日本史をさかのぼればさかのぼるほど、その重要度の高くなる九州地方は多くの偉人を輩出しましたが、その中でも特に迷わされるのが鹿児島でした。
ClubT 黒田官兵衛 「劇団Camelot」
1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれる。
1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。
小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合い、両大名の脅威にさらされた小寺家は存亡の危機を迎え、多くの家臣は古くから交流のある毛利に従うことを主張する。
しかし、織田信長の将来性を見抜いていた官兵衛の「信長、その勢い天下を覆うべし。」という意見によって小寺家の方針は織田側につくことで決まった。
官兵衛が織田信長のもとへと向かって、播磨の豪族の戦力の大小や毛利氏への忠誠心の強弱を説明すると、織田信長はすぐさま自分が大切にしていた圧切長谷部という刀を与えて協力を命じる。
官兵衛が織田信長に通じたという知らせを聞いた毛利輝元は激怒し、1577年、播磨の豪族達への見せしめのためにも5000の軍勢で小寺領・姫路城へと攻め寄せた。
迎え討つ小寺の兵はわずか500で、10倍の敵を前にした官兵衛は、領内の民衆にありったけの旗を持たせて後方に待機させ、500の兵で毛利軍に奇襲をかけると、毛利軍は圧倒的に数の少ない敵のまさかの奇襲に不意をつかれて慌てふためく。
官兵衛はその一瞬の形勢有利を見逃さず、後方に控えていた領民に一斉に旗を掲げさせると、毛利軍はこれを織田の援軍が到着したのだと勘違いして大混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。
この勝利を聞いた織田信長は「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である。」と官兵衛を評した。
織田信長
1577年、官兵衛は織田信長が毛利攻めに派遣した豊臣秀吉と運命的な出会いを果たす。
秀吉が官兵衛に協力を求めると、官兵衛は織田と毛利のどちらにつくか揺れている播磨の豪族達を巧みな説得で次々に織田側に引き入れていき、播磨の豪族の8割が織田につくことを約束したため、秀吉は大きな抵抗にあうことなく、わずか2カ月で播磨を平定する。
人たらしと言われるほど巧みな交渉力を武器にのし上がってきた秀吉は、官兵衛に自身と相通じるものを見出し、二人はたちまち意気投合した。
一方、味方だと思っていた播磨の豪族が次々に寝返った毛利輝元は5万8000の大軍を播磨へと送り込み、この毛利の大軍勢に播磨の豪族達は怖れおののき、官兵衛の主君・小寺政職も毛利側に寝返ったのである。
官兵衛は再び織田側につくように説得を試みるが、織田に反抗する勢力に捕えられ、摂津の有岡城に幽閉された。
毛利輝元
織田信長はいつまでも戻らない官兵衛が敵に寝返ったと考え、裏切り者の官兵衛の息子を殺すように秀吉に命じるが、秀吉はここで官兵衛の息子を殺せば官兵衛は二度と自分に仕えてくれないだろうと考え、官兵衛の息子を匿った。
有岡城で官兵衛は毛利側につくように執拗に迫られたが、がんとして首を縦に振らず、幽閉は一年間続き、暗く湿気に満ちた牢獄で、官兵衛は絶え間なく襲う蚊やシラミによって全身が皮膚病に侵され、生死の境をさまよう。
1579年、織田軍が有岡城の攻略に成功し、これによって牢獄から救出された官兵衛は、頭髪は抜け落ち、片足が不自由になっていた。
歩くこともままならない変わり果てた官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと忠義の至り。我、この恩に如何にして報ずべき。」と言い、これを機に官兵衛は秀吉直属の家臣となる。
1582年、播磨を平定した秀吉は官兵衛とともに備中国(岡山県西部)に進軍し、毛利軍の守りの要である高松城を意表を突く作戦で攻め落とそうと考えた。
高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要害であったが、秀吉はその地形を逆に利用しようとし、高松城を囲む全長3キロメートルに及ぶ堤をわずか半月足らずで作り、水を堰き止めようとする。
しかし、梅雨時で水かさを増した川は、大木を投げ込んでも大石を投げ込んでも水を堰き止めることができず、官兵衛はこの秀吉の誤算をフォローすべく、大きな石が山のように積まれた30槽の船を川下から引いて隙間なく並べると、船の底を一斉に破って船を沈めて川の水の勢いをゆるめたうえで、2000人の兵でそこに土嚢を積ませた。
こうして、秀吉の思惑通り高松城が水の中に孤立して、毛利軍があと一歩で陥落しかけた時、秀吉のもとに主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」の知らせが届く。
秀吉は動揺のあまり我を忘れて泣き崩れるが、しかし、官兵衛は冷静かつ大胆に秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と直言し、言葉の意味を悟った秀吉はハッと我に返った。
織田信長の後継者になるためには、その仇を討つことが鍵になると瞬時に見通した官兵衛は、すぐさま毛利側と和睦の交渉に入る。
官兵衛は領土割譲の交渉で大幅に譲渡し、また切腹するのは高松城主だけとするなど、破格の条件を出し、織田信長の死が毛利に伝わる前に和睦を結ぶことに成功すると、官兵衛はすぐさま全軍を京都に向かわせるための準備に奔走した。
高松城から明智光秀のいる京都までは約200km、道々の領民に炊き出しや水を用意させ、昼夜走り続けた秀吉軍2万5000は、わずか7日間で京都に到着する(中国大返し)。
こうして、秀吉は明智光秀に兵力を整える暇を与えず、織田信長の仇討ちに成功した(山崎の戦い)。
官兵衛は瞬時の判断で、秀吉を織田信長の後継者争いの一番手に押し上げる。
ところが、あまりに知略に長けた官兵衛の実力は、次第に秀吉へ不安を与えるようになっていき、この後、秀吉は四国平定に功のあった官兵衛に一切の恩賞を与えなかった。
1586年、秀吉は九州平定の先発隊として官兵衛を派遣し、官兵衛はこの戦いに一人息子・黒田長政を同行させ、19歳の若武者であった黒田長政は勇猛果敢に戦果をあげるが、官兵衛は「匹夫の勇にして大将たる道にあらず。」と、ただ血気にはやるだけで思慮分別がないと戒める。
一方、官兵衛は島津家のもとにまとまる九州各地の豪族達に「秀吉公に降伏するならば、本領の安堵は約束する。ただし、貴殿が降伏の意を示したことが、他の大名に知られると貴殿が攻められる恐れがある。秀吉公が九州に来られるまで、降伏の儀は互いに内密とするように。」という内容の書状を送って回った。
すると、誰が秀吉につき、誰が味方なのか、寝返りの噂が九州を飛び交い、疑心暗鬼に陥った九州の豪族達の結束は官兵衛の思惑通りに崩れていく。
こうして秀吉の本隊が到着すると、九州の武将達は一人また一人と秀吉に恭順の意を示し、秀吉は到着後わずか一月で九州全土を平定できたのである。
九州を平定した秀吉は恩賞を申し渡し、小早川隆景には筑前国52万石、佐々成政には肥後国50万石が与えられたが、秀吉のために最高の舞台を用意した最大の功労者である官兵衛に与えられたのは豊前国の一部わずか12万石であった。
佐々成政
ほどなく官兵衛は、秀吉が自分の功績に報いなかった理由を知ることになる。
ある時、秀吉は重臣達に「わしの次に天下を取るのは誰だと思うか。」と問いかけ、徳川家康、前田利家、上杉景勝など大大名の名が次々にあがっても秀吉は首を横に振り続け「黒田官兵衛だ。わしは危機に陥った時、たびたび官兵衛に策を尋ねた。官兵衛の答えはいつも思いもつかない優れたものばかりだった。官兵衛の器が大きく思慮が深いことは天下に比類がない。もしあの男が望むなら、すぐにでも天下を取ることができるだろう。」と語った。
人伝に秀吉のこの言葉を聞いた官兵衛は、自分が天下を奪うのではないかと秀吉が疑っていると考え、愕然とする。
1589年、官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ってアッサリと隠居し、この時「心清きこと水の如し」という意味を込めて、名前を黒田如水(くろだじょすい)と改めた。
1590年、秀吉は天下統一の最後の難関である北条氏と決戦すべく、徳川家康や前田利家といった名立たる名将を揃え、26万という未曽有の大軍勢で小田原城を包囲する。
しかし、北条氏は26万もの兵を抱える秀吉軍はすぐに兵糧がつきて引き返すに違いないと考えて全く動じなかった。
ところが、秀吉は兵糧が尽きるどころか海上輸送によって大量に物資を運び、陣中に町を作り上げてみせる。
さらに小田原城を見おろす丘の上に密かに城を築かせ、城が出来あがると周辺の木を切り倒し、一夜にして巨大な城が出現したように見せかけ、北条氏の戦意を奪おうとした。
しかし、北条氏は戦わずして敗れるのは武門の名折れと難攻不落の小田原城に籠って徹底抗戦の構えを崩さなかったため、このまま北条氏が降伏しなければ面目の失われる秀吉は「官兵衛の知恵、絞るべき時なり。」と官兵衛を頼る。
官兵衛が和睦を促す書状とともに上等な酒と魚を北条氏に贈ると、北条氏は返礼として火薬と鉛を「城攻めに用いられんことを乞う。」と贈ってきたため、秀吉軍の誰もがそれを北条氏の挑発だといきり立った。
しかし官兵衛は、北条氏は力と権勢を見せつける秀吉に意地になっているが、心の底では戦いを望んではいないと考え、たった一人丸腰で小田原城に向かう。
官兵衛は北条氏に「大軍を前にして籠城すること百日、北条殿の武名は十分、天下に伝わった。」と、北条氏の気持ちに寄り添いながら説得を続ける。
戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲むことで和睦がなることを知っていた。
