中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。
5 中国
中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。
鎌倉時代末期から安土桃山時代にかけて播磨を支配した赤松氏と同じく、名和氏は源師房(村上天皇の孫)を祖とする村上源氏を自称している。
長年は伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主で、悪党(荘園領主側から見て外部からの侵入者・侵略者で悪者というより力強さを表現していた)であった。
鎌倉時代の後期、土地経営に頼る正規の武士である御家人たちが窮乏していくのに対し、名和氏は海運業などで富を築き上げ「太平記」では「裕福で一族は繁栄して、長年は度量が広い人物」と紹介している。
長年は一族を伯耆国一帯に分立させ、有力名主として地域住民の信望を集める存在であった。
鎌倉幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていたため、この情勢を好機と見た後醍醐天皇は倒幕の謀略を繰り返すが、1331年、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により討幕計画が鎌倉幕府にバレると、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐島への流罪となる。
1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出すると、伯耆国の有力者である長年を頼った。
しかし、笠置山そして吉野と陥落させた幕府軍が後醍醐天皇側の楠木正成が籠城する赤坂城を攻撃した「赤坂城の戦い」の時、長年は嫡男・義高と弟・高則を幕府軍側として攻撃に参加させており、さらに、後醍醐天皇を追撃する隠岐判官・佐々木清高の勢力は名和一族だけでは対抗し難いものがあったため、後醍醐天皇が名和湊(現在の御来屋港)にたどり着いたことを知った長年は、後醍醐天皇に味方するべきか迷う。
かつて長年の祖父の代に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた「承久の乱」において、名和家は朝廷側に加担し、後鳥羽上皇が隠岐に流されると、名和一族もその供揃えとして従った。
その際、後鳥羽上皇が「我、力足らずしてすまぬ」と名和一族郎党に頭を下げ、 それに感動した長年の祖父は、いつか朝廷権力復興に全身全霊を込めて尽くすと誓う。
後醍醐天皇に味方することを決断した長年は、居館を焼き払い、妻子はみな邪魔になるであろうと自害し、 並々ならぬ勤王の決意を示すと、後醍醐天皇を因幡国・船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)に迎え、討幕運動に加わった。
佐々木清高は後醍醐天皇を逃してしまった失態を挽回すべく、手勢を率いて船上山に攻め寄せ、後醍醐天皇の奪還を試みる(船上山の戦い)。
これに伯耆国の小鴨氏や糟屋氏らも佐々木清高に応じて参陣した。
船上山に籠もる長年は、近隣の武士の家紋を描いた旗を400~500本もの木に括りつけて自軍を大軍であるかのように見せかけ、時折矢を放っては幕府軍を牽制する。
膠着状態を打開しようとした幕府軍は攻勢を仕掛けるが、佐々木昌綱が戦死、佐々木定宗らが降伏、そして、その報を知らず船上山を攻め上がる佐々木清高率いる本軍も、夕刻の暴風雨に乗じた名和軍の襲撃に混乱した多数の兵が船上山の断崖絶壁から落ちるなどの被害を出す。
佐々木清高は命からがら小波城へと逃げ帰った。
その後、船上山には近国の武士が続々と集まり、伯耆国は後醍醐天皇側に平定される。
さらに鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった足利尊氏が、後醍醐天皇側についたことで多くの武士が倒幕軍につき、倒幕軍は東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。
長年は「船上山の戦い」からの一連の功により、従四位下の位、左衛門尉(鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士から広く好まれた武官の職)、伯耆守および因幡守に任ぜられた。
さらに、長年の嫡子・義高は肥後国八代庄の地頭職を得る。
また、長年は京都の東西に置かれていた市における不正及び犯罪の防止、交易における度量衡の管理、物価の監視などにあたる「東市正」に任じられた。
「東市正」は代々中原氏が世襲してきたが、後醍醐天皇は京都の商業・工業を直接掌握しようと考え、自分の手足となって動いてくれる長年を強引に就任させたのである。
幕府滅亡後、後醍醐天皇により開始された「建武の新政」において、長年は楠木正成らとともに天皇近侍の武士となり、この時、正式に帆掛け船の家紋を与えられた。
長年は後醍醐天皇の厚い信任を得る人物として、結城親光、楠木正成、千種忠顕と並んで「三木一草」と称された。
1335年、鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された西園寺公宗(さいおんじきんむね)は、地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて暗殺し、後伏見法皇を擁立して新帝を即位させるという謀略が発覚し、長年は出雲国へ流刑されることになった西園寺公宗をその途中で処刑する。
「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。
そのため「建武の新政」に失望し、武家政権の復活を望むようになった武士達は、足利尊氏に期待を寄せるようになり、それに応えるように足利尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していく。
これに激怒した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣するが、足利軍は「竹ノ下の戦い」で勝利すると敗走する新田軍を追撃して京都を制圧した。
1336年、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍がその足利尊氏を京都から追い出すことに成功し、足利尊氏は九州へと逃れる。
しかし、足利尊氏は九州で武士を集めて大勢力となって再び京都を目指し、楠木正成・新田義貞らがそれを迎えうったが「湊川の戦い」で楠木正成が戦死。
