だけ生き残ることとなる。

 

薩摩藩は隆盛を死んだものとして扱い、幕府の追求を逃れるために隆盛は奄美大島に3年間潜居させられた。


奄美大島
 

その後、隆盛は大久保利通らの助けで藩政に復帰するも、1859年、藩主・島津久光に誤解を受けて徳之島・沖永良部島に流罪となり、この2年間の牢人生活で足を悪くし、感染症にもかかる。

 

 

1862年、薩摩藩主・島津久光の前を横切ったイギリス人が斬り殺される「生麦事件」が起こり、1863年、その報復をしようとするイギリスと薩摩藩の戦争「薩英戦争」が起こると、その解決に大久保利通があたった。

 

この大久保利通の強い勧めもあって、隆盛は藩主・島津久光に赦されて鹿児島に帰り、大役をもって藩政に復帰していく。

 
島津久光

  島津久光 


1864年、長州藩勢力が会津藩主で京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で市街戦を繰り広げた「禁門の変」を起こした責任を問い、朝廷が徳川幕府に対して長州追討の勅命を発し、35藩総勢15万人が長州藩主・毛利敬親のいる山口へ向った「第一次長州征討」の戦後処理にあたった頃から、隆盛の考えは徳川幕府を倒すことに転じていった。

 

 

1866年、坂本龍馬の仲介もあって、隆盛は徳川幕府を倒すために薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」を長州藩の桂小五郎と成立させる。


桂小五郎
   
桂小五郎

1867年、徳川幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還」の結果、徳川幕府の廃絶と同時に摂政・関白等の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置による天皇中心の新政府を樹立する「王政復古」が宣言された。

 

 

1868年、新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った「戊辰戦争」で、隆盛は天皇を担いで官軍となった新政府軍を参謀として主導し、旧幕府軍の代表・勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を実現させる。

 

隆盛は明治維新の最大の功労者として高い尊敬を受けることとなった。


勝海舟

  勝海舟
 

1869年、藩が支配してきた土地と人民を天皇に返上する「版籍奉還」が行われ、1871年には藩を廃止して県を置き、明治政府が任命した県令が県の政治を行う「廃藩置県」により、日本は中央集権的統一国家を目指すようになる。

 

 

隆盛は薩摩・長州などの兵からなる新政府直属の軍隊を作ることに尽力すると、陸軍元帥に就任し、さらに新政府の中核をなす参議の地位にも就く。

 

西郷隆盛2

しかし、政府の高官達の中には、商人と結託して私腹を肥やすなど、隆盛の意に反する行動をする者が現れた。

 

一方で、徳川幕府を倒すために命をかけながらわずかな恩賞を与えられただけの下級武士達は、維新の後に士族(江戸時代の旧武士階級などから維新後に華族とされなかった者)となり、腐敗した政府に対する批判を強めていく。

 

 

1873年、井上馨、山県有朋ら政府の中心人物達の汚職が表面化し、隆盛は自ら作りだした政府の汚職まみれの姿に失望を感じ「新しい世をこれから作らねばという時に、政府の高官達は屋敷を飾り立て、贅沢な服装をし、蓄財に目がなく、明治維新の正義の戦いは、このような私利私欲の世を生みだすためのものだったのか。天下に対し、戦死者に対し、面目ないことだ。」と嘆いた。

 
山県有朋

  山県有朋
 

この頃、鎖国を続けていた李氏朝鮮(朝鮮民族の最後の王朝で朝鮮半島における最後の統一国家)は、西洋列強のマネをして海外進出を目論む隣国の日本を強く警戒し「日本は無法の国にて西洋をマネて恥じるところがない」と、釜山にあった日本の出先機関への生活物資の搬入を妨げる事件が起こる。

 

 

両国の外交関係は緊張し、日本では李氏朝鮮に兵を送り武力をもって屈服させようという征韓論が高まり、そこには外国に派兵することで士族の不満を外に向けようという目論見も存在した。

 

 

この外交的課題に対して、ヨーロッパを視察して西洋列強の強大さ目の当たりにしてきたばかりの大久保利通は、国内の改革を優先し、国力を養うことが先決と征韓論反対を主張する。

 
大久保利通
  
大久保利通

隆盛が朝鮮で殺されることを覚悟のうえで、自ら使節として朝鮮に赴き、話し合いをすることを提案すると、一旦は天皇の許可を得るが、隆盛の追い落としを謀る参議達によってその決定は覆された。

 

18731023日、隆盛は参議を辞職し、11月に故郷の鹿児島に帰る。

 

西郷隆盛5
 
この時45歳の隆盛は、鹿児島市から約40kmはなれた日当山温泉などの山里を転々としながら、愛犬を連れて兎狩りや猪狩りをしたり、温泉に入ったりして日々を送り「いにしえより名声多く累をなす(名声を得て高い地位に就いてもろくなことはない)」と、今後は故郷で静かに暮らしたいという思いを口にしていた。

 

 

しかし、時代の流れはそんな隆盛の願いを許さず、東京で軍隊や警察に属していた薩摩の士族およそ600人が隆盛を慕って続々と鹿児島に戻ってきたのである。

 

生き場を失った士族達をどうするか解決策を考えた隆盛は、彼らを集めて鹿児島独自の教育をする「私学校」を始め、その授業は山道を走って体を鍛えたり、中国の古典を読んだり、銃や大砲の扱いを習ったり、文武両道に渡り、隆盛が理想と考える教育が行われた。

 

「私学校綱領(学校の校訓のようなもの)」では「天皇を尊び、人民を憐れみいつくしむのが学問のねらいである。一たび国に難儀がおきた時は、一身を顧みず国のためにつくさねばならない。」と謳われている。

 

隆盛は生徒達に近代的な兵器の扱いを教えることで、日本が西洋列強による侵略の危機にさらされた時に、守りの要となる人材を育成しようと考えていた。


私学校
 

また、隆盛は職を失った生徒達が自活できるように、土地の痩せた火山大地を開墾し、40ヘクタールの農場を築くために生徒達と共に土地を耕し、じゃがいも、サツマイモ、大根、麦、などを育て、土地を耕しながら国を守るという隆盛の理想をこの地で具体化しようと考える。

 

 

農場ではしばしば生徒達と共に鍬を取る隆盛の姿が見られ、清潔な隆盛の人柄を慕って「私学校」には続々と士族が集まり、やがて「私学校」の幹部達は鹿児島県の行政に参加することになっていく。

 

鹿児島県政の責任者・大山綱良は、隆盛の思想に共鳴して「私学校」の幹部を各地の区長に任命し、税の徴収などの権限を与える。

 

こうして「私学校」の士族達が事実上、鹿児島の県政を担うようになると、東京の新聞は「鹿児島は中央の意向の届かない独立国家だ。」と報じた。


大山綱良
  
大山綱良
 

そのため、明治政府は隆盛はなにか大きな事をしでかすに違いないと、その動きを強く警戒するようになっていく。

 

 

 

この頃、政府の中心人物である大久保利通は日本の中央集権化を進めるために税制の課題に着手していった。

 

江戸時代の税は、その年の作物の収穫に応じて現物で納められていたため、税収は収穫高に左右される不安定なものであったが、明治政府は税収を安定させるために改めて田畑を測量し、土地の評価額を定め、それに応じて毎年一定の税金を現金で納めさせることにする。

 

この制度によって土地の持ち主と見なされたのは実際に土地を耕す農民となった。

 

しかし、鹿児島は藩主が土地を支配していた他の藩とは異なり、武士一人一人が土地を持ち、自らが田畑を耕したり農民に耕させていたため、明治政府の新しい税制度のもとで土地の所有権が武士から農民に移ると、昔からの所有権を主張する士族と農民の間に紛争が起こるようになる。

 

 

隆盛は士族と農民のもとに足を運び、紛争の間に立って奔走しながら、明治政府の推し進める中央集権化を地方の実態にあわせて実施していく道を探った。

 

日当山温泉

一方で、明治政府は次々と改革を急ぎ、新たな制度を矢継ぎ早に実施し、1876年、武士の誇りである刀を持ち歩くことを禁じる「廃刀令」が出される。

 

さらに、明治政府は士族に与えてきた家禄の支払いを打ち切る「秩禄処分」を発表し、士族達は期限付きの債権を与えられたが、その収入はわずかな利息だけとなった。

 

 

この年の秋、明治政府への不満を持つ士族の「神風連の乱(熊本)」「秋月の乱(福岡)」「萩の乱(山口)」と反乱が相次ぐ。


神風連の乱
秋月の乱
萩の乱

こうした政府への不満は鹿児島でも渦巻き、隆盛が東京に鹿児島県令・大山綱良を派遣し、家禄の取り消しを遅らせるように嘆願させると、大久保利通はこの申し出を受け入れて、鹿児島だけに政府が支給する利息を高く定めるなどの優遇措置をとることを約束した。

 

 

各地で士族達の反乱が相次いでいると聞いた隆盛は、鹿児島城下へ帰る予定を変更し、日当山温泉にこもり続け、自分さえ姿を見せなければ鹿児島の士族達は反乱はするまいと考え「今、鹿児島に帰ると若者達を刺激し、蜂起の旗頭とされる恐れがある。しばらくは自分の挙動は人に見せず、身を潜めていよう。」と手紙に記している。

 

 

しかし、政府が鹿児島の士族の動向を探るために20人以上の密偵を鹿児島に潜入させ、その密偵が「私学校」の生徒達に捕えられると、潜入の目的が隆盛の暗殺であることが発覚した。

 

南大隅町

187710119日、ついに「私学校」の生徒達は行動を起こし、県内各地の施設を襲撃すると政府が差し押さえようとしていた大量の武器弾薬を奪う。

 

 

21日、日当山温泉よりもさらに鹿児島市から離れた現在の南大隅町に身を潜めていた隆盛のもとに生徒達が政府の武器弾薬を奪ったという知らせがもたらされる。

 

隆盛は「しまった」と口にすると「なぜ弾薬など盗んだのか。弾薬に何の用があるのか。」と、目の色を変えて怒った。

 

23日、隆盛が急ぎ鹿児島城下に戻ると「私学校」の幹部は隆盛に反政府運動の旗頭となるように求めるが、隆盛は自宅に引きこもったまま、なんとか生徒達をなだめて事態を収拾する策はないものかと考える。


西郷隆盛4

 

ここまで政府は各地の士族の反乱に対して徹底した弾圧を加えていたため、政府に対して反旗をひるがえしてしまった生徒達が厳罰に処されることは間違いなかったが、ここで生徒達と行動を共にすれば、政府が擁する天皇に歯向かうことになり、朝敵となってしまうことに隆盛は悩んだ。

 

 

26日、この後どういう行動を取るか「私学校」の講堂で隆盛を迎えた会議が開かれる。

 

隆盛の暗殺まで企てた政府に対して堂々と罪を問う兵を挙げるべきであると主張する強硬派と、「私学校」設立の目的は日本を外国の侵略から守ることで内乱を起こすことではなく少人数で上京して政府に詰問すればよいと主張する慎重派に、幹部達の意見は割れた。

 

そこで強硬派の一人が「オマエは死ぬことが怖くて今のような議論をするのか。」と発言すると、薩摩武士にとって死を恐れることを最大の恥とされていたため、慎重派は沈黙し、出兵賛成の合唱が沸き起こり、幹部達は隆盛に出兵承諾を求める。

 

決断を迫られた隆盛は「天皇に反して賊軍となるか」「生徒達を罪人として政府に引き渡すか」「そもそも天皇の名を借りて思うまましようとする政府の役人達が悪いのだ」などと様々な思いを巡らせながら、死を覚悟して政府に抗議しようとする生徒達に対してついに口を開いた。

 

「おはんらがその気ならオイの身体はさしあげ申そう。」

 

西郷隆盛1
 

214日、「私学校」の生徒を中心とする薩摩軍13000は、政府の罪を問い質して維新のやり直しをするという名目で、東京を目指して進軍を開始する。

 

隆盛は、自分の命は生徒達に預けたのだという意思を示すかのように、戦いの指揮を全て部下に委ねて作戦に一切口を出さなかった。


西南戦争(フランスの新聞)

この薩摩軍に対して、政府軍は熊本城に立て篭もって進軍を阻み、さらに援軍を福岡に集結させて南下を始めると、薩摩軍はそれを迎え討つために主力を北へと向け、両軍は熊本市の北にある田原(たばる)坂で激突する。

 

この「田原坂の戦い」は一日で数十万発の弾丸が使われる激戦となり、弾と弾が空中でぶつかって出来る「かちあい弾」が戦場にいくつも残されるほどであった。

 
かちあい弾

 

政府軍が次々と援軍を送り込んで戦力を増強する一方で、薩摩軍は激しい消耗戦で弾薬が乏しくなるも後方からの支援をほとんど受けることが出来ず、白刃をきらめかせての斬り込みで政府軍を攻撃する。


田原坂の戦い

 

そして320日早朝、政府軍が総攻撃を敢行すると薩摩軍は敗走し、この時を境に薩摩軍は敗北を重ねて宮崎県の山中へと追い詰められた。

 

 

挙兵から7カ月の816日、隆盛は初めて自ら命令を下し「降伏するのも死ぬのも自由にするように。」と軍の解散を宣言したが、隆盛を慕ってついて行こうとする者が次々に名乗り出る。

 

義勇兵として薩摩軍に加わっていた九州中津藩の士族・増田宗太郎は、故郷に帰ろうと誘う仲間達に対して「自分は西郷先生に一日接したら一日の愛が生まれた。10日接したら10日の愛が生まれた。もう西郷先生と離れることは出来ない。」と答え、この後、鹿児島で戦死した。


増田宗太郎

  増田宗太郎
 

軍を解散した隆盛は、自分を慕う兵を率いて故郷の鹿児島に帰ると、鹿児島市の中心にある城山に立て篭もる。

 

隆盛達400人は城山の斜面に穴を掘り、鹿児島に集結した政府軍4万人以上からの降り注ぐ砲弾をしのぎながら最期の時を待った。

 

西郷隆盛洞窟

924日午前4時、政府軍がついに城山総攻撃を開始すると、隆盛達は弾丸が飛び交うなか100倍の政府軍に対して最後の突撃を開始すると、2発の銃弾が隆盛を貫く。

 

「もうここらでよか」

それが西郷隆盛49歳、最期の言葉である。

 
西郷隆盛6

西南戦争は政府軍が16000の死傷者を出し、薩摩軍は死傷者15000と大山綱良以下2764人が処刑されることとなった。

 

以後、士族の反乱は途絶え、明治政府は富国強兵のもと強力な中央集権体制を築き上げていく。

 

 


西郷隆盛Tシャツ
西郷隆盛( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

伊東 義祐 (宮崎)

伊東義祐700x1000


1533年、日向伊東氏9代当主であった兄・伊東祐充(いとうすけみつ)が病死すると、反乱を起こした叔父・伊東祐武が、義祐の母方の祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城(宮崎県西都市)を占拠した。

 

後ろ盾であった福永祐炳を失った義祐と弟・伊東祐吉(いとうすけよし)が、日向国(宮崎県)を退去して京都へと向かおうとすると、叔父・伊東祐武を支持しない者達の制止を受けて伊東祐武と対峙する。

 

この家中を二つに分けた御家騒動「伊東武州の乱」は、義祐と伊東祐吉の兄弟を擁立する家臣・荒武三省(あらたけさんせい)の活躍により伊東祐武は自害に追い込まれ、義祐と伊東祐吉は都於郡城を奪回した。

 

都於郡城2

「伊東武州の乱」が収束すると、伊東氏の家督は家臣・長倉祐省(ながくらすけよし)の後押しで弟・伊東祐吉が継ぎ、義祐は出家を余儀なくされたが、伊東祐吉が家督相続後3年で病死し、義祐は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)へ入って日向伊東氏11代当主の座に就く。


佐土原城

 

1537年、義祐は従四位下(日本における位階の一つ)を授けられると、室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱(上位者が下位者に俗名を一字与える)を受け、これより伊東義祐と名乗るようになる。

 

足利義晴
  
足利義晴
 

義祐は飫肥(おび)を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返したが、1560年、豊州家が島津宗家を介して室町幕府にこの問題の調停を依頼すると将軍・足利義輝より和睦命令が出された。

 

しかし、義祐がこれに従わないと、幕府政所執事(国政を担う高官に設置を許された家政機関の長官)である伊勢貞孝が日向へ向かう。

 

その際、義祐は伊勢貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すため、日向伊東氏6代当主・伊東祐堯が室町幕府第8代将軍・足利義政より賜った「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の文書を提示した。

 

それを見た伊勢貞孝は、文書には当時の室町幕府が用いない言葉遣いが散見されることから、偽書の疑いが強いと断じるも確証には至らず、仕方なしに飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とする。

 
飫肥

ところが、義祐はこの裁定をものともせずに、
1561年、7度目の飫肥侵攻を開始して豊州家を圧迫すると、交渉により飫肥の一部を割譲させ、1562年には完全なる領有に成功した。

 

しかし、直後に豊州家に攻められると、わずか4ヶ月で撤退することとなる。

 

そこで1568年、義祐自らが総勢2万の大軍を率いて、豊州家の島津忠親を城主とする飫肥城(宮崎県日南市飫肥)を攻撃した「第九飫肥役」は、伊東軍が約5ヶ月間にわたり飫肥城を包囲し、島津忠親を救援しに来た北郷時久の軍を撃破すると、島津氏第15代当主・島津貴久は義祐との和睦を決め、80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる攻防戦に終止符が打たれた。


飫肥城

 

島津氏を政治的に圧倒した義祐は、佐土原城を中心に伊東四十八城と呼ばれる支城を日向国内に構え、伊東氏の最盛期を築き上げ、佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほどに発展する。

ところが京風文化に溺れるようになった義祐は次第に度を越した贅沢をするようになり、武将としての覇気を失っていく。

 

伊東四十八城
 

1558年、義祐の娘・麻生が嫁いでいた北原兼守が病死するが、男子のいなかった北原兼守は娘を叔父・北原兼孝の子に嫁がせるよう遺言していた。

 

しかし、その娘が34歳で夭折したため、義祐は未亡人となった娘・麻生を北原家の庶流(宗家や本家から別れた一族)である馬関田右衛門佐に再嫁させ、これを三ツ山城(宮崎県小林市細野)に置いて、事実上の乗っ取りを画策し、これに反対する北原家の者を都於郡城に呼んで粛清すると、さらに飯野城(宮崎県えびの市飯野)に居た北原兼孝を殺害。

