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6 四国

四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!









三好 長慶 (徳島)

三好長慶700x1000

1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




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平賀 源内 (香川)

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1728年、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で白石茂左衛門の三男として生まれる。

 

 

白石家はもともと信濃源氏大井氏流平賀氏であったが、戦国時代の1536年、平賀玄信の代に甲斐の武田信虎による侵攻を受けて滅ぼされた。

 

その後、平賀氏は奥州の白石に移り伊達氏に仕えると白石姓に改め、さらに伊予宇和島藩に従い四国へ移ると、讃岐高松藩で足軽身分となる。


武田信虎
  
武田信虎
 

源内は12歳の時に「お神酒天神」という掛け軸を作成した。

「お神酒天神」は天神様の頬の部分を丸くくり抜き、その後に肌色と赤色を上下に塗った紙を糸で吊るし、徳利を乗せると徳利の重さで糸が引かれて裏に仕込んだ紙が引っ張られると、赤色の紙がスライドするため、御神酒を供えると天神様がお酒を飲んで赤くなったように見える仕掛けである。

 

お神酒天神
 
この「お神酒天神」が評判となり、源内は13歳から中国および東アジアで発達した医薬に関する学問である本草学や儒学(孔子の唱えた倫理政治規範を体系化して長く中国の学問の中心であった)を藩医のもとで学ぶ。

 

また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。

 

1748年、父・白石茂左衛門が死去し、源内は戦国時代の先祖にちなんで平賀に改姓した。

 

1752年頃に1年間、源内は長崎へ遊学し、本草学の研究の他に様々なオランダの文物に刺激され、オランダ語、医学、油絵などを学び、帰郷して間もなく藩の役目を辞し、さらに家督を妹婿に譲る。


長崎
 

源内はヨーロッパの歩数計を改良した量程器(万歩計の先祖)や磁針器(方位磁石)などを製作し、大坂や京都で学んだ後の1756年、江戸に出て本草学者・田村元雄に弟子入りすると同門の小浜藩医・中川淳庵を介して生涯の盟友となる杉田玄白と知りあった。

 

杉田玄白
  
杉田玄白
 
1757年、源内は師である田村元雄を説いて湯島で第1回薬品会を開催し、これ以後、同志同好の者が珍種奇品を持ち寄る共同品評会を毎年のように開催し、江戸幕府老中・田沼意次にもその存在を知られるようになる。

 

田沼意次
  
田沼意次
 
1759年、源内は高松藩の家臣として再登用されるが、江戸に戻るため再び辞職したため「奉公構(家臣に対する刑罰で、旧主の赦しがない限り他家への仕官が禁止される)」となった。

 

 

1762年、源内主催で第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催し、全国的ネットワークによって内外1300種の動植鉱物を集めて陳列し、江戸における知名度を一層に上げる。

 

翌年、全5回の出品物の中から360種の主要品目を選んで、それらに実証的な解説をつけて挿図をそえた「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。

「物類品隲」は日本博物学史上の画期的な業績と評されている。

 

物類品隲
 
オランダ博物学に関心を持っていた源内は西洋博物書を次々に入手し、杉田玄白らと江戸参府中のオランダ商館長一行やオランダ通詞(江戸幕府の公式通訳者)らと問答して西洋博物書を読解した。

 

蘭学
 
また、文芸活動も行い、江戸の風刺戯作の先駆けとなる談義本「根南志具佐」「風流志道軒伝」を刊行。

 

根南志具佐

1766年から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発(現在のニッチツ秩父鉱山)を行い、石綿などを発見し、これによって火浣布(耐火織物)を作るという産業起業的な活動を行い、以後、秩父での鉱山経営の試みは晩年まで続く。

 

現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が長期滞在した建物が「源内居」として残っている。


源内居
 

1769年、歯磨き粉「漱石膏」のCMソングを作詞作曲し、1775年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけ、それぞれ報酬を受けていることから日本におけるコピーライターのはしりと評されている。

 

 