こうして北条氏は降伏し、難攻不落の小田原城が開城すると、秀吉は事実上の天下統一を成し遂げるが、この時も秀吉は官兵衛に恩賞を与えなかったが、一方で、敵であった北条氏は、自分達に敬意を払って和睦交渉を進めた官兵衛に、北条早雲から伝わる北条氏の家宝・日光一文字(国宝)を贈る。
1598年、官兵衛が生涯をかけて仕えた秀吉がこの世を去ると、秀吉亡き後の天下への野心を隠さず自らの勢力拡大を画策する徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成との衝突が避けられなくなっていく。
こうした情勢において突如、官兵衛は「こういう時こそ絶好の機会が来る。」と動き出し、密かに摂津、備後、周防の3カ所の港に足の速い船を泊め置き、上方の情報をわずか3日で豊前まで伝えさせる環境を整備する。
官兵衛は秀吉亡き後の天下を狙った壮大な構想を立て、その戦略は、九州の豪族達はそのほとんどが徳川家康と石田三成の対立に呼応して出兵し、もぬけの殻となった九州を平定するのが第一段階とし、次に九州平定で拡大させた戦力を率いて中国地方へと攻め上り、さらに兵を増やしていくのが第二段階、そして最後に徳川家康と石田三成の勝者と対決し、疲弊しているはずの最終決戦の相手を無傷の自分が打ち破り、最終勝利を手中に収めようというものであった。
この戦略を成就させるには、官兵衛が最終決戦の相手と予想している徳川家康が石田三成と出来るだけ長く戦うことが必要条件である。
1600年、石田三成の西軍が、徳川家康の東軍側の伏見城を攻撃すると、その知らせを豊前にいた官兵衛は整備した早舟によっていち早くキャッチした。
「花々しく一合戦つかまつる」
官兵衛55歳、今度は己の天下取りのために全知全能を注ぎこんだ戦いが始まる。
官兵衛は自分の策略を徳川家康に勘付かれないように、息子・黒田長政に5400の兵を率いらせて東軍に参加させたため、官兵衛が動員できる兵は半分に減ってしまった。
そこで官兵衛は、これまで倹約を重ねて貯めていた大金を全てはたいて、農民達を兵として雇いあげると総勢9000の黒田軍がにわかに誕生する。
豊前の中津を出陣した官兵衛は、隣国の豊後の大友義統(おおともよしむね)と対決し、立石城に追い込むことに成功すると、命の保証を条件に大友義統を降伏させ、その兵を自軍に吸収した。
ちょうど同じ頃、徳川家康率いる東軍は7万4000と、石田三成率いる西軍は8万2000とが、拮抗する兵力で美濃国の関ヶ原に布陣する。
一方、大友氏を降伏させた官兵衛は、わずか4日後、熊谷氏の安岐城を落とし、さらに北上して垣見氏の富来城を攻め立てた。
ところが、破竹の勢いで進軍する官兵衛のもとに「関ヶ原の戦い」の戦況報告が届くと、官兵衛は唖然とする。
開戦当初、一進一退で戦線が膠着した「関ヶ原の戦い」は、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を攻撃し始めると、西軍は混乱し、形成は一気に東軍へと傾き、長期戦が予想された天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍が勝利を収めてしまった。
さらに、この早期決着の功労者はなんと我が子・黒田長政であったのである。
徳川家康の命を受けた黒田長政は、この勝敗を決定付けた小早川秀秋と交渉し、寝返らせることを成功させていた。
小早川秀秋
血気盛んなだけと侮っていた息子・黒田長政が、皮肉なことにこの大一番で父の戒めを守り、父親譲りの才能を発揮したことに、官兵衛は「長政の大たわけめ。急いで家康に勝たせてなんになる。」と言って悔しがる。
想定を大幅に超える誤算から官兵衛は、小倉、久留米、柳川と矢継ぎ早に城を落とし水俣まで進むと、雪だるま式に膨らんだ3万の兵で九州平定を目指して島津氏に迫った。
しかし「如水(官兵衛)の働きは底心が知れぬ」と、官兵衛の進軍にただならぬものを察知した徳川家康から官兵衛あてに「今すぐ島津への進軍をやめよ」との書状が届く。
九州平定が今だならず、中国、四国を制圧するにはなお一層の時間がかかる現状に、ついに時間切れかと悟った官兵衛は兵を収めて帰国の途についた。
豊前に帰国した官兵衛に、息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、黒田長政「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言い放った。
なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父・官兵衛の本心を知った黒田長政は絶句したという。
黒田長政
「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は官兵衛に「望みのままの領地を与えよう。」と言ってその本心を探ったが、官兵衛は本望を遂げられなかった悔しさなどおくびも見せず「年老いた私には功名富貴の望みはございません。」と答えた。
野心を感じさせるような返答によっては、黒田家の取り潰しの可能性もある場面であったが、官兵衛の答えに徳川家康はそれ以上の追求が出来ず、黒田家は「関ヶ原の戦い」の論功行賞として筑前52万石を与えられる。
側室を持たなかった官兵衛は生涯を妻ただ一人と添い遂げ、福岡城の一画に屋敷を構えて、妻と水入らずの暮らしを楽しむ余生を送った。
1604年、秀吉の死の6年後、官兵衛は59年の生涯を閉じる。
晩年、官兵衛は病に倒れると家臣達を口汚く罵るようになり、困った黒田長政がなだめに行くと、官兵衛は「わしが嫌われて、早くそなたの世になればいいと思わせるためにしているのだ。」とささやいた。
ClubT 黒田 官兵衛 「劇団Camelot」
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1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。
兄・芳丸が早世したため、忠光が唐津藩の世嗣ぎとなり、1812年に父・水野忠光が隠居すると家督を相続した。
唐津藩の表向きの石高は6万石とされていたが、実際の収入は20万石ほどあり、この税金の対象となる6万石の3倍以上もの収入からなる隠し財産が、後に忠邦を出世へと導く。
忠邦は幕閣(江戸幕府の最高首脳部)として昇進する事を強く望んでいたが、唐津藩に課せられた長崎警備という特別な任務から長崎を長期間離れることができず、そのことが出世への障害となるため、忠邦は蓄財のしやすい唐津藩を捨て、警備の負担がなく出世のしやすい浜松藩に目をつける。
とはいえ、移りたいからといって簡単に国替えがなるものではないため、忠邦は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の側近である水野忠成が同族である縁と、唐津藩で貯めた金を賄賂に使い、1817年、見事に浜松藩への国替えを成功させた。
さらに忠邦は、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の最上位に位置し、最終的に老中まで昇りつめることも可能なエリートの証である寺社奉行となる。
唐津藩から浜松藩へ領地を替えることで、実収入が大幅に減ってしまうため、忠邦は家臣達の猛反発を受け、国替えを止めるために自殺する家老までいたが、その後に忠邦が幕府の重臣となっていき、逆に賄賂を受け取る立場となっていったことで家臣達の不満は緩和されていった。
賄賂に賄賂を重ねた忠邦は、1825年に大阪城代に、1826年には京都所司代へと絵に描いたような出世コースを歩み、1828年に江戸城・西丸老中になると、1834年には江戸城・本丸老中へと出世し、ついに1839年、老中首座(老中の最高位)の座を手に入れる。
1833年の大雨による洪水や冷害による大凶作をキッカケに1839年まで続いた「天保の大飢饉」は、特に東北地方の被害が大きく、その中でも仙台藩は米作に偏った政策を行っていたため被害は甚大で、この江戸三大飢饉のひとつに数えられる危機は、作物の商業化を強めて農村に貧富の差が拡大した。
この「天保の大飢饉」の影響で、貧困の百姓が多く餓死し、打ちこわしや百姓一揆が度重なり、これらの対策によって幕府は毎年60万両もの赤字を出し続ける。
老中に昇りつめた忠邦も当初は、将軍・徳川家斉が実権を握っていたため、思うように政治を動かすことは出来なかったが、1841年に徳川家斉がこの世を去ると、忠邦は江戸三大改革のひとつに数えられる「天保の改革」に乗り出す。
徳川家斉
忠邦は徳川家斉時代の贅沢な雰囲気を一掃するべく質素倹約をすすめ、衣食に関する贅沢品は厳しくチェックするのはもちろん、大人向けの挿絵の入った本なども禁止する「ぜいたく禁止令」を出し、庶民の楽しみの多くを奪う。
そして、江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返し、農村人口を増やすことで米の収穫を増やし、結果として幕府の年貢収入を増加させることを狙った「人返しの法」を出すが、そもそも農村で仕事が無い人々が江戸に出稼ぎに来ているため、彼らを田舎に返したところで米の収入が大幅に増えることはなかった。
当時、物価の高騰が庶民を苦しめており、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりである株仲間が物価高騰の原因であると考えた忠邦は、経済をもっと自由にすることで物価高騰が止まることを期待し「株仲間の解散令」を出すが、株仲間を中心として機能していた流通システムが混乱して逆に物価がさらに高騰する。
さらに、年貢収入の多い江戸や大坂周辺の大名達に他の領地を与え、江戸や大坂周辺の土地を幕府が直接おさめて財政収入を増やそうとした「上知令」は、土地を取り上げられることになる大名・旗本から猛烈な反発を受けて、結果的に取り下げることになった。