 

残された北原氏の北原兼親は球磨に逃れて相良氏を頼り、北原氏旧臣・白坂下総介は島津貴久に北原兼親が北原氏を継ぐことへの協力を求める。

島津貴久はそれに同意し、相良頼房と北郷時久にも協力を働きかけ、北原兼親は島津氏・相良氏・北郷氏の援助を受けた。

 
島津貴久
  
島津貴久


1562
年、伊東氏のものになっていた馬関田城(宮崎県えびの市西川北)まで相良氏が軍勢を向けると、北原兼親はその隙に飯野城に入り、真幸院を奪い返す。

 

しかし、これに対して義祐は密かに相良氏と同盟を結び、1563年に共に大明神城(宮崎県えびの市大明司)を攻め落とし、1564年に北原氏に従属する大河平氏の今城(宮崎県えびの市大河平)を攻め落とすと、北原氏から離反者が相次ぎ、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。

 

真幸院(えびの市)

真幸院は肥沃な穀倉地帯で、さらに義祐が日向国の完全な支配を達成するには、どうしても飯野地区攻略が不可欠であったため、1566年に飯野地区攻略の前線基地として小林城(宮崎県小林市真方)の築城を開始し、この動きを知った島津義久らは城が完成する前に攻撃を仕掛けるも、伊東氏家臣で小林城主・米良重方が苦戦しながらも島津義久らを撃退した。

 

小林城
 
1568年、伊東氏は飯野地区の攻略に乗り出すが、島津義弘の家臣・遠矢良賢(とおやよしかた)による「釣り野伏せ」という、野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせ、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法に掛かり、伊東軍は散々に打ち破られる。

 

 

1572年、肝付氏の侵攻を受けていた島津氏の加久藤城(宮崎県えびの市加久藤)は、島津氏の当主・島津貴久の死去も重なり動揺していた。

 

義祐はこの機会に相良義陽と連携して3000の軍勢で加久藤城を攻めた「木崎原の戦い」で、伊東軍は島津義弘の率いるわずか300の兵に「釣り野伏せ」の形を作られて大敗する。

 

伊東軍は伊東祐安や伊東祐信ら5人の大将を筆頭に落合兼置や米良重方など名だたる武将が多く討死してしまい、この大敗は伊東氏衰退の大きなキッカケとなった。

 

木崎原の戦い

「木崎原の戦い」から
4年後の1576年、長倉祐政(ながくらすけまさ)が治める伊東四十八城の一つである高原城(宮崎県西諸県郡高原町)が島津義久の3万の兵に攻められ、圧倒的な戦力差に一戦も交えず高原城は降伏する。

 

その翌日、小林城と須木城を治める米良矩重が島津氏に寝返ると、怖れをなした近隣の三ツ山城、野首城、岩牟礼城が島津氏についた。

 

三ツ山城

こうして伊東氏にとって島津氏領との最前線は野尻城(宮崎県小林市)となり、この時、島津氏家臣・上原尚近は野尻城主・福永祐友が島津に内通しているという偽りの文を佐土原城下にばら撒くと、それを信じた義祐は福永祐友を遠ざけるようになり、やむなく福永祐友も島津氏に寝返る。

 

 

そして、1577年に入ると伊東氏の情勢はますます悪化し、南の守りの要である櫛間城(宮崎県串間市西方)が島津忠長によって攻め落とされ、さらに飫肥城(宮崎県日南市飫肥)が包囲された。

 

同時期、日向北部の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)・土持氏が、伊東氏にとって土持氏に対する最前線である門川領への攻撃を開始し、伊東氏は北から土持氏、南と北西からは島津氏の侵攻を受ける。

 
日向国

 

義祐は悪化する事態の雰囲気を少しでも変えるべく、孫の伊東義賢(義祐の次男・伊東義益の嫡男)に家督を譲った。

 

しかし、厳しい状況は増す一方で、内山城(宮崎県宮崎市高岡町内山)主の野村刑部少輔、紙屋城(宮崎県小林市野尻町)主・米良主税助も島津氏に寝返ったため、佐土原の西の防衛線が完全に島津氏の手中に収まる。

 

事態の深刻さを重く感じた義祐は、領内の諸将を動員して紙屋城を奪回すべく兵を出すも、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知し、即座に反転して佐土原に帰城した。

 

伊東義祐1
 
もはや義祐には残された選択肢はないに等しく、ついに義祐は日向を捨て、次男・伊東義益の正室・阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼ることを決める。

 

本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上には、義祐がひいきにしていた重臣・伊東帰雲斎の横暴で子息を殺され、それを深く恨んでいた新納院財部城(宮崎県児湯郡木城町)主・落合兼朝がいた。

 

そのため、義祐一行は西に迂回して米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることになった。

 

女子供を連れての逃避行は厳しいもので、また、猛吹雪の高く険しい山を進まねばならず、当初120150名程度だった義祐一行は、途中で崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決する者などが後を絶たず、豊後国に着いた時には義祐一行はわずか80名足らずになっていたといわれている。

 
高千穂

 

豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、義祐が日向攻めの助力を請うと、日向をキリスト教国にする野望を抱いていた大友宗麟はその願いを受け入れるも、1578年、大友宗麟は島津氏と激突した「耳川の戦い」で大敗を喫してしまう。

 

大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、大友領内で肩身が狭くなった義祐は、子の伊東祐兵ら20余人を連れて伊予国で河野氏を頼ると、河野通直の一族・大内栄運にかくまわれた後、1582年には伊予国から播磨国に渡った。

 
大友宗麟
  
大友宗麟

この頃、伊東祐兵は同族の伊東長実の縁から羽柴秀吉に仕官する。

 

伊東祐兵の仕官を見届けた義祐は、しばらく播磨に留まった後の1584年、伊東祐兵が付けた供・黒木宗右衛門尉と中国地方を気ままに流浪し、やがて周防国(山口県東南半分)で旧臣宅に滞在した。

 

 

その後、病に侵されながらも義祐は独り旅をし、便船の中で病衰すると、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれる。

 

ところが、偶然にも伊東祐兵の家臣に発見され、義祐は堺の屋敷で7日余り看病を受けた後に73歳で死去した。



伊東義祐Tシャツ
伊東義祐( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



大友 宗麟 (大分)

大友宗麟700x1000


1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。

 

宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。

 
豊後国

 

父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負傷後に死去する「二階崩れの変」が起こる。

 

こうして宗麟が大友氏21代当主となり、同時に入田親誠ら反宗麟派は粛清された。


大友宗麟4
 

1551年、周防国(山口県東南半分)の大内義隆が家臣・陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害すると、宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込む。

 

これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符が打たれ、さらに北九州の大内氏に服属する国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)が大友氏にも服属することになり、宗麟は周防方面にも影響力を確保し、特に博多を確保したことは多大な利益となった。

 

 

宗麟の叔父・菊池義武は「二階崩れの変」をきっかけに豊後国内が内乱に陥ると予測し、肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後(熊本県)全土の制圧を目指して反乱したが、直ちに国内の混乱を収めた宗麟は菊池義武を一族から縁切りにすることを表明して大軍を派遣し、島原に落ち延びた菊池義武はその後に自害し、菊池氏を滅亡させた宗麟は肥後国も確保する。

 

府内城
 
しかし、宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き、1553年に一萬田鑑相(いちまだあきすけ)1556年には小原鑑元(おばらあきもと)が謀反を起こすなど、宗麟の治世は当初から苦難の多いものであった。

 

また、この頃に宗麟は本拠地を府内城(大分県大分市)から丹生島城(大分県臼杵市)に移している。

 

フランシスコ・ザビエル
   
フランシスコ・ザビエル

1557年、宗麟の弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失い、毛利元就が北九州に進出してくると、毛利氏との対立を決意した宗麟は、毛利元就と通じていた筑前国(福岡県西部)の秋月文種を滅ぼすなどして北九州における旧大内領を確保することに成功した。

 

 

室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化し、多大な献金運動をした宗麟は、1559年に豊前・筑前の守護(鎌倉幕府・室町幕府が置いた軍事指揮官・行政官)、さらに九州探題(室町幕府の軍事的出先機関)を任され、1560年には左衛門督(鎌倉時代以降、朝廷の機能としては有名無実化していったが武家に好まれた官職)に任官する。

 

 

宗麟は九州における最大版図を築き上げ、さらにそれを裏付ける権威を獲得し、名実共に大友氏の全盛期を創出した。

 

足利義輝
  
足利義輝
 

しかし、周防・長門(山口県西半分)を平定するために宗麟と和睦していた毛利元就は、平定に成功すると今度は貿易都市の博多を支配下におくべく、宗麟の支配する豊前・筑前への侵攻を図り、15541561年までに豊前門司城で起こった宗麟と毛利元就との数度の合戦「門司城の戦い」で敗れた宗麟は出家して休庵宗麟と号す。

 
門司城の戦い

 

出家してからも宗麟は足利将軍家には多大な援助を続け、1563年には足利義輝の相伴衆(将軍が宴席や他家訪問で外出する際に随従する)に任ぜられ、足利義輝の調停で宗麟は毛利氏と和睦し、北九州の権益を確保する。

 

ところが、毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、この和睦は破られ、九州へ侵攻した毛利氏は、宗麟側の国人らを味方に引き入れ、怒涛の攻撃を開始することになった。

 

1567年、豊前国や筑前国で毛利元就と内通した宗麟側の国人が蜂起すると、なんとこれに宗麟が大切に育てた重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させる。

 

 

宗麟は毛利氏との戦闘の中で宣教師に「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出し、鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請した。

 

毛利元就
   
毛利元就

1569年、宗麟は肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために自ら軍勢を率いるが、そこへ毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退し、立花山城(福岡県の立花山山頂)の帰属を巡る「多々良浜の戦い」で毛利軍に打撃を与える。

 

さらに宗麟の軍師と言われる吉岡長増の策で、毛利氏に滅ぼされた大内氏の遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込んで毛利氏の後方撹乱を狙う。

 

大内輝弘は大内氏の復活を狙って、大友水軍に護衛され豊後国から周防国へと向い、それを知った大内氏の遺臣はこぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増し、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。

九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、後方を脅かされていることを知ると、九州からの撤退を指示した。

 

多々良浜の戦い
 

1570年、宗麟が弟・大友親貞に3000の兵で総攻撃命令を下し、再度、龍造寺氏を討伐するために肥前国に侵攻した「今山の戦い」は、小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移する。

 

龍造寺側には援軍の見込みはなく落城は必至の状況であったが、総攻撃の前日の夜に大友親貞が勝利の前祝いとして酒宴を開いて軍の士気を緩め、それを知った龍造寺側が鉄砲を撃ちかけて奇襲し「寝返った者が出た」と虚報を流すと、大友軍は大混乱に陥って同士討ちを始め、2000人に及ぶ犠牲と共に大友親貞が討ち取られた。

 

この大敗北によって、宗麟は龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなり、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことが出来なくなる。

 

龍造寺隆信
   
龍造寺隆信

1576年、宗麟は家督を長男・大友義統に譲った。

その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となって洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗る。

 
大友義統

  大友義統 


この頃、織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭は、毛利氏が京都にのぼらないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏をはじめ龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行う。

 

 

1577年、宗麟と同様に九州制覇を狙う薩摩国の島津義久が日向国(宮崎県)に侵攻を開始し、1578年に「耳川の戦い」で大友軍と島津軍が激突すると、当初は大友軍が兵力の差で押していたが、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきり、そこを島津軍が突くと戦況は一転し、大友軍は敗走する。

 

大友軍はこの敗走で急流の耳川を渡りきれずに溺死したり、そこを島津軍に攻撃されるなどして3000人近い戦死者を出し多くの重臣を失った。

 

 

「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていき、さらに家督を譲った大友義統との対立も起こり、大友氏は衰退の一途をたどっていく。

 
耳川の戦い

 

この苦境に対して宗麟は、本州で大勢力となった織田信長に接近し、織田信長の毛利攻めに協力することなどを約束に島津氏との和睦を斡旋してもらうことになっていてが「本能寺の変」で織田信長が死去すると、島津氏との和睦は立ち消えとなった。

 

 

「今山の戦い」で宗麟を破った龍造寺氏は、宗麟が「耳川の戦い」で島津義久に大敗して大きく衰退すると、それに乗じて大友領を侵食し、九州は島津氏と龍造寺氏の二強が争う時代となる。

 

 

1584年、龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北した「沖田畷の戦い」で戦死すると、宗麟は立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回するも、1585年に立花道雪が病死すると、これを好機と見た島津義久は大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃した。

 

この「岩屋城の戦い」で高橋紹運・立花宗茂父子は奮戦し、島津軍の侵攻を遅らせるも岩屋城は落城する。

 

立花宗茂
  
立花宗茂
 

もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなった1586年、宗麟は織田信長亡き後の天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願した。

 

 

しかし、島津義久はその後も大友領へ侵攻し「戸次川の戦い」では大友氏救援に駆けつけた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。

 

この時、臼杵城(大分県臼杵市)に籠城していた宗麟はその大きな破壊力から「国崩し」と名付けられた大砲フランキ砲を使って臼杵城を守った。


臼杵城

 

1587年、大友氏が島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められるのと時を同じくして、豊臣秀長の率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに遅れて豊臣秀吉自身が率いる10万の兵も到着すると、九州平定を目指す豊臣軍は各地で島津軍を撃破していく。

 

 

宗麟はこの戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久が豊臣秀吉の九州征伐に対して降伏する直前に、57歳で病死(チフスが有力とされている)した。

 

 

豊臣秀吉は九州平定後、宗麟の長男・大友義統に豊後一国を安堵する。

 

大友宗麟2
 

宗麟の死の直後、葬儀はキリスト教式で行われ墓は自邸に設けられたが、後に大友義統が改めて仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

津久見市内にある現在の墓所は1977年に大分市長・上田保が新たにキリスト教式の墓として従来の場所から移したものである。

 

 

 
大友宗麟Tシャツ
大友宗麟( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



加藤 清正 (熊本)

加藤清正700x1000


1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。

 

1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。

 

 

1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。

 

加藤清正5
 
織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。

 

21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。

 
賤ヶ岳の戦い

1584
年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。

 

この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。

 

 

その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。

 

小牧山城
 

薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。

 

秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。

 
佐々成政

  佐々成政

秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国195,000石の大名となる。

 

清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。

 

さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。

 
加藤清正1

 

清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。

 

一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。

 

 小西行長

  小西行長

1590年、秀吉は5100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。

 

 

1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。

 

この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。


文禄の役

 

当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。

 

1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。


加藤清正2
 

 「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。

 

慶長の役
 
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。

 

 

父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。

 

日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。


豊臣秀吉

  豊臣秀吉

その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。

 

この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。

 

 

1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

 

九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。

 

そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。

 

石田三成
  
石田三成

歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。

 

 

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。


徳川家康

  徳川家康

しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。

 

徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。

 

この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。

 

加藤清正6
 

「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。

 

清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。

 

 

徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。

 

 

さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。

 
豊臣秀頼

  豊臣秀頼

一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。

 

 

こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。

 

 

清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。

 
熊本城

 

清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画((ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。

 
昭君の間

本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。

 

 

清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。

 

闇御門
 

1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。

 

 

清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。

 

清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。

 

淀殿
  
淀殿

会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。

 

秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。

 

 

会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。

 

そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。

 

加藤清正4
 

無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。

 

 

しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。

 

 

 

清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。

 

方広寺鐘銘事件
 

これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。

 

 

秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。

 

 


加藤清正Tシャツ
加藤清正( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



大村 純忠 (長崎)

大村純忠700x1000


1533年、肥前日之江城主・有馬晴純の次男として生まれる。

 

大村純伊から家督を継いだ大村純前には男子がなく、純忠の母は大村純伊の娘であったため、1538年に純忠は大村純前の養子となった。

 

しかしその後、大村純前は側室との間に実子の又八郎(後の後藤貴明)が誕生するが、有馬氏と大村氏の両家の関係は有馬氏の方が大村氏よりも強かったため、大村氏は有馬氏をはばかって又八郎を後藤氏へ養子に出し、1550年に純忠が家督を継ぎ、大村氏第18代当主となる。

 
肥前日之江城

 

このため、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家に養子に出された後藤貴明(又八郎)は、純忠に強い恨みを持ち、終生、敵意を持った。

 

一方で実子を押しのけて家督を継いだ身である純忠も、アウェイ感の強い状況でプレッシャーを感じながら大村氏の当主を務めることになる。

 

 

1561年、松浦隆信が治める平戸港そばの露店で、ポルトガル商人と日本人の争論からポルトガル人殺傷に至った「宮ノ前事件」が起こると、純忠は新たな交易港を探していたポルトガル人に自身の治める横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出た。


長崎県西海市

イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、さらにイエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかり、仏教徒の居住禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったことで横瀬浦はポルトガル商人の寄港地として賑わい、大村氏の財政も大いに改善される。

 
横瀬公園

 

1563年、宣教師からキリスト教について学んだ純忠は、コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、洗礼名バルトロメオとして日本初のキリシタン大名となった。

 

純忠は領民にもキリスト教信仰を奨励し、その結果、大村領内では最盛期のキリスト教信者は6万人を越え、日本全国のキリスト教信者の約半数が大村領内にいた時期もあった。

 
イエズス会

 

純忠のキリスト教への入信は、弱小である自国が後藤貴明という明確な敵や急激に台頭してきた龍造寺隆信に対抗するため、ポルトガル船のもたらす利益や武器が目当てだったという面が強く、西洋の武器を手に入れる為の取引材料として、キリスト教への改宗を拒否した者達が奴隷として海外へ売り渡されたりもしている。

 

しかし、純忠は信仰心そのものも強く、洗礼を受けた後、正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、これを機に側室を退け、以後はおゑん以外の女性と関係を持たなかった。

 

さらに、その信仰心とポルトガル人からの利益があいまって、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊し、キリスト教への改宗を拒否した仏僧は追放するなど、仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行い、家臣や領民の反発を招くことになる。

 

大村純忠2
 
大村氏の家督相続の因縁で純忠に恨みを持つ後藤貴明は、キリスト教に傾倒する純忠に不満を持つ大村家の家臣団と結託して反乱を起こし、焼き払われた横瀬浦が壊滅した。

 

そのため、純忠は1565年に福田浦を開港し、1570年には当時まだ寒村にすぎなかった長崎をポルトガル人のために新たな寄港地として与え、この長崎は以降良港として大発展していくことになる。

