劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

ご当地キャラ

坂本 龍馬 (高知)

坂本龍馬700x1000

183613日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。

 

兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。

 

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩では上級武士と下級武士の間に歴然とした身分の差があり、龍馬はそうした古い体制に矛盾を感じながら育っていく。

 
高知県高知市
 

龍馬は1213歳頃まで寝小便癖があったとされ、気弱な少年でいじめに遭っていたので、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 

 

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門して小栗流という剣術を学び、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得た。


日根野道場

小栗流目録を得た龍馬は剣術修行のために、
1年間の江戸自費遊学に出て、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となる。

 

道場主・千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟で、その道場は小千葉道場と呼ばれ、身分制度が厳しかったために上級武士は千葉周作の「玄武館(大千葉道場)」に所属し、下級武士は小千葉道場の所属とはっきり区別され、共に稽古をすることも無かった。

 

小千葉道場には千葉定吉の他に長男・重太郎と3人の娘がおり、二女のさな子は龍馬の婚約者として知られている。

 

桶町千葉道場

1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。

 

日本に開国を迫る黒船来航に対して、幕府は適切な対応を取ることが出来ず、その後、日本の政治は大きく混乱し、やがて、幕府に代わる新しい政治体制が必要だという声が高まっていくことになる。

 

この動乱にその身を投じることになる龍馬は、剣術修行のかたわら当代の軍学家であり思想家である佐久間象山の私塾に入学するなどしながら、15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

 

黒船来航

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定には実子がおらず、また本人も病弱であったため、その後継者争いが起こっており、徳川家定の病気が悪化した1857年頃からはそれが激化する。

 

土佐藩では藩主・山内容堂が、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍の後継者に一橋慶喜を立て、幕政改革をも企図していた。

 
山内容堂
  
山内容堂

しかし、1858年、井伊直弼が幕府大老に就任すると一橋派は退けられ、大老・井伊直弼は第14代将軍に徳川家茂を就任させると天皇の許可なく開国を強行し、それらを反対する者達を弾圧する「安政の大獄」が起きる。

 

この「安政の大獄」によって、一橋派であった土佐藩主・山内容堂は家督を養子である山内豊範に譲って隠居することを余儀なくされた。

 

井伊直弼
  
井伊直弼
 

土佐藩の尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排斥する)運動の立ち遅れを痛感していた武市半平太は「安政の大獄」により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを謳い、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫るべく「土佐勤王党」を結成する。

 

龍馬はこの「土佐勤王党」の最初の加盟者であったが、薩摩藩・長州藩は尊王攘夷運動の中心である京都に進出しようとする一方で、土佐藩参政・吉田東洋は「土佐勤王党」の主張を却下し続け、土佐藩の尊王攘夷運動は遅れたままであり、これに焦れた吉村虎太郎や龍馬らは脱藩することになっていく。

 
坂本龍馬4

脱藩とは藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となるが、1862年、28歳の龍馬は土佐藩を脱藩し、浪人の身として政治活動に乗り出す。

 

龍馬は家族への手紙に「一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり。日本を今一度、洗濯いたし申し候。」と、例え自分一人でも天下を動かし、新しい日本を作る決意を記している。

 

坂本龍馬5
 

江戸に到着した龍馬は、土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流し、そして、前福井藩主・松平春嶽から紹介状を受けて、幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪問した。

 

尊王攘夷派の龍馬は開国に反対の立場であったが、開国派の勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれると、己の視野の狭さを恥じるとともに勝海舟に感服し、その場で弟子となる。

 

龍馬は姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と絶賛し、その心服はとても深かった。

 

勝海舟
   
勝海舟

勝海舟が山内容堂に取り成しをすることで龍馬は脱藩の罪が許されると、龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走する。

 
海軍操練所
 

勝海舟が幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために、彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させると、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」への乗艦後に「神戸海軍操練所」の設立および勝海舟の私塾の開設が許可された。

 

「神戸海軍操練所」には幕府から年3000(江戸時代の一両は現在の貨幣価値にすると約10万ほどであるが幕末は大きな下落の最中にあった。)の経費の支給が承諾されたが、それだけでは運営資金として不充分であったため、龍馬は松平春嶽から1000両を借入れする。

 
松平春嶽
   
松平春嶽

 

龍馬が生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会ったのはこの頃であった。

 

 

京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きると、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊王攘夷派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の塾生であった望月亀弥太もいた。

 

「池田屋事件」の後、京都の情勢は大きく動き、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩は、薩摩・会津の勢力によって一掃される。

 
池田屋事件

京都を追放された長州勢力は、会津藩主で京都守護職・松平容保らを排除し、京都政治の舞台に戻ることを目指して挙兵するも、たった一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)

 

「禁門の変」で長州兵が御所に発砲したことで、長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に乗じて長州征伐を発令し、抵抗する戦力のない長州藩は責任者の三家老が切腹して降伏恭順する。

 
禁門の変
 

一方で「池田屋事件」で死亡した望月亀弥太のみならず「禁門の変」で長州軍に参加していた安岡金馬も神戸海軍塾の塾生であったため、これらを問題視した幕府は勝海舟を江戸に召還し、神戸海軍操練所の廃止は避けられなくなった。

 

龍馬ら塾生を心配した勝海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬ら塾生を託して、薩摩藩の庇護を依頼する。

 

龍馬ら塾生の航海術の専門知識を重視した薩摩藩は、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」という近代的な株式会社に類似した商業組織が誕生した。

 

「亀山社中」は長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、商業活動の儲けによって利潤を上げること以外に、当時、犬猿の仲であった薩長両藩和解も目的とし、後の薩長同盟成立に大きな貢献をすることになる。

 

海援隊
 

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩では、その大きな戦力となった薩摩・会津両藩に対する根強い反感があり「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけるほどであったが、こうした雰囲気のもとでも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志である土方久元は薩摩、長州の結盟を促し、それをもっての武力討幕を望んでいた。

 

龍馬と土方久元は大村藩の志士・渡辺昇の力添えで長崎にて桂小五郎と会い、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させると、同時に中岡慎太郎が西郷隆盛にその会談に応じるように説得する。
 

桂小五郎2
  
桂小五郎 

 

しかし、西郷隆盛は下関へ向かう途中で、朝廷の方向性が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止する必要性が生じ、急遽、京都へと向かうことになり、下関で西郷隆盛の到来を待つ龍馬と桂小五郎の前に、茫然とした中岡慎太郎だけが現れることとなり、桂小五郎の怒りは激しく、和談の進展は不可能になったかに思える状態であったが、龍馬と中岡慎太郎は薩長和解を諦めなかった。

 
西郷隆盛
   
西郷隆盛

 

幕府は国外勢力に対して、倒幕急先鋒の立場にある長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止していたため、長州藩が近代的兵器の導入が困難であることに龍馬は目をつける。

 

龍馬は薩摩藩名義で新型の武器を調達し、それを密かに長州に転売し、さらに長州藩からは薩摩で不足していた米を回送する策を提案した。

 

この策は両藩にとって完全にWINWINな提案であったため、両藩は自然とそれを納得する。 


ミニエー銃

こうして薩摩藩名義で長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺・ゲベール銃3000挺が買いつけられ、それらは長州藩へと転売され、これが亀山社中の初仕事であり、薩長和解の大きなキッカケとなった。

 

ゲベール銃
 

186618日、小松帯刀の京都屋敷において、ついに桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれ、話し合いは難航したが、龍馬の仲介によって薩長同盟は無事に結ばれた。

 

 

この薩長同盟の成立により、軍事力で幕府に対抗することの出来る新しい政治勢力が誕生し、これによって討幕運動が加速することになる。

 

坂本龍馬2
 

盟約成立から程なく、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と伏見の寺田屋で祝杯を挙げていたが、薩摩と長州の不穏な動きを察知していた幕府は、その鍵を握っている龍馬の動きを追い、伏見奉行は龍馬捕縛の準備を進めていた。

 

明け方2時頃、伏見奉行所から100人以上の捕り方が寺田屋に迫り、一階で入浴していた龍馬の恋人お龍が迫り来る捕り方を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がって龍馬と三吉慎蔵に異変を伝える。

 
楢崎龍
  
楢崎龍
 

報告を聞いた龍馬は、すでに隣の間にひしめいていた捕り方が容易に近づけないように機先を制してピストルを発砲。

 

仲間が撃たれるのを見た捕り方は動揺し、逃げ出す者、むやみに障子を破る者、大混乱の中で龍馬と三吉慎蔵はなんとか屋外に脱出する。

 

負傷していた龍馬は材木場に潜み、三吉慎蔵は旅人を装って薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め、これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

 

後を追って来た捕り方は龍馬の引き渡しを要求してきたが、薩摩藩は「そのような者はいない」と回答し、西郷隆盛は一戦交える覚悟で藩邸の守りを固めさせる。

 

 

しかし、龍馬の放ったピストルの弾が捕り方の命を奪ったため、龍馬は幕府の重罪人として命を狙われるようになり、この寺田屋での乱闘が後々の龍馬の運命を左右することになった。

 

寺田屋
 

薩長同盟成立から5カ月後、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始する。

 

長州藩の求めにより参戦することになった龍馬は、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

 

 

圧倒的な兵力を投入した幕府軍であったが、西洋の新式兵器を装備していた長州軍に連戦連敗し、思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なって病に倒れ、21歳の短い人生を終える。

 

その結果、勝海舟が長州藩と談判を行い、幕府軍は撤兵することとなり、それまで無敗を誇っていた幕府軍は薩長同盟によって最新鋭の武器を手に入れた長州軍に敗北した。

 
徳川家茂
   
徳川家茂

 

幕府の失墜を目の当たりにした龍馬は、薩長と幕府がさらに大規模な戦争を始め、日本人同士が殺し合いを続けることを恐れ、武力を使わず幕府から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」という策を打ち出す。

 

 

1867年、龍馬はお龍を下関に残して旅立ち、これが二人の永久の分かれとなる。

 

 

京都に戻った龍馬は「大政奉還」を実現するため、土佐藩から幕府に「大政奉還」を勧める建白書を提出させた。

 

幕府が自ら政権を返上するかどうか、その最終的な判断を委ねられた将軍・徳川慶喜は、京都二条城にて新しい日本のために250年間保ち続けた徳川家の政権を返上し、自ら身をひくことを諸藩に通達する。

 

龍馬の提案をキッカケに平和のうちに政権が交代することになり、この知らせを聞いた龍馬は徳川慶喜の決断に深い感銘を受け「将軍家、よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公(徳川慶喜)のために一命を捨てん。」と言った。

 
徳川慶喜
   
徳川慶喜

 

「大政奉還」によって政権を手にした朝廷が、大名会議を開くべく全国の大名に集まるよう命令を下すと、龍馬は新しく出来る政府が目指すべき構想をこの大名会議で提出するためにまとめる。

 

龍馬がまとめた構想「新政府綱領八策」には「天下の有名な人材を招く。新たな法律を制定する。議会を開設する。外国との共通為替レートを設定する。」など日本を近代国家へと生まれ変わらせる画期的なものが記されていた。

 

しかし「新政府綱領八策」には「○○○自ら盟主となる。」という個所があり、当然この○○○とは誰を指すのか様々な憶測を生むことになる。

 

この「新政府綱領八策」を目にした越前藩の重役は「龍馬の秘策は 内府公(徳川慶喜)、関白職のことか。」と言い、龍馬が徳川慶喜を新政府の中枢に置こうとしているという憶測が広まった。

 

新政府綱領八策

徳川慶喜が新政権の盟主となることなど絶対に認めることの出来ない薩摩藩は、すぐに公家の一人である岩倉具視を動かし「賊臣・徳川慶喜を殄戮せよ。」という、徳川慶喜を殺害して武力で幕府を倒せという勅令を出させる。

 

幕府を徹底的に叩き潰し、古い勢力を完全に一掃しようとする薩摩藩にとって、龍馬が考えた「大政奉還」は中途半端な妥協策にすぎなかった。

 
岩倉具視
  
岩倉具視 

 