1770年、自作浄瑠璃「神霊矢口渡」を初演した後、田沼意次の命で蘭(オランダ)書翻訳のために長崎へ遊学するが、蘭書翻訳ではなく洋風油絵「西洋婦人図」を描いたり、海外製の羊毛による羅紗(ラシャ)試織を手土産に江戸に戻ってきた。

 

西洋婦人図
 
1773年、出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、その間に同藩の小田野直武や藩主・佐竹義敦に洋風画法を伝授する。

 

佐竹義敦
  
佐竹義敦
 

1776年、源内は破損していたエレキテルを修理して復元することに成功。

 

エレキテルとは、摩擦を利用した静電気の発生装置で、木箱の中のガラス円筒をハンドルで回転させると、金箔との摩擦によって静電気が発生し、このたまった静電気を銅線によって外部に導いて放電するという仕組みで、オランダで発明され、宮廷での見世物や医療器具として用いられていた。

 

源内は1759年に長崎で壊れたエレキテルを持ち帰ったとされているが、源内は電気の発生する原理を陰陽論や仏教の火一元論などで捉え、電磁気学に関する体系的知識は持っていなかったため、すぐには修理が出来ない。

 
平賀源内2

しかし、それは無理もない話で、当時、電気の理解に関しては西洋もまだ手探り状態で、エレキテルの蓄電器にも使われていたライデン瓶が発明されたのが1746年、ベンジャミン・フランクリンが雷が電気であることを突き止めたのが1752年、日本にはこうした情報が断片的に入っていたに過ぎない。

 
ベンジャミン・フランクリン
  
ベンジャミン・フランクリン

源内は手に入れたエレキテルを数年間、仕方なく放置していたが、通詞の助けなども借りながら原理を勉強して、その仕組みを理解していった。

 

源内は復原したエレキテルを金持ちへの見世物に使って大人気となるが、一瞬バチッとやって人を驚かせるだけという用途であるため、これがもとで江戸の電気学が発展することはなく終わる。

 

エレキテル
 
エレキテルの復原には成功した源内であるが、一方で秩父鉱山は挫折し、1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていた源内は修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷して投獄された。

 

そして、その後ほどなく、51歳で破傷風により小伝馬町の獄中で死去する。

 

平賀源内1
 

葬儀は杉田玄白らの手により行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。

 

墓所は浅草橋場(現在の東京都台東区橋場)にあった総泉寺に設けられ、総泉寺が板橋に移転した後も墓所はそのまま橋場の旧地に残されている。

 
浅草橋場

また、源内の義弟として平賀家を継承した平賀権太夫が、源内を一族や故郷の人々の手で弔うために、さぬき市志度の自性院に墓を建てた。

 
自性院
 

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる源内は、数多くの号を使い分けており、画号の「鳩渓」、俳号の「李山」をはじめ、戯作者として「風来山人」、浄瑠璃作者として「福内鬼外」の筆名を用い、殖産事業家としては「天竺浪人」、生活に窮して細工物を作り売りした頃には「貧家銭内」などといった別名を使っている。




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藤原 純友 (愛媛)

藤原純友700x1000

古代の日本は湿地帯や湖沼が多く、水上輸送は最も効率のよい物流手段であったため、平安時代になると地方から都へ水上輸送される官物を狙った海賊が現れるようになり、特に瀬戸内海は朝廷から海賊討伐令がくだる事が少なくなかった。

 

そして、平安時代の後期になると小規模な掠奪を繰り返すだけだった海賊達が次第に集団化し、なかには大きな力をもつリーダーが現れるようになり、その代表的な人物が藤原純友である。


瀬戸内海
 

純友は893年頃、太宰府の次官・藤原良範の三男として生まれた。

 

ただ、純友の血統的な面についてであるが、純友は大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予国(愛媛県)の豪族越智氏の一族である高橋友久の子であり、藤原良範が伊予に赴任した時に養子になったという説もある。

 
大山積神

血統的な異説が存在するものの、純友は日本史上初の関白に就任した藤原基経が大叔父に持ち、藤原氏の中でもっとも栄えた藤原北家の出身であったが、早くに父を失い都での出世は諦めざるを得なかった。