このように忠邦の「天保の改革」はどの政策も失敗に終わり、このことで幕府の脆弱さが垣間見えたことが、幕末の動乱へと繋がった面もある。
1843年、成功失敗以前に厳し過ぎる改革は多くの批判を呼び、忠邦は老中をやめさせられることになった。
しかし、1844年、江戸城本丸が火災により焼失すると、新たに老中首座となった土井利位はその再建費用を充分には集められなかったことから第12代将軍・徳川家慶に見限られ、その結果、徳川家慶は忠邦を老中首座に再任させる。
徳川家慶
忠邦が老中首座に再任すると「天保の改革」時代に忠邦を裏切った土井利位は報復を恐れて自ら老中を辞任し、また「天保の改革」時代に厳しい市中の取締りを行った「水野の三羽烏(鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤三右衛門)」でありながら「上知令」時に反忠邦派に寝返った鳥居耀蔵は全財産没収などに追い込まれる。
しかしながら、重要な任務を与えられるわけでもなかった忠邦は、ぼんやりとしている日々も多く、次第に頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤するようになり、さらに癪(近代以前、原因が分からない内臓疾患を一括してこう呼んだ)で長期欠勤した末に、老中を辞職した。
その後「天保の改革」時代の「水野の三羽烏」による明確な証拠がない厳しい取り締まりなどが追求され、忠邦は家督を長男・水野忠精に相続させたうえで出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられる。
水野忠精
さらに「水野の三羽烏」の渋川敬直は豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首となった。
どん底の陥っていた幕府財政を立て直すために改革に意気込みながらも、その全てが失敗に終わった忠邦は、1851年に56歳で病死する。
厳し過ぎた改革は、システム的な失敗以上に、多くの反感から協力を取り付けることを困難にした。
度重なる失敗を経験しながら最終的に「享保の改革」を成功させた徳川吉宗との差は、将軍でなかったことに加え、人間の感情を無視し過ぎたゆえかもしれない。
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1533年、肥前日之江城主・有馬晴純の次男として生まれる。
大村純伊から家督を継いだ大村純前には男子がなく、純忠の母は大村純伊の娘であったため、1538年に純忠は大村純前の養子となった。
しかしその後、大村純前は側室との間に実子の又八郎(後の後藤貴明)が誕生するが、有馬氏と大村氏の両家の関係は有馬氏の方が大村氏よりも強かったため、大村氏は有馬氏をはばかって又八郎を後藤氏へ養子に出し、1550年に純忠が家督を継ぎ、大村氏第18代当主となる。
このため、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家に養子に出された後藤貴明(又八郎)は、純忠に強い恨みを持ち、終生、敵意を持った。
一方で実子を押しのけて家督を継いだ身である純忠も、アウェイ感の強い状況でプレッシャーを感じながら大村氏の当主を務めることになる。
1561年、松浦隆信が治める平戸港そばの露店で、ポルトガル商人と日本人の争論からポルトガル人殺傷に至った「宮ノ前事件」が起こると、純忠は新たな交易港を探していたポルトガル人に自身の治める横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出た。
イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、さらにイエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかり、仏教徒の居住禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったことで横瀬浦はポルトガル商人の寄港地として賑わい、大村氏の財政も大いに改善される。
1563年、宣教師からキリスト教について学んだ純忠は、コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、洗礼名バルトロメオとして日本初のキリシタン大名となった。
純忠は領民にもキリスト教信仰を奨励し、その結果、大村領内では最盛期のキリスト教信者は6万人を越え、日本全国のキリスト教信者の約半数が大村領内にいた時期もあった。
純忠のキリスト教への入信は、弱小である自国が後藤貴明という明確な敵や急激に台頭してきた龍造寺隆信に対抗するため、ポルトガル船のもたらす利益や武器が目当てだったという面が強く、西洋の武器を手に入れる為の取引材料として、キリスト教への改宗を拒否した者達が奴隷として海外へ売り渡されたりもしている。
しかし、純忠は信仰心そのものも強く、洗礼を受けた後、正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、これを機に側室を退け、以後はおゑん以外の女性と関係を持たなかった。
さらに、その信仰心とポルトガル人からの利益があいまって、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊し、キリスト教への改宗を拒否した仏僧は追放するなど、仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行い、家臣や領民の反発を招くことになる。
大村氏の家督相続の因縁で純忠に恨みを持つ後藤貴明は、キリスト教に傾倒する純忠に不満を持つ大村家の家臣団と結託して反乱を起こし、焼き払われた横瀬浦が壊滅した。
そのため、純忠は1565年に福田浦を開港し、1570年には当時まだ寒村にすぎなかった長崎をポルトガル人のために新たな寄港地として与え、この長崎は以降良港として大発展していくことになる。
1572年、後藤貴明は平戸城主・松浦隆信、高城城主・西郷純堯の援軍を得て1500の軍勢で、女子供含めて約80名しかいなかった純忠の居城である三城城(現長崎県大村市三城町)を急襲した。
純忠はこのような不利な状況で譜代7名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)を中心に婦女子も石を投げる奮闘で防戦し、富永又助、長岡左近、朝長壱岐らの援軍が三城城に到着すると、後藤貴明らは撤退を余儀なくされ、絶体絶命の中で三城城を守りきり、このエピソードは後年「三城七騎籠」と称されることになる。
1578年、長崎港が龍造寺氏らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退し、1580年に長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した。
1582年、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーニと対面した純忠は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した天正遣欧少年使節の派遣を決める。
天正遣欧少年使節はキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の代理人として4名の少年が中心となり、使節団の中には純忠の甥にあたる千々石ミゲルもいた。
天正遣欧使節は1584年にスペインでフェリペ2世に謁見し、1585年には教皇グレゴリウス13世に謁見する。
これによってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
純忠には洗礼名を持つ4人の息子、喜前(サンチョ)・純宣(リノ)・純直(セバスチャン)・純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫から喜前(サンチョ)を除く3人が人質に取られ、大村氏は龍造寺氏に対してほぼ従属状態となる。
それまで九州で成立していた九州三強(島津氏・龍造寺氏・大友氏)から大友氏が脱落すると、島津氏と龍造寺氏が争う二強時代となり、1584年、肥前島原半島で龍造寺隆信と島津家久・有馬晴信が決戦した「沖田畷の戦い」で、龍造寺氏は総大将の龍造寺隆信を筆頭に多くの重臣が討ち死にして総崩れとなり、佐賀城に向けて撤退した。
「沖田畷の戦い」の結果により、龍造寺氏の傘下にあった勢力は一気に島津氏に寝返り、島津氏の勢力は筑前・筑後まで拡大し、以後、九州は島津氏が最大勢力として君臨するようになる。
龍造寺氏に従属状態であった純忠だが、島津氏とともに龍造寺氏と戦った有馬氏は親族であるため、戦いには空鉄砲を撃つほどに消極的だったので「沖田畷の戦い」後に、大村氏は島津氏の追撃も受けずに開放された。
1587年、純忠は咽頭癌と肺結核に侵されて重病の床であったので、代わりに19歳の嫡子・喜前(サンチョ)を豊臣秀吉の九州平定に従わせることで、領地を保証される。
豊臣秀吉
病で衰えた純忠は神父を呼んではたびたび来世の事を話して欲しいと願い、それを聞きながら大いに満足して涙を流したという。
死を悟った純忠は、領内に拘束していた捕虜200名を釈放し、死去の前日には可愛がっていた小鳥を侍女に命じて籠から逃がしたが、この時、侍女が小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにするが、怒る事は神の意思に反すると思いなおし「小鳥はデウス様が作られたものであるから、今後とも愛情をもって扱ってほしい」と言って侍女に立派な帯を与える。
弱小国を歓迎されない形で継ぎ、様々なストレスに襲われ続けた純忠は、坂口館(長崎県大村市荒瀬町)で55歳にして死去した。
その後、豊臣秀吉によってキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する「バテレン追放令」が出される。