徳川家に仕える武士達の多くは「大政奉還」によってすぐに幕府が無くなるものと受け取っていたため、龍馬は彼らにとって幕府転覆を企てた中心人物として目の仇とされる。

 

ところが、龍馬はそういった情勢を意に介することなく、徳川慶喜の側近・永井尚志と面会し、新政府構想の打ち合わせをするために連日のように外出していた。

 

永井尚志は「大政奉還」の実現に尽力した龍馬と徳川慶喜をつなぐ人物で、龍馬は永井尚志を自分と同じ考えを持つ同志と感じていたが、永井尚志が住んでいた屋敷の周辺には、京都所司代屋敷、京都守護職屋敷、見廻組の屯所など幕府の警察機関の本拠地があり、龍馬にとって永井尚志に接近することは物理的なリスクがあまりに高かったのである。

 
永井尚志
   
永井尚志

 

自分を追ってつけ狙う者の中を白昼堂々と歩いていた龍馬は、その心境について家族への手紙で「成すべき時は今にて御座候。やがて方向を定め、シュラか極楽かに、御供申すべく存じ奉り候。」と、命を失う覚悟を持っていることを記していた。

 

 

また、龍馬が下宿していた醤油屋(近江屋)から目と鼻の先に土佐藩邸があったが、下級武士出身で藩を抜けだした過去を持つ龍馬は藩への遠慮から、土佐藩邸に入ることを避けていたのである。

 

 

そして、龍馬と親しい寺田屋の女将お登勢は、龍馬の命が危ないという決定的な噂を聞きつけると「下宿にいては危険なので早く藩邸に隠れて下さい。」と注意を促したが、龍馬は「心配することはない。」と返答した。

 

坂本龍馬1
 
18671115日、この夜、風邪をひいていた龍馬は近江屋の二階で暖をとりながら親友の中岡慎太郎と、新撰組に捕えられた仲間の処遇を話し合う。

 

龍馬のいる近江屋には土佐藩の関係者が様々な問題を相談するために訪れるようになっており、午後7時、土佐藩の同志・岡本健三郎と中岡慎太郎の書生・峰吉が訪ねて来る。

 

龍馬達4人はしばらく談笑し、午後8時、龍馬の頼みで峰吉はシャモを買うために外出し、岡本健三郎も所用のため近江屋を離れ、近江屋にはその家族の他には、龍馬の護衛役の藤吉、中岡慎太郎、龍馬だけとなった。

 
近江屋

それからしばらく、龍馬の同志が多い土地である十津川の郷士を名乗る男達数人が龍馬を訪ねて来たので、藤吉が取り次ぐと、男達は藤吉の後をつけてそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋へと押し入る。

 

龍馬はまず額を深々と横に斬り裂かれ、全身に数カ所の傷を受けた。

 

男達が去ると、瀕死の龍馬は自らの顔を刀に映して傷の具合を見ると、中岡慎太郎に「脳をやられたから、もうダメだ。」と語りかける。

 

龍馬が31歳の生涯を閉じる一方で、中岡慎太郎はそこから二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について語った。


中岡慎太郎
  
中岡慎太郎

龍馬の死はその後の政局に大きな影響を与え、暗殺から20日後、薩摩藩を中心とする軍勢は京都御所を取り囲むと、その軍事的圧力のもとで公家と一部の有力大名による会議が開かれ、徳川慶喜を新政権から排除する決定が下される。

 
鳥羽・伏見の戦い1

1868年、この決定に反発する旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が京都郊外で激突した「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍に敗北した。

 
鳥羽・伏見の戦い2

平和のうちに新しい政権を作ろうとした龍馬の構想は戦火に消え、この年の9月に元号は明治と改まり、薩摩と長州を中心とした新しい政府が作られる。

 

鳥羽・伏見の戦い3
 

その翌年、幕府の治安警察であった見廻組の元隊士・今井信郎が、龍馬暗殺事件の犯人として逮捕され、今井信郎の自白によると、近江屋に踏み込んだのは見廻組の侍7人で、暗殺の口実は寺田屋で龍馬が幕府の捕り方を射殺した罪というものであった。

 

しかし、今井信郎はなんとわずか一年半で釈放され、幕府側だった今井信郎の助命運動に裏で動いたのは、今井信郎と面識のない西郷隆盛であり、その真意は謎に包まれている。


今井信郎
   
今井信郎


龍馬は死の
7か月前、長崎で貿易商社「海援隊」を結成し「この頃、おもしろき御咄しも、実に山々にて候。世界の咄しも、相成り申すべきか。」と、政治活動に奔走する日々の中でも、海を越えて世界中の国々を相手に貿易をする夢を抱き続けていた。

 

 

 

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藤原 純友 (愛媛)

藤原純友700x1000

古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。

 

そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。


瀬戸内海
 

純友は893年頃、太宰府の次官・藤原良範の三男として生まれた。

 

ただ、純友の血統的な面についてであるが、純友は大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国(愛媛県)の豪族越智氏の一族である高橋友久の子であり、藤原良範が伊予に赴任した時に養子になったという説もある。

 
大山積神

血統的な異説が存在するものの、純友は日本史上初の関白に就任した藤原基経が大叔父に持ち、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であったが、早くに父を失い都での出世は諦めざるを得なかった。

 
藤原基経
  
藤原基経
 

931年頃、純友は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って、伊予国で海賊を取り締まる地方官として赴任し、瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧する側であったが、任期を終えた後も京都に帰らず伊予に土着する。

 

任期中に海賊勢力とのつながりを持った純友は、その人脈を利用して朝廷の貯蔵米を奪うようになり、936年頃までには海賊の頭領となった。

 

純友は伊予の日振島(愛媛県と大分県との間の宇和海にある島)を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1000艘を超える船を操って周辺の海域を荒す大海賊団を組織し、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばして反乱を起こす。

 

日振島
 

この頃、ほぼ時を同じくして関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしており、小説等で描かれることのある平将門と藤原純友の共謀説は創作なのだが、同時期に陸と海で大規模な反乱を起こした二人はお互いにその噂に勇気づけられていたことは間違いない。

 

「藤原純友の乱」は「平将門の乱」と併せて「承平天慶の乱」と呼ばれる。

 
承平天慶の乱
 

純友はその活動範囲を瀬戸内海から畿内に伸ばすと、939年には部下の藤原文元に、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹(「介」は行政官として中央から派遣される国司の四等官(守・介・掾・目)の一つ)を摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)にて襲撃させた。

 

 

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は瀬戸内海の海賊を撲滅すべく様々な対策をし、その中には投降した者には一切罪を問わないだけでなく所領や金銭などの報酬まで用意する「恩赦」というものもあって、これにより2000人を超える海賊が投降した。

 

反乱を思いとどまらせるために朝廷は純友に対しては、従五位下という伊予国の最高地方役人と同じ位の官職を与えて懐柔をはかり、兵力を東国の平将門鎮圧に集中させる。

 

しかし、純友は940年に淡路国(淡路島)の兵器庫を襲撃して兵器を奪い、その海賊行為は活発になった。


淡路島
 

この頃、京都の各所で放火が頻発し、そこへ純友が京都に向かっているという報告もあったため、朝廷は純友が京都を襲撃するのではないかと恐れて、宮廷に兵を配備し、山城国(京都府南部)の入り口となる山崎の警備を強化するが、山崎は謎の放火によって焼き払われる。

 

この一連の出来事から、純友の勢力は瀬戸内海のみならず、平安京周辺から摂津国(大阪府北中部の大半および兵庫県南東部)の「盗賊」と呼ばれる武装した不満分子にも浸透しており、純友による京都への直接的脅威は極めて深刻な状況であった。

 

山城国
 
ところが、関東の「平将門の乱」が鎮圧され、大軍を西国に送りこめるようになった朝廷は、純友討伐に積極的になり、征西大将軍に任命した小野好古(おののよしふる)を追捕使長官に、源経基を次官とした追捕使軍を出陣させる。

 

小野好古
  
小野好古
 

「平将門の乱」が鎮圧されたことに動揺した純友は、根城である日振島に船を返すが、その後、伊予国や讃岐国(香川県)の国府を焼き討ちして財産を奪い、備前国(岡山県東南部など)・備後国(広島県東半分)の兵船100余艘を焼き、さらに長門国(山口県西半分)を襲撃して官物を略奪すると、貨幣鋳造をつかさどった周防国(山口県東南半分)の鋳銭司を焼き討ち、土佐国(高知県)幡多郡を襲撃するなど大胆に活動を展開した。

 

周防国の鋳銭司

941年、純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降ると、朝廷軍は純友の根城である日振島を攻めて制圧すると、純友軍は西に逃れて九州の太宰府を襲撃して占領する。

 

 

純友の弟・藤原純乗は筑後国(福岡県南部)柳川に侵攻するが、朝廷側の大宰権帥(大宰府の長官の定員外の官人)・橘公頼の軍に敗れた。

 
太宰府
 

小野好古率いる朝廷軍は九州に到着すると、小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から純友軍を攻撃し、純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実の軍を迎え撃った「博多湾の戦い」で激戦の末に大敗し、800余艘を奪われた純友は息子の藤原重太丸と小舟に乗って伊予国(愛媛県)へ逃れる。

 

藤原純友1
 
しかし、一カ月近くに渡って繰り広げられた激闘に敗れた純友は、伊予に潜伏しているところを伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕えられ、純友・藤原重太丸の親子は首を切られた。

 

二人の首は朝廷へ進上され、橘遠保は純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられる。

 

純友神社
 

藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社、愛媛県新居浜市の中野神社がある。

 

 


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藤原純友 ( 劇団Camelot )
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平賀 源内 (香川)

平賀源内700x1000

1728年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石茂左衛門の三男として生まれる。

 

 

白石家はもともと信濃源氏大井氏流平賀氏であったが、戦国時代の1536年、平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受けて滅ぼされた。

 

その後、平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕えると白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ移ると、讃岐高松藩で足軽身分となる。


武田信虎
  
武田信虎
 

源内は12歳の時に「お神酒天神」という掛け軸を作成した。

「お神酒天神」は天神様の頬の部分を丸くくり抜き、その後に肌色と赤色を上下に塗った紙を糸で吊るし、徳利を乗せると徳利の重さで糸が引かれて裏に仕込んだ紙が引っ張られると、赤色の紙がスライドするため、御神酒を供えると天神様がお酒を飲んで赤くなったように見える仕掛けである。

 

お神酒天神
 
この「お神酒天神」が評判となり、源内は13歳から中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である本草学や儒学(孔子の唱えた倫理政治規範を体系化して長く中国の学問の中心であった)を藩医のもとで学ぶ。

 

また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。

 

1748年、父・白石茂左衛門が死去し、源内は戦国時代の先祖にちなんで平賀に改姓した。

 

1752年頃に1年間、源内は長崎へ遊学し、本草学の研究の他に様々なオランダの文物に刺激され、オランダ語、医学、油絵などを学び、帰郷して間もなく藩の役目を辞し、さらに家督を妹婿に譲る。


長崎
 

源内はヨーロッパの歩数計を改良した量程器(万歩計の先祖)や磁針器(方位磁石)などを製作し、大坂や京都で学んだ後の1756年、江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りすると同門の小浜藩医・中川淳庵を介して生涯の盟友となる杉田玄白と知りあった。

 

杉田玄白
  
杉田玄白
 
1757年、源内は師である田村元雄を説いて湯島で第1回薬品会を開催し、これ以後、同志同好の者が珍種奇品を持ち寄る共同品評会を毎年のように開催し、江戸幕府老中・田沼意次にもその存在を知られるようになる。

 

田沼意次
  
田沼意次
 
1759年、源内は高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るため再び辞職したため「奉公構(家臣に対する刑罰で、旧主の赦しがない限り他家への仕官が禁止される)」となった。

 

 

1762年、源内主催で第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催し、全国的ネットワークによって内外1300種の動植鉱物を集めて陳列し、江戸における知名度を一層に上げる。

 