 

福田浦
 

1572年、後藤貴明は平戸城主・松浦隆信、高城城主・西郷純堯の援軍を得て1500の軍勢で、女子供含めて約80名しかいなかった純忠の居城である三城城(現長崎県大村市三城町)を急襲した。

 

純忠はこのような不利な状況で譜代7名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)を中心に婦女子も石を投げる奮闘で防戦し、富永又助、長岡左近、朝長壱岐らの援軍が三城城に到着すると、後藤貴明らは撤退を余儀なくされ、絶体絶命の中で三城城を守りきり、このエピソードは後年「三城七騎籠」と称されることになる。

 

三城跡
 

1578年、長崎港が龍造寺氏らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退し、1580年に長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した。


天正遣欧少年使節
 

1582年、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーニと対面した純忠は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した天正遣欧少年使節の派遣を決める。

 

天正遣欧少年使節はキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の代理人として4名の少年が中心となり、使節団の中には純忠の甥にあたる千々石ミゲルもいた。

 

天正遣欧使節は1584年にスペインでフェリペ2世に謁見し、1585年には教皇グレゴリウス13世に謁見する。

 

これによってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。

 

グレゴリウス13世
 

純忠には洗礼名を持つ4人の息子、喜前(サンチョ)・純宣(リノ)・純直(セバスチャン)・純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫から喜前(サンチョ)を除く3人が人質に取られ、大村氏は龍造寺氏に対してほぼ従属状態となる。

 

 

それまで九州で成立していた九州三強(島津氏・龍造寺氏・大友氏)から大友氏が脱落すると、島津氏と龍造寺氏が争う二強時代となり、1584年、肥前島原半島で龍造寺隆信と島津家久・有馬晴信が決戦した「沖田畷の戦い」で、龍造寺氏は総大将の龍造寺隆信を筆頭に多くの重臣が討ち死にして総崩れとなり、佐賀城に向けて撤退した。

 

「沖田畷の戦い」の結果により、龍造寺氏の傘下にあった勢力は一気に島津氏に寝返り、島津氏の勢力は筑前・筑後まで拡大し、以後、九州は島津氏が最大勢力として君臨するようになる。

 

龍造寺氏に従属状態であった純忠だが、島津氏とともに龍造寺氏と戦った有馬氏は親族であるため、戦いには空鉄砲を撃つほどに消極的だったので「沖田畷の戦い」後に、大村氏は島津氏の追撃も受けずに開放された。

 

沖田畷の戦い
 

1587年、純忠は咽頭癌と肺結核に侵されて重病の床であったので、代わりに19歳の嫡子・喜前(サンチョ)を豊臣秀吉の九州平定に従わせることで、領地を保証される。


豊臣秀吉

   豊臣秀吉

病で衰えた純忠は神父を呼んではたびたび来世の事を話して欲しいと願い、それを聞きながら大いに満足して涙を流したという。

 

死を悟った純忠は、領内に拘束していた捕虜200名を釈放し、死去の前日には可愛がっていた小鳥を侍女に命じて籠から逃がしたが、この時、侍女が小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにするが、怒る事は神の意思に反すると思いなおし「小鳥はデウス様が作られたものであるから、今後とも愛情をもって扱ってほしい」と言って侍女に立派な帯を与える。

 

 

弱小国を歓迎されない形で継ぎ、様々なストレスに襲われ続けた純忠は、坂口館(長崎県大村市荒瀬町)55歳にして死去した。

 

坂口館
 

その後、豊臣秀吉によってキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する「バテレン追放令」が出される。

 

もともと織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した理由は諸説あるが「キリスト教が一向一揆のように反乱につながるのを防ぐため」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため」「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたため」「秀吉が連れてくるように命じた女性がキリシタンであることを理由に拒否したため」などとされている。

 
バテレン追放令

また、純忠の生前の暴走ともいえるキリスト教信仰および優遇も遠因ではあったかもしれない。

 



大村純忠Tシャツ
大村純忠( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



水野 忠邦 (佐賀)

水野忠邦700x1000


1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。

 

兄・芳丸が早世したため、忠光が唐津藩の世嗣ぎとなり、1812年に父・水野忠光が隠居すると家督を相続した。


唐津
 

唐津藩の表向きの石高は6万石とされていたが、実際の収入は20万石ほどあり、この税金の対象となる6万石の3倍以上もの収入からなる隠し財産が、後に忠邦を出世へと導く。

 

 

忠邦は幕閣(江戸幕府の最高首脳部)として昇進する事を強く望んでいたが、唐津藩に課せられた長崎警備という特別な任務から長崎を長期間離れることができず、そのことが出世への障害となるため、忠邦は蓄財のしやすい唐津藩を捨て、警備の負担がなく出世のしやすい浜松藩に目をつける。


長崎
 

とはいえ、移りたいからといって簡単に国替えがなるものではないため、忠邦は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の側近である水野忠成が同族である縁と、唐津藩で貯めた金を賄賂に使い、1817年、見事に浜松藩への国替えを成功させた。

 

浜松

さらに忠邦は、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の最上位に位置し、最終的に老中まで昇りつめることも可能なエリートの証である寺社奉行となる。

 

 

唐津藩から浜松藩へ領地を替えることで、実収入が大幅に減ってしまうため、忠邦は家臣達の猛反発を受け、国替えを止めるために自殺する家老までいたが、その後に忠邦が幕府の重臣となっていき、逆に賄賂を受け取る立場となっていったことで家臣達の不満は緩和されていった。

 

 

賄賂に賄賂を重ねた忠邦は、1825年に大阪城代に、1826年には京都所司代へと絵に描いたような出世コースを歩み、1828年に江戸城・西丸老中になると、1834年には江戸城・本丸老中へと出世し、ついに1839年、老中首座(老中の最高位)の座を手に入れる。

 

江戸城・本丸
 

1833年の大雨による洪水や冷害による大凶作をキッカケに1839年まで続いた「天保の大飢饉」は、特に東北地方の被害が大きく、その中でも仙台藩は米作に偏った政策を行っていたため被害は甚大で、この江戸三大飢饉のひとつに数えられる危機は、作物の商業化を強めて農村に貧富の差が拡大した。

 

 

この「天保の大飢饉」の影響で、貧困の百姓が多く餓死し、打ちこわしや百姓一揆が度重なり、これらの対策によって幕府は毎年60万両もの赤字を出し続ける。

 

天保の大飢饉
 

老中に昇りつめた忠邦も当初は、将軍・徳川家斉が実権を握っていたため、思うように政治を動かすことは出来なかったが、1841年に徳川家斉がこの世を去ると、忠邦は江戸三大改革のひとつに数えられる「天保の改革」に乗り出す。

 
徳川家斉

  徳川家斉
     

忠邦は徳川家斉時代の贅沢な雰囲気を一掃するべく質素倹約をすすめ、衣食に関する贅沢品は厳しくチェックするのはもちろん、大人向けの挿絵の入った本なども禁止する「ぜいたく禁止令」を出し、庶民の楽しみの多くを奪う。

 

 

そして、江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返し、農村人口を増やすことで米の収穫を増やし、結果として幕府の年貢収入を増加させることを狙った「人返しの法」を出すが、そもそも農村で仕事が無い人々が江戸に出稼ぎに来ているため、彼らを田舎に返したところで米の収入が大幅に増えることはなかった。

 

 

当時、物価の高騰が庶民を苦しめており、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりである株仲間が物価高騰の原因であると考えた忠邦は、経済をもっと自由にすることで物価高騰が止まることを期待し「株仲間の解散令」を出すが、株仲間を中心として機能していた流通システムが混乱して逆に物価がさらに高騰する。

 

 

さらに、年貢収入の多い江戸や大坂周辺の大名達に他の領地を与え、江戸や大坂周辺の土地を幕府が直接おさめて財政収入を増やそうとした「上知令」は、土地を取り上げられることになる大名・旗本から猛烈な反発を受けて、結果的に取り下げることになった。

 

天保の改革
 

このように忠邦の「天保の改革」はどの政策も失敗に終わり、このことで幕府の脆弱さが垣間見えたことが、幕末の動乱へと繋がった面もある。

 

 

1843年、成功失敗以前に厳し過ぎる改革は多くの批判を呼び、忠邦は老中をやめさせられることになった。

 

しかし、1844年、江戸城本丸が火災により焼失すると、新たに老中首座となった土井利位はその再建費用を充分には集められなかったことから第12代将軍・徳川家慶に見限られ、その結果、徳川家慶は忠邦を老中首座に再任させる。

 
徳川家慶

  徳川家慶 


忠邦が老中首座に再任すると「天保の改革」時代に忠邦を裏切った土井利位は報復を恐れて自ら老中を辞任し、また「天保の改革」時代に厳しい市中の取締りを行った「水野の三羽烏
(鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤三右衛門)」でありながら「上知令」時に反忠邦派に寝返った鳥居耀蔵は全財産没収などに追い込まれる。

 

 

しかしながら、重要な任務を与えられるわけでもなかった忠邦は、ぼんやりとしている日々も多く、次第に頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤するようになり、さらに癪(近代以前、原因が分からない内臓疾患を一括してこう呼んだ)で長期欠勤した末に、老中を辞職した。

 
水野忠邦1

その後「天保の改革」時代の「水野の三羽烏」による明確な証拠がない厳しい取り締まりなどが追求され、忠邦は家督を長男・水野忠精に相続させたうえで出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられる。

 
水野忠精
  
水野忠精

さらに「水野の三羽烏」の渋川敬直は豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首となった。

 

 

どん底の陥っていた幕府財政を立て直すために改革に意気込みながらも、その全てが失敗に終わった忠邦は、1851年に56歳で病死する。

 


厳し過ぎた改革は、システム的な失敗以上に、多くの反感から協力を取り付けることを困難にした。


度重なる失敗を経験しながら最終的に「享保の改革」を成功させた徳川吉宗との差は、将軍でなかったことに加え、人間の感情を無視し過ぎたゆえかもしれない。

 

 


水野忠邦

水野忠邦( 劇団Camelot )

知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



 

黒田 官兵衛 (福岡)

黒田官兵衛700x1000


1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれる。

 

1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

 
姫路

小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合い、両大名の脅威にさらされた小寺家は存亡の危機を迎え、多くの家臣は古くから交流のある毛利に従うことを主張する。

 

しかし、織田信長の将来性を見抜いていた官兵衛の「信長、その勢い天下を覆うべし。」という意見によって小寺家の方針は織田側につくことで決まった。

 

官兵衛が織田信長のもとへと向かって、播磨の豪族の戦力の大小や毛利氏への忠誠心の強弱を説明すると、織田信長はすぐさま自分が大切にしていた圧切長谷部という刀を与えて協力を命じる。

 
圧切長谷部

官兵衛が織田信長に通じたという知らせを聞いた毛利輝元は激怒し、1577年、播磨の豪族達への見せしめのためにも5000の軍勢で小寺領・姫路城へと攻め寄せた。

 

迎え討つ小寺の兵はわずか500で、10倍の敵を前にした官兵衛は、領内の民衆にありったけの旗を持たせて後方に待機させ、500の兵で毛利軍に奇襲をかけると、毛利軍は圧倒的に数の少ない敵のまさかの奇襲に不意をつかれて慌てふためく。

 

官兵衛はその一瞬の形勢有利を見逃さず、後方に控えていた領民に一斉に旗を掲げさせると、毛利軍はこれを織田の援軍が到着したのだと勘違いして大混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。

 

この勝利を聞いた織田信長は「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である。」と官兵衛を評した。

 
織田信長

  織田信長 


1577
年、官兵衛は織田信長が毛利攻めに派遣した豊臣秀吉と運命的な出会いを果たす。

 

秀吉が官兵衛に協力を求めると、官兵衛は織田と毛利のどちらにつくか揺れている播磨の豪族達を巧みな説得で次々に織田側に引き入れていき、播磨の豪族の8割が織田につくことを約束したため、秀吉は大きな抵抗にあうことなく、わずか2カ月で播磨を平定する。

 

人たらしと言われるほど巧みな交渉力を武器にのし上がってきた秀吉は、官兵衛に自身と相通じるものを見出し、二人はたちまち意気投合した。

 

 

一方、味方だと思っていた播磨の豪族が次々に寝返った毛利輝元は58000の大軍を播磨へと送り込み、この毛利の大軍勢に播磨の豪族達は怖れおののき、官兵衛の主君・小寺政職も毛利側に寝返ったのである。

 

官兵衛は再び織田側につくように説得を試みるが、織田に反抗する勢力に捕えられ、摂津の有岡城に幽閉された。

 
毛利輝元
  
毛利輝元

織田信長はいつまでも戻らない官兵衛が敵に寝返ったと考え、裏切り者の官兵衛の息子を殺すように秀吉に命じるが、秀吉はここで官兵衛の息子を殺せば官兵衛は二度と自分に仕えてくれないだろうと考え、官兵衛の息子を匿った。

 

有岡城で官兵衛は毛利側につくように執拗に迫られたが、がんとして首を縦に振らず、幽閉は一年間続き、暗く湿気に満ちた牢獄で、官兵衛は絶え間なく襲う蚊やシラミによって全身が皮膚病に侵され、生死の境をさまよう。

 

1579年、織田軍が有岡城の攻略に成功し、これによって牢獄から救出された官兵衛は、頭髪は抜け落ち、片足が不自由になっていた。

 

歩くこともままならない変わり果てた官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと忠義の至り。我、この恩に如何にして報ずべき。」と言い、これを機に官兵衛は秀吉直属の家臣となる。

 

有岡城
 

1582年、播磨を平定した秀吉は官兵衛とともに備中国(岡山県西部)に進軍し、毛利軍の守りの要である高松城を意表を突く作戦で攻め落とそうと考えた。

 

高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要害であったが、秀吉はその地形を逆に利用しようとし、高松城を囲む全長3キロメートルに及ぶ堤をわずか半月足らずで作り、水を堰き止めようとする。

 

しかし、梅雨時で水かさを増した川は、大木を投げ込んでも大石を投げ込んでも水を堰き止めることができず、官兵衛はこの秀吉の誤算をフォローすべく、大きな石が山のように積まれた30槽の船を川下から引いて隙間なく並べると、船の底を一斉に破って船を沈めて川の水の勢いをゆるめたうえで、2000人の兵でそこに土嚢を積ませた。


高松城水攻め
 

こうして、秀吉の思惑通り高松城が水の中に孤立して、毛利軍があと一歩で陥落しかけた時、秀吉のもとに主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」の知らせが届く。

 

 

秀吉は動揺のあまり我を忘れて泣き崩れるが、しかし、官兵衛は冷静かつ大胆に秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と直言し、言葉の意味を悟った秀吉はハッと我に返った。

 
本能寺の変

 

織田信長の後継者になるためには、その仇を討つことが鍵になると瞬時に見通した官兵衛は、すぐさま毛利側と和睦の交渉に入る。

 

官兵衛は領土割譲の交渉で大幅に譲渡し、また切腹するのは高松城主だけとするなど、破格の条件を出し、織田信長の死が毛利に伝わる前に和睦を結ぶことに成功すると、官兵衛はすぐさま全軍を京都に向かわせるための準備に奔走した。

 

高松城から明智光秀のいる京都までは約200km、道々の領民に炊き出しや水を用意させ、昼夜走り続けた秀吉軍25000は、わずか7日間で京都に到着する(中国大返し)

 

こうして、秀吉は明智光秀に兵力を整える暇を与えず、織田信長の仇討ちに成功した(山崎の戦い)

官兵衛は瞬時の判断で、秀吉を織田信長の後継者争いの一番手に押し上げる。

 

明智光秀
  
明智光秀 


ところが、あまりに知略に長けた官兵衛の実力は、次第に秀吉へ不安を与えるようになっていき、この後、秀吉は四国平定に功のあった官兵衛に一切の恩賞を与えなかった。

 

1586年、秀吉は九州平定の先発隊として官兵衛を派遣し、官兵衛はこの戦いに一人息子・黒田長政を同行させ、19歳の若武者であった黒田長政は勇猛果敢に戦果をあげるが、官兵衛は「匹夫の勇にして大将たる道にあらず。」と、ただ血気にはやるだけで思慮分別がないと戒める。

 

一方、官兵衛は島津家のもとにまとまる九州各地の豪族達に「秀吉公に降伏するならば、本領の安堵は約束する。ただし、貴殿が降伏の意を示したことが、他の大名に知られると貴殿が攻められる恐れがある。秀吉公が九州に来られるまで、降伏の儀は互いに内密とするように。」という内容の書状を送って回った。

 

すると、誰が秀吉につき、誰が味方なのか、寝返りの噂が九州を飛び交い、疑心暗鬼に陥った九州の豪族達の結束は官兵衛の思惑通りに崩れていく。

 

こうして秀吉の本隊が到着すると、九州の武将達は一人また一人と秀吉に恭順の意を示し、秀吉は到着後わずか一月で九州全土を平定できたのである。

 
小早川隆景
  
小早川隆景

九州を平定した秀吉は恩賞を申し渡し、小早川隆景には筑前国52万石、佐々成政には肥後国50万石が与えられたが、秀吉のために最高の舞台を用意した最大の功労者である官兵衛に与えられたのは豊前国の一部わずか12万石であった。

 
佐々成政

  佐々成政
 

ほどなく官兵衛は、秀吉が自分の功績に報いなかった理由を知ることになる。

 

ある時、秀吉は重臣達に「わしの次に天下を取るのは誰だと思うか。」と問いかけ、徳川家康、前田利家、上杉景勝など大大名の名が次々にあがっても秀吉は首を横に振り続け「黒田官兵衛だ。わしは危機に陥った時、たびたび官兵衛に策を尋ねた。官兵衛の答えはいつも思いもつかない優れたものばかりだった。官兵衛の器が大きく思慮が深いことは天下に比類がない。もしあの男が望むなら、すぐにでも天下を取ることができるだろう。」と語った。

 
豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

人伝に秀吉のこの言葉を聞いた官兵衛は、自分が天下を奪うのではないかと秀吉が疑っていると考え、愕然とする。

 

1589年、官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ってアッサリと隠居し、この時「心清きこと水の如し」という意味を込めて、名前を黒田如水(くろだじょすい)と改めた。

 

黒田官兵衛1
 

1590年、秀吉は天下統一の最後の難関である北条氏と決戦すべく、徳川家康や前田利家といった名立たる名将を揃え、26万という未曽有の大軍勢で小田原城を包囲する。

 