もともと織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した理由は諸説あるが「キリスト教が一向一揆のように反乱につながるのを防ぐため」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため」「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたため」「秀吉が連れてくるように命じた女性がキリシタンであることを理由に拒否したため」などとされている。
また、純忠の生前の暴走ともいえるキリスト教信仰および優遇も遠因ではあったかもしれない。
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1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。
1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。
1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。
織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。
21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。
1584年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。
この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。
その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。
薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。
秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。
佐々成政
秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国19万5,000石の大名となる。
清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。
さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。
清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。
一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。
小西行長
1590年、秀吉は5代100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。
1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。
この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。
当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。
1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。
「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。
父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。
日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。
豊臣秀吉
その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。
この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。
1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。
九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。
そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。
石田三成
歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。
「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。
徳川家康
しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。
徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。
この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。
「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。
清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。
徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。
さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。
豊臣秀頼
一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。
こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。
清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。
清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画(襖(ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。
本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。
清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。
1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。
清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。
清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。
会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。
秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。
会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。
そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。
無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。
しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。
清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。
これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。
秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。
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1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。
宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。
父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負傷後に死去する「二階崩れの変」が起こる。
こうして宗麟が大友氏21代当主となり、同時に入田親誠ら反宗麟派は粛清された。
1551年、周防国(山口県東南半分)の大内義隆が家臣・陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害すると、宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込む。
これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符が打たれ、さらに北九州の大内氏に服属する国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)が大友氏にも服属することになり、宗麟は周防方面にも影響力を確保し、特に博多を確保したことは多大な利益となった。