翌年、全5回の出品物の中から360種の主要品目を選んで、それらに実証的な解説をつけて挿図をそえた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。

「物類品隲」は日本博物学史上の画期的な業績と評されている。

 

物類品隲
 
オランダ博物学に関心を持っていた源内は西洋博物書を次々に入手し、杉田玄白らと江戸参府中のオランダ商館長一行やオランダ通詞(江戸幕府の公式通訳者)らと問答して西洋博物書を読解した。

 

蘭学
 
また、文芸活動も行い、江戸の風刺戯作の先駆けとなる談義本「根南志具佐」「風流志道軒伝」を刊行。

 

根南志具佐

1766年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発(現在のニッチツ秩父鉱山)を行い、石綿などを発見し、これによって火浣布(耐火織物)を作るという産業起業的な活動を行い、以後、秩父での鉱山経営の試みは晩年まで続く。

 

現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が長期滞在した建物が「源内居」として残っている。


源内居
 

1769年、歯磨き粉「漱石膏」のCMソングを作詞作曲し、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、それぞれ報酬を受けていることから日本におけるコピーライターのはしりと評されている。

 

 

1770年、自作浄瑠璃「神霊矢口渡」を初演した後、田沼意次の命で蘭(オランダ)書翻訳のために長崎へ遊学するが、蘭書翻訳ではなく洋風油絵「西洋婦人図」を描いたり、海外製の羊毛による羅紗(ラシャ)試織を手土産に江戸に戻ってきた。

 

西洋婦人図
 
1773年、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、その間に同藩の小田野直武や藩主・佐竹義敦に洋風画法を伝授する。

 

佐竹義敦
  
佐竹義敦
 

1776年、源内は破損していたエレキテルを修理して復元することに成功。

 

エレキテルとは、摩擦を利用した静電気の発生装置で、木箱の中のガラス円筒をハンドルで回転させると、金箔との摩擦によって静電気が発生し、このたまった静電気を銅線によって外部に導いて放電するという仕組みで、オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。

 

源内は1759年に長崎で壊れたエレキテルを持ち帰ったとされているが、源内は電気の発生する原理を陰陽論や仏教の火一元論などで捉え、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったため、すぐには修理が出来ない。

 
平賀源内2

しかし、それは無理もない話で、当時、電気の理解に関しては西洋もまだ手探り状態で、エレキテルの蓄電器にも使われていたライデン瓶が発明されたのが1746年、ベンジャミン・フランクリンが雷が電気であることを突き止めたのが1752年、日本にはこうした情報が断片的に入っていたに過ぎない。

 
ベンジャミン・フランクリン
  
ベンジャミン・フランクリン

源内は手に入れたエレキテルを数年間、仕方なく放置していたが、通詞の助けなども借りながら原理を勉強して、その仕組みを理解していった。

 

源内は復原したエレキテルを金持ちへの見世物に使って大人気となるが、一瞬バチッとやって人を驚かせるだけという用途であるため、これがもとで江戸の電気学が発展することはなく終わる。

 

エレキテル
 
エレキテルの復原には成功した源内であるが、一方で秩父鉱山は挫折し、1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた源内は修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷して投獄された。

 

そして、その後ほどなく、51歳で破傷風により小伝馬町の獄中で死去する。

 

平賀源内1
 

葬儀は杉田玄白らの手により行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

 

墓所は浅草橋場(現在の東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。

 
浅草橋場

また、源内の義弟として平賀家を継承した平賀権太夫が、源内を一族や故郷の人々の手で弔うために、さぬき市志度の自性院に墓を建てた。

 
自性院
 

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる源内は、数多くの号を使い分けており、画号の「鳩渓」、俳号の「李山」をはじめ、戯作者として「風来山人」、浄瑠璃作者として「福内鬼外」の筆名を用い、殖産事業家としては「天竺浪人」、生活に窮して細工物を作り売りした頃には「貧家銭内」などといった別名を使っている。

 

 

 

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三好 長慶 (徳島)

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1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




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吉田 松陰 (山口)

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1830年、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。

 

1834年に松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、1835年に吉田大助が死亡すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学者としての教育を受けた。


山口県萩市1

松陰は9歳にして長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時、長州藩主・毛利慶親の前で兵法の講義を行い、称賛は受ける。

 

13歳の時には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施した。


萩藩校明倫館
 

しかし、イギリスから輸出されるアヘンの中毒者が社会問題になりアヘン禁止論が高まった清(16441912年まで中国とモンゴルを支配した統一王朝)がアヘンに対する取り締まりを強化していく過程が武力衝突に発展した「アヘン戦争」で、清がイギリスに大敗したことを知ると、松陰は山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し、西洋兵学を学ぶために1850年から全国を巡る度に出る。

 

アヘン戦争

この旅の途中、松陰は江戸では佐久間象山などに師事し、そして1853年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれたのであった。

 
佐久間象山
  
佐久間象山
 

黒船は蒸気を動力にした最新鋭の船で、それまで目にしたことがないような巨大な船体に30門の大砲を搭載し、ペリーはこの黒船の武力を誇示して鎖国していた江戸幕府に開国を要求したため、幕府の役人は狼狽し、国内は大騒ぎとなる。

 
マシュー・ペリー
  
マシュー・ペリー
 

松陰は今後は西洋のことを知り、西洋の兵学を学ばなくてはならないと痛感し、この考えに賛同した当時23歳で長州藩出身の金子重之助は松陰を慕って行動をともにするようになった。

 

 

当時、幕府の許可なく外国に渡航することは固く禁じられおり、これを犯せば重い罪にとわれるが、松陰と金子重之助の二人は黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考え、黒船が停泊する下田へと赴く。

 
黒船

いよいよ決行の日、深夜、松陰と金子重之助は小船に乗って沖の黒船を目指すが、小舟は櫓(和船における漕具の一つ)を船に固定する金具がはずれていたため、二人はふんどしを外して櫓を船に結びつけて漕ぎ、どうにか黒船に辿り着く。

 

松陰は懸命に筆談を試みるが全く伝わらず、アメリカ人の船員は向こうの船に通訳がいると指差すので、二人は荒れ狂う海の中を再び小舟を進めて、ついに通訳にアメリカに連れて行って欲しいという意思を伝える。

 

しかし、その願いは聞き入れられず、二人は下田に連れ戻された。

 

下田

1854年、松陰と金子重之助は密航を企てた罪に問われ、長州藩内の牢獄に入れられることになる。

 

松陰は一人一室が与えられる武士階級の牢獄に入り、農民出身の金子重之助は衛生状態の良くない雑居房に入れられた。

 

もともと体が弱かった金子重之助は獄中で衰弱し、ついには獄中で命を落とす。

 

志も同じ、犯した罪も同じ、なのに身分が違うとなぜこれほど待遇が変わってしまうのかと、松陰は金子重之助の死から身分制社会の現実を実感し「吾れ独り生を偸み。涙下ること雨のごとし。」と悲しんだ。

 

吉田松陰4
 
松陰が入れられた獄には12の独房があり、75歳で獄中生活48年の大深虎之允(おおふかとらのじょう)、家族から見放されて牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣、入獄と出獄を3度繰り返している平川梅太郎、元寺子屋の教師で在獄6年になる吉村善作など他の独房にいる囚人達と松陰は知り合った。

 

そんな囚人達の中にただ一人、高須久子という女性がおり、彼女は三味線が好きで武家の女性でありながら、様々な人を身分の分け隔てなく自分の屋敷に呼び、時には武士の家に出入りすることが許されない人まで招待していたことが投獄の理由とされている。

 

江戸時代という管理社会において、社会の上層と底辺が付き合うというタブーを冒す者を世間の目に触れさせておくことは許されなかった。

 

松陰は人間を身分ではなく心で判断する高須久子とウマがあい、互いの素性について深く語り合うこともあるほど親しくなる。

 

吉田松陰3
 
そんな獄中生活で松陰は、それぞれの囚人が優秀な能力を持っていることを知っていき、互いに得意なことを教え合うということを始め、書の指導を頼んだ富永有隣は人に教えるうちに次第に自信に満ちた表情になり気難しい性格に変化があらわれた。

 

「人、賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし。」そんなことを体感した松陰に、1855年、獄を出て自宅で謹慎するようにという命令が届く。

 

高須久子は松陰との別れにいたって「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな。」という句を詠んだ。

 

吉田松陰2
 

松陰は獄を出て萩の自宅に戻ると、1857年に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、牢獄での経験を活かした教育を行うようになる。

 

10畳半と8畳のわずか二部屋の松下村塾に、松陰を慕う若者が多い時には一日30人集まり、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々が、松陰の教育に触れた。

 

 

塾は常に開け放たれ、出入りするのに時間や回数の制限もなく、1日に3回訪れる塾生もいれば、夜に来て朝に帰る塾生もおり、もちろん身分に分け隔てなく武士も町人も様々な身分の人が同じ部屋で学んだ。


伊藤博文
  
伊藤博文

松陰は、多くの情報に接してそれに基づいた行動をしなければならないという意味である「飛耳長目」という言葉を合言葉に掲げ、講義だけでなく共に話し合う討論会も重視する。

 

松陰は「沈黙、自ら護るは、余、甚だ之を醜む。」と言い、身分を越えての人と人のぶつかり合いが最も大切な教育だと考えていた。

 
 

松陰が「才能も気概も一流」と最も高く評価した久坂玄瑞は、松陰に代わって講義をすることもあり、そして、その久坂玄瑞に誘われて塾の門を叩いたのが19歳の高杉晋作である。

 

久坂玄瑞
  
久坂玄瑞
 
松陰は高杉晋作が塾にやってきた頃の印象を「晋作の学問はさほど進んではいないにもかかわらず、意にまかせて勝手にふるまう癖がある。」と語っているが「晋作はいずれ大成する人物である。彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない。」と無理に型にはめようとはしなかった。

 

高杉晋作1
  
高杉晋作
 

1857年、外国人が日本で起こした事件を日本が裁けない不平等な内容が盛り込まれた「日米修好通商条約」を結ぶようにアメリカが幕府に対して強硬に迫ると、国内の世論はアメリカとの関係を巡って紛糾する。

 

 

こうした情勢は萩にも伝わり、松陰はこの事態に日本がどう対応すべきか塾生達に考えさせた。



高杉晋作は「今は外国の圧力に耐え、富国強兵につとめなければならない。西洋の知識と技術を導入して、人材の育成を図らなくてはならない。国力をつけた上で外国と対等な関係を築くべきだ。」という内容のレポートを書き、これを読んだ松陰はその内容に驚き、評価し、その影響を受けた「西洋歩兵論」という論文を書く。

 

「西洋歩兵論」は「西洋の歩兵制を採用して身分にとらわれず志があれば足軽や農民も募るべきだ。」という内容で、戦うのは武士であり農民や町民は武器をとってはならないと教えられていた当時では想像の及ばない画期的なものであった。

 

松下村塾2
 

1858年、江戸幕府の大老・井伊直弼らは、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印するなどし、それらの対応に異議を唱える思想家達が次々に幕府に逮捕され弾圧される「安政の大獄」が始まる。

 
井伊直弼
  
井伊直弼
 

こうした動きを知った松陰は、日に日にこのまま幕府に日本を任せてはおけないという思いを強め、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、幕府を倒すために過激な行動を取れと主張するようになった。

 

こうした松陰の過激な言動は、長州藩の知るところとなり、藩に危険視された松陰は再び投獄される。

 

 

松陰を慕っていた塾生達も倒幕という急進的過ぎる発想にはついていけず、再投獄後の松陰は塾生達との溝を深めて断絶状を書き送った。

 
松下村塾1
 

しかし、獄中で再会し、松陰の心の支えとなった高須久子を通じて、松陰は例え自分一人が立ち上がり倒れても、きっと志ある者が後を継いでくれるに違いないと考えを改めるようになる。

 

 

松陰は、志のある者が立場をこえて同じ目的を持っていっせいに立ち上がることを説いた「草莽崛起」として後世に知られる文書をしたためた。

 

 