しかし、北条氏は26万もの兵を抱える秀吉軍はすぐに兵糧がつきて引き返すに違いないと考えて全く動じなかった。

ところが、秀吉は兵糧が尽きるどころか海上輸送によって大量に物資を運び、陣中に町を作り上げてみせる。

 

さらに小田原城を見おろす丘の上に密かに城を築かせ、城が出来あがると周辺の木を切り倒し、一夜にして巨大な城が出現したように見せかけ、北条氏の戦意を奪おうとした。

 

しかし、北条氏は戦わずして敗れるのは武門の名折れと難攻不落の小田原城に籠って徹底抗戦の構えを崩さなかったため、このまま北条氏が降伏しなければ面目の失われる秀吉は「官兵衛の知恵、絞るべき時なり。」と官兵衛を頼る。


小田原城
 

官兵衛が和睦を促す書状とともに上等な酒と魚を北条氏に贈ると、北条氏は返礼として火薬と鉛を「城攻めに用いられんことを乞う。」と贈ってきたため、秀吉軍の誰もがそれを北条氏の挑発だといきり立った。

 

しかし官兵衛は、北条氏は力と権勢を見せつける秀吉に意地になっているが、心の底では戦いを望んではいないと考え、たった一人丸腰で小田原城に向かう。

 

官兵衛は北条氏に「大軍を前にして籠城すること百日、北条殿の武名は十分、天下に伝わった。」と、北条氏の気持ちに寄り添いながら説得を続ける。

 

戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲むことで和睦がなることを知っていた。

 
北条氏直
  
北条氏直

こうして北条氏は降伏し、難攻不落の小田原城が開城すると、秀吉は事実上の天下統一を成し遂げるが、この時も秀吉は官兵衛に恩賞を与えなかったが、一方で、敵であった北条氏は、自分達に敬意を払って和睦交渉を進めた官兵衛に、北条早雲から伝わる北条氏の家宝・日光一文字(国宝)を贈る。

 

日光一文字
 

1598年、官兵衛が生涯をかけて仕えた秀吉がこの世を去ると、秀吉亡き後の天下への野心を隠さず自らの勢力拡大を画策する徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成との衝突が避けられなくなっていく。

 

こうした情勢において突如、官兵衛は「こういう時こそ絶好の機会が来る。」と動き出し、密かに摂津、備後、周防の3カ所の港に足の速い船を泊め置き、上方の情報をわずか3日で豊前まで伝えさせる環境を整備する。

 

 

官兵衛は秀吉亡き後の天下を狙った壮大な構想を立て、その戦略は、九州の豪族達はそのほとんどが徳川家康と石田三成の対立に呼応して出兵し、もぬけの殻となった九州を平定するのが第一段階とし、次に九州平定で拡大させた戦力を率いて中国地方へと攻め上り、さらに兵を増やしていくのが第二段階、そして最後に徳川家康と石田三成の勝者と対決し、疲弊しているはずの最終決戦の相手を無傷の自分が打ち破り、最終勝利を手中に収めようというものであった。

 

徳川家康
   
徳川家康

この戦略を成就させるには、官兵衛が最終決戦の相手と予想している徳川家康が石田三成と出来るだけ長く戦うことが必要条件である。

 

1600年、石田三成の西軍が、徳川家康の東軍側の伏見城を攻撃すると、その知らせを豊前にいた官兵衛は整備した早舟によっていち早くキャッチした。

 
石田三成
  
石田三成

「花々しく一合戦つかまつる」

官兵衛55歳、今度は己の天下取りのために全知全能を注ぎこんだ戦いが始まる。

 

官兵衛は自分の策略を徳川家康に勘付かれないように、息子・黒田長政に5400の兵を率いらせて東軍に参加させたため、官兵衛が動員できる兵は半分に減ってしまった。

 

そこで官兵衛は、これまで倹約を重ねて貯めていた大金を全てはたいて、農民達を兵として雇いあげると総勢9000の黒田軍がにわかに誕生する。

 

 

豊前の中津を出陣した官兵衛は、隣国の豊後の大友義統(おおともよしむね)と対決し、立石城に追い込むことに成功すると、命の保証を条件に大友義統を降伏させ、その兵を自軍に吸収した。

 
大友義統
  
大友義統

ちょうど同じ頃、徳川家康率いる東軍は74000と、石田三成率いる西軍は82000とが、拮抗する兵力で美濃国の関ヶ原に布陣する。

 

一方、大友氏を降伏させた官兵衛は、わずか4日後、熊谷氏の安岐城を落とし、さらに北上して垣見氏の富来城を攻め立てた。

 
富来城

ところが、破竹の勢いで進軍する官兵衛のもとに「関ヶ原の戦い」の戦況報告が届くと、官兵衛は唖然とする。

 

開戦当初、一進一退で戦線が膠着した「関ヶ原の戦い」は、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を攻撃し始めると、西軍は混乱し、形成は一気に東軍へと傾き、長期戦が予想された天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍が勝利を収めてしまった。

 

さらに、この早期決着の功労者はなんと我が子・黒田長政であったのである。

 

徳川家康の命を受けた黒田長政は、この勝敗を決定付けた小早川秀秋と交渉し、寝返らせることを成功させていた。

 

小早川秀秋
  
小早川秀秋
 

血気盛んなだけと侮っていた息子・黒田長政が、皮肉なことにこの大一番で父の戒めを守り、父親譲りの才能を発揮したことに、官兵衛は「長政の大たわけめ。急いで家康に勝たせてなんになる。」と言って悔しがる。

 

 

想定を大幅に超える誤算から官兵衛は、小倉、久留米、柳川と矢継ぎ早に城を落とし水俣まで進むと、雪だるま式に膨らんだ3万の兵で九州平定を目指して島津氏に迫った。

 

しかし「如水(官兵衛)の働きは底心が知れぬ」と、官兵衛の進軍にただならぬものを察知した徳川家康から官兵衛あてに「今すぐ島津への進軍をやめよ」との書状が届く。

 

九州平定が今だならず、中国、四国を制圧するにはなお一層の時間がかかる現状に、ついに時間切れかと悟った官兵衛は兵を収めて帰国の途についた。

 

水俣
 

豊前に帰国した官兵衛に、息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、黒田長政「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言い放った。

 

なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父・官兵衛の本心を知った黒田長政は絶句したという。

 
黒田長政
  
黒田長政

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は官兵衛に「望みのままの領地を与えよう。」と言ってその本心を探ったが、官兵衛は本望を遂げられなかった悔しさなどおくびも見せず「年老いた私には功名富貴の望みはございません。」と答えた。

 

野心を感じさせるような返答によっては、黒田家の取り潰しの可能性もある場面であったが、官兵衛の答えに徳川家康はそれ以上の追求が出来ず、黒田家は「関ヶ原の戦い」の論功行賞として筑前52万石を与えられる。


福岡城
 

側室を持たなかった官兵衛は生涯を妻ただ一人と添い遂げ、福岡城の一画に屋敷を構えて、妻と水入らずの暮らしを楽しむ余生を送った。

 

1604年、秀吉の死の6年後、官兵衛は59年の生涯を閉じる。

 

 

晩年、官兵衛は病に倒れると家臣達を口汚く罵るようになり、困った黒田長政がなだめに行くと、官兵衛は「わしが嫌われて、早くそなたの世になればいいと思わせるためにしているのだ。」とささやいた。

 

 

 

黒田官兵衛Tシャツ
黒田官兵衛( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



坂本 龍馬 (高知)

坂本龍馬700x1000

183613日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。

 

兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。

 

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩では上級武士と下級武士の間に歴然とした身分の差があり、龍馬はそうした古い体制に矛盾を感じながら育っていく。

 
高知県高知市
 

龍馬は1213歳頃まで寝小便癖があったとされ、気弱な少年でいじめに遭っていたので、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 

 

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門して小栗流という剣術を学び、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得た。


日根野道場

小栗流目録を得た龍馬は剣術修行のために、
1年間の江戸自費遊学に出て、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となる。

 

道場主・千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟で、その道場は小千葉道場と呼ばれ、身分制度が厳しかったために上級武士は千葉周作の「玄武館(大千葉道場)」に所属し、下級武士は小千葉道場の所属とはっきり区別され、共に稽古をすることも無かった。

 

小千葉道場には千葉定吉の他に長男・重太郎と3人の娘がおり、二女のさな子は龍馬の婚約者として知られている。

 

桶町千葉道場

1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。

 

日本に開国を迫る黒船来航に対して、幕府は適切な対応を取ることが出来ず、その後、日本の政治は大きく混乱し、やがて、幕府に代わる新しい政治体制が必要だという声が高まっていくことになる。

 

この動乱にその身を投じることになる龍馬は、剣術修行のかたわら当代の軍学家であり思想家である佐久間象山の私塾に入学するなどしながら、15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

 

黒船来航

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定には実子がおらず、また本人も病弱であったため、その後継者争いが起こっており、徳川家定の病気が悪化した1857年頃からはそれが激化する。

 

土佐藩では藩主・山内容堂が、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍の後継者に一橋慶喜を立て、幕政改革をも企図していた。

 
山内容堂
  
山内容堂

しかし、1858年、井伊直弼が幕府大老に就任すると一橋派は退けられ、大老・井伊直弼は第14代将軍に徳川家茂を就任させると天皇の許可なく開国を強行し、それらを反対する者達を弾圧する「安政の大獄」が起きる。

 

この「安政の大獄」によって、一橋派であった土佐藩主・山内容堂は家督を養子である山内豊範に譲って隠居することを余儀なくされた。

 

井伊直弼
  
井伊直弼
 

土佐藩の尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排斥する)運動の立ち遅れを痛感していた武市半平太は「安政の大獄」により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを謳い、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫るべく「土佐勤王党」を結成する。

 

龍馬はこの「土佐勤王党」の最初の加盟者であったが、薩摩藩・長州藩は尊王攘夷運動の中心である京都に進出しようとする一方で、土佐藩参政・吉田東洋は「土佐勤王党」の主張を却下し続け、土佐藩の尊王攘夷運動は遅れたままであり、これに焦れた吉村虎太郎や龍馬らは脱藩することになっていく。

 
坂本龍馬4

脱藩とは藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となるが、1862年、28歳の龍馬は土佐藩を脱藩し、浪人の身として政治活動に乗り出す。

 

龍馬は家族への手紙に「一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり。日本を今一度、洗濯いたし申し候。」と、例え自分一人でも天下を動かし、新しい日本を作る決意を記している。

 

坂本龍馬5
 

江戸に到着した龍馬は、土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流し、そして、前福井藩主・松平春嶽から紹介状を受けて、幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪問した。

 

尊王攘夷派の龍馬は開国に反対の立場であったが、開国派の勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれると、己の視野の狭さを恥じるとともに勝海舟に感服し、その場で弟子となる。

 

龍馬は姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と絶賛し、その心服はとても深かった。

 

勝海舟
   
勝海舟

勝海舟が山内容堂に取り成しをすることで龍馬は脱藩の罪が許されると、龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走する。

 
海軍操練所
 

勝海舟が幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために、彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させると、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」への乗艦後に「神戸海軍操練所」の設立および勝海舟の私塾の開設が許可された。

 

「神戸海軍操練所」には幕府から年3000(江戸時代の一両は現在の貨幣価値にすると約10万ほどであるが幕末は大きな下落の最中にあった。)の経費の支給が承諾されたが、それだけでは運営資金として不充分であったため、龍馬は松平春嶽から1000両を借入れする。

 
松平春嶽
   
松平春嶽

 

龍馬が生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会ったのはこの頃であった。

 

 

京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きると、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊王攘夷派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の塾生であった望月亀弥太もいた。

 

「池田屋事件」の後、京都の情勢は大きく動き、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩は、薩摩・会津の勢力によって一掃される。

 
池田屋事件

京都を追放された長州勢力は、会津藩主で京都守護職・松平容保らを排除し、京都政治の舞台に戻ることを目指して挙兵するも、たった一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)

 

「禁門の変」で長州兵が御所に発砲したことで、長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に乗じて長州征伐を発令し、抵抗する戦力のない長州藩は責任者の三家老が切腹して降伏恭順する。

 
禁門の変
 

一方で「池田屋事件」で死亡した望月亀弥太のみならず「禁門の変」で長州軍に参加していた安岡金馬も神戸海軍塾の塾生であったため、これらを問題視した幕府は勝海舟を江戸に召還し、神戸海軍操練所の廃止は避けられなくなった。

 

龍馬ら塾生を心配した勝海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬ら塾生を託して、薩摩藩の庇護を依頼する。

 

龍馬ら塾生の航海術の専門知識を重視した薩摩藩は、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」という近代的な株式会社に類似した商業組織が誕生した。

 

「亀山社中」は長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、商業活動の儲けによって利潤を上げること以外に、当時、犬猿の仲であった薩長両藩和解も目的とし、後の薩長同盟成立に大きな貢献をすることになる。

 

海援隊
 

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩では、その大きな戦力となった薩摩・会津両藩に対する根強い反感があり「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけるほどであったが、こうした雰囲気のもとでも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志である土方久元は薩摩、長州の結盟を促し、それをもっての武力討幕を望んでいた。

 

龍馬と土方久元は大村藩の志士・渡辺昇の力添えで長崎にて桂小五郎と会い、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させると、同時に中岡慎太郎が西郷隆盛にその会談に応じるように説得する。
 

桂小五郎2
  
桂小五郎 

 

しかし、西郷隆盛は下関へ向かう途中で、朝廷の方向性が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止する必要性が生じ、急遽、京都へと向かうことになり、下関で西郷隆盛の到来を待つ龍馬と桂小五郎の前に、茫然とした中岡慎太郎だけが現れることとなり、桂小五郎の怒りは激しく、和談の進展は不可能になったかに思える状態であったが、龍馬と中岡慎太郎は薩長和解を諦めなかった。

 
西郷隆盛
   
西郷隆盛

 

幕府は国外勢力に対して、倒幕急先鋒の立場にある長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止していたため、長州藩が近代的兵器の導入が困難であることに龍馬は目をつける。

 

龍馬は薩摩藩名義で新型の武器を調達し、それを密かに長州に転売し、さらに長州藩からは薩摩で不足していた米を回送する策を提案した。

 

この策は両藩にとって完全にWINWINな提案であったため、両藩は自然とそれを納得する。 


ミニエー銃

こうして薩摩藩名義で長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺・ゲベール銃3000挺が買いつけられ、それらは長州藩へと転売され、これが亀山社中の初仕事であり、薩長和解の大きなキッカケとなった。

 

ゲベール銃
 

186618日、小松帯刀の京都屋敷において、ついに桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれ、話し合いは難航したが、龍馬の仲介によって薩長同盟は無事に結ばれた。

 

 

この薩長同盟の成立により、軍事力で幕府に対抗することの出来る新しい政治勢力が誕生し、これによって討幕運動が加速することになる。

 

坂本龍馬2
 

盟約成立から程なく、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と伏見の寺田屋で祝杯を挙げていたが、薩摩と長州の不穏な動きを察知していた幕府は、その鍵を握っている龍馬の動きを追い、伏見奉行は龍馬捕縛の準備を進めていた。

 

明け方2時頃、伏見奉行所から100人以上の捕り方が寺田屋に迫り、一階で入浴していた龍馬の恋人お龍が迫り来る捕り方を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がって龍馬と三吉慎蔵に異変を伝える。

 
楢崎龍
  
楢崎龍
 

報告を聞いた龍馬は、すでに隣の間にひしめいていた捕り方が容易に近づけないように機先を制してピストルを発砲。

 

仲間が撃たれるのを見た捕り方は動揺し、逃げ出す者、むやみに障子を破る者、大混乱の中で龍馬と三吉慎蔵はなんとか屋外に脱出する。

 

負傷していた龍馬は材木場に潜み、三吉慎蔵は旅人を装って薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め、これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

 

後を追って来た捕り方は龍馬の引き渡しを要求してきたが、薩摩藩は「そのような者はいない」と回答し、西郷隆盛は一戦交える覚悟で藩邸の守りを固めさせる。

 

 

しかし、龍馬の放ったピストルの弾が捕り方の命を奪ったため、龍馬は幕府の重罪人として命を狙われるようになり、この寺田屋での乱闘が後々の龍馬の運命を左右することになった。

 

寺田屋
 

薩長同盟成立から5カ月後、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始する。

 

長州藩の求めにより参戦することになった龍馬は、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

 

 

圧倒的な兵力を投入した幕府軍であったが、西洋の新式兵器を装備していた長州軍に連戦連敗し、思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なって病に倒れ、21歳の短い人生を終える。

 

その結果、勝海舟が長州藩と談判を行い、幕府軍は撤兵することとなり、それまで無敗を誇っていた幕府軍は薩長同盟によって最新鋭の武器を手に入れた長州軍に敗北した。

 
徳川家茂
   
徳川家茂

 

幕府の失墜を目の当たりにした龍馬は、薩長と幕府がさらに大規模な戦争を始め、日本人同士が殺し合いを続けることを恐れ、武力を使わず幕府から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」という策を打ち出す。

 

 

1867年、龍馬はお龍を下関に残して旅立ち、これが二人の永久の分かれとなる。

 

 

京都に戻った龍馬は「大政奉還」を実現するため、土佐藩から幕府に「大政奉還」を勧める建白書を提出させた。

 

幕府が自ら政権を返上するかどうか、その最終的な判断を委ねられた将軍・徳川慶喜は、京都二条城にて新しい日本のために250年間保ち続けた徳川家の政権を返上し、自ら身をひくことを諸藩に通達する。

 

龍馬の提案をキッカケに平和のうちに政権が交代することになり、この知らせを聞いた龍馬は徳川慶喜の決断に深い感銘を受け「将軍家、よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公(徳川慶喜)のために一命を捨てん。」と言った。

 
徳川慶喜
   
徳川慶喜

 

「大政奉還」によって政権を手にした朝廷が、大名会議を開くべく全国の大名に集まるよう命令を下すと、龍馬は新しく出来る政府が目指すべき構想をこの大名会議で提出するためにまとめる。

 

龍馬がまとめた構想「新政府綱領八策」には「天下の有名な人材を招く。新たな法律を制定する。議会を開設する。外国との共通為替レートを設定する。」など日本を近代国家へと生まれ変わらせる画期的なものが記されていた。

 

しかし「新政府綱領八策」には「○○○自ら盟主となる。」という個所があり、当然この○○○とは誰を指すのか様々な憶測を生むことになる。

 