日本の政治の中枢であった京都を制圧した足利尊氏は後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げ、その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。
再び京都を制圧した足利尊氏に対して、長年は新田義貞らとともに京都奪回を試みて、京都での大市街戦が展開されるが、激戦の末に劣勢となって敗走する新田義貞を援護するため長年は戦場にとどまり戦死を遂げた。
「歯長寺縁起」では長年の戦死を「南朝の盛運が傾く凶兆である」と記しており、事実、これ以降、後醍醐天皇側の南朝は劣勢に追いやられてゆくことになる。
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1458年、出雲守護代・尼子清定の嫡男として出雲国(島根県東部)に生まれる。
それは、畠山氏、斯波氏の家督争いが細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いも加わって全国に争いが拡大し、戦国時代移行の原因とされる「応仁の乱」が始まる前であった。
1474年、尼子家の主君にあたり出雲・飛騨・隠岐・近江の守護を務める京極政経の京都屋敷へ経久は人質として送られ、京都に約5年間滞在し、この間に元服する。
経久は京都での滞在生活を終え、出雲に戻った後、父から家督を譲られた。
経久は尼子家の当主になって以降、次第に国人衆(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)との結束を強くし、この過程で室町幕府の命令を無視して京極政経の寺社領を押領するなどして独自に権力基盤を築く。
しかし、こうした権力基盤の拡大は室町幕府や主君・京極政経の反感を買い、1484年、経久は居城を包囲され、守護代の職を剥奪される。
守護代の職を失っても経久は出雲で一定の権力を保持しており、1488年、経久は三沢氏(出雲の国人)を攻撃して降伏させた。
1500年、経久は守護代の地位に返り咲くと、近江国(滋賀県)において起こった京極氏の家督相続を巡るお家騒動で敗れた京極政経との関係を修復させる。
1508年、京極政経が死去すると、経久は出雲大社の造営を行い、宍道氏との婚姻関係を進め、対立関係にあった塩冶氏を圧迫するなど、出雲の支配者としての地位を固めていく。
京極政経は孫の吉童子丸に家督を譲り、関係を修復させた経久にその後見を託したが、程無くして吉童子丸は行方不明となり、経久は事実上の出雲の支配者となる。
尼子氏にとって、中国地方で一大勢力を築いていた大々名である大内氏との関係は大きな問題であった。
1511年、大内氏当主・大内義興が細川高国ととも室町幕府将軍・足利義稙を擁立し、それに対抗して前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元が戦った「船岡山合戦」に、経久は大内義興に従って参加する。
この頃、経久の次男・尼子国久は細川高国から、経久の三男・塩冶興久は大内義興から偏諱(将軍や大名が功績のあった者などに自分の名の一字を与える)を受けており、経久は両者(大内義興・細川高国)との関係を親密にしようとしていた。
大内義興
しかし、一方で、経久は1512年に大場山城(広島県福山市本郷町)主・古志為信の大内氏への反乱を支援していたり、1517年に大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護であった山名氏と手を結んで大内氏領の城を攻めるなど、次第に大内氏の影響下にある石見や安芸への野心を見せるようになる。
なぜなら、備後国(広島県の東半分)の山内氏や安芸国(広島県西部)の宍戸氏など国境を接する領主達の出雲国内への影響力は無視できないもので、経久が出雲国支配を安定させるうえで備後・安芸への進出を視野に入れないわけにはいかなかった。
1520年、経久は出雲国西部の支配を確立させると、ついに石見国(島根県西部)、安芸国に侵攻し、ここから、北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才といわれた経久が、領地を広げ、尼子氏の全盛時代を作っていくことになる。
1523年、経久の重臣・亀井秀綱の命で、この時まだ安芸の小領主に過ぎなかった毛利氏に、大内氏の拠点である鏡山城(広島県東広島市)を攻めさせた。
毛利家当主・毛利幸松丸の叔父である毛利元就は、鏡山城内への寝返り工作を謀るなどして、見事に鏡山城を落城させる。
ところがこの後、毛利元就の異母弟・相合元綱らが毛利元就の暗殺を計画すると、相合元綱が尼子氏の有力家臣の亀井秀綱を後ろ盾にしていたことから、毛利元就の暗殺計画に経久の意志が絡んでいることは明白であったため、暗殺計画に気付いた毛利元就は相合元綱を殺害すると、尼子氏との関係を解消して大内氏に鞍替えすることになった。
1524年、経久は伯耆(鳥取県中部・西部)に侵攻すると、伯耆羽衣石城主・南条宗勝を破り、さらに伯耆守護・山名澄之を敗走させる。
1526年、伯耆・備後の守護職であった山名氏が反尼子であることを鮮明にし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲されるという窮地に立たされた。
1527年、経久は備後国へと兵を出兵するも大内氏の重臣・陶興房(すえおきふさ)に敗れたため、尼子側であった備後国人の大半が大内氏へと寝返っていく。
1528年、再び経久は備後国へと出兵し、多賀山氏の蔀山城(広島県庄原市高野町新市)を陥落させるも、石見国における尼子側の高橋氏が毛利氏・和智氏によって滅ぼされる。
そして1530年、出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後の山内氏等の諸勢力を味方に付けた経久の三男・塩冶興久が、反尼子を鮮明にして大規模な反乱が勃発した。
経久はこの危機を大内氏の支援を仰ぐなど、巧みな処世術を駆使して切り抜け、1534年にこの反乱を鎮圧し、塩冶興久は自害に追い込まれる。
経久は長男・政久を早くに戦いで失っており、さらにこの反乱で三男・塩冶興久を失い、尼子氏は大きなダメージを負った。
塩冶興久の遺領は経久の次男・国久が継いだ。
その後、経久の孫・尼子晴久(経久の長男・政久の次男)が美作国(岡山県東北部)へと侵攻して、ここを尼子氏の影響下に置くと、さらに備前へと侵攻するなど東へと勢力を拡大していった。
この後、尼子晴久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加する。