さらに松陰はこの頃、高杉晋作に塾生達に怒ったことを悔いる手紙を送り、出獄したあかつきには塾生達とともに行動しようと考えるようになる。

 
 

しかし、1859年、尊皇攘夷を求める志士達の先鋒となって幕政を激しく批判し「安政の大獄」2人目の逮捕者となった梅田雲浜が萩に滞在した際に松陰と面会していたことなどから、松陰は幕府の命令で江戸の伝馬町牢屋敷に移されることになった。

 

伝馬町牢屋敷
 
高杉晋作ら塾生達は、松陰の身を案じて江戸の長州藩邸に集まり、松陰を獄から助け出そうと画策する。

 

松陰はそんな高杉晋作に死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」という内容の手紙をしたためた。

 

 

幕府が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白してしまい、結果、18591027日、松陰は斬首刑に処され、29歳でその生涯を閉じる。

 

 

松陰は遺書で「私は30(享年)、四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは、私の知るところではない。もし同誌の諸君の中に私のささやかな真心を哀れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。」と記した。

 

吉田松陰1
 

松陰の死後、高杉晋作は、志があれば身分にかかわらず誰でも入ることが出来る新しい軍隊「奇兵隊」を創設する。


奇兵隊
 
塾生の一人であった吉田稔麻呂は「維新団」「一新組」という長州軍の主力となる軍隊を作った。

 
吉田稔麿
  
吉田稔麻呂

1868年、明治時代になると、新政府の要人には山県有朋や伊藤博文といった松下村塾の塾生達が名を連ね、新しい日本を築いていく。

 

山縣有朋
  
山県有朋 


高須久子は元号が明治と改められたその年におよそ16年の獄中生活を終えたといわれ、出獄後も死ぬまで松陰の書を肌身離さず持っていたという。

 

 


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毛利 元就 (広島)

毛利元就700x1000

 

1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。

 

出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。

 

 

1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。

 
多治比猿掛城


1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元が酒毒が原因で死去。

 

元就はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出され、元就はその哀れな境遇から「乞食若殿」と言われる。

 

 

この厳しい時期の元就を支えたのは養母の杉大方で、後に半生を振り返った元就は「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と書き残しており、杉大方が元就に与えた影響は生活や基本的な教育のみならず感性にも及んでいた。

 

 

1511年、杉大方は京都にいた元就の兄・毛利興元から元就の元服の許可を貰い、元就は「多治比元就」を名乗って分家を立てる。


毛利元就1

1516年、毛利興元が父と同じく酒毒で急死した。

父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場では自分は下戸だと言って酒を飲まなくなったという。

 

毛利家の家督は毛利興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少だったため叔父である元就が後見することになった。

 


毛利弘元、毛利興元と2代続く当主の急死、それを継いだ幸松丸はわずか2歳で、その後見役の元就が20歳、という不安定な毛利家の状況を好機と見た佐東銀山城主・武田元繁が吉川領(吉川氏は毛利氏と同様に大内氏を主家としていた)の有田城(広島県山県郡北広島町有田)へ侵攻する。

 

主家の大内氏が主力を京都に展開しており、援軍は望めない状況で元就は有田城救援のために出陣。

 
有田城
 

元就はこの自身にとって初陣である「有田中井手の戦い」で、まず武田軍先鋒で猛将として名高い熊谷元直の軍を撃破し、熊谷元直は討ち死にした。

 

有田城攻囲中の武田元繁は熊谷元直が敗れた知らせを聞くと怒りに打ち震え、有田城の包囲に一部の兵を残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍の迎撃に出る。

 

 

武田元繁は「日本の項羽(三国志の呂布を超える豪傑にして秦帝国を滅ぼした西楚の覇王。中国史を代表する人物の一人)」とも謳われた勇将で、小勢力の毛利氏や吉川氏には荷が重い相手と見られ、戦況も数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討ち死にすると武田軍は混乱して壊滅。

 

安芸武田氏は当主の武田元繁のみならず多くの有能な武将を失い退却することになる。

 

 

この「有田中井手の戦い」は西国の桶狭間と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大のターニングポイントとなり、毛利元就の名が世に知られるようになるキッカケであった。

 

有田中井手の戦い
 

1523年、鏡山城(広島県東広島市)で起きた尼子氏と大内氏による「鏡山城の戦い」で、大内氏側から尼子氏側へ鞍替えした元就は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始し、膠着状態となった戦況を巧みな智略で攻略し、その活躍から毛利家中での信望を高める。

 
鏡山城の戦い
 

この頃、元就は吉川国経の娘を妻に迎え、27歳で長男・隆元が生まれた。

 

また、毛利家当主である甥・幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子で重臣達の推挙もあったことから、27歳で毛利家の家督を継いで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に入城し、毛利元就と名乗ることになる。


吉田郡山城
 

ところが、元就が家督を継いだことに不満を持った坂氏・渡辺氏などの有力家臣団が、尼子氏の重臣・亀井秀綱の支援を受けて元就の異母弟・相合元綱を擁立して対抗したため、元就は相合元綱一派を粛清・自刃させることになった。

 

相合元綱は異母弟とはいえ元就との兄弟仲は良かったため、尼子氏の計略に乗ったことを恥じたという。相合元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられる。

 

家臣団の統率をはかるため粛清せざるを得なかったが、元就は相合元綱を亡くしたことを寂しがり、僧侶になっていた末弟・就勝(元就・相合元綱の異母弟)を還俗させると北氏の跡を継がせて側に置いた。

 

毛利元就2

家督相続問題をキッカケに元就は、尼子経久と敵対関係となっていき、1525年、尼子氏と手切れして大内義興の傘下となることを明確にした。

 

1529年、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐し、元就は高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。

 

 

一方、父・弘元が仲良くするようにと言い遺しながらも兄・興元の代で戦になった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、元就は宍戸元源に高橋氏の旧領の一部を譲り、1534年に元就の娘・五龍局を宍戸元源の孫・宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。

 

 

1533年、大内義隆が後奈良天皇に、元就の祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事にならって元就に官位を授けるように申し出た。

 

そして、これは元就が4,000(現在の貨幣価値で約500万円)を朝廷に献上する事で実現し、元就は推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果を得る。

 

1537年には、大内氏へ元就の長男・毛利隆元を人質として差し出し、さらに関係を強化した。


毛利元就3
 

1540年、大内氏と対立する尼子晴久(尼子経久の後継者)の尼子軍3万が吉田郡山城を攻めると、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000で迎え撃ったが、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この「吉田郡山城の戦い」に勝利し、安芸国の中心的存在となる。

 

そして、同年、尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏を滅亡させると、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

 

吉田郡山城の戦い
 

尼子氏が「吉田郡山城の戦い」で敗れたことにより、尼子氏側だった国人領主達からも大内氏側に付く者が続出し、大内氏のもとには尼子氏退治を求める声が強くなり、1542年、大内義隆は毛利氏などの諸勢力を引き連れて出雲国の月山富田城(島根県安来市)へ出兵する。

 

この「第一次月山富田城の戦い」は、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎて補給線と防衛線が寸断されたことにより、大内軍は敗走した。

 

この敗走中に元就は死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして奮戦して戦死したことにより、無事に安芸に帰還する。

 

 

この頃から元就は常に大大名の顔色をうかがう小領主の立場からの脱却を考えるようになった。

 
第1次月山富田城の戦い
 

1541年に「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけてくれた小早川興景が子もなく亡くなったため、竹原小早川氏の家臣団から元就の三男・徳寿丸を養子に欲しいとの要望があり、1544年、徳寿丸は強力な水軍を擁する竹原小早川氏へ養子に出される。

 

徳寿丸は元服後に小早川隆景を名乗るようになった。

 

 

1545年、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くし、特に妙玖が亡くなった悲しみは深く、後々まで手紙などに妻を追慕する内容を書き残している。

 

 

「第一次月山富田城の戦い」で裏切り行為をした吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、一族が分裂して家中の統制ができなくなり、吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。

 

さらに反興経派は元就の次男・元春を吉川氏の養子にしたいと再三の要求を出し、元就がこれに応じたことにより、家督を乗っ取る形で元春は吉川家の当主となる。

 

しかし、興経派を警戒していた元就は吉川元春をなかなか吉川家の本城へは送らなかった。

 

吉川元春は長男・元長が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていたが、1550年、元就の命で将来の禍根を断つため吉川興経とその一家が殺害されると、ようやく吉川元春は吉川氏の本城に入る。

 
吉川元春
   
吉川元春
 

また元就は「第1次月山富田城の戦い」で当主であった小早川正平を失った沼田小早川氏の新たな当主である小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させると、小早川繁平を出家に追い込み、元就の実子で竹原小早川氏の当主になっていた小早川隆景に沼田小早川氏も継がせた。

 
小早川隆景
  
小早川隆景
 

こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏には元就の次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏には元就の三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして両家の勢力を取り込み、毛利氏の勢力拡大を支える「毛利両川体制」が確立し、安芸一国の支配権をほぼ掌中にする。

 

毛利氏
 

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害させられ、養子の大内義長(豊後大友氏・大友義鑑の次男)が擁立され、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏の血統が絶え、西国の支配構造は大きく変化していく。

 

 

以前から陶晴賢と通じて安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた元就は、これを背景に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃した。

 

 

ところが、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は元就に支配権の返上を要求し、元就がこれを拒否すると、両者の対立が色濃くなっていく。

 
大内義隆
  
大内義隆
 

この当時、陶晴賢が動員できる大内軍3万以上に対して、毛利軍の最大動員兵力は40005000であったため、正面衝突すればとても勝算が無かった。

 

 

1553年、陶晴賢に自害に追い込まれた大内義隆に恩義のあった津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)主・吉見正頼が、陶晴賢に対して挙兵する。

 

吉見氏と陶氏の両方から加勢を求められていた毛利氏の家中は意見が割れるが、元就は大内氏からの離反・独立を決め、陶晴賢に対して反旗を翻した。

 

 

激怒した陶晴賢は即座に重臣の宮川房長に3000を率いらせて毛利氏攻撃を命じるが、元就はそれを撃破し、宮川房長は討ち死にする。

 

 

1555年、今度はついに陶晴賢が自ら2万~3万の大軍を率いて、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく出陣、しかし毛利軍の奇襲攻撃に苦しめられ、さらに厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利氏に味方し、退路を断たれた陶晴賢は自害することになった。

 
 

 

元就が大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破した勢いで周防(山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の両国攻略を計画すると、大内軍は蓮華山城・鞍掛山城・須々万沼城・富田若山城・右田ヶ岳城などに兵を配備して毛利軍を迎撃する準備を整える。

 

 

しかし、この頃、大内氏の家臣団の内部崩壊が進んでいたこともあり、大内軍は毛利軍の進軍を防ぎ切れず、大内氏当主・大内義長が自害に追い込まれたことで大内氏は完全に滅亡し、これにより毛利氏は九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。

 

津和野城
 

1556年、元就は次男・吉川元春らを石見国へと進め、石見銀山防衛のため築城された山吹城(島根県大田市大森町)の刺賀長信を服属させて石見銀山を支配下に置くが、尼子晴久はすぐに山吹城と石見銀山を奪取すると、山吹城に本城常光を置いて石見銀山の守りを固める。

 

さらに、尼子氏と結んで毛利氏に抵抗する石見の有力豪族・小笠原長雄が石見攻略の大きな障害となっていた。

 

1559年、毛利氏が小笠原長雄の籠る温湯城(島根県川本町)を落城させ山吹城を攻撃した「降露坂の戦い」は、本城常光の奇襲とそれに合流した尼子晴久本隊の攻撃を受けて毛利氏は大敗する。

 

降露坂の戦い
 

1561年に尼子氏当主・尼子晴久が死去し、尼子晴久の嫡男・尼子義久が家督を継ぐと、1562年、元就は出雲侵攻を開始し、これに対して尼子義久が難攻不落の月山富田城に籠城して尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った「第二次月山富田城の戦い」において、元就は月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功した。

 

 

元就は大内氏に従って敗北を喫した「第一次月山富田城の戦い」を教訓に無理な攻城はせず、城内の食料を早々に消耗させ、それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘う策略を張り巡らし、1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久は降伏を余儀なくされる。

 

 

こうして石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼしたことにより、元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。

 
石見銀山
 

しかし、中国地方8ヶ国を支配した元就であったが、尼子氏残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入したり、元就によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。

 

それらは毛利氏にとって厳しい時期となったが、吉川元春、小早川隆景ら優秀な息子達の働きにより乗り切ることに成功した。

 

 

 

1560年代の前半より度々体調を崩していた元就に対して、室町幕府将軍・足利義輝が名医・曲直瀬道三を派遣して治療に当たらせる。

 

その効果もあったのか、元就の体調は持ち直し、1567年にはなんと最後の息子である才菊丸が誕生した。

 
足利義輝
  
足利義輝

しかし、1571年、吉田郡山城において、死因は老衰とも食道癌ともいわれるが74歳で死去する。

 

 

毛利家の家督はすでに嫡男・毛利隆元に継承済であったが、隆元が1563年に亡くなっていたため、元就の孫・毛利輝元(隆元の嫡男)が継いだ。

 

 

 
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尼子 経久 (島根)

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1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。

 

それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。


応仁の乱
 

1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この間に元服する。

 

経久は京都での滞在生活を終え、出雲に戻った後、父から家督を譲られた。

 

 

経久は尼子家の当主になって以降、次第に国人衆(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)との結束を強くし、この過程で室町幕府の命令を無視して京極政経の寺社領を押領するなどして独自に権力基盤を築く。

 

尼子経久2

しかし、こうした権力基盤の拡大は室町幕府や主君・京極政経の反感を買い、1484年、経久は居城を包囲され、守護代の職を剥奪される。

 

守護代の職を失っても経久は出雲で一定の権力を保持しており、1488年、経久は三沢氏(出雲の国人)を攻撃して降伏させた。


尼子経久2a
 

1500年、経久は守護代の地位に返り咲くと、近江国(滋賀県)において起こった京極氏の家督相続を巡るお家騒動で敗れた京極政経との関係を修復させる。

 

1508年、京極政経が死去すると、経久は出雲大社の造営を行い、宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の支配者としての地位を固めていく。

 

 

京極政経は孫の吉童子丸に家督を譲り、関係を修復させた経久にその後見を託したが、程無くして吉童子丸は行方不明となり、経久は事実上の出雲の支配者となる。

 

出雲大社
 

尼子氏にとって、中国地方で一大勢力を築いていた大々名である大内氏との関係は大きな問題であった。

 

 

1511年、大内氏当主・大内義興が細川高国ととも室町幕府将軍・足利義稙を擁立し、それに対抗して前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元が戦った「船岡山合戦」に、経久は大内義興に従って参加する。

 
船岡山合戦
 

この頃、経久の次男・尼子国久は細川高国から、経久の三男・塩冶興久は大内義興から偏諱(将軍や大名が功績のあった者などに自分の名の一字を与える)を受けており、経久は両者(大内義興・細川高国)との関係を親密にしようとしていた。


大内義興
  
大内義興

しかし、一方で、経久は1512年に大場山城(広島県福山市本郷町)主・古志為信の大内氏への反乱を支援していたり、1517年に大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護であった山名氏と手を結んで大内氏領の城を攻めるなど、次第に大内氏の影響下にある石見や安芸への野心を見せるようになる。

 

なぜなら、備後国(広島県の東半分)の山内氏や安芸国(広島県西部)の宍戸氏など国境を接する領主達の出雲国内への影響力は無視できないもので、経久が出雲国支配を安定させるうえで備後・安芸への進出を視野に入れないわけにはいかなかった。

 

大場山城
 

1520年、経久は出雲国西部の支配を確立させると、ついに石見国(島根県西部)、安芸国に侵攻し、ここから、北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才といわれた経久が、領地を広げ、尼子氏の全盛時代を作っていくことになる。

 

 

1523年、経久の重臣・亀井秀綱の命で、この時まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に、大内氏の拠点である鏡山城(広島県東広島市)を攻めさせた。

 

毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である毛利元就は、鏡山城内への寝返り工作を謀るなどして、見事に鏡山城を落城させる。


鏡山城
 

ところがこの後、毛利元就の異母弟・相合元綱らが毛利元就の暗殺を計画すると、相合元綱が尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾にしていたことから、毛利元就の暗殺計画に経久の意志が絡んでいることは明白であったため、暗殺計画に気付いた毛利元就は相合元綱を殺害すると、尼子氏との関係を解消して大内氏に鞍替えすることになった。

 

 

1524年、経久は伯耆(鳥取県中部・西部)に侵攻すると、伯耆羽衣石城主・南条宗勝を破り、さらに伯耆守護・山名澄之を敗走させる。

 
伯耆羽衣石城
 

1526年、伯耆・備後の守護職であった山名氏が反尼子であることを鮮明にし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲されるという窮地に立たされた。

 

 

1527年、経久は備後国へと兵を出兵するも大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)に敗れたため、尼子側であった備後国人の大半が大内氏へと寝返っていく。

 

1528年、再び経久は備後国へと出兵し、多賀山氏の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を陥落させるも、石見国における尼子側の高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされる。


蔀山城
 

そして1530年、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けた経久の三男・塩冶興久が、反尼子を鮮明にして大規模な反乱が勃発した。

 

 

経久はこの危機を大内氏の支援を仰ぐなど、巧みな処世術を駆使して切り抜け、1534年にこの反乱を鎮圧し、塩冶興久は自害に追い込まれる。

 

 

経久は長男・政久を早くに戦いで失っており、さらにこの反乱で三男・塩冶興久を失い、尼子氏は大きなダメージを負った。

 

塩冶興久の遺領は経久の次男・国久が継いだ。


尼子経久1
 

その後、経久の孫・尼子晴久(経久の長男・政久の次男)が美作国(岡山県東北部)へと侵攻して、ここを尼子氏の影響下に置くと、さらに備前へと侵攻するなど東へと勢力を拡大していった。

 

この後、尼子晴久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加する。

 


1537年、経久は家督を孫の尼子晴久に譲るが、第一線から身を引いたわけではなく、経済的に重要な拠点である大内氏が所有していた石見銀山を奪取した。

以後、この石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになる。


石見銀山

さらに、経久は東部への勢力を拡大すべく播磨守護・赤松政祐と戦い大勝する。



しかし、1539年、大内氏が尼子氏側の武田氏の佐東銀山城(広島市安佐南区)を落城させ、当主の武田信実は若狭国(敦賀市を除いた福井県南部)へと逃亡した。

 

 

1540年、武田信実の要請もあり尼子晴久は大内氏との早期決戦を目指して、大内氏側の毛利氏を討伐すべく出陣する。


佐東銀山城

尼子軍は諸外国からの援兵も加わり
3万騎へと膨れ上がり、大軍で毛利氏の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)を包囲する有利な形勢であったが、翌年、攻めあぐねるうちに陶隆房率いる大内軍2万騎の到着を許して大敗を喫し、尼子氏は安芸での基盤を失う。

 

この頃、経久から家督を継いだ尼子晴久や経久の次男・国久が尼子氏の軍事の中心を担っていたが、彼らには経久ほどの器量はなかった。

 

尼子晴久
  
尼子晴久

1541年、82歳の経久は、尼子氏の先行きを案じながら居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)で死去する。

 

月山富田城
 
経久の死後、大内義興の後を継いだ大内義隆が大軍で出雲に攻め込むが、大内側の吉川興経の裏切りにあったことにより大内義隆は撤退を余儀なくされた。

この裏切りは生前に経久が仕込んでおいた策略である。

 

大内義隆
  
大内義隆
 

「塵塚物語」によると、経久は持ち物を家臣に褒められると喜んで、高価なものでもそれを褒めた者に与えてしまうため、気を使った家臣達は経久の持ち物を褒めないようにしていたが、ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思って褒めると、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めるも、経久はとうとう松を切って薪にして渡したという。

 

 

また、冬には着ている物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。

 

 

 

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名和 長年 (鳥取)

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鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。

 

 

長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。


源師房
  
源師房 

 

鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。

 

長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。

 

名和長年1
 
 

鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。


 

1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。

 
 

しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。

 

後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。

 

その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。

 
後鳥羽上皇
  
後鳥羽上皇 

 

後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。

 

  

佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)

 

これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。

 

船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。

 

 

膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。

 

佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。

 
船上山の戦い

その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。

 

さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


名和長年3
 

長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。

 

さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。

 

また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。

 

「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。


名和氏
 

幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。

 

長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。


名和長年4

1335
年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。


足利尊氏
   
足利尊氏

 

これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。

 
竹ノ下の戦い
 

1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。

 

 

しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。


楠木正成
  
楠木正成

 

日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 

 

再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。

 
新田義貞
  
新田義貞 

 

「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。

 



 
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足利 尊氏 (京都)

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1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。

 

 


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平 清盛 (京都)

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1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。

 



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藤原 道長 (京都)

藤原道長700x1000

10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。

 

貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。


京都

数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。

 

 

966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生まれる。

 

道長の父・兼家は実の兄である藤原兼通との出世争いで不遇な目にあいながらも、そこから這い上がり、朝廷での権力を築き上げ、右大臣にまで出世した人物であった。

 

道長はこうした一族の骨肉の争いを目の当たりにしながら、どうして肉親同士で争わないとならないのかと苦悩しながら育つ。

 
藤原兼家
  
藤原兼家


父・兼家の五男であった道長は病弱であったこともあり、兄達を差し置いて朝廷で昇進することをあまり意識していなかった。

 

 

しかし、987年、道長が22歳の時、左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)との結婚という大きな転機が訪れる。

 

この当時の結婚は、夫が妻の家に入る「婿入り婚」であったため、妻の家柄が夫の将来を大きく左右し、道長も結婚によって倫子の父・源雅信が所有する莫大な財産と名誉を手にすると、計らずとも出世の糸口を掴むことになった。

 

988年、道長は参議を飛び越して権中納言となって、公卿の一員に加わる。

 

藤原道長
 
それから7年後の995年、疫病が全国で蔓延し始め、朝廷でもわずか3カ月のうちに道長の兄を含む7人の公卿達が次々に亡くなった。

 

これによるポストの欠員から、権大納言の道長と内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の二人が次の政権トップを担うと目されるようになる。

 

藤原伊周は道長より上位だが、道長から見て甥(道長の兄・道隆の嫡男)であった。


 

間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長は右大臣に昇進、伊周は内大臣に留任となり、道長は伊周を抜く。


一条天皇の母・詮子
(せんし)は道長の姉で、甥の伊周よりも弟の道長の昇進を一条天皇に強く訴えかけていたことが、この逆転劇に大きく影響した。


一条天皇
  
一条天皇

最高職である左大臣が空席だったため、道長は30歳で事実上の政権トップへと登りつめる。


 

しかし、当時の藤原一族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書き綴った日記「小右記」では、道長に出世で追い越されて憤る伊周の行動が記されており、この人事は大きな波紋を広げた。

 
藤原実資
   
藤原実資


995
年、御所で伊周が道長と乱闘さながらの口論となり、さらにその3日後、道長と伊周の従者同士が衝突し、道長の従者が殺される。

 

 

しかし、これに対してもし、伊周に制裁を加えれば、父・兼家のように一族を骨肉の争いに巻き込んでしまうと考えた道長は、報復のための行動を取らなかった。

 

 

996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、伊周は自分の想い人である藤原為光の三女が目当てと誤解して矢を放つという乱心行為を起こし、大宰府への流罪となった。

 

 

伊周の失脚後、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格し、数々の幸運が続いた結果、名実ともに政権トップの座が転がり込んで来る。

 

 

穏やかな政治を目指し、一族同士が争うことのない政権をいかにして作るか考え続けた道長は、実はその生涯で陰謀を働いたことがなかった。

 