この「新政府綱領八策」を目にした越前藩の重役は「龍馬の秘策は 内府公(徳川慶喜)、関白職のことか。」と言い、龍馬が徳川慶喜を新政府の中枢に置こうとしているという憶測が広まった。

 

新政府綱領八策

徳川慶喜が新政権の盟主となることなど絶対に認めることの出来ない薩摩藩は、すぐに公家の一人である岩倉具視を動かし「賊臣・徳川慶喜を殄戮せよ。」という、徳川慶喜を殺害して武力で幕府を倒せという勅令を出させる。

 

幕府を徹底的に叩き潰し、古い勢力を完全に一掃しようとする薩摩藩にとって、龍馬が考えた「大政奉還」は中途半端な妥協策にすぎなかった。

 
岩倉具視
  
岩倉具視 

 

徳川家に仕える武士達の多くは「大政奉還」によってすぐに幕府が無くなるものと受け取っていたため、龍馬は彼らにとって幕府転覆を企てた中心人物として目の仇とされる。

 

ところが、龍馬はそういった情勢を意に介することなく、徳川慶喜の側近・永井尚志と面会し、新政府構想の打ち合わせをするために連日のように外出していた。

 

永井尚志は「大政奉還」の実現に尽力した龍馬と徳川慶喜をつなぐ人物で、龍馬は永井尚志を自分と同じ考えを持つ同志と感じていたが、永井尚志が住んでいた屋敷の周辺には、京都所司代屋敷、京都守護職屋敷、見廻組の屯所など幕府の警察機関の本拠地があり、龍馬にとって永井尚志に接近することは物理的なリスクがあまりに高かったのである。

 
永井尚志
   
永井尚志

 

自分を追ってつけ狙う者の中を白昼堂々と歩いていた龍馬は、その心境について家族への手紙で「成すべき時は今にて御座候。やがて方向を定め、シュラか極楽かに、御供申すべく存じ奉り候。」と、命を失う覚悟を持っていることを記していた。

 

 

また、龍馬が下宿していた醤油屋(近江屋)から目と鼻の先に土佐藩邸があったが、下級武士出身で藩を抜けだした過去を持つ龍馬は藩への遠慮から、土佐藩邸に入ることを避けていたのである。

 

 

そして、龍馬と親しい寺田屋の女将お登勢は、龍馬の命が危ないという決定的な噂を聞きつけると「下宿にいては危険なので早く藩邸に隠れて下さい。」と注意を促したが、龍馬は「心配することはない。」と返答した。

 

坂本龍馬1
 
18671115日、この夜、風邪をひいていた龍馬は近江屋の二階で暖をとりながら親友の中岡慎太郎と、新撰組に捕えられた仲間の処遇を話し合う。

 

龍馬のいる近江屋には土佐藩の関係者が様々な問題を相談するために訪れるようになっており、午後7時、土佐藩の同志・岡本健三郎と中岡慎太郎の書生・峰吉が訪ねて来る。

 

龍馬達4人はしばらく談笑し、午後8時、龍馬の頼みで峰吉はシャモを買うために外出し、岡本健三郎も所用のため近江屋を離れ、近江屋にはその家族の他には、龍馬の護衛役の藤吉、中岡慎太郎、龍馬だけとなった。

 
近江屋

それからしばらく、龍馬の同志が多い土地である十津川の郷士を名乗る男達数人が龍馬を訪ねて来たので、藤吉が取り次ぐと、男達は藤吉の後をつけてそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋へと押し入る。

 

龍馬はまず額を深々と横に斬り裂かれ、全身に数カ所の傷を受けた。

 

男達が去ると、瀕死の龍馬は自らの顔を刀に映して傷の具合を見ると、中岡慎太郎に「脳をやられたから、もうダメだ。」と語りかける。

 

龍馬が31歳の生涯を閉じる一方で、中岡慎太郎はそこから二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について語った。


中岡慎太郎
  
中岡慎太郎

龍馬の死はその後の政局に大きな影響を与え、暗殺から20日後、薩摩藩を中心とする軍勢は京都御所を取り囲むと、その軍事的圧力のもとで公家と一部の有力大名による会議が開かれ、徳川慶喜を新政権から排除する決定が下される。

 
鳥羽・伏見の戦い1

1868年、この決定に反発する旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が京都郊外で激突した「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍に敗北した。

 
鳥羽・伏見の戦い2

平和のうちに新しい政権を作ろうとした龍馬の構想は戦火に消え、この年の9月に元号は明治と改まり、薩摩と長州を中心とした新しい政府が作られる。

 

鳥羽・伏見の戦い3
 

その翌年、幕府の治安警察であった見廻組の元隊士・今井信郎が、龍馬暗殺事件の犯人として逮捕され、今井信郎の自白によると、近江屋に踏み込んだのは見廻組の侍7人で、暗殺の口実は寺田屋で龍馬が幕府の捕り方を射殺した罪というものであった。

 

しかし、今井信郎はなんとわずか一年半で釈放され、幕府側だった今井信郎の助命運動に裏で動いたのは、今井信郎と面識のない西郷隆盛であり、その真意は謎に包まれている。


今井信郎
   
今井信郎


龍馬は死の
7か月前、長崎で貿易商社「海援隊」を結成し「この頃、おもしろき御咄しも、実に山々にて候。世界の咄しも、相成り申すべきか。」と、政治活動に奔走する日々の中でも、海を越えて世界中の国々を相手に貿易をする夢を抱き続けていた。

 

 

 

坂本龍馬Tシャツ

坂本龍馬 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

藤原 純友 (愛媛)

藤原純友700x1000

古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。

 

そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。


瀬戸内海
 

純友は893年頃、太宰府の次官・藤原良範の三男として生まれた。

 

ただ、純友の血統的な面についてであるが、純友は大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国(愛媛県)の豪族越智氏の一族である高橋友久の子であり、藤原良範が伊予に赴任した時に養子になったという説もある。

 
大山積神

血統的な異説が存在するものの、純友は日本史上初の関白に就任した藤原基経が大叔父に持ち、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であったが、早くに父を失い都での出世は諦めざるを得なかった。

 
藤原基経
  
藤原基経
 

931年頃、純友は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って、伊予国で海賊を取り締まる地方官として赴任し、瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧する側であったが、任期を終えた後も京都に帰らず伊予に土着する。

 

任期中に海賊勢力とのつながりを持った純友は、その人脈を利用して朝廷の貯蔵米を奪うようになり、936年頃までには海賊の頭領となった。

 

純友は伊予の日振島(愛媛県と大分県との間の宇和海にある島)を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1000艘を超える船を操って周辺の海域を荒す大海賊団を組織し、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばして反乱を起こす。

 

日振島
 

この頃、ほぼ時を同じくして関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしており、小説等で描かれることのある平将門と藤原純友の共謀説は創作なのだが、同時期に陸と海で大規模な反乱を起こした二人はお互いにその噂に勇気づけられていたことは間違いない。

 

「藤原純友の乱」は「平将門の乱」と併せて「承平天慶の乱」と呼ばれる。

 
承平天慶の乱
 

純友はその活動範囲を瀬戸内海から畿内に伸ばすと、939年には部下の藤原文元に、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹(「介」は行政官として中央から派遣される国司の四等官(守・介・掾・目)の一つ)を摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)にて襲撃させた。

 

 

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は瀬戸内海の海賊を撲滅すべく様々な対策をし、その中には投降した者には一切罪を問わないだけでなく所領や金銭などの報酬まで用意する「恩赦」というものもあって、これにより2000人を超える海賊が投降した。

 

反乱を思いとどまらせるために朝廷は純友に対しては、従五位下という伊予国の最高地方役人と同じ位の官職を与えて懐柔をはかり、兵力を東国の平将門鎮圧に集中させる。

 

しかし、純友は940年に淡路国(淡路島)の兵器庫を襲撃して兵器を奪い、その海賊行為は活発になった。


淡路島
 

この頃、京都の各所で放火が頻発し、そこへ純友が京都に向かっているという報告もあったため、朝廷は純友が京都を襲撃するのではないかと恐れて、宮廷に兵を配備し、山城国(京都府南部)の入り口となる山崎の警備を強化するが、山崎は謎の放火によって焼き払われる。

 

この一連の出来事から、純友の勢力は瀬戸内海のみならず、平安京周辺から摂津国(大阪府北中部の大半および兵庫県南東部)の「盗賊」と呼ばれる武装した不満分子にも浸透しており、純友による京都への直接的脅威は極めて深刻な状況であった。

 

山城国
 
ところが、関東の「平将門の乱」が鎮圧され、大軍を西国に送りこめるようになった朝廷は、純友討伐に積極的になり、征西大将軍に任命した小野好古(おののよしふる)を追捕使長官に、源経基を次官とした追捕使軍を出陣させる。

 

小野好古
  
小野好古
 

「平将門の乱」が鎮圧されたことに動揺した純友は、根城である日振島に船を返すが、その後、伊予国や讃岐国(香川県)の国府を焼き討ちして財産を奪い、備前国(岡山県東南部など)・備後国(広島県東半分)の兵船100余艘を焼き、さらに長門国(山口県西半分)を襲撃して官物を略奪すると、貨幣鋳造をつかさどった周防国(山口県東南半分)の鋳銭司を焼き討ち、土佐国(高知県)幡多郡を襲撃するなど大胆に活動を展開した。

 

周防国の鋳銭司

941年、純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降ると、朝廷軍は純友の根城である日振島を攻めて制圧すると、純友軍は西に逃れて九州の太宰府を襲撃して占領する。

 

 

純友の弟・藤原純乗は筑後国(福岡県南部)柳川に侵攻するが、朝廷側の大宰権帥(大宰府の長官の定員外の官人)・橘公頼の軍に敗れた。

 
太宰府
 

小野好古率いる朝廷軍は九州に到着すると、小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から純友軍を攻撃し、純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実の軍を迎え撃った「博多湾の戦い」で激戦の末に大敗し、800余艘を奪われた純友は息子の藤原重太丸と小舟に乗って伊予国(愛媛県)へ逃れる。

 

藤原純友1
 
しかし、一カ月近くに渡って繰り広げられた激闘に敗れた純友は、伊予に潜伏しているところを伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕えられ、純友・藤原重太丸の親子は首を切られた。

 

二人の首は朝廷へ進上され、橘遠保は純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられる。

 

純友神社
 

藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社、愛媛県新居浜市の中野神社がある。

 

 


藤原純友Tシャツ
藤原純友 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



平賀 源内 (香川)

平賀源内700x1000

1728年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石茂左衛門の三男として生まれる。

 

 

白石家はもともと信濃源氏大井氏流平賀氏であったが、戦国時代の1536年、平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受けて滅ぼされた。

 

その後、平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕えると白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ移ると、讃岐高松藩で足軽身分となる。


武田信虎
  
武田信虎
 

源内は12歳の時に「お神酒天神」という掛け軸を作成した。

「お神酒天神」は天神様の頬の部分を丸くくり抜き、その後に肌色と赤色を上下に塗った紙を糸で吊るし、徳利を乗せると徳利の重さで糸が引かれて裏に仕込んだ紙が引っ張られると、赤色の紙がスライドするため、御神酒を供えると天神様がお酒を飲んで赤くなったように見える仕掛けである。

 

お神酒天神
 
この「お神酒天神」が評判となり、源内は13歳から中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である本草学や儒学(孔子の唱えた倫理政治規範を体系化して長く中国の学問の中心であった)を藩医のもとで学ぶ。

 

また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。

 

1748年、父・白石茂左衛門が死去し、源内は戦国時代の先祖にちなんで平賀に改姓した。

 

1752年頃に1年間、源内は長崎へ遊学し、本草学の研究の他に様々なオランダの文物に刺激され、オランダ語、医学、油絵などを学び、帰郷して間もなく藩の役目を辞し、さらに家督を妹婿に譲る。


長崎
 

源内はヨーロッパの歩数計を改良した量程器(万歩計の先祖)や磁針器(方位磁石)などを製作し、大坂や京都で学んだ後の1756年、江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りすると同門の小浜藩医・中川淳庵を介して生涯の盟友となる杉田玄白と知りあった。

 

杉田玄白
  
杉田玄白
 
1757年、源内は師である田村元雄を説いて湯島で第1回薬品会を開催し、これ以後、同志同好の者が珍種奇品を持ち寄る共同品評会を毎年のように開催し、江戸幕府老中・田沼意次にもその存在を知られるようになる。

 

田沼意次
  
田沼意次
 
1759年、源内は高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るため再び辞職したため「奉公構(家臣に対する刑罰で、旧主の赦しがない限り他家への仕官が禁止される)」となった。

 

 

1762年、源内主催で第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催し、全国的ネットワークによって内外1300種の動植鉱物を集めて陳列し、江戸における知名度を一層に上げる。

 

翌年、全5回の出品物の中から360種の主要品目を選んで、それらに実証的な解説をつけて挿図をそえた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。

「物類品隲」は日本博物学史上の画期的な業績と評されている。

 

物類品隲
 
オランダ博物学に関心を持っていた源内は西洋博物書を次々に入手し、杉田玄白らと江戸参府中のオランダ商館長一行やオランダ通詞(江戸幕府の公式通訳者)らと問答して西洋博物書を読解した。

 

蘭学
 
また、文芸活動も行い、江戸の風刺戯作の先駆けとなる談義本「根南志具佐」「風流志道軒伝」を刊行。

 

根南志具佐

1766年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発(現在のニッチツ秩父鉱山)を行い、石綿などを発見し、これによって火浣布(耐火織物)を作るという産業起業的な活動を行い、以後、秩父での鉱山経営の試みは晩年まで続く。

 

現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が長期滞在した建物が「源内居」として残っている。


源内居
 

1769年、歯磨き粉「漱石膏」のCMソングを作詞作曲し、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、それぞれ報酬を受けていることから日本におけるコピーライターのはしりと評されている。

 

 

1770年、自作浄瑠璃「神霊矢口渡」を初演した後、田沼意次の命で蘭(オランダ)書翻訳のために長崎へ遊学するが、蘭書翻訳ではなく洋風油絵「西洋婦人図」を描いたり、海外製の羊毛による羅紗(ラシャ)試織を手土産に江戸に戻ってきた。

 

西洋婦人図
 
1773年、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、その間に同藩の小田野直武や藩主・佐竹義敦に洋風画法を伝授する。

 

佐竹義敦
  
佐竹義敦
 

1776年、源内は破損していたエレキテルを修理して復元することに成功。

 

エレキテルとは、摩擦を利用した静電気の発生装置で、木箱の中のガラス円筒をハンドルで回転させると、金箔との摩擦によって静電気が発生し、このたまった静電気を銅線によって外部に導いて放電するという仕組みで、オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。

 

源内は1759年に長崎で壊れたエレキテルを持ち帰ったとされているが、源内は電気の発生する原理を陰陽論や仏教の火一元論などで捉え、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったため、すぐには修理が出来ない。

 
平賀源内2

しかし、それは無理もない話で、当時、電気の理解に関しては西洋もまだ手探り状態で、エレキテルの蓄電器にも使われていたライデン瓶が発明されたのが1746年、ベンジャミン・フランクリンが雷が電気であることを突き止めたのが1752年、日本にはこうした情報が断片的に入っていたに過ぎない。

 
ベンジャミン・フランクリン
  
ベンジャミン・フランクリン

源内は手に入れたエレキテルを数年間、仕方なく放置していたが、通詞の助けなども借りながら原理を勉強して、その仕組みを理解していった。

 

源内は復原したエレキテルを金持ちへの見世物に使って大人気となるが、一瞬バチッとやって人を驚かせるだけという用途であるため、これがもとで江戸の電気学が発展することはなく終わる。

 

エレキテル
 
エレキテルの復原には成功した源内であるが、一方で秩父鉱山は挫折し、1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた源内は修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷して投獄された。

 

そして、その後ほどなく、51歳で破傷風により小伝馬町の獄中で死去する。

 

平賀源内1
 

葬儀は杉田玄白らの手により行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

 

墓所は浅草橋場(現在の東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。

 
浅草橋場

また、源内の義弟として平賀家を継承した平賀権太夫が、源内を一族や故郷の人々の手で弔うために、さぬき市志度の自性院に墓を建てた。

 
自性院
 

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる源内は、数多くの号を使い分けており、画号の「鳩渓」、俳号の「李山」をはじめ、戯作者として「風来山人」、浄瑠璃作者として「福内鬼外」の筆名を用い、殖産事業家としては「天竺浪人」、生活に窮して細工物を作り売りした頃には「貧家銭内」などといった別名を使っている。

 

 

 

平賀源内Tシャツ
平賀源内 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

三好 長慶 (徳島)

三好長慶700x1000

1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




三好長慶Tシャツ
三好長慶 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

吉田 松陰 (山口)

吉田松陰700x1000

1830年、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。

 

1834年に松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、1835年に吉田大助が死亡すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学者としての教育を受けた。


山口県萩市1

松陰は9歳にして長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時、長州藩主・毛利慶親の前で兵法の講義を行い、称賛は受ける。

 

13歳の時には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施した。


萩藩校明倫館
 

しかし、イギリスから輸出されるアヘンの中毒者が社会問題になりアヘン禁止論が高まった清(16441912年まで中国とモンゴルを支配した統一王朝)がアヘンに対する取り締まりを強化していく過程が武力衝突に発展した「アヘン戦争」で、清がイギリスに大敗したことを知ると、松陰は山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し、西洋兵学を学ぶために1850年から全国を巡る度に出る。

 

アヘン戦争

この旅の途中、松陰は江戸では佐久間象山などに師事し、そして1853年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれたのであった。

 
佐久間象山
  
佐久間象山
 

黒船は蒸気を動力にした最新鋭の船で、それまで目にしたことがないような巨大な船体に30門の大砲を搭載し、ペリーはこの黒船の武力を誇示して鎖国していた江戸幕府に開国を要求したため、幕府の役人は狼狽し、国内は大騒ぎとなる。

 
マシュー・ペリー
  
マシュー・ペリー
 

松陰は今後は西洋のことを知り、西洋の兵学を学ばなくてはならないと痛感し、この考えに賛同した当時23歳で長州藩出身の金子重之助は松陰を慕って行動をともにするようになった。

 

 

当時、幕府の許可なく外国に渡航することは固く禁じられおり、これを犯せば重い罪にとわれるが、松陰と金子重之助の二人は黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考え、黒船が停泊する下田へと赴く。