 
藤原基経
  
藤原基経
 

931年頃、純友は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って、伊予国で海賊を取り締まる地方官として赴任し、瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧する側であったが、任期を終えた後も京都に帰らず伊予に土着する。

 

任期中に海賊勢力とのつながりを持った純友は、その人脈を利用して朝廷の貯蔵米を奪うようになり、936年頃までには海賊の頭領となった。

 

純友は伊予の日振島(愛媛県と大分県との間の宇和海にある島)を根城に抜群の統率力を発揮し、当時の公家社会に不満を持つ瀬戸内海沿岸の民衆を集め、1000艘を超える船を操って周辺の海域を荒す大海賊団を組織し、やがて瀬戸内海全域にその勢力を伸ばして反乱を起こす。

 

日振島
 

この頃、ほぼ時を同じくして関東では平将門が朝廷に対して反乱を起こしており、小説等で描かれることのある平将門と藤原純友の共謀説は創作なのだが、同時期に陸と海で大規模な反乱を起こした二人はお互いにその噂に勇気づけられていたことは間違いない。

 

「藤原純友の乱」は「平将門の乱」と併せて「承平天慶の乱」と呼ばれる。

 
承平天慶の乱
 

純友はその活動範囲を瀬戸内海から畿内に伸ばすと、939年には部下の藤原文元に、備前介・藤原子高と播磨介・島田惟幹(「介」は行政官として中央から派遣される国司の四等官(守・介・掾・目)の一つ)を摂津国須岐駅(現在の兵庫県芦屋市付近)にて襲撃させた。

 

 

純友の海賊活動に脅威を感じた朝廷は瀬戸内海の海賊を撲滅すべく様々な対策をし、その中には投降した者には一切罪を問わないだけでなく所領や金銭などの報酬まで用意する「恩赦」というものもあって、これにより2000人を超える海賊が投降した。

 

反乱を思いとどまらせるために朝廷は純友に対しては、従五位下という伊予国の最高地方役人と同じ位の官職を与えて懐柔をはかり、兵力を東国の平将門鎮圧に集中させる。

 

しかし、純友は940年に淡路国(淡路島)の兵器庫を襲撃して兵器を奪い、その海賊行為は活発になった。


淡路島
 

この頃、京都の各所で放火が頻発し、そこへ純友が京都に向かっているという報告もあったため、朝廷は純友が京都を襲撃するのではないかと恐れて、宮廷に兵を配備し、山城国(京都府南部)の入り口となる山崎の警備を強化するが、山崎は謎の放火によって焼き払われる。

 

この一連の出来事から、純友の勢力は瀬戸内海のみならず、平安京周辺から摂津国(大阪府北中部の大半および兵庫県南東部)の「盗賊」と呼ばれる武装した不満分子にも浸透しており、純友による京都への直接的脅威は極めて深刻な状況であった。

 

山城国
 
ところが、関東の「平将門の乱」が鎮圧され、大軍を西国に送りこめるようになった朝廷は、純友討伐に積極的になり、征西大将軍に任命した小野好古(おののよしふる)を追捕使長官に、源経基を次官とした追捕使軍を出陣させる。

 

小野好古
  
小野好古
 

「平将門の乱」が鎮圧されたことに動揺した純友は、根城である日振島に船を返すが、その後、伊予国や讃岐国(香川県)の国府を焼き討ちして財産を奪い、備前国(岡山県東南部など)・備後国(広島県東半分)の兵船100余艘を焼き、さらに長門国(山口県西半分)を襲撃して官物を略奪すると、貨幣鋳造をつかさどった周防国(山口県東南半分)の鋳銭司を焼き討ち、土佐国(高知県)幡多郡を襲撃するなど大胆に活動を展開した。

 

周防国の鋳銭司

941年、純友軍の幹部・藤原恒利が朝廷軍に降ると、朝廷軍は純友の根城である日振島を攻めて制圧すると、純友軍は西に逃れて九州の太宰府を襲撃して占領する。

 

 

純友の弟・藤原純乗は筑後国(福岡県南部)柳川に侵攻するが、朝廷側の大宰権帥(大宰府の長官の定員外の官人)・橘公頼の軍に敗れた。

 
太宰府
 

小野好古率いる朝廷軍は九州に到着すると、小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から純友軍を攻撃し、純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実の軍を迎え撃った「博多湾の戦い」で激戦の末に大敗し、800余艘を奪われた純友は息子の藤原重太丸と小舟に乗って伊予国(愛媛県)へ逃れる。

 

藤原純友1
 
しかし、一カ月近くに渡って繰り広げられた激闘に敗れた純友は、伊予に潜伏しているところを伊予国警固使・橘遠保(たちばなのとおやす)に捕えられ、純友・藤原重太丸の親子は首を切られた。

 

二人の首は朝廷へ進上され、橘遠保は純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられる。

 

純友神社
 

藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社、愛媛県新居浜市の中野神社がある。




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ClubT  藤原 純友 「劇団Camelot」 

(Tシャツ 税込3240円,長袖Tシャツ,スマホケース各種 など)

 

 


坂本 龍馬 (高知)

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183613日、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現在の高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下士)・坂本家で父・八平と母・幸の二男として生まれた。

 

龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ夢を見たため、龍馬と名づけられる。

 

兄弟は兄・権平と3人の姉・千鶴・栄・乙女。

 

坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む才谷屋という豪商の分家で、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭であったが、土佐藩では上級武士と下級武士の間に歴然とした身分の差があり、龍馬はそうした古い体制に矛盾を感じながら育っていく。

 
高知県高知市
 

龍馬は1213歳頃まで寝小便癖があったとされ、気弱な少年でいじめに遭っていたので、三姉の乙女が武芸や学問を教えたという。

 

 

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門して小栗流という剣術を学び、5年の修業を経て「小栗流和兵法事目録」を得た。


日根野道場

小栗流目録を得た龍馬は剣術修行のために、
1年間の江戸自費遊学に出て、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現在の東京都中央区)の門人となる。

 

道場主・千葉定吉は北辰一刀流の創始者である千葉周作の弟で、その道場は小千葉道場と呼ばれ、身分制度が厳しかったために上級武士は千葉周作の「玄武館(大千葉道場)」に所属し、下級武士は小千葉道場の所属とはっきり区別され、共に稽古をすることも無かった。

 

小千葉道場には千葉定吉の他に長男・重太郎と3人の娘がおり、二女のさな子は龍馬の婚約者として知られている。

 

桶町千葉道場

1853年、ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。

 

日本に開国を迫る黒船来航に対して、幕府は適切な対応を取ることが出来ず、その後、日本の政治は大きく混乱し、やがて、幕府に代わる新しい政治体制が必要だという声が高まっていくことになる。

 

この動乱にその身を投じることになる龍馬は、剣術修行のかたわら当代の軍学家であり思想家である佐久間象山の私塾に入学するなどしながら、15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

 

黒船来航

江戸幕府の第13代将軍・徳川家定には実子がおらず、また本人も病弱であったため、その後継者争いが起こっており、徳川家定の病気が悪化した1857年頃からはそれが激化する。

 

土佐藩では藩主・山内容堂が、水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍の後継者に一橋慶喜を立て、幕政改革をも企図していた。

 
山内容堂
  
山内容堂

しかし、1858年、井伊直弼が幕府大老に就任すると一橋派は退けられ、大老・井伊直弼は第14代将軍に徳川家茂を就任させると天皇の許可なく開国を強行し、それらを反対する者達を弾圧する「安政の大獄」が起きる。

 

この「安政の大獄」によって、一橋派であった土佐藩主・山内容堂は家督を養子である山内豊範に譲って隠居することを余儀なくされた。

 

井伊直弼
  
井伊直弼
 

土佐藩の尊王攘夷(天皇を尊び、外国を排斥する)運動の立ち遅れを痛感していた武市半平太は「安政の大獄」により失脚した前藩主・山内容堂の意志を継ぐことを謳い、朝廷を押し立てて幕府に攘夷を迫るべく「土佐勤王党」を結成する。

 

龍馬はこの「土佐勤王党」の最初の加盟者であったが、薩摩藩・長州藩は尊王攘夷運動の中心である京都に進出しようとする一方で、土佐藩参政・吉田東洋は「土佐勤王党」の主張を却下し続け、土佐藩の尊王攘夷運動は遅れたままであり、これに焦れた吉村虎太郎や龍馬らは脱藩することになっていく。

 
坂本龍馬4

脱藩とは藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となるが、1862年、28歳の龍馬は土佐藩を脱藩し、浪人の身として政治活動に乗り出す。

 

龍馬は家族への手紙に「一人の力で天下動かすべきは、これまた天よりすることなり。日本を今一度、洗濯いたし申し候。」と、例え自分一人でも天下を動かし、新しい日本を作る決意を記している。

 

坂本龍馬5
 

江戸に到着した龍馬は、土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流し、そして、前福井藩主・松平春嶽から紹介状を受けて、幕府軍艦奉行並・勝海舟の屋敷を訪問した。

 

尊王攘夷派の龍馬は開国に反対の立場であったが、開国派の勝海舟から世界情勢と海軍の必要性を説かれると、己の視野の狭さを恥じるとともに勝海舟に感服し、その場で弟子となる。

 

龍馬は姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と絶賛し、その心服はとても深かった。

 

勝海舟
   
勝海舟

勝海舟が山内容堂に取り成しをすることで龍馬は脱藩の罪が許されると、龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走する。

 
海軍操練所
 

勝海舟が幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために、彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させると、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」への乗艦後に「神戸海軍操練所」の設立および勝海舟の私塾の開設が許可された。

 

「神戸海軍操練所」には幕府から年3000(江戸時代の一両は現在の貨幣価値にすると約10万ほどであるが幕末は大きな下落の最中にあった。)の経費の支給が承諾されたが、それだけでは運営資金として不充分であったため、龍馬は松平春嶽から1000両を借入れする。

 
松平春嶽
   
松平春嶽

 

龍馬が生涯の伴侶となる楢崎龍(おりょう)と出会ったのはこの頃であった。

 

 

京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した「池田屋事件」が起きると、肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら多くの尊王攘夷派志士が落命または捕縛され、死者の中には土佐の北添佶摩と神戸海軍塾の塾生であった望月亀弥太もいた。

 

「池田屋事件」の後、京都の情勢は大きく動き、尊皇攘夷派をリードしていた長州藩は、薩摩・会津の勢力によって一掃される。

 
池田屋事件

京都を追放された長州勢力は、会津藩主で京都守護職・松平容保らを排除し、京都政治の舞台に戻ることを目指して挙兵するも、たった一日の戦闘で幕府勢力に敗れた(禁門の変)

 

「禁門の変」で長州兵が御所に発砲したことで、長州藩は朝敵の宣告を受け、幕府はこの機に乗じて長州征伐を発令し、抵抗する戦力のない長州藩は責任者の三家老が切腹して降伏恭順する。

 
禁門の変
 

一方で「池田屋事件」で死亡した望月亀弥太のみならず「禁門の変」で長州軍に参加していた安岡金馬も神戸海軍塾の塾生であったため、これらを問題視した幕府は勝海舟を江戸に召還し、神戸海軍操練所の廃止は避けられなくなった。

 

龍馬ら塾生を心配した勝海舟は、薩摩藩城代家老・小松帯刀に龍馬ら塾生を託して、薩摩藩の庇護を依頼する。

 

龍馬ら塾生の航海術の専門知識を重視した薩摩藩は、1865年に龍馬らに出資し「亀山社中」という近代的な株式会社に類似した商業組織が誕生した。

 

「亀山社中」は長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、商業活動の儲けによって利潤を上げること以外に、当時、犬猿の仲であった薩長両藩和解も目的とし、後の薩長同盟成立に大きな貢献をすることになる。

 

海援隊
 

幕府勢力から一連の打撃を受けた長州藩では、その大きな戦力となった薩摩・会津両藩に対する根強い反感があり「薩賊會奸」の四文字を下駄底に書き踏みつけるほどであったが、こうした雰囲気のもとでも、土佐脱藩志士・中岡慎太郎とその同志である土方久元は薩摩、長州の結盟を促し、それをもっての武力討幕を望んでいた。

 

龍馬と土方久元は大村藩の志士・渡辺昇の力添えで長崎にて桂小五郎と会い、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させると、同時に中岡慎太郎が西郷隆盛にその会談に応じるように説得する。
 

桂小五郎2
  
桂小五郎 

 

しかし、西郷隆盛は下関へ向かう途中で、朝廷の方向性が幕府の主張する長州再征に傾くことを阻止する必要性が生じ、急遽、京都へと向かうことになり、下関で西郷隆盛の到来を待つ龍馬と桂小五郎の前に、茫然とした中岡慎太郎だけが現れることとなり、桂小五郎の怒りは激しく、和談の進展は不可能になったかに思える状態であったが、龍馬と中岡慎太郎は薩長和解を諦めなかった。

 
西郷隆盛
   
西郷隆盛

 

幕府は国外勢力に対して、倒幕急先鋒の立場にある長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止していたため、長州藩が近代的兵器の導入が困難であることに龍馬は目をつける。

 

龍馬は薩摩藩名義で新型の武器を調達し、それを密かに長州に転売し、さらに長州藩からは薩摩で不足していた米を回送する策を提案した。

 

この策は両藩にとって完全にWINWINな提案であったため、両藩は自然とそれを納得する。 


ミニエー銃

こうして薩摩藩名義で長崎のグラバー商会からミニエー銃4300挺・ゲベール銃3000挺が買いつけられ、それらは長州藩へと転売され、これが亀山社中の初仕事であり、薩長和解の大きなキッカケとなった。

 

ゲベール銃
 

186618日、小松帯刀の京都屋敷において、ついに桂小五郎と西郷隆盛の会談が開かれ、話し合いは難航したが、龍馬の仲介によって薩長同盟は無事に結ばれた。

 

 

この薩長同盟の成立により、軍事力で幕府に対抗することの出来る新しい政治勢力が誕生し、これによって討幕運動が加速することになる。

 

坂本龍馬2
 

盟約成立から程なく、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と伏見の寺田屋で祝杯を挙げていたが、薩摩と長州の不穏な動きを察知していた幕府は、その鍵を握っている龍馬の動きを追い、伏見奉行は龍馬捕縛の準備を進めていた。

 

明け方2時頃、伏見奉行所から100人以上の捕り方が寺田屋に迫り、一階で入浴していた龍馬の恋人お龍が迫り来る捕り方を察知して、袷一枚のまま二階に駆け上がって龍馬と三吉慎蔵に異変を伝える。

 
楢崎龍
  
楢崎龍
 

報告を聞いた龍馬は、すでに隣の間にひしめいていた捕り方が容易に近づけないように機先を制してピストルを発砲。

 

仲間が撃たれるのを見た捕り方は動揺し、逃げ出す者、むやみに障子を破る者、大混乱の中で龍馬と三吉慎蔵はなんとか屋外に脱出する。

 

負傷していた龍馬は材木場に潜み、三吉慎蔵は旅人を装って薩摩藩邸に逃げ込み救援を求め、これにより龍馬は薩摩藩に救出された。

 

後を追って来た捕り方は龍馬の引き渡しを要求してきたが、薩摩藩は「そのような者はいない」と回答し、西郷隆盛は一戦交える覚悟で藩邸の守りを固めさせる。

 

 

しかし、龍馬の放ったピストルの弾が捕り方の命を奪ったため、龍馬は幕府の重罪人として命を狙われるようになり、この寺田屋での乱闘が後々の龍馬の運命を左右することになった。

 

寺田屋
 

薩長同盟成立から5カ月後、幕府は10万を超える兵力を投入して第二次長州征伐を開始する。

 

長州藩の求めにより参戦することになった龍馬は、高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で、ユニオン号を指揮して最初で最後の実戦を経験した。

 

 

圧倒的な兵力を投入した幕府軍であったが、西洋の新式兵器を装備していた長州軍に連戦連敗し、思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なって病に倒れ、21歳の短い人生を終える。

 

その結果、勝海舟が長州藩と談判を行い、幕府軍は撤兵することとなり、それまで無敗を誇っていた幕府軍は薩長同盟によって最新鋭の武器を手に入れた長州軍に敗北した。

 
徳川家茂
   
徳川家茂

 

幕府の失墜を目の当たりにした龍馬は、薩長と幕府がさらに大規模な戦争を始め、日本人同士が殺し合いを続けることを恐れ、武力を使わず幕府から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」という策を打ち出す。

 

 

1867年、龍馬はお龍を下関に残して旅立ち、これが二人の永久の分かれとなる。

 

 

京都に戻った龍馬は「大政奉還」を実現するため、土佐藩から幕府に「大政奉還」を勧める建白書を提出させた。

 

幕府が自ら政権を返上するかどうか、その最終的な判断を委ねられた将軍・徳川慶喜は、京都二条城にて新しい日本のために250年間保ち続けた徳川家の政権を返上し、自ら身をひくことを諸藩に通達する。

 

龍馬の提案をキッカケに平和のうちに政権が交代することになり、この知らせを聞いた龍馬は徳川慶喜の決断に深い感銘を受け「将軍家、よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公(徳川慶喜)のために一命を捨てん。」と言った。

 
徳川慶喜
   
徳川慶喜

 

「大政奉還」によって政権を手にした朝廷が、大名会議を開くべく全国の大名に集まるよう命令を下すと、龍馬は新しく出来る政府が目指すべき構想をこの大名会議で提出するためにまとめる。

 

龍馬がまとめた構想「新政府綱領八策」には「天下の有名な人材を招く。新たな法律を制定する。議会を開設する。外国との共通為替レートを設定する。」など日本を近代国家へと生まれ変わらせる画期的なものが記されていた。

 

しかし「新政府綱領八策」には「○○○自ら盟主となる。」という個所があり、当然この○○○とは誰を指すのか様々な憶測を生むことになる。

 

この「新政府綱領八策」を目にした越前藩の重役は「龍馬の秘策は 内府公(徳川慶喜)、関白職のことか。」と言い、龍馬が徳川慶喜を新政府の中枢に置こうとしているという憶測が広まった。

 

新政府綱領八策

徳川慶喜が新政権の盟主となることなど絶対に認めることの出来ない薩摩藩は、すぐに公家の一人である岩倉具視を動かし「賊臣・徳川慶喜を殄戮せよ。」という、徳川慶喜を殺害して武力で幕府を倒せという勅令を出させる。

 

幕府を徹底的に叩き潰し、古い勢力を完全に一掃しようとする薩摩藩にとって、龍馬が考えた「大政奉還」は中途半端な妥協策にすぎなかった。

 
岩倉具視
  
岩倉具視 

 

徳川家に仕える武士達の多くは「大政奉還」によってすぐに幕府が無くなるものと受け取っていたため、龍馬は彼らにとって幕府転覆を企てた中心人物として目の仇とされる。

 

ところが、龍馬はそういった情勢を意に介することなく、徳川慶喜の側近・永井尚志と面会し、新政府構想の打ち合わせをするために連日のように外出していた。

 

永井尚志は「大政奉還」の実現に尽力した龍馬と徳川慶喜をつなぐ人物で、龍馬は永井尚志を自分と同じ考えを持つ同志と感じていたが、永井尚志が住んでいた屋敷の周辺には、京都所司代屋敷、京都守護職屋敷、見廻組の屯所など幕府の警察機関の本拠地があり、龍馬にとって永井尚志に接近することは物理的なリスクがあまりに高かったのである。

 
永井尚志
   
永井尚志

 

自分を追ってつけ狙う者の中を白昼堂々と歩いていた龍馬は、その心境について家族への手紙で「成すべき時は今にて御座候。やがて方向を定め、シュラか極楽かに、御供申すべく存じ奉り候。」と、命を失う覚悟を持っていることを記していた。

 

 

また、龍馬が下宿していた醤油屋(近江屋)から目と鼻の先に土佐藩邸があったが、下級武士出身で藩を抜けだした過去を持つ龍馬は藩への遠慮から、土佐藩邸に入ることを避けていたのである。

 

 

そして、龍馬と親しい寺田屋の女将お登勢は、龍馬の命が危ないという決定的な噂を聞きつけると「下宿にいては危険なので早く藩邸に隠れて下さい。」と注意を促したが、龍馬は「心配することはない。」と返答した。

 

坂本龍馬1
 
18671115日、この夜、風邪をひいていた龍馬は近江屋の二階で暖をとりながら親友の中岡慎太郎と、新撰組に捕えられた仲間の処遇を話し合う。

 

龍馬のいる近江屋には土佐藩の関係者が様々な問題を相談するために訪れるようになっており、午後7時、土佐藩の同志・岡本健三郎と中岡慎太郎の書生・峰吉が訪ねて来る。

 

龍馬達4人はしばらく談笑し、午後8時、龍馬の頼みで峰吉はシャモを買うために外出し、岡本健三郎も所用のため近江屋を離れ、近江屋にはその家族の他には、龍馬の護衛役の藤吉、中岡慎太郎、龍馬だけとなった。

 
近江屋

それからしばらく、龍馬の同志が多い土地である十津川の郷士を名乗る男達数人が龍馬を訪ねて来たので、藤吉が取り次ぐと、男達は藤吉の後をつけてそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋へと押し入る。

 

龍馬はまず額を深々と横に斬り裂かれ、全身に数カ所の傷を受けた。

 

男達が去ると、瀕死の龍馬は自らの顔を刀に映して傷の具合を見ると、中岡慎太郎に「脳をやられたから、もうダメだ。」と語りかける。

 

龍馬が31歳の生涯を閉じる一方で、中岡慎太郎はそこから二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について語った。


中岡慎太郎
  
中岡慎太郎

龍馬の死はその後の政局に大きな影響を与え、暗殺から20日後、薩摩藩を中心とする軍勢は京都御所を取り囲むと、その軍事的圧力のもとで公家と一部の有力大名による会議が開かれ、徳川慶喜を新政権から排除する決定が下される。

 
鳥羽・伏見の戦い1

1868年、この決定に反発する旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が京都郊外で激突した「鳥羽・伏見の戦い」に旧幕府軍に敗北した。

 
鳥羽・伏見の戦い2

平和のうちに新しい政権を作ろうとした龍馬の構想は戦火に消え、この年の9月に元号は明治と改まり、薩摩と長州を中心とした新しい政府が作られる。

 

鳥羽・伏見の戦い3
 

その翌年、幕府の治安警察であった見廻組の元隊士・今井信郎が、龍馬暗殺事件の犯人として逮捕され、今井信郎の自白によると、近江屋に踏み込んだのは見廻組の侍7人で、暗殺の口実は寺田屋で龍馬が幕府の捕り方を射殺した罪というものであった。

 

しかし、今井信郎はなんとわずか一年半で釈放され、幕府側だった今井信郎の助命運動に裏で動いたのは、今井信郎と面識のない西郷隆盛であり、その真意は謎に包まれている。


今井信郎
   
今井信郎


龍馬は死の
7か月前、長崎で貿易商社「海援隊」を結成し「この頃、おもしろき御咄しも、実に山々にて候。世界の咄しも、相成り申すべきか。」と、政治活動に奔走する日々の中でも、海を越えて世界中の国々を相手に貿易をする夢を抱き続けていた。




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