宗麟の叔父・菊池義武は「二階崩れの変」をきっかけに豊後国内が内乱に陥ると予測し、肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後(熊本県)全土の制圧を目指して反乱したが、直ちに国内の混乱を収めた宗麟は菊池義武を一族から縁切りにすることを表明して大軍を派遣し、島原に落ち延びた菊池義武はその後に自害し、菊池氏を滅亡させた宗麟は肥後国も確保する。
しかし、宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き、1553年に一萬田鑑相(いちまだあきすけ)、1556年には小原鑑元(おばらあきもと)が謀反を起こすなど、宗麟の治世は当初から苦難の多いものであった。
また、この頃に宗麟は本拠地を府内城(大分県大分市)から丹生島城(大分県臼杵市)に移している。
1557年、宗麟の弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失い、毛利元就が北九州に進出してくると、毛利氏との対立を決意した宗麟は、毛利元就と通じていた筑前国(福岡県西部)の秋月文種を滅ぼすなどして北九州における旧大内領を確保することに成功した。
室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化し、多大な献金運動をした宗麟は、1559年に豊前・筑前の守護(鎌倉幕府・室町幕府が置いた軍事指揮官・行政官)、さらに九州探題(室町幕府の軍事的出先機関)を任され、1560年には左衛門督(鎌倉時代以降、朝廷の機能としては有名無実化していったが武家に好まれた官職)に任官する。
宗麟は九州における最大版図を築き上げ、さらにそれを裏付ける権威を獲得し、名実共に大友氏の全盛期を創出した。
足利義輝
しかし、周防・長門(山口県西半分)を平定するために宗麟と和睦していた毛利元就は、平定に成功すると今度は貿易都市の博多を支配下におくべく、宗麟の支配する豊前・筑前への侵攻を図り、1554~1561年までに豊前門司城で起こった宗麟と毛利元就との数度の合戦「門司城の戦い」で敗れた宗麟は出家して休庵宗麟と号す。
出家してからも宗麟は足利将軍家には多大な援助を続け、1563年には足利義輝の相伴衆(将軍が宴席や他家訪問で外出する際に随従する)に任ぜられ、足利義輝の調停で宗麟は毛利氏と和睦し、北九州の権益を確保する。
ところが、毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、この和睦は破られ、九州へ侵攻した毛利氏は、宗麟側の国人らを味方に引き入れ、怒涛の攻撃を開始することになった。
1567年、豊前国や筑前国で毛利元就と内通した宗麟側の国人が蜂起すると、なんとこれに宗麟が大切に育てた重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させる。
宗麟は毛利氏との戦闘の中で宣教師に「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出し、鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請した。
1569年、宗麟は肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために自ら軍勢を率いるが、そこへ毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退し、立花山城(福岡県の立花山山頂)の帰属を巡る「多々良浜の戦い」で毛利軍に打撃を与える。
さらに宗麟の軍師と言われる吉岡長増の策で、毛利氏に滅ぼされた大内氏の遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込んで毛利氏の後方撹乱を狙う。
大内輝弘は大内氏の復活を狙って、大友水軍に護衛され豊後国から周防国へと向い、それを知った大内氏の遺臣はこぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増し、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。
九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、後方を脅かされていることを知ると、九州からの撤退を指示した。
1570年、宗麟が弟・大友親貞に3000の兵で総攻撃命令を下し、再度、龍造寺氏を討伐するために肥前国に侵攻した「今山の戦い」は、小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移する。
龍造寺側には援軍の見込みはなく落城は必至の状況であったが、総攻撃の前日の夜に大友親貞が勝利の前祝いとして酒宴を開いて軍の士気を緩め、それを知った龍造寺側が鉄砲を撃ちかけて奇襲し「寝返った者が出た」と虚報を流すと、大友軍は大混乱に陥って同士討ちを始め、2000人に及ぶ犠牲と共に大友親貞が討ち取られた。
この大敗北によって、宗麟は龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなり、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことが出来なくなる。
龍造寺隆信
1576年、宗麟は家督を長男・大友義統に譲った。
その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となって洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗る。
大友義統
この頃、織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭は、毛利氏が京都にのぼらないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏をはじめ龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行う。
1577年、宗麟と同様に九州制覇を狙う薩摩国の島津義久が日向国(宮崎県)に侵攻を開始し、1578年に「耳川の戦い」で大友軍と島津軍が激突すると、当初は大友軍が兵力の差で押していたが、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきり、そこを島津軍が突くと戦況は一転し、大友軍は敗走する。
大友軍はこの敗走で急流の耳川を渡りきれずに溺死したり、そこを島津軍に攻撃されるなどして3000人近い戦死者を出し多くの重臣を失った。
「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていき、さらに家督を譲った大友義統との対立も起こり、大友氏は衰退の一途をたどっていく。
この苦境に対して宗麟は、本州で大勢力となった織田信長に接近し、織田信長の毛利攻めに協力することなどを約束に島津氏との和睦を斡旋してもらうことになっていてが「本能寺の変」で織田信長が死去すると、島津氏との和睦は立ち消えとなった。
「今山の戦い」で宗麟を破った龍造寺氏は、宗麟が「耳川の戦い」で島津義久に大敗して大きく衰退すると、それに乗じて大友領を侵食し、九州は島津氏と龍造寺氏の二強が争う時代となる。
1584年、龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北した「沖田畷の戦い」で戦死すると、宗麟は立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回するも、1585年に立花道雪が病死すると、これを好機と見た島津義久は大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃した。
この「岩屋城の戦い」で高橋紹運・立花宗茂父子は奮戦し、島津軍の侵攻を遅らせるも岩屋城は落城する。
もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなった1586年、宗麟は織田信長亡き後の天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願した。
しかし、島津義久はその後も大友領へ侵攻し「戸次川の戦い」では大友氏救援に駆けつけた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。
この時、臼杵城(大分県臼杵市)に籠城していた宗麟はその大きな破壊力から「国崩し」と名付けられた大砲フランキ砲を使って臼杵城を守った。
1587年、大友氏が島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められるのと時を同じくして、豊臣秀長の率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに遅れて豊臣秀吉自身が率いる10万の兵も到着すると、九州平定を目指す豊臣軍は各地で島津軍を撃破していく。
宗麟はこの戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久が豊臣秀吉の九州征伐に対して降伏する直前に、57歳で病死(チフスが有力とされている)した。
豊臣秀吉は九州平定後、宗麟の長男・大友義統に豊後一国を安堵する。
宗麟の死の直後、葬儀はキリスト教式で行われ墓は自邸に設けられたが、後に大友義統が改めて仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。
津久見市内にある現在の墓所は1977年に大分市長・上田保が新たにキリスト教式の墓として従来の場所から移したものである。
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1533年、日向伊東氏9代当主であった兄・伊東祐充(いとうすけみつ)が病死すると、反乱を起こした叔父・伊東祐武が、義祐の母方の祖父で家中を牛耳っていた福永祐炳を自害に追い込み、都於郡城(宮崎県西都市)を占拠した。
後ろ盾であった福永祐炳を失った義祐と弟・伊東祐吉(いとうすけよし)が、日向国(宮崎県)を退去して京都へと向かおうとすると、叔父・伊東祐武を支持しない者達の制止を受けて伊東祐武と対峙する。
この家中を二つに分けた御家騒動「伊東武州の乱」は、義祐と伊東祐吉の兄弟を擁立する家臣・荒武三省(あらたけさんせい)の活躍により伊東祐武は自害に追い込まれ、義祐と伊東祐吉は都於郡城を奪回した。
「伊東武州の乱」が収束すると、伊東氏の家督は家臣・長倉祐省(ながくらすけよし)の後押しで弟・伊東祐吉が継ぎ、義祐は出家を余儀なくされたが、伊東祐吉が家督相続後3年で病死し、義祐は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)へ入って日向伊東氏11代当主の座に就く。
1537年、義祐は従四位下(日本における位階の一つ)を授けられると、室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱(上位者が下位者に俗名を一字与える)を受け、これより伊東義祐と名乗るようになる。
足利義晴
義祐は飫肥(おび)を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって争い、長い一進一退の攻防を繰り返したが、1560年、豊州家が島津宗家を介して室町幕府にこの問題の調停を依頼すると将軍・足利義輝より和睦命令が出された。
しかし、義祐がこれに従わないと、幕府政所執事(国政を担う高官に設置を許された家政機関の長官)である伊勢貞孝が日向へ向かう。
その際、義祐は伊勢貞孝へ飫肥侵攻の正当性を示すため、日向伊東氏6代当主・伊東祐堯が室町幕府第8代将軍・足利義政より賜った「日薩隅三ヶ国の輩は伊東の家人たるべし、但し島津、渋谷はこれを除く」という内容の文書を提示した。
それを見た伊勢貞孝は、文書には当時の室町幕府が用いない言葉遣いが散見されることから、偽書の疑いが強いと断じるも確証には至らず、仕方なしに飫肥を幕府直轄領と定めて不可侵の領地とする。
ところが、義祐はこの裁定をものともせずに、1561年、7度目の飫肥侵攻を開始して豊州家を圧迫すると、交渉により飫肥の一部を割譲させ、1562年には完全なる領有に成功した。
しかし、直後に豊州家に攻められると、わずか4ヶ月で撤退することとなる。
そこで1568年、義祐自らが総勢2万の大軍を率いて、豊州家の島津忠親を城主とする飫肥城(宮崎県日南市飫肥)を攻撃した「第九飫肥役」は、伊東軍が約5ヶ月間にわたり飫肥城を包囲し、島津忠親を救援しに来た北郷時久の軍を撃破すると、島津氏第15代当主・島津貴久は義祐との和睦を決め、80年以上にわたって続いた伊東氏と島津氏による飫肥城をめぐる攻防戦に終止符が打たれた。
島津氏を政治的に圧倒した義祐は、佐土原城を中心に伊東四十八城と呼ばれる支城を日向国内に構え、伊東氏の最盛期を築き上げ、佐土原は「九州の小京都」とまで呼ばれるほどに発展する。
ところが京風文化に溺れるようになった義祐は次第に度を越した贅沢をするようになり、武将としての覇気を失っていく。
1558年、義祐の娘・麻生が嫁いでいた北原兼守が病死するが、男子のいなかった北原兼守は娘を叔父・北原兼孝の子に嫁がせるよう遺言していた。
しかし、その娘が3~4歳で夭折したため、義祐は未亡人となった娘・麻生を北原家の庶流(宗家や本家から別れた一族)である馬関田右衛門佐に再嫁させ、これを三ツ山城(宮崎県小林市細野)に置いて、事実上の乗っ取りを画策し、これに反対する北原家の者を都於郡城に呼んで粛清すると、さらに飯野城(宮崎県えびの市飯野)に居た北原兼孝を殺害。
残された北原氏の北原兼親は球磨に逃れて相良氏を頼り、北原氏旧臣・白坂下総介は島津貴久に北原兼親が北原氏を継ぐことへの協力を求める。
島津貴久はそれに同意し、相良頼房と北郷時久にも協力を働きかけ、北原兼親は島津氏・相良氏・北郷氏の援助を受けた。
1562年、伊東氏のものになっていた馬関田城(宮崎県えびの市西川北)まで相良氏が軍勢を向けると、北原兼親はその隙に飯野城に入り、真幸院を奪い返す。
しかし、これに対して義祐は密かに相良氏と同盟を結び、1563年に共に大明神城(宮崎県えびの市大明司)を攻め落とし、1564年に北原氏に従属する大河平氏の今城(宮崎県えびの市大河平)を攻め落とすと、北原氏から離反者が相次ぎ、真幸院の飯野地区以外は再び伊東氏の領地となる。
真幸院は肥沃な穀倉地帯で、さらに義祐が日向国の完全な支配を達成するには、どうしても飯野地区攻略が不可欠であったため、1566年に飯野地区攻略の前線基地として小林城(宮崎県小林市真方)の築城を開始し、この動きを知った島津義久らは城が完成する前に攻撃を仕掛けるも、伊東氏家臣で小林城主・米良重方が苦戦しながらも島津義久らを撃退した。
1568年、伊東氏は飯野地区の攻略に乗り出すが、島津義弘の家臣・遠矢良賢(とおやよしかた)による「釣り野伏せ」という、野戦において全軍を三隊に分け、そのうち二隊をあらかじめ左右に伏せさせ、機を見て敵を三方から囲み包囲殲滅する戦法に掛かり、伊東軍は散々に打ち破られる。
1572年、肝付氏の侵攻を受けていた島津氏の加久藤城(宮崎県えびの市加久藤)は、島津氏の当主・島津貴久の死去も重なり動揺していた。
義祐はこの機会に相良義陽と連携して3000の軍勢で加久藤城を攻めた「木崎原の戦い」で、伊東軍は島津義弘の率いるわずか300の兵に「釣り野伏せ」の形を作られて大敗する。
伊東軍は伊東祐安や伊東祐信ら5人の大将を筆頭に落合兼置や米良重方など名だたる武将が多く討死してしまい、この大敗は伊東氏衰退の大きなキッカケとなった。
「木崎原の戦い」から4年後の1576年、長倉祐政(ながくらすけまさ)が治める伊東四十八城の一つである高原城(宮崎県西諸県郡高原町)が島津義久の3万の兵に攻められ、圧倒的な戦力差に一戦も交えず高原城は降伏する。
その翌日、小林城と須木城を治める米良矩重が島津氏に寝返ると、怖れをなした近隣の三ツ山城、野首城、岩牟礼城が島津氏についた。
こうして伊東氏にとって島津氏領との最前線は野尻城(宮崎県小林市)となり、この時、島津氏家臣・上原尚近は野尻城主・福永祐友が島津に内通しているという偽りの文を佐土原城下にばら撒くと、それを信じた義祐は福永祐友を遠ざけるようになり、やむなく福永祐友も島津氏に寝返る。
そして、1577年に入ると伊東氏の情勢はますます悪化し、南の守りの要である櫛間城(宮崎県串間市西方)が島津忠長によって攻め落とされ、さらに飫肥城(宮崎県日南市飫肥)が包囲された。
同時期、日向北部の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)・土持氏が、伊東氏にとって土持氏に対する最前線である門川領への攻撃を開始し、伊東氏は北から土持氏、南と北西からは島津氏の侵攻を受ける。
義祐は悪化する事態の雰囲気を少しでも変えるべく、孫の伊東義賢(義祐の次男・伊東義益の嫡男)に家督を譲った。
しかし、厳しい状況は増す一方で、内山城(宮崎県宮崎市高岡町内山)主の野村刑部少輔、紙屋城(宮崎県小林市野尻町)主・米良主税助も島津氏に寝返ったため、佐土原の西の防衛線が完全に島津氏の手中に収まる。
事態の深刻さを重く感じた義祐は、領内の諸将を動員して紙屋城を奪回すべく兵を出すも、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知し、即座に反転して佐土原に帰城した。
もはや義祐には残された選択肢はないに等しく、ついに義祐は日向を捨て、次男・伊東義益の正室・阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼ることを決める。
本拠である佐土原を捨て、豊後を目指す義祐一行の進路上には、義祐がひいきにしていた重臣・伊東帰雲斎の横暴で子息を殺され、それを深く恨んでいた新納院財部城(宮崎県児湯郡木城町)主・落合兼朝がいた。
そのため、義祐一行は西に迂回して米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通ることになった。
女子供を連れての逃避行は厳しいもので、また、猛吹雪の高く険しい山を進まねばならず、当初120~150名程度だった義祐一行は、途中で崖から落ちた者や、足が動かなくなって自決する者などが後を絶たず、豊後国に着いた時には義祐一行はわずか80名足らずになっていたといわれている。
豊後に到着した義祐は大友宗麟と会見し、義祐が日向攻めの助力を請うと、日向をキリスト教国にする野望を抱いていた大友宗麟はその願いを受け入れるも、1578年、大友宗麟は島津氏と激突した「耳川の戦い」で大敗を喫してしまう。
大友氏の大敗は、居候同然の義祐一行への風当たりに繋がり、大友領内で肩身が狭くなった義祐は、子の伊東祐兵ら20余人を連れて伊予国で河野氏を頼ると、河野通直の一族・大内栄運にかくまわれた後、1582年には伊予国から播磨国に渡った。
大友宗麟
この頃、伊東祐兵は同族の伊東長実の縁から羽柴秀吉に仕官する。
伊東祐兵の仕官を見届けた義祐は、しばらく播磨に留まった後の1584年、伊東祐兵が付けた供・黒木宗右衛門尉と中国地方を気ままに流浪し、やがて周防国(山口県東南半分)で旧臣宅に滞在した。
その後、病に侵されながらも義祐は独り旅をし、便船の中で病衰すると、面倒を嫌った船頭に砂浜に捨て置かれる。
ところが、偶然にも伊東祐兵の家臣に発見され、義祐は堺の屋敷で7日余り看病を受けた後に73歳で死去した。
1828年1月23日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。
西郷家の家格は御小姓与で下から2番目の身分である下級藩士であった。
11歳の頃、喧嘩の仲裁に入った際に、刀で右腕内側の神経を斬られてしまい、3日間高熱に浮かされた末に一命は取り留めるものの、刀を握れなくなったので武術を諦めて学問で身を立てることを志す。
1854年、隆盛が藩主・島津斉彬に意見書を出すと、その才覚が認められて共に江戸に赴くが、島津斉彬が亡くなると、隆盛は自らの命を危うくしながらも幕府の大老・井伊直弼と異なる政治的方針を持っていた島津斉彬の意思を継ぐべく国事に奔走する。
島津斉彬
しかし、幕府の追及を恐れた薩摩藩は、隆盛と志を同じくする僧・月照を日向国へ追放とし、その道中での切り捨てを決めた。
隆盛は月照とともに竜ヶ水沖で身投げをし、月照は死亡し、隆盛は回復に一ヶ月近くかかりながらも自分だけ生き残ることとなる。
薩摩藩は隆盛を死んだものとして扱い、幕府の追求を逃れるために隆盛は奄美大島に3年間潜居させられた。
その後、隆盛は大久保利通らの助けで藩政に復帰するも、1859年、藩主・島津久光に誤解を受けて徳之島・沖永良部島に流罪となり、この2年間の牢人生活で足を悪くし、感染症にもかかる。
1862年、薩摩藩主・島津久光の前を横切ったイギリス人が斬り殺される「生麦事件」が起こり、1863年、その報復をしようとするイギリスと薩摩藩の戦争「薩英戦争」が起こると、その解決に大久保利通があたった。
この大久保利通の強い勧めもあって、隆盛は藩主・島津久光に赦されて鹿児島に帰り、大役をもって藩政に復帰していく。
島津久光
1864年、長州藩勢力が会津藩主で京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で市街戦を繰り広げた「禁門の変」を起こした責任を問い、朝廷が徳川幕府に対して長州追討の勅命を発し、35藩総勢15万人が長州藩主・毛利敬親のいる山口へ向った「第一次長州征討」の戦後処理にあたった頃から、隆盛の考えは徳川幕府を倒すことに転じていった。
1866年、坂本龍馬の仲介もあって、隆盛は徳川幕府を倒すために薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」を長州藩の桂小五郎と成立させる。
桂小五郎
1867年、徳川幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還」の結果、徳川幕府の廃絶と同時に摂政・関白等の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置による天皇中心の新政府を樹立する「王政復古」が宣言された。
1868年、新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った「戊辰戦争」で、隆盛は天皇を担いで官軍となった新政府軍を参謀として主導し、旧幕府軍の代表・勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を実現させる。
隆盛は明治維新の最大の功労者として高い尊敬を受けることとなった。
勝海舟
1869年、藩が支配してきた土地と人民を天皇に返上する「版籍奉還」が行われ、1871年には藩を廃止して県を置き、明治政府が任命した県令が県の政治を行う「廃藩置県」により、日本は中央集権的統一国家を目指すようになる。
隆盛は薩摩・長州などの兵からなる新政府直属の軍隊を作ることに尽力すると、陸軍元帥に就任し、さらに新政府の中核をなす参議の地位にも就く。
しかし、政府の高官達の中には、商人と結託して私腹を肥やすなど、隆盛の意に反する行動をする者が現れた。
一方で、徳川幕府を倒すために命をかけながらわずかな恩賞を与えられただけの下級武士達は、維新の後に士族(江戸時代の旧武士階級などから維新後に華族とされなかった者)となり、腐敗した政府に対する批判を強めていく。
1873年、井上馨、山県有朋ら政府の中心人物達の汚職が表面化し、隆盛は自ら作りだした政府の汚職まみれの姿に失望を感じ「新しい世をこれから作らねばという時に、政府の高官達は屋敷を飾り立て、贅沢な服装をし、蓄財に目がなく、明治維新の正義の戦いは、このような私利私欲の世を生みだすためのものだったのか。天下に対し、戦死者に対し、面目ないことだ。」と嘆いた。
山県有朋
この頃、鎖国を続けていた李氏朝鮮(朝鮮民族の最後の王朝で朝鮮半島における最後の統一国家)は、西洋列強のマネをして海外進出を目論む隣国の日本を強く警戒し「日本は無法の国にて西洋をマネて恥じるところがない」と、釜山にあった日本の出先機関への生活物資の搬入を妨げる事件が起こる。
両国の外交関係は緊張し、日本では李氏朝鮮に兵を送り武力をもって屈服させようという征韓論が高まり、そこには外国に派兵することで士族の不満を外に向けようという目論見も存在した。
この外交的課題に対して、ヨーロッパを視察して西洋列強の強大さ目の当たりにしてきたばかりの大久保利通は、国内の改革を優先し、国力を養うことが先決と征韓論反対を主張する。
大久保利通
隆盛が朝鮮で殺されることを覚悟のうえで、自ら使節として朝鮮に赴き、話し合いをすることを提案すると、一旦は天皇の許可を得るが、隆盛の追い落としを謀る参議達によってその決定は覆された。
1873年10月23日、隆盛は参議を辞職し、11月に故郷の鹿児島に帰る。
この時45歳の隆盛は、鹿児島市から約40kmはなれた日当山温泉などの山里を転々としながら、愛犬を連れて兎狩りや猪狩りをしたり、温泉に入ったりして日々を送り「いにしえより名声多く累をなす(名声を得て高い地位に就いてもろくなことはない)」と、今後は故郷で静かに暮らしたいという思いを口にしていた。
しかし、時代の流れはそんな隆盛の願いを許さず、東京で軍隊や警察に属していた薩摩の士族およそ600人が隆盛を慕って続々と鹿児島に戻ってきたのである。
生き場を失った士族達をどうするか解決策を考えた隆盛は、彼らを集めて鹿児島独自の教育をする「私学校」を始め、その授業は山道を走って体を鍛えたり、中国の古典を読んだり、銃や大砲の扱いを習ったり、文武両道に渡り、隆盛が理想と考える教育が行われた。
「私学校綱領(学校の校訓のようなもの)」では「天皇を尊び、人民を憐れみいつくしむのが学問のねらいである。一たび国に難儀がおきた時は、一身を顧みず国のためにつくさねばならない。」と謳われている。
隆盛は生徒達に近代的な兵器の扱いを教えることで、日本が西洋列強による侵略の危機にさらされた時に、守りの要となる人材を育成しようと考えていた。
また、隆盛は職を失った生徒達が自活できるように、土地の痩せた火山大地を開墾し、40ヘクタールの農場を築くために生徒達と共に土地を耕し、じゃがいも、サツマイモ、大根、麦、などを育て、土地を耕しながら国を守るという隆盛の理想をこの地で具体化しようと考える。
農場ではしばしば生徒達と共に鍬を取る隆盛の姿が見られ、清潔な隆盛の人柄を慕って「私学校」には続々と士族が集まり、やがて「私学校」の幹部達は鹿児島県の行政に参加することになっていく。
鹿児島県政の責任者・大山綱良は、隆盛の思想に共鳴して「私学校」の幹部を各地の区長に任命し、税の徴収などの権限を与える。
こうして「私学校」の士族達が事実上、鹿児島の県政を担うようになると、東京の新聞は「鹿児島は中央の意向の届かない独立国家だ。」と報じた。
大山綱良
そのため、明治政府は隆盛はなにか大きな事をしでかすに違いないと、その動きを強く警戒するようになっていく。
この頃、政府の中心人物である大久保利通は日本の中央集権化を進めるために税制の課題に着手していった。
江戸時代の税は、その年の作物の収穫に応じて現物で納められていたため、税収は収穫高に左右される不安定なものであったが、明治政府は税収を安定させるために改めて田畑を測量し、土地の評価額を定め、それに応じて毎年一定の税金を現金で納めさせることにする。
この制度によって土地の持ち主と見なされたのは実際に土地を耕す農民となった。
しかし、鹿児島は藩主が土地を支配していた他の藩とは異なり、武士一人一人が土地を持ち、自らが田畑を耕したり農民に耕させていたため、明治政府の新しい税制度のもとで土地の所有権が武士から農民に移ると、昔からの所有権を主張する士族と農民の間に紛争が起こるようになる。
隆盛は士族と農民のもとに足を運び、紛争の間に立って奔走しながら、明治政府の推し進める中央集権化を地方の実態にあわせて実施していく道を探った。
一方で、明治政府は次々と改革を急ぎ、新たな制度を矢継ぎ早に実施し、1876年、武士の誇りである刀を持ち歩くことを禁じる「廃刀令」が出される。
さらに、明治政府は士族に与えてきた家禄の支払いを打ち切る「秩禄処分」を発表し、士族達は期限付きの債権を与えられたが、その収入はわずかな利息だけとなった。
この年の秋、明治政府への不満を持つ士族の「神風連の乱(熊本)」「秋月の乱(福岡)」「萩の乱(山口)」と反乱が相次ぐ。
こうした政府への不満は鹿児島でも渦巻き、隆盛が東京に鹿児島県令・大山綱良を派遣し、家禄の取り消しを遅らせるように嘆願させると、大久保利通はこの申し出を受け入れて、鹿児島だけに政府が支給する利息を高く定めるなどの優遇措置をとることを約束した。
各地で士族達の反乱が相次いでいると聞いた隆盛は、鹿児島城下へ帰る予定を変更し、日当山温泉にこもり続け、自分さえ姿を見せなければ鹿児島の士族達は反乱はするまいと考え「今、鹿児島に帰ると若者達を刺激し、蜂起の旗頭とされる恐れがある。しばらくは自分の挙動は人に見せず、身を潜めていよう。」と手紙に記している。
しかし、政府が鹿児島の士族の動向を探るために20人以上の密偵を鹿児島に潜入させ、その密偵が「私学校」の生徒達に捕えられると、潜入の目的が隆盛の暗殺であることが発覚した。
1877年10年1月19日、ついに「私学校」の生徒達は行動を起こし、県内各地の施設を襲撃すると政府が差し押さえようとしていた大量の武器弾薬を奪う。