 
黒船

いよいよ決行の日、深夜、松陰と金子重之助は小船に乗って沖の黒船を目指すが、小舟は櫓(和船における漕具の一つ)を船に固定する金具がはずれていたため、二人はふんどしを外して櫓を船に結びつけて漕ぎ、どうにか黒船に辿り着く。

 

松陰は懸命に筆談を試みるが全く伝わらず、アメリカ人の船員は向こうの船に通訳がいると指差すので、二人は荒れ狂う海の中を再び小舟を進めて、ついに通訳にアメリカに連れて行って欲しいという意思を伝える。

 

しかし、その願いは聞き入れられず、二人は下田に連れ戻された。

 

下田

1854年、松陰と金子重之助は密航を企てた罪に問われ、長州藩内の牢獄に入れられることになる。

 

松陰は一人一室が与えられる武士階級の牢獄に入り、農民出身の金子重之助は衛生状態の良くない雑居房に入れられた。

 

もともと体が弱かった金子重之助は獄中で衰弱し、ついには獄中で命を落とす。

 

志も同じ、犯した罪も同じ、なのに身分が違うとなぜこれほど待遇が変わってしまうのかと、松陰は金子重之助の死から身分制社会の現実を実感し「吾れ独り生を偸み。涙下ること雨のごとし。」と悲しんだ。

 

吉田松陰4
 
松陰が入れられた獄には12の独房があり、75歳で獄中生活48年の大深虎之允(おおふかとらのじょう)、家族から見放されて牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣、入獄と出獄を3度繰り返している平川梅太郎、元寺子屋の教師で在獄6年になる吉村善作など他の独房にいる囚人達と松陰は知り合った。

 

そんな囚人達の中にただ一人、高須久子という女性がおり、彼女は三味線が好きで武家の女性でありながら、様々な人を身分の分け隔てなく自分の屋敷に呼び、時には武士の家に出入りすることが許されない人まで招待していたことが投獄の理由とされている。

 

江戸時代という管理社会において、社会の上層と底辺が付き合うというタブーを冒す者を世間の目に触れさせておくことは許されなかった。

 

松陰は人間を身分ではなく心で判断する高須久子とウマがあい、互いの素性について深く語り合うこともあるほど親しくなる。

 

吉田松陰3
 
そんな獄中生活で松陰は、それぞれの囚人が優秀な能力を持っていることを知っていき、互いに得意なことを教え合うということを始め、書の指導を頼んだ富永有隣は人に教えるうちに次第に自信に満ちた表情になり気難しい性格に変化があらわれた。

 

「人、賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし。」そんなことを体感した松陰に、1855年、獄を出て自宅で謹慎するようにという命令が届く。

 

高須久子は松陰との別れにいたって「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな。」という句を詠んだ。

 

吉田松陰2
 

松陰は獄を出て萩の自宅に戻ると、1857年に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、牢獄での経験を活かした教育を行うようになる。

 

10畳半と8畳のわずか二部屋の松下村塾に、松陰を慕う若者が多い時には一日30人集まり、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々が、松陰の教育に触れた。

 

 

塾は常に開け放たれ、出入りするのに時間や回数の制限もなく、1日に3回訪れる塾生もいれば、夜に来て朝に帰る塾生もおり、もちろん身分に分け隔てなく武士も町人も様々な身分の人が同じ部屋で学んだ。


伊藤博文
  
伊藤博文

松陰は、多くの情報に接してそれに基づいた行動をしなければならないという意味である「飛耳長目」という言葉を合言葉に掲げ、講義だけでなく共に話し合う討論会も重視する。

 

松陰は「沈黙、自ら護るは、余、甚だ之を醜む。」と言い、身分を越えての人と人のぶつかり合いが最も大切な教育だと考えていた。

 
 

松陰が「才能も気概も一流」と最も高く評価した久坂玄瑞は、松陰に代わって講義をすることもあり、そして、その久坂玄瑞に誘われて塾の門を叩いたのが19歳の高杉晋作である。

 

久坂玄瑞
  
久坂玄瑞
 
松陰は高杉晋作が塾にやってきた頃の印象を「晋作の学問はさほど進んではいないにもかかわらず、意にまかせて勝手にふるまう癖がある。」と語っているが「晋作はいずれ大成する人物である。彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない。」と無理に型にはめようとはしなかった。

 

高杉晋作1
  
高杉晋作
 

1857年、外国人が日本で起こした事件を日本が裁けない不平等な内容が盛り込まれた「日米修好通商条約」を結ぶようにアメリカが幕府に対して強硬に迫ると、国内の世論はアメリカとの関係を巡って紛糾する。

 

 

こうした情勢は萩にも伝わり、松陰はこの事態に日本がどう対応すべきか塾生達に考えさせた。



高杉晋作は「今は外国の圧力に耐え、富国強兵につとめなければならない。西洋の知識と技術を導入して、人材の育成を図らなくてはならない。国力をつけた上で外国と対等な関係を築くべきだ。」という内容のレポートを書き、これを読んだ松陰はその内容に驚き、評価し、その影響を受けた「西洋歩兵論」という論文を書く。

 

「西洋歩兵論」は「西洋の歩兵制を採用して身分にとらわれず志があれば足軽や農民も募るべきだ。」という内容で、戦うのは武士であり農民や町民は武器をとってはならないと教えられていた当時では想像の及ばない画期的なものであった。

 

松下村塾2
 

1858年、江戸幕府の大老・井伊直弼らは、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印するなどし、それらの対応に異議を唱える思想家達が次々に幕府に逮捕され弾圧される「安政の大獄」が始まる。

 
井伊直弼
  
井伊直弼
 

こうした動きを知った松陰は、日に日にこのまま幕府に日本を任せてはおけないという思いを強め、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、幕府を倒すために過激な行動を取れと主張するようになった。

 

こうした松陰の過激な言動は、長州藩の知るところとなり、藩に危険視された松陰は再び投獄される。

 

 

松陰を慕っていた塾生達も倒幕という急進的過ぎる発想にはついていけず、再投獄後の松陰は塾生達との溝を深めて断絶状を書き送った。

 
松下村塾1
 

しかし、獄中で再会し、松陰の心の支えとなった高須久子を通じて、松陰は例え自分一人が立ち上がり倒れても、きっと志ある者が後を継いでくれるに違いないと考えを改めるようになる。

 

 

松陰は、志のある者が立場をこえて同じ目的を持っていっせいに立ち上がることを説いた「草莽崛起」として後世に知られる文書をしたためた。

 

 

さらに松陰はこの頃、高杉晋作に塾生達に怒ったことを悔いる手紙を送り、出獄したあかつきには塾生達とともに行動しようと考えるようになる。

 
 

しかし、1859年、尊皇攘夷を求める志士達の先鋒となって幕政を激しく批判し「安政の大獄」2人目の逮捕者となった梅田雲浜が萩に滞在した際に松陰と面会していたことなどから、松陰は幕府の命令で江戸の伝馬町牢屋敷に移されることになった。

 

伝馬町牢屋敷
 
高杉晋作ら塾生達は、松陰の身を案じて江戸の長州藩邸に集まり、松陰を獄から助け出そうと画策する。

 

松陰はそんな高杉晋作に死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」という内容の手紙をしたためた。

 

 

幕府が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白してしまい、結果、18591027日、松陰は斬首刑に処され、29歳でその生涯を閉じる。

 

 

松陰は遺書で「私は30(享年)、四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは、私の知るところではない。もし同誌の諸君の中に私のささやかな真心を哀れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。」と記した。

 

吉田松陰1
 

松陰の死後、高杉晋作は、志があれば身分にかかわらず誰でも入ることが出来る新しい軍隊「奇兵隊」を創設する。


奇兵隊
 
塾生の一人であった吉田稔麻呂は「維新団」「一新組」という長州軍の主力となる軍隊を作った。

 
吉田稔麿
  
吉田稔麻呂

1868年、明治時代になると、新政府の要人には山県有朋や伊藤博文といった松下村塾の塾生達が名を連ね、新しい日本を築いていく。

 

山縣有朋
  
山県有朋 


高須久子は元号が明治と改められたその年におよそ16年の獄中生活を終えたといわれ、出獄後も死ぬまで松陰の書を肌身離さず持っていたという。

 

 


吉田松陰Tシャツ
吉田松陰 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに
 

 

毛利 元就 (広島)

毛利元就700x1000

 

1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。

 

出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。

 

 

1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。

 
多治比猿掛城


1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元が酒毒が原因で死去。

 

元就はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出され、元就はその哀れな境遇から「乞食若殿」と言われる。

 

 

この厳しい時期の元就を支えたのは養母の杉大方で、後に半生を振り返った元就は「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と書き残しており、杉大方が元就に与えた影響は生活や基本的な教育のみならず感性にも及んでいた。

 

 

1511年、杉大方は京都にいた元就の兄・毛利興元から元就の元服の許可を貰い、元就は「多治比元就」を名乗って分家を立てる。


毛利元就1

1516年、毛利興元が父と同じく酒毒で急死した。

父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場では自分は下戸だと言って酒を飲まなくなったという。

 

毛利家の家督は毛利興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少だったため叔父である元就が後見することになった。

 


毛利弘元、毛利興元と2代続く当主の急死、それを継いだ幸松丸はわずか2歳で、その後見役の元就が20歳、という不安定な毛利家の状況を好機と見た佐東銀山城主・武田元繁が吉川領(吉川氏は毛利氏と同様に大内氏を主家としていた)の有田城(広島県山県郡北広島町有田)へ侵攻する。

 

主家の大内氏が主力を京都に展開しており、援軍は望めない状況で元就は有田城救援のために出陣。

 
有田城
 

元就はこの自身にとって初陣である「有田中井手の戦い」で、まず武田軍先鋒で猛将として名高い熊谷元直の軍を撃破し、熊谷元直は討ち死にした。

 

有田城攻囲中の武田元繁は熊谷元直が敗れた知らせを聞くと怒りに打ち震え、有田城の包囲に一部の兵を残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍の迎撃に出る。

 

 

武田元繁は「日本の項羽(三国志の呂布を超える豪傑にして秦帝国を滅ぼした西楚の覇王。中国史を代表する人物の一人)」とも謳われた勇将で、小勢力の毛利氏や吉川氏には荷が重い相手と見られ、戦況も数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討ち死にすると武田軍は混乱して壊滅。

 

安芸武田氏は当主の武田元繁のみならず多くの有能な武将を失い退却することになる。

 

 

この「有田中井手の戦い」は西国の桶狭間と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大のターニングポイントとなり、毛利元就の名が世に知られるようになるキッカケであった。

 

有田中井手の戦い
 

1523年、鏡山城(広島県東広島市)で起きた尼子氏と大内氏による「鏡山城の戦い」で、大内氏側から尼子氏側へ鞍替えした元就は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始し、膠着状態となった戦況を巧みな智略で攻略し、その活躍から毛利家中での信望を高める。

 
鏡山城の戦い
 

この頃、元就は吉川国経の娘を妻に迎え、27歳で長男・隆元が生まれた。

 

また、毛利家当主である甥・幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子で重臣達の推挙もあったことから、27歳で毛利家の家督を継いで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に入城し、毛利元就と名乗ることになる。


吉田郡山城
 

ところが、元就が家督を継いだことに不満を持った坂氏・渡辺氏などの有力家臣団が、尼子氏の重臣・亀井秀綱の支援を受けて元就の異母弟・相合元綱を擁立して対抗したため、元就は相合元綱一派を粛清・自刃させることになった。

 

相合元綱は異母弟とはいえ元就との兄弟仲は良かったため、尼子氏の計略に乗ったことを恥じたという。相合元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられる。

 

家臣団の統率をはかるため粛清せざるを得なかったが、元就は相合元綱を亡くしたことを寂しがり、僧侶になっていた末弟・就勝(元就・相合元綱の異母弟)を還俗させると北氏の跡を継がせて側に置いた。

 

毛利元就2

家督相続問題をキッカケに元就は、尼子経久と敵対関係となっていき、1525年、尼子氏と手切れして大内義興の傘下となることを明確にした。

 

1529年、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐し、元就は高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。

 

 

一方、父・弘元が仲良くするようにと言い遺しながらも兄・興元の代で戦になった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、元就は宍戸元源に高橋氏の旧領の一部を譲り、1534年に元就の娘・五龍局を宍戸元源の孫・宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。

 

 

1533年、大内義隆が後奈良天皇に、元就の祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事にならって元就に官位を授けるように申し出た。

 

そして、これは元就が4,000(現在の貨幣価値で約500万円)を朝廷に献上する事で実現し、元就は推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果を得る。

 

1537年には、大内氏へ元就の長男・毛利隆元を人質として差し出し、さらに関係を強化した。


毛利元就3
 

1540年、大内氏と対立する尼子晴久(尼子経久の後継者)の尼子軍3万が吉田郡山城を攻めると、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000で迎え撃ったが、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この「吉田郡山城の戦い」に勝利し、安芸国の中心的存在となる。

 

そして、同年、尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏を滅亡させると、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

 

吉田郡山城の戦い
 

尼子氏が「吉田郡山城の戦い」で敗れたことにより、尼子氏側だった国人領主達からも大内氏側に付く者が続出し、大内氏のもとには尼子氏退治を求める声が強くなり、1542年、大内義隆は毛利氏などの諸勢力を引き連れて出雲国の月山富田城(島根県安来市)へ出兵する。

 

この「第一次月山富田城の戦い」は、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎて補給線と防衛線が寸断されたことにより、大内軍は敗走した。

 

この敗走中に元就は死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして奮戦して戦死したことにより、無事に安芸に帰還する。

 

 

この頃から元就は常に大大名の顔色をうかがう小領主の立場からの脱却を考えるようになった。

 
第1次月山富田城の戦い
 

1541年に「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけてくれた小早川興景が子もなく亡くなったため、竹原小早川氏の家臣団から元就の三男・徳寿丸を養子に欲しいとの要望があり、1544年、徳寿丸は強力な水軍を擁する竹原小早川氏へ養子に出される。

 

徳寿丸は元服後に小早川隆景を名乗るようになった。

 

 

1545年、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くし、特に妙玖が亡くなった悲しみは深く、後々まで手紙などに妻を追慕する内容を書き残している。

 

 

「第一次月山富田城の戦い」で裏切り行為をした吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、一族が分裂して家中の統制ができなくなり、吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。

 

さらに反興経派は元就の次男・元春を吉川氏の養子にしたいと再三の要求を出し、元就がこれに応じたことにより、家督を乗っ取る形で元春は吉川家の当主となる。

 

しかし、興経派を警戒していた元就は吉川元春をなかなか吉川家の本城へは送らなかった。

 

吉川元春は長男・元長が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていたが、1550年、元就の命で将来の禍根を断つため吉川興経とその一家が殺害されると、ようやく吉川元春は吉川氏の本城に入る。

 
吉川元春
   
吉川元春
 

また元就は「第1次月山富田城の戦い」で当主であった小早川正平を失った沼田小早川氏の新たな当主である小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させると、小早川繁平を出家に追い込み、元就の実子で竹原小早川氏の当主になっていた小早川隆景に沼田小早川氏も継がせた。

 
小早川隆景
  
小早川隆景
 

こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏には元就の次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏には元就の三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして両家の勢力を取り込み、毛利氏の勢力拡大を支える「毛利両川体制」が確立し、安芸一国の支配権をほぼ掌中にする。

 

毛利氏
 

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害させられ、養子の大内義長(豊後大友氏・大友義鑑の次男)が擁立され、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏の血統が絶え、西国の支配構造は大きく変化していく。

 

 

以前から陶晴賢と通じて安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた元就は、これを背景に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃した。

 

 

ところが、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は元就に支配権の返上を要求し、元就がこれを拒否すると、両者の対立が色濃くなっていく。

 
大内義隆
  
大内義隆
 

この当時、陶晴賢が動員できる大内軍3万以上に対して、毛利軍の最大動員兵力は40005000であったため、正面衝突すればとても勝算が無かった。

 

 

1553年、陶晴賢に自害に追い込まれた大内義隆に恩義のあった津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)主・吉見正頼が、陶晴賢に対して挙兵する。

 

吉見氏と陶氏の両方から加勢を求められていた毛利氏の家中は意見が割れるが、元就は大内氏からの離反・独立を決め、陶晴賢に対して反旗を翻した。

 

 

激怒した陶晴賢は即座に重臣の宮川房長に3000を率いらせて毛利氏攻撃を命じるが、元就はそれを撃破し、宮川房長は討ち死にする。

 

 

1555年、今度はついに陶晴賢が自ら2万~3万の大軍を率いて、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく出陣、しかし毛利軍の奇襲攻撃に苦しめられ、さらに厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利氏に味方し、退路を断たれた陶晴賢は自害することになった。

 
 

 

元就が大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破した勢いで周防(山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の両国攻略を計画すると、大内軍は蓮華山城・鞍掛山城・須々万沼城・富田若山城・右田ヶ岳城などに兵を配備して毛利軍を迎撃する準備を整える。

 

 

しかし、この頃、大内氏の家臣団の内部崩壊が進んでいたこともあり、大内軍は毛利軍の進軍を防ぎ切れず、大内氏当主・大内義長が自害に追い込まれたことで大内氏は完全に滅亡し、これにより毛利氏は九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

 

津和野城
 

1556年、元就は次男・吉川元春らを石見国へと進め、石見銀山防衛のため築城された山吹城(島根県大田市大森町)の刺賀長信を服属させて石見銀山を支配下に置くが、尼子晴久はすぐに山吹城と石見銀山を奪取すると、山吹城に本城常光を置いて石見銀山の守りを固める。

 

さらに、尼子氏と結んで毛利氏に抵抗する石見の有力豪族・小笠原長雄が石見攻略の大きな障害となっていた。

 

1559年、毛利氏が小笠原長雄の籠る温湯城(島根県川本町)を落城させ山吹城を攻撃した「降露坂の戦い」は、本城常光の奇襲とそれに合流した尼子晴久本隊の攻撃を受けて毛利氏は大敗する。

 

降露坂の戦い
 

1561年に尼子氏当主・尼子晴久が死去し、尼子晴久の嫡男・尼子義久が家督を継ぐと、1562年、元就は出雲侵攻を開始し、これに対して尼子義久が難攻不落の月山富田城に籠城して尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った「第二次月山富田城の戦い」において、元就は月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功した。

 

 