京都2
 

左大臣に就任してから20年に渡って道長が綴った日記である国宝「御堂関白記」は、そのほとんどが朝廷の日々の出来事に対する簡潔な内容であるが「(道長の娘・彰子)産気づく、午の刻、ヘソの緒を切る。」など、天皇家に嫁がせた娘達に関する事はイキイキと詳しく書き留めている。

 

 

自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば、道長の血を引く天皇が生まれることになり、道長は孫である天皇の権威を背景に長期安定政権を築くことを考えるようになった。

 

道長は天皇家との間に外戚(母方の親族)関係を築くことに執念を燃やし、朝廷での地位を確固たるものにしようとする。

 

藤原道長1
 
999年、道長の長女12歳の彰子(しょうし)20歳の一条天皇に嫁ぐ。

この時、一条天皇には正室の定子と側室が他に3人いたが、一条天皇の寵愛はとりわけ定子へ向けられていた。


 

一条天皇は彰子の寝所には寄りつかず、嫁いでから5年が過ぎても彰子が身ごもる気配はなく、道長は焦りを覚えるようになる。

 

源氏物語
 

そこで道長は、源氏物語の作者としてその教養の高さがすでに宮中で評判となっていた紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養うことで、向学心の高い一条天皇の気を引こうとした。

 

彰子のもとには、紫式部の意向に従って漢籍や古今東西の珍しい書物が揃えられ、一条天皇はその書物に興味を持ったことをキッカケに彰子のもとへ通うようになっていく。

 

1008年、彰子が一条天皇に嫁いでから9年、ついに彰子と一条天皇との間に皇子・敦成(あつひら)親王が産まれる。

 

 

天皇との血縁の濃さがそのまま発言力となったこの時代、道長は自らの政権を安定させるキッカケを掴み、その喜びは尋常ではなかった。

 

紫式部
  
紫式部
 

1011年、一条天皇が病のために32歳の若さでこの世を去ると、次の皇位に就いたのは道長の姉・超子と冷泉天皇との間に生まれた三条天皇となる。

 

しかし、道長の意向が認められて皇太子は敦成親王になり、道長は次の皇位が自らの孫に約束されたことでひとまず安心した。

 

ところが、さらにその次の皇太子の座を巡り、道長と三条天皇の思惑がぶつかる。

 

三条天皇は次の皇太子には自分の皇子をと考えていたが、道長はもう一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることを望んだ。

 
三条天皇
  
三条天皇
 

自分が生きているうちに2代先の皇太子まで決めておきたいと考えた道長は、なんと三条天皇に譲位を迫るという強引な行動に出る。

 

三条天皇は憤慨して「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく、寝食もままならないほどで憂鬱極まりない。」と当然のごとく譲位には応じないが、道長は計5回も三条天皇に譲位の要求を突き付けた。

 

 

1015年、御所が2度に渡って焼け落ち、公卿達は口々に「天下滅亡の時が来た。」と怯え出す。

 

これを好機と見た道長は「火事は天皇の不徳が招いたものとせん。」と三条天皇に強く譲位を迫り、ついに三条天皇は道長に屈して譲位の要求を呑んだ。

 

 

1016年、道長の孫・敦成親王が後一条天皇として皇位を継ぎ、悲願であった天皇の外戚となった道長は、この日の日記に「天晴(てん はれ)。」と記している。

 
御堂関白記
 

さらに一年後、道長は思惑通り、もう一人の孫・敦良親王を皇太子とすることに成功し、これによって後一条天皇に続いて、その次の天皇も自分の孫となることが約束された。

 

 

一方で、この頃52歳となっていた道長は、老いと病から激しさを増す胸の痛みに死期を感じ始め、自らの死後も末永く政権を安定させたいと強く願うようになる。


 

そこで道長は、天皇の外戚が他に出現しないように、なんと孫である後一条天皇の妃に自分の娘・威子を立てようとした。


公家の間で近親婚はそれほど珍しいことではないが、さすがに甥と叔母の結婚は当時でも極めて異例である。

 

平安京

10181016日、政権安定にこだわる道長の執念が実り、威子が後一条天皇の妃となった。

 

道長の娘と孫が夫婦になったその日の夜、道長は宴の席で居合わせた公卿達を前に歌を読んだ。

 

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 

藤原道長3
 

1019年、道長は病からの救いを求めるかのように出家し、日記から最後の一月はひたすら念仏を唱え続ける日々であったことが分かる。

政権の最高権力を手に入れた道長も、その晩年は一人のか弱い病人であった。

 

1027年、道長は61歳でこの世を去る。

 
 

 

後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、この間に、それまで長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

 
京都3
 

道長の天皇家との婚姻戦略は、政治的にだけではなく、文学の面でも平安を生み出したのである。

 

 

 

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徳川 吉宗 (和歌山)

徳川吉宗700x1000

徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は
55000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。

 

1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。

 

元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。


和歌山市
 

吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌山城下の繁華街で家臣達と、よく食べよく遊びながら実社会の成り立ちを感じ取っていく。

 

 

しかし、一方で、紀州藩は派手な結婚式や将軍家との交際に費用がかさみ、深刻な財政難に陥っていた。

 

さらに、江戸の藩邸が度重なる火事に見舞われ、再建に莫大な費用がかかり、日照りや干ばつなど災害も相次ぎ、紀州藩は幕府から10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を背負う。

 

和歌山城
 
1705年、吉宗の兄達が相次いでこの世を去ったため、22歳の吉宗が紀州藩第5代藩主を務めることになった。

 

 

吉宗はさっそく藩財政の建て直しに取り掛かかり、倹約第一を掲げて、自ら率先して食事を質素なものにし、酒の量も制限する。

 

さらに吉宗は荒れ地を切り開いて水田とするために大規模な治水工事を行い、この工事では木の樋(水を通すための溝または管を樋という)をもちいて水路を川の上に通す画期的な技術がもちいられた。

 

出来あがった小田井用水は全長30kmにおよび、新しい水田は豊かな実りをもたらし、年貢米の増加となって藩財政を潤し、吉宗は藩主となって12年で藩の借金を返済し、そのうえで14万両の金と116000石の米を蓄えるまでに至る。

 

小田井用水1

吉宗は支出を減らし収入を増やすという極めてオーソドックスな方法で財政再建を成し遂げた。

 

幕府の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「吉宗はことに優れた名君だと噂され人々の信頼も厚い。」と、吉宗を高く評価した。

 

 

その頃、江戸城では、まだ8歳の第7代将軍・徳川家継が重い病気にかかり、明日をも知れぬ命と言われていたため、次の将軍を誰にするかが話し合われ、吉宗にその白羽の矢が立つ。

 

1716年、吉宗33歳、御三家からの将軍就任という前例のない大抜擢で、第8代将軍となった。

 

徳川吉宗2
 

しかし、将軍に就任して間もなく、吉宗は蓄えが底をつき、商人達への借金が積み重なり、すでに幕府の財政が崩壊状態であることを知る。

 

 

財政再建に取り組む決意をした吉宗は、紀州藩の時と同じように、食事は自ら率先して一日二食、オカズは二品、それ以上は「腹のおごり」と戒める倹約第一を掲げた。

 

さらに大奥に命じて美女50人を選抜し、着飾って現れた絶世の美女達に対して吉宗は「美人なら暇を出しても、その後、引く手数多であろう。」とリストラを敢行し、経費削減をする。

 
大奥
 

一方で、好景気に沸いた元禄時代、金銀が町に溢れ、物価は異常な値上がりが続くインフレ状態となっていた。

 

1718年、物価を下げるには金銀貨幣の量を減らせば良いと考えた吉宗は、世の中に出回る古い貨幣を回収するように命じ、数年のうちに通貨の量を3分の2にするという極端な金縮政策を取り、物価はやがて落ち着きを取り戻す。

 

 

続いて吉宗は、幕府の収入増加のためにこれまた紀州藩の時と同じように、関東平野を始め各地で治水工事を行って新田開発をする。

 
見沼代用水1

吉宗が作らせた全長60kmにも及ぶ江戸時代最大規模の農業用水路である見沼代用水は、パナマ運河のように高さの違う二つの土地を水路で結ぶという画期的なもので、さらに通船堀と呼ばれる船を通すための堀も作られ、物資の運搬にも利用された。

 

こうして切り開かれた水田からの年貢米は年々増加し、1722年、長年積み重なっていた幕府の債務16万両が完済される。

 

見沼代用水船堀
 
吉宗の経済政策は紀州藩の時のように成功したかに思われたが、米の生産量が大きく上がると米の値段は下がり、4年間で40%もの暴落をした。

 

そして、この米の値崩れが武士の生活を困窮させることになる。

 

江戸時代、武士は毎年決まった量の米を俸禄(給料)として受け取り、その米を売ることで金銀貨幣を手に入れて生活必需品を買っていたため、武士にとって米の値段が下がることは実質収入の減少を意味した。

 

 

武士の収入が大幅に減少すると、消費は大きく冷え込み、瞬く間に深刻な不景気が全国を直撃する。

 

 

紀州藩では成功した吉宗の政策が裏目に出たのは、藩内だけの増産の場合は増産分が他藩への輸出分に出来たが、将軍となって全国的な増産をすると全国的に米余り状態となり、それが米の価格を下げるという結果になった。


 

労働の価値よりも希少価値が力を持つ市場経済において、全国規模での過当競争がこういった結果を招くことは、現代なら常識であったが、吉宗の時代はまだ市場経済が産声を上げたばかりなのである。

 

徳川吉宗
 

天下の台所といわれ全国の物資の集散地として栄えていた大阪の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集まり、商人を通じて年貢米の販売が行われ、ここで取引される値段が全国の米の値段を左右した。

 

米の値段を引き上げたい吉宗は、江戸から御用商人(幕府や諸藩に様々な特権を認められた商人)を大阪に送り込んで、米市場をとり仕切らせて相場の操作を目論んだ。

 
中之島
 

しかし、実勢とかけ離れた高い値段で取引をしようとしても無理があり、さらに1730年、江戸町奉行・大岡忠相(通称・大岡越前)のもとを大阪の商人達が陳情に訪れ「諸国の米商人達は幕府が開く米市場を敬遠するので、大阪で取り引きをしなくなってしまった。扱う米が無いので、大阪の仲買商人は商売が成り立たず生活に困っている。」と訴えたため、吉宗は大阪の米商人に自由な商いを認めざるを得なくなる。

 

 

そうして、米の値段は下落を続け、一石30匁を割り、10年前の3分の1にまで価格を落とした。

 

そこで、吉宗は米を買い占めることで相場のつり上げることを考え、28万石ともいわれる米を買い上げる。

 

さらに、1731年には加賀藩から15万両を借りてまで米の買い占めを続けた。

 

しかし、思ったほどの効果はなく、米の値段に一喜一憂する吉宗は、いつしか「米将軍」と揶揄させるようになる。

 

もはや相場は幕府一藩がどんなに金をつぎ込んでも動かせるような規模ではなくなっていた。

 

堂島
 

1732年、梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及ぶ冷夏とイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしたことにより西日本一帯で、200万人が飢えに苦しみ、12000人が餓死する「享保の大飢饉」が発生する。

 

吉宗は直ちに東日本の米を西日本にまわすように指示し、さらに幕府の蔵を開け95000石の米を送り、また、20万両あまりを投じて被災地の救済も指示した。

 

 

米余りから一転して、深刻な米不足が生じたことで、皮肉にもこの年、米の値段は一気に急騰して一石100匁を越える。

 

「享保の大飢饉」救済のために幕府の財政は再び傾きはじめ、吉宗の改革は頓挫しようとしていた。

 
享保の大飢饉
 

1734年、吉宗が将軍になって19年目の年、飢饉の年にいったんは高騰した米の値段は再び下がり始め、一石あたり40匁を割るまで値段を下げる。

 

 

そんな時、江戸町奉行・大岡忠相が吉宗に「米の値段を上げるには貨幣を増発して、世の中に出回る通貨の量を増やすしかない。」と進言するが、それはこれまでの幕府の政策を180°転換せよというものであり、物価の値上がりに苦しんだ経験のある幕府にとって容易に決断できるものでなく、吉宗は大岡忠相の進言を却下した。

 

 

しかし、その後も米の値段が上がるようなことはなく、不景気はさらに深刻なものとなると、1736年、大岡忠相は再び吉宗に「通貨の量を増やさなければ、米の値段は上がらない。」と強く迫る。

 

大岡忠相
   
大岡忠相

通貨の量を増やせば世の中は乱れるかもしれない、しかし、このままでは米の値段は上がらず、人々は苦しみ、幕府財政も建て直せないと判断した吉宗は、ついに通貨の増発の決断をした。

 

 

貨幣鋳造の総責任者には大岡忠相が任命され、さっそく新しい貨幣「元文金銀」の鋳造が開始されると、吉宗の命令から1カ月後には続々と「元文金銀」が世の中に出回り始め、その発行量はそれまでの貨幣の2倍近くにまでなる。

 

 

すると、米の値段は次第に上昇し始め、やがて、一石60匁ほどに落ち着き、ようやく不景気は終わりを告げた。

 
元文小判
 

貨幣改鋳の2年後、大岡忠相は日記に「ようやく最近になって米の値段がよろしくなった。武士達の暮らし向きも良くなり、町人達も仕事に励むことができるようになった。」と記している。

 

 

吉宗の言葉を伝える「紀州政事鏡」には「誤りを知るを真の人という。」という言葉が記されている。

 

政治家という民の運命を背負う責任ある者は、間違えたら切り替えるという困難な思考・判断が必要であり、吉宗は過去の成功体験が通用しないことや過去の不況の原因が今度は特効薬になることを受け入れることが出来た。

 

そんな誤りを知る者だったからこそ吉宗は、米経済から通貨経済への時代の移り変わりに見事に対応することが出来たのである。

 
米俵
 

1751年、吉宗は66歳でこの世を去り、その墓は寛永寺(東京・上野)の第5代将軍・徳川綱吉の廟の中に建てられた。

度重なる財政再建でまず倹約第一から始めた吉宗らしく、自分のための新しい廟を決して作らせないように言い残していたからである。

 

 

 

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聖徳太子 (奈良)

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かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。

 

574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。

 

585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。


用明天皇
  
用明天皇
 

物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。

 

蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうまこ)6世紀の半ば朝鮮半島の百済から倭国にもたらされた仏教を信仰し、この外来思想をもとに新たな国造りを目指して権力の拡大を目論んでいた。

 

 

物部氏と蘇我氏はそれぞれ天皇家と深いつながりを持ち、皇位継承にも大きな影響力を持つ二大勢力として対立。

 

 

物部氏の実力者である物部守屋(もののべのもりや)は仏を異国の神として排斥して、当時に流行した疫病の原因も蘇我氏が仏教を信じたためとし「聖徳太子絵伝」には物部守屋が蘇我氏の建立した寺院を焼き払う場面が描かれている。

 

物部守屋
  
物部守屋

587年、用明天皇が即位後わずか2年で病に倒れて崩御すると、物部氏と蘇我氏が倭国の主導権を巡って全面対決する日がやってきた。

 

 

この古くからの神々を奉じる物部氏と新たな思想である仏教を奉じる蘇我氏の戦いで、仏教を厚く信仰する伯父・蘇我馬子を通じて仏教に出会った聖徳太子は蘇我軍の一員として参戦する。

 

 

激闘の末、戦いは蘇我軍の勝利に終わったが、長く激しい戦いに民は傷つき、血で血を洗う権力抗争のなかで死んでいく者達を目の当たりにした聖徳太子は、仏教の教えとは程遠い過酷な現実を知った。

 

聖徳太子伝
 
政治の実権を握った蘇我馬子は甥にあたる崇峻天皇を即位させるが、崇峻天皇が徐々に蘇我馬子が大和王権を牛耳っていることに不満を漏らすようになると、蘇我馬子は配下の者に崇峻天皇を亡き者にするよう命じ、592年、崇峻天皇が暗殺される。

 

 

続いて蘇我馬子は聖徳太子の叔母にあたる推古天皇を即位させ、大和政権が始まって以来、初の女性天皇が誕生した。


推古天皇
  
推古天皇
 

593年、20歳となった聖徳太子は推古天皇のもとで摂政に任じられ、蘇我馬子と共に政治を担う立場となる。

 

この時、聖徳太子は「太陽や月は、天上にあって大地をあまねく照らす。政をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」と決意の言葉を残した。

 

聖徳太子3
 

この頃、東アジアでは300年以上も分裂していた中国が「隋」によって統一されるという大きな変化を迎え、これは稀にみる巨大帝国の出現であり、朝鮮半島の国々や倭国にとって存亡に関わる出来事となる。

 

 

「隋」の都・長安(現在の西安)は碁盤の目のように整然と道路が敷かれ、壮麗な建造物が建ち並び、世界でも稀にみる大都市であった。

 

 

中国との関係が深い朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、この「隋」という脅威が誕生すると、すぐさま使者を送って君臣関係を結ぶ。

 

 

倭国は中国とは100年以上に渡って正式な国交を結んでいなかったため、巨大帝国「隋」出現にどのような対応をすべきか検討するための情報が不足していた。


長安
 

聖徳太子は高句麗からやって来た慧慈(えじ)という僧侶から、長安では広大な寺院がいくつも建立され、高度な建築や装飾工芸の技術が発達し、絵画や彫刻などの美術も盛んになり、多彩な仏教文化が花開き、「隋」の初代皇帝・文帝(楊堅)は仏教を保護する国造りを進めていることを聞く。

 
文帝
  
文帝


聖徳太子は寺院建立や仏像鋳造など様々な技術を倭国に伝えた仏教と同様に、中国や朝鮮半島では政治家や役人の道徳・倫理を説く思想として尊ばれていた儒教も学んだ。

 

 

「隋」は官僚制度が整えられ、強固な中央政権国家が成立し、その官僚の規律として儒教が導入され、仏教や儒教を重んじる先進的な国であった。

 

 
一方で、倭国の政治制度は重要な事柄は中央の有力豪族の思惑で決められ「隋」の進んだ制度とは程遠いもので、多くの民が貧しく苦しい生活を余議なくされ、その現実は聖徳太子が思い描いた慈悲の心で民をあまねく照らすものとはかけ離れていた。

 

「聖徳太子伝暦」では、聖徳太子は飢えた民と出会うと、自ら衣をぬいで、その民の身を覆い「かわいそうに、どんな境遇の人なのだろう。この道ばたで行き倒れた人は。」と嘆く場面が描かれている。

 

奈良県明日香村
 

598年、高句麗が「隋」の支配地域に侵入し、激怒した文帝は直ちに高句麗に大軍を差し向けると、強大な「隋」の軍隊を前に高句麗は屈服する。

 

 

朝鮮半島の国々と深い関係にあった倭国にとって、大国「隋」の朝鮮半島への影響力の増大は脅威であり、友好関係を結ぶ必要に迫られていた。


高句麗
 

600年、聖徳太子は120年ぶりに倭国の使者を中国に派遣(第一回遣隋使)する。

 

「隋」の役人は倭国の使者に対して「倭国ではどのように政治がおこなわれているのか。」と問うと、倭国の使者は王の権威を強調しようと思うあまり「倭国の王は、天を兄とし、太陽を弟とする。王は、兄である天が明るくなるまで王宮で政をおこない、弟である太陽が昇ったあとは政をしない。」と、古くから伝わる神話をそのまま持ち出して答えた。

 

 

これを聞いた文帝は、倭国は神話を語る政府機構のない国だとあきれ、外交を結ぶような相手ではないとバカする。

 

 

聖徳太子はこの屈辱的な外交失敗から大きな改革に乗り出していく。

 

第一回遣隋使
 

603年、聖徳太子は「冠位十二階」を制定する。

 

聖徳太子は冠位を表す名称に儒教の徳目を表す6つの言葉をさらに大小に分けて「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」12の冠位を作り、これは豪族のなかから一族の地位や血縁に関係なく、実力のある者を登用し、位を授けるという革命的な制度であった。

 

聖徳太子は豪族が支配する倭国を官僚が政治を取り行う国へ変え、その結果、中央集権国家の基礎が形づくられていく。

 

 

さらに聖徳太子は明日香の地に新たな宮殿「小墾田宮(おはりだのみや)」建造し、この小墾田宮は朝庭と呼ばれる儀式を執り行う場と上級の官人達が毎朝出勤する庁(まつりごとどの)と呼ばれる建物が造られた。

 

小墾田宮1
 

そして604年、誕生したばかりの官僚がどのように行動するべきか、その規則や道徳を示す「憲法十七条」が完成する。

 

聖徳太子はこの「憲法十七条」に理想国家実現への願いを込め、仏教や儒教などの思想を学んだことを活かして官人がいかに正しく政治を行うか具体的に記した。
 

「官人は、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公の仕事には、暇はない。」


「官人たるもの、貪りを絶って、欲を棄て、民の訴えを公正に裁かなければならない。私利私欲や賄賂によって判断を誤るようなことは、官人にあらざる行いである。」


「すべての官人は、礼の精神を根本とせよ。上に立つ官人が礼をもてば、世が乱れることはない。官人に礼あれば、民も必ず礼を守り、国家は自ずと治まる。」

 
小墾田宮2

また仏教の教えに従い行いを正すことも説く。


「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、経典、そして僧である。人間は極悪の者はまれである。教えられれば、道理にしたがうものである。仏の教えを篤く敬えば、よこしまな心や行いを正すことができる。」

 
 

そして人と人との関わりについて持つべき心の有り様を示す。


「こころのいかりを絶ち、人の違うことを怒らざれ、人皆心あり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫。ここをもちて、かの人いかるといえども、かえりて我が失ちを恐れよ。」

 

 

幼い頃から、豪族達の凄惨な争いや骨肉の王位継承争いを間近に見てきた聖徳太子は、己の利や一つの考えに囚われれば必ず争いが起こることを知り、仏教、儒教、外来の思想や法律など優れたものを分け隔てなく「憲法十七条」に採り入れた。

 

聖徳太子4
 

第一回遣隋使の屈辱以来、聖徳太子は「冠位十二階」「憲法十七条」「小墾田宮の建設」など着々と改革を進め、今こそ再び大国「隋」に使者を送り、国交を取り結ぶべき時と決断する。

 

 

聖徳太子が使者に抜擢した小野妹子は、有力な豪族ではなく、能力によって「冠位十二階」の「大礼」の位を授かった人物であった。

 

小野妹子
  
小野妹子
 
607年、二度目の遣隋使が倭国を旅立ち「隋」へと向かう(第二回遣隋使)

 

この時、小野妹子は倭国の国書を携え、そこには「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す。つつがなきや。」と、まるで倭国と「隋」が対等以上かであるように記されていた。

 

倭国の国書を読んだ二代目の皇帝・煬帝は「世界に天子はこの煬帝ただ一人、倭国の無礼な使者は二度と取り次いではならない。」激怒する。

 

 

しかし、この時「隋」は高句麗との戦争が再び目前と迫っていたため余計な敵を増やしたくないという事情があり、さらに、小野妹子が公式の冠位を持つ使者であったため倭国が官僚制度を整えた国家に成長していることを知り、倭国を外交交渉が可能な相手と認めた。

 

煬帝
  
煬帝
 
608「隋」の使者が初めて倭国の地を訪れる。


「隋」の使者は倭国に敬意を払い、
4回深々とお辞儀をする倭国の作法をとって、小墾田宮で煬帝の国書を読み上げた。

 

 

それは屈辱の第一回遣隋使から8年、アジアの大帝国「隋」が聖徳太子の改革によって生まれ変わった倭国を公式に認めたといえるものである。

 

聖徳太子1
 

聖徳太子は若い頃から大切にした仏教の慈悲の心を形にし、薬を作る施薬院(せやくいん)、病んだ者を治療する療病院(りょうびょういん)、飢えた者を養う悲田院(ひでんいん)、悪を絶ち善を修める敬田院(けいでんいん)などの施設を建て、民の救済に力を尽した。