1537年、経久は家督を孫の尼子晴久に譲るが、第一線から身を引いたわけではなく、経済的に重要な拠点である大内氏が所有していた石見銀山を奪取した。
以後、この石見銀山を巡って、大内氏との間で奪い合いが続いていくことになる。
さらに、経久は東部への勢力を拡大すべく播磨守護・赤松政祐と戦い大勝する。
しかし、1539年、大内氏が尼子氏側の武田氏の佐東銀山城(広島市安佐南区)を落城させ、当主の武田信実は若狭国(敦賀市を除いた福井県南部)へと逃亡した。
1540年、武田信実の要請もあり尼子晴久は大内氏との早期決戦を目指して、大内氏側の毛利氏を討伐すべく出陣する。
尼子軍は諸外国からの援兵も加わり3万騎へと膨れ上がり、大軍で毛利氏の吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)を包囲する有利な形勢であったが、翌年、攻めあぐねるうちに陶隆房率いる大内軍2万騎の到着を許して大敗を喫し、尼子氏は安芸での基盤を失う。
この頃、経久から家督を継いだ尼子晴久や経久の次男・国久が尼子氏の軍事の中心を担っていたが、彼らには経久ほどの器量はなかった。
尼子晴久
1541年、82歳の経久は、尼子氏の先行きを案じながら居城である月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)で死去する。
経久の死後、大内義興の後を継いだ大内義隆が大軍で出雲に攻め込むが、大内側の吉川興経の裏切りにあったことにより大内義隆は撤退を余儀なくされた。
この裏切りは生前に経久が仕込んでおいた策略である。
大内義隆
「塵塚物語」によると、経久は持ち物を家臣に褒められると喜んで、高価なものでもそれを褒めた者に与えてしまうため、気を使った家臣達は経久の持ち物を褒めないようにしていたが、ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思って褒めると、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため周囲の者が慌てて止めるも、経久はとうとう松を切って薪にして渡したという。
また、冬には着ている物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。
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武蔵の出生地や生年は共に諸説あり、また「大阪の陣」以前の出来事は史実として確定するのが困難なものが多い人物である。
しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、本当の武蔵というのは、むしろ、伝説も込み込みのあの宮本武蔵なのではないだろうかと思う。
武蔵の著書である「五輪書」によれば、武蔵の生年は1584年となる。
物語としての宮本武蔵は美作国(岡山県東北部)を出生地とすることがメジャーとなっているが、やはり「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが史実の可能性として高い。
武蔵の父・新免無二は十手術を体得した武芸者であったとされ、幼少時代の武蔵は父と二人で武術の稽古に明け暮れる毎日を送った。
13歳の時に武蔵は、新当流の有馬喜兵衛という剣術家と生涯初めての決闘を行う。
武蔵は有馬喜兵衛を投げ飛ばし、手にした棒で滅多打ちにするという、13歳とは思えない並はずれた腕力と勇気で勝利する。
16歳の時には、但馬国の秋山という兵法者に勝利し、以来29歳までに60余回の勝負を経験し、すべてに勝利した。
それから、ほどなくして日本全国が激動に襲われる。
1600年、豊臣秀吉亡きあとの天下を狙う徳川家康の東軍と、その野望を阻止しようとする石田三成の西軍による「関ヶ原の戦い」が開戦した。
武術の腕に自信を持っていた武蔵にとって、戦争は願ってもないチャンスであり、合戦で手柄を立てて武将に取り立てられ、やがては一国一城の主となることを夢に見る。
武蔵は西軍の武将・宇喜多秀家の隊に参陣し、戦場で抜群の働きをしたが、戦いが進むにつれて西軍は相次ぐ裏切りに総崩れとなって「関ヶ原の戦い」は東軍の大勝利に終わった。
吉川英治の小説などでは「関ヶ原の戦い」以後の武蔵がお通や沢庵和尚と出会い、様々な遍歴をすることになっている。
合戦の手柄によって出世するという夢が実現しなかった武蔵は武芸者との決闘によって名を上げようと考えた。
1604年、武蔵は足利将軍家の剣術師範を務めた吉岡憲法の4代目・吉岡清十郎に決闘を申し込む。
京都蓮台寺野で行われたこの決闘は、一瞬のうちに武蔵の木刀が吉岡清十郎の体を打ち砕き、一撃で勝負が決した。
すると、今度は吉岡清十郎の弟・吉岡伝七郎が、兄の仇を討つために武蔵に挑むが、結果は同じように吉岡伝七郎も一撃で武蔵に倒される。
復讐に燃える吉岡一門は、10歳になるかならないかの吉岡清十郎の子・又七郎を推し立てて、武蔵に勝負を挑んできた。
吉岡一門は当主の子である又七郎を名目上の大将として、数十人とも百人を超すともいわれる門弟が数の力で武蔵を叩き伏せようと目論んだ。
この絶対絶命の危機に武蔵は、約束の時間よりも早い夜明け前に、決闘の場所である一乗寺下り松に到着し、木陰に身を潜めて吉岡一門の到着を待ち伏せる。
やがて現れた吉岡一門は又七郎を取り囲んで守っていたが、まさか武蔵が待ち伏せしているとは予想していなかった。
そして、又七郎が下り松に近づいたその時、武蔵はすかさず又七郎に襲いかかって斬殺すると、開戦早々に大将の又七郎を殺された吉岡一門は大混乱に陥り、その機に乗じて武蔵は門弟達を蹴散らしてその場を脱出する。
武蔵は10歳の大将という敵の最も弱い中心部に目を付けて、文字通り多勢に無勢といえる戦いを制した。それはまるで、あの織田信長が今川義元を討ち取ったかのごとくである。
武門の誉れ高い吉岡一門をたった一人で完膚なきまでに破った武蔵は、どこかの大名から召し抱えたいという声が掛かることを期待したが、天下は「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家の世に定まりつつあり、戦争がなくなって職を求める武士が溢れる社会で、武蔵に声を掛ける大名は現れなかった。
武蔵は各地を旅して、大和国では槍の達人と二度立ち合い、伊賀国では鎖鎌の名手と決闘し、武芸者との勝負を繰り返す日々を送る。
1606年に武蔵が紀州藩士・落合忠右衛門に円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の印可状を与えたことが確認されており、後年、武蔵の代名詞ともなる二刀流はこうした一連の決闘の最中に編み出されたと考えられる。
もはや武芸においては自分が天下一であると自負するに至った武蔵の耳に、佐々木小次郎という天下に並ぶ者のない剣の使い手が小倉の細川藩で剣術指南役として召し抱えられているという噂が飛び込む。
小次郎の刀は、三尺余り(90cm以上)という一般的な刀の二尺三寸(70cm)よりも20cm以上長いもので、これほどの長い刀を操ることから小次郎が超人的な腕力を持っていたことは疑いようがなく、小次郎はその腕力と刀の長さを活かして、相手の切っ先が届かない距離から刀を振り下ろし、次の瞬間に身をかがめて刀を下から振り上げて一刀両断に斬り捨てる「つばめ返し」という必殺技を身につけていた。
佐々木小次郎を剣術指南役として召し抱えていた細川家は「関ヶ原の戦い」の功績により、それまでの18万石から40万石に加増され、新たに大勢の武士を召し抱えていたのである。
小次郎を倒せば自分が剣術指南役の職にありつけると考えた武蔵は、1612年、細川藩の家老に「巌流・小次郎が小倉におり、その術は類まれであると聞きました。願わくば腕を比べさせていただきたく存じます。」と願い出た。
しばらくして、武蔵のもとに小次郎との立ち合いを許すとの知らせが届く。
その決闘の場所に指定されたのは小倉と下関の間に浮かぶ無人の小島、船島(現在の巌流島)であった。
武蔵と小次郎の決闘は藩主の許しを得た正式の立ち合いであったが、その場所が城下ではなく無人島で行われたことには「関ヶ原の戦い」の後の政治情勢が影響していた可能性がある。
1611年、徳川家康が各地の大名に差しださせた誓詞(誓約状)に「叛逆者・殺人者を召し抱えていてはならない。」という一節があり、ここでいう叛逆者とは「関ヶ原の戦い」で西軍にいた武士をさしていた。
これにより大名達は、武士を召し抱える際にその経歴を厳しく問いただすようになり、細川藩は「関ヶ原の戦い」で西軍であった武蔵の経歴を調査して、大っぴらに武蔵に試合をさせて徳川家から咎めを受けることを危惧した可能性がある。
天下一の剣豪を決する「巌流島の決闘」を前に、小次郎が「真剣をもって雌雄を決しよう」と武蔵に申し入れると、それに対して武蔵は「貴公は白刃をふるってその妙技を尽くされよ。われは木戟をさげて秘術をあらわさん。」と答えたという。
常識的に考えれば木刀で真剣に挑むのは不利なはずであるが、これは武蔵による小次郎の「つばめ返し」に対抗する秘策であった。
武蔵は小次郎の長刀よりもさらに10cmほど長いおよそ4尺(約127cm)の木刀を自ら樫の木を削って作る。
体格も同じくらいで技量が伯仲している紙一重の勝負で、その10cmの差は大きなアドバンテージとなる可能性があり、なによりも、長刀で相手のリーチ外から攻撃することに磨きをかけた小次郎の技術を殺すことを武蔵は考えた。
1612年4月13日の午前7時、小次郎は細川藩の藩士達とともに約束の時間よりも早く船島に到着して武蔵を今や遅しと待ち構える。
ところが、約束の時間になっても武蔵は現れない。
同じ頃、前日から下関の商家にいた武蔵は、日が高く昇って宿の主人に起こされるまで布団にもぐっていた。
そうして、武蔵のもとに細川藩の使いの者が現れ、一刻も早く船島に来るようにと催促すると、武蔵は焦る使いの者を尻目に「ほどなく参ると伝えておけ。」と言って悠然と食事を始める。
もともと武蔵から申し込まれた決闘であるにも関わらず、約束から2時間以上が過ぎても現れないという尋常ではない遅れ方に、キチンと時間前にやって来た小次郎の我慢はもはや限界点を振り切れていた。
小次郎は小船に乗って悠然と島に近づいて来る武蔵の姿を目にすると、水際に進んで「武蔵よ、なぜ遅れたか。気おくれしたのか。」と叫んだが、武蔵は何も答えない。
あまりの無礼さに怒り心頭の小次郎は三尺の長刀を抜いて、鞘を放り投げた刹那、武蔵は「小次郎、敗れたり。勝者なんぞその鞘を捨てん。」と言い放った。
思いがけない武蔵の言葉に小次郎は虚を突かれ、心のバランスが取れないまま、やみくもに長刀を振り下ろす。武蔵の木刀がそれに応じて振り下ろされた次の瞬間、決闘は武蔵の勝利で決まった。
細川藩の藩士達が唖然とするのを尻目に、武蔵は再び小舟に飛び乗って島を後にする。
下関の宿に戻った武蔵は、小次郎を倒したことにより細川家から剣術指南役として召し抱えるという知らせが届くことを期待して、胸を高鳴らせてた。
しかし、いくら待っても細川藩から知らせが届くことはなく、やむなく武蔵は夢敗れた悔しさと悲しさを抱きしめて再び放浪の旅に出ることになる。
そして、これ以降の武蔵の足跡は史実性が高いものとなる。
1614~1615年に、徳川家(江戸幕府)と豊臣家との間で行われた合戦「大阪の陣」で、武蔵は徳川側の水野勝成の客将として活躍した。
その後、明石で神道夢想流開祖・夢想権之助と試合を行う。
1624年、尾張藩家老・寺尾直政が円明流(武蔵が興した二刀流の最初の名)の指導を要請すると、武蔵は弟子の竹村与右衛門を推薦し、これがもとで尾張藩に円明流が伝えられ、尾張藩および近隣の美濃高須藩には複数派の円明流が興隆することになる。
1626年、播磨の地侍である田原久光の次男・伊織を養子とした武蔵は、伊織を明石城主・小笠原忠真に使えさせた。
1638年、伊織は小倉城主となっていた小笠原忠真に従い、武蔵は小笠原忠真の甥で中津城主・小笠原長次の後見として、過酷な重税に耐えかねた島原の領民による日本史上最大規模の一揆「島原の乱」の鎮圧に出陣する。
また、小倉滞在中に小笠原忠真の命で、武蔵は宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合をした。
高田又兵衛
1640年、熊本城主・細川忠利に、武蔵は客分として招かれて熊本に移ると、熊本城東部に隣接する千葉城に屋敷が与えられ、7人扶持18石に合力米300石が支給されるようになる。
また、鷹狩りが許されたり、同じく客分の足利義輝の遺児・足利道鑑と共に細川忠利に従って山鹿温泉に招かれるなど、その扱いは重んじられたものであった。
翌年に細川忠利が急死し、2代藩主・細川光尚の代になっても、武蔵はこれまでと同じように毎年300石の合力米が支給される。
細川光尚
この頃、武蔵は余暇に芸術性の高い画や工芸などの作品を製作し、それらは現在、重要文化財指定となっている。
1643年、熊本市近郊の金峰山にある岩戸の霊巌洞で、剣術の奥義をまとめた「五輪書」の執筆を始め、1645年に千葉城の屋敷で亡くなった。
武蔵の兵法は、初め円明流と称したが「五輪書」では、二刀一流または二天一流の名称が用いられ、最終的には二天一流となる。
熊本時代の弟子である寺尾孫之允・求馬助の兄弟が、肥後熊本藩で二天一流兵法を隆盛させ、さらに、寺尾孫之允の弟子である柴任三左衛門が福岡藩黒田家に二天一流を伝えた。
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1497年、安芸国(広島県西部)の国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)領主・毛利弘元の次男として誕生。
出生地は母の実家の鈴尾城(広島県安芸高田市福原)といわれている。
1500年、父・弘元が家督を嫡男・毛利興元に譲ると、元就は父・弘元に連れられて多治比猿掛城(広島県安芸高田市)に移り住む。
1501年に実母が死去し、さらに1506年、元就が10歳の時に父・弘元が酒毒が原因で死去。
元就はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出され、元就はその哀れな境遇から「乞食若殿」と言われる。
この厳しい時期の元就を支えたのは養母の杉大方で、後に半生を振り返った元就は「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と書き残しており、杉大方が元就に与えた影響は生活や基本的な教育のみならず感性にも及んでいた。
1511年、杉大方は京都にいた元就の兄・毛利興元から元就の元服の許可を貰い、元就は「多治比元就」を名乗って分家を立てる。
父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場では自分は下戸だと言って酒を飲まなくなったという。
毛利家の家督は毛利興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少だったため叔父である元就が後見することになった。
毛利弘元、毛利興元と2代続く当主の急死、それを継いだ幸松丸はわずか2歳で、その後見役の元就が20歳、という不安定な毛利家の状況を好機と見た佐東銀山城主・武田元繁が吉川領(吉川氏は毛利氏と同様に大内氏を主家としていた)の有田城(広島県山県郡北広島町有田)へ侵攻する。
主家の大内氏が主力を京都に展開しており、援軍は望めない状況で元就は有田城救援のために出陣。
元就はこの自身にとって初陣である「有田中井手の戦い」で、まず武田軍先鋒で猛将として名高い熊谷元直の軍を撃破し、熊谷元直は討ち死にした。
有田城攻囲中の武田元繁は熊谷元直が敗れた知らせを聞くと怒りに打ち震え、有田城の包囲に一部の兵を残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍の迎撃に出る。
武田元繁は「日本の項羽(三国志の呂布を超える豪傑にして秦帝国を滅ぼした西楚の覇王。中国史を代表する人物の一人)」とも謳われた勇将で、小勢力の毛利氏や吉川氏には荷が重い相手と見られ、戦況も数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討ち死にすると武田軍は混乱して壊滅。
安芸武田氏は当主の武田元繁のみならず多くの有能な武将を失い退却することになる。
この「有田中井手の戦い」は西国の桶狭間と呼ばれ、安芸武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大のターニングポイントとなり、毛利元就の名が世に知られるようになるキッカケであった。
1523年、鏡山城(広島県東広島市)で起きた尼子氏と大内氏による「鏡山城の戦い」で、大内氏側から尼子氏側へ鞍替えした元就は吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始し、膠着状態となった戦況を巧みな智略で攻略し、その活躍から毛利家中での信望を高める。
この頃、元就は吉川国経の娘を妻に迎え、27歳で長男・隆元が生まれた。
また、毛利家当主である甥・幸松丸がわずか9歳で死去すると、元就は分家の人間とはいえ毛利家の直系男子で重臣達の推挙もあったことから、27歳で毛利家の家督を継いで吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町吉田)に入城し、毛利元就と名乗ることになる。
ところが、元就が家督を継いだことに不満を持った坂氏・渡辺氏などの有力家臣団が、尼子氏の重臣・亀井秀綱の支援を受けて元就の異母弟・相合元綱を擁立して対抗したため、元就は相合元綱一派を粛清・自刃させることになった。
相合元綱は異母弟とはいえ元就との兄弟仲は良かったため、尼子氏の計略に乗ったことを恥じたという。相合元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられる。
家臣団の統率をはかるため粛清せざるを得なかったが、元就は相合元綱を亡くしたことを寂しがり、僧侶になっていた末弟・就勝(元就・相合元綱の異母弟)を還俗させると北氏の跡を継がせて側に置いた。
家督相続問題をキッカケに元就は、尼子経久と敵対関係となっていき、1525年、尼子氏と手切れして大内義興の傘下となることを明確にした。
1529年、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐し、元就は高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れる。
一方、父・弘元が仲良くするようにと言い遺しながらも兄・興元の代で戦になった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、元就は宍戸元源に高橋氏の旧領の一部を譲り、1534年に元就の娘・五龍局を宍戸元源の孫・宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。
1533年、大内義隆が後奈良天皇に、元就の祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事にならって元就に官位を授けるように申し出た。
そして、これは元就が4,000疋(現在の貨幣価値で約500万円)を朝廷に献上する事で実現し、元就は推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果を得る。
1537年には、大内氏へ元就の長男・毛利隆元を人質として差し出し、さらに関係を強化した。
1540年、大内氏と対立する尼子晴久(尼子経久の後継者)の尼子軍3万が吉田郡山城を攻めると、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000で迎え撃ったが、家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この「吉田郡山城の戦い」に勝利し、安芸国の中心的存在となる。
そして、同年、尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏を滅亡させると、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
尼子氏が「吉田郡山城の戦い」で敗れたことにより、尼子氏側だった国人領主達からも大内氏側に付く者が続出し、大内氏のもとには尼子氏退治を求める声が強くなり、1542年、大内義隆は毛利氏などの諸勢力を引き連れて出雲国の月山富田城(島根県安来市)へ出兵する。
この「第一次月山富田城の戦い」は、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎて補給線と防衛線が寸断されたことにより、大内軍は敗走した。
この敗走中に元就は死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして奮戦して戦死したことにより、無事に安芸に帰還する。
この頃から元就は常に大大名の顔色をうかがう小領主の立場からの脱却を考えるようになった。
1541年に「吉田郡山城の戦い」で援軍に駆けつけてくれた小早川興景が子もなく亡くなったため、竹原小早川氏の家臣団から元就の三男・徳寿丸を養子に欲しいとの要望があり、1544年、徳寿丸は強力な水軍を擁する竹原小早川氏へ養子に出される。
徳寿丸は元服後に小早川隆景を名乗るようになった。
1545年、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くし、特に妙玖が亡くなった悲しみは深く、後々まで手紙などに妻を追慕する内容を書き残している。
「第一次月山富田城の戦い」で裏切り行為をした吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、一族が分裂して家中の統制ができなくなり、吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。
さらに反興経派は元就の次男・元春を吉川氏の養子にしたいと再三の要求を出し、元就がこれに応じたことにより、家督を乗っ取る形で元春は吉川家の当主となる。
しかし、興経派を警戒していた元就は吉川元春をなかなか吉川家の本城へは送らなかった。
吉川元春は長男・元長が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていたが、1550年、元就の命で将来の禍根を断つため吉川興経とその一家が殺害されると、ようやく吉川元春は吉川氏の本城に入る。
吉川元春
また元就は「第1次月山富田城の戦い」で当主であった小早川正平を失った沼田小早川氏の新たな当主である小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させると、小早川繁平を出家に追い込み、元就の実子で竹原小早川氏の当主になっていた小早川隆景に沼田小早川氏も継がせた。
小早川隆景
こうして安芸・石見に勢力を持つ吉川氏には元就の次男・吉川元春を、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏には元就の三男・小早川隆景を養子として送り込み、それぞれの正統な血統を絶やして両家の勢力を取り込み、毛利氏の勢力拡大を支える「毛利両川体制」が確立し、安芸一国の支配権をほぼ掌中にする。
1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反によって自害させられ、養子の大内義長(豊後大友氏・大友義鑑の次男)が擁立され、西国随一の戦国大名とまで称されていた大内氏の血統が絶え、西国の支配構造は大きく変化していく。
以前から陶晴賢と通じて安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えられていた元就は、これを背景に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃した。
ところが、毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶晴賢は元就に支配権の返上を要求し、元就がこれを拒否すると、両者の対立が色濃くなっていく。
大内義隆
この当時、陶晴賢が動員できる大内軍3万以上に対して、毛利軍の最大動員兵力は4000~5000であったため、正面衝突すればとても勝算が無かった。
1553年、陶晴賢に自害に追い込まれた大内義隆に恩義のあった津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田)主・吉見正頼が、陶晴賢に対して挙兵する。
吉見氏と陶氏の両方から加勢を求められていた毛利氏の家中は意見が割れるが、元就は大内氏からの離反・独立を決め、陶晴賢に対して反旗を翻した。
激怒した陶晴賢は即座に重臣の宮川房長に3000を率いらせて毛利氏攻撃を命じるが、元就はそれを撃破し、宮川房長は討ち死にする。
1555年、今度はついに陶晴賢が自ら2万~3万の大軍を率いて、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく出陣、しかし毛利軍の奇襲攻撃に苦しめられ、さらに厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利氏に味方し、退路を断たれた陶晴賢は自害することになった。
元就が大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破した勢いで周防(山口県東南半分)・長門(山口県西半分)の両国攻略を計画すると、大内軍は蓮華山城・鞍掛山城・須々万沼城・富田若山城・右田ヶ岳城などに兵を配備して毛利軍を迎撃する準備を整える。
しかし、この頃、大内氏の家臣団の内部崩壊が進んでいたこともあり、大内軍は毛利軍の進軍を防ぎ切れず、大内氏当主・大内義長が自害に追い込まれたことで大内氏は完全に滅亡し、これにより毛利氏は九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した。
1556年、元就は次男・吉川元春らを石見国へと進め、石見銀山防衛のため築城された山吹城(島根県大田市大森町)の刺賀長信を服属させて石見銀山を支配下に置くが、尼子晴久はすぐに山吹城と石見銀山を奪取すると、山吹城に本城常光を置いて石見銀山の守りを固める。
さらに、尼子氏と結んで毛利氏に抵抗する石見の有力豪族・小笠原長雄が石見攻略の大きな障害となっていた。
1559年、毛利氏が小笠原長雄の籠る温湯城(島根県川本町)を落城させ山吹城を攻撃した「降露坂の戦い」は、本城常光の奇襲とそれに合流した尼子晴久本隊の攻撃を受けて毛利氏は大敗する。
1561年に尼子氏当主・尼子晴久が死去し、尼子晴久の嫡男・尼子義久が家督を継ぐと、1562年、元就は出雲侵攻を開始し、これに対して尼子義久が難攻不落の月山富田城に籠城して尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った「第二次月山富田城の戦い」において、元就は月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功した。
元就は大内氏に従って敗北を喫した「第一次月山富田城の戦い」を教訓に無理な攻城はせず、城内の食料を早々に消耗させ、それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘う策略を張り巡らし、1566年、尼子軍は籠城を継続できなくなり、尼子義久は降伏を余儀なくされる。
こうして石見銀山を巡って対立した尼子氏を滅ぼしたことにより、元就は一代にして中国地方8ヶ国を支配する大名になった。
しかし、中国地方8ヶ国を支配した元就であったが、尼子氏残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入したり、元就によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘が大友宗麟の支援を受けて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。
それらは毛利氏にとって厳しい時期となったが、吉川元春、小早川隆景ら優秀な息子達の働きにより乗り切ることに成功した。
1560年代の前半より度々体調を崩していた元就に対して、室町幕府将軍・足利義輝が名医・曲直瀬道三を派遣して治療に当たらせる。
その効果もあったのか、元就の体調は持ち直し、1567年にはなんと最後の息子である才菊丸が誕生した。
足利義輝
しかし、1571年、吉田郡山城において、死因は老衰とも食道癌ともいわれるが74歳で死去する。
毛利家の家督はすでに嫡男・毛利隆元に継承済であったが、隆元が1563年に亡くなっていたため、元就の孫・毛利輝元(隆元の嫡男)が継いだ。
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1830年、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。
1834年に松陰は叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、1835年に吉田大助が死亡すると、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で兵学者としての教育を受けた。
松陰は9歳にして長州藩の藩校である明倫館の兵学師範に就任し、11歳の時、長州藩主・毛利慶親の前で兵法の講義を行い、称賛は受ける。
13歳の時には長州軍を率いて西洋艦隊撃滅演習を実施した。
しかし、イギリスから輸出されるアヘンの中毒者が社会問題になりアヘン禁止論が高まった清(1644~1912年まで中国とモンゴルを支配した統一王朝)がアヘンに対する取り締まりを強化していく過程が武力衝突に発展した「アヘン戦争」で、清がイギリスに大敗したことを知ると、松陰は山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感し、西洋兵学を学ぶために1850年から全国を巡る度に出る。
この旅の途中、松陰は江戸では佐久間象山などに師事し、そして1853年、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を遠望観察し、西洋の先進文明に心を打たれたのであった。
佐久間象山
黒船は蒸気を動力にした最新鋭の船で、それまで目にしたことがないような巨大な船体に30門の大砲を搭載し、ペリーはこの黒船の武力を誇示して鎖国していた江戸幕府に開国を要求したため、幕府の役人は狼狽し、国内は大騒ぎとなる。
マシュー・ペリー
松陰は今後は西洋のことを知り、西洋の兵学を学ばなくてはならないと痛感し、この考えに賛同した当時23歳で長州藩出身の金子重之助は松陰を慕って行動をともにするようになった。
当時、幕府の許可なく外国に渡航することは固く禁じられおり、これを犯せば重い罪にとわれるが、松陰と金子重之助の二人は黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうと考え、黒船が停泊する下田へと赴く。
いよいよ決行の日、深夜、松陰と金子重之助は小船に乗って沖の黒船を目指すが、小舟は櫓(和船における漕具の一つ)を船に固定する金具がはずれていたため、二人はふんどしを外して櫓を船に結びつけて漕ぎ、どうにか黒船に辿り着く。
松陰は懸命に筆談を試みるが全く伝わらず、アメリカ人の船員は向こうの船に通訳がいると指差すので、二人は荒れ狂う海の中を再び小舟を進めて、ついに通訳にアメリカに連れて行って欲しいという意思を伝える。
しかし、その願いは聞き入れられず、二人は下田に連れ戻された。
1854年、松陰と金子重之助は密航を企てた罪に問われ、長州藩内の牢獄に入れられることになる。
松陰は一人一室が与えられる武士階級の牢獄に入り、農民出身の金子重之助は衛生状態の良くない雑居房に入れられた。
もともと体が弱かった金子重之助は獄中で衰弱し、ついには獄中で命を落とす。
志も同じ、犯した罪も同じ、なのに身分が違うとなぜこれほど待遇が変わってしまうのかと、松陰は金子重之助の死から身分制社会の現実を実感し「吾れ独り生を偸み。涙下ること雨のごとし。」と悲しんだ。
松陰が入れられた獄には12の独房があり、75歳で獄中生活48年の大深虎之允(おおふかとらのじょう)、家族から見放されて牢獄に押し込められた偏屈者の富永有隣、入獄と出獄を3度繰り返している平川梅太郎、元寺子屋の教師で在獄6年になる吉村善作など他の独房にいる囚人達と松陰は知り合った。
そんな囚人達の中にただ一人、高須久子という女性がおり、彼女は三味線が好きで武家の女性でありながら、様々な人を身分の分け隔てなく自分の屋敷に呼び、時には武士の家に出入りすることが許されない人まで招待していたことが投獄の理由とされている。
江戸時代という管理社会において、社会の上層と底辺が付き合うというタブーを冒す者を世間の目に触れさせておくことは許されなかった。
松陰は人間を身分ではなく心で判断する高須久子とウマがあい、互いの素性について深く語り合うこともあるほど親しくなる。
そんな獄中生活で松陰は、それぞれの囚人が優秀な能力を持っていることを知っていき、互いに得意なことを教え合うということを始め、書の指導を頼んだ富永有隣は人に教えるうちに次第に自信に満ちた表情になり気難しい性格に変化があらわれた。
「人、賢愚ありと雖も、各々一二の才能なきはなし。」そんなことを体感した松陰に、1855年、獄を出て自宅で謹慎するようにという命令が届く。
高須久子は松陰との別れにいたって「鴨立ってあと淋しさの夜明けかな。」という句を詠んだ。
松陰は獄を出て萩の自宅に戻ると、1857年に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ、牢獄での経験を活かした教育を行うようになる。
10畳半と8畳のわずか二部屋の松下村塾に、松陰を慕う若者が多い時には一日30人集まり、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々が、松陰の教育に触れた。
塾は常に開け放たれ、出入りするのに時間や回数の制限もなく、1日に3回訪れる塾生もいれば、夜に来て朝に帰る塾生もおり、もちろん身分に分け隔てなく武士も町人も様々な身分の人が同じ部屋で学んだ。
伊藤博文
松陰は、多くの情報に接してそれに基づいた行動をしなければならないという意味である「飛耳長目」という言葉を合言葉に掲げ、講義だけでなく共に話し合う討論会も重視する。
松陰は「沈黙、自ら護るは、余、甚だ之を醜む。」と言い、身分を越えての人と人のぶつかり合いが最も大切な教育だと考えていた。
松陰が「才能も気概も一流」と最も高く評価した久坂玄瑞は、松陰に代わって講義をすることもあり、そして、その久坂玄瑞に誘われて塾の門を叩いたのが19歳の高杉晋作である。
久坂玄瑞
松陰は高杉晋作が塾にやってきた頃の印象を「晋作の学問はさほど進んではいないにもかかわらず、意にまかせて勝手にふるまう癖がある。」と語っているが「晋作はいずれ大成する人物である。彼の頑固さを無理に摘み取ってしまってはならない。」と無理に型にはめようとはしなかった。
1857年、外国人が日本で起こした事件を日本が裁けない不平等な内容が盛り込まれた「日米修好通商条約」を結ぶようにアメリカが幕府に対して強硬に迫ると、国内の世論はアメリカとの関係を巡って紛糾する。
こうした情勢は萩にも伝わり、松陰はこの事態に日本がどう対応すべきか塾生達に考えさせた。
高杉晋作は「今は外国の圧力に耐え、富国強兵につとめなければならない。西洋の知識と技術を導入して、人材の育成を図らなくてはならない。国力をつけた上で外国と対等な関係を築くべきだ。」という内容のレポートを書き、これを読んだ松陰はその内容に驚き、評価し、その影響を受けた「西洋歩兵論」という論文を書く。
「西洋歩兵論」は「西洋の歩兵制を採用して身分にとらわれず志があれば足軽や農民も募るべきだ。」という内容で、戦うのは武士であり農民や町民は武器をとってはならないと教えられていた当時では想像の及ばない画期的なものであった。
1858年、江戸幕府の大老・井伊直弼らは、天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約に調印するなどし、それらの対応に異議を唱える思想家達が次々に幕府に逮捕され弾圧される「安政の大獄」が始まる。
こうした動きを知った松陰は、日に日にこのまま幕府に日本を任せてはおけないという思いを強め、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、幕府を倒すために過激な行動を取れと主張するようになった。
こうした松陰の過激な言動は、長州藩の知るところとなり、藩に危険視された松陰は再び投獄される。
松陰を慕っていた塾生達も倒幕という急進的過ぎる発想にはついていけず、再投獄後の松陰は塾生達との溝を深めて断絶状を書き送った。
しかし、獄中で再会し、松陰の心の支えとなった高須久子を通じて、松陰は例え自分一人が立ち上がり倒れても、きっと志ある者が後を継いでくれるに違いないと考えを改めるようになる。
松陰は、志のある者が立場をこえて同じ目的を持っていっせいに立ち上がることを説いた「草莽崛起」として後世に知られる文書をしたためた。
さらに松陰はこの頃、高杉晋作に塾生達に怒ったことを悔いる手紙を送り、出獄したあかつきには塾生達とともに行動しようと考えるようになる。
しかし、1859年、尊皇攘夷を求める志士達の先鋒となって幕政を激しく批判し「安政の大獄」2人目の逮捕者となった梅田雲浜が萩に滞在した際に松陰と面会していたことなどから、松陰は幕府の命令で江戸の伝馬町牢屋敷に移されることになった。
高杉晋作ら塾生達は、松陰の身を案じて江戸の長州藩邸に集まり、松陰を獄から助け出そうと画策する。
松陰はそんな高杉晋作に死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」という内容の手紙をしたためた。
幕府が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画を自ら進んで告白してしまい、結果、1859年10月27日、松陰は斬首刑に処され、29歳でその生涯を閉じる。
松陰は遺書で「私は30歳(享年)、四季はすでに備わっており、花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なるもみがらなのか、成熟した栗の実であるのかは、私の知るところではない。もし同誌の諸君の中に私のささやかな真心を哀れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種が絶えずに穀物が年々実っていくのと同じである。」と記した。
松陰の死後、高杉晋作は、志があれば身分にかかわらず誰でも入ることが出来る新しい軍隊「奇兵隊」を創設する。
塾生の一人であった吉田稔麻呂は「維新団」「一新組」という長州軍の主力となる軍隊を作った。
吉田稔麻呂
1868年、明治時代になると、新政府の要人には山県有朋や伊藤博文といった松下村塾の塾生達が名を連ね、新しい日本を築いていく。
高須久子は元号が明治と改められたその年におよそ16年の獄中生活を終えたといわれ、出獄後も死ぬまで松陰の書を肌身離さず持っていたという。
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