元就は大内氏に従って敗北を喫した「第一次月山富田城の戦い」を教訓に無理な攻城はせず、城内の食料を早々に消耗させ、それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘う策略を張り巡らし、1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久は降伏を余儀なくされる。

 

 

こうして石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼしたことにより、元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。

 
石見銀山
 

しかし、中国地方8ヶ国を支配した元就であったが、尼子氏残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入したり、元就によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。

 

それらは毛利氏にとって厳しい時期となったが、吉川元春、小早川隆景ら優秀な息子達の働きにより乗り切ることに成功した。

 

 

 

1560年代の前半より度々体調を崩していた元就に対して、室町幕府将軍・足利義輝が名医・曲直瀬道三を派遣して治療に当たらせる。

 

その効果もあったのか、元就の体調は持ち直し、1567年にはなんと最後の息子である才菊丸が誕生した。

 
足利義輝
  
足利義輝

しかし、1571年、吉田郡山城において、死因は老衰とも食道癌ともいわれるが74歳で死去する。

 

 

毛利家の家督はすでに嫡男・毛利隆元に継承済であったが、隆元が1563年に亡くなっていたため、元就の孫・毛利輝元(隆元の嫡男)が継いだ。

 

 

 
毛利元就Tシャツ
毛利元就 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

尼子 経久 (島根)

尼子経久700x1000

1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。

 

それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。


応仁の乱
 

1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この間に元服する。

 

経久は京都での滞在生活を終え、出雲に戻った後、父から家督を譲られた。

 

 

経久は尼子家の当主になって以降、次第に国人衆(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)との結束を強くし、この過程で室町幕府の命令を無視して京極政経の寺社領を押領するなどして独自に権力基盤を築く。

 

尼子経久2

しかし、こうした権力基盤の拡大は室町幕府や主君・京極政経の反感を買い、1484年、経久は居城を包囲され、守護代の職を剥奪される。

 

守護代の職を失っても経久は出雲で一定の権力を保持しており、1488年、経久は三沢氏(出雲の国人)を攻撃して降伏させた。


尼子経久2a
 

1500年、経久は守護代の地位に返り咲くと、近江国(滋賀県)において起こった京極氏の家督相続を巡るお家騒動で敗れた京極政経との関係を修復させる。

 

1508年、京極政経が死去すると、経久は出雲大社の造営を行い、宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の支配者としての地位を固めていく。

 

 

京極政経は孫の吉童子丸に家督を譲り、関係を修復させた経久にその後見を託したが、程無くして吉童子丸は行方不明となり、経久は事実上の出雲の支配者となる。

 

出雲大社
 

尼子氏にとって、中国地方で一大勢力を築いていた大々名である大内氏との関係は大きな問題であった。

 

 

1511年、大内氏当主・大内義興が細川高国ととも室町幕府将軍・足利義稙を擁立し、それに対抗して前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元が戦った「船岡山合戦」に、経久は大内義興に従って参加する。

 
船岡山合戦
 

この頃、経久の次男・尼子国久は細川高国から、経久の三男・塩冶興久は大内義興から偏諱(将軍や大名が功績のあった者などに自分の名の一字を与える)を受けており、経久は両者(大内義興・細川高国)との関係を親密にしようとしていた。


大内義興
  
大内義興

しかし、一方で、経久は1512年に大場山城(広島県福山市本郷町)主・古志為信の大内氏への反乱を支援していたり、1517年に大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護であった山名氏と手を結んで大内氏領の城を攻めるなど、次第に大内氏の影響下にある石見や安芸への野心を見せるようになる。

 

なぜなら、備後国(広島県の東半分)の山内氏や安芸国(広島県西部)の宍戸氏など国境を接する領主達の出雲国内への影響力は無視できないもので、経久が出雲国支配を安定させるうえで備後・安芸への進出を視野に入れないわけにはいかなかった。

 

大場山城
 

1520年、経久は出雲国西部の支配を確立させると、ついに石見国(島根県西部)、安芸国に侵攻し、ここから、北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才といわれた経久が、領地を広げ、尼子氏の全盛時代を作っていくことになる。

 

 

1523年、経久の重臣・亀井秀綱の命で、この時まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に、大内氏の拠点である鏡山城(広島県東広島市)を攻めさせた。

 

毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である毛利元就は、鏡山城内への寝返り工作を謀るなどして、見事に鏡山城を落城させる。


鏡山城
 

ところがこの後、毛利元就の異母弟・相合元綱らが毛利元就の暗殺を計画すると、相合元綱が尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾にしていたことから、毛利元就の暗殺計画に経久の意志が絡んでいることは明白であったため、暗殺計画に気付いた毛利元就は相合元綱を殺害すると、尼子氏との関係を解消して大内氏に鞍替えすることになった。

 

 

1524年、経久は伯耆(鳥取県中部・西部)に侵攻すると、伯耆羽衣石城主・南条宗勝を破り、さらに伯耆守護・山名澄之を敗走させる。

 
伯耆羽衣石城
 

1526年、伯耆・備後の守護職であった山名氏が反尼子であることを鮮明にし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲されるという窮地に立たされた。

 

 

1527年、経久は備後国へと兵を出兵するも大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)に敗れたため、尼子側であった備後国人の大半が大内氏へと寝返っていく。

 

1528年、再び経久は備後国へと出兵し、多賀山氏の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を陥落させるも、石見国における尼子側の高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされる。


蔀山城
 

そして1530年、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けた経久の三男・塩冶興久が、反尼子を鮮明にして大規模な反乱が勃発した。

 

 

経久はこの危機を大内氏の支援を仰ぐなど、巧みな処世術を駆使して切り抜け、1534年にこの反乱を鎮圧し、塩冶興久は自害に追い込まれる。

 

 

経久は長男・政久を早くに戦いで失っており、さらにこの反乱で三男・塩冶興久を失い、尼子氏は大きなダメージを負った。

 

塩冶興久の遺領は経久の次男・国久が継いだ。


尼子経久1
 

その後、経久の孫・尼子晴久(経久の長男・政久の次男)が美作国(岡山県東北部)へと侵攻して、ここを尼子氏の影響下に置くと、さらに備前へと侵攻するなど東へと勢力を拡大していった。

 

この後、尼子晴久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加する。

 


1537年、経久は家督を孫の尼子晴久に譲るが、第一線から身を引いたわけではなく、経済的に重要な拠点である大内氏が所有していた石見銀山を奪取した。

以後、この石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになる。


石見銀山

さらに、経久は東部への勢力を拡大すべく播磨守護・赤松政祐と戦い大勝する。



しかし、1539年、大内氏が尼子氏側の武田氏の佐東銀山城(広島市安佐南区)を落城させ、当主の武田信実は若狭国(敦賀市を除いた福井県南部)へと逃亡した。

 

 

1540年、武田信実の要請もあり尼子晴久は大内氏との早期決戦を目指して、大内氏側の毛利氏を討伐すべく出陣する。


佐東銀山城

尼子軍は諸外国からの援兵も加わり
3万騎へと膨れ上がり、大軍で毛利氏の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)を包囲する有利な形勢であったが、翌年、攻めあぐねるうちに陶隆房率いる大内軍2万騎の到着を許して大敗を喫し、尼子氏は安芸での基盤を失う。

 

この頃、経久から家督を継いだ尼子晴久や経久の次男・国久が尼子氏の軍事の中心を担っていたが、彼らには経久ほどの器量はなかった。

 

尼子晴久
  
尼子晴久

1541年、82歳の経久は、尼子氏の先行きを案じながら居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)で死去する。

 

月山富田城
 
経久の死後、大内義興の後を継いだ大内義隆が大軍で出雲に攻め込むが、大内側の吉川興経の裏切りにあったことにより大内義隆は撤退を余儀なくされた。

この裏切りは生前に経久が仕込んでおいた策略である。

 

大内義隆
  
大内義隆
 

「塵塚物語」によると、経久は持ち物を家臣に褒められると喜んで、高価なものでもそれを褒めた者に与えてしまうため、気を使った家臣達は経久の持ち物を褒めないようにしていたが、ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思って褒めると、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めるも、経久はとうとう松を切って薪にして渡したという。

 

 

また、冬には着ている物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。

 

 

 

尼子経久Tシャツ

尼子経久 ( 劇団Camelot )
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



名和 長年 (鳥取)

名和長年700x1000

鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。

 

 

長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。


源師房
  
源師房 

 

鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。

 

長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。

 

名和長年1
 
 

鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。


 

1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。

 
 

しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。

 

後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。

 

その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。

 
後鳥羽上皇
  
後鳥羽上皇 

 

後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。

 

  

佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)

 

これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。

 

船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。

 

 

膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。

 

佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。

 
船上山の戦い

その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。

 

さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


名和長年3
 

長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。

 

さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。

 

また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。

 

「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。


名和氏
 

幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。

 

長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。


名和長年4

1335
年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。


足利尊氏
   
足利尊氏

 

これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。

 
竹ノ下の戦い
 

1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。

 

 

しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。


楠木正成
  
楠木正成

 

日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 

 

再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。

 
新田義貞
  
新田義貞 

 

「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。

 



 
 名和長年Tシャツ
名和長年 ( 劇団Camelot )

知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



足利 尊氏 (京都)

足利尊氏700x1000



1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。

 

 


足利尊氏Tシャツ
足利尊氏 (劇団Camelot)
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



平 清盛 (京都)

平清盛700x1000

1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。

 



平清盛Tシャツ
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



藤原 道長 (京都)

藤原道長700x1000

10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。

 

貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。


京都

数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。

 

 

966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生まれる。

 

道長の父・兼家は実の兄である藤原兼通との出世争いで不遇な目にあいながらも、そこから這い上がり、朝廷での権力を築き上げ、右大臣にまで出世した人物であった。

 

道長はこうした一族の骨肉の争いを目の当たりにしながら、どうして肉親同士で争わないとならないのかと苦悩しながら育つ。

 
藤原兼家
  
藤原兼家


父・兼家の五男であった道長は病弱であったこともあり、兄達を差し置いて朝廷で昇進することをあまり意識していなかった。

 

 

しかし、987年、道長が22歳の時、左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)との結婚という大きな転機が訪れる。

 

この当時の結婚は、夫が妻の家に入る「婿入り婚」であったため、妻の家柄が夫の将来を大きく左右し、道長も結婚によって倫子の父・源雅信が所有する莫大な財産と名誉を手にすると、計らずとも出世の糸口を掴むことになった。

 

988年、道長は参議を飛び越して権中納言となって、公卿の一員に加わる。

 

藤原道長
 
それから7年後の995年、疫病が全国で蔓延し始め、朝廷でもわずか3カ月のうちに道長の兄を含む7人の公卿達が次々に亡くなった。

 

これによるポストの欠員から、権大納言の道長と内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の二人が次の政権トップを担うと目されるようになる。

 

藤原伊周は道長より上位だが、道長から見て甥(道長の兄・道隆の嫡男)であった。


 

間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長は右大臣に昇進、伊周は内大臣に留任となり、道長は伊周を抜く。


一条天皇の母・詮子
(せんし)は道長の姉で、甥の伊周よりも弟の道長の昇進を一条天皇に強く訴えかけていたことが、この逆転劇に大きく影響した。


一条天皇
  
一条天皇

最高職である左大臣が空席だったため、道長は30歳で事実上の政権トップへと登りつめる。


 

しかし、当時の藤原一族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書き綴った日記「小右記」では、道長に出世で追い越されて憤る伊周の行動が記されており、この人事は大きな波紋を広げた。

 
藤原実資
   
藤原実資


995
年、御所で伊周が道長と乱闘さながらの口論となり、さらにその3日後、道長と伊周の従者同士が衝突し、道長の従者が殺される。

 

 

しかし、これに対してもし、伊周に制裁を加えれば、父・兼家のように一族を骨肉の争いに巻き込んでしまうと考えた道長は、報復のための行動を取らなかった。

 

 

996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、伊周は自分の想い人である藤原為光の三女が目当てと誤解して矢を放つという乱心行為を起こし、大宰府への流罪となった。

 

 

伊周の失脚後、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格し、数々の幸運が続いた結果、名実ともに政権トップの座が転がり込んで来る。

 

 

穏やかな政治を目指し、一族同士が争うことのない政権をいかにして作るか考え続けた道長は、実はその生涯で陰謀を働いたことがなかった。

 

京都2
 

左大臣に就任してから20年に渡って道長が綴った日記である国宝「御堂関白記」は、そのほとんどが朝廷の日々の出来事に対する簡潔な内容であるが「(道長の娘・彰子)産気づく、午の刻、ヘソの緒を切る。」など、天皇家に嫁がせた娘達に関する事はイキイキと詳しく書き留めている。

 

 

自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば、道長の血を引く天皇が生まれることになり、道長は孫である天皇の権威を背景に長期安定政権を築くことを考えるようになった。

 

道長は天皇家との間に外戚(母方の親族)関係を築くことに執念を燃やし、朝廷での地位を確固たるものにしようとする。

 

藤原道長1
 
999年、道長の長女12歳の彰子(しょうし)20歳の一条天皇に嫁ぐ。

この時、一条天皇には正室の定子と側室が他に3人いたが、一条天皇の寵愛はとりわけ定子へ向けられていた。


 

一条天皇は彰子の寝所には寄りつかず、嫁いでから5年が過ぎても彰子が身ごもる気配はなく、道長は焦りを覚えるようになる。

 

源氏物語
 

そこで道長は、源氏物語の作者としてその教養の高さがすでに宮中で評判となっていた紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養うことで、向学心の高い一条天皇の気を引こうとした。

 

彰子のもとには、紫式部の意向に従って漢籍や古今東西の珍しい書物が揃えられ、一条天皇はその書物に興味を持ったことをキッカケに彰子のもとへ通うようになっていく。

 

1008年、彰子が一条天皇に嫁いでから9年、ついに彰子と一条天皇との間に皇子・敦成(あつひら)親王が産まれる。

 

 

天皇との血縁の濃さがそのまま発言力となったこの時代、道長は自らの政権を安定させるキッカケを掴み、その喜びは尋常ではなかった。

 

紫式部
  
紫式部
 

1011年、一条天皇が病のために32歳の若さでこの世を去ると、次の皇位に就いたのは道長の姉・超子と冷泉天皇との間に生まれた三条天皇となる。

 

しかし、道長の意向が認められて皇太子は敦成親王になり、道長は次の皇位が自らの孫に約束されたことでひとまず安心した。

 

ところが、さらにその次の皇太子の座を巡り、道長と三条天皇の思惑がぶつかる。

 

三条天皇は次の皇太子には自分の皇子をと考えていたが、道長はもう一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることを望んだ。

 
三条天皇
  
三条天皇
 

自分が生きているうちに2代先の皇太子まで決めておきたいと考えた道長は、なんと三条天皇に譲位を迫るという強引な行動に出る。

 

三条天皇は憤慨して「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく、寝食もままならないほどで憂鬱極まりない。」と当然のごとく譲位には応じないが、道長は計5回も三条天皇に譲位の要求を突き付けた。

 

 

1015年、御所が2度に渡って焼け落ち、公卿達は口々に「天下滅亡の時が来た。」と怯え出す。

 

これを好機と見た道長は「火事は天皇の不徳が招いたものとせん。」と三条天皇に強く譲位を迫り、ついに三条天皇は道長に屈して譲位の要求を呑んだ。

 

 

1016年、道長の孫・敦成親王が後一条天皇として皇位を継ぎ、悲願であった天皇の外戚となった道長は、この日の日記に「天晴(てん はれ)。」と記している。

 
御堂関白記
 

さらに一年後、道長は思惑通り、もう一人の孫・敦良親王を皇太子とすることに成功し、これによって後一条天皇に続いて、その次の天皇も自分の孫となることが約束された。

 

 

一方で、この頃52歳となっていた道長は、老いと病から激しさを増す胸の痛みに死期を感じ始め、自らの死後も末永く政権を安定させたいと強く願うようになる。


 

そこで道長は、天皇の外戚が他に出現しないように、なんと孫である後一条天皇の妃に自分の娘・威子を立てようとした。


公家の間で近親婚はそれほど珍しいことではないが、さすがに甥と叔母の結婚は当時でも極めて異例である。

 

平安京

10181016日、政権安定にこだわる道長の執念が実り、威子が後一条天皇の妃となった。

 

道長の娘と孫が夫婦になったその日の夜、道長は宴の席で居合わせた公卿達を前に歌を読んだ。

 

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 

藤原道長3
 

1019年、道長は病からの救いを求めるかのように出家し、日記から最後の一月はひたすら念仏を唱え続ける日々であったことが分かる。

政権の最高権力を手に入れた道長も、その晩年は一人のか弱い病人であった。

 

1027年、道長は61歳でこの世を去る。

 
 

 

後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、この間に、それまで長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

 
京都3
 

道長の天皇家との婚姻戦略は、政治的にだけではなく、文学の面でも平安を生み出したのである。

 

 

 

藤原道長Tシャツ
藤原道長 (劇団Camelot)
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに



徳川 吉宗 (和歌山)

徳川吉宗700x1000

徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は
55000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。

 

1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。

 

元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。


和歌山市
 

吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌山城下の繁華街で家臣達と、よく食べよく遊びながら実社会の成り立ちを感じ取っていく。

 

 

しかし、一方で、紀州藩は派手な結婚式や将軍家との交際に費用がかさみ、深刻な財政難に陥っていた。

 

さらに、江戸の藩邸が度重なる火事に見舞われ、再建に莫大な費用がかかり、日照りや干ばつなど災害も相次ぎ、紀州藩は幕府から10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を背負う。

 

和歌山城
 
1705年、吉宗の兄達が相次いでこの世を去ったため、22歳の吉宗が紀州藩第5代藩主を務めることになった。

 

 

吉宗はさっそく藩財政の建て直しに取り掛かかり、倹約第一を掲げて、自ら率先して食事を質素なものにし、酒の量も制限する。

 

さらに吉宗は荒れ地を切り開いて水田とするために大規模な治水工事を行い、この工事では木の樋(水を通すための溝または管を樋という)をもちいて水路を川の上に通す画期的な技術がもちいられた。

 

出来あがった小田井用水は全長30kmにおよび、新しい水田は豊かな実りをもたらし、年貢米の増加となって藩財政を潤し、吉宗は藩主となって12年で藩の借金を返済し、そのうえで14万両の金と116000石の米を蓄えるまでに至る。

 

小田井用水1

吉宗は支出を減らし収入を増やすという極めてオーソドックスな方法で財政再建を成し遂げた。

 