2月1日、日当山温泉よりもさらに鹿児島市から離れた現在の南大隅町に身を潜めていた隆盛のもとに生徒達が政府の武器弾薬を奪ったという知らせがもたらされる。
隆盛は「しまった」と口にすると「なぜ弾薬など盗んだのか。弾薬に何の用があるのか。」と、目の色を変えて怒った。
2月3日、隆盛が急ぎ鹿児島城下に戻ると「私学校」の幹部は隆盛に反政府運動の旗頭となるように求めるが、隆盛は自宅に引きこもったまま、なんとか生徒達をなだめて事態を収拾する策はないものかと考える。
ここまで政府は各地の士族の反乱に対して徹底した弾圧を加えていたため、政府に対して反旗をひるがえしてしまった生徒達が厳罰に処されることは間違いなかったが、ここで生徒達と行動を共にすれば、政府が擁する天皇に歯向かうことになり、朝敵となってしまうことに隆盛は悩んだ。
2月6日、この後どういう行動を取るか「私学校」の講堂で隆盛を迎えた会議が開かれる。
隆盛の暗殺まで企てた政府に対して堂々と罪を問う兵を挙げるべきであると主張する強硬派と、「私学校」設立の目的は日本を外国の侵略から守ることで内乱を起こすことではなく少人数で上京して政府に詰問すればよいと主張する慎重派に、幹部達の意見は割れた。
そこで強硬派の一人が「オマエは死ぬことが怖くて今のような議論をするのか。」と発言すると、薩摩武士にとって死を恐れることを最大の恥とされていたため、慎重派は沈黙し、出兵賛成の合唱が沸き起こり、幹部達は隆盛に出兵承諾を求める。
決断を迫られた隆盛は「天皇に反して賊軍となるか」「生徒達を罪人として政府に引き渡すか」「そもそも天皇の名を借りて思うまましようとする政府の役人達が悪いのだ」などと様々な思いを巡らせながら、死を覚悟して政府に抗議しようとする生徒達に対してついに口を開いた。
「おはんらがその気ならオイの身体はさしあげ申そう。」
2月14日、「私学校」の生徒を中心とする薩摩軍13000は、政府の罪を問い質して維新のやり直しをするという名目で、東京を目指して進軍を開始する。
隆盛は、自分の命は生徒達に預けたのだという意思を示すかのように、戦いの指揮を全て部下に委ねて作戦に一切口を出さなかった。
この薩摩軍に対して、政府軍は熊本城に立て篭もって進軍を阻み、さらに援軍を福岡に集結させて南下を始めると、薩摩軍はそれを迎え討つために主力を北へと向け、両軍は熊本市の北にある田原(たばる)坂で激突する。
この「田原坂の戦い」は一日で数十万発の弾丸が使われる激戦となり、弾と弾が空中でぶつかって出来る「かちあい弾」が戦場にいくつも残されるほどであった。
政府軍が次々と援軍を送り込んで戦力を増強する一方で、薩摩軍は激しい消耗戦で弾薬が乏しくなるも後方からの支援をほとんど受けることが出来ず、白刃をきらめかせての斬り込みで政府軍を攻撃する。
そして3月20日早朝、政府軍が総攻撃を敢行すると薩摩軍は敗走し、この時を境に薩摩軍は敗北を重ねて宮崎県の山中へと追い詰められた。
挙兵から7カ月の8月16日、隆盛は初めて自ら命令を下し「降伏するのも死ぬのも自由にするように。」と軍の解散を宣言したが、隆盛を慕ってついて行こうとする者が次々に名乗り出る。
義勇兵として薩摩軍に加わっていた九州中津藩の士族・増田宗太郎は、故郷に帰ろうと誘う仲間達に対して「自分は西郷先生に一日接したら一日の愛が生まれた。10日接したら10日の愛が生まれた。もう西郷先生と離れることは出来ない。」と答え、この後、鹿児島で戦死した。
増田宗太郎
軍を解散した隆盛は、自分を慕う兵を率いて故郷の鹿児島に帰ると、鹿児島市の中心にある城山に立て篭もる。
隆盛達400人は城山の斜面に穴を掘り、鹿児島に集結した政府軍4万人以上からの降り注ぐ砲弾をしのぎながら最期の時を待った。
9月24日午前4時、政府軍がついに城山総攻撃を開始すると、隆盛達は弾丸が飛び交うなか100倍の政府軍に対して最後の突撃を開始すると、2発の銃弾が隆盛を貫く。
「もうここらでよか」
それが西郷隆盛49歳、最期の言葉である。
西南戦争は政府軍が16000の死傷者を出し、薩摩軍は死傷者15000と大山綱良以下2764人が処刑されることとなった。
以後、士族の反乱は途絶え、明治政府は富国強兵のもと強力な中央集権体制を築き上げていく。
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琉球王朝は、尚氏が15世紀頃に初めて琉球全土を統一して7代続いた第一尚氏と、クーデタで第一尚氏王統を倒した尚円王が1470年に樹立する第二尚氏とに分かれる。
その琉球王国第二尚氏王統の第6代国王・尚永王には跡を継ぐ男子がなかったため、尚永王の妹・首里大君加那志の子で小禄御殿4世の尚寧王が、尚永王の長女・阿応理屋恵按司を妃にして王統を継いだ。
この頃の琉球国は、日本よりも明(1368年~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)寄りの立場であった。
それは、明に限らず歴代の中国皇帝は、周辺諸国に爵位や称号を与えて、その関係を維持する政策をとっており、周辺諸国も大国に認められる事によって、自らの王国の正統性を内外に認識させていたからである。
第二尚氏の歴代国王はいずれもこの流れの中にあったが、尚寧王が即位した1589年は、九州制覇の野望を進めていた島津氏が豊臣秀吉に屈した時で、そのことは琉球の歴史にとっても大きな転換点となっていく。
そうして、豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮への出兵を決定すると、島津氏の薩摩藩を通じて琉球国からも兵士を出すようにと要求される。
しかし、琉球王朝の重臣である三司官の一人の謝名利山(じゃなりざん)などがこの要求に反対し、薩摩藩からの再三の要請は先延ばしにし、1591年、豊臣秀吉が琉球国を薩摩藩の指揮下として琉球国に兵糧米の供出を課したが、尚寧王はそれに従わず、さらに秀吉軍の動向を明に伝えるなど抵抗の姿勢を示した。
ちなみにこの頃は、明への進貢船の事務職長であった野國総管(のぐにそうかん)が、明からの帰途、サツマイモの苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、琉球に根付かせた頃でもある。
1598年に豊臣秀吉が死去し、1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康が政権の座に着くと、薩摩の島津義久を通じて尚寧王に「家康に臣下の礼を尽くしに来るよう」との書状が届く。
島津義久
尚寧王がこの徳川家康の要求に積極的に応じる態度をみせず返事に即答しかねていると、1609年、この態度に怒った島津家久は一族の樺山久高(かばやまひさたか)を総大将に3000の兵を預け、100余りの軍船が薩摩の山川港を出帆し、琉球文化圏にあった奄美大島へ上陸して制圧。
島津軍はそのまま徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、沖縄本島北部の運天港に上陸して今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)を落とすと首里城(沖縄県那覇市首里)へ迫った。
琉球は尚寧王まで7代に渡って平和な日々が続き、さらにこの頃は交易も下火になっていたため、最新式の武器などは持ち合わせていなかったのに対して、ちょっと前まで戦国時代でしのぎを削っていた島津軍は最先端の鉄砲を装備し、尚寧王は次々と死体の山が築き上げられていく様を目の当たりにすることになる。
この薩摩藩の武力侵攻に為す術がないことを思い知った尚寧王は止む無く降伏を申し入れ、この戦いはわずか11日間の攻防戦となった。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし、1610年、尚寧王と謝名利山らは薩摩に連行される。
尚寧王はこの時、生まれて初めて首里城を出ることになった。
そして、薩摩に連行された尚寧王らは、今後の琉球が薩摩の属国として島津の方針に従うように要求され、尚寧王は苦悩の末に受け入れるものの、明に留学経験があって血統的には中国系であった謝名利山は頑なに拒否をしたため鹿児島にて処刑される。
さらに、尚寧王は島津家久に駿府から江戸へと連行され、駿府で将軍職を退いてなお幕府権力をコントロールしていた徳川家康に、江戸で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に引き合わされ、これにて琉球国の幕藩体制に対する従属が成立することになり、以後、琉球国は日本と明の二カ国に従属することになった。
徳川家康
1611年、薩摩藩の琉球に対する干渉は厳しくなり、琉球支配の枠組みを定めた「掟15条」が発布される。薩摩藩から強制されたこの「掟15条」の内容は、完全に琉球の自治や自立を奪い取るものであった。
そして、琉球は按司掟(琉球で各地を治めていた領主)を廃止し、それに代わって薩摩藩が派遣した代官である地頭代を配置することになる。
一方、この頃、琉球の産業の基礎を築いた儀間真常(ぎましんじょう)が尚寧王と共に薩摩から帰国する際に、木綿の種を薩摩から持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めて琉球絣(りゅうきゅうかすり)の基礎を築いた。
薩摩藩は、参勤交代の時に異民族の衣装を身にまとう琉球人を従えている構図が優越感になるため、琉球を属国にしつつも形式的には「琉球王国」を存続させたため、この琉球人にとって屈辱的な薩摩藩の意図は、結果的にはいくらかの文化を守ることになる。
事実上、琉球最後の王として57歳で死去した尚寧王は、自らを「薩摩の侵攻を許した王」として恥じ入り、歴代王が眠る玉陵(沖縄県那覇市首里金城町)に入ることを拒み、浦添ようどれ(沖縄県浦添市)に葬るように遺言する。
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