 

奈良県明日香村2

605年から現在の法隆寺のあたり斑鳩(いかるが)に居を構え、仏教の経典の研究に没頭していた聖徳太子は、622222日、48歳で病に倒れ、理想国家の建設に捧げた生涯を終えた。

 

「日本書記」ではこの時の様子を「日月、輝きを失い。天地、既に崩れぬ。」と記している。

 



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上杉 謙信 (新潟)

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1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを敢行し、製品の販売に力を尽くす。

 

 

商業の発達によって人々の生活は格段に潤い、国内の争いはなくなっていき、戦争をせずに国を治めるという謙信の夢は実現するかに思われた。

 

青苧
 

しかし、その豊かな越後は甲斐の武田信玄に執拗に狙われることとなる。

 

1541年に武田氏の家督を継いだ信玄は信濃攻略に乗り出し、およそ12年で信玄の領土は越後との国境付近まで広がり、信濃で信玄の領土になっていなかったのは川中島の一帯だけとなった。
 

武田信玄
  
武田信玄
 

謙信は、信玄に攻められた信濃の豪族からの救援要請に応えて川中島に出陣する。

 

「第一次川中島合戦」1553年若くして自ら戦の先頭に立ち連戦連勝を重ねてきた軍事の天才である謙信は武田軍を圧倒し、さらに武田軍を追って次々に武田領内の城を落とし、信玄の川中島侵攻を防ぎ切った謙信は越後へと引き返していった。

 

 

 

1554年、信玄は利害の一致した今川・北条との三国同盟を成立させ自領の背後を固めると、再び川中島への侵攻を計画する。

 

 

この時、信玄は越後から川中島に至る街道のすぐ近くにある旭山城に目を付け、この地域に力を持つ善光寺の栗田鶴寿(くりたかくじゅ)を味方につけた。

 

 

「第二次川中島合戦」1555年、謙信が川中島に進軍するために犀川を渡ろうとすると、武田側についた旭山城が謙信を側面からけん制し、そのまま進軍すると上杉軍は武田軍本隊と旭山城に挟み討ちにあう状況となる。

 

 

謙信は犀川の北の岸辺で足止めを余儀なくされ、両軍は犀川を挟んでにらみ合いを続け、対峙すること200日、両軍共に限界が近づくと、信玄は川中島を元の領主に返すことを条件に謙信へ停戦を呼び掛け、この停戦交渉を受け入れた謙信は越後へと引き返す。

 

 

しかし2年後、雪で謙信が出兵できないタイミングを見計らうと、信玄は協定を無視して川中島に侵攻し、信濃の豪族達は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声は絶えず、謙信は約束を破った信玄に激怒する。

 

 

「第三次川中島合戦」1557年、謙信は川中島へと出陣すると、川中島からさらに奥へ進撃するが、武田軍は決戦を避けて遠くから監視するということを繰り返した。

 

 

正面から戦おうとしない信玄に謙信は苛立ちを募らせながらも、これ以上敵中に深追いして信玄の術中にはまる危険性を察知し、越後へと帰っていく。

 

川中島
 

「第三次川中島合戦」から2年後の1559年に謙信は京都へ行き、権力を失いつつあった室町幕府の将軍・足利義輝と面会する。

 

 

室町幕府は、戦に勝っても領土を増やそうとせず義を重んじる謙信に大きな期待を寄せ、関東を統率する室町幕府の要職「関東管領」に任じ、関東の秩序回復という大義名分を得た謙信は、関東各地に遠征するが、そのいずれもが他の領主や幕府から出陣を求められたもので、それらの戦いによって謙信自身は領地をほとんど増やさなかった。

 

 

 

そんな折に、武田信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、武田・今川・北条の三国同盟に大きな混乱と動揺が生じる。

 

 

謙信はこの三国同盟の動揺を逃さず、北条氏が支配する関東平野への侵攻を始め、わずか7カ月で北条氏の拠点・小田原城まで進撃した。


上杉謙信1
 

北条氏の小田原城が落ちると、今川氏は義元の死によって混乱の中にあり、武田の領地は三方向から謙信に包囲されるという状況になるため、信玄は焦りをつのらせ、1561年、信玄は越後を目指して甲府を出陣し、川中島の南に築いた海津城に拠点を構える。

 

 

これを知った謙信は、すぐに関東平定を中止し、素早く川中島に到着すると、そのまま武田軍の目の前で千曲川を渡り、武田軍の拠点・海津城の間近にある妻女山に陣を張った。

 

 

両者が陣を張ってから15日、信玄は闇に乗じて上杉軍の立て篭もる妻女山の背後へと別働隊12000を出撃させる。

 

 

信玄とった作戦は、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにするという「きつつき戦法」と呼ばれるものであった。

 

妻女山
 

しかし、謙信は前日の夕刻に武田軍の動きを察知して、この作戦を見抜く。

 

謙信はすぐさま下山の準備をするように指令を下し、上杉軍は武田別働隊に背後をつかれる前に下山の行軍を開始する。

 

上杉軍は、全ての馬に薪を噛ませて鳴かないようにし、兵は一切声を出さないように厳命され、上杉軍13000は一糸乱れね見事な沈黙の行軍で密かに千曲川を渡り、闇の中で千曲川の北・八幡原に布陣した。

 

 

一方で武田軍本隊は、濃い霧がたちこめていた早朝の川中島で、別動隊に妻女山から追い落とされ慌てて下山する上杉軍を待ち構える。

 

しかし、やがて夜が明け霧がはれていくと、信玄はすでに布陣して攻撃態勢万全で立ちはだかる上杉軍の姿を目にすることとなった。


第四次川中島の戦い
 

上杉軍が怒涛の攻撃を開始すると、予期せぬ事態に遭遇して動揺した武田軍は劣勢となり、武田軍の防御は次々に破られ、乱戦の最中、武田軍の本陣は手薄となる。

 

 

武田側の資料「甲陽軍鑑」では「白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、騎馬武者の馬が槍で刺されると、騎馬武者はその場を立ち去った。」と記され、上杉謙信が武田信玄に自ら斬りかかったという伝説が生まれた。

 

上杉謙信・武田信玄
 

武田軍が上杉軍の猛攻を耐え凌ぐこと4時間、武田軍別働隊がようやく千曲川を渡り八幡原へ到着し、武田軍の怒涛の反撃が始まると戦況は一転、武田軍優勢となって、上杉軍は撤退する。

両軍あわせて死傷者27000を出した激戦「第四次川中島の合戦」に終止符がうたれた。

 

 

 

1564年「第五次川中島の合戦」と呼ばれるこの時は、謙信と信玄は川中島で遭遇するも共に戦うことなく撤退。

 

 

その後、越後への侵攻を断念してその矛先を南へと向けた信玄が、今川氏との戦いで海路を断たれて塩(人間は塩分が不足すると死亡するうえ、この時代は入手が簡単ではなく貴重であった。)が手に入らなくなると、信玄のもとに謙信から大量の塩が届けられ、この故事から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。

 

 

 

 

宿敵・武田信玄との戦いが落ち着いた1569年、京都にいた織田信長の使者が謙信のもとを訪れ「謙信公の武威の誉れは挙げればきりがありません。この信長が手堅く申し付けて将軍家の御所を経営し、お守りいたします。」という書状が届く。

 

 

信長は国境を接する武田信玄を当面の敵としていたため、謙信とは友好関係を持ちたい思惑があった。

 

 

謙信は信長の室町幕府を守るという言葉を信じ、1572年、上杉謙信と織田信長は同盟を結ぶ。

 

 

しかし、1573年、武田信玄が死去した直後、信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、約240続いた室町幕府が滅亡し、さらに信長は勢いそのまま、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、その勢力を拡大した。


織田信長
  
織田信長
 

しかし、信長は軍事の天才である謙信とは敵対しないように根回しをする。

 

信長は南蛮渡来のビロードのマントなど珍しい品々の贈り物攻勢を仕掛けた。

1574年には、現在国宝となっている「洛中洛外図屏風」を贈る。

その「洛中洛外図屏風」は、将軍クラスしか乗ることが許されない黒い輿に乗る謙信が描かれており、一緒に京を治めましょうというメッセージと受け止められるものだった。

 

 

 

ところが1575年「長篠の戦い」にて新兵器である鉄砲を駆使して武田軍を撃破した信長は、戦争への自信を深め、越中にいた謙信の重臣である村上氏に離反を促し、さらに常陸の佐竹氏、下野の小山氏などと友好関係を結ぼうとする。

 

 

これらを知った謙信のもとに、京都を追われた足利義昭の使者が訪れ「幕府再興のために信長を討ち、急ぎ上洛して欲しい。」と懇願され、同盟をないがしろにされ信長への怒り爆発寸前の謙信は、それに応じて信長討伐を決意した。

 

 

 

一方、信長も謙信の上洛を阻止するため1576年、琵琶湖の東岸に安土城の築城を開始し、謙信と対決する準備を整える。

 

 

謙信は、堅固な要塞を構えて信長と敵対していた大阪石山本願寺と西国の実力者・毛利氏と同盟を結び、上杉・西山本願寺・足利義昭・毛利氏という反織田包囲網を成立させた。

 

 

謙信は「たとえ信長、億万の軍衆を列ね、山を抜く勢いあるといえども、予が獅奮の矛先に向かいては叶うべからず。」と西に向けて出陣する。


上杉謙信5
 

謙信は途中で越中を平定し、さらに能登に進出すると畠山氏の七尾城(現在の石川県七尾市古城町)を囲んだ。

 

七尾は日本海航路の中心であったため、ここを押さえると船を使って越後から大量の兵糧を運べるため、謙信としてはぜひともとりたい拠点であった。

 

 

謙信は、火あぶりや釜茹でなどで数万人が虐殺され信長から徹底的な弾圧を受けていた加賀一向一揆の勢力と手を結び、難攻不落といわれた七尾城を落として能登を勢力下におく。

 

七尾城
 

謙信の動きを知った信長は焦り、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉からなる4万の主力部隊を七尾城に差し向ける。

 

 

上杉軍は槍や騎馬が主体で大量に鉄砲を揃えた織田軍に装備が劣るため、謙信は鉄砲対策として、合戦を標的が見えない夜に持ち込むことを考え、上杉軍は合言葉の周知訓練を徹底し、暗闇でも統率がとれるようにした。

 

 

織田軍4万が手取川を越えたところに陣を張るのを確認した謙信は、数日来雨が続いた夜に、37000の軍勢を突撃させ、一糸乱れぬ攻撃を仕掛ける。

 

 

突然の奇襲に混乱した織田軍は、雨で火薬がしめり夜で相手が見えず鉄砲が威力を発揮しなかった。

さらにパニック状態となった織田軍は、手取川を渡って退却しようとするが、川は雨で濁流と化し、多くの溺死者を出す。

 

 

織田軍の惨敗は「上杉におうては織田も手取川。はねる謙信、逃ぐる信長。」と言われて瞬く間に評判となり、謙信も「戦ってみると信長は案外弱い。」という印象を持った。


手取川
 

評判以上の謙信の強さを知った信長は「謙信公ご上洛の際には、この信長が扇一本を腰に差し都へご案内いたしましょう。信長は西国、謙信公は東国を治めることにしてはいかがでしょう。」という究極に媚びへつらった書状を送るが、もはや謙信は信長を信じることはなく、1578年、謙信は6万の兵を動員して信長討伐の予定を立てる。

 

 

ところが、信長はこの絶体絶命の危機を思わぬ形で脱出した。

 

 

謙信は春日山城内の厠で倒れると、そのまま意識は戻らず、49歳で生涯を閉じ、死因は状況から脳卒中と考えられている。

 

 

上杉軍は謙信の死によって、信長討伐の上洛を中止し、さらに信長包囲網も謙信という求心力を失って崩壊した。

 

毘沙門天
 

こうして、毘沙門天の化身となって戦国乱世に終止符をうつという謙信の夢は叶わずに終わる。



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