幕府の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「吉宗はことに優れた名君だと噂され人々の信頼も厚い。」と、吉宗を高く評価した。

 

 

その頃、江戸城では、まだ8歳の第7代将軍・徳川家継が重い病気にかかり、明日をも知れぬ命と言われていたため、次の将軍を誰にするかが話し合われ、吉宗にその白羽の矢が立つ。

 

1716年、吉宗33歳、御三家からの将軍就任という前例のない大抜擢で、第8代将軍となった。

 

徳川吉宗2
 

しかし、将軍に就任して間もなく、吉宗は蓄えが底をつき、商人達への借金が積み重なり、すでに幕府の財政が崩壊状態であることを知る。

 

 

財政再建に取り組む決意をした吉宗は、紀州藩の時と同じように、食事は自ら率先して一日二食、オカズは二品、それ以上は「腹のおごり」と戒める倹約第一を掲げた。

 

さらに大奥に命じて美女50人を選抜し、着飾って現れた絶世の美女達に対して吉宗は「美人なら暇を出しても、その後、引く手数多であろう。」とリストラを敢行し、経費削減をする。

 
大奥
 

一方で、好景気に沸いた元禄時代、金銀が町に溢れ、物価は異常な値上がりが続くインフレ状態となっていた。

 

1718年、物価を下げるには金銀貨幣の量を減らせば良いと考えた吉宗は、世の中に出回る古い貨幣を回収するように命じ、数年のうちに通貨の量を3分の2にするという極端な金縮政策を取り、物価はやがて落ち着きを取り戻す。

 

 

続いて吉宗は、幕府の収入増加のためにこれまた紀州藩の時と同じように、関東平野を始め各地で治水工事を行って新田開発をする。

 
見沼代用水1

吉宗が作らせた全長60kmにも及ぶ江戸時代最大規模の農業用水路である見沼代用水は、パナマ運河のように高さの違う二つの土地を水路で結ぶという画期的なもので、さらに通船堀と呼ばれる船を通すための堀も作られ、物資の運搬にも利用された。

 

こうして切り開かれた水田からの年貢米は年々増加し、1722年、長年積み重なっていた幕府の債務16万両が完済される。

 

見沼代用水船堀
 
吉宗の経済政策は紀州藩の時のように成功したかに思われたが、米の生産量が大きく上がると米の値段は下がり、4年間で40%もの暴落をした。

 

そして、この米の値崩れが武士の生活を困窮させることになる。

 

江戸時代、武士は毎年決まった量の米を俸禄(給料)として受け取り、その米を売ることで金銀貨幣を手に入れて生活必需品を買っていたため、武士にとって米の値段が下がることは実質収入の減少を意味した。

 

 

武士の収入が大幅に減少すると、消費は大きく冷え込み、瞬く間に深刻な不景気が全国を直撃する。

 

 

紀州藩では成功した吉宗の政策が裏目に出たのは、藩内だけの増産の場合は増産分が他藩への輸出分に出来たが、将軍となって全国的な増産をすると全国的に米余り状態となり、それが米の価格を下げるという結果になった。


 

労働の価値よりも希少価値が力を持つ市場経済において、全国規模での過当競争がこういった結果を招くことは、現代なら常識であったが、吉宗の時代はまだ市場経済が産声を上げたばかりなのである。

 

徳川吉宗
 

天下の台所といわれ全国の物資の集散地として栄えていた大阪の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集まり、商人を通じて年貢米の販売が行われ、ここで取引される値段が全国の米の値段を左右した。

 

米の値段を引き上げたい吉宗は、江戸から御用商人(幕府や諸藩に様々な特権を認められた商人)を大阪に送り込んで、米市場をとり仕切らせて相場の操作を目論んだ。

 
中之島
 

しかし、実勢とかけ離れた高い値段で取引をしようとしても無理があり、さらに1730年、江戸町奉行・大岡忠相(通称・大岡越前)のもとを大阪の商人達が陳情に訪れ「諸国の米商人達は幕府が開く米市場を敬遠するので、大阪で取り引きをしなくなってしまった。扱う米が無いので、大阪の仲買商人は商売が成り立たず生活に困っている。」と訴えたため、吉宗は大阪の米商人に自由な商いを認めざるを得なくなる。

 

 

そうして、米の値段は下落を続け、一石30匁を割り、10年前の3分の1にまで価格を落とした。

 

そこで、吉宗は米を買い占めることで相場のつり上げることを考え、28万石ともいわれる米を買い上げる。

 

さらに、1731年には加賀藩から15万両を借りてまで米の買い占めを続けた。

 

しかし、思ったほどの効果はなく、米の値段に一喜一憂する吉宗は、いつしか「米将軍」と揶揄させるようになる。

 

もはや相場は幕府一藩がどんなに金をつぎ込んでも動かせるような規模ではなくなっていた。

 

堂島
 

1732年、梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及ぶ冷夏とイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしたことにより西日本一帯で、200万人が飢えに苦しみ、12000人が餓死する「享保の大飢饉」が発生する。

 

吉宗は直ちに東日本の米を西日本にまわすように指示し、さらに幕府の蔵を開け95000石の米を送り、また、20万両あまりを投じて被災地の救済も指示した。

 

 

米余りから一転して、深刻な米不足が生じたことで、皮肉にもこの年、米の値段は一気に急騰して一石100匁を越える。

 

「享保の大飢饉」救済のために幕府の財政は再び傾きはじめ、吉宗の改革は頓挫しようとしていた。

 
享保の大飢饉
 

1734年、吉宗が将軍になって19年目の年、飢饉の年にいったんは高騰した米の値段は再び下がり始め、一石あたり40匁を割るまで値段を下げる。

 

 

そんな時、江戸町奉行・大岡忠相が吉宗に「米の値段を上げるには貨幣を増発して、世の中に出回る通貨の量を増やすしかない。」と進言するが、それはこれまでの幕府の政策を180°転換せよというものであり、物価の値上がりに苦しんだ経験のある幕府にとって容易に決断できるものでなく、吉宗は大岡忠相の進言を却下した。

 

 

しかし、その後も米の値段が上がるようなことはなく、不景気はさらに深刻なものとなると、1736年、大岡忠相は再び吉宗に「通貨の量を増やさなければ、米の値段は上がらない。」と強く迫る。

 

大岡忠相
   
大岡忠相

通貨の量を増やせば世の中は乱れるかもしれない、しかし、このままでは米の値段は上がらず、人々は苦しみ、幕府財政も建て直せないと判断した吉宗は、ついに通貨の増発の決断をした。

 

 

貨幣鋳造の総責任者には大岡忠相が任命され、さっそく新しい貨幣「元文金銀」の鋳造が開始されると、吉宗の命令から1カ月後には続々と「元文金銀」が世の中に出回り始め、その発行量はそれまでの貨幣の2倍近くにまでなる。

 

 

すると、米の値段は次第に上昇し始め、やがて、一石60匁ほどに落ち着き、ようやく不景気は終わりを告げた。

 
元文小判
 

貨幣改鋳の2年後、大岡忠相は日記に「ようやく最近になって米の値段がよろしくなった。武士達の暮らし向きも良くなり、町人達も仕事に励むことができるようになった。」と記している。

 

 

吉宗の言葉を伝える「紀州政事鏡」には「誤りを知るを真の人という。」という言葉が記されている。

 

政治家という民の運命を背負う責任ある者は、間違えたら切り替えるという困難な思考・判断が必要であり、吉宗は過去の成功体験が通用しないことや過去の不況の原因が今度は特効薬になることを受け入れることが出来た。

 

そんな誤りを知る者だったからこそ吉宗は、米経済から通貨経済への時代の移り変わりに見事に対応することが出来たのである。

 
米俵
 

1751年、吉宗は66歳でこの世を去り、その墓は寛永寺(東京・上野)の第5代将軍・徳川綱吉の廟の中に建てられた。

度重なる財政再建でまず倹約第一から始めた吉宗らしく、自分のための新しい廟を決して作らせないように言い残していたからである。

 

 

 

 徳川吉宗Tシャツ

徳川吉宗 (劇団Camelot)
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

聖徳太子 (奈良)

聖徳太子700x1000

かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。

 

574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。

 

585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。


用明天皇
  
用明天皇
 

物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。

 

蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうまこ)6世紀の半ば朝鮮半島の百済から倭国にもたらされた仏教を信仰し、この外来思想をもとに新たな国造りを目指して権力の拡大を目論んでいた。

 

 

物部氏と蘇我氏はそれぞれ天皇家と深いつながりを持ち、皇位継承にも大きな影響力を持つ二大勢力として対立。

 

 

物部氏の実力者である物部守屋(もののべのもりや)は仏を異国の神として排斥して、当時に流行した疫病の原因も蘇我氏が仏教を信じたためとし「聖徳太子絵伝」には物部守屋が蘇我氏の建立した寺院を焼き払う場面が描かれている。

 

物部守屋
  
物部守屋

587年、用明天皇が即位後わずか2年で病に倒れて崩御すると、物部氏と蘇我氏が倭国の主導権を巡って全面対決する日がやってきた。

 

 

この古くからの神々を奉じる物部氏と新たな思想である仏教を奉じる蘇我氏の戦いで、仏教を厚く信仰する伯父・蘇我馬子を通じて仏教に出会った聖徳太子は蘇我軍の一員として参戦する。

 

 

激闘の末、戦いは蘇我軍の勝利に終わったが、長く激しい戦いに民は傷つき、血で血を洗う権力抗争のなかで死んでいく者達を目の当たりにした聖徳太子は、仏教の教えとは程遠い過酷な現実を知った。

 

聖徳太子伝
 
政治の実権を握った蘇我馬子は甥にあたる崇峻天皇を即位させるが、崇峻天皇が徐々に蘇我馬子が大和王権を牛耳っていることに不満を漏らすようになると、蘇我馬子は配下の者に崇峻天皇を亡き者にするよう命じ、592年、崇峻天皇が暗殺される。

 

 

続いて蘇我馬子は聖徳太子の叔母にあたる推古天皇を即位させ、大和政権が始まって以来、初の女性天皇が誕生した。


推古天皇
  
推古天皇
 

593年、20歳となった聖徳太子は推古天皇のもとで摂政に任じられ、蘇我馬子と共に政治を担う立場となる。

 

この時、聖徳太子は「太陽や月は、天上にあって大地をあまねく照らす。政をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」と決意の言葉を残した。

 

聖徳太子3
 

この頃、東アジアでは300年以上も分裂していた中国が「隋」によって統一されるという大きな変化を迎え、これは稀にみる巨大帝国の出現であり、朝鮮半島の国々や倭国にとって存亡に関わる出来事となる。

 

 

「隋」の都・長安(現在の西安)は碁盤の目のように整然と道路が敷かれ、壮麗な建造物が建ち並び、世界でも稀にみる大都市であった。

 

 

中国との関係が深い朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、この「隋」という脅威が誕生すると、すぐさま使者を送って君臣関係を結ぶ。

 

 

倭国は中国とは100年以上に渡って正式な国交を結んでいなかったため、巨大帝国「隋」出現にどのような対応をすべきか検討するための情報が不足していた。


長安
 

聖徳太子は高句麗からやって来た慧慈(えじ)という僧侶から、長安では広大な寺院がいくつも建立され、高度な建築や装飾工芸の技術が発達し、絵画や彫刻などの美術も盛んになり、多彩な仏教文化が花開き、「隋」の初代皇帝・文帝(楊堅)は仏教を保護する国造りを進めていることを聞く。

 
文帝
  
文帝


聖徳太子は寺院建立や仏像鋳造など様々な技術を倭国に伝えた仏教と同様に、中国や朝鮮半島では政治家や役人の道徳・倫理を説く思想として尊ばれていた儒教も学んだ。

 

 

「隋」は官僚制度が整えられ、強固な中央政権国家が成立し、その官僚の規律として儒教が導入され、仏教や儒教を重んじる先進的な国であった。

 

 
一方で、倭国の政治制度は重要な事柄は中央の有力豪族の思惑で決められ「隋」の進んだ制度とは程遠いもので、多くの民が貧しく苦しい生活を余議なくされ、その現実は聖徳太子が思い描いた慈悲の心で民をあまねく照らすものとはかけ離れていた。

 

「聖徳太子伝暦」では、聖徳太子は飢えた民と出会うと、自ら衣をぬいで、その民の身を覆い「かわいそうに、どんな境遇の人なのだろう。この道ばたで行き倒れた人は。」と嘆く場面が描かれている。

 

奈良県明日香村
 

598年、高句麗が「隋」の支配地域に侵入し、激怒した文帝は直ちに高句麗に大軍を差し向けると、強大な「隋」の軍隊を前に高句麗は屈服する。

 

 

朝鮮半島の国々と深い関係にあった倭国にとって、大国「隋」の朝鮮半島への影響力の増大は脅威であり、友好関係を結ぶ必要に迫られていた。


高句麗
 

600年、聖徳太子は120年ぶりに倭国の使者を中国に派遣(第一回遣隋使)する。

 

「隋」の役人は倭国の使者に対して「倭国ではどのように政治がおこなわれているのか。」と問うと、倭国の使者は王の権威を強調しようと思うあまり「倭国の王は、天を兄とし、太陽を弟とする。王は、兄である天が明るくなるまで王宮で政をおこない、弟である太陽が昇ったあとは政をしない。」と、古くから伝わる神話をそのまま持ち出して答えた。

 

 

これを聞いた文帝は、倭国は神話を語る政府機構のない国だとあきれ、外交を結ぶような相手ではないとバカする。

 

 

聖徳太子はこの屈辱的な外交失敗から大きな改革に乗り出していく。

 

第一回遣隋使
 

603年、聖徳太子は「冠位十二階」を制定する。

 

聖徳太子は冠位を表す名称に儒教の徳目を表す6つの言葉をさらに大小に分けて「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」12の冠位を作り、これは豪族のなかから一族の地位や血縁に関係なく、実力のある者を登用し、位を授けるという革命的な制度であった。

 

聖徳太子は豪族が支配する倭国を官僚が政治を取り行う国へ変え、その結果、中央集権国家の基礎が形づくられていく。

 

 

さらに聖徳太子は明日香の地に新たな宮殿「小墾田宮(おはりだのみや)」建造し、この小墾田宮は朝庭と呼ばれる儀式を執り行う場と上級の官人達が毎朝出勤する庁(まつりごとどの)と呼ばれる建物が造られた。

 

小墾田宮1
 

そして604年、誕生したばかりの官僚がどのように行動するべきか、その規則や道徳を示す「憲法十七条」が完成する。

 

聖徳太子はこの「憲法十七条」に理想国家実現への願いを込め、仏教や儒教などの思想を学んだことを活かして官人がいかに正しく政治を行うか具体的に記した。
 

「官人は、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公の仕事には、暇はない。」


「官人たるもの、貪りを絶って、欲を棄て、民の訴えを公正に裁かなければならない。私利私欲や賄賂によって判断を誤るようなことは、官人にあらざる行いである。」


「すべての官人は、礼の精神を根本とせよ。上に立つ官人が礼をもてば、世が乱れることはない。官人に礼あれば、民も必ず礼を守り、国家は自ずと治まる。」

 
小墾田宮2

また仏教の教えに従い行いを正すことも説く。


「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、経典、そして僧である。人間は極悪の者はまれである。教えられれば、道理にしたがうものである。仏の教えを篤く敬えば、よこしまな心や行いを正すことができる。」

 
 

そして人と人との関わりについて持つべき心の有り様を示す。


「こころのいかりを絶ち、人の違うことを怒らざれ、人皆心あり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫。ここをもちて、かの人いかるといえども、かえりて我が失ちを恐れよ。」

 

 

幼い頃から、豪族達の凄惨な争いや骨肉の王位継承争いを間近に見てきた聖徳太子は、己の利や一つの考えに囚われれば必ず争いが起こることを知り、仏教、儒教、外来の思想や法律など優れたものを分け隔てなく「憲法十七条」に採り入れた。

 

聖徳太子4
 

第一回遣隋使の屈辱以来、聖徳太子は「冠位十二階」「憲法十七条」「小墾田宮の建設」など着々と改革を進め、今こそ再び大国「隋」に使者を送り、国交を取り結ぶべき時と決断する。

 

 

聖徳太子が使者に抜擢した小野妹子は、有力な豪族ではなく、能力によって「冠位十二階」の「大礼」の位を授かった人物であった。

 

小野妹子
  
小野妹子
 
607年、二度目の遣隋使が倭国を旅立ち「隋」へと向かう(第二回遣隋使)

 

この時、小野妹子は倭国の国書を携え、そこには「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す。つつがなきや。」と、まるで倭国と「隋」が対等以上かであるように記されていた。

 

倭国の国書を読んだ二代目の皇帝・煬帝は「世界に天子はこの煬帝ただ一人、倭国の無礼な使者は二度と取り次いではならない。」激怒する。

 

 

しかし、この時「隋」は高句麗との戦争が再び目前と迫っていたため余計な敵を増やしたくないという事情があり、さらに、小野妹子が公式の冠位を持つ使者であったため倭国が官僚制度を整えた国家に成長していることを知り、倭国を外交交渉が可能な相手と認めた。

 

煬帝
  
煬帝
 
608「隋」の使者が初めて倭国の地を訪れる。


「隋」の使者は倭国に敬意を払い、
4回深々とお辞儀をする倭国の作法をとって、小墾田宮で煬帝の国書を読み上げた。

 

 

それは屈辱の第一回遣隋使から8年、アジアの大帝国「隋」が聖徳太子の改革によって生まれ変わった倭国を公式に認めたといえるものである。

 

聖徳太子1
 

聖徳太子は若い頃から大切にした仏教の慈悲の心を形にし、薬を作る施薬院(せやくいん)、病んだ者を治療する療病院(りょうびょういん)、飢えた者を養う悲田院(ひでんいん)、悪を絶ち善を修める敬田院(けいでんいん)などの施設を建て、民の救済に力を尽した。

 

奈良県明日香村2

605年から現在の法隆寺のあたり斑鳩(いかるが)に居を構え、仏教の経典の研究に没頭していた聖徳太子は、622222日、48歳で病に倒れ、理想国家の建設に捧げた生涯を終えた。

 

「日本書記」ではこの時の様子を「日月、輝きを失い。天地、既に崩れぬ。」と記している。

 



聖徳太子Tシャツ
聖徳太子 (劇団Camelot)
知的レトロで、地味をポップに、派手をシックに


 

上杉 謙信 (新潟)

上杉謙信700x1000


1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを